創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-41

2015-10-31 09:05:50 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
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19-悪戦苦闘の編集作業
 問題の巻頭論文は、私が担当することにしました。何はともあれ、締め切りの期日まであと一ヶ月足らずしかないので、急場で頼れるのはこの人たちしかいないと、石田氏と高松氏に原稿を依頼しましたが、二人ともあっさり引き受けてくれました。特に高松氏は、昭和四十一年五月号から翌年の十一月号までのうち、「福祉経済」をテーマに七回も寄稿され、様々な角度から近・現代経済の分析を試みました。
 これらの福祉経済学説は、公明党の経済政策として採用されたはずです。そして現実の政治の場で活かされるべきだつたのですが、結果としてほとんどそうはなりませんでした。
 これには、公明党と高松氏の論文との両方に問題かあったと思われます。
 まず公明党の側の問題ですが、一九九〇年代の後半に、公明党は次第に自民党に接近していき、遂に政権与党に取り込まれ、自民党と一体化してしまうからです。とりわけ小泉政権は米国経済に做って、自由放任主義(市場原理主義)を志向した政策を採り、かって「一億総中流社会」とうたわれた日本を、米国に次ぐ格差社会にしてしまいました。これは福祉経済政策とは全く相容れないもので、長年、自民党政権に追随した公明党が「福祉の党」として「地域振與券」を発行せたり、「児童手当」の制度拡充を推進したりした「実績」もかすんでしまうほどの打撃を、民衆に与えたことになります。
 それは、公明党が福祉経済政策を推進してくれるものとばかり信じて投票してくれた有権者に対する大きな裏切りでもありました。
 では、高松氏の側の問題とは何だったのか。高松氏の福祉経済学説を要約して申しますと、資本主義経済(市場経済)システムを堅持しながら、同時に国家が経済に介入し、政治が経済を指導し、それによつて国民経済の発展と国民生活の向上を図ろうとするものです(高松和男著「福祉経済における国家の役割」、『東洋学術研究』昭和四十一年十二月号)。
 しかし、この理論は別段、目新しいものではありません。かって、アダム・スミス流の自由放任主義が行き詰まった時、欧米諸国がこぞって福祉経済政策を採用したのであり、その実績の一つが、ケインズ学派の完全雇用政策だったのです。ところが、一九七〇年代にそのケインズ流の福祉政策が米国と英国で行き詰まり、レーガン大統領とサッチヤー首相がその行き詰まりを打開しょうとして、再び自由放任主義を採用したわけですから、従来の福祉経済理論を踏襲した高松学説はこの時期になると説得力が乏しくなっていました。
 ただ、高松氏の論説の中で新鮮味が感じられるものとしては、彼の『福祉経済における国家の役割』の「むすび」で、「個人の幸福と社会の繁栄とがー致する『福祉社会』を建設することが目標とされなければならない」と述べられているところです。「個人の幸福と社会の繁栄の一致」とは、言うまでもなく、戸田城聖氏の『王仏冥合論』の一節ですが、私は、この戸田氏の言葉を「むすび」に入れる必然性はなかったのではないか、と思います。
 なぜなら、個人と社会の共存共栄は、戸田氏の独自の理念とは言い難く、「修身・斉家・治国・平天下」(『大学』)などとあるように、古来から儒教の根本思想なのでした。
 したがって「創価学会の主張を盛り込むようにしたい」などと安易に言えるものではないのでした。
 ともあれ、高松.石田両氏だけに頼っていては、近い将来、行き詰まるのは目に見えていました。そこで私は、学会の幹部の中で知性を感じる人を選んで、できうるかぎり資料を提供し、その人の口述を筆記しておいて、そこから原稿を作るなどの工夫もまぜて、一年半が過ちました。
 このまま月刊を続けるのは無理だ、と秋谷氏が判断したかどうかはわかりませんが、『東洋学術研究』は昭和四十二年十一月号で月刊を止め、翌年初めの冬季号から季刊に戻りました。同じ頃、私は秋谷氏に呼ばれ、「君は信心がない。このままでは辞めてもらうよ」と申し渡されました。
 この「辞職勧告」の背後には独裁者・池田会長がいて、私を奮起させるために、秋谷氏に言わせたものと思われます。しかし、私は勤め続ける気持ちがなくなっていて、言われるままに辞めてしまいました。そしてすぐ、ある人材派遣会社に雇われ、都内の某百貨店に派遣されて用度課に所属、毎日雑用を仕事として暮らすようになりました。

