○池田大作「権力者」の構造 <=20>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
────(以下、引用)──────◇─────(307頁から)──◇─────
終章 池田大作とその時代
◆噴出した池田大作批判
池田大作はあまりにも早く、若くして人生のスタートを切りすぎてしまった。
彼は昭和五十四(一九七九)年四月二十四日、それまで十九年間その職にあった創
価学会第三代会長の座を降り、名誉会長へと退いたが、過去の功績によって名誉ある
老いを楽しむことは彼に許されなかった。そのとき池田は五十一歲、壮年の盛期にあ
り、彼自身、老けこむ年齢でも健康状態でもないと考えたし、そうした心境にもなれ
なかった。
だが、池田に名誉ある「晚年」をより強く許さなかったのは、池田に対する批判者
たちだった。彼らは池田が創価学会の第一線を退き、閑職にあるとは頭から信じなか
ったし、それ以上に、彼に「名誉」があるとは信じなかった。逆に池田は、「〝人間革
命〟して人間失格」し、告訴してかえって「恥部が見え」、国会喚問して不正を糾明
しなければならない「狂気の二枚舌」(いずれも五十五年十一月七日「創価学会の社会的
不正を糾す会一の国会デモで掲げられたブラカード類から)なのであった。
かって、池田は日本最大最強の組織である創価学会のうえに君臨して「天皇にかわ
る時の最高権力者」と自らを規定し、あるいは池田組閣を夢見、また華々しい海外著
名人との「民間外交」によって、ノーベル平和賞の受賞を真剣に望んだ人物である。
どこかで池田の人生設計は狂ってしまった。過去の盛名は「恥を知」らなければな
らぬものとして泥土に踏みにじられた。彼の悪名は『ニューズウイーク』誌や『イン
ターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙などで報じられ、その公私両面にわた
る非行は海外にも知られるところとなった。
池田が若すぎる悲劇だった。彼を批判する創価学会脱退者による植徒も、日蓮正宗
の全僧侶約六百名のうち、正信会など約半数を占める批判派僧侶も、池田に求めるこ
とはおしなべて実質退陣だった。すなわち、池田は日蓮正宗法華講の名誉総講頭を辞
退し、昭和五十六年十月の日蓮七百遠忌での慶讃委員長を退き、創価学会への彼の影
響力を断ちきるべきなのだった。
いわば社会的な死を要求されていた。晚年でさえ迎えきれない池田が、死を吞める
わけはない。池田は日蓮正宗法主・阿部日顕と結んで、五十五年九月二十四日、批判
派僧侶二百一人を処分するなど、必死に反撃し、危機を乗り切ろうとした。
だが皮肉にも、池田の抵抗は池田の旧悪を暴くことにつながり、池田はその名誉あ
る名目的な引退期を、脂ぎった醜聞にまみれさせねばならなかった。彼は会長だった
時期、彼の語る言葉のすべてを記録、保管させ、将来、池田語録や池田会長史を編ま
せるための体制を調えていたが、その語録や報告書類が五十四年九月、元教学部長
原島嵩によつて持ち出され、元顧問弁護士 ,山崎正友のもとに預けられた。
この内部資料は修正前の、赤裸々な池田像を伝えて、虚像でなっていた池田を撃つ
ことになつた。池田は将来のために蓄えた過去によって現在を撃たれ、過去の栄光を
引きむかれた。その挙げ句、彼には、──
①四十三年七月参院選をピークとする大量替玉投票、
②共産党委員長.宮本顕治宅をはじめとする盗聴行為、
③池田自身と創価学会の脱税の疑い、
④国有地などの土地、不動産の不正取得、
⑤公明党との政教分離の不履行、
⑥元民音職員,松本勝弥などの裁判での偽証工作、
⑦その他の反社会的行為─の数々が突きつけられた。
が、これらは池田と創価学会の不正のうち、社会性を帯びた問題に限られ、ほかに
まだ池田の私的非行や日蓮正宗教義からの逸脱が問われた。教義違背については、彼
は不十分ながら誤りを認めて会長を退いたわけだったが、その後も改善が徹底してい
ないと追撃され、女性会員との関係を含む私的非行によって、彼の人格に泥をぬるは
めになった。
池田と創価学会は実際を知られることによつて打撃を受け、実像を知らせるかたち
での批判を加えつづけられた。池田が名誉会長にかわった後も、実質的な権力を創価
学会にふるいつづけたからである。
池田が名誉会長を退き、創価学会インターナショナル会長の座からも降り、正確に
創価学会から引退したのなら、批判は止んだかもしれない。だが池田は若かったし、
なにより創価学会あっての池田だったから、実質退陣はできず、創価学会を道連れに
して批判の矢面に立たせることをためらわなかった。
彼は池田創価学会といわれるまでに、創価学会と一体だった。彼を讃仰する会員の
熱気はまだ冷めていず、幹部たちは池田に引退を直言できるほどの力を持たなかっ
た。彼らは表面上、池田に変わらぬ忠誠を誓って彼を守ることにつとめ、一人になっ
たとき、しらけて時の流れに問題をゆだねてだけいた。
池田は敗北の過程にあった。それは穏やかな風化とは遠い、がむしゃらに抗がいつ
つ迎える敗北だった。彼には、その権力のありように見合って、脂の抜けた清潔な後
半生はおくれそうになかった。
◆最初の敗北
池田の敗北は昭和四十五(一九七〇)年、出版妨害に対する世論の糾弾に始まっていた。
公明党=創価学会の言論抑圧事件に触発、形成された同年上半期の世論は、その年
を池田の前途におよぶ逓減的な敗北の年と決定した。それは澎湃たる盛り上がりの過
程で、すでに「鶴タブー」を打ち破り、批判拒否という池田が長期間享受してきた特
権を剝奪してはいたが、より致命的な池田への痛打は、五月三日創価学会第三十三回
本部総会での池田発言を引き出したことにあった。
その日、池田は言論出版問題に関して妨害の事実を直接認めはしなかったものの、
「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申
し上げる」「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したい」(池田『池田
会長講演集』三)と陳謝しなければならなかった。
この謝辞そのものは、彼の無謬性という神話の破産と一定の良識性の表白と受け取
られ、彼の権力にとっては正負両面に働くにとどまった。彼の終わりの始まりを真に
決したのは、これに前後する次の四点の誓約にあった。
①政界不出馬「私自身は、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出る
ようなことは決してしない」
②国立戒壇の否定「本門戒壇は国立である必要はない。……したがって政治進出
は戒壇建立のための手段では絶対にない」
③創価学会と公明党の分離「創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のう
えで、明確に分離していくとの原則を、さらに貫いていきたい……今後、たとえ票が
減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方であるなら
ば、近代政党として、当然の道であります|
④強引な折伏活動の停止「もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人一人
の社会での成長が、最も望まれる時運となってきた」「無理な学会活動をして、社会
に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります」(池田、前掲書)
