--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!
創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
--「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
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◆ 金集めに利用されるだけの信者
藤原 ぼくは創価学会というのは、やはり一種の“ハングリー宗教”ということが原点だったと思うんだ。飢えたる宗教、飢えたる狼であったんだ。
それが一定の社会的な水面に出てくるのは、高度経済成長のおかげなんだな。経済がどんどん発展するということは、分け合うパイがどんどん大きくなっていくから、必然的に一人当りの取り分が増えてくる。誰もがパイの分け前が増え、懐が暖かくなる。
社会の方向自身が、金を儲けるという方向を目指しているんだから、現世利益という現証は、必ずしも日蓮正宗や創価学会の力ではなくて、日本の経済力の世界経済のなかでのめざましい発展によっていわば自動的に与えられる。
ぼくが批判するのは、この高度成長期に、貧乏人の方から金を卷き上げた、その“金権体質”でもあるんだ。せっかく高度成長の恩恵にあずかり、パイの分け前をいくらか多くしてもらった階層から卷き上げる、そのエゲツなさを批判したわけだ。
ところがだんだん日本の底辺が引き上げられて、ハングリーな面が消えてきた。そうすると次には飢えによってではなく、金を使ってかせぐ、つまりユダヤ商法のようにガムシャラに儲けた金、今度はその金利でかせぐということになる。
こうなると、たいていの宗教が精神的にダメになってしまうんだ。
創価学会を構成している一般の学会員というのは、戦後日本の民主主義という粗い網の目から落ちこぼれた人たちなんだ。地方の農家の次、三男といった人たちが、都会へでてきたけれど、小企業や町工場、商店、それも飲食店といったところしかなかなか勤め先がない。もちろん大企業の労働組合と違って、誰も守ってはくれないし、頼れる人もいない。そこで何かないものかと探している時に創価学会と出会うワケだな。
そこに行くと、自分と似た境遇の仲間がたくさんいる、一種の草の根“根っこ集団”なんだ。
仕事話、生活の悩み、いろいろと聞いてくれ、かばってくれる。都市型村落共同体なんだ。
この時代は、創価学会・公明党がぐんぐん伸びた時期でもある。自分たちが働いているリズムと社会のリズムとが補完作用をもって、ビッタリと合っているわけだ。
この戦後日本の民主主義の実験過程にあって、社会党を含めた既成の政党や宗教、民主的団体といった人たちが手を伸べようとしなかった底辺に、積極的に入っていき、拾い上げたといるう点では、この時点までの創価学会は社会的、進歩的な意義を持っていたと思う。
内藤 それは創価学会の功罪の功ですね。それについてはぼくも大いに認めたいと思います。
藤原 そう、功ね。しかしよく、“金は魔物”というけれど、学会員が増え、あるていどまとまった金が集まり動くようになると、質的な転換が始まってくる。例えば、銀行などの金融資本が群がってきて、創価学会様々といってまあ大切にするようになる。大石寺の正本堂を建設する時に集めた数百億(三百億とも四百億ともいわれる)といった金だって、その間銀行に預けておけば巨大な利息がついてくる。そこでお金の魔力に引っかかってしまう。利息というのは、金融資本のメカニズムであって、宗教のメカニズムではない。
宗教というものは、こういった世俗的なものを、あるていど無視したところでないと成り立たない。ところが現実には、金融資本のメカニズムのとりことなって、利息計算に力を注ぐようになる。あるいは、その金力に対して、社会のいろいろな分野が頭を下げてくる。
そういう意味での利益誘導と権威の誇示に、宗教勢力がこれほど巧妙に使われたケースはこれまで少ない。つまり弱い者ほど強い者にすがりたい、守ってもらいたい、と思って学会に入った。ところが結果においては、少しも報いられていない、ということなんだ。
大石寺の坊主が“ネズミ講”だというように、一部の人間だけが、建物を建てたり、ぜいたくをしたりしただけのことだった。
古来、宗教というものは、多かれ少なかれ創価学会と似たようなものであり、宗教によって助けられた人間なんて、古今東西を通じてほんとは一人もいないんだよ。
創価学会の思想というのは、“利の肯定”なんだ。美だとか善とか、神聖とか創造された価値とかではなく、利を重んじることだった。そこに、日蓮正宗と結びつく共通点があったし、あるていど商業資本のイデオロギーになりえたし、大衆のイデおロギーにもなりえた。
