創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会に未来はあるか-15

2020-04-30 08:25:11 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------69

◆ 金集めに利用されるだけの信者
藤原 ぼくは創価学会というのは、やはり一種の“ハングリー宗教”ということが原点だったと思うんだ。飢えたる宗教、飢えたる狼であったんだ。
 それが一定の社会的な水面に出てくるのは、高度経済成長のおかげなんだな。経済がどんどん発展するということは、分け合うパイがどんどん大きくなっていくから、必然的に一人当りの取り分が増えてくる。誰もがパイの分け前が増え、懐が暖かくなる。
 社会の方向自身が、金を儲けるという方向を目指しているんだから、現世利益という現証は、必ずしも日蓮正宗や創価学会の力ではなくて、日本の経済力の世界経済のなかでのめざましい発展によっていわば自動的に与えられる。
 ぼくが批判するのは、この高度成長期に、貧乏人の方から金を卷き上げた、その“金権体質”でもあるんだ。せっかく高度成長の恩恵にあずかり、パイの分け前をいくらか多くしてもらった階層から卷き上げる、そのエゲツなさを批判したわけだ。
 ところがだんだん日本の底辺が引き上げられて、ハングリーな面が消えてきた。そうすると次には飢えによってではなく、金を使ってかせぐ、つまりユダヤ商法のようにガムシャラに儲けた金、今度はその金利でかせぐということになる。
 こうなると、たいていの宗教が精神的にダメになってしまうんだ。

 創価学会を構成している一般の学会員というのは、戦後日本の民主主義という粗い網の目から落ちこぼれた人たちなんだ。地方の農家の次、三男といった人たちが、都会へでてきたけれど、小企業や町工場、商店、それも飲食店といったところしかなかなか勤め先がない。もちろん大企業の労働組合と違って、誰も守ってはくれないし、頼れる人もいない。そこで何かないものかと探している時に創価学会と出会うワケだな。
 そこに行くと、自分と似た境遇の仲間がたくさんいる、一種の草の根“根っこ集団”なんだ。
 仕事話、生活の悩み、いろいろと聞いてくれ、かばってくれる。都市型村落共同体なんだ。
 この時代は、創価学会・公明党がぐんぐん伸びた時期でもある。自分たちが働いているリズムと社会のリズムとが補完作用をもって、ビッタリと合っているわけだ。
 この戦後日本の民主主義の実験過程にあって、社会党を含めた既成の政党や宗教、民主的団体といった人たちが手を伸べようとしなかった底辺に、積極的に入っていき、拾い上げたといるう点では、この時点までの創価学会は社会的、進歩的な意義を持っていたと思う。

内藤 それは創価学会の功罪の功ですね。それについてはぼくも大いに認めたいと思います。

藤原 そう、功ね。しかしよく、“金は魔物”というけれど、学会員が増え、あるていどまとまった金が集まり動くようになると、質的な転換が始まってくる。例えば、銀行などの金融資本が群がってきて、創価学会様々といってまあ大切にするようになる。大石寺の正本堂を建設する時に集めた数百億(三百億とも四百億ともいわれる)といった金だって、その間銀行に預けておけば巨大な利息がついてくる。そこでお金の魔力に引っかかってしまう。利息というのは、金融資本のメカニズムであって、宗教のメカニズムではない。
 宗教というものは、こういった世俗的なものを、あるていど無視したところでないと成り立たない。ところが現実には、金融資本のメカニズムのとりことなって、利息計算に力を注ぐようになる。あるいは、その金力に対して、社会のいろいろな分野が頭を下げてくる。
 そういう意味での利益誘導と権威の誇示に、宗教勢力がこれほど巧妙に使われたケースはこれまで少ない。つまり弱い者ほど強い者にすがりたい、守ってもらいたい、と思って学会に入った。ところが結果においては、少しも報いられていない、ということなんだ。
 大石寺の坊主が“ネズミ講”だというように、一部の人間だけが、建物を建てたり、ぜいたくをしたりしただけのことだった。