これらの発言は、今では不徹底な、偽りの多いものであったことが明らかにされて
いるが、いずれにしろ、彼がここに、自らの上死点を定めたことを意味した。なぜな
ら彼は政界出馬という彼の野心と、その実現を保証する組織拡大策をこれにより、す
ベて撤回したことになったからである。
それまでの彼の野心は、公称会員七百五十五万世帯を擁する創価学会会長という現
状に甘んじるものではなく、その組織を基盤とした上での「日本の最高権力者」、あ
るいは自らを首班とする公明党単独内閣の樹立にあった。いわば彼の政治的野心は巨
大な組織によって可能だったのであり、政治的野心を抱くこと自体が、彼の権力の一
つのありようでもあった。
五月三日の発言前、池田は苦悶の日々をおくり、「自殺寸前の心境に到った」と語
ったが、長年ひめやかに養ってきた政治的な野望を自ら封殺するのであってみれば、
あながち大仰な世迷い言ともいえなかった。
池田組閣の構想は半公然の事実であり、彼の衆議院出馬という意向の背後には、
「(公明党)議席数百を突破しての、連立による政権獲得構想があった。……この構想
を持っていた頃の池田会長は、『私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。
そのときには創価学会を解散してもいい』と語っていた。池田政権によって、王仏冥
合が達成されれば、もはや創価学会の必要がなくなるということであろう」(戸川猪
佐武、高瀬広居「公明党はまもなく大転換する」、『現代』昭和四十五年七月号、傍点筆者)
とされていた。
池田政権は外部からの推測にとどまるものではない。たとえば、「池田先生が、日
本の指導者として立っていただく」(北条浩、『聖教新聞』昭和四十年七月二十六日)、
「正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して」(秋谷城
永、『大白蓮華』昭和三十九年二月号)等、創価学会幹部の言々句々にうかがわれるば
かりでなく、池田自身、三十九年の公明党結成時には党首脳たちに自らを「国父」と
よばせ、また衆議院の公明党控室には、池田の写真と、その自筆の和歌「妙法の宝を
胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで」の色紙を飾らせた(村上重良『創価学会=
公明党』)。
さらに池田は、四十年七月、日大講堂での本部幹部会で、往古の天皇にかわる現代
終の最高権力者は池田だという「方程式」を創価学会用語で謙虚に言明している。現代
りの「最高権力者」を内閣総理大臣、もしくはそれをも凌駕するトルヒーヨばりの「国
父」と解するのは自然であろう。
創価学会の究極の目的の一つである広宣流布の儀式が行われるとき、こう語った。
「不開門(総本山大石寺にある勅使門)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、
天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわ
ち、……時の法華講の総講頭(三十九年四月から池田就任)であり、創価学会の会長
(池田)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間で
す。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、か
えってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん
方が不幸です。学会も不幸です」(『聖教新聞』昭和四十年七月二十六日)
自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかつ
たのは、彼のすでに持つ権力の強大さであった。実際、戦後池田以上に強大な権力を
許されたものは、ただ一つ国家のほかになかったであろう。
意図した効果を作り出すために他人を支配する力が権力とすれば、支配の状態が確
固としていればいるほど、また支配する人員が多ければ多いほど、その権力は強大と
いえよう。
池田の権力の強大さは、創価学会公称世帯数七百五十五万という圧倒的に多数の会
員と、「池田先生が死ねといわれるなら、死にます。池田先生は絶対間違ったことを
なさらない」(高瀬広居『第三文明の宗教』)という、池田によせる会員の盲目的な信頼
心、その二つに裏打ちされていた。
創価学会の世帯数とは、日蓮正宗の寺院から入信者に貸与された本尊(掛け軸)の
累計であり、実数は明らかに公称を下回るが、およそ宗教団体の信徒数は、その総計
が総人口の二倍近いことからも明らかなように、水増しされたものであり、水増しさ
れたなりに比較するほか手段はない。
創価学会の公称世帯数は、戦前、その規模の大きさと行動性で世の耳目を集めた大
本教の最盛時の信者数三十万名を足下に見下し、出版妨害時、他の宗教団体と比べて
も、霊友会(約四百九十六万名)、立正佼成会(四百四十二万名)、生長の家(二百十八
万名)、天理教(百九十一万名)、東本願寺(六百七十一万名)、西本願寺(六百六十三万
名)に大きく水をあけ(いずれも『朝日年鑑』昭和四十六年版)、また宗教関係以外の諸
組織には、比較すべき対象を持たないほどに巨大だった。
池田への信頼心、崇敬の念は活動的な末端の会員から最高幹部に至るまで、いわゆ
るカリスマ的とされる熱烈さに貫かれていた。元毎日新聞記者・内藤国夫によれば、
東京都議会の公明党議員(創価学会員であり、その幹部であった)は池田について、口
をそろえてこう自慢するのを常とした。
「『自民党や社会党の党首や委員長がこういうこと(煎餅や饅頭を買って議員控室に届
ける)をしてくれますか。会長先生はわれわれにも、たえず目をかけてくださるので
す。都議会の審議が長引き、われわれが疲れたなと思うと、きまって〝しっかりやり
なさい。ご苦労さん〟と激励しながらお菓子を買ってくださる。会長先生はなんでも
お見通しなのです。うれしいじゃありませんか』そして池田会長賛辞が競争するよう
にして続く。
『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』『会長のご指示に従っていれば絶
対にまちがいはない。先生のご判断はいつも的確です……』」(内藤『公明党の素顔」)
まさしく、池田からいわれたことをただ「そうか、そうか」ときいて動く団体だか
ら「そうか学会」というとの揶揄がうなずける体の池田への忠誠心であり、それが会
員数以上に、創価学会と他教団を隔てる要因となった創価学会の卓越した活動性、資
金力を支えていた。
たとえば創価学会の銀行預金高は三菱銀行二百二十億円、三菱信託銀行五十億円、
富士銀行六十億円など総額五百五十三億円に上ると推定され(四十四年九月末現在、
某有力銀行『宗教法人の預金調べ」、木谷八士『疑惑のなかの公明党』から引用)、年利五
・五%の定期預金としても約二十七億円の年間利息を生み出し、それだけでも四十五
年の政治資金、社会党六億円、民社党二億九千万円に大きく差をつけ、ほぼ公明党の
二十七億九千万円に匹敵するほどだった(旧称ママ)。
組織の強大さは一応、組織員数と組織員の質(組織への忠誠心や行動性など)の積で
あらわされよう。創価学会=公明党は、会員数も会員の質もずば抜けており、両者が
相まって、その組織を、政府関係を除けば曰本最大最強のものに仕上げていた。
池田の権力が直接根ざしたものは決して彼の人間性ではなく、明らかに創価学会=
公明党という巨大組織であった。そしてそれらは池田による単一の支配だったから、
