創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作「権力者」の構造-20

2014-06-30 10:30:14 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=20>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
────(以下、引用)──────◇─────(307頁から)──◇─────
終章 池田大作とその時代
◆噴出した池田大作批判

 池田大作はあまりにも早く、若くして人生のスタートを切りすぎてしまった。
 彼は昭和五十四(一九七九)年四月二十四日、それまで十九年間その職にあった創
価学会第三代会長の座を降り、名誉会長へと退いたが、過去の功績によって名誉ある
老いを楽しむことは彼に許されなかった。そのとき池田は五十一歲、壮年の盛期にあ
り、彼自身、老けこむ年齢でも健康状態でもないと考えたし、そうした心境にもなれ
なかった。
 だが、池田に名誉ある「晚年」をより強く許さなかったのは、池田に対する批判者
たちだった。彼らは池田が創価学会の第一線を退き、閑職にあるとは頭から信じなか
ったし、それ以上に、彼に「名誉」があるとは信じなかった。逆に池田は、「〝人間革
命〟して人間失格」し、告訴してかえって「恥部が見え」、国会喚問して不正を糾明
しなければならない「狂気の二枚舌」(いずれも五十五年十一月七日「創価学会の社会的
不正を糾す会一の国会デモで掲げられたブラカード類から)なのであった。
かって、池田は日本最大最強の組織である創価学会のうえに君臨して「天皇にかわ
る時の最高権力者」と自らを規定し、あるいは池田組閣を夢見、また華々しい海外著
名人との「民間外交」によって、ノーベル平和賞の受賞を真剣に望んだ人物である。
 どこかで池田の人生設計は狂ってしまった。過去の盛名は「恥を知」らなければな
らぬものとして泥土に踏みにじられた。彼の悪名は『ニューズウイーク』誌や『イン
ターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙などで報じられ、その公私両面にわた
る非行は海外にも知られるところとなった。
 池田が若すぎる悲劇だった。彼を批判する創価学会脱退者による植徒も、日蓮正宗
の全僧侶約六百名のうち、正信会など約半数を占める批判派僧侶も、池田に求めるこ
とはおしなべて実質退陣だった。すなわち、池田は日蓮正宗法華講の名誉総講頭を辞
退し、昭和五十六年十月の日蓮七百遠忌での慶讃委員長を退き、創価学会への彼の影
響力を断ちきるべきなのだった。
 いわば社会的な死を要求されていた。晚年でさえ迎えきれない池田が、死を吞める
わけはない。池田は日蓮正宗法主・阿部日顕と結んで、五十五年九月二十四日、批判
派僧侶二百一人を処分するなど、必死に反撃し、危機を乗り切ろうとした。
だが皮肉にも、池田の抵抗は池田の旧悪を暴くことにつながり、池田はその名誉あ
る名目的な引退期を、脂ぎった醜聞にまみれさせねばならなかった。彼は会長だった
時期、彼の語る言葉のすべてを記録、保管させ、将来、池田語録や池田会長史を編ま
せるための体制を調えていたが、その語録や報告書類が五十四年九月、元教学部長
原島嵩によつて持ち出され、元顧問弁護士 ,山崎正友のもとに預けられた。
 この内部資料は修正前の、赤裸々な池田像を伝えて、虚像でなっていた池田を撃つ
ことになつた。池田は将来のために蓄えた過去によって現在を撃たれ、過去の栄光を
引きむかれた。その挙げ句、彼には、──
 ①四十三年七月参院選をピークとする大量替玉投票、
 ②共産党委員長.宮本顕治宅をはじめとする盗聴行為、
 ③池田自身と創価学会の脱税の疑い、
 ④国有地などの土地、不動産の不正取得、
 ⑤公明党との政教分離の不履行、
 ⑥元民音職員,松本勝弥などの裁判での偽証工作、
 ⑦その他の反社会的行為─の数々が突きつけられた。
 が、これらは池田と創価学会の不正のうち、社会性を帯びた問題に限られ、ほかに
まだ池田の私的非行や日蓮正宗教義からの逸脱が問われた。教義違背については、彼
は不十分ながら誤りを認めて会長を退いたわけだったが、その後も改善が徹底してい
ないと追撃され、女性会員との関係を含む私的非行によって、彼の人格に泥をぬるは
めになった。
 池田と創価学会は実際を知られることによつて打撃を受け、実像を知らせるかたち
での批判を加えつづけられた。池田が名誉会長にかわった後も、実質的な権力を創価
学会にふるいつづけたからである。
 池田が名誉会長を退き、創価学会インターナショナル会長の座からも降り、正確に
創価学会から引退したのなら、批判は止んだかもしれない。だが池田は若かったし、
なにより創価学会あっての池田だったから、実質退陣はできず、創価学会を道連れに
して批判の矢面に立たせることをためらわなかった。
 彼は池田創価学会といわれるまでに、創価学会と一体だった。彼を讃仰する会員の
熱気はまだ冷めていず、幹部たちは池田に引退を直言できるほどの力を持たなかっ
た。彼らは表面上、池田に変わらぬ忠誠を誓って彼を守ることにつとめ、一人になっ
たとき、しらけて時の流れに問題をゆだねてだけいた。
 池田は敗北の過程にあった。それは穏やかな風化とは遠い、がむしゃらに抗がいつ
つ迎える敗北だった。彼には、その権力のありように見合って、脂の抜けた清潔な後
半生はおくれそうになかった。

◆最初の敗北
 池田の敗北は昭和四十五(一九七〇)年、出版妨害に対する世論の糾弾に始まっていた。
 公明党=創価学会の言論抑圧事件に触発、形成された同年上半期の世論は、その年
を池田の前途におよぶ逓減的な敗北の年と決定した。それは澎湃たる盛り上がりの過
程で、すでに「鶴タブー」を打ち破り、批判拒否という池田が長期間享受してきた特
権を剝奪してはいたが、より致命的な池田への痛打は、五月三日創価学会第三十三回
本部総会での池田発言を引き出したことにあった。
 その日、池田は言論出版問題に関して妨害の事実を直接認めはしなかったものの、
「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申
し上げる」「今後は、二度と、同じ轍を踏んではならぬ、と猛省したい」(池田『池田
会長講演集』三)と陳謝しなければならなかった。
 この謝辞そのものは、彼の無謬性という神話の破産と一定の良識性の表白と受け取
られ、彼の権力にとっては正負両面に働くにとどまった。彼の終わりの始まりを真に
決したのは、これに前後する次の四点の誓約にあった。
①政界不出馬「私自身は、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出る
 ようなことは決してしない」
②国立戒壇の否定「本門戒壇は国立である必要はない。……したがって政治進出
 は戒壇建立のための手段では絶対にない」
③創価学会と公明党の分離「創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のう
 えで、明確に分離していくとの原則を、さらに貫いていきたい……今後、たとえ票が
 減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方であるなら
 ば、近代政党として、当然の道であります|
④強引な折伏活動の停止「もはや教勢拡張のみに終始する時ではなく、一人一人
 の社会での成長が、最も望まれる時運となってきた」「無理な学会活動をして、社会
 に迷惑をかけることは、大謗法であり、学会の敵であります」(池田、前掲書)
これらの発言は、今では不徹底な、偽りの多いものであったことが明らかにされて
いるが、いずれにしろ、彼がここに、自らの上死点を定めたことを意味した。なぜな
ら彼は政界出馬という彼の野心と、その実現を保証する組織拡大策をこれにより、す
ベて撤回したことになったからである。
 それまでの彼の野心は、公称会員七百五十五万世帯を擁する創価学会会長という現
状に甘んじるものではなく、その組織を基盤とした上での「日本の最高権力者」、あ
るいは自らを首班とする公明党単独内閣の樹立にあった。いわば彼の政治的野心は巨
大な組織によって可能だったのであり、政治的野心を抱くこと自体が、彼の権力の一
つのありようでもあった。
 五月三日の発言前、池田は苦悶の日々をおくり、「自殺寸前の心境に到った」と語
ったが、長年ひめやかに養ってきた政治的な野望を自ら封殺するのであってみれば、
あながち大仰な世迷い言ともいえなかった。
 池田組閣の構想は半公然の事実であり、彼の衆議院出馬という意向の背後には、
「(公明党)議席数百を突破しての、連立による政権獲得構想があった。……この構想
を持っていた頃の池田会長は、『私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。
そのときには創価学会を解散してもいい』と語っていた。池田政権によって、王仏冥
合が達成されれば、もはや創価学会の必要がなくなるということであろう」(戸川猪
佐武、高瀬広居「公明党はまもなく大転換する」、『現代』昭和四十五年七月号、傍点筆者)
とされていた。
 池田政権は外部からの推測にとどまるものではない。たとえば、「池田先生が、日
本の指導者として立っていただく」(北条浩、『聖教新聞』昭和四十年七月二十六日)、
「正しく戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して」(秋谷城
永、『大白蓮華』昭和三十九年二月号)等、創価学会幹部の言々句々にうかがわれるば
かりでなく、池田自身、三十九年の公明党結成時には党首脳たちに自らを「国父」と
よばせ、また衆議院の公明党控室には、池田の写真と、その自筆の和歌「妙法の宝を
胸に抱きしめて 君等戦え天下取るまで」の色紙を飾らせた(村上重良『創価学会=
公明党』)。
 さらに池田は、四十年七月、日大講堂での本部幹部会で、往古の天皇にかわる現代
終の最高権力者は池田だという「方程式」を創価学会用語で謙虚に言明している。現代
りの「最高権力者」を内閣総理大臣、もしくはそれをも凌駕するトルヒーヨばりの「国
父」と解するのは自然であろう。
 創価学会の究極の目的の一つである広宣流布の儀式が行われるとき、こう語った。
「不開門(総本山大石寺にある勅使門)が開く。(はじめて門を通過するのは)一義には、
天皇という意味もありますが、再往は時の最高権力者であるとされています。すなわ
ち、……時の法華講の総講頭(三十九年四月から池田就任)であり、創価学会の会長
(池田)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます。(大拍手)
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間で
す。礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、か
えってわからなくなってしまうことを心配するのです。そうなれば、こんどは皆さん
方が不幸です。学会も不幸です」(『聖教新聞』昭和四十年七月二十六日)
 自らを最高権力者と規定するという、池田の国家を遠望する気概を滑稽化しなかつ
たのは、彼のすでに持つ権力の強大さであった。実際、戦後池田以上に強大な権力を
許されたものは、ただ一つ国家のほかになかったであろう。
 意図した効果を作り出すために他人を支配する力が権力とすれば、支配の状態が確
固としていればいるほど、また支配する人員が多ければ多いほど、その権力は強大と
いえよう。
池田の権力の強大さは、創価学会公称世帯数七百五十五万という圧倒的に多数の会
員と、「池田先生が死ねといわれるなら、死にます。池田先生は絶対間違ったことを
なさらない」(高瀬広居『第三文明の宗教』)という、池田によせる会員の盲目的な信頼
心、その二つに裏打ちされていた。
 創価学会の世帯数とは、日蓮正宗の寺院から入信者に貸与された本尊(掛け軸)の
累計であり、実数は明らかに公称を下回るが、およそ宗教団体の信徒数は、その総計
が総人口の二倍近いことからも明らかなように、水増しされたものであり、水増しさ
れたなりに比較するほか手段はない。
 創価学会の公称世帯数は、戦前、その規模の大きさと行動性で世の耳目を集めた大
本教の最盛時の信者数三十万名を足下に見下し、出版妨害時、他の宗教団体と比べて
も、霊友会(約四百九十六万名)、立正佼成会(四百四十二万名)、生長の家(二百十八
万名)、天理教(百九十一万名)、東本願寺(六百七十一万名)、西本願寺(六百六十三万
名)に大きく水をあけ(いずれも『朝日年鑑』昭和四十六年版)、また宗教関係以外の諸
組織には、比較すべき対象を持たないほどに巨大だった。
 池田への信頼心、崇敬の念は活動的な末端の会員から最高幹部に至るまで、いわゆ
るカリスマ的とされる熱烈さに貫かれていた。元毎日新聞記者・内藤国夫によれば、
東京都議会の公明党議員(創価学会員であり、その幹部であった)は池田について、口
をそろえてこう自慢するのを常とした。
「『自民党や社会党の党首や委員長がこういうこと(煎餅や饅頭を買って議員控室に届
ける)をしてくれますか。会長先生はわれわれにも、たえず目をかけてくださるので
す。都議会の審議が長引き、われわれが疲れたなと思うと、きまって〝しっかりやり
なさい。ご苦労さん〟と激励しながらお菓子を買ってくださる。会長先生はなんでも
お見通しなのです。うれしいじゃありませんか』そして池田会長賛辞が競争するよう
にして続く。
『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』『会長のご指示に従っていれば絶
対にまちがいはない。先生のご判断はいつも的確です……』」(内藤『公明党の素顔」)
まさしく、池田からいわれたことをただ「そうか、そうか」ときいて動く団体だか
ら「そうか学会」というとの揶揄がうなずける体の池田への忠誠心であり、それが会
員数以上に、創価学会と他教団を隔てる要因となった創価学会の卓越した活動性、資
金力を支えていた。
たとえば創価学会の銀行預金高は三菱銀行二百二十億円、三菱信託銀行五十億円、
富士銀行六十億円など総額五百五十三億円に上ると推定され(四十四年九月末現在、
某有力銀行『宗教法人の預金調べ」、木谷八士『疑惑のなかの公明党』から引用)、年利五
・五%の定期預金としても約二十七億円の年間利息を生み出し、それだけでも四十五
年の政治資金、社会党六億円、民社党二億九千万円に大きく差をつけ、ほぼ公明党の
二十七億九千万円に匹敵するほどだった(旧称ママ)。
 組織の強大さは一応、組織員数と組織員の質(組織への忠誠心や行動性など)の積で
あらわされよう。創価学会=公明党は、会員数も会員の質もずば抜けており、両者が
相まって、その組織を、政府関係を除けば曰本最大最強のものに仕上げていた。
 池田の権力が直接根ざしたものは決して彼の人間性ではなく、明らかに創価学会=
公明党という巨大組織であった。そしてそれらは池田による単一の支配だったから、
池田の一身に組織の持つ力が体現されていた。組織が池田に遠大な乗っ取りの白昼夢
を夢見させ、それに迫力を加えたのだ。
 したがつて池田の権力が創価学会リ公明党と盛衰をともにせざるを得ないことは自
明である。彼は政界への野心を自ら放棄したが、それにも増して彼の発言中の国立戒
壇の否定、創価学会と公明党の分離、強引な折伏活動の停止は、それぞれ組織という
基盤をゆるがし、いや応なく彼の望蜀の一念を破砕せずにはおかないものであった。

