創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

自民党と創価学会-30

2016-12-31 10:24:29 | Weblog

『自民党と創価学会』  佐高 信 (集英社新書  2016/5)

    ------(P180)---(以下、本文)-------

◆ 不買運動という「脅し」
「批判者の系譜」として藤原の次に紹介したいのが内藤国夫だが、内藤が亡くなって間もなく、私は一九九九年八月四日付の「社会新報」のコラムに、こう書いた。題して「乗っ取られるのは“日本”」。
〈七月二五日のTBS系『サンデー・モーニング』で、「公明党は全日空機ハイジャック犯と同じ」とコメントした。とにかく操縦桿が握りたいと、自民党と連立を組む。前の選挙では反自民と言っていたのに、クルッと引っくり返って平気なのである。盲点を衝いてチェックを受けずに包丁を持ち込んだ犯人と、それも似ている。これまで私は公明党をコウモり党と呼んでいたが、これからは“ハイジャック犯党”という呼び方も加えよう。
 公明党あるいは創価学会ウォッチヤーとして知られる内藤国夫が亡くなった。学会員に呪い殺されたわけでもあるまいが、いまからちょうど三〇年前に書かれた内藤の『公明党の素顔』を読み返すと、この組織は、その体質において、まるっきり変わっていないことがよくわかる。それは恐ろしいほどである。つまりは、池田大作の私兵集団なのだ。
 一九六七年二月某日の都議会公明党控室に、どこからか、「背もたれつきのふかぶかとした大きな椅子」が持ち込まれる。もちろん、会長(当時)の池田大作の“御座所”で、池田愛用のザブトンも学会本部から運び込まれた。公明党議員を励ますため、池田が来るのを喜んで、彼らは大掃除までして迎えるのである。
「公明党のことをいくら批判されてもわれわれはかまわない。ただ、池田会長が公明党の黒幕だというような批判だけは許すことができない」
 こう力む議員もいたというが、彼らは“黒幕”ではなく“白幕”だとでも言いたいのか。
「そもそも、公明党には『立候補システム』がない」と内藤は指摘する。三〇年経っても、それは変わらない。上御一人の任命制だからである。
 また、公明党は批判されることが特に嫌いな政党で、議員も部外者の批判にヒステリックに反発する。「批判恐怖症とでもいうのか。自分たちほどその真意が理解されずつねに誤解され続けているグループはないと信じこんでいる」とも内藤は断じている。
 結局、三〇年余り前に東京都で起きたことが、これから日本において起ころうとしているのだろう。
 美濃部(亮吉)都政で水道料金の値上げが問題になった時、最初、絶対反対と言っていた公明党がコ口ッと変わつて贊成にまわった。
「ぐらぐらしていて見識がないじやないか」と批判すると、彼らは、「われわれが反対したからこそ値上げが一年も延び、しかも値上げ幅が小さくなったのだ」
 と言つて胸を張り、
「それだったら、もっと反対し続ければ」
 と突っ込むと、
「水道会計が赤字を出している以上、値上げは認めなければならない。われわれは社会党(当時)のように何が何でも値上げ反対という無責任な態度はとれない」と答えたとか。
 盗聴法の反対から賛成に転じたリクツとまったく同じ。結局、外に開かれていない宗教政党だから、こうなるのだろう。
 七月一二日昼、私は市民運動の人たちと共に公明党にデモをかけた。信濃町周辺を歩きながら、“カムバック・公明党”と呼びかけたのだが、彼らにその声は届いていない。ハイジャック犯党の公明党にハイジャックされるのは自民党だけでなく、日本である〉
 内藤は『公明党の素顔』でこんな体験を披露している。内藤が公明党をちょっと批判する記事を書いたら、ある都議会議員から、こう注意された。
「おたくの新聞の読者のなかには学会員も大ぜいいることだ。こういう読者をあまり怒らせないほうがいい、われわれが不買運動を始めたらどういうことになるか。われわれがやろうと思えば一人や二人の記者はどうにでも動かせるのだ」
 これに対して内藤は、
「新聞社とはそんないいかげんなものじゃない。新聞にとって読者はたいせつだが、事実をありのままに書くのはそれにもまして大事なこと。記事が読者のお気に召すかどうか、というようなことを私たちは記事を書くとき、いちいち考えない。記事に対する批判はご自由だし、歓迎もするが、それは事実かどうかという立場からしてほしいな」
 と反論した。
 内藤が東京都庁の記者クラブにいたころ、自民党は、公明党からの「時には不合理な要求と思われるほどのもの」でも、それを呑んだという。
「こんなことがあっていいのですか」と幹部が知事や副知事に声をあげる場面さえあったとか。
       ---------(184P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党と創価学会-29