20-私が命じたら人を殺せるか?              
 人は、法(真理)と、法を正しく説く正師と善智識に帰依してこそ、幸福の道を歩むことができるのに、池田会長は自分の側近や大幹部(ないし全会員に至るまで)の資格として、会長に対する絶対の服従を求めました。学会顧問弁護士の山崎正友氏は、昭和四十五年当時、学会裏方の汚ない仕事を任されるに際して、池田から次のように言われたとのことです。
「私は、身命をかけて戸田先生を守った。戸田先生は私に、「俺が人を殺せと言ったら殺せるか」と言われ、ハイと答えた。その決意でお仕えした。君は、私が“人を殺せ”と言つたら殺せるか!」
 と。
 山崎氏は、その時には厳粛な気持ちで「ハイ!」と答えたそうです。
 池田は、しばしば戸田会長の言葉を創作しましたから、戸田氏の殺人を許容するかのごとき言葉も、本当だったかどうか、首を傾げざるをえませんが、池田が身命をかけて(?)「戸田先生を守った」のは事実だと思います。しかし、それは昭和二十五年の頃、戸田氏の営業していた金融業の会社(東京建設信用組合)が倒産した際、借金取りなどから戸田氏を守っただけのこと、仏法弘通のための法難とは全く開係ありません。
 殺人は仏法でも重罪の一つです。その殺人罪でさえ、師の命令ならば従順に実行するというのでは、邪悪の師を絶対視するもので仏法ではありません。
 後にオウム真理教の麻原教祖が大幹部たちを招集して、その一人に「お前は、ダル(大師、麻原のこと)が人を殺せと言ったら殺すことができるか」と問いかけ、「はい、できます」と答えさせたことが、裁判などを通して明らかになりました。池田創価学会も、極めて危険な体質を持つていることが分かります。
  ----------------改頁------194-つづく--

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池田大作と原島家-40

2015-10-30 03:29:51 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------184--本文

●16-会長に対する不信の増幅
 父の死の翌年、私にとつて池田会長に対する不信の思いが増幅するようなできごとがありました。品川の妙光寺で開かれた正本堂建設委員会で、池田は自分の席が日達上人より下位に設けられてあったことに腹を立て、妙光寺御住職・柿沼宗務総監を怒鳴り付け、会合を流会させたというのです。池田の頭の中には、法華経宝塔品の「二仏並座」の儀式があったのでしようか。自分を勝手に仏の地位にまで引き上げようとする大慢の振る舞いでした。父が存命ならば、絶対に許さなかったと思います。
 昔の思い出ですが、戦時中でさえ、父母につれられて幼い私たちはしばしば正宗寺院に参詣しましたし、終戦後、東京に住みつくようになると、父母は近くの常在寺をまるで菩提寺のようにして出入りし、私たちも何回か、御登座なさる前の日達上人(当時は常在寺の御住職)にお会いできて、親しくお言葉をかけていただくこともありました。
 私が『聖教』紙の文芸欄を担当した時、さっそく「正宗寺院めぐり」という囲みものの記事の連載を始めたのも、正宗寺院の歴史のすばらしさを、できるだけ多くの学会員に知ってもらおうという強い心づもりがありました。日達上人も柿沼総監も、私の不慣れな取材にも、丁寧かつ平易に教えてくださったあの柔和な御様子が、今も私の心に刻まれています。
 当時、私は大学院に入っていて、長く研究生活を送りたいと考えていました。ところが、父の死が、それを難しくしました。
 父の死の数日後に常在寺で行なわれた葬儀は、焼香の列が引きも切らず、佐藤首相の参列もあり、盛大に営まれました。
 葬儀の終了後、私は池田会長に呼ばれました。池田は「ここに香典が百万円ある。受け取りなさい」と言って、百万円の札束の入った袋を私に手渡しました。当時の百万円は現在の七、八百万円くらいの価値があったかと思います。さらに秘書を通して、「香典返しはこちらでしておくから、一切、心配しないように」との伝言がありました。
 数日後、本部近くで、弟・嵩に会いました。嵩は、その年の四月に教新聞社に入社、池田会長の著書や講演を代作するグループ「特別書籍部」で仕事を始めてすでに半年余り、会長の側近として、本部内のたいていのことは知り得る立場にありました。「香典はいくら戴いたか」と嵩に聞かれたので、「先生から百万円も載いた。嵩からもよくお礼を申し上げてくれないか」と言いますと、嵩はしばらく黙り込んでいました。その顔には、無知な私に対する哀れみとも同情とも取れる表情が浮かんでいましたが、「そう申し上げておく」と言って別れて行きました(この時の弟の複雑な表情の意味については、後で述べます)。
 この百万円と、通夜の弔問客(この中には自民党の田中幹事長もいました)から戴いたお金で、私がアルバイトをしなくても、節約さえすれば十年くらいは生活に困らないはずでした。ところが、当時の日本経済は大変な高度成長を続けており、物価もまた年々急上昇していて、我が家の蓄えは見る見る減っていき、父の一周忌を迎える頃には、あと二、三年も経たないうちに底を突く事態になっていました。
 事ここに至って、私は学業をあきらめ、生活のために働く決意をしました。私の年来の持病はなお快方に向かわず、体が衰弱していて、学業とアルバイトの両立は無理だったのです。そのような苦境の時、私はふと、父の故郷の美しい自然を思い出し、そこへ逃げて行きたいと思うこともありました。しかし、そこにはもう、父の家はない、したがって私の安住の地ではないと思い返し、嫌でも東京に留まることにしました。