 古来、宗教というものは、多かれ少なかれ創価学会と似たようなものであり、宗教によって助けられた人間なんて、古今東西を通じてほんとは一人もいないんだよ。
 創価学会の思想というのは、“利の肯定”なんだ。美だとか善とか、神聖とか創造された価値とかではなく、利を重んじることだった。そこに、日蓮正宗と結びつく共通点があったし、あるていど商業資本のイデオロギーになりえたし、大衆のイデおロギーにもなりえた。
 しかし、現在のように国家や地方自治体がどんどん福祉政策を取り入れる、それからあらゆるマスコミが池田大作以上に、ワサビの利いた話をしてくれる人間をたくさん作り出してくれるようになると、座談会や会合に行くよりも茶の間でテレビを見ている方が、もっと面白く、楽しいといった状況が生まれてきている。

 池田大作に近づけばしびれるというのは、プロ野球をグラウンドで見ないと気がすまないという、ごく一部の限られた人々になってしまう。宗教団体というのは、ただ金を集めるためにだけ信者が必要だということになり、信者は利用価値、利益がないから、だんだん金を出さなくなってくる。
 そこで今度は、集まっている金の威力にものを言わせなければならない、といった必然的な段階になる。創価大学を作りましょう、高校も作りましょう、全国に保養所や会館を作りましよう。そして、それは学会員であるあなたがたのものだから、どうぞ自由に使って下さい。これがご利益であり、あなたがたのパワーなんだ、というふうに変質してきたところに、創価学会の大きな問題がある。
 宗敎というものが、お金を出すということで、自分の宗敎心の証しにしなさい、といった場合に、その集まったお金が、量から質へとパワーアップしていき、ひとりで動き始め、人間をその中に巻き込んでいってしまうという金融資本のメカニズム、法則について、どれだけ創価学会の幹部が見通しを持っていたかとなると、ほとんどがゼロに近かったんじやないかと、現在の姿から考えると思えるんだよ。金が人間を変えた面が大いにある。

内藤 たとえば、ベトナムの難民問題がそうですね。日本は難民を引き受けようとしない、といって諸外国から非難されているわけですけど、これは、日本に本当の宗教団体が少ないからでもあるんです。創価学会にしても、これだけのお金を持っていて、しかも池田名誉会長は世界各国を回って、超一流のリーダーの人々と会ってるし、組織として東南アジア諸国にも支部をいっぱい持っている。それなのに創価学会という宗教団体として難民を引き受けよう、との気持は全然ない。かえって以前に激しく対立した立正佼成会の方が難民を引き受けたりもしている。学会は社会への関心が少なすぎるんです。

 ただ、ぼくは、ああこれ、創価学会なんだなァと、時々思い知らされるのは、先日も神戸からの帰りに新幹線に乗ったんですが、満員の車内のふんい気がいつもとなんとなく違ってるんですね。そこで車掌にどこか空いている席はないか、聞いたんです。そうすると車掌が声をひそめて「この人たち皆創価学会なので、名古屋で降りますから」っていうんです。それで興味を持って観察していたんだけど、たしかに名古屋で皆降りたのは降りたんだけど、その道中というか車中というか、ぼくは別にインテリを以ってよしとするわけじやないけど、およそ本を読んだり議論するというか、知的雰囲気といったものがまるでない。

藤原 飲んだり食ったりワイワイと歌ったり、完全にそれだけなんだ。修学旅行のガキより程度がよろしくない。

内藤 まさに既成組織がこれまで手をさし伸べようとしなかった人たちの集まりだって、痛感したね。

藤原 それが池田大作のいう下級宗教なんだ。世界的な宗教というのは、皆さん上級宗教なんだ。創価学会の果たした役割というのは、そういった底辺の人たちに、民主主義といっても、その意味内容の判らない人たちの精神革命をやり、底辺の底上げをやる、といった下級宗教を始めたことなんだ。たしかに、その点で学会が寄与したことは認めねばならん。
 しかし、底辺が底上げされたということは、お金が豊富になったということだけであって、はたして内面的な豊かさ、彼らの一人ひとりが、社会人として責任を持てる層になったことを意味するのか、それから現実の社会の中で、他の人間を良い意味でリードできるまでに成長しているのか、といったことを考えてみると、ほとんどないんだな。そこにこそ問題がある。
 だからぼくは、彼ら底辺の人たちの、エゴイスティックな欲求に対応しただけの“エゴイズム教”ではないか、とさえ思っている。金だけじやなく、とにかくすべてのもの、自分たちが集めたものは、自分たちで使わなくちゃソンだと考えている、恐るべきガメツサを露骨に示している。だから人間的な寛容さがない。閉鎖された世界での、昔の山間僻地での、交通を含めたあらゆる分野で世間から隔離されて、小さな村の中で血族結婚を繰り返し、血族以外のすべての他者を排斥してきた、陰惨なエゴイズムというか、そんな感じの濃厚な宗教集団だといえるなあ。
     ----------(つづく)---------75

