創価公明党との決別 --OB議員の赤裸々な体験集
創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
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あとがき 古谷博
【1】概論趣旨
日蓮正宗法華講員として元公明党OB議員による赤裸々に綴った文集が発刊された。
それぞれが日蓮正宗法華講員の一員としての歓びを日々に体験しながら、各地の所属寺院に参詣し、御命題である平成二十七年,平成三十三年に向け精進を重ねている。
振り返ると、日蓮正宗創価学会において、ある人は国会議員として、ある人は地方議員として広宣流布の一翼を担って闘ってきたことは紛れもない事実である。思えば、公明党議員として、学会幹部以上に、社会の窓口における自覚と誇りに燃え、地域の繁栄に心を砕き、そして何よりも仏法流布に生きてきた人生ではなかつただろうか。
しかし、思いもよらず、池田創価学会の三宝破壊による異常事態に遭遇してしまった。
社会の公人としての対処や信仰人として組織に対する感謝と活動の狭間で、人生における最大の難局に直面せざるを得なかったのである。それぞれが、もがき苦しみ葛藤しながら、一人の人間として、また、日蓮大聖人様の弟子として、日蓮正宗の信仰に生きることを決断したのであった。
その苦しみ抜いた期間は、個人差があるとしても、結句、大勇猛心を持って創価公明党・すなわち池田大作氏と決別することができたのである。
◆「魔競はずば正法と知るべからず」--信仰の原点
この公明党OB議員の体験を文集にしたのは、法華講衆の中で、政治の世界に生きてきたある種、特別な存在であり、それぞれが悩み苦しみ、そして乗り越えてきた貴重な体験に、その価値があるといえるからである。
「公明党支援者に対する冒涜だ」または「池田先生に弓を引いた」との激しい中傷誹謗は、もとより覚悟しての選択であった。わが身が、創価公明党から罵倒されるのは忍耐できるとしても、愛する家族の一人ひとりにも気を配らざるを得ない厳しい現実に直面したのである。
執拗な攻撃と中傷に晒されながら闘ってきた日々は、今となっては、何ものにも勝る勲章であり、誇りである。
だが、一人の信仰者として「魔競はずば正法と知るべからず」との御金言に照らし、日蓮正宗の一員として、信仰の原点に立つことができたのである。残る人生は、地涌の菩薩の本眷属として、創価学会員の折伏に邁進することが、宗祖日蓮大聖人様に御報恩のできる修行であり、御奉公であることを心から感謝し確信しているのである。
【2】OB議員の深い使命
公明党OB議員のほとんどが、第二代戸田会長との縁が深い議員生活であったといえよう。このOB文集に明らかなように、それぞれ日蓮正宗創価学会に入信したのは、昭和二十年代と三十年代が多いのである。
今の学会員には知る由もないが、戸田会長は、戦後、巣鴨刑務所から出獄され、目の当たりにしたのは、惨たる国土の荒廃と民衆が塗炭の苦しみに喘いでいた現状であった。戸田会長は、それらの民衆を真に救済するためには、日蓮正宗の大御本尊様の広宣流布以外にないことを深く決意し、大聖人の御遺命に適う「折伏大行進」を開始した。
当時の折伏活動は、日蓮正宗の正義を掲げ、「立正安国論」に示された、不幸の原因である邪宗教に対する破邪顕正の闘いであった。それはOB議員、各々にとっては、その折伏戦に参加でき得たのは、日蓮正宗の信心をより深める機会ともなった。
これらのOB議員のほとんどが、十代、二十代の青春の真っ只中で、戸田会長に触れている。その影響は計り知れず、それ以後の人生に大きな影響を与えることとなった。
◆青春時代から戸田会長の薫陶を受けた人間が、公明党議員に
あるOB議員は、当時、中学生であつたが、戸田会長の講義に魅せられ、毎週金曜日に豊島公会堂でおこなわれた会合に参加し続けた。また、ある議員は、総本山の講習会の場で、戸田会長の講義にふれ、後年、議員として活躍する依処になったという。
さらに、地方折伏に来県した戸田会長のユーモア溢れる話に魅了され、信仰の尊さ、大御本尊様の功力広大に感涙したという。
とにかく楽しかった。毎日が歓びで胸が張り裂けそうになった。このように青春時代から、戸田会長の薰陶を受けてきた人間が、縁あって公明党議員に推挙され、議員バッチを胸に翳し政治家として船出したのである。
今、その当時を振り返ると、何ものにも変えられない感動の日々であったことを懐かしく思うと同時に、その体験を記録し、次に続く人たちへ遺していきたいとの思いから、この「文集」は編纂されたのである。
それは、常に戸田会長の指導を生命の奥底に秘め、議員活動をしてきた歴史とも言えよう。後年、池田時代になって、この戸田会長の精神が息づく議員たちを一番忌み嫌ったのは、他でもない池田大作氏だったのである。その背景は、後述する。
◆戸田会長時代とは“似ても似つかぬ”池田創価公明党の“大謗法路線”
それにしても、創価公明党のマインドコント口ールに翻弄される他の公明党議員は、如何に哀れな存在であるのかが、時間の経過と共に如実に思い知ることができるのである。
その迷える公明党議員が、日蓮正宗に戻った元議員をどれほど羡ましく思うことであろう。彼等公明党議員は、迷走している創価学会の現実を冷静に見始めているが、残念ながらそこから脱出する勇気がなく、魂のすべてを創価公明党に絡め捕られているのだ。
まさに本門寿量品で説かれる“毒気深入 失本心故”(深く毒が周り、本心を失っている故)の状態なのである。その公明党議員たちを、一日でも早く正信に帰す折伏行の戦いこそ、日蓮正宗法華講になったOB議員の尊い使命ではないだろうか。そこにこそ、戸田会長の指導を魂に刻んだOB議員の誇りと役割があると確信するものである。
この文集において、何故、戸田会長とOB議員との関係を明確にしたのか、その理由を述べてみたい。
◆戸田会長の真の精神を踏み躅つてきたのは誰か?