●17-遺族に対する非情の仕打ち
 父(原島宏治)の死去の数日後、弟(嵩)に、父の香典として池田会長から百万円戴いた旨を告げますと、嵩はにわかに顔を曇らせて、しばらく何か言いたそうな様子でしたが、何も打ち明けずに去つて行きました。
 それから十余年の歳月が流れ、弟が池田の数々の謗法と反社会的体質を告発すべく立ち上がった頃、ようやくあの時の複雑な表情の意味を、私に説明してくれました。香典の額は、弟が把握しているだけでも、七、八千万円にもなるとのことでした。
 私が「香典のほとんど全てが遺族にわたらなかった事実を、公表する気持ちはあるのか」と聞きますと、弟は「いや、それはしない。香典のことを問題にすると、自分を卑しめることになるから」と答えました。弟はさらに、池田の乱れた女性関係も告発するつもりはない、と言いましたが、これについては、後に、やむをえない事情から公表することになってしまいました。
 七、八千万円(現在の貨幣価値としては五億円以上)とは弟の誇張ではないか、と思われるむきもあるかも知れません。しかし、父の葬儀は学会葬ならびに公明党葬として行なわれ、葬儀の間、多数の学会員が故原島理事長の遺徳を慕って参集し焼香した(昭和三十九年十二月十九日付『聖教新聞』)こと、当時、学会員世帯数が二百万を越えていたことなどを考え合せれば、けっして誇張ではないことが知られるでしよう。
 ちなみに、北条浩氏の死去の直後に見せた池田の非情(むしろ冷酷というべきでしょう)な仕打ちを、山崎正友氏は次のように描写しています。
「昭和五十六年、聖教新聞社の前にあった第四代会長・北条浩邸(以前、第二青葉寮といって池田の専用施設だった)は、北条氏の死去に伴い、約一億円で改装。北条未亡人は、老母や子と共に追い立てられた。ついでながら、北条氏の葬儀に集められた約二十億円の香典はすべて吸い上げるという銭ゲバぶり。しかも『あつい夏に死なれちや困る』などと周囲の幹部に平然と語った。池田に終生、忠誠を貫いた北条前会長にしてこの有様である」(『懺悔の告発』一九九四年)と。この記述も、私の経験から推して十分信用できます。