◆野望の挫折
 国立による戒壇は、その後の舎衛三億という遁辞にかかわりなく、創価学会員にあ
っては、千年王国到来の象徴として機能していた。
「本門戒壇が建立されるということは、学会員たちにとって、大変な意義を持ってい
る。その時には、天皇陛下も創価学会員になっているはずだし、折伏の最終目標たる
広宣流布も達成されている。さらに、王仏冥合も達成されて、公明党政権が樹立さ
れ、各地方自治体の長も、あらゆる社会機構の長も、すべて学会代表によって占めら
れていなければならない。それだけではない。ありとあらゆる宗教団体は、すべて創
価学会の傘下にはいって、その御神体、あるいは本尊に創価学会のマンダラが掲げら
れることになつている。そうしたことのすべてが、正本堂建立の年に実現される」
(植村左内『これが創価学会だ』)
 本門(国立)戒壇をこのように捉えたのが一般会員であり、また事実、会末端では
類似のことが教えられていたし、池田の発言中にも、彼らのそうした理解を助長させ
る言説があった。
「よく戸田先生は『天皇が信心したいといってきたとき、他の邪宗では、御本尊様を
おあげすることができるか』と。また『天皇が信仰するまで、戸田は待つ。戸田は日
本第一の忠義な者である』という意味のことを申されておられた。先生の申されたこ
とが、ただひとつとして成就されえなかつたことはない……。
 また、国立競技場、国立美術館、国立公園等も、すべて国民の要望であり、国民の
ものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建
立されることは、必然でなくてはならぬ」(池田『池田会長講演集』四)
「広宣流布の時には参義院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少くとも十
万や二十万入れて、洋服も月賦じやないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテル
や帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね学会員で占めなかったら広宣流
布出来やしませんよ。一つ天下を取るまで諸君は大事な体だからうんと修行して行き
なさいよ」(池田「遺戒置文講義」、『聖教新聞』昭和三十二年九月六日)
本門戒壇を、天皇の帰依や創価学会の専権とする解釈が、一般会員の卓抜した活動
性を支えていた。いわばそれは馬の鼻先に吊るされたニンジンであった。だからこ
そ、四十七年十月に完成された正本堂が、「事実上の本門戒壇というべき画期的な正
本堂」(池田『巻頭言.講義集』四)と意義づけられたとき、会員は四十年十月の四日
間に、自らの生命保険や銀行預金をあらそって解約し、質屋や古道具屋のつけ値を暴
落させて、また殺人や自殺をひきおこして(新宗教新聞社『創価学会犯罪白書」)当初
の建立資金目標額三十億円の約十二倍、三百五十五億円を献金したのだ。
 本門戒壇建立が創価学会員への全役職の大盤振る舞いと同義語であるための条件
は、公明党の独裁─国会での公明党議員の三分の二以上の議席、憲法改変、彼らの
信奉する日蓮正宗の国教化─以外にない。そして、それらの野望を秘匿する合言葉
が国立戒壇、つまり国立による本門戒壇であった。
 しかし、公明党は予想外に伸びなかった。その政権獲得に関する、伝えられる池田
の当初のスケジュールを見れば、三分の二以上の議席確保という前提が現実性を失っ
ていたことは明らかであろう。
「四十年中に三十五名を衆議院におくる……第二段階は四十四年の選挙に全区から一
名ずつ立候補させ、百十八名を当選させる。ここで公明党は第二党になる……四十四
年から四十八年までに、百五十名から百七十名を進出させる。……第三段階は四十八
年から五十二年までで、衆議院に二百名から二百三十名を確保する。各地方首長(知
事、市長)選に立候補し、連立政権の条件をあきらかにする。第四段階は昭和五十二
年以降、公明党の単独内閣が実現する。党員五百万名、学会員三千二百万名」(草柳
大蔵『現代王国論』、高瀬広居「公明党』にもほぼ同様の記述がある)
 現在(五十六年)、公明党は衆議院三十三名、参議院二十六名、第三党にとどまり、
池田構想の第一段階にも達してはいない。こうした現実と目標のギャップを前に、池
田は四十一年ころから、目標の格下げという方途を選んだ。そのためのリリ—フとし
て動員されたのが舎衛三億であった。全国民の三分の一が創価学会員(約七百五十万
世帯とされていた)、三分の一が無信仰の理解者、つまり公明党支持者、残る三分の一
が無関心、ないし敵対者という条件が整えば、国立戒壇に象徴される広宣流布は達成
されるというのである。
 しかし、公称世帯数は目標に達しているものの、公明党支持者が全国民の三分の二
以上という必要条件があるかぎり、国立戒壇は馬の鼻先の二ンジンであることをやめ
なかった。たぶん永遠にニンジンを食えない馬は、食えないことを思い知るか、疲れ
死ぬまで走りつづけるはずであった。
池田発言は最終的に国立戒壇を否定して、鼻先のニンジンを取りはずした。正本堂
の建立は広宣流布の終着点であることをやめ、その新たな出発点と変えられた。創価
学会の大目標は失われないまでも、無限に拡散させられた。
「国家や世界を変えようとする人びとは、不満を育てて指導することによって、意図
された変化が、正当で望ましいものであると説いても、人びとを新しい生活様式に強
制することによつても成功するものではない。彼らは、とほうもない希望に火をつ
け、それを煽り立てる方法を知っていなければならない。その希望が、天国の望みで
あるか、地上の楽園であるか、強奪品と無限の富であるか、濡手に粟の成功である
か、あるいは世界支配の望みであるかなどということは、重大なことではない」(E
・ホッファー、高根正昭訳『大衆運動』)
 正本堂建立という事実によって否定された国立戒壇は、将来、公明党の政権獲得時
に国立に移行するとの含みはなお残しながらも、五十五年、衆参同時選挙での公明党
の大敗はその可能性の芽さえつみとることになつた。国立戒壇の否定は、会員におけ
る熱烈な希望の火を吹き消すことであり、それは創価学会の弱体化をもたらさざるに
おかなかった。
 政治進出と公明党は国立戒壇達成のための方便であつた以上に、創価学会の胸に輝
くバッジだった。彼らはそれにより、岸が、佐藤が、と口にできる社会的な位置と自
覚を獲得することができた。またそれは、彼らの努力を一目でわからせる壁に貼られ
た成績表でもあった。彼らは公明党の急伸長によってどれほど自己と、自己の所属す
る集団との力を確信し、励まされてきたか、はかり知れない。そればかりではなく、
公明党は彼らの青雲の志もかなえてくれた。池田はしばしば、その著と称する『人間
革命』の中で、地方議員までに立身出世した会員を取り上げ、創価学会の御利益の例
証とした。
 公明党こそ創価学会の手形を日本国の通貨に変えるものであった。
 池田の政教分離とは、いぜんとして「学会は、公明党の支持団体」であり、「具体
的には、議員で、学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念していただくため
に、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、できれば、
二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたい」(池田『池
田会長講演集』三)という実効性を疑わせるものであり、その曖昧さという点では、
公明党の七○年度活動方針も、結党大会で政教分離の方向でスタートを切ったなどと
うたい、軌を一にしていた。
 最後に、強引な折伏活動の停止こそ、池田が会内に引き入れた最大のトロイの木馬
だった。創価学会員は他教団に較べて出入りが多く、その歩どまりは四、五割と推定
されており、現状維持のためだけにも、たえざる折伏が必要であった。したがって折
伏の停止はストレートに会員減をもたらすが、さらに折伏には会内の新陳代謝を保つ
機能があり、新陳代謝の停止による毒素は、国立戒壇の否定、政教分離とあいまって
創価学会の停滞を決して単なる現状維持にとどめない。
 ここで折伏とは「静かに説いて聞かせ、その上反対するならば、獅子王の力をもっ
て屈伏せしめなくてはならない」と『折伏教典』にあったように、本来、創価学会に
あつては強引さを不可避とするものであった。
 折伏による創価学会員の増加は、増加自体で完結するものではなく、現に加入して
いる会員に、日々、発展しつつある会の一員であるという深い充足感を与えた。もち
ろん、折伏は、折伏した当人の会内での地位の向上をもたらしもしただろう。が、そ
れは現実的な利益以上の所属の喜び─急成長が創価学会の理念の正しさの実証であ
ると信じられる喜びであり、それこそ千年王国の到来をま近いと思わせる至福感の根
源であつた。
強引な折伏の停止は、会員の充足感の停止であり、創価学会の生命ともいうべき座
談会をも腐朽させずにはおかない。
「新来者の多い座談会が充実するというのは共通した報告である。内容の濃い座談会
にするためにも、座談会を目指して折伏する必要がある」(後藤弘『創価学会の経営学
的分析』)
 停滞が転倒であるという、自転車に似る組織原則は創価学会にも貫かれている。座
談会の低調が招来するのは創価学会の立ち腐れである。
「座談会がマンネリになり、学会員が座談会に意欲を示さなくなったとき、創価学会
は衰退するであろう。たとえ外面的に、その活動がどんなに華やかであったとして
も、それは幻影にすぎない」 (同前)
こうして池田は彼が日本に君臨するという野放図な野心を不発に終わらせたばかり
か、そのよって立つべき組織の角を矯めなければならなかった。国立戒壇の否定、創
価学会と公明党の分離、強引な折伏の停止は、彼の自覚の上では一時をしのぐ偽りの
言葉であったが、実際には、彼が自ら行わざるを得なかった運動論、組織論の破産宣
言であったにとどまらず、より根底的な敗北の前提の受け入れであった。
 組織に根拠を持つ池田の権力の構造は、同時に組織の弱体化がそのまま彼の権力の
失墜の指標と化すという構造でもあった。
 池田は昭和四十五年の経験を、未練にも「法難」として捉えたが、彼にはすでに、
法難という言葉の持つ正義も回復力もなかった。
「私は、法難というものは、けっして偶然ではないと思うのです。いまさら私のこと
を言うのはおこがましいことですが、日蓮大聖人が、小松原の法難を受けられたのが
四十二歲でしょう。二袓日興上人が身延山を下山なされたのも四十二歳の時、戸田先
生が、入牢されたのもやはり四十二歳なのです。そして、私が、創価学会とともに、
昨年、いろいろの誤解と批判に会ったのも四十二歳でしたからね」(二反長半『若き池
田大作』。なお戸田の入牢は昭和十八年、四十三歳のできごとで、池田は意図的に年齢
を違えている)
法難という理解は、池田の人物の尊大さと無原則性、過ぎてしまえばこちらのもの
という卑しさを物語るが、それ以上に池田が、社会から加えられた批判になに一つ学
ばなかつたことを意味した。逆に池田は糾弹キャンペーンの先頭に立つた共産党に報
復するため、情報をとろうと宮本宅電話盗聴事件をひき起こすのである。
 だが、その後の池田創価学会の命運を決めた基本は、裏の行動ではなく、表の、彼
の口から吐かれた言葉だった。彼は言論抑圧を問われた際、教義に殉ずるかわりに、
教義を対世間にねじまげる策をさらに加重した。政治進出、公明党結成以来の社会化
が、日蓮正宗教義の持つ孤立性を守ることを許さなかったのである。
 池田は、「化儀の広布は第三文明の多角的な活動を含んで進められていく。これに
対して、政治などの分野においては政党や官庁等で、創価学会を憎み、陰険にも権力
をもって弹圧し、迫害し、理不尽な妨害を試みる者も出てくることは必定である。
……創価学会を妨げ葬り去らんとするものは天魔であり、……無間地獄に堕ちること
を免れないのである」(池田『立正安国論講義』)という、独善的とはいえ、宗教者と
して当然な精神の原点を放棄し、なまなかに社会との協調を選んだ。彼がひたすら組
織の保守にしがみつき、自ら信仰の立脚点を否定したことは、会員の信仰に対する矜
持と情熱、張りを損ない、信仰生活の解体をも、もたらさずにはおかなかった。
───────(~330頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る―  ―源濁れば流れ清からず―
◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領等に恐喝・暴力もある反社会団体である。
◆矢野よ、一人立て!!‥「池田大作と暴力団」「黒い手帖は知っていた」…早く出版せよ!!
 ベストセラー間違いなし……以下、日本再生への工程表……
 1.池田の国会証人喚問要請(自民も賛成多数)
   …池田出頭せず・できず…(四年前から病気…病名「頭破作七分」慧妙医師・診断書)
   大阪のおばちゃん……大阪の池田神話・常勝関西・大阪戦争…から覚醒する。
   ブーメラン=仏敵は池田創価・公明だ!!‥大阪の地方選全滅ダ…小選挙区6つ全滅だ…
   維新の橋下さん…応援に…。大阪駅前…人・人・人で前代未聞の交通障害。
 2.法人設立無効・池田創価学会解散決議
 3.池田創価学会(池田等大幹部の個人含)資産放出と消費税?年凍結
   池田専用の温泉、ラブホテルの設備・飾り物は勿論、イギリス・フランスのお城に、
   アフリカ某独裁国家への隠し資産も。資産調査委員会設置……数十兆!?
   博士号・勲章・顕彰その他の貢ぎ物競売……サイトで社会現象となり世界に発信……
 4.宗教法人法の改正、特に租税・公租公課。(欧米並み!?)
   同時に、(政治資金規正法?)企業・団体献金は一切の禁止。

