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創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価公明党との決別-25

2016-06-29 06:56:22 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(200P、以下本文)-------
あとがき  古谷博
【1】概論趣旨
 日蓮正宗法華講員として元公明党OB議員による赤裸々に綴った文集が発刊された。
それぞれが日蓮正宗法華講員の一員としての歓びを日々に体験しながら、各地の所属寺院に参詣し、御命題である平成二十七年,平成三十三年に向け精進を重ねている。
 振り返ると、日蓮正宗創価学会において、ある人は国会議員として、ある人は地方議員として広宣流布の一翼を担って闘ってきたことは紛れもない事実である。思えば、公明党議員として、学会幹部以上に、社会の窓口における自覚と誇りに燃え、地域の繁栄に心を砕き、そして何よりも仏法流布に生きてきた人生ではなかつただろうか。
  しかし、思いもよらず、池田創価学会の三宝破壊による異常事態に遭遇してしまった。
 社会の公人としての対処や信仰人として組織に対する感謝と活動の狭間で、人生における最大の難局に直面せざるを得なかったのである。それぞれが、もがき苦しみ葛藤しながら、一人の人間として、また、日蓮大聖人様の弟子として、日蓮正宗の信仰に生きることを決断したのであった。
  その苦しみ抜いた期間は、個人差があるとしても、結句、大勇猛心を持って創価公明党・すなわち池田大作氏と決別することができたのである。

◆「魔競はずば正法と知るべからず」--信仰の原点
 この公明党OB議員の体験を文集にしたのは、法華講衆の中で、政治の世界に生きてきたある種、特別な存在であり、それぞれが悩み苦しみ、そして乗り越えてきた貴重な体験に、その価値があるといえるからである。
「公明党支援者に対する冒涜だ」または「池田先生に弓を引いた」との激しい中傷誹謗は、もとより覚悟しての選択であった。わが身が、創価公明党から罵倒されるのは忍耐できるとしても、愛する家族の一人ひとりにも気を配らざるを得ない厳しい現実に直面したのである。
 執拗な攻撃と中傷に晒されながら闘ってきた日々は、今となっては、何ものにも勝る勲章であり、誇りである。
 だが、一人の信仰者として「魔競はずば正法と知るべからず」との御金言に照らし、日蓮正宗の一員として、信仰の原点に立つことができたのである。残る人生は、地涌の菩薩の本眷属として、創価学会員の折伏に邁進することが、宗祖日蓮大聖人様に御報恩のできる修行であり、御奉公であることを心から感謝し確信しているのである。

【2】OB議員の深い使命
 公明党OB議員のほとんどが、第二代戸田会長との縁が深い議員生活であったといえよう。このOB文集に明らかなように、それぞれ日蓮正宗創価学会に入信したのは、昭和二十年代と三十年代が多いのである。
 今の学会員には知る由もないが、戸田会長は、戦後、巣鴨刑務所から出獄され、目の当たりにしたのは、惨たる国土の荒廃と民衆が塗炭の苦しみに喘いでいた現状であった。戸田会長は、それらの民衆を真に救済するためには、日蓮正宗の大御本尊様の広宣流布以外にないことを深く決意し、大聖人の御遺命に適う「折伏大行進」を開始した。
 当時の折伏活動は、日蓮正宗の正義を掲げ、「立正安国論」に示された、不幸の原因である邪宗教に対する破邪顕正の闘いであった。それはOB議員、各々にとっては、その折伏戦に参加でき得たのは、日蓮正宗の信心をより深める機会ともなった。
 これらのOB議員のほとんどが、十代、二十代の青春の真っ只中で、戸田会長に触れている。その影響は計り知れず、それ以後の人生に大きな影響を与えることとなった。

青春時代から戸田会長の薫陶を受けた人間が、公明党議員に
 あるOB議員は、当時、中学生であつたが、戸田会長の講義に魅せられ、毎週金曜日に豊島公会堂でおこなわれた会合に参加し続けた。また、ある議員は、総本山の講習会の場で、戸田会長の講義にふれ、後年、議員として活躍する依処になったという。
 さらに、地方折伏に来県した戸田会長のユーモア溢れる話に魅了され、信仰の尊さ、大御本尊様の功力広大に感涙したという。
 とにかく楽しかった。毎日が歓びで胸が張り裂けそうになった。このように青春時代から、戸田会長の薰陶を受けてきた人間が、縁あって公明党議員に推挙され、議員バッチを胸に翳し政治家として船出したのである。
 今、その当時を振り返ると、何ものにも変えられない感動の日々であったことを懐かしく思うと同時に、その体験を記録し、次に続く人たちへ遺していきたいとの思いから、この「文集」は編纂されたのである。
 それは、常に戸田会長の指導を生命の奥底に秘め、議員活動をしてきた歴史とも言えよう。後年、池田時代になって、この戸田会長の精神が息づく議員たちを一番忌み嫌ったのは、他でもない池田大作氏だったのである。その背景は、後述する。