池田の一身に組織の持つ力が体現されていた。組織が池田に遠大な乗っ取りの白昼夢
を夢見させ、それに迫力を加えたのだ。
したがつて池田の権力が創価学会リ公明党と盛衰をともにせざるを得ないことは自
明である。彼は政界への野心を自ら放棄したが、それにも増して彼の発言中の国立戒
壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止は、それぞれ組織という
基盤をゆるがし、いや応なく彼の望蜀の一念を破砕せずにはおかないものであった。
◆野望の挫折
国立による戒壇は、その後の舎衛三億という遁辞にかかわりなく、創価学会員にあ
っては、千年王国到来の象徴として機能していた。
「本門戒壇が建立されるということは、学会員たちにとって、大変な意義を持ってい
る。その時には、天皇陛下も創価学会員になっているはずだし、折伏の最終目標たる
広宣流布も達成されている。さらに、王仏冥合も達成されて、公明党政権が樹立さ
れ、各地方自治体の長も、あらゆる社会機構の長も、すべて学会代表によって占めら
れていなければならない。それだけではない。ありとあらゆる宗教団体は、すべて創
価学会の傘下にはいって、その御神体、あるいは本尊に創価学会のマンダラが掲げら
れることになつている。そうしたことのすべてが、正本堂建立の年に実現される」
(植村左内『これが創価学会だ』)
本門(国立)戒壇をこのように捉えたのが一般会員であり、また事実、会末端では
類似のことが教えられていたし、池田の発言中にも、彼らのそうした理解を助長させ
る言説があった。
「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたとき、他の邪宗では、御本尊様を
おあげすることができるか』と。また『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日
本第一の忠義な者である』という意味のことを申されておられた。先生の申されたこ
とが、ただひとつとして成就されえなかつたことはない……。
また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民の
ものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建
立されることは、必然でなくてはならぬ」(池田『池田会長講演集』四)
「広宣流布の時には参義院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少くとも十
万や二十万入れて、洋服も月賦じやないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテル
や帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね学会員で占めなかったら広宣流
布出来やしませんよ。一つ天下を取るまで諸君は大事な体だからうんと修行して行き
なさいよ」(池田「遺戒置文講義」、『聖教新聞』昭和三十二年九月六日)
本門戒壇を、天皇の帰依や創価学会の専権とする解釈が、一般会員の卓抜した活動
性を支えていた。いわばそれは馬の鼻先に吊るされたニンジンであった。だからこ
そ、四十七年十月に完成された正本堂が、「事実上の本門戒壇というべき画期的な正
本堂」(池田『巻頭言.講義集』四)と意義づけられたとき、会員は四十年十月の四日
間に、自らの生命保険や銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴
落させて、また殺人や自殺をひきおこして(新宗教新聞社『創価学会犯罪白書」)当初
の建立資金目標額三十億円の約十二倍、三百五十五億円を献金したのだ。
本門戒壇建立が創価学会員への全役職の大盤振る舞いと同義語であるための条件
は、公明党の独裁─国会での公明党議員の三分の二以上の議席、憲法改変、彼らの
信奉する日蓮正宗の国教化─以外にない。そして、それらの野望を秘匿する合言葉
が国立戒壇、つまり国立による本門戒壇であった。
しかし、公明党は予想外に伸びなかった。その政権獲得に関する、伝えられる池田
の当初のスケジュールを見れば、三分の二以上の議席確保という前提が現実性を失っ
ていたことは明らかであろう。
「四十年中に三十五名を衆議院におくる……第二段階は四十四年の選挙に全区から一
名ずつ立候補させ、百十八名を当選させる。ここで公明党は第二党になる……四十四
年から四十八年までに、百五十名から百七十名を進出させる。……第三段階は四十八
年から五十二年までで、衆議院に二百名から二百三十名を確保する。各地方首長(知
事、市長)選に立候補し、連立政権の条件をあきらかにする。第四段階は昭和五十二
年以降、公明党の単独内閣が実現する。党員五百万名、学会員三千二百万名」(草柳
大蔵『現代王国論』、高瀬広居「公明党』にもほぼ同様の記述がある)
現在(五十六年)、公明党は衆議院三十三名、参議院二十六名、第三党にとどまり、
池田構想の第一段階にも達してはいない。こうした現実と目標のギャップを前に、池
田は四十一年ころから、目標の格下げという方途を選んだ。そのためのリリ—フとし
て動員されたのが舎衛三億であった。全国民の三分の一が創価学会員(約七百五十万
世帯とされていた)、三分の一が無信仰の理解者、つまり公明党支持者、残る三分の一
が無関心、ないし敵対者という条件が整えば、国立戒壇に象徴される広宣流布は達成
されるというのである。
しかし、公称世帯数は目標に達しているものの、公明党支持者が全国民の三分の二
以上という必要条件があるかぎり、国立戒壇は馬の鼻先の二ンジンであることをやめ
なかった。たぶん永遠にニンジンを食えない馬は、食えないことを思い知るか、疲れ
死ぬまで走りつづけるはずであった。
池田発言は最終的に国立戒壇を否定して、鼻先のニンジンを取りはずした。正本堂
の建立は広宣流布の終着点であることをやめ、その新たな出発点と変えられた。創価
学会の大目標は失われないまでも、無限に拡散させられた。
「国家や世界を変えようとする人びとは、不満を育てて指導することによって、意図
された変化が、正当で望ましいものであると説いても、人びとを新しい生活様式に強
制することによつても成功するものではない。彼らは、とほうもない希望に火をつ
け、それを煽り立てる方法を知っていなければならない。その希望が、天国の望みで
あるか、地上の楽園であるか、強奪品と無限の富であるか、濡手に粟の成功である
か、あるいは世界支配の望みであるかなどということは、重大なことではない」(E
・ホッファー、高根正昭訳『大衆運動』)
正本堂建立という事実によって否定された国立戒壇は、将来、公明党の政権獲得時
に国立に移行するとの含みはなお残しながらも、五十五年、衆参同時選挙での公明党
の大敗はその可能性の芽さえつみとることになつた。国立戒壇の否定は、会員におけ
る熱烈な希望の火を吹き消すことであり、それは創価学会の弱体化をもたらさざるに
おかなかった。
政治進出と公明党は国立戒壇達成のための方便であつた以上に、創価学会の胸に輝
くバッジだった。彼らはそれにより、岸が、佐藤が、と口にできる社会的な位置と自
覚を獲得することができた。またそれは、彼らの努力を一目でわからせる壁に貼られ
た成績表でもあった。彼らは公明党の急伸長によってどれほど自己と、自己の所属す
る集団との力を確信し、励まされてきたか、はかり知れない。そればかりではなく、
