創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作・創価学会 を打倒せよ!!-26

2019-01-31 06:52:22 | Weblog

 <教団を歪め私物化する池田大作の悪業を糾弾する!!>
創価学会・池田大作打倒の反乱  1989/2  段 勲  青年書館
    ------(P.116)---(以下、本文)-------

学会員からの金集めは「寄付金」か「御供養金」かで裁判沙汰
 原告は、元創価学会員四百十二名で、昭和五十四年十月一日、創価学会を相手に、東京地裁に提訴したものである、
「寄付金返還請求訴訟」と名付けられたこの裁判は、返還請求金額が二千七百五万円。訴訟状にはこう記されていた。
《 創価学会は昭和五十年頃から同五十二年にかけて、当時会員であった原告に対し、被告が建設する各種建物(注=会館、研修所等)の資金に充てるための寄付として勧奨した。被告はこの寄付を「特別財務」と呼んだ。
 被告は寄付の勧奨にあたり、原告に対し「特別財務」は仏教上の供養で、この供養をすれば、多大の功徳があり、また広宣流布にも役立つ、と説いた。
 しかし、「供養」というのは仏のみが受けられるものであり……ところが被告は、昭和五十三年六月三十日、従前の「在家(注=創価学会を指す)でも、供養を受けられるのは仏だけである」旨を説明したため、原告らは「特別財務」名下の被告に対する全員の交付は「供養」とはなり得ず、従ってそれによる「功徳」もないこと……従って事前に「特別財務」が供養にならないと知っていれば、寄付に応ずるようなことなどはしなかった。
 従って原告の寄付行為は、重大な錯誤に基づいて行なわれたものだから無効である。
      ☆     ☆     ☆
 この提訴内容に少し解説を加えると、こういうことになる。やや複雑になるが、創価学会が、信者(会員)から金を集める行為について、大きく分けて二つの問題点がある。
「法的」問題と、教義上の解釈をめぐる二つの問題だ。

 まず「法的」な問題点についてだが、宗教法人は“本来の事業”下に入る浄財集めについては法的に認められている、つまり、浄財であれば、たとえ何百億、何千億円集めようとも、非課税の対象にされている。ところが創価学会は、他の宗教法人と違って、「信者から浄財を集めてどこが悪い」と、胸の張れない事情があるのだ。
 第一章でも述べたが、創価学会は独自の「宗教法人」であることは間違いない。だが、教義上は、日蓮正宗の教えを信奉する信徒団体の集まりなのだ。
 こうした日蓮正宗と創価学会の立場を踏まえて、原告側が裁判で訴えたポイントは、「在家である創価学会が“供養”と称して会員から金を集める行為は、不当である」という主張である。
 宗教団体を舞台にした争いというのは、門外漢にはなかなか理解しにくいものだが、例を出すとわかりやすい。
 どんな宗派でもいいが、寺院の住職が信徒に、「近く寺院を新築するので、皆さんからの浄財をお願いしたい。寺に浄財を施す信徒は、仏の功徳が与えられるでしよう」とお願いする。住職から言われるままに信徒が寺院にお金を供養する。その後、信者が仏の功徳を得られたかどうかはさておき、こうした浄財集めは宗教界では日常茶飯事の出来事である。

 ところが、寺院及び住職とは全く関係ない信徒総代が、独自に、「信徒の皆さん、私にも供養すれば功徳がありますから、お金を出してください」と言って、組織的に金集めを実施した。これが創価学会のケースである。しかも、昭和五十四年という時期に、創価学会がこうした訴訟を起こされたことには、実はわけがあった。
 この当時、創価学会と宗門(日蓮正宗)の間で、激しい対立が続いており、その争点のひとつに、創価学会が集めている「浄財」の一件があった。宗門側は創価学会による金集めについて、当時の六十六世故・細井日達法主が「創価学会(池田氏)には、供養金を集める資格がない」との公式見解を出したのである。
 元創価学会原告グループは、これを受けての提訴だったのである。

 なお、当裁判の判決が下るまで二年余の歳月が費やされているが、原告の創価学会は、極力、訴訟の内容を避け、「教義上、信仰上の問題に、裁判所が判断を下すのは憲法二十条に違反する」と主張し、内容を争う前に、訴訟の“門前払い”を訴えたのだ。東京地裁の判決も、おおむね、被告側意見に同調したものとなった。
 ところで、こうして法廷にまで持ち込まれて物議をかもす巨額な金を、創価学会はいったいどこに使っているのか--。
     ----------(次回に、つづく)---------119