 大阪のおばちゃん大喜び…都構想の仏敵=偽善・北川…バカ・ボケ・カス・あほ!!、死ね!!
 ?市役所前に銅像建つ…銘板には「黒い手帖を掲げる男・矢野」

 知らすべき 時知りてこそ 平成の 鶏も鶏なれ 矢野も矢野なれ
 つゆと落ち つゆと消えゆく ワイ(矢野)身かな 池田(創価・公明)カルトも 夢のまた夢

あんさん暇でんなぁ?…もし…
『そうでんねん…余生は、池田をネタに…暇つぶしでんがな…池田?…生きてはいると思いますよ…写真?、画像編集・鑞人形・影武者?…どれもありでんなぁ…それが池田創価でんがな…恫喝・偽計や…息を吐くようにウソをつく…できてこそ勝者。これを…「仏法は勝負なり」(日蓮の妄言)。「初めにことばありき…」イエスもありですなぁ…悪しき天才、感動しますやろ…史上空前の隠し資産ありますよ…キット!!‥知ったらそれだけで感動、長生きに感謝ですねぇ?…誰が(暴露する)かって?…ウーん、橋下はどうですか?…命を気にしないあのバカ男が…と期待してまんのや?、ん……』
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池田大作「権力者」の構造-19

2014-06-28 09:17:19 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=19>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
────(以下、引用)──────◇─────(287頁から)──◇─────
◆創価学会コンツェルンの完成
 四十三年六月、七月の幹部会で池田は公明党の外郭団体としての青年政治連盟、働
く婦人の会、主婦同盟、民主アーチスト・クラブの結成を提唱した。
 これを受けて、早速十月、東京をはじめとする全国各地の主婦同盟、働く婦人の
会、青年政治連盟が相ついで結成された。
 主婦同盟は、主婦の地位の向上や消費者調査、児童教育等に関する諸活動を目的と
し、昭和五十六年現在、日本主婦同盟と総称、東京・赤坂に事務局を持ち、議長は牧
野可祝、事務局長は安達三重子、傘下に北海道、宮城、千葉、東京、神奈川、愛知、
京都、大阪、兵庫、岡山、香川、福岡の各主婦同盟を置き、個人会員五万五千名を擁
するという。『主婦同盟ニュ—ス』を刊行している。
 働く婦人の会も同様主旨のもので、綱領の二には、「本会は、広範な文化活動を行
なうことによって、働く婦人の教養と資質の向上をはかり、健全な心身の養成につと
める」とうたっている。同会は職業別に八グルーブに分かたれ、たとえば、美容師グ
ループは「さくら」、ホステス・飲食店員のそれは「なづな」と名付けられていると
いう。
 青年政治連盟(青政連)の綱領は、中道主義、絶対平和主義、政界の不正腐敗の追
及等を掲げ、その四は、「本連盟は、勤労青年の生活向上のため団結をはかり、その
社会的地位向上と、健全なる育成のため広範な文化活動を行なう」となっている(清
水、前掲論文、傍点溝口)。
 これらの綱領中の「文化活動」はもはや創価学会の特殊用法である含みを薄め、ほ
とんど一般的な使用法と同じである。すでに四十一年二月、創価学会は既成、新興教
団の連合体である宗教センター加盟の勧誘を受け入れるまでに(宗教センター内部の
反対で結局、加盟は実現しなかったが)、「邪教」排撃の基本姿勢を弛緩、後退させてい
た。それにともない、広宣流布を目指す折伏と同義の「文化活動」も、活動家池田に
より、その目的の比重を革新から占有に微妙に移されていた。
「活動家は自滅的な紛争と、無謀な狂信者から運動を救う。しかし彼の出現は、運動
の動的段階の終了を示すのがふつうである。現在との戦闘は終わりを告げる。真の活
動家は、世界を革新することにではなく占有することに没頭する。動的段階の生命を
与えていたのが抗議であり徹底的な変化への要求であったのにたいして、最終的段階
は、獲得した権力を管理し永続させることにほとんど専心する」(ホッファー)
 池田は一身に、ここにいう狂信者と活動家をかねていたが、このころからの彼の主
要な役割は活動家にある。池田により創価学会は、個人的存在の苦悶や負担からの逃
避の場所であることをやめ、公明党を頂点とする文化的な諸活動を通して、野心家が
自己の能力を実現するための手段になり、創価学会=公明党はますます一つの企業に
変質した。
 この年四十三年二月には、「日蓮正宗創価学会の時間」、三月からは「公明党アワ
ー」の放送が開始されている。また八月には高等部の『鳳雛ジャ—ナル』、九月に婦
人部の『芙蓉ジャーナル』、十月に壮年部の『新社会』といった創価学会各部の機関
紙誌が、それぞれ創刊された。
 さらにこの年、公明党の政策ブレーン的機関として、安全保障研究会と福祉経済懇
話会が設置されている。
 安全保障研究会には矢野絢也、黒柳明、多田省吾、正木良明、渡部一郎、大久保直
彦らの公明党国会議員のほか、上智大教授・蠟山道雄、同・武者小路公秀、都立大教
授・岡部達味らの学者が参加している。
 福祉経済懇話会には、正木良明、小平芳平らの公明党国会議員、東京女子大教授,
伊藤善市、同助教授,島野卓弥、清水幾太郎らが参加し、公明党の一枚看板というべ
き福祉経済を学習している。
 四十四年一月、民主アーチスト協会が芸術家と芸能人によって結成され、代表理事
に阿部憲ー、理事に秋谷栄之助らの創価学会=公明党幹部のほか、伊藤雄之助、二本
柳、川村深雪、和井内恭子といった芸能人が就いて発足した。協会員には原田信
夫、守屋浩、本間千代子らがいる。なお昭和五十六年現在、創価学会が好んで表面に
立てる会員芸能人には、山本リンダ、朝比奈マリア、研ナオコ、朱里エイコ、泉ピン
子、岸本加世子、大野えり、桂木文らがいる。
 民主アーチスト協会のほか、四十四年に結成された創価学会"公明党の外郭団体
は、第三文明協会、大学立法反対全国連絡協議会(全協)、日中国交回復推進会議準
備会、近代学生文芸協会、原水爆反対全国高校連盟、日本科学アカデミー、新学生同
盟(新学同)、日本青年文化会議(同名の団体が他にあったため、四十五年二月、世界青
年文化同盟と改称)、日本青年平和連盟、日本女子平和連盟、公明党支援協議会、新学
生フォーク連盟、日本民謡文化連盟、東洋思想研究所、新社会研究所など十七団体に
のぼった(清水、前掲論文)。
これらの団体の過半はさしたる活動をせず、ただ選挙時に公明党候補を推薦し、そ
の候補が創価学会=公明党以外の諸団体からも支持、期待されているかのような外見
を整えることに用いられ、また他党を誹謗、中傷するビラやパンフレットの発行元と
して名を貸した。
 不活発という点では、世の注目を集めた新学同も同様である。
 新学同は、昭和四十四年五月、池田が学生運動に第三の道を、と提唱した五ヵ月後
の十月、東京代々木公園に、創価学会学生部の公称二十八万人を母体に全国三百三十
八大学からゲバ棒とヘルメット姿の七万五千人(青年部の動員で多数の非学生も含まれ
ていた)を集め、結成大会を開いた。反戦、平和、公害闘争をスローガンに、十一
月、一万人の都心デモをした(浅野、前掲書)が、その後は、同盟員公称十二万人を
組織し、五十一年まで機関紙『新学同」を刊行するのみで、目立った具体的な行動を
しなかった。
 また新社会研究所は、創価学会の総務や理事である後藤隆ー、山本雅治、土星実ら
を役員に、資本金百万円の株式会社組織で、この年四月に設立されている。研究所の
目的は情報収集と興信業務だが、四十六年五月に「新社会情報パック』を創刊し、そ
れには、「〈あなたの情報買います〉どんな情報でも結構です」と記されていたという
(清水、前掲論文)。同誌は四十七年十月、十七号で休刊し、新社会研究所自体も同年
十二月、解散して第三文明社に吸収されている。
四十五年七月には、公明党を組織と資金の両面から支援する目的の財団法人日本政
治経済連盟が設立された。四十五年下半期の同連盟の収入は九百六十八万円、支出は
三千百四十三万円である。「この組織は蛭田正ひとりで切り回しているような団体で
ある。ちなみに、蛭田なる人物の給料は月額五〇万円、他の職員は三〜五万円であ
る。なお、この姪田なる人物は職員録、紳士録……には記載されて」いず、同連盟の
実態も不明確だという(藤原、前掲書)。
 また創価学会=公明党の文化活動の別のあり方として、お買い上げ出版と、出版妨
害をあげねばならないだろう。
 創価学会=公明党は、それ自体が巨大なマスコミ産業の一面を持っていたばかり
か、その周囲には大小の出版社、多数の発行主体を擁し、その出版点数、部数ともに
莫大であり、またそれに見合うだけのきわめて多数で安定した購読者層を持ち、日本
の活字ジャーナリズム界に隠然たる大勢力を有していた。またその財閥級以上に膨大
な遊休の資金によって銀行資本と密着し、思うがままに影響力を行使できたから、ほ
とんどすべてが小資本で、経営不安定の出版社や、金銭に乏しく、つねに注文減や職
場の圧力を恐れ、闘う資力のない記者や文筆業者を脅し、出版を取り止めさせること
はまったく造作のないことであった。
 またそれとは逆に、反骨より迎合に走りやすく、真実より実利に傾きがちの新聞
社、出版社、雑誌社、編集者をして、池田、創価学会、公明党に関する書籍や企画記
事を出させ、時に自ら買い上げてやることも、同様に易しいことであった。

◆池田大作と富士短期大学
 池田は会長就任以来、無私の態度をもって創価学会=公明党の経営にあたってき
た。それらは彼の持ちものであり、彼の内部でその公務と私欲は分かちがたく結ばれ
ていたから、彼はそこから特別、彼自身の利益を引き出す必要を認めずに、その経営
に精励することができた。また彼は創価学会会長と、公明党の事実上の党首の地位
を、苦労の末に手に入れ、苦心しいしい維持してきたから、それらの役回りを演じ
て、決して飽きることを知らなかった。
創価学会=公明党は、池田の指令を長年の間、遵守、実効化した結果、池田の人間
性を忠実にうつす拡大鏡となった。
 四十二年、池田はさきに中退していた大世学院の後身である富士短期大学を三十九
歳で卒業した。この晩学は、彼の衰えることのない勉学心からというより、学歴面で
の劣等感に深く根ざすものであった。池田は、会幹部間でも彼の東洋商業卒は目立っ
て見劣りがすると考え、多くが大学卒の新人の登場とともに、ますますその思いを深
くしていたのだろう。
 彼には創価学会会長だから学歴は何でもよいという自立的な自信はなく、ひたすら
外部に、ある種の権威を求め、自分の履歴をふくらませる姿勢だけがあった。その意
味では池田も、たしかに外部志向の「庶民的」人間にちがいなかった。
 卒業二年前の四十年、池田は富士短大に復学を申し込み、同校二年に編入を希望し
た。が、池田の在籍した大世学院は各種学校であったため、池田の希望は容れられ
ず、四十~四十二年在学の形となった。ただ、大世学院時代の出席日数(全講義日数
の三分の二以上)が考慮され、入学はしても受講は免除された。また卒業試験も、卒
業に必要な課目のレポート提出でかえられた。すなわち、各教官が独自に課題を出
し、数ヵ月の期間をおいてレポートをまとめさせ、彼に卒業の資格を与えた。
 この池田の卒業は、『日本の潮流』(央忠邦)では、次のように伝えられている(傍
点溝口)。
「『ついせんだって、卒業論文を書かされたんですよ』と、最近ある時、池田氏はテ
レながら私に話したな〝秘密〟がある。
 富士短大の先生から請われて書いたのだそうだが、その論文は三月末、教授会をパ
スしている。どんなテーマだか、興味深いので、私は無理に問題を見せて欲しいと頼
んだ。……
 日本における産業資本の確立と、その特質について論ぜよ
 第二次世界大戦の終了後から、朝鮮動乱の終了の間におけるわが国の産業動向につ
いて述べよ
 自由民権思想の諸内容
 あすの産業経営について(以下略)
『この年をして百十枚も書いたんです』」
 卒業論文に何本も、また命令文の標題もあり得ようはずがないが、それでも卒業に
必要な短いロンブンにかわりなく、また提出を命ぜられたことも、池田の身分にふさ
わしくいえば「請われて」になるわけである(断っておくが、ここでは央の書きようを
とやかくいつているのではない。彼の著書は数ある池田=創価学会礼讃書の中では
もっとも良質であり、央は池田の言葉をそのまま記したにすぎまい。池田は非常に
奇態な語法の愛好者で、たとえば『若き日の日記から』(昭和二十九年四月十四日の
条)では、「朝、客と闘う。小生悪し。小さな事で、いい気になる自分を反省する」
と記している。「闘う」というのは何のことはない、ケン力、それもおそらくは口ゲン
カであり、ケンカという語の使用はのちの会長としての池田の沽券にかかわるが如く
である)。
 池田は早速、さして変わりばえのしそうもない富士短大卒を彼の著書の奥付
に書き入れたが、『政治と宗教』(潮新書版)のそれには、「一九二八年(昭和三年)
東京に生まれる。富士短期大学卒業。創価学会第三代会長。聖教新聞社社主。
公明党創設者」とあるように、卒業年次を書き入れず、また第三代会長の前に
記して、会長就任前に卒業していたかのような印象を与えた。
彼の短大卒はいじらしく、大いに同情の余地はあるが、それでも肩書だけをほしが
るところは成り上がりの系図買いの卑しさと酷似することも事実である。
 池田の勤勉や向上心は、つねに彼自身と創価学会=公明党のミテクレへの留意、知
的デコレーションに情熱と目標を持った。それは明治新政府の欧化熱、近代化政策、
富国強兵策等の矮小化されたカリカチュアだった。彼らの百年遅れの言動は、「昭和
元禄」といわれる一部文化の爛熟と頹廃のまっただ中で行われたから、局外者に怖れ
の混入した違和感と滑稽感を与えたのもやむないことであった。