●18-相変わらず、学問の人材難
 父の一周忌を迎えた頃、生活の困窮を目前にして、母は池田に泣きつきました。そこで池田は、私を創価学会の学術雑誌『東洋学術研究』の編集員として採用、私は昭和四十一年一月から勤めることになりました。月給は3万円ほどだったと記憶しています。
 それまで、この雑誌は理工系大学出身のS氏が、ひとりで編集していました。当然ながらS氏は数学は得意で、ある時、アインシユタインの相対性理論の誤りを指摘し批判するという、勇ましい(?)内容の論文のゲラ刷りを校正していた時、私には全く理解不能の数式が連続して出てくるので閉口して、その校正をS氏に委ねました。
 するとS氏は、事も無げにすらすらと校正を済ませ、涼しげな顔をしているので、「こんな難しい数式がわかるのですか」と聞きますと、「この程度の数式はそれほど難しくありません」との答えが返ってきました。私は感心するとともに、S氏には失礼ながら、大学の理工学部出身というS氏の理解範囲の数式で、この論文がはたしてアインシユタインの誤りを指摘できるものか……と思わず苦笑させられました。
 ともかく、理系のS氏と文系の私と、うまく編集の棲み分けができて、私は幸せな二、三ヶ月を送りました。ところが、晴天の霹靂ともいうべき事態が、私を待ち受けていました。
 私が編集者となって三ヶ月ほど過ぎた頃、本部職員会議で秋谷総合編集局長が突然、「今後、『東洋学術研究』の巻頭論文には、こちら(創価学会)の主張を盛り込むようにしたい」と言い出したのです。
 会議が終わって編集室に引き返したS氏と私は、ほとほと困惑して、ただため息をつくばかりでした。当研究所は、最初から人材難で、特に巻頭を飾るにふさわしい質の高い論文を常時安心して依頼できる学会員の学者は、高松和男氏(東北大学教授、経済学博士、東洋学術研究所理事)ほか二、三名に限られていました。まして、当方の主張を盛り込めるほどめ教学力のある学者は、皆無に等しかったのです。
 石田次男氏(東洋学術研究所初代所長)も力のある人でしたが、長年、『聖教新聞』の編集長を務めた経歴の示すとおり、評論家の呼び名がふさわしく、体系的な知識の構築が要求される学者としての地歩を固めるには、なおかなりの時間が必要なはずでした。
 それでも創刊してしばらくの間は、石田氏の論文が首位にあり、高松氏がそれに近い位置を占めるというような構成が(例外もありましたが)続きました。ところがいつまでもそのような構成が通用するわけもなく、やがて学会員でない学者(それも有名大学の教授級)ばかりが卷頭およびそれに近い位置を占拠するようになっていたのです。
 したがって秋谷氏の提言(命令?)は当然だったともいえるのですが、人材難は相変わらずで、なお悪いことには、創刊当時の季刊から、今や月刊誌に変わっていました。
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池田大作と原島家-39

2015-10-29 08:05:46 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------175--本文

九、池田会長の代になって誤りが増幅
●13-池田会長の心の傷?
 戸田会長はもちろん、政治も含む一切法の根本指針となるべき宗祖の御書、法華経、涅槃経などの文証は心得ていました。さまざまな機会や著述を通して、弟子たちに自分の職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである、とも説いてます。
 しかし、戸田会長の亡き後の学会は、次第に宗祖大聖人の教えから遠く外れていき、公明党もまた、何の理念も、独自の政治学、政策もないまま、政界の荒海の中を右に左に漂流するようになります。
 こういう結果になった原因、そしてその責任は、戸田会長(および私の父を含めた幹部たち)にもあると思います(むろん最大の責任は池田大作にありますが)。
 池田大作は、昭和三十五年五月三日の会長就任の翌日、私の父を我が家まで送って来ました。私も弟(嵩)と一緒に、入口まで二人を出迎えました。私が何かの用事で奧へ引き返した間に、池田は弟に、新しく作ったばかりの名刺を差し出し、次のように言ったそうです。
「会長の名刺を初めて君にあげる。私の弟子の第一号だ。私の側近№1として活躍してもらいたい。弟子というものは、たとえ師匠が地獄の相で死んだとしても、疑わずについてくるのがまことの弟子だ。君にその決意があるか!」
 弟は感激して、元気よく「ハイ!」と答えたということです。
 弟はかなり後まで、この事実を私に隠していました。私がうらやましがるのが、気の毒だと思っていたからです。
 後にこれを知った時、私は、全くうらやましいとは思いませんでしたが、「たとえ師匠が地獄の相で死んだとしても」と言われたところが、とても気になりました。池田が師匠の死相を見て、心に傷を負ったのではないか、と疑ったのです。そして私は、亡くなられて数日後の常在寺における告別式(戸田家として行なったもの)で、本部職員ということ
で戸田氏の遺体を間近で拝し、心が傷つけられたことを思い出していました。
 私は、父が元気でいた間は、まだなお、池田を信じていました。何よりも私の父が、誰にも増して池田を信頼して会長に推選したのですし、池田もまた父の存生中は、露骨に本性を現わすことはありませんでした。