戸田会長時代とは“似ても似つかぬ”池田創価公明党の“大謗法路線”
 それにしても、創価公明党のマインドコント口ールに翻弄される他の公明党議員は、如何に哀れな存在であるのかが、時間の経過と共に如実に思い知ることができるのである。
 その迷える公明党議員が、日蓮正宗に戻った元議員をどれほど羡ましく思うことであろう。彼等公明党議員は、迷走している創価学会の現実を冷静に見始めているが、残念ながらそこから脱出する勇気がなく、魂のすべてを創価公明党に絡め捕られているのだ。
 まさに本門寿量品で説かれる“毒気深入 失本心故”(深く毒が周り、本心を失っている故)の状態なのである。その公明党議員たちを、一日でも早く正信に帰す折伏行の戦いこそ、日蓮正宗法華講になったOB議員の尊い使命ではないだろうか。そこにこそ、戸田会長の指導を魂に刻んだOB議員の誇りと役割があると確信するものである。
 この文集において、何故、戸田会長とOB議員との関係を明確にしたのか、その理由を述べてみたい。

戸田会長の真の精神を踏み躅つてきたのは誰か?
 現今の池田創価公明党と戸田会長時代とがあまりにもかけ離れており、その生き証人が年々、少なくなり、学会の大謗法路線が、戸田会長時代からそのまま引き継がれたものであるとの誤まつた風潮を糾す役割をもOB議員は担つていると思考したからである。
 学会の大謗法路線が“戸田時代からのもの”と定着することで、一番喜ぶのは、池田大作氏本人並びに創価公明党であることを明確に検証しなければ悔いを万世に残すことになる。
 平成二十一年四月二日、我等、OB有志の会は、戸田城聖会長「五十回忌法要」を総本山大石寺、五重塔にお在します戸田会長の墓前に集まり、典礼院,福田雄克御尊師の導師の元、水口和夫代表以下二〇数名が読経、唱題して回向申し上げ、戸田会長の総本山に対する赤誠と大御本尊様への信仰心に思いを馳せたのである。
 その戸田会長の真の精神を踏み躅つてきたのが池田大作氏であることを、この文集を読んでいただいた人は自然と理解するに違いないと確信するものである。

3】戸田会長と池田大作との違い
 戸田会長と池田大作氏とは、比較にならないほどの違いがある。OB議員は、誰もがご存知のことであるが、いまどきの信心を失った、二世、三世以後の創価幹部たちには、到底理解できないであろう。
 第一の違いは、戸田会長には、透徹した信仰観があり、その信仰の姿勢、大御本尊様に対する拝し方、求道の精神は、池田大作氏など足もとにも及ばない。
 第二の違いは、戸田会長の含蓄ある話は、時々、脱線するも、ご自分が深く思索したところから醸し出される品格を備えておられた。一方、池田大作氏は、思考停止している学会員が喜びそうな話題や、世の指導者たちへの悪口、最高幹部や公明党議員への罵倒、挙げ句は日蓮正宗の御法主や御僧侶への口汚い誹謗中傷などを恒常的に繰り返していた。それでいて、学会員には、自分のスピーチを自画自賛し「話が高尚でわかりやすくて云々」
という。実に下品で支離滅裂な話であったことは、歴史の事実として明らかだ。その証拠に池田大作氏のスピーチはそのまま聖教新聞に掲載できないほど、仏法の素養のない質の悪い話であることも、これまた真実なのである。