現今の池田創価公明党と戸田会長時代とがあまりにもかけ離れており、その生き証人が年々、少なくなり、学会の大謗法路線が、戸田会長時代からそのまま引き継がれたものであるとの誤まつた風潮を糾す役割をもOB議員は担つていると思考したからである。
学会の大謗法路線が“戸田時代からのもの”と定着することで、一番喜ぶのは、池田大作氏本人並びに創価公明党であることを明確に検証しなければ悔いを万世に残すことになる。
平成二十一年四月二日、我等、OB有志の会は、戸田城聖会長「五十回忌法要」を総本山大石寺、五重塔にお在します戸田会長の墓前に集まり、典礼院,福田雄克御尊師の導師の元、水口和夫代表以下二〇数名が読経、唱題して回向申し上げ、戸田会長の総本山に対する赤誠と大御本尊様への信仰心に思いを馳せたのである。
その戸田会長の真の精神を踏み躅つてきたのが池田大作氏であることを、この文集を読んでいただいた人は自然と理解するに違いないと確信するものである。
【3】戸田会長と池田大作との違い
戸田会長と池田大作氏とは、比較にならないほどの違いがある。OB議員は、誰もがご存知のことであるが、いまどきの信心を失った、二世、三世以後の創価幹部たちには、到底理解できないであろう。
第一の違いは、戸田会長には、透徹した信仰観があり、その信仰の姿勢、大御本尊様に対する拝し方、求道の精神は、池田大作氏など足もとにも及ばない。
第二の違いは、戸田会長の含蓄ある話は、時々、脱線するも、ご自分が深く思索したところから醸し出される品格を備えておられた。一方、池田大作氏は、思考停止している学会員が喜びそうな話題や、世の指導者たちへの悪口、最高幹部や公明党議員への罵倒、挙げ句は日蓮正宗の御法主や御僧侶への口汚い誹謗中傷などを恒常的に繰り返していた。それでいて、学会員には、自分のスピーチを自画自賛し「話が高尚でわかりやすくて云々」
という。実に下品で支離滅裂な話であったことは、歴史の事実として明らかだ。その証拠に池田大作氏のスピーチはそのまま聖教新聞に掲載できないほど、仏法の素養のない質の悪い話であることも、これまた真実なのである。
◆世間の名声や我欲を望む指導者を心底から軽蔑--我欲に執着せぬ戸田会長
第三の違いは“池田大作という似非宗教家”が、金にまかせて、諸外国から“名誉称号”を漁り続けている事実をどれほどか戸田会長は嘆いていることであろう。戸田会長ほど、世間の名声や我欲というものに執着がなく、それを望む世間の指導者をみて、心底から軽蔑していた人はいない。
常態化する“勲章オタク”である池田大作氏を、仮に戸田会長が目にしたならば、烈火のごとくお怒りになり、すぐさま創価学会・公明党は解散させられていたであろう。
まだまだ比較すればたくさんあるが、戸田会長の重要な指導の数々を悉く齟齬にしてしまった“池田大作という稀代のエセ指導者”が侵した罪を永遠に“歴史に遺し”、常に検証していかねばならない。
戸田会長だったら、絶対に三宝破壊などという大謗法など侵す筈が無いのは明瞭である。戸田会長は、獄中生活二年を経て波乱万丈の人生を経験しつつ、大御本尊様に、人生のすベてを捧げたその一生は、こと、信仰の世界では純粋そのものであった。
池田大作氏は、仏法流布の行方に立ちはだかる第六天の魔王そのものであり、池田氏に追従し迎合している魔性の創価公明党の解体こそ、戸田会長の精神であることを強く自覚しなければならない。
戸田会長が紛れもなく日蓮正宗信徒として生きた数々の指導を文証として列記する。
---------(208P)-------つづく--