●14-『政治と宗教』の無為無策
 昭和三十九年十一月十七日、池田会長は「公明政治連盟」を改組して「公明党」を設立しました(委員長は引き続いて私の父・原島宏治でした)。ただし、名称を変えただけでなく、それまで「衆議院にはけっして進出しない」と言明してきたのに、今後は衆議院にも候補者を立て、政権獲得を目指す、ということになりましたので、政界をはじめ世間に衝撃を与えました。
 池田は同日付けで『政治と宗教』を出版、創価学会の衆議院進出の正当化を図りました。
 ところが、この「政治と宗教』は、戸田前会長著『王仏冥合論』を骨格とし、それに高校か大学教養学部の教科書,参考書程度の知識で肉付けしたような著作で、『王仏冥合論』もそうだったのですが、何ら独自の政治学、具体的な政策が示されていなかったのです。
 ただ、公明党の結党宣言では、次のような政治理念は盛り込まれました。
 一、王仏冥合と地球民族主義による世界の恒久平和
 二、人間性社会主義による大衆福祉の実現
 三、仏法民主主義による大衆政党の建設
 四、議会制民主政治の確立。
「人間性社会主義」「議会制民主政治の確立」などとうたっているから、創価学会・公明党の政治は、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)型の社会主義ではなく(ソ連はプロレタリア独裁の国で、議会制民主政治の国ではありませんでしたから)、資本主義経済機構(市場経済システム)の枠内で、徐々に社会主義経済体制を作り上げていこうとする、西欧型の社会主義政党、日本社会党などに近似した方針を立て、実行するかのように見せかけていました。
 しかし、一口に社会主義と言っても、各国の国情により、また同じ社会党の党員の中でも左派と右派とでは、それぞれの政策にかなりの相違があります。『政治と宗教』には、どのような形の社会主義を採用するべきかについては、いっこうに説かれておりません。
 故に、この書に、当面の政治活動に必要な教えを求めても、何も応えてはくれないのでした。

●15-父の死と故郷の「消失」
 公明党が結成されて一ヶ月も経たない、昭和三十九年十二月九日朝、父が急死しました。
 五十五歳の誕生日を元気で迎えてからまだ幾日にもならない突然のことでしたので、私は、父が深い眠りについているとばかり思いながら、遺体の傍らに二、三時間つき添つていました。体はいつまでも温かで柔らかく、微笑を浮かべているような、口元は今にも眠りから覚めて、話しかけてくるような気がしました。正午頃、池田会長が熱海の会館から駆けつけて来て(当日は熱海で会合が予定されており、父も出席する予定でいたのです)、父の顔を覆っていた白布を取り、「長い間、ご苦労様でした」と言葉をかけました。次に母の方を向いて、「この家はどうなっている?」と尋ねました。母は「ちょうど今月の初めに全部済ませました」と答えました。後で母に尋ねてわかったのですが、池田の質問の意味は、五年前に父がローンで買った我が家の毎月の支払いがいつ終了するのか、というものでした。いかにもお金に敏感な池田会長らしい質問だった、と今でも思い出されます。
 父は「少欲知足」を生活の信条としていました。父が亡くなった時、資産として遺ったものは、五十坪ほどの敷地に建てられた二階建ての木造の自宅だけで、ほかには当面の生活費しかありませんでした。
 昔、まだ十歳前後の子供だった私に、父は「西郷隆盛の遺訓だよ」と言って、「子孫のために美田を遺さず」と口ずさみました(正確には「児孫の為に美田を買わず」ですが、父はわざと少し言葉を変えたのです)。
 父の出身地は、JR青梅線の奥多摩駅から二キロほど離れ、四方を山で囲まれた寒村です。眼下には多摩川の渓流が流れています(そこからさらに数キロ奧に、観光名所の一つとして有名な日原鍾乳洞《にっばらしようにゅうどう》があります〉。
 父の先祖は、伝説によりますと、平家の落武者としてこの地に住み着き、代々百姓をして、ほとんど自給自足で暮らしてきました。父は、高等小学校を卒業すると、東京に出て東京府立青山師範学校(現東京学芸大学)に入学、卒業して小学校の教員になりました。
 そして夏休みになると帰省して、両親と共に過ごすことを慣例としていたようです。
 昭和十八年十一月、父親(私の祖父)が亡くなりました。日蓮正宗の戒名を戴いておりますから、亡くなる以前に当宗の信徒になっていました。父はこの家の総領(長男)として、家・畑・山林などの遺産をすベて相続しましたが、終戦後、戦地から復員してきた弟(私の叔父)に、残された母親の世話をすることを条件に、資産をことごとく贈与しました。
 父から西郷隆盛の遺訓を聞かされたのはこの時のことです。母親の幸せを思う父の心を立派だとは思いましたが、同時に、私たちの唯一の故郷が消えてなくなってしまったかのような寂しさを感じました。
 この故郷の消失感は、やがて現実になりました。昭和五十年頃、池田大作は奥多摩の地に「原島記念館」を建てる計画があることを、私たちに打ち明けました。しかし、その着工直前、弟(嵩)が造反するや、計画は立ち消えとなり、父の弟夫婦は学会の組織を離れないまま、今日に至っているのです。なお、父の母親(私の祖母)は昭和二十六年に父に看取られながら亡くなりましたが、やはり当宗の戒名を戴いております。
  ----------------改頁------184-つづく--