しかし、現在のように国家や地方自治体がどんどん福祉政策を取り入れる、それからあらゆるマスコミが池田大作以上に、ワサビの利いた話をしてくれる人間をたくさん作り出してくれるようになると、座談会や会合に行くよりも茶の間でテレビを見ている方が、もっと面白く、楽しいといった状況が生まれてきている。
池田大作に近づけばしびれるというのは、プロ野球をグラウンドで見ないと気がすまないという、ごく一部の限られた人々になってしまう。宗教団体というのは、ただ金を集めるためにだけ信者が必要だということになり、信者は利用価値、利益がないから、だんだん金を出さなくなってくる。
そこで今度は、集まっている金の威力にものを言わせなければならない、といった必然的な段階になる。創価大学を作りましょう、高校も作りましょう、全国に保養所や会館を作りましよう。そして、それは学会員であるあなたがたのものだから、どうぞ自由に使って下さい。これがご利益であり、あなたがたのパワーなんだ、というふうに変質してきたところに、創価学会の大きな問題がある。
宗敎というものが、お金を出すということで、自分の宗敎心の証しにしなさい、といった場合に、その集まったお金が、量から質へとパワーアップしていき、ひとりで動き始め、人間をその中に巻き込んでいってしまうという金融資本のメカニズム、法則について、どれだけ創価学会の幹部が見通しを持っていたかとなると、ほとんどがゼロに近かったんじやないかと、現在の姿から考えると思えるんだよ。金が人間を変えた面が大いにある。
内藤 たとえば、ベトナムの難民問題がそうですね。日本は難民を引き受けようとしない、といって諸外国から非難されているわけですけど、これは、日本に本当の宗教団体が少ないからでもあるんです。創価学会にしても、これだけのお金を持っていて、しかも池田名誉会長は世界各国を回って、超一流のリーダーの人々と会ってるし、組織として東南アジア諸国にも支部をいっぱい持っている。それなのに創価学会という宗教団体として難民を引き受けよう、との気持は全然ない。かえって以前に激しく対立した立正佼成会の方が難民を引き受けたりもしている。学会は社会への関心が少なすぎるんです。
ただ、ぼくは、ああこれ、創価学会なんだなァと、時々思い知らされるのは、先日も神戸からの帰りに新幹線に乗ったんですが、満員の車内のふんい気がいつもとなんとなく違ってるんですね。そこで車掌にどこか空いている席はないか、聞いたんです。そうすると車掌が声をひそめて「この人たち皆創価学会なので、名古屋で降りますから」っていうんです。それで興味を持って観察していたんだけど、たしかに名古屋で皆降りたのは降りたんだけど、その道中というか車中というか、ぼくは別にインテリを以ってよしとするわけじやないけど、およそ本を読んだり議論するというか、知的雰囲気といったものがまるでない。
藤原 飲んだり食ったりワイワイと歌ったり、完全にそれだけなんだ。修学旅行のガキより程度がよろしくない。
内藤 まさに既成組織がこれまで手をさし伸べようとしなかった人たちの集まりだって、痛感したね。
藤原 それが池田大作のいう下級宗教なんだ。世界的な宗教というのは、皆さん上級宗教なんだ。創価学会の果たした役割というのは、そういった底辺の人たちに、民主主義といっても、その意味内容の判らない人たちの精神革命をやり、底辺の底上げをやる、といった下級宗教を始めたことなんだ。たしかに、その点で学会が寄与したことは認めねばならん。
しかし、底辺が底上げされたということは、お金が豊富になったということだけであって、はたして内面的な豊かさ、彼らの一人ひとりが、社会人として責任を持てる層になったことを意味するのか、それから現実の社会の中で、他の人間を良い意味でリードできるまでに成長しているのか、といったことを考えてみると、ほとんどないんだな。そこにこそ問題がある。
だからぼくは、彼ら底辺の人たちの、エゴイスティックな欲求に対応しただけの“エゴイズム教”ではないか、とさえ思っている。金だけじやなく、とにかくすべてのもの、自分たちが集めたものは、自分たちで使わなくちゃソンだと考えている、恐るべきガメツサを露骨に示している。だから人間的な寛容さがない。閉鎖された世界での、昔の山間僻地での、交通を含めたあらゆる分野で世間から隔離されて、小さな村の中で血族結婚を繰り返し、血族以外のすべての他者を排斥してきた、陰惨なエゴイズムというか、そんな感じの濃厚な宗教集団だといえるなあ。
----------(つづく)---------75