2016-12-30 08:32:51 | Weblog

『自民党と創価学会』  佐高 信 (集英社新書  2016/5)

    ------(P174)---(以下、本文)-------

◆ 池田の言葉は学会では憲法になる
 おそらく、藤原の結びの忠告は池田大作にも、学会員たちにも届くことはないのだろう。
〈私は池田創価学会会長(現・名誉会長)が出てくるときは、まさに公明党が自民党との連立体制の一角を占め、総理大臣への展望をもった何らかの大臣になれるというときに公明党委員長として乗り込んでくるのではないかという判断すらしている。衆議院に進出することはないと繰り返しいっておきながら衆議院に進出している前例からみるなら、創価学会会長・池田大作の、政党の委員長になるということはない、創価学会会長としてあくまでやる、といった発言は、あまりあてにならない。政権を担当しても日蓮正宗を国教にすることはないと述べているが、それもあてにならない。それほど状況即応的でオポチュニスティックな行動をする集団なのである。
 日蓮のすばらしさ、彼等が御本尊として崇拝する日蓮のすばらしさは、鎌倉幕府という権力に対する抵抗にあった。しかし、現在の創価学会・公明党の姿勢に、権力に対する抵抗の姿勢が本当にあるだろうか。また権力に対する真に鋭い批判を展開しているといえるであろうか。さらには権力に対する批判を通じて国民大衆を本当にたくましくする方向にむかっているだろうか。私にはそうとは思えない。むしろ一部野心家たちの御本尊利用であり、学会組織利用であり、大衆利用であるにすぎないと考える。それ故に創価学会が危機であり、公明党が危険である、と断言するのである。日本の未来のために、この政党の存在に対して国民は厳しい批判をそそぎ、政党政治を正しいルールにのせるために、まず公明党の解散を要求すべきだと主張する〉
 もちろん、池田大作と学会員に藤原の提言を聞く耳はあるまい。毛沢東の中国に反毛派のできることはあっても、創価学会に反池田派のできる可能性はまったくないといわれる。
 それだから、池田が前と違うことを言っても、すべて許されてしまうのである。池田は「私の言葉は学会では憲法になってしまうのです」とまで語っている。
「創価学会は衆議院には出ません。なぜならば、あくまでも宗教団体ですから、政治団体ではありません」
 一九六〇年春のある幹部会で池田はこう明言した。その後も繰り返し同じようなことを言ってきたが、違うではないかと池田を追及する人間は学会には現れないのである。

◆ 創価学会・公明党七つの大罪
 藤原は、政治と宗教の分離は、近代国家の自明の原理だとし、学会は「政教混淆という近代国家原理違反の罪」を犯していると指摘しつつ、こう説いている。
〈古代、中世を通じて、宗教は権力にタッチすることにより堕落し、人間を幸福にするよりも不幸にする機能を果たし、場合によっては大衆を欺瞞し、大衆をマヒさせる阿片的機能を果たしたことは、マルクス主義を信奉すると否とを問わず、宗教に対する透徹した重要な見方といわなければならない〉
 そして藤原は「いわば外道の道をひたはしりにはしっている」創価学会と公明党の大罪を次の七つに集約する。
 一 政教混淆、政教混濁の罪
 二 アナクロニズムの罪
 三 他人をノロウものの罪
 四 人を惑わす八方美人の罪
 五 思考停止、愚民化誘導の罪
 六 「虚業」繁昌にすぐるの罪
 七 強きをたすけ、弱きをくじくの罪

「他人をノロウものの罪」に関しては、創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会批判を破す』(一九六二年)から、こんな話が引かれている。
〈ちょつと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏がお山へ行きたいというので、戸田(城聖)先生から案内するようにいわれて同行することになったのですが、出発の日に、東京駅で私が待っていたところ、佐木氏の方では、その前日でしたか「子どもが死んだから行けなくなった」というのですね。これは、ハッキリとした罰ですよ。そして帰ってきてからきいたのですが、佐木氏はイナ力へ帰って、邪宗日蓮宗で葬式をだしたというのです。まるっきり、なっちやいないですね〉(赤文字、藤原)
  藤原も指摘しているように、学会教学部という「学会のいちばん重要な頭脳にあたるところ」が堂々とこうしたことを書いた本を出している事実に学会の異常さを感ずる。
 臭気フンプンたる場所では、臭さを感じなくなるといわれるが、学会では異常を異常と思わなくなるのだろう。