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池田大作と原島家-38

2015-10-28 08:11:10 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------175--本文

●11-政治学・政策の欠如
 創価学会の政界進出に当たって、戸田二代会長が、政治学を科学として成立させる意志もなく、しかも具体的な政策さえも示さなかったことが、後の公明党を迷走させた要因の一つだと思います。『王仏冥合論』だけでなく、戸田会長の著述や発言には政治に関わるものも多いのですが、随処で論理の破綻や意味不明の文章に行き当たり、しばしば困惑させられます。
 細かいことをここでは一々申しませんが、たとえば、『王仏冥合論』で「いまだ政治学を、科学として成立させえた人は一人もいない」と論じ、その原因として「それは、政治学と政治とを混同している考え方によるもので、政治を一つの技術とみて、その技術を対象としていない、という大きな誤りがあるからである」と言います。
 しかし、素人ならいざ知らず、政治学者が学問としての政治学と技術としての政治を混同して、政治技術を研究対象から外すことなど考えられません。おそらく戸田会長は、“国民の幸福に役立たない、観念《理論》だけの政治学は無駄だ”と言いたかったのでしよう。
 それなら、なおさらのこと、国民の幸福に役立つ政治学と政策が必要で、それがなければ、政治家は政界遊泳術という政治技術のみに長けた、いわゆる政治屋になってしまうでしょう。公明党の現状がそうでないといえるでしょうか。

●12-政治理念を失う
 創価学会が政界に進出した目的は、一つは国立戒壇の建立、もう一つは王仏冥合でした。ところが、昭和四十四年から翌四十五年にかけて、創価学会と公明党は、学会、特に池田会長を批判する書籍の出版・流通を阻止しょうとして「言論・出版妨害事件」を起こし、この事伴をきっかけとして社会から激しいパッシングを受け、「国立戒壇」という表現は将来にわたって使わないこと、「王仏冥合」「仏法民主主義」などの用語も減らすように、方針転換を図りました。代わって多用し始めたのが「総体革命」です。
 この「総体革命」という言葉は、じつは弟(原島嵩)が池田会長に建言したもので、政界のみならず、官界、司法界、教育界、その他あらゆる分野に池田の子飼いの弟子たちを送り込んで、日本国を乗っ取ろうとする策略を意味します。つまり、池田の若い頃からの野心の実現を企てたのです。
 かくて、創価学会・公明党からは、仏法の慈悲を政治に具現する、という理念もまた消えていったのです(そもそも、あらゆる人々を救うべき宗教団体が、他の政党と対峙する形で独自の政党を作ってよいか、どうか、という根本的な議論は別として)。
 かって戸田城聖氏は、次のように述べていました。
「仏法は、だれ一人をも苦しめない、あらゆる民衆の苦しみをば救うというのが根本であり、今一つの根本は、あらゆる民衆に楽しみをあたえることであり、仏の慈悲というのは、これをいうのである。(中略)政治史において、われわれが尊敬をはらう政治は、その政治をとった人たちが、仏法を知ると知らずとに関せず、仏法の極意が王法に具現されたのにほかならない」(『王法と仏法』大白蓮華卷頭言)
 と。
 たしかに、政治には理念(理想・イデア・イデオロギーなど)が必要です。理念があるとは、たとえば大海に乗り出した船が理想の目的地に向って航海しているようなものです。
 目的地が定まらなければ、これまた右に左に放浪しなければなりません(近年の創価学会・公明党のように)。
  ----------------改頁------178-つづく--