◆理念なき教育と創価大学
 池田は自らの学歴を高卒から脱却させたと同じ発想をもって、創価学会に知的外見
を付与した。その具体化は前述の文化活動であり、より直接的には学校の設置だっ
た。池田の知的渇望は粉飾にとどまって迷路に踏み迷わなかったため、高踏化をまぬ
がれ、多数の庶民に支えられる同会の現実を否定せず、その夢の幻想的な実現という
一面を持った。
 昭和四十三(一九六八)年四月、創価学会は東京・小平市に創価学園(当初は中学、
高校、男子のみ)を開校した。
 同学園が「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」(傍点筆者)の二方針を掲げ
ることからもうかがえるように、そこには受験地獄等、現代教育のはらむ問題性への
批判はなく、逆に現状を無批判に肯定して、その中で勝ち抜こうとし、結果的には現
状を加重する教育しかなかった。
「四十四年の受験生は中学一年に合格が決まったとたん、間もなく入学式にもってい
く宿題がどつさり届く。内容は、夏目漱石の『坊っちゃん』ほか二篇、芥川竜之介の
『トロッコ』ほか二編を読み、それぞれ四百字三枚の感想文、小説の創作同じく三枚、
わが郷土の作文同じく三枚、ほかに算数のプリント、絵を一枚書くこと、入学式で新
入生に渡された国語、数学、社会などの教科書は一年と二年のもの。これを一年間に
やろうというわけだ。入学式の翌日は早速試験。一年間に五回の中間テストを行な
う」(小林正巳『池田大作』)
 池田の理想の人間は、ほかならぬ池田自身だったから、少年時を懐旧して作文の呆
けた重視と、あとはガリ勉への追い込みとなった。同学園生(高校)の二分の一は理
科系志望とのことであるから、大いに作文に迷惑した者もいるにちがいない。
池田は「私の終生の仕事は教育です。牧ロ初代会長も戸田前会長も教育者だった。
私の仕事の総仕上げもやはりそこへきた。教育こそ一国、ひいては人類の命運を決す
る大事業です」と語り(同前)、たいそう教育に意欲的だが、彼には教育界につけ加えるべき、小理屈でない理念は皆無だった。
「高等部員はできるだけ大学へ進学すべきです。……男子高等部員はいまからこの決意
でいきなさい。……なお、女子の高等部員の方は必ずしも全員大学にいく必要はありま
せん」(『池田会長全集』三)
 池田の女性観は徹頭徹尾「女大学」で、彼が女性に要求する知性の程度は、まず家計
簿をつけられれば可とするもの(「計画性のある主婦は、まず、家計簿をつける主婦か
らはじまる」=池田『家庭革命』)であった。
これは、そこへいくと男はやはり大学を出ていないと、なにかと損で、といった按配
の、世にありふれた世智による教育論にほかならない。
 池田は教育の本質を問おうとする理想を持たずに、徒に損得を思量した。だからこ
そ彼自身、恥をしのんで短大を出た道理である。個々の資質と志望を度外視して、や
みくもに大学に行けという殺伐とした利己主義の勧めは、池田と創価学会の体質の反
映であろう。
 創価学園は四十七年十二月、大阪・交野市に創価女子高校、女子中学校を、五十年
十二月には札幌・豊平に札幌創価幼稚園、五十二年十二月に東京創価小学校をそれぞ
れ開設している。同学園の理事長は副会長の青木亨である。
 四十六年四月に開校した創価大学(理事長.唐沢照明、学長・高松和男)にも池田の
体質は反映している。
 同校は東京・八王子市郊外の三十七万平方メートルという広大な敷地に、資金六十
億円(内訳は池田の印税寄付七億円、創価学会本部四十一億円、十五万五千人から寄せられ
た十二億円といったところらしい)をかけて、まず法学部、経済学部、文学部で発足し
た。ゆくゆくは二百億円ほどをかけ、文科系四学部、理科系六学部、学生数六千人の
総合大学にする予定とのことだったが、昭和五十六年現在までのところ、五十一年二
月に経営学部、教育学部、また五十年大学院が設置されたにすぎない。ふえたのは学
生数だけで五千二百余名である。
また創価大学の受験料は五十六年度一万八千円、入学時納付金は三十万三千百五十
円(入学金八万三千円、授業料十四万二千円、施設費七万一千円など)、入寮者の入寮費
は二万五千円、寮費は年額五万円である。
 これは他の私大に比べてやや安い程度で、いずれは事業としてなりたつていく金額
ではないのか。池田が仰々しく、「教育こそ、人類の命運を決する大事業である」と
いったところで、決して彼がすべてをまかなえるわけではなかった。ただ教育が、偉
大な池田の晩年を飾るにふさわしい事業に思えただけである。
 池田は開学にあたって、「人間教育の最高学府たれ、新しい大文化建設の揺籃たれ、
人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」の三つのモットーを示した。
人間教育、文化建設、平和というわけだが、ここに人間教育とは、「時代の要請に
応えられる人材を輩出するために、人間主義、人間性尊重に基本理念をおく」(聖教
新聞社『創価学会』)とあるように、せいぜい「期待される人間像」づくりといったと
ころだった。創価学会の人間教育とは、朦朧語を取り払えば人間革命に先刻見られる
ように、現状べッタリのモーレツ人間づくりの謂である。
 文化建設とは、「従来の学問体系の行き詰まりを打開して、新しい学問体系を樹立
することを長期目標としてめざす」(同前)ものだという。結構だが、池田自身は同
校で「純粋の文学論、たとえば万葉集」(『朝日新聞』昭和四十六年三月十六日)を講義
したいと語っている。池田は学的批判にたえるほどに万葉集を研究し、かつそれは新
しい学問体系の樹立と関連するのだろうか。なにしろ池田は、「一日二十分の読書が、
一年つづけばどれほどの学者となり、教養となることであろう」(池田『私はこうして
若い日を過ごした』)という意見の持ち主だから、素人考えでも大いに心配であり、ま
ず彼の影響下にあるかぎり、創価大学による新学問体系の樹立とやらは「画にかい
た、パンに等しい」(餅ではない、池田「人間革命」一での表現)であろう。
 またモットーの一つである平和については『創価学会』に説明がないように、多分
に池田の知的アクセサリI言語である。池田はよく平和を口にするが、それは前述し
たように伝統にも基づかず、教義としても内在化されていず、その具体行動といって
は、大学の定礎式で世界百三十五ヵ国の石を投げ込むといつた呪術的なものにすぎ
ず、抵抗度の軟弱なものである。創価学会は青年部を中心に四十八年以降、反戦出版
や反戦集会を行っているが、反面、相も変わらず、自衛隊認知に傾く公明党を支持し
ている。二つの行動に矛盾は存在しないかの如くであり、彼らの「反戦平和」は実効
性を問わない存在証明にすぎない。
 なお、創価大学の当初の構想では、文学部のなかに仏教学科が設けられるといわれ
ていたが、昭和五十六年現在、文学部には社会学科と英文学科しかなく、一般教養課
目のなかにも宗教学の講座はない。佐伯真光はその理由を、高給をもってしても有能
な仏教学者を集められなかったこと、創価学会の信者で、しかも一流の仏教学者は現
存しないこと、仏教学の基礎である批判的文献学を遂行すると早晚、信仰と学問の相
克をもたらすことに気づいたこと、の三つに求めている(『諸君』昭和四十六年十月号)。

◆海外進出の実態
 創価学会は、約二十五万人の海外会員を擁し、各海外支部では、アメリカの『ワー
ルド・トリビューン』、フランスの『トロワジェム・シビリザシオン』、ブラジルの
『ブラジル・セイキョウ』、香港の『黎明聖報』、ペルーの『ペルー・セイキョウ』、
フイリピンの『パガサ』、パナマの『プエンテ・デ・パス』等、現地語による機関紙を
刊行しているという。
 これら海外布教の内容や規模はどうとでも評価できる性質のものだろうが、ただ創
価学会は四十一年以来、海外では日蓮正宗を名のり、布教法も折伏ではなく摂受を用
い、国内におけるような熱狂的な拡張策はとらなかった。また海外支部の多くは当
初、戦後国際結婚して海外に渡った日本女性の安息の場、妻に同行して座談会へ行
き、夫婦の危機を乗りきろうとする夫たちのサロンとして機能していた。
 これらの点から海外布教は、世界広布への一過程というより、むしろ海外移住者へ
のアァフターケア、国内向けの宣伝という色彩が強いと見られる。少し古い資料だが、
『週間新潮』(昭和四十一年八月二十七日号)によれば、創価学会ニュヨーク会館は個
人アパート二室にすぎず、また第三回全米総会を見たかぎり、会員の半数以上は米
人、という幹部の前口上とは様子がちがって、日本人以外の顔をしたものは一割程度
にすぎなかったという。
 さらに会員の多くは恵まれた環境になく、「長年外国で苦労し続け、そうかといっ
て堕落することもできないという、海外マジメ日本人集団とでもいうべき人々」であ
り、米人の信者にしろ、「日本人妻を持つ男とか、なんらかの形でアメリカ社会から
疎外された余計者の意識を持つ人が多いようだ」と報告していた。
 外国人、ことに欧米人の会員の存在は、近代化=西洋化という把握が日本では一般
的だから、創価学会の会内外へのイメージ・アップ戦術としてはなによりであった。
『聖教新聞』には過度に海外支部活動が報道され、同社発行の『創価学会』のカラー
頁の多くは、外国人の写真で占められている。また彼らの映像と報道は、現実的な基
盤を欠くコスモポリタニズム、世界平和の視覚化とィメージづくりにもっとも有効で
あった。
 池田は会長就任後、毎年一、二度外国へ出かけたが、それは宣伝素材となり得るほ
どの海外支部へのテコ入れの必要と、彼自身の教養主義や好みに由来しょう。海外布
教の基本は自然発生的なものだったとはいえ、一面では池田の体質の反映といって過
言ではあるまい。
───────(~306頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る―  ―源濁れば流れ清からず―

◆池田創価学会は、日蓮利用の脱税・詐欺・横領・背任等の反社会団体である。暴力も多い。

◆矢野よ、一人立て!!‥「池田大作と暴力団」(仮称)を早く出版せよ!!
 ベストセラー間違いなし……以下、(夢)日本再生への工程表……
 1.池田の国会証人喚問要請(自民も賛成多数)…池田出頭せず・できず…
 2.法人設立無効・池田創価学会解散決議
 3.池田創価学会(池田等大幹部の個人含)資産放出と消費税?年凍結
   池田専用の温泉、ラブホテルの設備・飾り物は勿論、イギリス・フランスのお城に、
   アフリカ某独裁国家への隠し資産も。資産調査委員会設置……数十兆!?
   博士号・勲章・顕彰その他の貢ぎ物競売……サイトで社会現象となり世界に発信……
 4.宗教法人法の改正、特に租税・公租公課。(欧米を勉強)
   同時に、(政治資金規正法?)企業・団体献金は一切の禁止。
 大阪のおばちゃん大喜び…信濃の美女軍団に……やっと勝った!!……道頓堀へダイブ!?
 大阪の…市役所前に銅像建つ…銘板は「日本一の宗教詐欺・池田創価を討った男・矢野」

◆お勧めサイト…対話求めて……
 自己嫌悪、懺悔滅罪の人……多いですねぇ……切ないですねぇ……
 街角の──〝いままでも…これからも〟
 〝いままでも〟…は「ウソツキ・詐欺男、このやろう!!、時間と金と、家族と友人と心を返せ!!」
 〝これからも〟…は「針金で結わいて、頭ゴッツン…、地獄へ行け!!」
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池田大作「権力者」の構造-18