「思考停止、愚民化誘導の罪」では、藤原の友人と、「公明党候補に投票してくれ」と依頼してきた学会員とのヤリトリが紹介されている。
 友人「この電話は、あなたの自発的意思でかけたのですか。それとも頼まれたのですか」
 会員(やや間をおいて)「私の意思でかけたのです」
 友人「それでは、その候補者の政策をご存じですか」
 会員「はい、知っております」
 友人「では、〇〇さんの政策を教えて下さい」
 会員(誰かと相談している様子)「政界浄化、清潔な政治の確立です」
 友人「それもどの党もいつています。何かほかには」
 会員(また相談する様子)「税金と物価を下げます」
 友人「それは、どの候補もいつています。ほかにありませんか」
 会員(誰かとしばらく話し合つている)「憲法と平和を守ることです」
 友人「それもどの党もいってます。何かほかには」
 会員(しばらく応答なし)「福祉経済、大衆福祉です」
 友人「それは民社党の政策とどう違うのですか」
 会員「.........」
 友人「何か、〇〇さん特有の、〇〇さんだけが打ち出している政策はないのですか」
 会員「.........」
 そして、しばらくしてガチャンと電話は切られたという。
 藤原は、創価学会の会員たちに「思わず頭を下げたくなるような敬虔な宗教家タイプの人は、まずほとんどいないに等しい」として、こう続けている。
〈私は、創価学会の幹部にはほとんどといってよいくらい会っているが、そういう世間に名のとおった幹部たちにしても、小型政治家か、中小企業のやり手経営者か、銀行員の支店長タイプか、ないしはヤクザ、グレンタイの親分か、ともかく、そのような類型に入る人々がほとんどであり、宗教家のもつ謙虚さ、謙讓さといったものを感ずる人はほとんどいない。まこと世俗性の強い信仰団体といえるかもしれない〉

『貧乏物語』の著者、河上肇は歌人でもあったが、
  権力の命ずるままに寝返れる
   女郎の如き学者ぞあはれ
 と詠んだ。権力を批判して獄に投ぜられた河上には、こういう歌をつくる資格がある。
 しかし、かっては権力批判をしていたとはいえ、いまは自民党にどこまでもついていきますという学会、公明党にはその資格はないだろう。
       ---------(180P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党と創価学会-28

2016-12-29 08:43:44 | Weblog

『自民党と創価学会』  佐高 信 (集英社新書  2016/5)

    ------(P168)---(以下、本文)-------

一 『創価学会を斬る』と『公明党の素顔』
◆ 藤原弘達と内藤国夫--学会批判の急先鋒
 一九九九年春、ユニークな政治評論家で前出の『創価学会を斬る』の著者、藤原弘達が亡くなった。
  充子夫人によれば、その日、夜中じゅう、「おめでとうございます」という電話が続いたという。
「週刊新潮」の二〇〇〇年三月三〇日号で彼女は、一九六九年に出た『斬る』をめぐる出版妨害を振り返りながら、「段ボール箱に三箱以上の嫌がらせの投書が来ましたし、警察がうちの子供に警備をつけなくてはならないほど脅迫が相次ぎました」と語っている。
 そして、弘達の死の際の夜中の“祝電”に触れて、創価学会員は本当に仏教を信じているのか、と疑問を投げかけているのである。
 三月三〇日号の「週刊新潮」は、二〇〇〇年三月一三日に東京都大田区の公明党区議会議員が議会で行った珍妙なる質問も紹介している。
「週刊新潮、週刊文春、文藝春秋を全大田区の全図書館から排除してもらいたい」
 なぜ、この三誌が槍玉にあがったのか。いずれも、創価学会を批判しているからである。
 マスコミにも学会の勢力が浸透し、学会批判の記事が掲載されにくくなつている中で、特にこの三誌は区議を含む学会員を「不愉快」にさせるらしい。
 それにしても、堂々とこんな質問をするとは思い上がりも甚だしいし、言論の自由というものをまつたく弁えていないことを自白しているに等しい。
 こうした前近代的学会を相手に果敢に闘った「批判者の系譜」をたどろうとするとき、まず挙げなくてはならない二人が藤原弘達と内藤国夫である。ともに“日本の知性”といわれた東大教授、丸山眞男に学んでいる。名著『現代政治の思想と行動』(未来社、一九五六-五七年)などによって、日本社会の封建性、前近代性を鋭く衝いた丸山門下の二人の眼には、内部に言論の自由がないばかりか、外に対してもそれを押しつぶそうとする学会が、メスを入れるべき大いなる標的と映ったに違いない。
  毎日新聞記者だった内藤の『公明党の素顔-この巨大な信者集団への疑問』(エール出版社)が出たのが一九六九年六月。藤原の『創価学会を斬る』が出たのが同じ年の一一月で、内藤の本の方が早いが、まず、すさまじい出版妨害事件を惹き起こした『斬る』の方から紹介しょう。