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創価学会に未来はあるか-14

2020-04-29 08:13:54 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
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Ⅴ 学会の「宗教度」を診断する
◆ 学会は「ネズミ講と同じ金集め集団」?
内藤 ぼくは今回の創価学会と宗門の争いを見ていてつくづく感じるのは、一面ではたしかにギマン的ではあるけれど、またある面では非常に可哀相だなァ、と感ずるわけです。というのも創価学会の人たちは、本質的に坊さんたちを否定する集団として出発してるんじゃないかと。

藤原 そうすると宗教とは何か、はたして創価学会は宗教団体なのか信者集団なのか、むずかしいところがあるな。ただ一つの歴史的事実として言えるのは、日本の宗教というのは、特に江戸時代にその典型があるんだが、権力に完全にゆ着して生き伸びてきていること。
 江戸時代の場合は、当時の徳川幕府の鎖国政策、キリスト教弾庄の手段として、既成の宗教は利用されながら、ただ権力の方針に従っているだけなんだ。
 明治以後にしても、国家神道を形骸化しながらも、結局それぞれの時代の中で一番権力を持っているもの、つまりある時期の軍部にも迎合していってしまう。現代ふうに言えば“主体性”や“自主性”あるいは“独自性”ということになるかも知れないが、日本の既成宗教の場合一貫して、これらのものがないんだな。
 ただひたすら時の権力に迎合し、ゆ着し、その言いなりになってきた。宗教というものは、人間一人一人の心の中に精神の王国とでも言うべきものを作るのが目的とすれば、日本の場合にはまったく逆に、権力に対する精神の奴隸になることに努めてきている。
 こうした日本の既成宗教の本流から落ちこぼれた者が、それぞれの時代にそれなりの新興宗教として名乗りを上げることになった。

 創価学会の場合には、牧口常三郎という一人の変人が、自分の考え方をコツコツ書いてみた哲学的なるものから出発している点で、日本の今までの新興宗教とは、全然違った始まり方をしている。たまたま二代会長になった戸田城聖という香具師みたいな男が、当時一番小さく、一番貧乏だった日蓮正宗に目をつけて、これとうまく手を結んだのが、今日の隆盛の一番大きな原因になってるんだ。しかも、戦時中は弾圧されたというので、軍国主義や天皇制批判ができる、といった戦後的な好条件にも恵まれたというわけだ。
      
内藤 創価学会の場合、幹部はもとより一般の会員にいたるまで、坊さんたちにあまり多くの期待を持っていない。事実、折伏をし、信者を増やしてきたのは在家のオレたちじゃないか、といった意識を共通して持ってるわけですね。その辺が今藤原さんが言われた哲学から入って日蓮正宗にくっついた、むしろ自分たちの哲学を日蓮正宗という衣を借りて広めよう、ということなんだと思うんですが、そこが他の宗教や宗派と根本的に違う。
 坊さんや宗門に対して絶対的な権威や意識を持っていないところなんでしようね。権威を認めず、尊敬してないから、いつでも平然として坊さんたちをつるし上げたり、血祭りに上げるようなこともできた。ところが今回、破門のおどしをかけられて、宗門に頭を下げ、僧俗和合をうたいあげることで、不本意ながら坊さんを持ち上げざるをえなくなった。きっと腹の中ではコンチクショウとハラ煮えくりかえる伏况だと思うんです。
 ところが宗門側、なかでも学会批判派の僧侶たちには、反対に創価学会は今や宗教団体じゃないんだ、という意識がある。