2014-06-26 08:14:59 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=18>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
────(以下、引用)──────◇─────(272頁から)──◇─────
◆文化活動の強化
 池田の会長就任時、創価学会の定期刊行物としては、『大白蓮華』『聖教新聞』『聖
教グラフ』の三紙誌を数えるのみであった。
 これらはいずれも会員を対象にしたもので、創価学会独自の販売店を通して会員に
売り捌かれた。一般の定期紙誌とは異なり、営業面での危険性は少なく、利潤はきわ
めて大きく、また安定していたが、購読者数の増加を会員増だけに仰ぐという閉鎖的
な、内部結束用の刊行物であった。
 一応、これらの概況を述べておこう。
『大白蓮華』は月刊誌で、昭和二十四年七月に創刊された。聖教新聞社の発行で、教
学部研究室長・原島嵩が五十四年八月に除名された後、同年八月号から編集兼発行人
は桐村泰次。内容は同会の教義理論誌といったところで、五十五年一月現在の公称発
行部数は二百四十四万部であり、その部数は実質的な創価学会員数をつかむ有力な目
安の一つである。
『聖教新聞』は同会の日刊機開紙で、二十六年四月に創刊された。はじめ旬刊で発足
したが、二十八年九月に週刊、四十年七月に現在の日刊紙に移った。発行元は聖教新
聞社。五十五年時の公称発行部数は四百五十四万部で、広告料も三大紙並みという。
昭和五十六年現在、聖教新聞社の代表は秋谷栄之助、出版代表・山崎良輔、編集代
表・松岡資、営業代表・横松昭である。従業員は千三百人だが、一時期、創価学会の
外郭団体である「二十一世紀研究会」「近代マスコミ同志会」「現代マスコミ研究会」
「近代思想研究会」「東洋思想研究会」等が取材陣をカバーしたという(浅野秀満『あ
すの創価学会』)。
『聖教グラフ』も同社の刊行物で、池田の創価学会総務時代、三十四年一月に創刊さ
れた。当初の年刊から、その後季刊、月刊と変わり、三十七年三月に現在の週刊とな
った。聖教新聞の写真版といった内容で、五十五年時の公称部数は百九万部、編集長
は乙成宣昌である。
 なお聖教新聞社は池田の『立正安国論講義』などの講義ものや『人間革命』既刊十
巻、創価学会教学部編『創価学会入門』など、会員に教科書、参考書として読まれる
単行本、四十六年からは聖教文庫などをも刊行している。
 以上の三紙誌がすべて会内コミュニケーション用だったのに対し、池田による文化
面への進出は、会外部に向けての宣伝に重きが置かれ、その統括には三十六年五月に
設立された、前述の文化局があたった。
 文化活動という語は暖昧だが、創価学会においては、「広宣流布は文化活動である」
(『聖教新聞』昭和三十六年五月十三日)と、広汎に定義され、具体的には政治、経済、
教育、言論、学芸等に関する、同会のセクションと、公明党を筆頭とする外郭団体の
活動、それらにともなう出版活動を意味した。
 清水雅人は、創価学会が「広宣流布は文化活動である」という以上、文化局の活動
は、さまざまの名称で呼ばれたところで、結局、間接的な折伏、間接布教にほかなら
よかったと指摘している(清水「創価学会文化局」、『中央公論』昭和四十六年七月
特別号)。
 池田の文化面への進出には、かって選挙運動を文化運動と称したと同じ思想がより
巧妙な形で貫かれていたわけであり、その目的とするところは、潤沢な資金を新事業
に振り向けてさらに増収をはかるという営業的な側面、現代風な組織や刊行物によ
る、創価学会の知的デコレーシヨン─イメージ・アップ策、間接侵略風の思想工作、
の三つがあつたとみられる。
 池田の最初の文化面へのスタートは昭和三十五年六月創刊の『潮』できられた。同
誌は当初、青年部の機関誌で、市販されなかったが、三十八年四月から、現在の創価
学会臭をほとんど感じさせない月刊総合雑誌へと編集方針を転換した。
『潮』は創価学会の「一般への窓」(央忠邦)の最たるもので、上条末夫はその機能
を、「第一は、文化人の〝撫徇工作〟であり、第二には一般人の〝懐柔工作〟である」
(上条「創価学会の〝文化人工作〟」、『改革者』昭和四十五年三月号)と評している。
執筆場所の提供や高額な謝礼によって、大学教授や文化人に関係をつけ、また心理的な
負い目を負わせて彼らを自陣、もしくは中立に立たせ、さらに購読者に対しては、著名
な文化人の執筆論文で釣り、創価学会アレルギーを解消するという戦術である。
 昭和五十六年現在の発行部数は三十二万部といわれ、発行は潮出版社(四十二年十
二月設立、資本金千六百万円、従業員八十六人)が行っている。同社は一時期、『週刊言
論』(公称五十万部)、季刊雑誌『日本の将来」を発行していたが、『週刊言論』『日本
の将来』とも四十七年十一月で休刊している。潮新書、潮文庫などを持ち、四十四年
には二億百六十九万円の利益(税務申告)をあげている。
 代表取締役は旧華族の島津炬人、取締役に創価学会総務の池田克也(編集局長兼
任)、八矢洋一、他に公明党国会議員の黒柳明、渡部通子も取締役だったが、言論抑
圧問題の最中、四十五年三月十一日に、同年一月五日付の辞任の登記をしているとい
う(「黒い〝鶴〟のタブー」25、『赤旗』昭和四十五年四月八日)。
 昭和五十六年現在の社長は富岡勇吉、編集代表志村栄ーであり、「ヤングミセスの
生活全般にわたる実用実利を追求する」と銘打つ『婦人と暮し』(月刊、四十八年四月
創刊、公称五十二万部、編集長・鈴木征四郎)、少年漫画誌『少年ワールド』(月刊、
五十三年七月創刊、公称三十万部、編集長・門脇良充)、『別冊少年ワールド』など
も刊行するようになった。
 また同社の設立目的には、雑誌、書籍、レコードの出版、販売のほかに保険代理
業、不動産の売買,忡介、賃貸し、植木の栽培、通信教育、講演会の開催等が掲げら
れている。保険代理業や不動産業は戸田以来の創価学会系企業の伝統である。
『潮』以外にも三十五年には創価学会学生部の機関誌『第三文明』が創刊されてい
る。同誌は創価学会教義の応用誌といった性格を持ち、のちに第三文明社の刊行にな
る。同社は以前、公明協会の所有するマンションに事務所を構えていた創価学会系の
出版社である。創立は昭和四十四年七月、資本金千八百万円で従業員三十名。社長は
栗生一郎、編集代表?・狩野良平という構成であり、月刊誌の『第三文明』(公称十八
万三千部、編集長・佐々木利明)のほか、月刊の教育研究雑誌『灯台』(三十七年創刊、
公称二十六万五千部)、レグルス文庫などを刊行している。なお同社は、今では山崎師
団の現場指揮官・広野輝雄、北林芳典などが一時期、在籍したことで知られている。
 また学生部は三十八年十月に『学園ジャーナル』を発刊し、さらに週刊機関紙『大
学新報』公称十五万部を大学新報刊行会から発行している。
 三十六年は文化局とその下部機構の設置に費やされ、翌三十七年に創価学会は具体
的な文化活動に入った。この年は文化面での全面進出への転換点ともいうべき多彩さ
で、おもな事項を拾っただけでも、次べージのように活発である。
一月二十七日 東洋学術研究所設置
四月二日 『公明新聞』発行
バ月四日 富士吹奏楽団結成
八月二十一日 広報局に映画部設置
九月十三曰 『公明』発刊
九月十八日 教育部機関誌「灯台』発刊
十一月一日 言論部『言論』発刊

◆知的アクセサリーとしての文化機関
 一月に設立された東洋学術研究所は昭和四十年十二月に財団法人東洋哲学研究所と
改組され、『東洋学術研究』(年二回刊)という雑誌を出している。一時期、代表理事
は篠原誠、理事は多田省吾、原島嵩らであったが、昭和五十六年現在の理事長兼出版
代表は後藤隆一、編集代表・穂坂幹夫である。一億七千六百万円の資産を持つ。
同研究所は創価学会系「研究所」のはしりで、その後、創価学会は現代宗教研究
所、現代仏教研究所、新社会科学研究所、現代思想研究所、東洋思想研究所など、多
数の機関を設置している。それらは創価学会理論の構築、豊富化を意図するものだっ
たが、見るべき成果をあげられなくとも、いかめしい名称を付された存在それ自体
が、創価学会の知的アクセサリーになるという仕掛けを持っていた。
 また、その一つである現代政治研究所は、公明協会(後出)所有の元赤坂のマンシ
ョンに事務所を置き、月刊誌『現代政治」を刊行していた(昭和四十五年六月、二十八
号で廃刊)。同誌は『公明』と『潮』の中間をいく創価学会の政治理論誌で四十三年
三月に創刊、会員外には無料で配布され、公明党が資料研究費名目で年間(四十三年
三月─四十四年三月)一千百万円を同研究所に支出していたという(「黒い〝鶴〟のタブー」。
 同誌の執筆者の多くは一般新聞の論説委員、政治部記者、学者だった。
「この『現代政治』の執筆者を見て感じられることは、八割までが各新聞社の論説委
員クラスの人たちであるということである。このことは、これまで新聞が極力創価学
会・公明党についてふれることを避け、批判らしい批判をしなかった事実を考え合わ
せると、そこに『なにか』を感ぜずにはいられない」(上条、前掲論文)
 九月に創刊された『公明』は公明党機関紙局から発行されている月刊政治理論誌
で、編集長は市川雄一、昭和五十六年現在、七万部を刊行している。公明党からは
『公明新聞』(日刊、三十七年四月創刊、公称八十五万部、代表・市川雄一)、
『公明新聞・日曜版』(四十四年十月創刊、公称百四十万部)、『公明』のほか、党内
部向けの『公明月報』、『公明グラフ』(三十五万部)、『公明写真ニュース』等が刊
行されている。
『灯台』は一般主婦と教師を読者対象とした月刊雑誌で、はじめの発行元は灯台刊行
会、昭和五十六年現在、前述のように第三文明社から刊行されている。
『言論』は当初言論部の月刊機関誌で、三十九年末、公明党の発足とともに、同党へ
の支援を目的に自由言論社から句刊誌に衣替えし、四十年なかばに、週刊にかわって
『週刊言論』となった。池田の「若き日の日記から」を連載し、その後発行元が潮出
版社に移り、前述のように四十七年に四百二十一号で休刊した。
 またこの年三十七年三月には鳳書院が資本金百万円で設立されている。同社は秋谷
城永『創価学会の理念と実践』、小平芳平『創価学会』を出版し、その歴代の役員に
は北条浩、秋谷栄之助(城永)、多田省吾、青木享、小島重正などの創価学会大幹部
がついていたが、昭和五十六年現在、休眠状態とみられる。
昭和五十六年現在の資本金は一億八千万円、事業目的には書籍、雑誌の出版販売の
他、喫茶店経営、玩具,古物の仕入れ販売が掲げられ、また一時期不動産売買も手が
けていたという。
池田はこうした多面的な出版活動について、「共産主義者は、ソビエトで、何より
も先に印刷工場をつくった、と聞いています。そうすることが革命への方程式だとも
聞いています。広宣流布という大事業をやろうとした場合、われわれも当然出版に力
を入れなければならない。それを実行しているだけです」といっており(央忠邦『日
本の潮流』)、喩えが大きすぎるきらいはあるにしても、心情的にはそのようなものだ
ろう。が、出版社経営を含む出版活動には、別に、大幹部の収入の途を講ずるといっ
た面があつたのではないか。現に池田自身の基本収入は印税のほか、聖教新聞社主と
しての手当である。読書人口とはいえない階層も信心の付加によつて組織されると、
たちどころに良質の購買者となり、創価学会とその大幹部たちの経済を悠揚迫らざる
ものにしていた。

◆折伏のための下工作機関としての民音
 三十八年五月には、アジア文化研究所が設置された。同研究所は東京の東洋学術研
究所に対するものとして京都に置かれ、翌三十九年五月に季刊雑誌『アジア文化』を
創刊している。同誌はのちに東洋哲学研究所のアジア文化編集部から出されたが、五
十一年三月、十二巻四号で休刊している。
 三十八年九月には民音(民主音楽協会)が労音に対抗して設立され、本部を新宿区
信濃町の聖教新聞社内に置いた。民音は一般国民の創価学会支持の獲得を狙って設け
られ、組織論的には折伏のための「下種」づくり(下工作)機関と位置づけられよう。
『聖教新聞』(昭和四十一年七月二日)は「民音に参加しょう」という社説を掲げ、そ
の面でのいきとどいた注意を会員に与えている。
「……学会員でない人々を、民音に参加するよう勧めることも、また明るい健康な文
化社会の建設に努力する学会に対する理解を深めていくひとつの要因になる。……た
だ注意しなくてはならないのは、(民音の)演奏会終了後、帰り道などで性急に折伏
を行なうことである。……折伏をするなら、また別の機会に、あらためて行なうの
が、ふつうの場合は正しい行き方であろう」(清水、前掲論文から引用)
 民音は四十年一月、財団法人に認可され、専務理事・秋谷栄之助の下で活動領域を
拡大した。同年五月には民音アワーの放送を開始し、十月には会員七十八万人と発表
し、四十三年十月には民音プロダクションを創設している。また民音の類似機関とし
て三十九年六月に、民演(民主演劇協会)が設立されている。昭和五十六年現在、民
音の代表理事は姉小路公経、専任理事は吉田要、理事に宮川听也らがおり、年会費二
百円を納めている賛助会員百四十五万名、職員百九十名という。月刊で『みんおん』
を刊行している。民音の入場券押しつけは名高く、一方的に各ブロックごとに券を送
りつける時期もあった。
 三十九年二月には、アジア民族協会が発足した。アジア問題、ことに文化交流を目
的とする機関で、四十五年五月から季刊の機関誌『民族文化』を編集、日蓮正宗国際
センター(理事は和泉覚、滝本安規)から刊行していたが、五十三年冬十四巻三号で廃
刊となった。なお昭和五十六年現在、日蓮正宗国際センターからは海外会員向けの英
字機関誌『SEIKYO TIMES』(月刊、昭和三十七年三月創刊、公称五万部、
編集長?・松田友宏)が刊行されている。アジア民族協会の一時期の理事は中尾辰義、
鈴木一弘、渡部城克、黒柳明、山崎尚見の五名であり、創価学会の政治進出の進涉に
対応するアジア政策面での下部機構であった。
 またこの三十九年には、東西哲学書院が資本金百万円で設立されている。同社の役
員は篠原善太郎、中西治雄、星生務ら創価学会幹部がつとめ、その事業目的には、潮
出版社と同様、軽食、喫茶、保険代理業、文房具、化粧品、タバコの販売、美術品即
売会、貸画廊までをも掲げている。『牧ロ常三郎全集』などを出版し、五十四年には
四億七千五百万円の利益をあげたという。
 社長は創立以来、池田『人間革命』のゴースト・ライタ—といわれる篠原善太郎
で、昭和五十六年現在の資本金は五千六十二万円、東京・信濃町の本部近くに書店
「博文堂」、レストラン「ハクブン」「ニューハクブン」、青山に寿司「満月」、大阪.
都島に「オーサカ」などを経営している。
 四十年十月、創価学会は政治資金三百万円を出資して財団法人公明協会(四十一年
二月認可)を設立した。同協会は公明党の財産管理部といった役割をにない、その事
務所は公明党と同様、新宿区南元町の公明会館に置かれ、代表は公明党書記長,矢野
絢也、役員には石田幸四郎、吉田顕之助、阿部憲ー、小平芳平ら、創価学会=公明党
の大幹部が連なっていた。
 公明党は創設から四十四年六月までに公明協会の収入の九割強、四億円を出して同
協会に公明党のための土地、建物の取得、車の購入等にあたらせた。公明協会は四十
三年中に車輛運搬費九千八百万円を支出したが、そのうち八千六百万円を千代田区美
土代町の阿部商会一社に集中支出したという(「黒い〝鶴〟のタブー」44)。
阿部商会は資本金四千百七十九万円の株式会社で、自動車タイヤ、チュ—ブ、部分
品、計量器の販売を目的とし、代表取締役は阿部文治、取締役の一人に小宮開造がい
る。小宮は養子にいった池田の実兄である。
 また公明協会は年々財政規模を拡大し、四十五年下半期の収入は三億二千八百九十
七万円、支出は二億三百六十五万円にのぼった。が、四十七年一月、品川区上大崎に
事務所を移し、四十八年千里二ュータウンでの土地問題の証拠湮滅のため解散した。
 四十一年七月には、男子部の機関紙『青年ジャーナル』、女子部の『華陽ジャーナ
ル』がそれぞれ刊行されている。
創価学会文化局は三十九年五月の公明党結党、衆議院進出の決定と同時に、その政
治部を解消していたが、四十二年五月、池田の会長就任七周年目に、新たに理論部を
設置し、さらに衆議院活動のための理論的準備を急いだ。
理論部は第一部から第八部に分かれ、それぞれ創価学会=公明党大幹部の主任が置
かれて次の名称を付された。
①東西哲学研究会
②現代思想会議
③政治刷新懇話会
④中道政治研究会
⑤福祉経済研究会
⑥現代マスコミ研究会
⑦近代マスコミ同志会
⑧パールペンクラブ
 これらは『聖教新聞』『公明新聞』に時に論文を発表しているが、中でも主任,秋
谷栄之助の現代マスコミ研究会がもっとも活動的で、四十四年五月には聖教新聞論説
副主幹,岡安博司との共同編著で『創価学会と公明党』を総合ジャーナル社から刊行
している。総合ジャーナル社は四十一年十一月に創刊された文化部の機関誌『文化創
造』の発行元でもあるが、昭和五十六年現在は休業状態とみられる。
 またこの年十一月に、池田は総評、同盟に対抗する公明党の支持労働団体・民労
(日本民主労働協議会)の創設を提唱した。が、労働界の反撃と、公明党の社会、民社
両党との共闘関係により、いまだ提唱だけに終わっている。
───────(~286頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る―  ―源濁れば流れ清からず―