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池田大作と原島家-37

2015-10-26 15:34:34 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------173--本文

●10-「失われた二十年」の出演者たち
 物の価格は需要と供給の関係で決まりますが、市場における「見えざる神の手」にばかり任せていてはいけない、政府という「見える手」で価格を調整せよ、と主張した経済学者がケインズ(1883年~1946年)でした。なぜなら、自由放任主義(市場原理主義ともいう)では、何年かの周期でいつか必ず暴騰と暴落を繰り返すようになるから、政府の責任ですベての商品が適正な価格に収束(これを一般均衡《きんこう》という)するような財政政策と金融政策を採るべきだ、というものでした。(ケインズ著『雇用・利子及び貨幣の一般理論』一九三六年発表)
 ここで注目してほしいのは、最初に一般均衡の存在を理論的に証明したのはアダム・スミスですが、ケインズもその理論を継承して、さらに進んだ理論を展開していることです。
 そして、ケインズの経済学は大恐慌後にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの「ニューディール政策」に応用され、目ざましい成果を上げました。スミスの『国富論』もケインズの『一般理論』も共に経済学の書ですが、政治学としての一面も具えており、「政治学を科学として成立させえた入」たちでした。
 しかし、自然科学の場合もそうなのですが、いかなる科学的理論も科学技術も、使い方を間違えたり、人間の果てしない欲望の満足のために限度を越えて用いられたりすると、かえつて人々に大災厄をもたらすようになります。
 近年、米国のウオール街が引き起こしたサブプライム・ローン問題も、まさしく人間の強欲の恐ろしさを私たちに見せつけてくれました。これは、ケインズの経済学とは対照的な、一九八〇年頃から米・英の政府が始めた(米国のレーガン大統領と英国のサッチヤー首相によって始められました)、まるでアダム,スミスの昔に戻ったような過度の自由放任主義で、そのマイナス面が、最近になって露わになったもの、といえるでしょう。
 ケインズの経済学も、政府が過剰に市場に介入し規制をかけると、あのソ連邦の社会主義経済のように、効率の悪い「大きな政府」になり、経済の衰退を招きかねません。このことが、米国が(そして英国も)ケインズの経済学を捨てた理由の一つでもあったのですが。
 平成の初めにバブルが破裂するまで、日本経済はおおむね順調に発展してきて、米国に次ぐ世界第2位の経済大国となりました。こうなるまでには、我が国独特の終身雇用制とか年功序列型賃金制などの日本的経営の形、また政府のあの「護送船団方式」に象徴される金融業および製造業や農業に対する適度な規制・介入などが、良く機能してきたといえます。ところが大蔵省(現・財務省)の官僚や日本銀行の総裁たちには、バブル(つまり株式や土地の価格の暴騰)が目障りで仕方なかったらしいのです。ゆっくり時間をかけて、少しずつバブルを縮ませればよいものを、日銀は大急ぎで金利を上げ(平成元年五月から翌年の八月までのわずか15ヶ月間に、政策金利を2・5%から6%へ、3・5%も引き上げる)、さらに大蔵省は銀行に「総量規制」を通達して、不動産向けの融資を厳しく規制しました。
 こうして平成元年末、史上最高値の3万9千円を付けたわが国の株価は、翌年にはぐんぐん下がり続けて、早々と均衡点と思われるところを通り過ぎ、平成四年八月には1万5千円を割ってしまい、地価もまた大暴落しました。その後も日本経済は失速を続け、平成六年に初めて三%を越えた失業率は、平成十年には4%を超え(経済学者によると、潜在的な失業者を加えると、失業率は10%を超えるといわれます)、同じ年には年間の自殺者が初めて3万人を超えました(そのうちの4分の1は生活苦が原因といわれます)。
 所得格差も年々拡大し、平成十七年と平成七年の10年間に正規労働者は約400万人減り、パートや派遣労働者などの、非正規労働者は約630万人も増えています。また、この数年の間に、高額所得者の税金は減り、逆に低所得者の税金や社会保険料は増えました。
 平成の初めにバブルが破裂してからの20年間を、「失われた20年」ともいいます。その間、特に後半の10年間、政権与党として自民党に協力し続けてきた公明党は、いったい何をしていたのでしょう。「福祉の党」の看板を降ろすべきではないでしょうか。
  ----------------改頁------175-つづく--

 

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