私は山崎正友を詐欺罪から救った! -- 2002/05
--アウトローが明かす巨額“手形詐欺”事件の真実--
-------(前回、181P)--以下、本文--
おわりに
今から約十年前の平成三(一九九一)年の初めごろ、私は山崎正友が犯した恐喝事件の真相を、「手記」としてまとめることを思い立ち記述し始めた。
それは十年間と長明にわたった我判も、実刑三年の判決が確定して、山崎が刑務所に投獄(平成三年二月二十五日)されたことで、この事件に終止符が打たれ、私が彼を庇うという共同謀議の義務が完了したからであった。
この平成三年から四年は、山崎があれほど陰謀を巡らせて攻撃した創価学会に、宗門と決別するという大事件が起きた年であった。
山崎がいなくなったことで、当時の私には創価学会に関する情報が不足しており、まさかこのような大事件が起きていようとは、思いもよらないことだった。
この一事を知って、山崎の企みのすべてが終わったと思った。私は意欲を失い、「手記」を書く手を止めてしまった。
山崎の三年間という刑期は瞬く間に過ぎた。平成五(一九九三)年四月には二年二力月の刑期を務め終え、仮出所で彼は裟婆に戻ってきた。
この山崎の出獄で、私は彼と共に犯した数々の事件もすベて禊が終わったと思っていた。
だが山崎は、三年間の懲役でも懲りてはいなかった。
山崎は、私には何の断りもなく、私との密約を利用し、自分の犯罪が封印されて世間に知られていないのをいいことに、再び正義の使者のような顔をして創価学会を攻撃していた。私にとっては、はなはだ迷惑なことである。
十数年前、事件当時の私は現役のヤクザであり、金に目がくらんで山崎と組み、その山崎を庇い通すためにやむを得ず足を洗う羽目に陷ったが、私はヤクザはやめたが、男をやめたわけではない。私は男として山崎を守り通したのだ。
今さら、あの当時の約束事を利用されるいわれはない。まして山崎は、恐喝事件が「冤罪で無実」という。これが真実なら、私は我慢もする。
しかし、山崎が「創価学会を糾す」と称する攻撃材料は、すべてが狡猾な虚言であり、山崎自身が捏造して作り上げたスキャンダルである。
それをネタに攻撃を繰り返していることが、裏面を知っている者として我慢がならないのである。山崎はその非道の事実が看破され、有罪判決を受けて懲役に服したのである。
それにもかかわらず、再び、非道を繰り返して創価学会への攻撃を始め、飯のタネにしている。
このような厚顔無恥な男の行為に、私は嫌悪をおぼえ辟易としていた。この「手記」が山崎正友への決定的な鉄槌になれば幸いである。
二〇〇二年四月 著者
---(183P)---この項おわり--次回から、“しんぶん赤旗の戦い”--