◆池田創価学会は、日蓮利用の偽・宗教法人で詐欺・脱税・恐喝等の反社会団体である。

◆「マスコミが〝しまった〟と気づいたとき……」が近い。

◆矢野よ、一人立て!!‥〝黒い手帖〟に続き、〝大阪のおばちゃん〟が続くだろう。
 〝毒は毒をもって…ワルはワルをもって制する〟……池田を倒せるワルは矢野だけだ!!…
 池田創価=公明は…「夢のまた夢」…〝虚飾・欺瞞の王〟池田を倒せ!!
 妻子眷属を思うことなかれ…霊山浄土の喜びこそ実の悦びなれと思え!!。
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池田大作「権力者」の構造-17

2014-06-24 07:43:53 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=17>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
────(以下、引用)──────◇─────(255頁から)──◇─────
◆広宣流布の手段としての政治
 池田は安保問題のさなかに会長に就任したが、「安保改定よりも、それよりか、も
っと本質的に大事なことは、邪宗改定である」(『聖教新聞」昭和三十五年六月四日)と
述べて安保への見解の明確化を回避し、その賛否を会員各自の判断にゆだねた。
 創価学会の九名の参議院議員たちも、自民党の単独強行採決に対しては、国会正常
化の名目で反対したものの、基本的には安保を傍観した。わずかに会内左翼といわれ
た石田次男が、池田の就任に先立って二月十日、参院本会議で、極東の範囲、海外派
兵、条約の年限、事前協議等について割合まともな質問をしただけであった。
 池田が戸田以来の政治進出を受け継ぎ、さらに強化、拡大する方向に踏み出したの
は昭和三十六年五月三日の文化局の設置からであった。文化局は池田によって「第三
文明」の実行機関と意味づけられた、政治、経済、教育、言論の四部(のちに学芸部
増設)からなる、本格的な政治進出のための中枢機関であり、局長には参議院議員辻
武寿が任じられた。
 ことにその政治部は、「混乱した日本の政界を浄化するため、学会精神によっては
ぐくまれた優秀な政治部員を養成し、日本の政治に正しい方向を示していくととも
に、本質的な国立戒壇建立という大業の必要性を、政界に理解させようというもので
ある」(『聖教新聞』昭和三十六年五月六日)との記事に明らかなように、国立戒壇の
建立をむくつけに目ざすものであった。
 同年十一月二十七日、池田は創価学会の外郭政治団体として公明政治連盟(公政
連)を発足させ、政党化へのひそかな布石とした。この少し前、池田は、
「創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない。あくま
でも、参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員を送るものである」
(『大白蓮華』昭和三十六年六月)
 と述べて政党化と衆議院進出を否定していたが、その裏では政党化への基本工作を
着々と進めた。三十七年一月七日には教学試験を全国いっせいに行い、教学部員を前
年の三倍近く十一万数千名に激増させて選挙運動員の確保策とした。また四月二日に
は『公明新聞』を創刊し、近代政党への外見を整えた。
 参院選後の七月二十日、池田は参議院の院内交渉団体・公明会を結成させ、公政連
の十五議員を無所属クラブから独立させた。
続く九月十三日、公政連は第一回大会を開催した。この席上、池田は、
「もし十年さき、二十年さき、……大政治団体になり、皆さん方が一流の名士になっ
て、派閥やそれから反目があるようなことが、もし毛すじでもあったならば、即座に
わが政治連盟は大衆の政治団体ではない、そういう資格はないものとして、解散を私
はすべきであるということを、本日第一回の大会において、いい残しておきたいので
あります」(『公明新聞』昭和三十七年九月十六日) と述べた。
 当時、公政連は政界浄化を「基本政策」の一つに掲げていたから、派閥を非難する
当の政治団体に派閥があってはならなかった。が、この池田発言には、さらに、池田
にそむいてはならない、公政連においても創価学会と同様、池田の宗教的権威が貫徹
するという含みが蔵されていた。組織内の派閥や反目は組織の能率と体面を損ない、
また容易にその指導者への批判に転化すると考える池田にとっては、それらは最大の
不正であり、事前にその芽をつまずにはいられなかった。
 公政連は最初から池田に首根っこを押さえられた創価学会の別動隊であった。
昭和三十九年五月三日、第二十七回本部総会が開かれたが、池田はここではじめて
公明党の結成と、衆議院進出の方針を明らかにした。
「公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時
代の要求、民衆の要望にこたえて政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このよう
にしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか(大拍手)。それでは全員
の賛同を得ましたので、これをもつて決定といたします。
 すなわち、創価学会のなかに文化局があります。文化局のなかに政治部が現在まで
ありました。その政治部の使命について私は巻頭言で『われらは政党ではない。すな
わち創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない。あく
までも参議院、地方議会、政党色があってはならない分野に議員を送るものである』
という意味の一項目を書いておきました。
 したがって、本日をもって、創価学会の政治部は発展的解消といたしたいと思うの
であります。なぜならば、この十年間、原島委員長を中心として、わが同志である議
員は戦い、勉強し、一流の大政治家に育ってまいりました。恩師戸田先生も時きたら
ば衆議院へも出よとのご遺訓があつたのであります。
 したがって、政治の分野においては、公政連であくまでも自由奔放に戦ってもらい
たい」(『聖教新聞』昭和三十九年五月五日)
 これは明らかに前の発言に食言するが、池田にとつてはそのようなことは問題では
なかった。なぜなら、彼の大目的は広宣流布=創価王国の建設にあったから、そこに
至る手段はどのようなものであれ、有効でありさえすれば認めることができたのであ
る。それは文字通りの噓も方便であり、社会的な通念からの批判をなに一つ容れな
い、池田の体質と化したマキャベリズムであった。
 十一月十七日、東京・両国の日大講堂で公明党の結成大会が開かれ、委員長に原島
宏治(昭和三十九年十二月死亡)、副委員長に辻武寿、書記長に北条浩が任じられた。
委員長・原島は結党大会の挨拶で、「きょうは、この会場にお見えになっておりませ
んが、池田先生は、この公明党の生みの親であり、育ての親であり、現在、偉大なる
ささえとなってくださっております。そして、われわれの将来をじっと見守ってくだ
さり、擁護してくださり、指導してくださっております」(『公明』昭和三十九年十二月
号)と述べて、公明党が公政連から引き続き、池田の指導下にあることを再確認した。
 昭和四十二年一月二十九日、公明党は総選挙を迎え、二十五の議席を得て、初の衆
議院進出を果たした。選挙直後の一月三十一日、池田は公明党指導部を衆議院中心に
切りかえ、委員長に創価学会総務の竹入義勝、書記長は同副理事長の矢野絢也を指名
した。竹入は就任後のインタビューで、「池田会長から申し渡されたばかりで、正直
いって面くらっています」(『毎日新聞』昭和四十二年二月一日)と答えた。

◆創価学会による日本支配計画
 創価学会の政治進出は国立戒壇の建立を大目標としたほか、副次的に、会内の結
束、折伏のための下工作、会内外に対するデモンストレーション、政治権力を用いた
優遇、利権の獲得──などを目的としていた。池田は昭和四十年から四十七年、総本
山に建つ正本堂が本門戒壇だとして国立戒壇を否定しはじめたが、政治権力を握った
うえでの正本堂の国立戒壇への移行を放棄したわけではなかった。池田は信仰上の永
遠の大目標であるべき広宣流布を現実次元に引き下げ、それへの宗教的なアプローチ
である折伏のほか、政治権力を獲得しょうとする選挙戦を闘うなかで、また公明党が
すでに持つ一定の政治権力を利用して、広宣流布の実現を目指した。いわば宗教的手
法と政治的・社会的手法のミックスであり、両手法の相乗・拡大効果によって、広宣
流布を達成しょうとした。
 広宣流布とは王仏冥合の実現と同義であり、より具体的には、池田内閣、ないし創
価学会による日本支配を意味した。実現のとき、必然的に日蓮正宗は国教化されよう
し、その象徴としての国立戒壇なのであった。
 昭和四十五年の創価学会=公明党による言論抑圧・出版妨害に対する世論の糾弾、
その後の宗門支配を目指した五十二年路線の失敗による宗門問題の激化、五十五年の
教学部長・原島嵩と顧問弁護士・山崎正友の離反と批判活動、創価学会脱会者
による檀徒と、宗門批判の僧による正信会の批判活動──これらを通して池田創価学
会の力は相対的に弱まり、それに伴って公明党の勢力を減退したばかりか創価学会と
の間に矛盾をはらむようにさえ変化しているが、池田が政治権力の掌握を放棄してい
ないという事実に変わりはない。たとえ公明党の主な役割が池田創価学会のための政
治的防波堤になりさがっているとしても、である。
「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にあ
る。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(戸田『巻頭言集』)
「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても
通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます」(池田「一致団結、火
の玉に」、『聖教新聞』昭和三十四年五月八日)
 国立戒壇建立を政治進出の大目的に据えたことが、公政連—公明党についていわれ
る、政策の無さ、ジグザグ路線など、あらゆる体質を決定した。
 まず、それは初期においては、具体的な政策をたて得ないという政治団体としての
致命的な欠陥をもたらした。創価学会議員たちは一般的な政治構想を用意せずに選ば
れたから、現実社会への対策を持たず、国立戒壇に関係しない通常の議案に無関心を
押し通した。そればかりか、その多くが会期中一度も発言せず(できず)、ただ議席
を占めてだけいた。
 そのため公政連においては、政治倫理を政策に代用することが行われた。
 昭和三十七年一月七日、公政連は基本要綱、基本政策を発表したが、基本政策は核
兵器反対、憲法改悪反対、公明選挙政界浄化、参議院の自主性確立という四項で、そ
の真っさきに掲げられた核兵器反対が、前述した戸田の非現実的な「原水爆声明」の
繰り返し(「戦争に使用する国々の責任者に対しては、人類の生存権を否定する悪魔として
死刑に処すべきである……」)だったことはともかくとしても、政策の半分を政治倫理
で間にあわせていた。
公政連の政治倫理の重視、無政策ぶりをなにより雄弁に物語ったのは、その選挙管
理委員会のスローガン「公明選挙」のお株を奪った命名である。
 公明選挙と政界浄化の主張や、派閥抗争と党利党略への攻撃は、誰もが反対できな
い政治的徳目ではあるが、議案の賛否を問われる創価学会議員たちになに一つ指針を
示すものではない。彼らが昭和三十五年の安保問題に頰かぶりしたのも、議員として
の職責を自覚する以上に、安保に重要性を認められなかったからにほかならない。
 後の公明党においても、この政治倫理の過重視は、たとえば四十六年暮れの沖縄国
会で、審議拒否はできないとして(あるいはできないとの名目で)、自民党の単独採決
を助け上げ、社公民連合を裏切るなど、依然として尾をひいている。
 政策の無さをいわれることは公政連の存在自体を問われるに等しく、政策の立案
ほ、絶対であるはずの創価学会の政治的立場を限定するという新たな困難を引き起こ
すが、それを押し切り、是が非でも達成されねばならなかった。
 創価学会の議員は、「公政連では、議員候補を決めるとき、収入を重視した。議員
となって生業の時間を奪われても生活していける人だ」(高瀬広居『公明党』)とある
ように、多く一般会員より上層の、中小経営者層の出身だったから、公政連は彼らの
利益を反映し、また池田の第三文明論に裏づけられて中間政党の要因を持ち、その政
策も修正資本主義的な大衆福祉に容易に逢着した。
 昭和三十八年十月、大衆福祉は公政連の第三回大会で中心的な政策として登場し
た。が、創価学会=公政連の大衆福祉は、民社党のそれとは別の、独自の政治路線で
なければならなかった。
 そのため池田は地球民族主義、新社会主義、人間性社会主義、仏法民主主義といっ
た曖昧な新造語、折衷語を乱作し、痙攣的なまでにその粉飾をこらした。公明党結成
時の網領はこれをなぞって、
 ①王仏冥合と地球民族主義による世界の恒久平和
 ②人間性社会主義による大衆福祉の実現
 ③仏法民主主義による大衆政党の建設
 ④議会民主政治の確立、の四項をうたっていた。
 だが、それにしても創価学会員は政治的にではなく、宗教的に同会出身の候補者に
投票して、侯補者の公約の如何を問わなかったから、いきおい公約にとどまる公政連
=公明党の政策は試練を経ず、たとえば正確な税源を示せない福祉経済案など、粗雑
という欠点をまぬがれなかった。
 その政策の多くは緻密な論理や計算によらず、短絡的な論理によって解決をはかる
といった点で共通しており、そのよい例が官庁の新設で社会的矛盾を一挙に解決しょ
うとする提案であった。
 昭和三十七年三月、公政連は十九項目からなる政策を発表したが、そのうち四項は
文化省、科学省、経済統合本部、教育企画本部の各設置の要求であった。
 この、組織さえ作れば、との発想は公明党になってからも見られる、創価学会=公
明党の顕著な特質で、このほかにも交通安全省、住宅省、軍縮省などの要求があり、
 また、東京で米・ソ・中・南北ベトナム・南べトナム解放民族戦線などを集めた和平
会議を開催するという、池田のベトナム戦争解決策なども場当たり的という面で一脈
通ずるものがあった。
 これらはまた、蟹は甲羅に似せて穴を掘る、のたとえどおりの創価学会=公明党の
機構信仰の反映でもあつた。