公明党は彼らの青雲の志もかなえてくれた。池田はしばしば、その著と称する『人間
革命』の中で、地方議員までに立身出世した会員を取り上げ、創価学会の御利益の例
証とした。
公明党こそ創価学会の手形を日本国の通貨に変えるものであった。
池田の政教分離とは、いぜんとして「学会は、公明党の支持団体」であり、「具体
的には、議員で、学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念していただくため
に、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、できれば、
二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたい」(池田『池
田会長講演集』三)という実効性を疑わせるものであり、その曖昧さという点では、
公明党の七○年度活動方針も、結党大会で政教分離の方向でスタートを切ったなどと
うたい、軌を一にしていた。
最後に、強引な折伏活動の停止こそ、池田が会内に引き入れた最大のトロイの木馬
だった。創価学会員は他教団に較べて出入りが多く、その歩どまりは四、五割と推定
されており、現状維持のためだけにも、たえざる折伏が必要であった。したがって折
伏の停止はストレートに会員減をもたらすが、さらに折伏には会内の新陳代謝を保つ
機能があり、新陳代謝の停止による毒素は、国立戒壇の否定、政教分離とあいまって
創価学会の停滞を決して単なる現状維持にとどめない。
ここで折伏とは「静かに説いて聞かせ、その上反対するならば、獅子王の力をもっ
て屈伏せしめなくてはならない」と『折伏教典』にあったように、本来、創価学会に
あつては強引さを不可避とするものであった。
折伏による創価学会員の増加は、増加自体で完結するものではなく、現に加入して
いる会員に、日々、発展しつつある会の一員であるという深い充足感を与えた。もち
ろん、折伏は、折伏した当人の会内での地位の向上をもたらしもしただろう。が、そ
れは現実的な利益以上の所属の喜び─急成長が創価学会の理念の正しさの実証であ
ると信じられる喜びであり、それこそ千年王国の到来をま近いと思わせる至福感の根
源であつた。
強引な折伏の停止は、会員の充足感の停止であり、創価学会の生命ともいうべき座
談会をも腐朽させずにはおかない。
「新来者の多い座談会が充実するというのは共通した報告である。内容の濃い座談会
にするためにも、座談会を目指して折伏する必要がある」(後藤弘『創価学会の経営学
的分析』)
停滞が転倒であるという、自転車に似る組織原則は創価学会にも貫かれている。座
談会の低調が招来するのは創価学会の立ち腐れである。
「座談会がマンネリになり、学会員が座談会に意欲を示さなくなったとき、創価学会
は衰退するであろう。たとえ外面的に、その活動がどんなに華やかであったとして
も、それは幻影にすぎない」 (同前)
こうして池田は彼が日本に君臨するという野放図な野心を不発に終わらせたばかり
か、そのよって立つべき組織の角を矯めなければならなかった。国立戒壇の否定、創
価学会と公明党の分離、強引な折伏の停止は、彼の自覚の上では一時をしのぐ偽りの
言葉であったが、実際には、彼が自ら行わざるを得なかった運動論、組織論の破産宣
言であったにとどまらず、より根底的な敗北の前提の受け入れであった。
組織に根拠を持つ池田の権力の構造は、同時に組織の弱体化がそのまま彼の権力の
失墜の指標と化すという構造でもあった。
池田は昭和四十五年の経験を、未練にも「法難」として捉えたが、彼にはすでに、
法難という言葉の持つ正義も回復力もなかった。
「私は、法難というものは、けっして偶然ではないと思うのです。いまさら私のこと
を言うのはおこがましいことですが、日蓮大聖人が、小松原の法難を受けられたのが
四十二歲でしょう。二袓日興上人が身延山を下山なされたのも四十二歳の時、戸田先
生が、入牢されたのもやはり四十二歳なのです。そして、私が、創価学会とともに、
昨年、いろいろの誤解と批判に会ったのも四十二歳でしたからね」(二反長半『若き池
田大作』。なお戸田の入牢は昭和十八年、四十三歳のできごとで、池田は意図的に年齢
を違えている)
法難という理解は、池田の人物の尊大さと無原則性、過ぎてしまえばこちらのもの
という卑しさを物語るが、それ以上に池田が、社会から加えられた批判になに一つ学
ばなかつたことを意味した。逆に池田は糾弹キャンペーンの先頭に立つた共産党に報
復するため、情報をとろうと宮本宅電話盗聴事件をひき起こすのである。
だが、その後の池田創価学会の命運を決めた基本は、裏の行動ではなく、表の、彼
の口から吐かれた言葉だった。彼は言論抑圧を問われた際、教義に殉ずるかわりに、
教義を対世間にねじまげる策をさらに加重した。政治進出、公明党結成以来の社会化
が、日蓮正宗教義の持つ孤立性を守ることを許さなかったのである。
池田は、「化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに
対して、政治などの分野においては政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力
をもって弹圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定である。
……創価学会を妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、……無間地獄に堕ちること
を免れないのである」(池田『立正安国論講義』)という、独善的とはいえ、宗教者と
して当然な精神の原点を放棄し、なまなかに社会との協調を選んだ。彼がひたすら組
織の保守にしがみつき、自ら信仰の立脚点を否定したことは、会員の信仰に対する矜
持と情熱、張りを損ない、信仰生活の解体をも、もたらさずにはおかなかった。
───────(~330頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)
◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
―宗教を語る― ―源濁れば流れ清からず―
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
◆矢野よ、一人立て!!‥「池田大作と暴力団」「黒い手帖は知っていた」…早く出版せよ!!
ベストセラー間違いなし……以下、日本再生への工程表……
1.池田の国会証人喚問要請(自民も賛成多数)
…池田出頭せず・できず…(四年前から病気…病名「頭破作七分」慧妙医師・診断書)
大阪のおばちゃん……大阪の池田神話・常勝関西・大阪戦争…から覚醒する。
ブーメラン=仏敵は池田創価・公明だ!!‥大阪の地方選全滅ダ…小選挙区6つ全滅だ…
維新の橋下さん…応援に…。大阪駅前…人・人・人で前代未聞の交通障害。
2.法人設立無効・池田創価学会解散決議
3.池田創価学会(池田等大幹部の個人含)資産放出と消費税?年凍結
池田専用の温泉、ラブホテルの設備・飾り物は勿論、イギリス・フランスのお城に、
アフリカ某独裁国家への隠し資産も。資産調査委員会設置……数十兆!?
博士号・勲章・顕彰その他の貢ぎ物競売……サイトで社会現象となり世界に発信……
4.宗教法人法の改正、特に租税・公租公課。(欧米並み!?)
同時に、(政治資金規正法?)企業・団体献金は一切の禁止。
大阪のおばちゃん大喜び…都構想の仏敵=偽善・北川…バカ・ボケ・カス・あほ!!、死ね!!
