◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
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●19-悪戦苦闘の編集作業
問題の巻頭論文は、私が担当することにしました。何はともあれ、締め切りの期日まであと一ヶ月足らずしかないので、急場で頼れるのはこの人たちしかいないと、石田氏と高松氏に原稿を依頼しましたが、二人ともあっさり引き受けてくれました。特に高松氏は、昭和四十一年五月号から翌年の十一月号までのうち、「福祉経済」をテーマに七回も寄稿され、様々な角度から近・現代経済の分析を試みました。
これらの福祉経済学説は、公明党の経済政策として採用されたはずです。そして現実の政治の場で活かされるべきだつたのですが、結果としてほとんどそうはなりませんでした。
これには、公明党と高松氏の論文との両方に問題かあったと思われます。
まず公明党の側の問題ですが、一九九〇年代の後半に、公明党は次第に自民党に接近していき、遂に政権与党に取り込まれ、自民党と一体化してしまうからです。とりわけ小泉政権は米国経済に做って、自由放任主義(市場原理主義)を志向した政策を採り、かって「一億総中流社会」とうたわれた日本を、米国に次ぐ格差社会にしてしまいました。これは福祉経済政策とは全く相容れないもので、長年、自民党政権に追随した公明党が「福祉の党」として「地域振與券」を発行せたり、「児童手当」の制度拡充を推進したりした「実績」もかすんでしまうほどの打撃を、民衆に与えたことになります。
それは、公明党が福祉経済政策を推進してくれるものとばかり信じて投票してくれた有権者に対する大きな裏切りでもありました。
では、高松氏の側の問題とは何だったのか。高松氏の福祉経済学説を要約して申しますと、資本主義経済(市場経済)システムを堅持しながら、同時に国家が経済に介入し、政治が経済を指導し、それによつて国民経済の発展と国民生活の向上を図ろうとするものです(高松和男著「福祉経済における国家の役割」、『東洋学術研究』昭和四十一年十二月号)。
しかし、この理論は別段、目新しいものではありません。かって、アダム・スミス流の自由放任主義が行き詰まった時、欧米諸国がこぞって福祉経済政策を採用したのであり、その実績の一つが、ケインズ学派の完全雇用政策だったのです。ところが、一九七〇年代にそのケインズ流の福祉政策が米国と英国で行き詰まり、レーガン大統領とサッチヤー首相がその行き詰まりを打開しょうとして、再び自由放任主義を採用したわけですから、従来の福祉経済理論を踏襲した高松学説はこの時期になると説得力が乏しくなっていました。
ただ、高松氏の論説の中で新鮮味が感じられるものとしては、彼の『福祉経済における国家の役割』の「むすび」で、「個人の幸福と社会の繁栄とがー致する『福祉社会』を建設することが目標とされなければならない」と述べられているところです。「個人の幸福と社会の繁栄の一致」とは、言うまでもなく、戸田城聖氏の『王仏冥合論』の一節ですが、私は、この戸田氏の言葉を「むすび」に入れる必然性はなかったのではないか、と思います。
なぜなら、個人と社会の共存共栄は、戸田氏の独自の理念とは言い難く、「修身・斉家・治国・平天下」(『大学』)などとあるように、古来から儒教の根本思想なのでした。
したがって「創価学会の主張を盛り込むようにしたい」などと安易に言えるものではないのでした。
ともあれ、高松.石田両氏だけに頼っていては、近い将来、行き詰まるのは目に見えていました。そこで私は、学会の幹部の中で知性を感じる人を選んで、できうるかぎり資料を提供し、その人の口述を筆記しておいて、そこから原稿を作るなどの工夫もまぜて、一年半が過ちました。
このまま月刊を続けるのは無理だ、と秋谷氏が判断したかどうかはわかりませんが、『東洋学術研究』は昭和四十二年十一月号で月刊を止め、翌年初めの冬季号から季刊に戻りました。同じ頃、私は秋谷氏に呼ばれ、「君は信心がない。このままでは辞めてもらうよ」と申し渡されました。
この「辞職勧告」の背後には独裁者・池田会長がいて、私を奮起させるために、秋谷氏に言わせたものと思われます。しかし、私は勤め続ける気持ちがなくなっていて、言われるままに辞めてしまいました。そしてすぐ、ある人材派遣会社に雇われ、都内の某百貨店に派遣されて用度課に所属、毎日雑用を仕事として暮らすようになりました。
●20-私が命じたら人を殺せるか?
人は、法(真理)と、法を正しく説く正師と善智識に帰依してこそ、幸福の道を歩むことができるのに、池田会長は自分の側近や大幹部(ないし全会員に至るまで)の資格として、会長に対する絶対の服従を求めました。学会顧問弁護士の山崎正友氏は、昭和四十五年当時、学会裏方の汚ない仕事を任されるに際して、池田から次のように言われたとのことです。
「私は、身命をかけて戸田先生を守った。戸田先生は私に、「俺が人を殺せと言ったら殺せるか」と言われ、ハイと答えた。その決意でお仕えした。君は、私が“人を殺せ”と言つたら殺せるか!」
と。
山崎氏は、その時には厳粛な気持ちで「ハイ!」と答えたそうです。
池田は、しばしば戸田会長の言葉を創作しましたから、戸田氏の殺人を許容するかのごとき言葉も、本当だったかどうか、首を傾げざるをえませんが、池田が身命をかけて(?)「戸田先生を守った」のは事実だと思います。しかし、それは昭和二十五年の頃、戸田氏の営業していた金融業の会社(東京建設信用組合)が倒産した際、借金取りなどから戸田氏を守っただけのこと、仏法弘通のための法難とは全く開係ありません。
殺人は仏法でも重罪の一つです。その殺人罪でさえ、師の命令ならば従順に実行するというのでは、邪悪の師を絶対視するもので仏法ではありません。
後にオウム真理教の麻原教祖が大幹部たちを招集して、その一人に「お前は、ダル(大師、麻原のこと)が人を殺せと言ったら殺すことができるか」と問いかけ、「はい、できます」と答えさせたことが、裁判などを通して明らかになりました。池田創価学会も、極めて危険な体質を持つていることが分かります。
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