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池田大作・創価学会 を打倒せよ!!-25

2019-01-30 09:33:56 | Weblog

 <教団を歪め私物化する池田大作の悪業を糾弾する!!>
創価学会・池田大作打倒の反乱  1989/2  段 勲  青年書館
    ------(P.113)---(以下、本文)-------

ボーナス月を狙った毎年七月の広布基金で一日に千五百億円をかき集める
 創価学会は現在、正月三が日、あるいは、全国各地の会館建設の際にも、地域の学会員は浄財を強要されているが、なんといつても額が大きいのは、毎年七月に実施されている「広布基金」である。
 なぜ七月に実施されるかというと、これには理由がある。六月、ないしこの月は、ボーナス支給月。会員のフトコ口も、普段の月よりも温かいという“配慮”かららしい。
 昭和四十年十月、たったの四日間で「正本堂」建立御供養のため三百五十五億円を集めた実績を持つ創価学会。とかく金集めには定評があり、「広布基金」の実施にしても、その用意周到ぶりには目を見張るものがある。
 同基金の実施のため、幹部が携帯する「広布部員スケジュール表」を拝見すると、公明党の選挙支援態勢と同じく、三力月ほど前から準備に入る。

 三月    本部長会で大綱発表
 四月上旬  申し込み関係書類、各圏(ゾーン、地方組織のひとつ)へ配布
 四月下旬  広布部員会
 五月下旬  本部別申し込み者数報告
 六月下旬  納金関係書類、各圏へ配布
 七月上旬  納金体制打ち合わせ
 七月中旬  納金

 毎年実施される「広布基金」は、おおむね、このようなスケジュールで運営される。では、集まる総額はどのくらいか。
 周知の通り、宗教法人の経理は公開の義務がない。それでも大手教団のうち、たとえば天理教のように自ら公開しているケースがある。しかし、創価学会の場合、こと金の収支については一切公表していない。とくに多額の金が集まる「広布基金」については、その総額は、池田大作氏以下、ひと握りの最高幹部しか知らされていない、といわれている。
 それでも、「この数字は、内部からの複数者による情報を参考にして割り出した推定額」と、前置きしながら、原島嵩元創価学会教学部長が明らかにしている年度別の「広布基金」額は、次の通りである。

 昭和五十六年 二百億円
 昭和五十七年 三百億円
 昭和五十八年 四百五十億円
 昭和五十九年 千五百億円
 昭和六十年  千五百億円
 昭和六十一年 千五百億円
 昭和六十二年 千五百億円
 昭和六十三年  ?

 ことわっておくが、この金額は、創価学会の年間予算でも、年間の収入高でもない。毎年七月の日曜日、たった一日で会員たちから集める現金の推定総額である。

 納金日には、全国、五百前後の会館、または幹部自宅がにわか集金センターに早変わりし、地域の幹部が三、四人、仏壇をバックにテーブルの前に座る。そこに会員が一人一人、順番を待って、現金入りの白封筒を差し出すのだ。
 現金を受け取った幹部は、その場で現金額を確認し、領収書を発行する。なにやら、民・百姓が年に一回、代官所に年貢を納める光景とダブッてくるが、集められた金は裏庭の蔵ではなく、ダンボール箱に積み込まれて、最寄りの銀行に運ばれていく--。

 広布基金……創価学会本部は会員に、“広宣流布のため、世界広布のため大切に使わせていただきます”と説明しているが、実際どう大切に使われたのか、これまで会員に、その使途について一切の報告はなされていない。さらに、広布基金について、筆者は相当数の学会員、あるいは元学会員からの“体験談”を聞いているが、--
 「むしろ、賽銭箱があった方がよい。賽銭箱なら、誰がどれほどの額を納金したかわからない。しかし、学会の場合は、納める金額はまるで“ガラス張り"で、しかも額が少ないと幹部の“激励”が飛ぶ」という会員の声をよく聞いた。
 極端な話、納金の額が大きければ大きいほど「功徳」があると指導されており、額が少なければ「功徳が欲しくないのか」「信心が足りない」と言われるという。

 ところで、この「功徳」をめぐって裁判になったことがある。神仏の力を信じない人々にとっては、それほど関心の抱かせる問題ではないが、信仰者の当事者にとっては「功徳」の有無は、信仰上の根幹にかかわるものだ。では、どのような裁判であったか。
     ----------(次回に、つづく)---------116