藤原 要するに寄進団体だ、金さえ集めてくれりゃいいんだというわけか。

内藤 そうまではっきり言わないが、ともかく、「ネズミ講と同じ金集め集団でしかない」ときめつける僧侶もいますね。

藤原 だけど、その坊主たちの実体というものは、そうした創価学会の集めてきた金で、さんざんぜいたく三昧をしてきてるんだ。つまりこの問題には両面がある。創価学会ももちろん悪いが、大石寺の坊主どもも堕落しとるよ。
 昔から“煮ても焼いても食えない”ものの代表が坊主だったが、とにかくこの坊主ほど、のらりくらりと言い逃れのうまいものはない。そんな坊主どもには創価学会を批判する資格なんかはまあないね。
 あれだけ立派な建物を建ててもらって、信者はいっぱいくるし、金儲けはどんどんできるしね。大石寺のしたことといえば、ご本尊を貸して模刻させただけ、いってみれば偽造を許しただけのことだろう。けしからんよ。大石寺自身が堕落しとるから、こういうトラブルが絶えないんだよ。

内藤 宗門側としてもタテマエとしては、創価学会を破門して一般の純粋無垢な学会員を困らしてもいけない、みたいな逃げ口上があって、そこに創価学会と宗門とが一種のダマシ合いみたいにして“手打ち式”をする理由がある。本当は、出家と在家両組織の、お互いのタテマエとホンネが一致していれば、ぼくらのような外部観察者が介入する必要はないんだけど、公明党と同様に、言ってることと行なってることが百八十度違ったり、くるくる変わったりしている。
 もっともぼくの場合、その違いが創価学会の問題に首を突っ込むキッカケになったのですけど。

藤原 宗教というものを寺を中心とする狭い地域に閉じ込めておいて惰眠をむさぼるものか、その目的を広く社会にうち出して社会的パワーとして組織していくのか、といった宗教自身のもつ矛盾が現われているわけだ。
 鎌倉時代、当時、新興宗教であった日蓮宗が京都で伸びたのも、町人たちに対し現世利益として金儲けをしてもいい、といったはっきりした肯定こそが、キメ手になっていたんだ。それは、ある意味においては、当時の主流派であった親鸞とか法然とかの本願寺系や浄土宗系統、それに禅宗といったものの、即身成仏を祈念するだけの“あの世”思想に対する“この世”思想という革命的な意味を持っていたんだ。

 死んでからの“あの世”よりも、今生きている“この世”を強烈に肯定して、現世の利益を追求していく、それが日蓮の原点でもあるわけで、日蓮の教義からいっても、そうした精神主義と物質主義というものは常に矛盾しているし、必ずその矛盾は社会的には無限に分裂していかざるをえない。
 ぼくは、地下の日蓮さんは案外、今の大石寺も創価学会も、オレの言ってることを少しも理解してない、みんな一種の外道じやないか、と言ってるかも知れない。そんな気がするんだ。
     ----------(つづく)---------69

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創価学会に未来はあるか-13

2020-04-28 09:00:17 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
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◆ 学会の資産はすでに三兆円?
藤原 一説によると、学会の資産は二兆円だ、三兆円だ、といわれているが、本当のところはどのくらいかね。

内藤 ぼくが二年くらい前に聞いたところでは、約二兆円ということだったから、資産の評価上昇分を含めると、いまでは三兆円を超えているかもしれない。

藤原 しかし、そういう形で全国に散在しているところのいろんな財産にしたって、宗教法人になっているところはなかなか処分しにくいところがあるから、財産といっても、本当の財産と呼べるかどうか、難しいところもあるんだな。
 逆にいえば、だからこそ免税されているともいえるんだ。

内藤 宗教法人が免税されているというのは、その組織が未来永劫正常に機能し続けるんだ、という前提があるわけでしょう。
 だからこそ、財産管理にしろ全部そういった宗教団体にまかせているわけだ。そこには最少限度にしろ、お互いの信頼関係がある。特に宗教者というものは、一般の人に比べると、ごまかさない、ウソをつかない、といった暗黙の了解がある(笑い)。
 なにしろ、凡愚の精神を助けるのが使命なんだから(笑い)。ところが、いざ現在の創価学会のような異常な状態になってくると、どうしても国家機関が一人一人の会員に替わって監視し、チェックする、といった必要性が生じてきてるんじゃないか、と思うんです。