◆ 公明党はどこまでもついてゆく“下駄の雪”
 時の自民党幹事長田中角栄に、公明党委員長だった竹入義勝が、何とかこの本が日の目をみないよう頼み込み、田中がいろいろ動くといった一幕もあった。田中から竹下登、そして小渕恵三に至るこの派閥が学会と太いパイプをもつのはこの事件を契機にしている。
 前述の「週刊新潮」の記事の見出しは「藤原弘達『創価学会を斬る』は今も生きている」だが、残念ながら文庫化されず、図書館でしか読めないこの本の目次から紹介してみよう。

第一部 実態-これが創価学会の正体だ
 1 恐るベき創価学会の本賀
 2 創価学会的政治主義とは何か
第二部  分析-その病理を衝く
 3 そもそも宗教をなんと心得るか
 4 創価学会・公明党七つの大罪
 5 創価学会の天皇・池田大作と幹部たち
第三部 展望-その危険なる未来
 6 創価学会はどこまで伸びるか
 7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
 8 強引きわまる公明党選挙作戦
 9 公明党の政治的主張を裸にする
10 公明党の目指す政治体制は何か
11 公明党は果たして政権をとれるか
12 創価学会・公明党で日本を救えるか

 この本が出てから四七年、藤原はまさに現在の自民党と公明党の連立を予測したような指摘をしている。第二章でも引用したが、以下は藤原の結論である。
〈創価学会・公明党が目下ねらっているものは、自民党との連立政権ではないのか。公明党は宗教勢力としての基本的性格からいっても、反共であることは否定できない。日本共産党は理論的停滞にもかかわらずいくらかは議席がのび、党員を拡大し、「アカハタ」も売れているという事情にあるけれども、公明党に比べた場合、とくに議会に代表を送る力からみると公明党の方が共産党を上まわつていることは否定できない事実である。だが、この公明党が現在党勢の拡大によって何をねらっているかといえば、いうならば自民党との連立体制であるとみなさなければなるまい。もし自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合、公明党に手をさしのべてこれとの連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏み出すときではないかと思う〉
 藤原の指摘した通り、自公連立が成立した一九九九年、盗聴法(通信傍受法)が通り、住民基本台帳法が改正されて国民総背番号制とも言える住基ネットの稼働(二〇〇二年八月から)が決まり、日の丸・君が代が法制化された。いずれも公明党が賛成にまわったからである。
 藤原はこの指摘の後をこう続けている。
〈公明党が社会党と連立政権を組むとか、野党連合の中に入るというようなことは、まずありえないと私は考える。その意味において、自民党と連立政権を組んだとき、ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを強力にフアッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働らく可能性も非常に多くもっている。
 そうなったときには日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。それがこれだけ厳しく創価学会・公明党を斬らざるをえない問題意識なのである〉
 藤原の危惧したように事態は進んでいる。「自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素」を体現する清和会の森喜朗が「日本は天皇を中心とする神の国」と、学会をないがしろにするような発言をしても、公明党は“下駄の雪”のように、どこまでもついてゆくと言っている「奇妙な癒着関係」ができあがってしまったのである。
       ---------(174P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党と創価学会-27

2016-12-28 08:11:04 | Weblog

『自民党と創価学会』  佐高 信 (集英社新書  2016/5)