?市役所前に銅像建つ…銘板には「黒い手帖を掲げる男・矢野」
知らすべき 時知りてこそ 平成の 鶏も鶏なれ 矢野も矢野なれ
つゆと落ち つゆと消えゆく ワイ(矢野)身かな 池田(創価・公明)カルトも 夢のまた夢
あんさん暇でんなぁ?…もし…
『そうでんねん…余生は、池田をネタに…暇つぶしでんがな…池田?…生きてはいると思いますよ…写真?、画像編集・鑞人形・影武者?…どれもありでんなぁ…それが池田創価でんがな…恫喝・偽計や…息を吐くようにウソをつく…できてこそ勝者。これを…「仏法は勝負なり」(日蓮の妄言)。「初めにことばありき…」イエスもありですなぁ…悪しき天才、感動しますやろ…史上空前の隠し資産ありますよ…キット!!‥知ったらそれだけで感動、長生きに感謝ですねぇ?…誰が(暴露する)かって?…ウーん、橋下はどうですか?…命を気にしないあのバカ男が…と期待してまんのや?、ん……』
────(以下、引用)──────◇─────(307頁から)──◇─────
終章 池田大作とその時代
◆噴出した池田大作批判
池田大作はあまりにも早く、若くして人生のスタートを切りすぎてしまった。
彼は昭和五十四(一九七九)年四月二十四日、それまで十九年間その職にあった創
価学会第三代会長の座を降り、名誉会長へと退いたが、過去の功績によって名誉ある
老いを楽しむことは彼に許されなかった。そのとき池田は五十一歲、壮年の盛期にあ
り、彼自身、老けこむ年齢でも健康状態でもないと考えたし、そうした心境にもなれ
なかった。
だが、池田に名誉ある「晚年」をより強く許さなかったのは、池田に対する批判者
たちだった。彼らは池田が創価学会の第一線を退き、閑職にあるとは頭から信じなか
ったし、それ以上に、彼に「名誉」があるとは信じなかった。逆に池田は、「〝人間革
命〟して人間失格」し、告訴してかえって「恥部が見え」、国会喚問して不正を糾明
しなければならない「狂気の二枚舌」(いずれも五十五年十一月七日「創価学会の社会的
不正を糾す会一の国会デモで掲げられたブラカード類から)なのであった。
かって、池田は日本最大最強の組織である創価学会のうえに君臨して「天皇にかわ
る時の最高権力者」と自らを規定し、あるいは池田組閣を夢見、また華々しい海外著
名人との「民間外交」によって、ノーベル平和賞の受賞を真剣に望んだ人物である。
どこかで池田の人生設計は狂ってしまった。過去の盛名は「恥を知」らなければな
らぬものとして泥土に踏みにじられた。彼の悪名は『ニューズウイーク』誌や『イン
ターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙などで報じられ、その公私両面にわた
る非行は海外にも知られるところとなった。
池田が若すぎる悲劇だった。彼を批判する創価学会脱退者による植徒も、日蓮正宗
の全僧侶約六百名のうち、正信会など約半数を占める批判派僧侶も、池田に求めるこ
とはおしなべて実質退陣だった。すなわち、池田は日蓮正宗法華講の名誉総講頭を辞
退し、昭和五十六年十月の日蓮七百遠忌での慶讃委員長を退き、創価学会への彼の影
響力を断ちきるべきなのだった。
いわば社会的な死を要求されていた。晚年でさえ迎えきれない池田が、死を吞める
わけはない。池田は日蓮正宗法主・阿部日顕と結んで、五十五年九月二十四日、批判
派僧侶二百一人を処分するなど、必死に反撃し、危機を乗り切ろうとした。
だが皮肉にも、池田の抵抗は池田の旧悪を暴くことにつながり、池田はその名誉あ
る名目的な引退期を、脂ぎった醜聞にまみれさせねばならなかった。彼は会長だった
時期、彼の語る言葉のすべてを記録、保管させ、将来、池田語録や池田会長史を編ま
せるための体制を調えていたが、その語録や報告書類が五十四年九月、元教学部長
原島嵩によつて持ち出され、元顧問弁護士 ,山崎正友のもとに預けられた。
この内部資料は修正前の、赤裸々な池田像を伝えて、虚像でなっていた池田を撃つ
ことになつた。池田は将来のために蓄えた過去によって現在を撃たれ、過去の栄光を
引きむかれた。その挙げ句、彼には、──
①四十三年七月参院選をピークとする大量替玉投票、
②共産党委員長.宮本顕治宅をはじめとする盗聴行為、
③池田自身と創価学会の脱税の疑い、
④国有地などの土地、不動産の不正取得、
⑤公明党との政教分離の不履行、
⑥元民音職員,松本勝弥などの裁判での偽証工作、
⑦その他の反社会的行為─の数々が突きつけられた。
が、これらは池田と創価学会の不正のうち、社会性を帯びた問題に限られ、ほかに
まだ池田の私的非行や日蓮正宗教義からの逸脱が問われた。教義違背については、彼
は不十分ながら誤りを認めて会長を退いたわけだったが、その後も改善が徹底してい
ないと追撃され、女性会員との関係を含む私的非行によって、彼の人格に泥をぬるは
めになった。
池田と創価学会は実際を知られることによつて打撃を受け、実像を知らせるかたち
での批判を加えつづけられた。池田が名誉会長にかわった後も、実質的な権力を創価
学会にふるいつづけたからである。
池田が名誉会長を退き、創価学会インターナショナル会長の座からも降り、正確に
創価学会から引退したのなら、批判は止んだかもしれない。だが池田は若かったし、
なにより創価学会あっての池田だったから、実質退陣はできず、創価学会を道連れに
して批判の矢面に立たせることをためらわなかった。
彼は池田創価学会といわれるまでに、創価学会と一体だった。彼を讃仰する会員の
熱気はまだ冷めていず、幹部たちは池田に引退を直言できるほどの力を持たなかっ
た。彼らは表面上、池田に変わらぬ忠誠を誓って彼を守ることにつとめ、一人になっ
たとき、しらけて時の流れに問題をゆだねてだけいた。
池田は敗北の過程にあった。それは穏やかな風化とは遠い、がむしゃらに抗がいつ
つ迎える敗北だった。彼には、その権力のありように見合って、脂の抜けた清潔な後
半生はおくれそうになかった。
◆最初の敗北
池田の敗北は昭和四十五(一九七〇)年、出版妨害に対する世論の糾弾に始まっていた。
公明党=創価学会の言論抑圧事件に触発、形成された同年上半期の世論は、その年
を池田の前途におよぶ逓減的な敗北の年と決定した。それは澎湃たる盛り上がりの過
程で、すでに「鶴タブー」を打ち破り、批判拒否という池田が長期間享受してきた特
権を剝奪してはいたが、より致命的な池田への痛打は、五月三日創価学会第三十三回
本部総会での池田発言を引き出したことにあった。
その日、池田は言論出版問題に関して妨害の事実を直接認めはしなかったものの、
「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申
し上げる」「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したい」(池田『池田
会長講演集』三)と陳謝しなければならなかった。
この謝辞そのものは、彼の無謬性という神話の破産と一定の良識性の表白と受け取
られ、彼の権力にとっては正負両面に働くにとどまった。彼の終わりの始まりを真に
決したのは、これに前後する次の四点の誓約にあった。
①政界不出馬「私自身は、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出る
ようなことは決してしない」
②国立戒壇の否定「本門戒壇は国立である必要はない。……したがって政治進出
は戒壇建立のための手段では絶対にない」
③創価学会と公明党の分離「創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のう
えで、明確に分離していくとの原則を、さらに貫いていきたい……今後、たとえ票が
減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方であるなら
ば、近代政党として、当然の道であります|
④強引な折伏活動の停止「もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人一人