藤原 創価学会だけでなく、他の宗教団体にしても、現在ではあまりにも営利的行為が目立ち過ぎる。幼稚園から結婚式場まで、宗教法人の名に隠れてけっこう商売をやっている。
 これが税金の対象にならんという、バカな話はないんだ。坊主だって飯を食って生きなきゃあならんわけだし、生活のための所得は必要なんだから、純粋に社会に還元されるような宗教活動であれば、免税ということも納得できる。
 しかし今話されたように、いろんな営利が目的のような活動、特に現在国民的規模で頭を悩ましている“土地問題”ということであれば、たしかにつっつくと百家争鳴ということになりかねんけど、しかしここらで事の善悪をはっきりしなきゃあいかん段階にきているのも事実なんだ。
 せっかく内藤君が時間と労力をかけて、どこそこの土地が創価学会によって買い占められていると暴露してみても、これに対する反応が弱いな。
 これが原子力発電所の建設だとでもいうと住民パワーがワッと起こるんだが、宗教団体が土地を買い占めても住民パワーがちっとも起こってこない。そこが問題なんだ。

内藤 住民の反発がそれほど大きくはないですけど、横浜の山下公園の一角に創価学会が会館を作った時には、日照権の問題で付近の人から抗議が出されたり、あるいは住宅街の近くに墓地を作ったりした時など、それなりに反響はあったようですね。

藤原 池田大作というのは、いろいろ本を書いて学会員に売りつけているワケだから、当然のこととして印税もずいぶん入って儲けたわけだ。儲けたものは全部自分の金だといって、「オレの金で創価大学を作った」なんて当人はしごく平気でいってるわけだが、そうしてみると、個人収入では松下幸之助なんか足元にも及ばないほどあることになる。そっちはどうなっているのかな。

内藤 そういう個人的な収入は、全容がまるでつかみきれませんねぇ。だいたい学会の幹部というのは、月給制度になっていないんだそうですよ。だから、創価学会の会長としての月給はないはずですよ。同様に、副会長や理事たちもない。

藤原 まるであの笹川良一と同じじゃないか。社会奉仕のため無袷でやっているといっては、家計をふくむ個人的な経費としては月々何百万も使ってるしかけかな…おかしなもんだよ。

内藤 その代わりに、兼職による収入があるわけですよ。創価学会の会長や副会長としての収入はないが、兼職している「聖教新聞」の役員などの収入はある。同様に、関連企業の潮出版や第三文明社とかね。その辺で、池田大作さんの人事権が微妙に影饗力をジワジワと発揮されることにもなるのです。

藤原 共産党とちょっと似ているな。内部での兵糧攻めか。うかつに直言や忠告、反対意見をいうと、収入の低いところに飛ばされるわけだな。うまくできとるらしいな。
     ----------(つづく)---------64

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創価学会に未来はあるか-12

2020-04-27 09:41:19 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------56

◆ 学会会館の建設を何故急ぐのか
藤原 文化会館というのか、最近全国にいっぱいできているが、あれは創価学会の法人所有なのかね。

内藤 その辺が奇妙な例もあるんですよ。例えば、東京の目黒区に目黒文化会館というのがあります。これが一時期創価学会の所有物だったんですが、いつの間にか公明協会に売られていたんです。そして、公明党の別館のように使われていたんですが、それがまたいつの間にか民間の会社「拾伍」という組織に売られていて、今や結婚式場になっている。ちょうど田中角栄元総理の不動産ころがしが社会問題化しましたが、あれとまったく同じことが創価学会でもおこなわれている。