◆一体不二、創価学会=公明党のジレンマ
 公明党は多種多様なポストを備え、しかも各セクションごとに階級制度を確立し
て、その機構は完璧といっていいほど整備されていたが、一面、その暖味さも驚くば
かりだった。
 内藤国夫『公明党の素顔』によれば、公明党の最高決定機関は中央幹部会だった
が、幹部会のメンバーを当の中央幹部会員ばかりか、党副委員長・北条浩も知らず、
また選挙が近づくと、東京の各選挙区からの立候補者のほぼ全員十名ほどに重みをつ
けるため、都連副幹事長の肩書をつけ、そのことを質すと、「少し多すぎましたか」
との答えが聞かれたほどだという。
 この機構信仰は創価学会も同様で、昭和四十五年八月一日現在、戸田時代には五─
七名であった理事が千七百十九名と驚異的に増え、そればかりか戸田時代にはなかっ
た総務七十六名、副理事長百八十六名、理事補二百六十二名まで任ぜられていた。
これは池田の近代化政策と、組織の大きさを印象づける主要な方式であり、またポ
ストを与えて会員の心をつなぎ、多数を衆愚と化して池田の独裁を円滑に行う狙いを
へもつ愚民化政策であった。
 なお暴露戦術にも政策の貧困の補塡策の側面があった。公明党は、多数の組織され
た創価学会員が各サービス業に耳と目を持っため情報に不足せず、また何より暴露は
ジャーナリズムを喜ばせて本格的な政策論議以上に、公明党の宣伝に有効だったか
ら、決算委員会政党といわれるまでにそれを頻発した。
 公金の使途、官庁のミス、他党のスキャンダル、高級官僚の天下り、招待ゴルフな
どのスッパ抜きが、一定の社会清掃機能を持つことはいうまでもないが、その中には
公明党議員の読み違いによる事実無根の暴露も混在していた。答弁に立つ役人は、た
とえ公明党議員の誤まった指摘と承知していても、彼らからの後難を恐れ、陳謝する
だけで反論しないケースがかなりあったという(内藤、前掲書参照)。
国立戒壇の建立を政治進出の大目的としたことは、また、公明党の機会主義、マキ
ャべリズム、ヌエ的などと評される、その政治行動の特徴を形成した。公明党にとっ
ては、党勢の拡張と議席増だけが国立戒壇建立に到達する最短路だったから、自党に
有利とあれば、どのような陋劣な方策も辞さなかった。
 同党は国会や各級地方議会で第三党のキャスティング・ポートを握ったうえで、彼
らの議案に対する態度を自民、社会両党に商った。創価学会=公明党は批判拒否体質
といわれたが、批判拒否は外部のみならず、内部においても池田からの批判を除けば
同様だったため、その政治行動を下部からつき上げられる心配がなく、気楽に行動を
決定し、また変更した。
 公明党は多く 土壇場で自民党についたが、議案への賛否の理由は明確でなく、また
明示もされなかった。同党は、戸田の「政治は技術である」(戸田『巻頭言集』)とい
う言葉を鵜呑みにして、そのジグザグ路線や権謀術数を非難されても決して恥じず、
むしろ国立戒壇という大目的の前に、それらを全面肯定し、聖化した。他党からの批
判、非難に対しては本質論的に応えず、インチキの混入した暴露戦術で牽制、反撃の
 こうした政治行動は多くの有権者の不信をよび、浮動票を集められなかった。その
ため、公明党は票集めによいとわかれば、革新のポーズをことさらに誇示した。が、
彼らの態度を最後に決したのはポーズではなく、いつも、反共という同党の
本音だった。
 公政連—公明党のマキャベリズム、ぺテンの例は、昭和四十四年暮れの衆院選から
言論抑圧問題を経て、四十五年四月の京都府知事選に至る変転きわまりない無原則性
を頂点に、三十八年の都知事選から五十五年十二月の第十八回大会に至るまで、ほと
んど枚挙に暇がないほどである。
 だが、それでも公明党は創価学会の最高、最大の看板でありつづけた。法的にも特
別の待遇を保証される国会議員を何十人と擁したことは、創価学会のィメージ・アッ
プの材料として、これに優るものはなく、もっとも有効な宣伝媒体にちがいなかった。
 池田はそのような公明党を決して手放そうとはせず、ことあるごとに、両者の基本
関係に言及して、自己の支配下につなぎつづけた。
「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である。ともに日蓮大聖人の教えを
奉じ、王仏冥合をめざす同体異名の団体である」
「創価学会を離れて公明党はありえない、もし創価学会を離れた独自の公明党がある
とすれば、それは既成政党とはなんら変わることのない存在(であり)、創価学会と
公明党は、永久に一体不二の関係(である)」
「私は公明党の創始者として、党の未来像を示し、かつ見守る責任がある」(いずれ
も『池田会長全集』一)
 池田は公明党に党籍を持たなかったが、党の人事や政治理念、基本路線を握って、
いわば院政的に党幹部の上に君臨した。とりわけ衆参両院の候補者の選考、党執行機
関のメンバーの決定権の掌握は、党幹部の死命を制する手網として、きわめて有効で
あった。  
「『A、こんどは参議院に出るか、出てもいいよ。応援してやるから』
『ハイッ、ありがとうございます』
 会長(池田)の大幹部への接し方はこうだ」(高瀬広居『池田大作』)
池田が国会議員をも自己の配下と考えたことは、その誕生以来のいきさつ上からも
当然だったかもしれない。
 池田は四十四年一月の幹部大会で、神奈川と埼玉の二、三の公明党員が思い上がっ
た言動をしたと、大いに立腹し、参会者の面前で罵倒した挙げ句、「前列に座してい
た大幹部である国会議員数十名(ほぼ同党の国会議員全員ということになろう)に対し
退場しろと怒号すると、議員達全員は退場するわけにもいかず、返す言葉はむろんな
く、ただオロオロと最後尾に退き立って」いた。その後も池田の勘気はとけず、池田
が大石寺にいくと議員たちもゾロゾロとついて歩き、泣きながら池田にすがりついた
という(藤原弘達『続^創価学会を斬る」)。
 池田にとって重要なのは、議員たちの忠誠心だけであり、国民に責任を持つ彼らの
時間の空費は問題とするにも足りなかった。
 だが、公明党は創価学会に利益ばかりをもたらさなかった。公明党が批判勢力にと
どまらず、政治権力を求めた以上、同党は会員外の票をも集めねばならず、また現実
に対応する政治の論理に支配されねばならなかった。そのことは創価学会の絶対性に
はねかえり、創価学会の相対化への道を開いた。
 公明党は三十九年の結成大会で、綱領の第三項に「言論、思想、信仰の自由」を掲
げたが、信教の自由は創価学会の折伏理論と相容れず、それは教義の相対化にほかな
らなかった。またその後も、国立戒壇を民衆立と言い換えるなど、光輝ある公明党の
議席増加を維持するため、創価学会は犠牲を払いつづけた。
 それは、看板である公明党が停滞すれば創価学会の威信を傷つけ、公明党の発展の
ためには創価学会の教義を相対化しなければならないという堂々めぐりのジレンマで
あった。
───────(~272頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る―  ―源濁れば流れ清からず―

◆池田創価学会は、日蓮利用の偽・宗教法人で詐欺・脱税・恐喝等の反社会団体である。

◆「マスコミが〝しまった〟と気づいたとき……」が近い。

◆矢野よ、一人立て!!‥池田創価=公明は…「夢のまた夢」…
 妻子眷属を思うことなかれ…霊山浄土の喜びこそ実の悦びなれと思え!!。

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池田大作「権力者」の構造-16

2014-06-21 09:09:54 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=16>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
────(以下、引用)──────◇─────(239頁から)──◇─────
第五章 池田大作の独裁体制へ
◆約束されていた成功

 生前、戸田は北海道に向かう飛行機の中で、「お前たちの孫の孫の代までの構想は
教えてゆくからな」と、いったという。戸田はそれを教えずに死んだのだろうが、会
長についた池田としては、創価学会の構想をことあらためて教わるまでもなかった。
 池田は戸田が敷設したレールの上を、それまでの惰力を減殺することなく、走ればよ
かった。戸田亡き後の創価学会の成功は、池田の能力に大きく負うとしても、その成
功は基本的には、最初から約束されていた。
 創価学会の政治進出や出版活動、寺院や会館の建設、文化面への進出など、すべて
の事業活動を可能にする根本は、多数の会員と、やむことのないその増加である。会
員の増加が金を集め、販路を開き、人材を供給し、それらを通して、また会員を増加
させる。会員が順調に増大しているかぎり、池田の企みはすべて成功し、その会長と
しての手腕は疑われようがない。
 会員の増加はすべてを可能にするが、重要なことは、それが創価学会の教義に内在
化している点である。その意味では,創価学会の一定の成功は、なにも池田の優れた
才幹にまつまでもなかつた。
 創価学会員の信仰生活にふつう課されたのは、勤行と折伏、『聖教新聞』と『大白
蓮華』の購読、座談会や講義への出席、大石寺への登山などだが、そのうち最重要視
される任務は折伏であり、折伏が創価学会の自己増殖のメカニズムである。
「今末法においては、日蓮大聖人の仏法たる三大秘法の御本尊を信じたてまつって、
題目を唱え折伏行にいそしんでこそ絶対的な幸福境涯を会得し、成仏ができるのであ
る。……自己の幸福のみを願って信心をしていけばよいというのは、真の仏弟子では
ない。また、謗法の者を見ておいて折伏をしなければ、仏法中怨として無間地獄に落
ちるのである。……
 折伏行に邁進するならば、不幸な人々を救う歓喜はもちろんのこと、折伏によって
自己の生命力も強められ、永遠に崩れない歓喜にあふれた幸福境涯を建設することが
できるのである。しかも順縁広布の機は熟し、さらにわれわれは勇気をもって折伏に
励むべきである。
 これこそが末法の信心であり、折伏なのである」(創価学会教学部編『折伏教典』)
いうまでもなく折伏とは会員の獲得、非信者の創価学会員化にほかならず、それ
は、怠れば無間地獄に落ちるとの威迫によって、ネズミ講と同じ仕組みである。会員
は次々と被害者─.折伏の責任を負わされるという被害者を作らねばならず、被害者
さえ作れば、本人は被害者でなくなる以上に、「生命力も強められ、幸福境涯を建設
すること」ができる。だが、ネズミ講では被害者二人を作れば事たりるが、創価学会
はそれだけでは満足しない。
 このような折伏をもってすれば、創価学会の急伸も理の当然であり、それは会長の
能力、資質、構想のいかんに左右されない原構造であった。
 さらに会員増を支えたものに、創価学会員になることの容易さがある。本尊を幸福
製造機とあからさまにいうことに象徴される現世利益の讃美、奨励は、現在の主流の
生活信条ともいうべき拝金主義、快楽主義の促進であり、会員はなんら自己変革を要
求されることがないばかりか、それまでのためらいながらの欲望、利己心を、野放図
に解放することができた。
 そこにあるのは出世主義や体制内での遊泳術、二十日鼠の勤勉主義、個人の損か得
か、他人の蹴落としだけであり、社会という視点はまったく欠落する。
「資本家というのは、働らけば働らくほど自分の利益になります。労働者は、やはり
時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、おそくまで働いても、直接的には自分に
は利益はないと、いちおう、こういう立て分けができるのです。しかし、私どもは、
いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になるのだと決心するのです。また、事実
そうなるのです。それが一念随喜なのです。われわれは資本家と労働者のどちらに味
方するわけでもなく、両方ともひっくるめた立ち場でありますけれども、例として、
資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものが、ぜんぶ自分のためになるのだと
いう信心でなくては損なのです」(池田「池田会長講演集』十一】
 これは労働の論理でなく、仕える論理であり、現代では失望と落胆、うまくいって
抜けがけとスト破りしか結果しないが、個人の利益に密着しているなりに理解しやす
く、革新陣営の運動員になることに較べ、創価学会員になることを易しくしていた。
 会員の増加は池田の功績となり、池田体制の安泰を保ち、年とともにその権力をよ
り強固にした。そしてさらに創価学会流の教義解釈が、その池田の地位を超絶性の高
みにまで押し上げていた。
 その教義解釈とは仏教説話中の覚徳比丘と有徳王の話のあてはめであり、梗概は、
釈迦出現前に、正法を説く覚徳比丘という僧がいたが、邪法の僧に迫害された。時
の国王・有徳はこれを聞いて駆けつけ、満身創痍となりながらも覚徳比丘を守った。
 この功により有徳王は阿しゅく仏の国に生まれかわって仏の第一の弟子、
覚徳比丘は第二の弟子となった。両者の地位が逆転したわけで、のちの有徳王が釈迦、
覚徳比丘が迦葉仏になった。
 ──というものである。
 池田はこの説話を自ら、創価学会会長と日蓮正宗法主の関係にあてはめた。
「『正法を説ける覚徳比丘あり、その比丘を守る有徳王あり、この有徳王は邪宗教と
戦闘して、全身に芥子ばかりも残らぬほどの傷を受け、最後まで戦いきつた』という
経文があります。いま創価学会の私どもは、日夜、朝な夕な、不幸の人々を救おうと
折伏に励み、また教学に、座談会に、支部結成に、総本山を、日達猊下をお守り申し
上げているその精神、その姿、その方程式こそ、有徳王の精神であり、姿であると私
は信ずるのであります」(『聖教新聞」昭和三十六年五月六日)
 池田の話は一気にまくしたてた感じで、文の接続がおかしいが、これを整理してい
うなら、「覚徳比丘とは、末法今時よりこれを読めば日蓮大聖人の教えを堅く守るも
のであり、お山の代々の法主上人である。これを守る有徳王とは創価学会会長の立場
である」(東京大学法華経研究会「日蓮正宗創価学会』)と、いうことになる。