    ------(P161)---(以下、本文)-------

◆ タカ派支配の自民と組む公明
 平野貞夫著『公明党・創価学会の真実』(講談社+α文庫、二〇〇八年)にこんな指摘がある。
 岸信介と創価学会二代目会長・戸田城聖の親交についてである。
 二〇〇一年三月一一日付の「聖教新聞」によれば、一九五八年三月一六日、本山の式典に岸首相が出席する予定だったが、某議員らの横槍が入り、名代として岸夫人の良子、娘の洋子、そして夫の安倍晋太郎夫妻が参加することになった。
 式典出席は岸の希望で、岸は自民党幹事長時代から戸田と付き合いがあった。
 この事実は「今日の小泉・安倍自民党と公明党・創価学会による連立政権が生まれるに至る因緑の原型をなしている」と平野は指摘する。「昭和の妖怪」の岸につながる亡国の連携は、日本を再び覇権国家として核武装させかねないDNAなのである。
  一九八四年九月一〇日、田中角栄は派閥の研修会で、「公明党は危急存亡のときには自民党と同じになる」と言った。田中は「公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」と言ったが、現在の自公政権の自民党が、岸の流れを汲むタカ派の清和会だということを忘れてはならない。
 市民というコトバを毛嫌いし、農協などの協同という精神に反発するタカ派が現在の自民党の実態なのであり、「福祉の党」などという公明党のお題目も、まともに唱えれば連立政権を組めなかったのである。
 変質した自民党によって、公明党が「戦争の党」となり、「反福祉の党」となるのは、必然の道行きだった。
 二〇〇三年の自衛隊のイラク派兵の時、公明党代表だった神崎武法は、あわただしい日程でイラクのサマワを数時間視察し、安全であることを演出するという“猿芝居“をやって、派兵に賛成した。そして二〇〇四年には基本計画を変更、派遣期間の一年延長に賛成し、見返りに、公明党が主張していた所得税定率減税の縮減を自民党に呑ませたのである。
 公明党支持者、すなわち創価学会員にとつて所得税の定率減税の廃止は経済的に影響が少なく、縮減による財源は年金に充てられるという主張だった。
 イラク特措法は二〇〇二年七月に成立していたが、実際の派兵には国会の承認が必要とされていた。このときの自民党総裁が小泉純一郎で、幹事長が安倍晋三である。八百長的に賛成した公明党と違って、自民党では三人の大物がこれに反対した。ハト派の宏池会出身で元幹事長の加藤紘一、同じく古賀誠、そして元政調会長の亀井静香だった。
 浮ついた人気だけでその椅子に座った軽量幹事長の安倍は、おそるおそる三人に、賛成してくれるように頼む。
 野上忠興著『安倍晋三 沈黙の仮面--その血脈と生い立ちの秘密』(小学館、二〇一五年)から、それに対する三人の反応とその後の安倍の対応を引こう。
 まず、加藤である。
「私はブッシュのイラクの戦いや大量破壊兵器に関する説明にかねがね疑念を持っている。
やはり,自衛隊派遣は反対だ」
 次に古賀。
「私にも今まで歩いてきた歴史がある。そこを踏まえて政治家として信念と良心で決めることですから」
 そして亀井。
「これは政治家としての信念だ。処分するならしたらいい。打ち首、獄門何でもどうぞだ」
 翌ニ〇〇四年一月三一日未明、派遣承認案を採決する衆議院本会議に亀井は欠席し、加藤と古賀は採決前に本会議場を出て棄権した。反対を貫いたのである。
 それに対して“平和の党”を偽装する公明党は一致して賛成にまわった。
 その結果、加藤や古賀よりも公明党が、“戦争の党”であることが明らかになる。
 タカ派の清和会が主流の自民党に「公明党への手前、三人にペナルティなしというわけにはいかない。ケジメが必要」という声が強くなった。
 それで安倍は何とか三人に「戒告」という処分を下す。党則では「勧告」に次ぐ軽い処分だつた。
「平和の党」という公明党の看板が欺瞞に満ちたものであることが隠しようもなく表れた一件である。

#1 白川勝彦「自公“合体”政権批判(1)「月刊日本」二〇〇七年四月号
#2 後藤田正晴『情と理--力ミソり後藤田回顧録』上巻、講談社十α文庫、二〇〇六年
#3 同、下卷
#4 「毎日新聞」(二〇〇五年九月二四日)の「後藤田正晴の『遺言』」(岩見隆夫)より
#5 農地改革資料編募委員会編『農地改革資料集成」第一卷、農政調査会、一九七四年
#6 早坂茂三『権力の司祭たち』集英社文庫、一九九五年
       ---------(165P)-------つづく--