藤原 宗教法人だと営利行為ができないから、名義だけ変えてるんだろう。

内藤 ぼくが最近痛感しているのは、なるほど法律というのは大切なんだなァ、というごく平凡なことなんです。というのも、後で話しますが、創価学会についてどんどん取材を深めていくと、われわれの常識ではとても判断できないことがいっぱい出てくる。そうした社会の常識の枠を越えた行為が現実におこった場合、そういう不測の事態に備えて取りきめをしておくのが法律なんだ、というあたりまえのことがわかってくるのです。
 先ほど会館の話が出ましたが、さらに問題なのは、創価学会の土地買い占めの全国的規模の膨大さなんです。いくつか例をあげますと、--
・まず昭和五十一年に和歌山県の白浜温泉にあるホテル・ブルースカイの買収、これは現在「大洋山・関西研修道場」と名づけられて学会員の保養に使われている。その総面積は二万平方メートルを超す広大なものです。
・さらに九州の霧島・屋久国立公園には高さ十二、三メートルの「広宣流布の塔」つき「創価学会九州研修所」で、こちらは四万一千平方メートルだそうです。これがどんなに広いかは、東京の後楽園球場が約一万一千平方メートルですから、いずれもその二倍から三倍ということでもわかる。いくら民有地とはいっても、国立公園の中にこんな建物がどんどん建てられているのは、環境庁などへの公明党の圧力なしには考えられない。しかもこの時は、ある民社党の議員が、国立公園内にこんな景観をこわすようなものを建てるのはケシカラン、というので調査に行ったところが、創価学会の青年行動隊に入口で阻止されているわけです。国会議員の国政調査権も入れない、治外法権地区になってしまっている。
・さらに同じ国立公園である東北の十和田・八幡平の「錦舞山・東北総合研修道場」の場合は、十和田温泉郷から歩いて十五分ほど十和田湖寄りに入った、奥入瀬渓流の中でももっとも眺望のよいところに四万三千平方メートル。これも後楽園球場の三倍以上という広大なもので--
・もっと広いところは、北海道の大沼国定公園内にある二代会長・戸田聖城氏の記念公園にすると造成中のもので、約六万七千平方メートル。後楽園球場が五つすっぽり入ってもまだ余裕があるというほど広いんです。
・その他、那須や富士山ろくにも一万平方メートルクラスのものがあり、全国の国立公園、国定公園、自然公園等々七か所を合計すると、のべ七十五万平方メートルという途方もない広さです。後楽園球場が七十近くも作れるということですネ。
 樹木一本動かすだけでもきびしく規制される国立公園の中で、公明党の圧力をバックにして、宗教団体の活動とはとても信じられないことをしている。
 しかも、いずれも宗教法人だから税金は一切かからない。こんなバカ気たことは、とても普通の常識では考えられないんです。

藤原 そこが日本の税制の奇妙なところで、宗教法人の名がつくと一切税金がかからない。ぼくは、純粋に宗教的な活動であるならば免税してもかまわないと思うが、少しでも営利に抵触するような、あるいは宗教的なものから逸脱した、いま内藤君がいった国立公園を破壊して建てた記念公園なんてのはその最たるものだが、そうしたものには一般の企業並みにどんどん税金をかけろといってるんだ。そうすりゃ、大平首相のように、財源がないなんて泣き言をいわなくても十分余裕があっておつりがくるくらいだよ(笑い)。
 もっとも、自民党としては公明党に恩を売っておきたいから、目をつぶっているんだろうが、そういう巨大な財源に目をつぶって、マジメに働いている中間階級やわれわれのようなものからだけ取り立てようなんていうんだから、こりゃ大平首相も池田大作と同罪だよ(笑い)。

内藤 土地の問題もそうですが、初めに出ました会館の問題ですネ。あれは昭和五十五年に創価学会が創立五十周年を迎える、その時までに全国で四百か所以上もの研修所や会館を新増設しよう、という池田大作さんの大構想から始まっているわけです。
 すでに昭和四十九年からの四年間だけでも、全国で百五十か所以上もの研修所、文化会館、婦人会館、記念館、センター、クラブ、公園、庭園、墓苑、学校、図書館が新設され、増改修されている。この会館建設は曰本だけでなく、東南アジアから北米、南米、ヨーロッパにまで広がっているんですから、その資金力には驚かざるをえない。
 特にこの土地買占めで象徴的なのは、東京都八王子市なんです。ここ五、六年で八王子市の北端にある丹木町、加住町、谷野町、梅坪町の四町にまたがる山林や田畑を、札ビラ切って買い占めている。ご存知のようにここには創価大学があるわけで、この創価大学を中心に、噂では約三十万坪を買い占めたといわれている。おそらく将来は現在東京の信濃町にある学会本部をここへ移すんではないかと予想されるのは、たとえば、ここは自然環境に大変恵まれた“第一種住居専用地域”なのに、公明党の都議会議員が東京都や八王子市に圧力をかけて、高層ビルの可能なただの“住居地域”にしろ、とムリヤリ迫っているからです。
 地元の人たちにとっては、一種の恐慌なんですね。いつ“豊田市”や“日立市”のように、八王子市が“創価市”にカネで買い取られてしまうかわからない。豊田市や日立市の場合ですと一般の企業だけに、事業税であるとか雇用であるとか、それにイメージにしてもそれなりに納得できるものもあるが、これが“創価市”では税金は一銭も入ってこないし、市民はみな創価学会の信者と間違えられてしまう。