◆権力の王権神授説風脚色
 池田は昭和三十七(一九六二)年三月に法華講大講頭、三十九年四月に、戸田でさ
え死後に贈られた法華講総講頭に就いて、本仏・日蓮の宗教的権威を、日蓮正宗の法
主を通じて一身に具現したが、この有徳王のはめこみによって、法主よりも上位者、
創価学会・日蓮正宗内での最高権力者となった。
 だからこそ、池田は、「諸君は、会長になろうなどという気持ちをもってはならな
い。なぜかならば、会長という役割を全員が目的にすることは、あまりにも愚かで
す。会長というのはご仏意なのです」(『池田会長全集』三)と公言できたのであり、
また教授である大幹部に試験を課して、その更迭をほしいままにする権能を授けられ
たのである。
「教学部長が先日、私に対して『……いつも試験官である教授全員も、いっぺん試験
をしてためしていただきたい』と。このような殊勝な考えをもらしてくださいました
もので、私も同じ教授として、涙をのんで許しました。それを、それで会長だけは教
授であるけれども試験を受ける必要はないという教授会の決定になりましたもので
(笑い)。会長はばかでも脇士がしっかりしておれば、絶対安定であることは仏法の原
理でありますから(笑い)。私はやらなくてもいいことを、仏法のうえから自覚して
おります」(『聖教新聞』昭和三十六年九月二日)
 こうして池田は大幹部、末端を問わず、およそ会員とは比較すべくもない、超越的
な権勢を手中におさめた。
 また彼はそれを背景に、さきに述べた入信神話をはじめとする戸田との関係の聖化
につとめ、さらに先輩幹部、ことに石田次男の功績を奪って、意地汚いまでに自己の
戦歴表に書き加え、ぺテンによる理想化によって、彼の権力を王権神授説風に脚色した。
「(昭和二十五年の暮れ)恩師(戸田)と私と二人きりで、(聖教)新聞作製の構想を練
った。その時、恩師はこう言われた。
『おれが社長になる。おまえは副社長でやれ』と。この時を期して聖教新聞は創まっ
たのである』(池田「創刊十周年に寄せる」、『聖教新聞』昭和三十六年四月二十二日)
「池田先生は当時(二十六年)、第四部隊の一班長であったが、信心半年たらずで聖
教新聞編集長、男子部隊長となった石田さんに対して、あらゆる面で忠告を与え、進
路を示し、あたたかく守っていらっしゃった」(『大白蓮華」昭和三十八年±一 月号)
これらが事実と相違することは、今さらいうまでもない。戸田は側近の誰彼を問わ
ず、同紙の構想を話していたし、池田が副社長だったこともない。同紙の作製は石田
を編集長に、森田一哉、岩本他見男、広告部長は原島宏治の編成で出発した。また当
時、あらゆる面で石田の下位にいた池田が、石田に「忠告を与え、進路を示」すなど
は、あり得ようもなかった。池田は昭和三十二年においてさえ、まだ、石田を、「信
頼できるといって、これ程立派な人はいない。俺の兄貴だもの」(『聖教新聞』昭和三
十二年十月四日)と、評していたほどである。
 さらに北条浩は『大白蓮華』(昭和三十九年二月号)の池田の「闘争日誌」に、「(昭
和二十七年)3・26キリスト教討論」との一項を記しているが、これも事実は、
「有名なキリスト教法論で、戸田先生が石田さんを指名されたのも、その実力を買っ
ていらっしゃったゆえであろう」(『大白蓮華』昭和三十八年十二月号)というのが真相
で、池田の戦功ではない。
 石田次男のかっての存在は、池田の跡目相続の神性を損なう目の上のタンコブだっ
たから、池田の石田からの収奪は、とりわけはなはだしかった。が、功績の書き替え
は石田からにとどまるものではない。
 たとえば昭和二十七年二月、池田は蒲田支部員の折伏を督励して二百一世帯の折伏
を記録し、「二月闘争」という言葉を残した、と自らいう(池田『人間革命」五)が、
このとき池田は同支部の一幹事にすぎず、それも一月に就いたばかりであり、これは
とりもなおさず支部長,小泉隆の功績を奪うものである。

◆池田独裁体制の確立
 こうして池田はスムーズに権力の膨大化に進んだが、彼の会長就任にまるで反対の
動きがなかったわけではない。
 池田の就任二日後の昭和三十五年五月五日、元男子部第一部隊の隊長で、蒲田支部
幹事の佐倉雅章、大野兼弘は、創価学会員三十人ほどを引き抜いて会を割って出、顕
徳会という分派を結成した。佐倉は三十二年の大阪参院補選で、二ヵ月の未決勾留入
りするまで創価学会に尽くして、前述のように除名され、その後、復帰を許された会
員の一人だったが、池田の会長の就任にまつわるすべてを、「きたない」として創価
学会を見限ったのだという(『週刊コウロン』昭和三十五年七月十九日号)。
 池田は佐倉宅に辻武寿、牛田、鈴木一弘、竜年光を向けて、彼をおどしたり、す
かしたりしたが、五月十一日に除名し、また日蓮正宗妙真寺にも意を通じて彼らを破
門させ、運動を圧殺した。
 日蓮正宗からの破門は、信者にとって生命を絶たれるに等しかろう。が、池田はそ
のようなことに頓着なく、創価学会の日蓮正宗支配の威力と、自身の権力を思うがま
まにふるった。
 このころ大幹部たちは、たとえ池田に不満を持っても、叛旗をひるがえせなかっ
た。彼らは故戸田を畏敬していたから、彼の、「ゆずる会長はひとりでありますが、
そのときに、分裂があってはなりませんぞ」という遺訓にしばられたし、また反乱の
失敗を思えば、それによつて失うものがあまりにも大きすぎることに気づいた。創価
学会員の増加と組織機構の拡充は、彼らのパイの分け前をも大きくしていた。それは
池田の取り分に較べれば小さすぎたが、なんとか彼らの不満を慰めるほどには大きか
った。
しかし、大幹部たちは最初から、池田に絶大な権力を付与することを認めていたの
ではなかった。会長の権限は年々の発展の中で、池田の自負と欲望、周囲の阿諛追従
と盲信にしたがい、醜悪なまでに肥大化した。それは独裁の制度が必然的に到達する
個人崇拝の一大奇観であつた。
 たとえば三十七年六月、創価学会規則が改定されたが、その会長に関する規定は、
池田をかなり掣肘していた。要点を列記してみょう。
①会長は、創価学会の責任役員でもある。
②会長は、責任役員の一人であり、理事会によって選出される責任役員により選出される。
③会長は、理事会によって罷免されることがある。
④会長の任期は四年である。
⑤会長は、理事会を召集し、その会議を主宰する。
池田は理事会で罷免され得、また任期を四年と限られていた。この時点では、池田
の権限はまだ歯止めをかけられるほどに穏当であつたが、四十一年五月の規則になる
と、すでに池田の権力は独裁者のそれに完成する。
①会長は、創価学会の責任役員でもある。
②会長は、総務を統括する。
③会長は、幹部会(内二十一名が責任役員)を召集する権限をもつ。
④会長は、責任役員を任命し罷免する。
⑤会長は、副理事長、理事、その他の必要な役員を任命し罷免する。
⑥会長の任期は終身とする。
⑦会長は、後任を選ぶことができる。
(ホワイト、宗教社会学研究会訳『創価学会レポ—ト』による)
任期が終身で、後継者まで指名できるとは、宗教が私事であるとはいえ、異常であ
る。まして創価学会は公明党という公事に「一体不二」の関係を有したのである。
昭和四十五年一月の規則は、四十一年の規則とほぼ同様だが、理事長の任免、代表
役員等の諸点で、さらに独裁の強度を高めている。
 なお池田は創価学会の登記によれば、昭和三十八年七月十五日、代表役員と責任役
巧員を辞任し、十日間の空白期間を置いて七月二十六日に再度、代表役員兼責任役員に
就いている。また三十九年五月二日に池田は代表役員を辞任し、翌三日、代表役員は
原島宏治にかえられて同年七月十六日まで続き、翌十七曰に池田が代表役員に三度就
任している。
 これを創価学会の政変の露呈とする見方があるが、事実は事務手続き上の処置にす
ぎなかったという。少なくとも三十九年五月の辞任は、「任期」四年の規定に従った
という説明がつくであろう。が、三十八年七月の就任は責任役員空席期の説明がつか
ない。
この日、北条浩以下二十三名の、三十五年五月以降に就任した新責任役員も退任し
ており、二日後の七月十七日、それ以前に就任した旧責任役員七名が退任する。そし
て七月二十六日に彼らの全員が順序を変えて再任される。参考までに新順位(カツコ
内は前の順位)を付して次に列挙してみよう。
──────────────◇───省略────────────────
 池田をはじめとして原島、北条浩、辻、秋谷、白木義一郎、山田の上位進出が眼に
つき、逆に小泉、和泉、柏原、石田、白木薫次、小平、鈴木、牛田などは下位にさが
っている。おそらく会長、理事長、副理事長といった会の役職の実勢を反映したもの
だろう。池田体制の確立期は三十八、九年ころとおさえてまず間違いではないと思わ
れる。

◆攻撃から占有へ—戸田継承者としての池田の資質
 戸田の死後、幹部たちは、戸田は聖業の発展のために死んだと公表した。これは戸
田の死の拙さを償おうとする強弁にすぎなかったが、その後の事実は、戸田が^而学
^会の発展のためには、タイミングよく死んだとはいえるものであった。戸田はすぐれ
て創見と攻撃の人ではあったが、安定期と占有の人ではなかった。彼の死は、時代に
かなった創価学会の陣取りとエスタブリツシュメントへの道をスムーズに開いた。
 池田の資質は戸田の跡を受け、それらの役を担うにふさわしいものがあった。池田
が独裁者までにのし上がったのは、基本的には自己増殖する組織の引き継ぎと教義面
の支えによるが、かといつて彼の能力と努力を過小に評価することは誤まりである。
 池田の戸田からの進展は、攻撃から占有への移行にあり、彼の腐心はつねに創価学
会の占める分野の拡大と、そのィメージ・アップに費やされた。彼は戸田に比して創
造性には劣るものの、有能な祖述者、管理者ではあり、それは彼の上昇志向と分かち
がたく結びついていた。政治、文化面への進出等は広宣流布への投網であったと同時
に、彼の劣等感と、世間を見返してやりたいという復讐欲に深く根ざす近代化という
同一パターンにおしなべて属するものであった。
───────(~254頁)──────◇────────(引用ここまで、つづく)

◆日蓮(宗)は《日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!》
  ―宗教を語る―  ―源濁れば流れ清からず―

◆カルトの特徴……マイクル・シャーマー
1.指導者に対する崇拝  聖人人、あるいは神格に向けられる賛美(池田本仏)。
2.指導者の無謬性    指導者(池田)は絶対に間違いを犯さない。
3.指導者の知識の広さ  哲学的な事柄から日常の些細なことまで
4.説得のテクニック    寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。
5.秘密の計画       信仰の真の目的が曖昧…人間革命?天下を獲る?総体革命?
6.欺瞞           入信・入会者には、池田や職業幹部の真実は隠蔽されている。
7.金融面および性的な利用 入信・入会者には、その金銭等を差し出すよう甘言で説得され……。
8.絶対的な真理      池田のすり替え・詭弁の妄説・妄言を、すり込み・盲信させられ…。
9.絶対的な道徳観     脱会者へは、恐喝・脅迫(罰論)の雑言罵詈から社会的抹殺へ……。
                  ――このやろう、自殺に追い込め──
これ、池田創価学会のこと!…池田創価学会は「反社会団体」……解散・消滅へ(宗教法人法-88)
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