の社会での成長が、最も望まれる時運となってきた」「無理な学会活動をして、社会
に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります」(池田、前掲書)
これらの発言は、今では不徹底な、偽りの多いものであったことが明らかにされて
いるが、いずれにしろ、彼がここに、自らの上死点を定めたことを意味した。なぜな
ら彼は政界出馬という彼の野心と、その実現を保証する組織拡大策をこれにより、す
ベて撤回したことになったからである。
それまでの彼の野心は、公称会員七百五十五万世帯を擁する創価学会会長という現
状に甘んじるものではなく、その組織を基盤とした上での「日本の最高権力者」、あ
るいは自らを首班とする公明党単独内閣の樹立にあった。いわば彼の政治的野心は巨
大な組織によって可能だったのであり、政治的野心を抱くこと自体が、彼の権力の一
つのありようでもあった。
五月三日の発言前、池田は苦悶の日々をおくり、「自殺寸前の心境に到った」と語
ったが、長年ひめやかに養ってきた政治的な野望を自ら封殺するのであってみれば、
あながち大仰な世迷い言ともいえなかった。
池田組閣の構想は半公然の事実であり、彼の衆議院出馬という意向の背後には、
「(公明党)議席数百を突破しての、連立による政権獲得構想があった。……この構想
を持っていた頃の池田会長は、『私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。
そのときには創価学会を解散してもいい』と語っていた。池田政権によって、王仏冥
合が達成されれば、もはや創価学会の必要がなくなるということであろう」(戸川猪
佐武、高瀬広居「公明党はまもなく大転換する」、『現代』昭和四十五年七月号、傍点筆者)
とされていた。
池田政権は外部からの推測にとどまるものではない。たとえば、「池田先生が、日
本の指導者として立っていただく」(北条浩、『聖教新聞』昭和四十年七月二十六日)、
「正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して」(秋谷城
永、『大白蓮華』昭和三十九年二月号)等、創価学会幹部の言々句々にうかがわれるば
かりでなく、池田自身、三十九年の公明党結成時には党首脳たちに自らを「国父」と
よばせ、また衆議院の公明党控室には、池田の写真と、その自筆の和歌「妙法の宝を
胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで」の色紙を飾らせた(村上重良『創価学会=
公明党』)。
さらに池田は、四十年七月、日大講堂での本部幹部会で、往古の天皇にかわる現代
終の最高権力者は池田だという「方程式」を創価学会用語で謙虚に言明している。現代
りの「最高権力者」を内閣総理大臣、もしくはそれをも凌駕するトルヒーヨばりの「国
父」と解するのは自然であろう。
創価学会の究極の目的の一つである広宣流布の儀式が行われるとき、こう語った。
「不開門(総本山大石寺にある勅使門)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、
天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわ
ち、……時の法華講の総講頭(三十九年四月から池田就任)であり、創価学会の会長
(池田)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間で
す。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、か
えってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん
方が不幸です。学会も不幸です」(『聖教新聞』昭和四十年七月二十六日)
自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかつ
たのは、彼のすでに持つ権力の強大さであった。実際、戦後池田以上に強大な権力を
許されたものは、ただ一つ国家のほかになかったであろう。
意図した効果を作り出すために他人を支配する力が権力とすれば、支配の状態が確
固としていればいるほど、また支配する人員が多ければ多いほど、その権力は強大と
いえよう。
池田の権力の強大さは、創価学会公称世帯数七百五十五万という圧倒的に多数の会
員と、「池田先生が死ねといわれるなら、死にます。池田先生は絶対間違ったことを
なさらない」(高瀬広居『第三文明の宗教』)という、池田によせる会員の盲目的な信頼
心、その二つに裏打ちされていた。
創価学会の世帯数とは、日蓮正宗の寺院から入信者に貸与された本尊(掛け軸)の
累計であり、実数は明らかに公称を下回るが、およそ宗教団体の信徒数は、その総計
が総人口の二倍近いことからも明らかなように、水増しされたものであり、水増しさ
れたなりに比較するほか手段はない。
創価学会の公称世帯数は、戦前、その規模の大きさと行動性で世の耳目を集めた大
本教の最盛時の信者数三十万名を足下に見下し、出版妨害時、他の宗教団体と比べて
も、霊友会(約四百九十六万名)、立正佼成会(四百四十二万名)、生長の家(二百十八
万名)、天理教(百九十一万名)、東本願寺(六百七十一万名)、西本願寺(六百六十三万
名)に大きく水をあけ(いずれも『朝日年鑑』昭和四十六年版)、また宗教関係以外の諸
組織には、比較すべき対象を持たないほどに巨大だった。
池田への信頼心、崇敬の念は活動的な末端の会員から最高幹部に至るまで、いわゆ
るカリスマ的とされる熱烈さに貫かれていた。元毎日新聞記者・内藤国夫によれば、
東京都議会の公明党議員(創価学会員であり、その幹部であった)は池田について、口
をそろえてこう自慢するのを常とした。
「『自民党や社会党の党首や委員長がこういうこと(煎餅や饅頭を買って議員控室に届
ける)をしてくれますか。会長先生はわれわれにも、たえず目をかけてくださるので
す。都議会の審議が長引き、われわれが疲れたなと思うと、きまって〝しっかりやり
なさい。ご苦労さん〟と激励しながらお菓子を買ってくださる。会長先生はなんでも
お見通しなのです。うれしいじゃありませんか』そして池田会長賛辞が競争するよう
にして続く。
『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』『会長のご指示に従っていれば絶
対にまちがいはない。先生のご判断はいつも的確です……』」(内藤『公明党の素顔」)
まさしく、池田からいわれたことをただ「そうか、そうか」ときいて動く団体だか
ら「そうか学会」というとの揶揄がうなずける体の池田への忠誠心であり、それが会
員数以上に、創価学会と他教団を隔てる要因となった創価学会の卓越した活動性、資
金力を支えていた。
たとえば創価学会の銀行預金高は三菱銀行二百二十億円、三菱信託銀行五十億円、
富士銀行六十億円など総額五百五十三億円に上ると推定され(四十四年九月末現在、
某有力銀行『宗教法人の預金調べ」、木谷八士『疑惑のなかの公明党』から引用)、年利五
・五%の定期預金としても約二十七億円の年間利息を生み出し、それだけでも四十五
年の政治資金、社会党六億円、民社党二億九千万円に大きく差をつけ、ほぼ公明党の
二十七億九千万円に匹敵するほどだった(旧称ママ)。
組織の強大さは一応、組織員数と組織員の質(組織への忠誠心や行動性など)の積で
あらわされよう。創価学会=公明党は、会員数も会員の質もずば抜けており、両者が
相まって、その組織を、政府関係を除けば曰本最大最強のものに仕上げていた。
池田の権力が直接根ざしたものは決して彼の人間性ではなく、明らかに創価学会=
公明党という巨大組織であった。そしてそれらは池田による単一の支配だったから、
池田の一身に組織の持つ力が体現されていた。組織が池田に遠大な乗っ取りの白昼夢
を夢見させ、それに迫力を加えたのだ。
したがつて池田の権力が創価学会リ公明党と盛衰をともにせざるを得ないことは自
明である。彼は政界への野心を自ら放棄したが、それにも増して彼の発言中の国立戒
壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止は、それぞれ組織という
基盤をゆるがし、いや応なく彼の望蜀の一念を破砕せずにはおかないものであった。
◆野望の挫折
国立による戒壇は、その後の舎衛三億という遁辞にかかわりなく、創価学会員にあ
っては、千年王国到来の象徴として機能していた。
「本門戒壇が建立されるということは、学会員たちにとって、大変な意義を持ってい
る。その時には、天皇陛下も創価学会員になっているはずだし、折伏の最終目標たる
広宣流布も達成されている。さらに、王仏冥合も達成されて、公明党政権が樹立さ
れ、各地方自治体の長も、あらゆる社会機構の長も、すべて学会代表によって占めら
れていなければならない。それだけではない。ありとあらゆる宗教団体は、すべて創
価学会の傘下にはいって、その御神体、あるいは本尊に創価学会のマンダラが掲げら
れることになつている。そうしたことのすべてが、正本堂建立の年に実現される」
(植村左内『これが創価学会だ』)
本門(国立)戒壇をこのように捉えたのが一般会員であり、また事実、会末端では
類似のことが教えられていたし、池田の発言中にも、彼らのそうした理解を助長させ
る言説があった。
「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたとき、他の邪宗では、御本尊様を
おあげすることができるか』と。また『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日
本第一の忠義な者である』という意味のことを申されておられた。先生の申されたこ
とが、ただひとつとして成就されえなかつたことはない……。
また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民の
ものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建
立されることは、必然でなくてはならぬ」(池田『池田会長講演集』四)
「広宣流布の時には参義院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少くとも十
万や二十万入れて、洋服も月賦じやないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテル
や帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね学会員で占めなかったら広宣流
布出来やしませんよ。一つ天下を取るまで諸君は大事な体だからうんと修行して行き
なさいよ」(池田「遺戒置文講義」、『聖教新聞』昭和三十二年九月六日)
本門戒壇を、天皇の帰依や創価学会の専権とする解釈が、一般会員の卓抜した活動
性を支えていた。いわばそれは馬の鼻先に吊るされたニンジンであった。だからこ
そ、四十七年十月に完成された正本堂が、「事実上の本門戒壇というべき画期的な正
本堂」(池田『巻頭言.講義集』四)と意義づけられたとき、会員は四十年十月の四日
間に、自らの生命保険や銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴
落させて、また殺人や自殺をひきおこして(新宗教新聞社『創価学会犯罪白書」)当初
の建立資金目標額三十億円の約十二倍、三百五十五億円を献金したのだ。
本門戒壇建立が創価学会員への全役職の大盤振る舞いと同義語であるための条件
は、公明党の独裁─国会での公明党議員の三分の二以上の議席、憲法改変、彼らの
信奉する日蓮正宗の国教化─以外にない。そして、それらの野望を秘匿する合言葉
が国立戒壇、つまり国立による本門戒壇であった。
しかし、公明党は予想外に伸びなかった。その政権獲得に関する、伝えられる池田
の当初のスケジュールを見れば、三分の二以上の議席確保という前提が現実性を失っ
ていたことは明らかであろう。
「四十年中に三十五名を衆議院におくる……第二段階は四十四年の選挙に全区から一
名ずつ立候補させ、百十八名を当選させる。ここで公明党は第二党になる……四十四
年から四十八年までに、百五十名から百七十名を進出させる。……第三段階は四十八
年から五十二年までで、衆議院に二百名から二百三十名を確保する。各地方首長(知
事、市長)選に立候補し、連立政権の条件をあきらかにする。第四段階は昭和五十二
年以降、公明党の単独内閣が実現する。党員五百万名、学会員三千二百万名」(草柳
大蔵『現代王国論』、高瀬広居「公明党』にもほぼ同様の記述がある)
現在(五十六年)、公明党は衆議院三十三名、参議院二十六名、第三党にとどまり、
池田構想の第一段階にも達してはいない。こうした現実と目標のギャップを前に、池
田は四十一年ころから、目標の格下げという方途を選んだ。そのためのリリ—フとし
て動員されたのが舎衛三億であった。全国民の三分の一が創価学会員(約七百五十万
世帯とされていた)、三分の一が無信仰の理解者、つまり公明党支持者、残る三分の一
が無関心、ないし敵対者という条件が整えば、国立戒壇に象徴される広宣流布は達成
されるというのである。
しかし、公称世帯数は目標に達しているものの、公明党支持者が全国民の三分の二
以上という必要条件があるかぎり、国立戒壇は馬の鼻先の二ンジンであることをやめ
なかった。たぶん永遠にニンジンを食えない馬は、食えないことを思い知るか、疲れ
死ぬまで走りつづけるはずであった。
池田発言は最終的に国立戒壇を否定して、鼻先のニンジンを取りはずした。正本堂
の建立は広宣流布の終着点であることをやめ、その新たな出発点と変えられた。創価
学会の大目標は失われないまでも、無限に拡散させられた。
「国家や世界を変えようとする人びとは、不満を育てて指導することによって、意図
された変化が、正当で望ましいものであると説いても、人びとを新しい生活様式に強
制することによつても成功するものではない。彼らは、とほうもない希望に火をつ
け、それを煽り立てる方法を知っていなければならない。その希望が、天国の望みで
あるか、地上の楽園であるか、強奪品と無限の富であるか、濡手に粟の成功である
か、あるいは世界支配の望みであるかなどということは、重大なことではない」(E
・ホッファー、高根正昭訳『大衆運動』)
正本堂建立という事実によって否定された国立戒壇は、将来、公明党の政権獲得時
に国立に移行するとの含みはなお残しながらも、五十五年、衆参同時選挙での公明党
の大敗はその可能性の芽さえつみとることになつた。国立戒壇の否定は、会員におけ
る熱烈な希望の火を吹き消すことであり、それは創価学会の弱体化をもたらさざるに
おかなかった。
政治進出と公明党は国立戒壇達成のための方便であつた以上に、創価学会の胸に輝
くバッジだった。彼らはそれにより、岸が、佐藤が、と口にできる社会的な位置と自
覚を獲得することができた。またそれは、彼らの努力を一目でわからせる壁に貼られ
た成績表でもあった。彼らは公明党の急伸長によってどれほど自己と、自己の所属す
る集団との力を確信し、励まされてきたか、はかり知れない。そればかりではなく、
公明党は彼らの青雲の志もかなえてくれた。池田はしばしば、その著と称する『人間
革命』の中で、地方議員までに立身出世した会員を取り上げ、創価学会の御利益の例
証とした。
公明党こそ創価学会の手形を日本国の通貨に変えるものであった。
池田の政教分離とは、いぜんとして「学会は、公明党の支持団体」であり、「具体
的には、議員で、学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念していただくため
に、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、できれば、
二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたい」(池田『池
田会長講演集』三)という実効性を疑わせるものであり、その曖昧さという点では、
公明党の七○年度活動方針も、結党大会で政教分離の方向でスタートを切ったなどと
うたい、軌を一にしていた。
最後に、強引な折伏活動の停止こそ、池田が会内に引き入れた最大のトロイの木馬
だった。創価学会員は他教団に較べて出入りが多く、その歩どまりは四、五割と推定
されており、現状維持のためだけにも、たえざる折伏が必要であった。したがって折
伏の停止はストレートに会員減をもたらすが、さらに折伏には会内の新陳代謝を保つ
機能があり、新陳代謝の停止による毒素は、国立戒壇の否定、政教分離とあいまって
創価学会の停滞を決して単なる現状維持にとどめない。
ここで折伏とは「静かに説いて聞かせ、その上反対するならば、獅子王の力をもっ
て屈伏せしめなくてはならない」と『折伏教典』にあったように、本来、創価学会に
あつては強引さを不可避とするものであった。
折伏による創価学会員の増加は、増加自体で完結するものではなく、現に加入して
いる会員に、日々、発展しつつある会の一員であるという深い充足感を与えた。もち
ろん、折伏は、折伏した当人の会内での地位の向上をもたらしもしただろう。が、そ
れは現実的な利益以上の所属の喜び─急成長が創価学会の理念の正しさの実証であ
ると信じられる喜びであり、それこそ千年王国の到来をま近いと思わせる至福感の根
源であつた。
強引な折伏の停止は、会員の充足感の停止であり、創価学会の生命ともいうべき座
談会をも腐朽させずにはおかない。
「新来者の多い座談会が充実するというのは共通した報告である。内容の濃い座談会
にするためにも、座談会を目指して折伏する必要がある」(後藤弘『創価学会の経営学
的分析』)
停滞が転倒であるという、自転車に似る組織原則は創価学会にも貫かれている。座
談会の低調が招来するのは創価学会の立ち腐れである。
「座談会がマンネリになり、学会員が座談会に意欲を示さなくなったとき、創価学会
は衰退するであろう。たとえ外面的に、その活動がどんなに華やかであったとして
も、それは幻影にすぎない」 (同前)
こうして池田は彼が日本に君臨するという野放図な野心を不発に終わらせたばかり
か、そのよって立つべき組織の角を矯めなければならなかった。国立戒壇の否定、創
価学会と公明党の分離、強引な折伏の停止は、彼の自覚の上では一時をしのぐ偽りの
言葉であったが、実際には、彼が自ら行わざるを得なかった運動論、組織論の破産宣
言であったにとどまらず、より根底的な敗北の前提の受け入れであった。
組織に根拠を持つ池田の権力の構造は、同時に組織の弱体化がそのまま彼の権力の
失墜の指標と化すという構造でもあった。
池田は昭和四十五年の経験を、未練にも「法難」として捉えたが、彼にはすでに、
法難という言葉の持つ正義も回復力もなかった。
「私は、法難というものは、けっして偶然ではないと思うのです。いまさら私のこと
を言うのはおこがましいことですが、日蓮大聖人が、小松原の法難を受けられたのが
四十二歲でしょう。二袓日興上人が身延山を下山なされたのも四十二歳の時、戸田先
生が、入牢されたのもやはり四十二歳なのです。そして、私が、創価学会とともに、
昨年、いろいろの誤解と批判に会ったのも四十二歳でしたからね」(二反長半『若き池
田大作』。なお戸田の入牢は昭和十八年、四十三歳のできごとで、池田は意図的に年齢
を違えている)
法難という理解は、池田の人物の尊大さと無原則性、過ぎてしまえばこちらのもの
という卑しさを物語るが、それ以上に池田が、社会から加えられた批判になに一つ学
ばなかつたことを意味した。逆に池田は糾弹キャンペーンの先頭に立つた共産党に報
復するため、情報をとろうと宮本宅電話盗聴事件をひき起こすのである。
だが、その後の池田創価学会の命運を決めた基本は、裏の行動ではなく、表の、彼
の口から吐かれた言葉だった。彼は言論抑圧を問われた際、教義に殉ずるかわりに、
教義を対世間にねじまげる策をさらに加重した。政治進出、公明党結成以来の社会化
が、日蓮正宗教義の持つ孤立性を守ることを許さなかったのである。
池田は、「化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに
対して、政治などの分野においては政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力
をもって弹圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定である。
……創価学会を妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、……無間地獄に堕ちること
を免れないのである」(池田『立正安国論講義』)という、独善的とはいえ、宗教者と
して当然な精神の原点を放棄し、なまなかに社会との協調を選んだ。彼がひたすら組
織の保守にしがみつき、自ら信仰の立脚点を否定したことは、会員の信仰に対する矜
持と情熱、張りを損ない、信仰生活の解体をも、もたらさずにはおかなかった。
───────(~330頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)
◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
―宗教を語る― ―源濁れば流れ清からず―
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
◆矢野よ、一人立て!!‥「池田大作と暴力団」「黒い手帖は知っていた」…早く出版せよ!!
ベストセラー間違いなし……以下、日本再生への工程表……
1.池田の国会証人喚問要請(自民も賛成多数)
…池田出頭せず・できず…(四年前から病気…病名「頭破作七分」慧妙医師・診断書)
大阪のおばちゃん……大阪の池田神話・常勝関西・大阪戦争…から覚醒する。
ブーメラン=仏敵は池田創価・公明だ!!‥大阪の地方選全滅ダ…小選挙区6つ全滅だ…
維新の橋下さん…応援に…。大阪駅前…人・人・人で前代未聞の交通障害。
2.法人設立無効・池田創価学会解散決議
3.池田創価学会(池田等大幹部の個人含)資産放出と消費税?年凍結
池田専用の温泉、ラブホテルの設備・飾り物は勿論、イギリス・フランスのお城に、
アフリカ某独裁国家への隠し資産も。資産調査委員会設置……数十兆!?
博士号・勲章・顕彰その他の貢ぎ物競売……サイトで社会現象となり世界に発信……
4.宗教法人法の改正、特に租税・公租公課。(欧米並み!?)
同時に、(政治資金規正法?)企業・団体献金は一切の禁止。
大阪のおばちゃん大喜び…都構想の仏敵=偽善・北川…バカ・ボケ・カス・あほ!!、死ね!!
?市役所前に銅像建つ…銘板には「黒い手帖を掲げる男・矢野」
知らすべき 時知りてこそ 平成の 鶏も鶏なれ 矢野も矢野なれ
つゆと落ち つゆと消えゆく ワイ(矢野)身かな 池田(創価・公明)カルトも 夢のまた夢
あんさん暇でんなぁ?…もし…
『そうでんねん…余生は、池田をネタに…暇つぶしでんがな…池田?…生きてはいると思いますよ…写真?、画像編集・鑞人形・影武者?…どれもありでんなぁ…それが池田創価でんがな…恫喝・偽計や…息を吐くようにウソをつく…できてこそ勝者。これを…「仏法は勝負なり」(日蓮の妄言)。「初めにことばありき…」イエスもありですなぁ…悪しき天才、感動しますやろ…史上空前の隠し資産ありますよ…キット!!‥知ったらそれだけで感動、長生きに感謝ですねぇ?…誰が(暴露する)かって?…ウーん、橋下はどうですか?…命を気にしないあのバカ男が…と期待してまんのや?、ん……』