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池田大作・創価学会 を打倒せよ!!-24

2019-01-29 09:05:27 | Weblog

 <教団を歪め私物化する池田大作の悪業を糾弾する!!>
創価学会・池田大作打倒の反乱  1989/2  段 勲  青年書館
    ------(P.109)---(以下、本文)-------

2 ケタ違いな創価学会の金集めの手口
◆ 金のかからない宗教といいながら広布基金制度によリ全学会員から納金強要
 創価学会の金集めについては、内外からの批判が巻き起こっており、いまでは学会スキャンダルのひとつに数えられている。信仰団体が、信者から浄財を集める行為は、神世の昔からで、営利を生まない宗教団体の性質上、組織の維持運営のため、信者の浄財に頼るのはむしろ当然ともお思える。
 では、その当然の宗教行為なのに、なぜ創価学会の金集めにこれほどの批判が渦巻くのか。

 第一に創価学会は、“ウソ”をついたことである。性善説に立ち、信者に安心立命を与える宗教団体が、間違っても信者相手にウソをついたり、ダマしてはいけない。では、創価学会は金集めに関し、信者にどのようなウソをついたのか。
 「創価学会の施設には、賽銭箱を置かない」「創価学会は一銭もかからない宗教」「創価学会は金儲けが目的ではない」
これが、創設当時のキャッチフレーズで、確かに、創価学会の各施設には、他の教団のような賽銭箱は見当たらない。現在もまたそうである。ことお金に関し、こうした公明党よろしく“クリーン”を訴え、その一方では、金儲けに走るとりわけ新興教団に対しては、ありったけの罵詈雑言を浴びせかけてきた。それでも近年は、なぜか“遠慮”してか、他教団の金儲け主義にはあまり批判を加えなくなったが、それでも時折、機関紙にこんな記述が載ることがある。たとえば「PL教団」について--。

 「思うように教勢は伸びなかったばかりか、宗教を悪用した事業も凋落の一途をたどっている。
“宗教成金”御木一族の末路や哀れ、と陰口もしきり。
 キンキラキンに着飾って童話の国の王様を気取ってみても、夢はいつかはさめる。ましてや、お伽新にもならぬ平和論で、そういつまでも人々を騙し通せるものではない。信者の離反、離脱が著しい昨今、お得意の“ご感動”には何が映っているやら」(「聖教新聞」昭和五十七年三月六日)
 この記事が筆者の目にとまったとき、書いた聖教新聞の記者は、意外と“隠れアンチ池田派”ではないかと疑った。なにしろ、記事中の"御木一族"の部分を「池田一族」に置き換えれば、なんと現況の創価学会にそっくりであったからだ。PL教団を隠れ蓑にして池田氏を批判したものと思つたのである。

 もう一例、次は「天理教」である。
 「教祖の中山みきが天理王命から受けた啓示によれば、どじょうが人間になった、また、親神(天理王命)は退屈まぎれに人間を造って、“陽気あそび”をさせて楽しんだそうだ。何とも気楽な神サマもいたもので、極貧にあえぐ当時の信者を踊らせて喜んだらしい。
 それだけならまだいい。みきは“貧に落ちきれ”と強要して回った、要するに、一切の富を神サマに捧げよ、というわけだ。“おつくし(献金)”は、だから悪らつな高利貸しも顔負けの取り立てだった。田畑、屋敷を売るのは茶飯事、なかには娘を吉原に売って献金する信者もいた(芹沢光治良氏)。
 天理教百四十余年の歴史は、搾取の歴史であった。--信者は、生かさず殺さず、搾るだけ搾り取られて、精も根も尽き果て“陰気ぐらし”。これが“搾取の宗教”の正体だ」(同紙昭和五十七年四月二十四日)
 といった調子である。

 創価学会が、他教団の金取り主義を批判しても、当学会もやはり組織運営上、本部維持費など資金が必要だ。で、二代会長の戸田城聖時代の昭和二十六年七月、同会に「財務部員制度」が発足した。会員の中から、比較的生活にゆとりのある人を選び、それら会員を「財務部員」と任命。年間四千円の「納金」をお願いしていた。
 こうした「財務部員制度」が昭和四十年代末頃まで続き、この間、創価学会が会員に特別に浄財を強要したのは、総本山、富士大石寺の「大講堂」及び「正本堂」建立のための“御供養”などわずか二、三回であった。

 ところが昭和五十年代初頭になって、「財務部員」の名称が「広布部員」に変えられ、納金額も年間一口一万円以上、何口でもと、ピンとハネ上がった。これだけならまだいい。そのスタート当時、広布部員数は約八十万人といわれたが、そのうちいつの間にか広布部員という制度が消え、全学会員が「納金」しなければならなくなった。これが「広布基金」制度の誕生である。
 いみじくも他宗派の高僧が漏らしていた。
 「信者から金を集めるなど、実は赤子の手をひねるよりも簡単。しかも、一度集めてそのうま味を覚えると、ついやめられなくなる」

 ことほどさように、長く「一銭も金のかからない宗教」と自慢し、誇りにもしてきた創価学会が、広布基金発足と同時に、なりふりかまわず金集めを開始した。まさに、銭ゲバ集団と化したのだ、むろん、広布基金以外に、機関紙の「聖教新聞」購読代、「大白蓮華」「聖教グラフ」などの雑誌弋、池田大作氏の多くの著書代金、地域によっては会館建設のための浄財、といった具合に何かと金がかかるのである。そのほか、学会活動に要する交通費や諸雑費などの出費もバ力にならない。
     ----------(次回に、つづく)---------113

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池田大作・創価学会 を打倒せよ!!-23

2019-01-28 08:29:29 | Weblog

 <教団を歪め私物化する池田大作の悪業を糾弾する!!>
創価学会・池田大作打倒の反乱  1989/2  段 勲  青年書館
    ------(P.101)---(以下、本文)-------

公明党議員を当選させるために宗教団体のはずの学会が躍起の政治活動
 昭和四十五年以降あたりから、創価学会の組織活動が、信仰中心から選挙へ傾斜していったことはすでに述べたが、選挙活動について、池田大作氏の次の“指導”を紹介しておきたい。
 「私どもの選挙は、候補者のための選挙や公明党のための選挙ではない。ただひとえに末法の御本仏日蓮聖人の大慈悲である民衆救済のご遣命を達成するための戦いである。
 すなわち、日本民族の幸福と安泰、世界平和のための戦いであります。
 故に真剣に戦った人は、大なる人間革命を成し遂げ、生活革命をして境涯を開いていくことは絶対間違いない。その反対に不真面目で、要領よくやっておれば、それだけ損をすることになる。これが私どもの王仏冥合の戦いの本義であり、偉大さであることを再確認して前進していっていただきたい」(昭和四十三年一月二十六日、関西本部幹部会)
      ☆     ☆     ☆
 こう池田氏が発言した二年後には、組織から「王仏冥合」の四文字が消えてしまうわけだが、ともかくよく理解できない部分もあるが、この指導内容を学会流に解説するとこうなる。
 創価学会・公明党支援は、日蓮大聖人のご遣命である日本民族の幸福と安泰、世界平和の戦いである。結果、この選挙で戦った学会員は、“大なる人間革命を成し遂げ、生活革命が出来、境涯が開かれる”ことは絶対に間違いない。だが逆に、選挙活動にあまり真剣でない学会員は損をする、ということらしい。

 さて問題である。最近、公明党の国会議員をはじめ、地方の市議に至るまで、汚職議員の名が見聞できるが、こうした議員を当選させた各地元の学会員も、やはり“大なる人間革命を成し遂げ、境涯が開かれ”ていけるものだろうか。むしろ、こうした人間を議会に送る学会員は、「日本民族の幸福と安泰、世界平和」に背くことにはならないか。

 加えてもうひとつ。公明党はここ近年、とくに地方においては「自、公、民」といった選挙体制の保守化が顕著で、その一方、国政レベルの選挙でも、社会、民社を相手に票の取り引きを行なう。したがって地域によっては、学会員も公明党候補者以外の社会、民社のために選挙運動に従事する。こうした場合でもやはり、公明党議員を支持するのと同等の“功徳”が受けられるのだろうか。

 ともあれ大半の創価学会員は、あまりこうしたことを深く考えることはしない。だいいち、選挙近くになると、筆者小宅にも学会員が公明党支援をお願いに来るが、「なぜ公明党を支持するのですか。他党より、公明党の政策のどの点がすぐれているのか教えてください」
 と、ごく初歩的な質問を投げかけても、満足に答えてくれる学会員はほとんどいない。ただ、しっこく、「公明党に一票をお願いします」の一点張りである。とにかく選挙活動の熱心さには驚くばかりだ。いまさら創価学会の選挙活動の内容を言及するまでもないが、選挙違反で逮捕された学会員が、同会本部から「よくやった」と“法難賞”のメダルが授与されるという団体である。
 つい最近、大橋敏雄代議士の行動に共鳴し、創価学会を脱会した東京在住のA夫人の「選挙体験」にしばらく耳を傾けてみょう。
      ☆     ☆     ☆
 「もう想い返すだけで、頭がカッーと熱くなってくるんです。いつの選挙でもそうですが、だいたい創価学会の組織が選挙体制に突入するのは三力月ほど前からです。
 全国の各組織によって闘争の仕方も若干異なってきますが、おおむね同じ。まず御本尊様の前に、応援する公明党議員の名前を書いて、朝、晩、必勝を祈るわけです。
 一方、組織活動は、ほとんど選挙態勢に入り、とくにF票取り(フレンドの頭文字。学会員以外の公明党支持者票)がポイントになります。これは都内の私が所属していた組織ですが、まず各自学会員がノートに、獲得出来そうなF票の氏名、住所、電話番号を書き込みます。
 顔と名前を思い出しながら、隣近所の奥さん、主人といった地域住民の氏名、次は自分の兄弟、親類名、学校時代の同窓生、勤め人だったら仕事関係者、また、私のような専業主婦でしたら、買い物先の各店員、美容院、ガソリンスタンド、新聞屋、保険屋と、とにかく知っている人のすベての名前を挙げるんです。

 そうしてF票名簿を作った後は、実際に足を運んで、公明党支持票をお願いするわけです。もちろん、同窓生や幼な友だちを訪ねて各自、故郷にも向かいますよ。私の場合は、実家が山梨ですから、旅費はそれほどの出費ではありませんが、秋田、山形とか、大阪、九州に田舎を持つ東京在住の学会員は、選挙戦になると相当な出費を覚悟しなければなりません。
 旅費だけではなく、何年かぶりに友人を訪ねますから、土産物を買って行きます。さらに滞在費となると、家計簿が赤になってしまうんですよ。

 こうした闘争が一力月、二力月と続き、その間、洗濯などは放ったらかし。むろん、土躍、日曜日もありません。こうして投票日を迎えると、その当日は、まず朝一番で投票を済ませ、あとはその日の午後六時まで、F票者の“連れ出し”にかけずり回るんです。
 投票の時間が終了する午後六時過ぎには、各地域の拠点に学会員が集まり、公明党候補者が当選するよう“題目闘争”に入るわけです。
 このような選挙運動は、決して特別なことではありません。毎回の選挙で行なっている創価学会員のごく当たり前の“信仰活動”なんです」
     ----------(次回に、つづく)---------109

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池田大作・創価学会 を打倒せよ!!-22

2019-01-27 08:08:43 | Weblog

 <教団を歪め私物化する池田大作の悪業を糾弾する!!>
創価学会・池田大作打倒の反乱  1989/2  段 勲  青年書館
    ------(P.101)---(以下、本文)-------

第三章 スキャンダルが渦巻く創価学会の体質
1 池田会長になってからスキャンダル続出
◆ 宗教団体らしからぬ金、女、恐喝といった暴力団顔負けの事件の数々
 創価学会の歴史は、スキャンダルと背中合わせの歴史でもある。戦後、数ある教団のなかで、これほど世間を騒がせているのも珍しい。東の創価学会、西の世界救世教というのが、宗教界のスキヤンダルニ大横綱といわれているが、なぜこうも創価学会はスキャンダルを巻き起こしてくれるのか。
 ここでそのすぺてを紹介するほどの紙数はないが、項目だけをざつと述べてみると、古くは「狸祭り事件」「埋葬墓地問題」「選挙違反」(これは刑事事件にまで発展したことが何件もある)、それに「言論出版妨害事件」、「対・妙信講との暴力事件」「宗門との紛争問題」「正本堂建設にからむ土地取得不正間題」……。
 また、全国紙の社会面を飾るような大きな裁判沙汰も起こし、あるいは起こされた。代表的なところでは「月刊ペン裁判」「宮本共産党委員長宅盗聴裁判」「山崎正友元顧問弁護士恐喝裁判」「寄付金返還集団訴訟」「『社長会記録』出版をめぐる著作権侵害」、このほか裁判件数はまだまだあるが、訴訟の内容は、盗聴、金、女、恐喝、出版差し止めと、パラェティーにとんでいる。わが国に二十二万に及ぶ宗教法人が存在するが、一教団でこれほど次から次と裁判を抱え込む事例は、創価学会を除いてほかに見当たらない。

 余談になるが、昭和五十五、六年頃の一時期のこと。東京地裁だけで、創価学会関係だけの公判が一週間のうち五つも開かれ、地裁内を充血した目で飛び回っていた同会顧問弁護士の姿を目撃したことがあった。
 前記列記した裁判のなかで、現在まだ進行中のものもあるが、このほか近年に起きた創価学会スキャンダルでは、本稿冒頭で触れた「大橋敏雄代議士、藤原行正都議等による造反問題」、同じく公明党関係で「田代富士男参議員の砂利船汚職」、「池田克也衆議員実弟のリクルートコスモス未公開株譲渡」、「矢野委員長の明電工疑惑」……。
 これらが戦後を飾った創価学会の主なスキヤンダル事件だが、同会のスキヤンダルを分析してみると、いくつかの特色が浮き彫りにされてくる。

 第一点は、創価学会のスキャンダルが集中するのは、昭和四十五年以降、つまり.「池田教」の時代に入ってからであること。
 第二点は、スキャンダルの中心人物は池田大作氏であること。戦後、二代会長戸田城聖時代にも、いくつか新聞社会面をにぎわすような創価学会関連の事件があった。たとえば、日蓮正宗の僧侶を川に投げ入れたといった「狸祭り事件」や「墓地埋葬事件」などだが、しかし、いずれもこれらスキャンダルは、信仰問題上のトラブルが中心であった。“人物”ではなかったのである。
 第三点は、前記の第二に関連して、スキャンダルの中身が、信仰団体が起こすにしては非常に俗化していること。もう少しわかりやすくいえば、信仰団体が、教義上の解釈をめぐって騒ぎをお起こすのであれば、同じ騒動でも、まだ許される部分がある。それが同会のスキャンダルといえば、土地不正取得、女性問題に盗聴、恐喝、汚職である。暴力団も裸足で逃げ出しそうな“悪”ぶりだ。
 第四点は、こと創価学会のスキャンダルというと、ほぼ例外なく、背後に公明党議員の存在が確認されること。この場合は、公明党議がスキャンダルの脇役としてではなく、いわば、政治権力を行使するという"モミ消し役"で登場することだ。
 第五点は、どんなスキャンダルでも、創価学会は自分の方が正しいと言い、いつも〝被害者”側に立つこと。こうした同会の考え方は、多分に教義上の「三法律」に影響されている。
 ちなみに三法律とは、世間法律、国法律、仏法律を言い、同会では次のように教えている。
      ☆     ☆     ☆
 「この世間法と国法と仏法とを網にたとえれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中くらいの目の網、仏法律はごく細かい網の目で絶対にこの法律をのがれることはできない。……仏法律は国法をもって、いかんともすることのできない峻厳かつ崇高な法律である。......ここに考えなければならないのは、最高の仏法律に従うといえども、世間法、国法が仏法律の一部分であることを忘れてはならないのである。
 一切法これ仏法である。特に世間法に背き、国法に背くことがあってはならない。ただ、仏法を護らんためには、世間法にも背かねばならないこともあるのである」(『折伏教典』創価学会発行)
      ☆     ☆     ☆
 つまり、世間法や憲法より仏法律の方がはるかに上位に位置し、時には仏法を守るためには世間法に背いてもかまわない、と説いている。結果、崇高なその仏法を保つ創価学会は、極端な話、学会を守るためなら、盗聴、暴力、選挙違反だって正しい行為となる。

 第六点、スキャンダルは、すべて法難であるという考え方だ。大変都合のいい仏教用語だが、とりわけ創価学会は、この法難という言葉をひんぱんに使用する。いや、利用すると表現した方が正確かもしれない。
 あれほど批判が渦巻いた「言論出版妨害事件」にしても、周知の通り、表向きは、猛省発言をした当の池田大作氏が、その裏で「いつか、この仇を取る」と豪語していたことが、元幹部(原島嵩元教学部長)の手記にはっきりと残されているのだ。つまりあの言論事件にして、創価学会はひとつの“法難”という受け止め方なのだ。

 まずは救いがたい教団だが、それにしても、なぜこうも創価学会にスキャンダルが噴出するのか。幸いにして筆者は、昭和四十五年以降に起きた創価学会各スキャンダルについては、一介の週刊誌記者として“現場”の取材にたずさわつてきた。以下、当時の取材ノートをめくりながら、幾つかの同会スキヤンダルをピックアップし、検証してみよう。
     ----------(次回に、つづく)---------105

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