藤原 そこまで行くと、やはり大きな社会問題になるだろうな。そりゃ、「創価市」市議会議員の共産党員や社会党員なんていうの、みっともなくてやれたもんじやないや。自民党にしても民社党にしても、それは同じだろうがね。おそらく問題は、そこまで手を広げている一宗教団体の純然たる営利行為を安易に見逃がしている政党、行政、マスコミを含めた、すべての人の側にあるんだな。
 そうした会館が全国にできるということは、大石寺にとってはやはり脅威だろう。大石寺としては、そういった会館等を末寺にして、そこに坊主を派遣したいんじゃないかな。本願寺の場合は、そうして相続を認めることで今日のように全国的に広まったんだが、日蓮正宗の場合、相続を認めてないからね。末寺を乗っとられる恐れもある。

内藤 ただ、状況が現在のように学会員が“酔い”からどんとんさめてくると、今度は施設を維持するための金集めが難しくなってくる。そうすると、そうした会館なんかの不動産を逆に切り売りしていかなくては、といった状況も生まれてくる。

藤原 宗教法人の場合は、不動産にしろ、それによつて利益を上げていたのでは税金の対象になるし、法的にも不可能であるから、そうした目黒区の場合のように結婚業者などに場所を貸して、場所代という名目でビンハネする、という可能性はあるね。

内藤 そこにまた宗門との微妙な対立関係が生まれてくる。というのも、この目黒の文化会館の結婚式場にしても、司祭をやるのはみな背広姿の創価学会の幹部なんだ。これは完全な宗門の否定になっちゃうわけだ。ということが、今回の宗門と学会のトラブルを招いた一つの原因になっている。ところが、トラブルが一応落着している現在でも、それぞれの現場ではやはり坊さん不在で、坊さんを無視した形で在俗の学会幹部が司祭をしている。

藤原 坊主の方も、司祭をしなければそれなりの重要な役目がなくなってしまうからな。
     ----------(つづく)---------61

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創価学会に未来はあるか-11

2020-04-26 06:55:52 | Weblog

--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
・もし(将来)自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合…(池田創価公明と)自民党とで連立政権を組み、…自民党の右翼ファッシズム的要素と、公明党の宗教的ファナティックな要素の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制となるだろう!(創価学会を斬る・藤原弘達の警告・昭和44年)
・(平成10年から)小渕・小泉・阿倍らは池田に土下座し、自民党支持を依頼した!
・かくて今日までの20余年、アクセルとブレーキ同時の政教一体(国・地方共)自公連立政権となり、自民は勿論、(宗教テロ恐れる)野党・有識者・マスコミなど各界の沈黙が続く!
・宗教政党が、個人・家庭・社会・国の“絶対悪”であることは、古今東西の歴史である!

創価学会に未来はあるか! /昭和54年(=1979年)・日新報道出版部 共著・内藤国夫
  --「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相--(目次は第2回に掲載)
  ---------(以下、本文)-------52

Ⅳ 変わらぬ、信者を食いものにする金権体質
◆ 北条就任とともに早速始まった金集め
内藤 池田大作さんは、ある面において凄い人だなァとぼくが思うのは、たとえば、創価学会というのは池田さんの指揮で会員を、いってみれば酔わせているわけでしょう。だからこそ、あんなに寄付も集められたし、正本堂も寄進できた。つまり、それだけ大衆の心をつかんで酔わせることができた、ということなんです。
 ところが現在では、心ある会員たちの酔いが、どんどんさめてきている。かといって、北条さんには大作さんのように、大衆を酔わせるカリスマ的テクニックはない。北条さんも大変だろうと思うんです。

藤原 宗教は金をとるために人の心を酔わせないとダメだからね。一種のエクスタシー産業なんだ。ご利益がすぐ現われるような、そういった現証になるものをいつもいっていないとダメなんだ。一種のダマシのテクニックが必要なんだよ。