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党と創価学会-26

2016-12-27 08:42:43 | Weblog

『自民党と創価学会』  佐高 信 (集英社新書  2016/5)

    ------(P153)---(以下、本文)-------

◆ 安倍を激怒させた佐賀の敗戦
 農地改革によって誕生した自作農たちが、「弱肉強食」のジャングル的新自由主義の思想に立つ農業ではなく、共存共助の精神の下に農業を振興させようとして農業協同組合がスタートする。いわゆる「農協」である。農協はその発足から長く自民党とともに歩んできた。ストレートに言えば集票機関としてフル回転してきたのである。
 その蜜月が決定的に毀れたのが、二〇一五年一月一一日投開票の佐賀県知事選挙だった。
 俗に言う「佐賀の乱」である。
 横田一が『亡国の首相 安倍晋三』(七つ森書館、二〇一六年)で指摘するが如く、その前年の夏に、当時の佐賀県知事の古川康は、オスプレイ受け入れという佐賀空港軍事空港化の道筋をつけた見返りに、佐賀二区の自民党公認候補となる。
 そして、後継者に武雄市長(当時)の樋渡啓祐を推した。市立図書館にツタヤ(TSUTAYA)を引っ張つてきたことで知られる新自由主義の信奉者である。古川と樋渡は総務省の先輩と後輩だった。
  樋渡は“佐賀の橋下徹”といわれたが、官房長官の菅義偉のところにとび込んで自民党の公認を得る。竹中平蔵の後に総務大臣をやった菅は、竹中とはいまも一週間に一度くらい会うほど親しい。
 だから樋渡は“佐賀の橋下徹”であると同時に“佐賀の竹中平蔵”だった。いずれにせよ、協同組合の精神に背を向ける新自由主義の徒である。農協改革ならぬ農協潰しに血道をあげる安倍政権はこの樋渡を押し立てた。
 危機感を抱いた自民党佐賀県連と農協は、それに反発して元財務官僚の佐々木豊成を擁立しょうとする。その動きを抑え込もうとして、二〇一四年一二月二日の総選挙公示日の前日、自民党本部は佐賀旧ニ区から比例単独に転出した今村雅弘(衆議院議員)を小選挙区重複立候補三〇名より下位に置く名簿を発表した。明らかな報復である。
 動揺した佐々木は「自民分裂選挙を避けたい」と言って知事選立候補を取り止めた。
 地元記者によれば樋渡は「敵と味方を峻別して敵対的人物をブ口グなどで徹底的に攻撃するのが特徴で、佐賀新聞の記事を徹底批判したり、朝日新聞の記者を名指しで批判することもあった」とか。
 そのため、自民党県議や市町村長、そして業界団体にも敵が多く、こうした反発を受けて佐々木が担ぎ出されたのである。
 しかし、佐々木は挫折した。それでも、告示直前、JAグループ佐賀(農政協議会)などが元総務官僚の山口祥義を口説き落とし、選挙戦に入った。
  最初はダブルスコアの差をつけられていたが、「佐賀のことは佐賀で決める」と訴えて猛追しついに逆転勝利した。
 山口の選対幹部は「官邸の自爆だ。佐賀での樋渡氏の不評、農協の組織力を軽視したのだろう」と勝因を語っている。
 また、選対総括責任者の佐賀市長、秀島敏行は、こんな挨拶をした。
「北風が寒い中、(安倍政権は)大きな大型扇風機を持ってきて、私たちにぶんぶん吹き付ける。イソップの寓話『北風と太陽』の北風を当てていただいたから、私たちの結束が横に広がっていきました。イソップの話は東京には通用しなくても、佐賀には通用することを今日、ここで示したわけであります」
 安倍は側近に、「佐賀県知事選は大丈夫と言っていたじやないか! 一体、何をやっていたんだ!」
 と怒りを爆発させたという。
 勝利を確信していただけにショックも大きかつた。
 ここでも公明党は地元を裏切つて樋渡を応援したが、佐賀空港軍事空港化に賛成したのだから、とても「平和の党」などとは言えないはずである。
 しかし、黒を白と言いくるめるのが“信仰”というものなのだろうか。
       ---------(161P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする