創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価を斬る・41年目の検証-85

2017-03-31 09:19:29 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(419P)---(以下本文)-------

③池田大作の欠席と池田博正登壇の意味/乙骨正生
 それは創価学会の近未来を象徴する光景だった。
 昭和35年に創価学会会長に就任して以来、組織・会員の上に絶対的に君臨していた「永遠の指導者」(創価学会会則)である池田大作名誉会長が、平成22年6月3日、創価学会の月間最重要行事である本部幹部会を欠席したのである。
 池田氏が本部幹部会を欠席したのは、平成15年4月から5月にかけて体調不良で約1力月にわたって静養し、公の行事に姿を見せなかった時以来のこと。しかし今回の欠席の理由は、病気や体調不良とはされていない。本部幹部会の席上、原田会長から発表された池田氏の欠席理由とは次のようなものだった。
「昨夜、本日の本部幹部会について、池田先生から指導がありました。『明日の本部幹部会については、弟子の君たちが、団結して、しっかりやりなさい。皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今がー番大事な時である。ゆえに、私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である。私は、これからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい』
 本日、先生に出席いただけないことは残念ですが、先生の真情を伺うにつけても、もはや甘えは許されません。弟子が、今こそ決然と総立ちする時です」(6月9日付「聖教新聞」)
 これによれば、池田氏の欠席は病気のような不可抗力の要因によるものではなく、意図的欠席だったということになる。もっとも、池田氏の動静を伝える「聖教新聞」には、平成22年5月中旬以降、池田氏のリアルタイムでの動静がほとんど報じられておらず、掲載される池田氏の写真も古いものばかり。また平成21年秋以降、本部幹部会での池田スピーチは主に側近の長谷川副理事長が代読していることから、池田氏の思考力や忍酎力が著しく低下しており、健康状態は人前に姿を見せることができないほど重篤なのではないかなど、さまざまな情報が乱れ飛んでいる。
 もっとも、池田氏の本部幹部会欠席の理由には、体調不良と同時に選挙対策の策略と責任逃れの狙いがあるものと考えられる。というのも、平成22年7月11日投開票で行われる参院選を前に、創価学会は、大阪の創価学会組織のトップである関西最高参与に池田氏の長男である池田博正副理事長を据え、同参院選を、池田氏が指揮を執り泡沫候補扱いだった白木義一朗創価学会大阪支部長を当選させたことから、「奇蹟の勝利」だったと喧伝する昭和31年参院選の「大阪の戦い」の再来と位置づけ、選挙に向けての士気を鼓舞したからだ。
 創価学会では「大阪の戦い」を、戸田会長から池田参謀室長へと創価学会の全権が継承された節目の闘争だったと位置づけている。それだけに池田氏が「私を頼るのではなく、(弟子である)君たちが全責任をもって、やる時代である」と発言したのは、平成22年参院選での選挙闘争の意義を、戸田会長から池田参謀室長への世代交代と同様の、ポスト池田の世代交代の闘争と自覚させることで幹部・活動家の尻を叩き、厳しい選挙戦を勝ち抜こうとしているのだろう。
 さらには「君たちが全責任をもって、やる時代」との池田発言の裏には、政教一致の熾烈な政治闘争を指揮し、反社会的行為を操り返してきた創価学会の最高指導者としての自らの責任を回避する狙いがあるものと見られていた。
 というのも、平成22年6月4日に首相に就任した菅氏は、過去に国会で創価学会問題や政教分離問題を複数回にわたって質問しているばかりか、創価学会から造反し創価学会と公明党の政教一致の実態や、創価学会が公益法人として税法上の優遇措置を受けていながら、国税庁の税務調査の妨害を企てていた事実を明らかにした矢野絢也元公明党委員長を国会に呼び、話を聞いた「国会議員有志の会」の世話人。その菅首相を創価学会は、「仏敵」と呼び、呪詛の祈りまで加えていたからだ。
 さらには平成22年春に、山口組直参の暴力団だった後藤組の後藤忠政元組長が、創価学会との深い関係を明らかにしたこともあり、創価学会の宗教法人としての適格性や創価学会と公明党の政教一致問題が、今後、国会で取り上げられる可能性が出ていた。その際は当然のことながら池田氏の国会招致が焦点となる。
「皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。ゆえに、私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である」との池田発言は、自らの責任を棚上げにし弟子に責任を転嫁することで、国会や社会の追及から逃げ切ろうとの、池田氏の姑息な計算が働いている可能性も否定できない。
 6月3日の本部幹部会では、欠席した池田氏のメッセージが長谷川副理事長によって読み上げられたが、その内容もまた「今、私も戸田先生とまったく同じ心です。君たちに万事を託していく総仕上げの『時』を迎えているからであります」などと、後事を託すといえば聞こえはいいが、責任を弟子に押しつけるものとなっている。そうしたセーフティネットを敷いた上で池田氏は、--
 ①強盛なる祈りで勝て、
 ②異体同心の団結で勝て、
 ③勇気と執念の行動で勝て、--
 などと参院選の勝利に向けての檄を飛ばしている。しかも「聖教新聞」には掲載されなかったが、同メッセージの中で池田氏は、「何も恐れるものはない。断じて、勝ってもらいたい。断じて、勝たせたい」「大勝利を侍っています」などと宣うているのだから呆れるしかない。    

◆ 登場した池田の意志の解説者
  ところで池田氏が意図的に欠席し、「君たちに万事を託していく」とした本部幹部会では、長谷川副理事長による池田氏のメッセージの披露に続いて、池田氏の長男である池田博正副理事長による池田氏の和歌の披露と、池田氏が日蓮正宗との対立の責任をとって会長を辞任した昭和54年5月3日に揮毫したとする掛け軸の披露が行われた。池田博正氏が披露した池田氏が詠んだとする和歌の一つは次のようなものである。
 「断固たる 正義の指揮執るわが弟子が 晴れて勝ち抜き 歴史を残せや」
 解説するまでもなく、これが参院選での勝利を鼓舞する歌であることは明白だが、興味深いのは、この後に池田氏が会長辞任直後の5月3日に書いたとする揮毫の意味を、池田博正氏が解説した事実である。この池田博正氏の発言は、どういうわけか池田博正発言としてではなく、記事化して「聖教新聞」に掲載されているので、発言そのものを紹介しよう。ポスト池田の大本命の御曹司の発言は、なかなかに興味深い内容となっている。
「さらに先生より二本の掛け軸をお預かりいたしましたので、ここでご披露いたします。
 ひとつは『大山』大きな山と書いて『大山」。もうひとつは「大桜」。大きな桜、『大桜」という掛け軸です。で、下に脇書きがありますので、脇書きをご紹介します。『大山』の方の脇書きです。「わが友よ、嵐に不動乃信心たれと折りつつ」『54年5月3日創大にて式後』式典の後、『式後記すなり大作』。
「大桜」の方の脇書きです。『わが友乃 功徳満開たれと 祈りつつ」「54年5月3日創大にて合掌 大作』。
 皆さん、ご存じのように、この日は先生は、第三代会長辞任の本部総会に出席をされました。
 場所は創価大学の中央体育館であります。終了後、渡り廊下を歩かれていた先生のもとへ、幼子をかかえた婦人部の方々が、「先生、先生」と叫びながら駆け寄ってこられました。先生は、『ありがとう、お元気で』と大きく手を振ってこたえられた。そして『こういう尊い方々を、いったい誰が守っていくのか』と語られました。その直後に、創価大学で認められたのが、この二つのご揮毫であります。その後先生は学会本部にはもどられずにそのまま神奈川文化会館に向かわれました。その日の夜、神奈川文化会館でしたためられたのが『共戦』。二日後の5月5日の御揮毫が『正義』であります。そして1年後の昭和55年に関西でしたためられたのが、先日、披露された『五月三日」の御揮毫であります。『大山』『大桜』さらに『共戦』『正義』そして『5月3日』。
 これらの御揮毫から反転攻勢の戦いをただひとり開始された先生の御一念が拝されてなりません。
 以来30年。今日の世界192力国に広がる創価学会の大発展を築き上げてくださいました。特に本日、ここに掲げられた2つの御揮毫には全学会員に寄せる深いお心が隠されています。
  つまり『我が同志は、一人ももれなく大山のごとく嵐に不動の信心でその一生を生き抜いてもらいたい』そして『大桜のごとく功徳満開の人生を勝ち取ってもらいたい』これが常にかわらざる先生のお心であります。とともに先生は『わが学会は揺るぎない精神界の王者として大山のごとく社会にそびえたっていく』という、そして『幸福勝利の創価桜の道を断じて世界に開いていこう』とも語っておられます。先生が示してくださった、『大山嵐に不動の信心たれ』、『大桜、功徳満開の人生たれ』、この精神を生命に刻みつけて、戦ってまいろうではありませんか。以上です」

 自分の父親を「先生」と尊称し、その行為を敬語で讚える滑稽さはひとまず措くとして、意図的であれ体調不良であれ、池田氏が本部幹部会を欠席し、池田氏の意図するところのメッセージを、池田博正氏が幹部・活動家に解説・敷衍したことは、今後、ポスト池田体制の中で、池田氏の意志を会員に伝える、あるいは池田氏の意志を解説するのは池田博正氏であるということを明確にしたといえるだろう。
 要するに、実質的に「池田大作」を教祖とする創価学会という閉ざされた集団の中で、教祖のお言葉を伝え、その意味を解釈するのは池田博正氏ということである。
       ---------(424P)-------つづく--

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創価を斬る・41年目の検証-84

2017-03-30 07:20:38 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(413P)---(以下本文)-------

昭和43年を下回る東京の得票
 同様に東京選挙区と大阪選挙区でも、新進党公認で立候補した平成7年の第17回参院選こそ東京・大阪ともに100万票を超えているが、それ以外では東京が浜四津敏子候補が獲得した第18回の97万票を上限に、70万票台から80万票台で頭打ちとなっている。平成22年参院選で、新人の竹谷とし子候補は80万票を獲得したが、この得票数はいまから40年以上前の昭和43年の第8回参院選で阿部憲一候補が獲得した83万票を下回っている。
 同様に大阪選挙区でも、新人の石川博崇候補は86万票を獲得したが、この数字は平成10年の第18回参院選での山下栄ー候補の87万票には届いていない。一連の事実からは、東京では昭和43年以降、大阪でも矢野書記長の報告書に池田氏が「天下を取ろう」と記した昭和49年の第10回参院選で白木義一郎候補が77万票を獲得して以来、勢力は頭打ちにあることが分かる。
 池田氏が会長に就任して初の国政選挙となった昭和37年の第6回参院選を起点とするならば、今回の参院選は比例区・選挙区ともに得票数は増やしているものの獲得議席は9議席と同数。仮に言論出版妨害事件のダメージから回復し、池田氏が「天下を取ろう」と矢野書記長に厳命した昭和49年の第10回参院選を起点とするならば、今回の選挙結果は、比例区(全国区)票では自公の選挙協力もあって130万票ほど得票数を伸ばしているものの、獲得議席は9から6へと3議席の減。選挙区では東京で得票数がマイナス4万票、大阪ではプラス9万票ながらも選挙区(地方区)での獲得議席は5議席から3議席へと2議席の減。合計で獲得議席は14議席から9議席へと5議席の減、すなわち勢力は3分の1も後退していることが見て取れる。
 ちなみに第10回参院選で公明党は、1人区・2人区を含め北海道から鹿児島までの36選挙区で候補を擁立していた。だが、平成22年参院選で候補を擁立しえたのはたったの3選挙区。
 かって当選者を輩出していた北海道・神奈川・愛知・兵庫・福岡の各選挙区にも公明党は侯補を擁立することができず、選挙区の票と比例区の票をバーターすることでようやく比例区での700万票台を維持し、体面を保っていることが分かる。
 要するに、会長就任50周年を迎えた池田氏の「天下取り」の野望は、参院での議席数の変遷から見るならば、昭和37年の第6回選挙での9議席の獲得から、昭和49・58年参院選での14議席の獲得まで伸ばすことには成功したものの、それ以後は停滞から下降線へと移行し、自公の選挙協力によってようやく9議席を維持しているにすぎない。こうした傾向は衆議院選挙でも同じであり、公明党が昭和42年に衆議院選挙に初出馬した時の獲得議席はに5議席。その後昭和58年には最大で58議席まで拡大したが、選挙制度の変更もあり平成21年8月の衆院選で公明党が獲得した議席は、衆院初進出の昭和42年衆院選よりも少ない21議席に過ぎなかった。

 しかも、昭和49年7月8日付の矢野書記長の報告書に、「天下を取るまで応援する」と書いた池田氏は、平成22年の参院選を前にした6月の本部幹部会を欠席。あげく「皆が、創価学会のすベての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。ゆえに、私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である」(6月9日付「聖教新聞」)と、指揮権を放棄した。
 平成19年の第21回参院選を前にした同年4月の本部幹部会の席上、原田会長は、「池田先生こそ、仏意仏勅の広宣流布を進めてくださる大将軍であります。ゆえに、先生と呼吸をあわせ、おっしゃる通り、そして行動で示してくださる通りに戦えば、必ず道は開ける。これが本門の池田門下の確信であります」(平成17年4月27日付「聖教新聞」)と発言しているが、肝心要の大将軍は指揮権を放棄し前線から離脱してしまったのである。
 そんなことになるとも思わず、衆院選慘敗から一夜明けた平成21年9月1日付「聖教新聞」掲載の座談会記事で、原田会長と正木理事長はこう発言していた。
「正木…いよいよ明年の創立80周年!! ますます、お元気な池田先生のもと、わが創価学会は、新たな大前進を開始した。
原田…その通りだ。我々の眼前には、第二幕の世界広宣流布の大道が洋々と開かれている」
 そして衆院選惨敗直後の平成21年9月の本部幹部会で原田会長は、「私どもの支援した公明党は、小選挙区では残念な結果でありましたが、比例区では805万4007票を得ることができました。未曽有の大逆風の中、今まで以上の積極果敢な拡大がなければ、到底、獲得できなかったであろう得票であります。間違いなく次の勝利への基盤ができた」と発言。平成22年の参院選で「目指せ、広布の1000万!!」を合い言葉に戦うとしていた。
  だが、「お元気」なはずの「大将軍」は、同年5月14日以来、「聖教新聞」にも公の会合にもまったく姿を見せていない。6月3日の本部幹部会を欠席したのに続いて、7月19日に開催される予定だった本部幹部会は、本来ならば勝利集会にしたいところだったにもかかわらず、選挙闘争で幹部・活動家が疲弊したことを考慮して「夏休み」にするという名目でなんと中止してしまった。
「天下を取ろう」「天下を取るまで応援する」と豪語していながら、指揮権を放棄し、いまやその姿さえ見せない池田大作氏。そして805万票を獲得したことで「間違いなく次の勝利への基盤ができた」はずの参院選で、1000万票どころか、「勝利の基盤」とした805万票から42万票も得票を減らし、改選議席を割り込む敗北を喫し国政選挙で3連敗となった創価学会。
  創価学会の会長に就任してから50年にわたって、「天下取り」という野望を追い続けてきた池田氏の終焉の時は確実に迫っている。そうした創価学会にとつての重大な局面下で行われた参院選で敗北したことにより、池田氏の野望が「見果てぬ夢」で終わることは確実となった。会長就任後初の国政選挙である第6回参院選で獲得した議席数と、今回の参院選で獲得した議席数がともに9議席と同数であった事実は、まさに歴史の皮肉としかいいようがない。
       --------------------
 前出のように創価学会は、死を目前にした晩年の戸田城聖の健康状態を、「非常に元気」だが「かぜ気味」あるいは「流感」などと発表していた。ところが実際の戸田の健康状態は、重篤な肝臓病(肝硬変症)だったのである。
  その事実を隠して戸田は療養を続けたが、幸い小康を得た。この小康を戸田は「全快」と思い込み、「病魔」に打ち勝ったと宣言。昭和33年2月11日には、幹部らを集めて「全快祝」を行い、その席上、再び学会本部で指揮を執ること、さらに今後7年間にわたって会長を続けるとの意向を示したのだった。だが、それからわずか50日後の4月2日、戸田は東京・神田の日大病院で死去した。
  戸田の死後、創価学会は会長を決めることができず、会長職は2年にわたって空位となった。
 現在、創価学会ならびに池田は、池田が戸田から後継の指名を受けていたと主張する。しかし「全快祝」の席上、戸田が「今度の病魔も打ち破ったのだから、もう7年また会長としてがんばるからーつよろしく頼む」と発言した事実は、戸田が後継会長を示さなかったこと、すなわち池田に後継指名がなかったことを裏付けている。ちなみに、戸田は死を目前にした3月末にも、日蓮正宗総本山・大石寺塔中・理境坊の二階で面談した創価学会理事・青年部参謀らを前に、次期会長は「お前たちが決めるんだ」と発言し、後継指名をしなかったことを、当時、創価学会の青年部参謀であつた龍年光元都議会公明党幹事長は明言している。
 翻って池田の健康状態、そしてポスト池田大作体制である。会長の原田は池田の健康状態について、戸田の健康状態を「非常に元気」と虚偽発表した小泉隆理事長(当時)同様、池田が「お元気」である旨、発言する。しかし、この発言は額面どおりには受け取れないことは前述のとおり。
 むしろ池田の本部幹部会欠席、参議院選挙の敗北を経て、3力月ぶりに開催された平成22年9月4日の本部幹部会での、次のような原田発言からは、創価学会首脳が、池田のXデーがそう遠くないと認識していること、そうした認識に基づいてポスト池田大作体制に向けての基盤整備を進めていることが読み取れる。
「先生がお元気な今だからこそ、将来に備えて、揺るぎない体制を築いていく時であります。『池田先生、見ていてください。弟子の私たちが厳然とやります。断固、勝ちます。ご安心ください』と、胸を張って言えるよう、門下生一同、鉄の団結を固めて前進してまいりたいと思います」
 そのポスト池田大作体制は、池田の長男で創価学会副理事長と創価学会インタナシヨナル(SGI)副会長を兼務する池田博正を中心とする世襲体制になるものと見られている。池田は会長に就任後、戸田から後継会長の指名を受けていたとの虚構のシナリオに基づく虚構のカリスマと「神話」の構築を図った。そして、いままた創価学会は、池田博正の世襲体制に向けて、虚構のカリスマとシナリオを構築しょうとしている。以下に世襲体制に向けての創価学会の動きをレポートした論考を紹介する。
       ---------(418P)-------つづく--

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創価を斬る・41年目の検証-83

2017-03-29 10:20:56 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(408P)---(以下本文)-------

②見果てぬ夢に終わった「天下取り」の野望
◆ 報告書に「天下を取ろう」
 昭和49年7月7日に投票が行われた第10回参議院選挙。投開票から一夜明けた7月8日に矢野絢也公明党書記長(当時)は、池田大作創価学会会長(当時)に「御礼」と題する「報告事項」(通称・報告書)を提出した。

 「先生、大勝利させて頂き本当に有難うございました。先生の御慈愛に守られ、同志の血と涙の闘いで勝たせて頂きました。先生、本当に有難うございました」
 との書き出しで始まる報告書で矢野書記長は、愛知地方区での現職候補の敗北を詫びるとともに、池田氏と創価学会員への感謝の念を繰り返しつつ、いっそう努力する决意をこう綴っている。
 「愛知を敗けてしまい申し訳ございません。先生の弟子として恥かしくないよう、さらに信心に励み闘ってまいります。
 先生、心から心から御礼申し上げます。
 同志の皆さん、本当に有難うございました」

 これに対して池田会長は、赤鉛筆で次のようなコメントを書き込んだ。
「本当に御苦労様よかったな。これからも頑張ろう
 天下を取るまで応援するから学会も守ってくれ
 愛知も頑張ったよ。この次はもつと取ろう  
 天下を取ろう」
 ひたすら池田会長と創価学会に感謝の意を表し、弟子としての決意を表明する公明党書記長。
 そして、公明党書記長に対して「天下を取ろう」と檄を飛ばす創価学会会長。創価学会・公明党の政教一致の実態を赤裸々に示すとともに、池田会長が「天下取り」の野望を抱き、創価学会・公明党がその実現に腐心していたことを如実に示す重要な資料である。
 この報告書が書かれた第10回参院選で公明党は、地方区5、全国区9の合計14議席を獲得した。14議席の獲得は昭和31年に創価学会が参院選に進出して以来、今般行われた第22回参院選までの50余年に及ぶ歴史の中で、昭和58年の第13回参院選と並ぶ最高の獲得議席である。
  昭和45年に一大社会問題となり、国会で池田会長の証人喚問が取りざたされた言論出版妨害事件の影響もあってか、昭和46年に行われた第9回参院選で創価学会・公明党は、昭和43年の第8回参院選に比べて全国区の得票数で665万票から562万票へと103万票も得票を減らすとともに、獲得議席も13議席から10議席へと3議席減らす敗北を喫していた。

  それから3年後の昭和49年の第10回参院選では全国区で前々回並みの636万票を獲得し、議席も過去最高の14議席を獲得したことから、自信を回復した池田会長は「天下を取ろう」と豪語。また「天下を取るまで応援するから学会も守ってくれ」と、言論出版妨害事件での蹉跌をふまえて、公明党に創価学会を守るよう改めて指示したのである。ちなみに平成3年に教義違背と社会的不正を指摘されて破門された日蓮正宗に対する本格的な攻擎を創価学会が始めるのも、この参院選に勝利し池田会長が「天下を取ろう」と豪語した昭和49年夏以降のことである。
  これ以後、創価学会・公明党は、池田氏の「天下取り」の野望を実現すべく、中曽根首相に対抗して自民党の二階堂副総裁の総理・総裁擁立を仕掛けるなど積極的に行動。さまざまな紆余曲折を経るものの、平成5年には非自民連立政権に参画。さらには平成11年には自民党との連立政権を樹立したことで、池田氏の「天下取り」の野望は一部現実化するところとなった。だが、平成19年の第21回参院選、平成21年8月の衆院選で自民党と公明党は大敗。自公連立政権が崩壊したことで、池田氏の「天下取り」の野望は挫折した。

  しかも、平成22年7月11日投開票で行われた第22回参院選において、自民党は菅首相の消費税発言をはじめとする民主党の敵失に乗じて51議席を獲得し、比較第一党の座を手にしたものの、改選11議席の死守を図った公明党の獲得議席は9議席と改選比2議席の減。平成21年10月には、8月の衆院選の惨敗からの捲土重来を期して原田会長が「目指せ広布の1000万!!」(10月30日付「聖教新聞」)と叫んだ比例区1000万票の獲得も、惨敗した衆院選の805万票や前回参院選の776万票をさらに下回る763万票にとどまった。
 しかも、この763万票は、石破茂自民党政調会長や中谷元元防衛庁長官が、「比例は公明」と連呼していた事実が報じられたように、一人区を中心とする選挙区での自公の選挙協力の結果得られたものであり、自公の選挙協力がなければ得票数は、平成元年の第15回参院選や平成4年の第16回参院選の選挙結果が示すように600万票台にとどまつていた可能性が高い。
 その意味では、池田氏の会長就任50周年と創価学会創立80周年が重なるメモリアルイヤーである平成22年最大の「法戦」である参院選を、「完勝」で飾るとしていた創価学会の思惑ははずれ、結果は「完勝」どころか、自公の選挙協力によってようやく敗北を最小限にとどめたにすぎないと指摘できる。

◆ 虚構の「大勝利万歳!」
 ところが創価学会は、公明党が候補を擁立した東京・埼玉・大阪の3選挙区で当選を果たしたこと。特に苦戦が予想された埼玉選挙区で当選したことと、平成22年の衆院選で小選挙区候補全員が落選した大阪選挙区で、公明党候補が一位で当選したこと。さらには自公の選挙協力の結果、民主党が一人区で自民党に8勝22敗と大敗し、単独過半数どころか国民新党と連立しても過半数を維持できなくなり、野党が過半数を占めたことから、再び参議院のキャスティングボートを握る可能性と、民主党との連立の芽が出てきたことを背景に、「創立8周年の大勝利万歳!」(7月13日付「聖教新聞」)などと喧伝している。
  池田氏もまた「聖教新聞」掲載の「わが友に贈る」と題するコラムで、「大勝利おめでとう! 皆の力でわが創価城は盤石! どうかお体を大切に!!  健康・長寿で前進を」(7月13日付)などと勝利をアピール。創価学会は「盤石」と強調している。

 仮に民主党が単独過半数を獲得していれば、民主党は公明党に国会運営上、配慮を行う必要がなく、矢野元委員長が明らかにした創価学会・公明党の政教一致の実態や国税庁の税務調査の妨害の事実や、山口組系後藤組の後集忠政元組長が明らかにした暴力団と創価学会の関係など、創価学会の宗教法人としての適格性や税法上の優遇措置の見直しなどについて、本格的な論議を行う環境が揃った。そうなれば当然、矢野氏や池田氏の国会招致も俎上にあがる。それだけに、自公の選挙協力が効果を発揮し、民主党の過半数獲得を阻止したことをもって「大勝利おめでとう。皆の力でわが創価城は盤石!」と池田氏が気色を顕わにするのも無理からぬところではある。

 しかし、池田氏が創価学会会長に就任した昭和35年以降の創価学会・公明党の参院選全国区及び比例区の得票数ならびに獲得議席と、創価学会が国政選挙に参戦して以来、候補を擁立し続けている参議院東京選挙区と大阪選挙区の得票数を俯瞰するならば、創価学会の勢力は停滞しており、およそ「大勝利万歳」などといえるものではないことが一目瞭然で分かる。
 全国区・比例区では、小泉旋風が吹き自民党が圧勝した平成16年の第20回参院選での862万票を筆頭に、自公の選挙協力が奏功してはじめて800万票台を獲得できているが、公明党単独の選挙では700万票台がいっぱいいっぱい。選挙制度の変更や有権者数・投票率の増減、さらには政党数の変化もあるが、第22回参院選では700万票台を獲得しても獲得議席は6議席にとどまっており、600万票台で9議席を獲得していた当時よりも勢力的には後退していることは議席数上、明白である。
       ---------(413P)-------つづく--

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創価を斬る・41年目の検証-82

2017-03-28 08:44:40 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(402P)---(以下本文)-------

◆ 重篤な肝硬変であることを公表
 結局、戸田会長が肝硬変であることを創価学会が発表するのは、戸田会長が重篤な病の床に着いてから3力月後の昭和33年2月になってからのことだった。2月14日付「聖教新聞」に、
①「私の闘病八十日 七年毎に広布の道標 競い起る病魔を克服した」と題する「会長戸田城聖」の手記、
②「会長戸田先生を診察して 驚嘆する回復力 相当重篤だった肝臓病」と題する、戸田会長を診察し治療にあたった医師3人の感想文、
③「会長先生健康を回復 再び陣頭指揮を取る 御誕生日に全快祝」と題する3本の記事が掲載され、戸田会長は重症の肝硬変だったが、全快したと発表されたのである。いずれも興味深い内容の記事だけに、その要旨を紹介しょう。
 まずは、「第一段階と目された75万世帯の達成を目前にして、三障四魔は猛然と競い起り、昨年11月以来会長戸田先生は約80日間病魔と闘っておられた。思えば会長就任当時の逢難から7年目、先生はこの病魔を克服されて、11日全快祝を挙げ、再び元通り本部で指揮をとられている。今度の病気について会長戸田先生は次のような手記を寄せられた」とのリード文のつけられた戸田会長の手記。
「はたせるかな昨年の4月以来、これが病魔死魔として幾度とわが身におそいかかった。『来たな』と思ったので、東奔西走しつつ闘病生活に入ったががぜん11月2日重大な病症としてついに起つあたわざる状態に至った。どの医者も、もう駄目だという表情である。しかしいまだ広
宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならばようやく地ならしができた程度にすぎない。
  土台も柱もと考えていけば、この生命は今みすみす捨てられないようである。医者は『半年で事務がとれれば、上等な経過をたどったことになる」という。私は医者にいった。『貴方は医者としての最善の立場を尽して下さい。私も少々生命哲学を学ぶ者、生命を延ばすことは少々知っている筈であるから、私も最善を尽す。よろしく頼む』と。
 心の中では『この最悪の闘病は1力月、正月には初登山をし、3月の大講堂落成大登山には、自ら本山にいてその総指揮権をとる」と决めていたのである。事実正月には初登山を行い、大良薬たる大御本尊に、したしくお目通りして5日間を過した。そして幸いにも下山後1月7日の医者の診断により、重症を警告されていた肝臓病が全く快癒したことが明らかになったのである。
 残るは糖尿のみであるがこれは慢性症状であるから、直接生命に急激な危険は伴わないことを知っている。
 私は医術を排撃はしない。あたかも智恵を得るには知識の門をくぐるが如く、健康の道に医術を忘れるは馬鹿だ。しかし現代の医学をもって最高とはしていない故に、丁度医学、医術を道路の技師が道路のあり方を測定するように、健康の道を測定する技術者として待遇しているのである。故にわが身に課せられた病魔死魔は、御本尊によってこれを打ち、その経過は医術によって知らされるようにしてきたのであった。
 おかげをもって2月11日満57歳の年を終って、58歳の誕生日を卜して全快祝を挙げることになった。昔、旅人が一里塚、一里塚と追うて旅したごとく、私も7年、7年、と7里塚を越えては広宣流布の道へ進もうと思う。今まで通り同志諸君の協力を望んで、病気の経過をあらまし報告する」
 ここで戸田会長は、昨年4月以来、「病魔死魔」が幾度となく襲いかかり、11月から「最悪の闘病」となったが、信仰と医術の力で全快したと述べ、今後、再び広宣流布の道へ進むと決意を記している。
 二番目は、「会長戸田先生を診察して驚嘆する回復力相当重篤だった肝臓病」と題する記事で、同記事では戸田会長を診察した医師3人の感想文が掲載されている。ここでは、そのうち、主治医的立場にある日本大学医学部助教授の本田利男氏の寄稿を紹介しょう。
「創価学会会長戸田先生を自宅で診察したのが、昨年11月2日です。当時の病状は全身倦怠感が強く、食欲も殆どないという状態であり、又眼球結膜には黄疸が現れ、腹部は著しく膨張し、且つ上腹部には肥大した肝臓を堅く触れました。
「諸検査事項」の主な所見は、①尿ウ口ビリン体 強陽性 ②ビリルビン 陽性 ③蛋白 陽性 ④糖 陽性 ⑤血清黄疸指数 48 ⑥高田反応 4本 ⑦糞便潜血反応 強陽性 ⑧腹水試験的穿刺液 陽性 で、相当に重篤な肝臓病(肝硬変症)と診断した。
 その後の経過は意外に良好で日増しに食欲も進み、約1力月後には尿ウロビリン体並びにビリルビンの陽性も軽く、黄疸指数も二十に好転した。
 更に約1力月半後には尿ウロビリン体並びにビリルビンも陰性化し、黄疸指数も略々正常値(8)となり、肝臓も著しく縮小した。なお、尿糖も陽性を呈しているので、これらに関し主治医と共に万全の治療に努力をはらっている。
 現在病状は全く恒久性の経過をたどり、全快の徴を得たことは大変嬉しい次第であり、先生が信心をもつての闘病生活二力月の賜がこのような意外に早い快復をみたもので、誠に驚嘆に属するものがある」
 ここで本田医師は、戸田会長が「相当に重篤な肝臓病(肝硬変症ごと診断結果を明らかにしている。しかし、施療の甲斐あって症状は改善し「全快の徴を得た」ことは喜ばしいとしている。
 本田医師は「意外に早い快復をみた」としているが、それは決して「全快」ではない、あくまでも「全快の徴」、すなわち「きざし」と記している。

◆ 会長続投の意思を表明
 そして3番目は、戸田手記のリード文にもある快気祝の祝宴を報じる「会長先生健康を回復再び陣頭指揮を取る御誕生日に全快祝」という記事である。
「去る11日で会長戸田先生は58回目の誕生日を迎えられたが、昨年秋以来卸病気のところ、最近健康を回復されていたので、この記念日を選び、午後5時半から永田町の南甫園に在京大幹部を招き全快祝いの祝宴を開かれて今後に対する御心境を伝え、兼ねて留守中の幹部の労をねぎらわれた。
 昨年11月以来約80日間の闘病生活に終止符をうって、再び陣頭指揮される決意を聞いていた小泉理事長以下各理事、本部部長、在京支部長、青年部参謀、本部婦人部常任委員ら約40余名が、先生から招待を受けて午後5時過ぎに集ってきた。
 午後5時半、会長戸田先生がいつもの和服姿で「ヨォー」と元気な声で挨拶に応えられながら着座、先ず先生から病気中学会運営に支障をきたさなかったことについて謝辞があり、ついで次のような決意を語られた。
 「会長就任以来7年になるが、私は7年目ごとに難に逢っている。今度の病魔も打ち破ったのだから、もう7年また会長としてがんばるから一つよろしく頼む。末端指導、末端指導と今までずい分力をそそいできたけれどもこのごろは余りその成績が上がっていない。それはもっと根本がしっかりしなければならないということである。『源深ければ流れ遠し』の通りで、要するに学会の振與は会長自身がしっかりしなければならん。私自身が私を教育し磨いて行く。支部なら支部長がしっかりすることだ。そうなって行けば自然に地区部長も班長もしっかりしてくる。自己が大切だということを自覚して、明日から以前と同じように本部へ行って指揮をとる。皆も従前通りよろしくたのむ」

「全快祝」の祝宴で戸田会長は「病魔」を「打ち破った」として、明日から学会本部で指揮を取ると発言。さらに今後7年間、会長として「頑張る」決意を表明している。戸田会長が自らの死去に際して後継会長の指名をしなかったことも、この発言に照らせば当然のことと言える。おそらく戸田会長は「病魔死魔」を「打ち破り」、さらに7年間は会長として指揮を取るものと「確信」ないしは願望していたのだろう。ここには、池田後継指名の気配は微塵もない。
 一連の記事からは、戸田会長が重篤な肝硬変に陥ったが、施療の結果、一時小康状態を得た。
 その小康状態を戸田会長は全快と思い込み、再び学会本部で指揮を執るとともに、3月に行われる日蓮正宗総本山大石寺の大講堂落慶法要がらみの行事でも指揮を執り、さらには今後7年間、会長職を続ける意向であったことが読み取れる。
 しかし実際には、本田医師が書いているように、戸田会長の快復は「全快の徴」に過ぎず、全快祝いから2力月足らずの4月11日、戸田会長は死去したのだった。
 戸田会長と創価学会が、戸田会長の病状を医師の診断結果や検査結果まで明らかにして公表したのは、信仰の利益として、戸田会長の肝硬変が「全快」したものと信じたからであろう。また戸田会長は絶対死なないという確信がある。死んでたまるものか」「今度の病魔も打ち破った」という「確信」に基づいて全快祝を挙げたのだろう。
 だが現実には、それから2力月足らずの4月2日に死去している。この事実をもって戸田会長の「確信」なるものの無意味さを指摘することは容易だが、少なくとも自らの信仰に基づく「確信」を根拠に、病状を発表したことは、宗敎者としてはまだしも正直であったともいえる。

虚偽と虚飾の中のXデーか
 翻って池田氏である。戸田会長の肝硬変による重篤な症状を、当時の戸田体制下の創価学会は、「かぜ気味」「非常に元気」などと虚偽発表して誤魔化したが、池田体制下の創価学会もまた池田氏の健康状態については虚偽発表を行っている。
 例えば、昭和60年10月に池田氏は東京女子医大病院に10日間ほど入院したが、その際、創価学会はマスコミに対して「疲れと風邪気味」による「検査入院」と、まるで戸田会長の昭和32年11・12月の本部幹部会欠席と同様の説明をしている。しかし翌年、池田氏は「昨年、病を得た」と病気だったことを認め、前出の『「第三の人生」を語る』の中でも、「昭和60年(1985年)の秋、心臓検査のため、10日間ほど入院をしたことがあります」と、「病」ではなく「検査入院」と変説しているものの、「疲れと風邪気味」での「検査入院」ではなく、より重篤な可能性のある心臓疾患の検査だったことを明かした。要するに「疲れと風邪気味」による「検査入院」だとした創価学会の発表は虚偽だったのである。
  戸田・池田と二代にわたり会長の健康状態についての虚偽発表を行ってきた創価学会。しかし、まだしも戸田会長は、自らの「確信」に基づいた闘病記を死の2力月前に発表し、重篤な病の事実を明らかにした。一方、戸田会長を恩師と讃える池田氏は、虚偽発表を是正することも健康状態を明かすこともしていない。偽装の入信神話や虚構の後継指名に基づいて、創価学会に君臨してきた池田氏。このまま虚飾と虚栄、そして虚偽と誤魔化しの中でXデーを迎えるのか。
 宗教と政治を弄び、最期まで多くの学会員を欺き続ける罪は重い。
       ---------(408P)-------つづく--

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創価を斬る・41年目の検証-81

2017-03-27 09:09:08 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(395P)---(以下本文)-------

① 「闘病記」を発表した戸田城聖と情報不開示の池田大作の落差/乙骨正生
◆ 健康状態関示は公人の義務
 創価学会の池田大作名誉会長が公の場に姿を見せず、「聖教新聞」にその動静が報じられなくなつてからすでに一年有半が経過した。その理由として体調不良説をはじめ、痴呆やアルツハイマーなどの症状が出ており人前に姿を見せられないのではないか、などさまざまな憶測がなされているが、創価学会は健康状態を含む池田氏についての情報をいっさい明らかにしていない。
 私的集団である宗教団体には、その指導者や責任者の健康状態や動静を積極的に社会に公表する義務はないのかもしれないが、創価学会の場合は、税制上の優遇措置を受ける宗教法人として、非課税の前提となる公益性を判断する情報を開示する義務を有している。まして創価学会は、政権与党の一角を占めた公明党の前身であるとともに母体。そして池田氏は公明党の創立者として、現在も公明党に大きな影響力と指導力をもつているばかりか、かつて自らの女性問題が審理された月刊ペン裁判の最高裁判決において「公人」と認定されている人物である。その言動や動静が公表されるべきは当然だろう。
 仮に百歩譲って、世間一般に対しての池田情報の不開示が許されるとしても、池田氏を「永遠の指導者」(創価学会会則)として尊崇し慕う学会員に対しては、健康状態を含めた池田情報を開示すべき義務と責任を負っている。なぜなら創価学会は、学会員に対して池田氏の著作物を購人させるなどの経済的負担を強いているばかりか、日常的に池田氏の健康・長寿を祈念させているからである。にもかかわらず情報を開示しないのでは、不誠実の謗りは免れまい。
 そもそも池田氏は、若年時に結核に罹患し闘病生活を余儀なくされ、医者に30歳まで生きられないと言われたなどと、「病弱」であることをしきりに鼓吹・自慢してきた経緯がある。それだけに齢83歳となったいま、たとえ病気の一つや二つあったとしても誰も驚かないし、差し障りがあろうはずもない。まして、平成9年に「聖教新聞」に連載した鼎談をまとめた「「第三の人生」を語る」(平成10年・聖教新聞社刊)において池田氏は、病気を発症した際の指導者の姿勢・心構えを次のように語っているのだから、情報を開示しないことは自己矛盾となる。
「松岡(資・副会長)…かって、アメリカのレーガン元大統領も『アルツハイマーである』と公表されました。
名誉会長…そう。自らを蝕む病魔を自覚されて、レーガンさんが、“これから苦労することになる妻・ナンシーを支えてやってほしい”と呼びかけられた。夫婦の強い絆に打たれました。また、指導者としての深い責任を感じましたし、多くの患者やその家族は、希望を抱いたことでしょう。大統領でもアルツハイマーになる、決して隠すことではないのだ、と」
 この発言に基づくならば、自らを尊崇し慕う学会員に対して、その動静や健康状態を明らかにしょうとしない池田氏は、「指導者としての深い責任」に欠けていることになる。たとえアルツ
ハイマーだろうと、脳梗塞だろうと、堂々と健康状態を公表すべきなのではないか。
 ところで池田氏は、平成22年6月3日の本部幹部会を欠席、以後、本部幹部会に姿を見せていないが、同本部幹部会を欠席する理由を述べたメッセージには、戸田城聖二代会長が晩年、本部幹部会を欠席したのは後継の人材に後事を託すためだったとし、自らの本部幹部会欠席を戸田会長の本部幹部会欠席に次のようになぞらえている。
「1、戸田先生は、75万世帯の願業が1歩1歩、達成に近づいていくなかで、私たちに、一つ一つ、戦いの指揮を託していかれました。
 先生は『みんなも立派に育ってきたからな。君たちに任せるよ。自分たちで責任をもって考え、進めていきなさい』と言われ、時には本部幹部会等にも出られなかったのであります。
 それは、未来のために考え抜かれた獅子王の訓練であることが、私にはよくわかりました。
 先生は、仏法において、何よりも大切な『時』というものを鋭く見極められて、弟子たちが永続的に前進し、勝利し、発展していける流れを創ってくださったのです。
 特に、私に対しては厳しかった。
『大作、私が打てる手は全部、打っておいたぞ。あとは、おまえが思う存分、戦いまくれ! 勝ちまくれ!』と厳命されたのであります。
 今、私も、戸田先生とまったく同じ心です。君たちに万事を託していく総仕上げの『時』を迎えているからであります」(6月4日付「聖教新聞」)

◆ 虚偽発表くり返した創価学会
 だが当時の「聖教新聞」を見ると、戸田会長の本部幹部会欠席は病気のためとされており、少なくとも池田氏らに後事を託すために本部幹部会を欠席したのではないことが分かる。例えば昭和32年の11月と12月、そして33年1月の本部幹部会を戸田会長は欠席しているが、その理由を小泉隆理事長(当時)は次のように説明している。
  昭和32年11月30日本部幹部会=「今日は会長戸田先生がかぜ気味で完全に治すために参りませんが、御心配はいりませんからよろしくとのことでございます」(12月6日付)
 同年12月に5日本部幹部会=「それからこうしておりましても、一抹の、さびしさがあると思います。それはしばらく会長先生の姿をみないことです。先生は非常に元気でございまして、ただ永い間の御無理が重なったと申しますか、一時非常にお疲れになり、そこへ今度の流感にかかったわけです。今日もお会いしたのですが、会長が宣言していた75万世帯の折伏が達成して、これは我々にとつて非常な喜びであるが、第六天の魔王からみると容易ならぬものだということになっておるらしい。やはり『魔競わずば正法と知るべからず」会長は『これも一つの魔の所為であろう』とこうおっしゃっておられました。この魔に負けては駄目なんで、会長は『絶対負けない、正月には必ず出てくる」とおっしゃっております。一つ御安心願いたいと思います」(12月27日付)

 これに先立つ昭和32年4月の本部幹部会と5月の本部幹部会も、戸田会長は欠席している。
  4月30日の本部幹部会欠席について「聖教新聞」には、「なおこの日は会長戸田先生は都合で出席されなかった」(5月5日付)との記載があるが、5月31日の本部幹部会欠席についての言及はない。
  しかし、6月12・13日に行われた男女青年部の幹部会に出席した戸田会長は、講演の中で「僕は今度病気をした。丁度2週間やられた」と語っているので、おそらくこれらの本部幹部会欠席も病欠だったものと考えられる。この男女青年部幹部会での戸田発言は、翌年4月2日の戸田会長の死去、すなわちXデーへの起点として、また戸田会長の心境を知る上で注目される内容なので、その病気に言及した部分を紹介しょう。
「私はアメリカのポパイという漫画を見た。ポパイはあれは弱くて負けてばかりいるが、ホーレン草を食べるとすぐ強くなる。たちまち敵を投げとばしてしまう。あれはホーレン草というものを信仰しているのである。最近アイクが病気になったというが、彼がホーレン草の信者ならホーレン草さえ持っていけばよい。すぐに治るだろう。(中略)さあ、そこで諸君は考えねばならない。
 僕は今度病気をした、丁度二週間やられた。皆がやれ病院へ行けとかやれ名医にかかれとうるさくてしょうがない。だが私には確信がある。絶対死なないという確信がある。死んでたまるものか。
 そこが確信の問題だ。低級宗教でも確信がある。ホーレン草を食べても強くなるのにさ、世界一の宗教を信じている私が、病院に入らねば治らない、医者にかからねば治らない。そんな意気地なしでは駄目ではないか。医者というものはうるさいもので、私が腎臓が悪いのに力ラシを入れた納豆を食べるのを見て腎臓に悪いという。すきで食べるのだもの悪くなりやせんよ。それが確信だ。腎臓なんか治ってしまった。自分の心に一つの確信なくしては生きて行けません」(昭和32年6月16日付「聖教新聞」)
 ここで戸田会長は、「絶対死なないという確信がある。死んでたまるものか」と語っているが、「死んでたまるものか」とは、「死」の危機を意識せずしては発せられる言葉ではない。その意味では、「絶対死なないという確信がある」との強がりとは裏腹に、戸田会長はこの時期から「死」を意識していたものと思われる。
 実際、戸田会長は昭和33年2月14日付「聖教新聞」に「私の闘病八十日」と題する手記を発表したが、その中で、「昨年の4月以来、これが病魔死魔として幾度とわが身におそいかかった」と記している。しかし同時に戸田会長は、前述の男女青年部幹部会での「確信」発言に見られるように、「病魔死魔」を克服できるとも考えていたようだ。
 その戸田会長の病気とは肝硬変だった。もともと戸田会長は、講義や指導の際も、ウイスキーを手放さない大酒飲みだったことが示すように、アルコール中毒だった可能性が高い。同時に多年にわたる飲酒、それもアルコール度数の高いウイスキーの多量飲酒は、戸田会長の肝臓を着実に蝕み続け、「絶対死なないという確信がある」との強気発言から五力月後の昭和32年2月になつて、戸田会長は重篤な肝硬変で病の床に着くこととなった。
 その結果、11月と12月の本部幹部会を欠席せざるを得なくなるのだが、その重症度は、創価学会内部の会合ばかりではなく、同年11月28日に遷化した日蓮正宗の碩学といわれた堀日亨五九世法主の密葬・本葬に出席できないほど深刻なものだった。堀五九世法主は、創価学会が発行した「日蓮大聖人御書全集」の刊行に多大な貢献をした戸田会長にとって大恩ある人物。当然、戸田会長はその葬儀に何を置いても駆けつけるべき立場にあったが、戸田会長は堀五九世法主の密葬,本葬を欠席している。
 当然、小泉理事長をはじめとする創価学会の最高幹部は、戸田会長の病状を知っていたはずである。しかし11月の本部幹部会で小泉理事長は、「かぜ気味で完全に治すために参りませんが、御心配はいりませんからよろしくとのことでございます」と、たかだか「かぜ気味」と発表している。この発表は善意に解釈すれば、学会員に心配をかけないための方便ともとれるが、実際には会長の重病を伏せるための虚偽発表、情報操作に他ならない。
 さすがに一力月後の12月の本部幹部会では、「かぜ」程度の発表では済まなくなり、「先生は非常に元気でございまして、ただ永い間の御無理が重なったと申しますか、一時非常にお疲れになり、そこへ今度の流感にかかったわけです」と、単なる「かぜ」よりも症状が重いことを明らかにしているが、それでも虚偽発表であることに変わりは無い。しかも「非常に元気」などと誤魔化しているが、「非常に元気」ならば出席すればいいのだから、この発表自体が矛盾に満ちている。
 もっとも、12月の本部幹部会での小泉発言には、「魔の所為」という戸田発言が引用されており、病気が予断を許さないものであることを窺わせるものとなっている。
       ---------(401P)-------つづく--

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