内藤 つい先頃(昭和五十四年七月)も、そういった会員たちが酔いのさめた状況の中で、恒例の“広布部員”による金集めをしている。これなんかも、創価学会の体質がちっとも変わってない証明のようなものですね。
 かって二代会長だった戸田聖城さんは「創価学会は宗教でカネもうけしようとする団体ではない」「おさい銭箱のない、会費さえないのが、創価学会のいいところだ。信者を欺してカネをとるぐらい、世の中に簡単なことはない。しかしそれをやると必ず地獄におちるから、そういうことはいかん、というのが私の精神なんだ」とはっきりいっている。
 池田大作さんにしても、昭和三十五年の会長就任直後に「創価学会は、たった一銭のカネといえども、会員に迷惑をかけていない。広宣流布の日まで、学会のつづくかぎり、学会員のみなさんから、一銭も寄付をとったり、迷惑をかけるようなことは、絶対にしない」と明言している。それなのに、いま、金集めのひどさといったら......。
 広布部員というのは、戸田聖城さんの頃、昭和二十八年に“財務部員制度”というのをこしらえて、数少ないお金持ちの会員だけから集めるとしてスタートしたんですが、池田さんの代になると、いつの間にか金持ちだけという枠がはずされてしまい、“すべての会員から集める”というふうに変わってきたのです。
 昭和五十二年には広布部員と名称を変え、金額もアップしたわけで、まるで、いろいろな生産メーカーが値上げの口実に同じ品物の名称を変えるのと同じ手管なんですね。
 特に今回がひどいのは、一口一万円で、一人最低二、三口、しかも二、三歳の幼児にまで割りあてたり、まだお腹の中にいる胎児まで、つまり名前すらない人にまで広布部員だということで、寄付させていることですね。
 おそらく、こんな金集めの方法は、世界の宗教史上にも例を見ないほど苛酷なものだと思うんです。どんな封建時代や奴隸制の時代にあっても、お腹の胎児から税金を取り立てたなんて聞いたこともない。ましてや、それが精神の豊かさを求める宗教法人がそんなことをしているんだから、あきれかえるほかはない。

藤原 一方では水子供養だといって人口流産で死んだ胎児を供養しながら、他方では胎児にまで寄付を強要する(笑い)。
 創価学会がここまで伸びた一番大きなキメ手は、すぐにご利益がくるといった現証でしょう。ところが、経済の発展がにぶりだして、安定成長ということになると、もうキメ手がなくなってくる。そこで、お腹の子まで範囲を広げなくちやならなくなったんだろう。

内藤 創価学会を辞めた人たちに聞くと、創価学会がタテマエとホンネを巧みに使いわけていることがよくわかる。本部の方では三十歳以上の経済的に余裕のある人、といっておきながら、末端に行くと地区別に割り当てられて、しかも競争意識をあおりたてる。
 どこそこの地区はン百万円集めたそうだ、といった噂が意識的に流される。そうすると、あそこに負けないように信心しようということで、カネ集めの範囲をどんどん広げざるをえない。生活保護を受けている人でさえ例外ではない。文字通りムシリ取るようにして、身ぐるみはいでいく。ぼくに泣いて訴えた母子家庭の女性なんか、小さな子供に洋服すら買ってやれない、それで娘さんが「母ちゃん、学会に寄付するお金で、一度でいいから私の洋服も買ってよ」と泣きつかれたそうです。その人は、今考えるとなんてバ力なことをしたのかといって、すごく恨んでましたけど。

藤原 “養老の淹”チエーンの木下藤吉郎なんかは、逆に学会をうまく利用して大きくなったんだからな。
 「大変なご利益があったよ。だけど、後で金とられるのはバカバカしいから辞めたよ。同じ使うなら他の方へ使えばいいんだから」と平気でいっているくらいだ。だから利巧な人間は学会を利用して儲けているわけで、それは酔わないでさめていた部分なんだ。末端で酔っている人間には、利用なんてとても考えられない。
 だから、身ぐるみはがされてもまだ酔っているんだ。鰯の頭も信心からというけど、金権体質の凄さということでは、やはり類を見ないんじゃないかな。
     ----------(つづく)---------55

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