◆世間の名声や我欲を望む指導者を心底から軽蔑--我欲に執着せぬ戸田会長
 第三の違いは“池田大作という似非宗教家”が、金にまかせて、諸外国から“名誉称号”を漁り続けている事実をどれほどか戸田会長は嘆いていることであろう。戸田会長ほど、世間の名声や我欲というものに執着がなく、それを望む世間の指導者をみて、心底から軽蔑していた人はいない。
 常態化する“勲章オタク”である池田大作氏を、仮に戸田会長が目にしたならば、烈火のごとくお怒りになり、すぐさま創価学会・公明党は解散させられていたであろう。
 まだまだ比較すればたくさんあるが、戸田会長の重要な指導の数々を悉く齟齬にしてしまった“池田大作という稀代のエセ指導者”が侵した罪を永遠に“歴史に遺し”、常に検証していかねばならない。
 戸田会長だったら、絶対に三宝破壊などという大謗法など侵す筈が無いのは明瞭である。戸田会長は、獄中生活二年を経て波乱万丈の人生を経験しつつ、大御本尊様に、人生のすベてを捧げたその一生は、こと、信仰の世界では純粋そのものであった。
 池田大作氏は、仏法流布の行方に立ちはだかる第六天の魔王そのものであり、池田氏に追従し迎合している魔性の創価公明党の解体こそ、戸田会長の精神であることを強く自覚しなければならない。
 戸田会長が紛れもなく日蓮正宗信徒として生きた数々の指導を文証として列記する。
       ---------(208P)-------つづく--

 

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創価公明党との決別-24

2016-06-28 07:45:50 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(190P、以下本文)-------
【23】一生成仏を目指し慈悲の折伏   山口優
◆地涌六万人から三〇万人、そして五〇万人--法華講の充実ぶり
 法華講の全国組織の充実ぶりは、目を見張るものがあると思います。地涌六万人にはじまり、三〇万人、そして佳節の年の五〇万人の結集と、見事な足跡と実績を示して来ました。特に「立正安国論上梓七百五十年」の佳節の年に、全国から様々な苦難を乗り越えて、総勢七万五〇〇〇人の信徒が総本山の大御本尊様の前に集まったことは、釈迦在世時代の荘厳な儀式にも通じる、仏教史上においても意義深い大集会だったと確信しています。それに連なれた欲びは大きなものがありました。
 記念式典の時は気象が不順な時期で、なんとか天候に恵まれるように真剣に祈つていました。その結果、全国の法華講員の願いが天に叶って、雨天の予報を覆して素晴らしい晴天の中で開くことが出来たのです。私らは、貴重な記録としてビデオ撮影をしていましたが、富士山にかかる白い雲があたかも式典を祝す龍のように映り,感動に心が震えたのを思い出します。私のところの講員が撮影した富士山と龍の写真も見事で、それを見た全国の人から感激の声が届いています。つまり、諸天善神の龍の加護のもとで記念すべき総会が堂々と開催されたわけです。

◆財務や聖教新聞の多部数購読等の苦情--学会でなく党に集中
 振り返りますと、入会は昭和三十二年一月。学会男子部隊長の時代には、本山の理境坊で指揮する輸送班隊長という重責を担わされていました。当時の班隊長は池田大作氏の側近中の側近,星野義雄さんで、九州の学会員にとつて星野登山部長というと震えあがるぐらい怖い人で知られていました。私らは先輩の元衆議院議員・権藤恒夫さんと共に、一六両編成の列車に乗せた学会員を九州の地から総本山まで輸送し、無事に着山下山させる任務に崇高な使命と誇りを感じていたものです。その権藤さんが登山会に不参加の時は、私が総責任者として指揮を取り本山講義も担当しました。そして私が部隊旗を手にしたのは、池田大作氏が第三代会長に就任した昭和三十五年のことでした。
 一方、私の政治家として初舞台、鹿児島県下の市会議員でした。使命感を抱いて学会幹部から地方の政治家となり、五期二〇年という長期に渡って務めました。そして同六十三年、勇退した鹿児島地区の後を継いで、県会議員に初当選したのです。その頃は後に学習して知ったことですが、宗門と創価学会の軋轢をはじめ公明党に対する風当たりも強くなっていた時期でした。
 平成二年、私が目覚め脱会を決意する契機となった、ある事件が発生しました。当時、鹿児島県議として党の県書記長や中央委員などを務めていたこともあって、様々な苦情が私のところには寄せられていました。中でも多かったのは金銭に関する苦情で、財務や聖教新聞の多部数購読、登山時のトラブルなどの相談が中心でした。私が「政教分離の建前があり、そうした問題は県長ら幹部に直接訴えたら…」と話すと、「本部へ行っても聞いてもらえない」と言うのです。

◆党の中央委員は県レベルの学会には--学会組織から遠ざける!
 止むにやまれず同年五月頃、事前にアポイントを取った上で単身、鹿児島の拠点となっている会館に乗り込んだのです。そこには、東京から来た県担当の副会長をはじめ県長ら五人の最高幹部がズラリと並んでいました。さらに党の本部長、書記長も同席していたのです。彼らは以前から「山口さんは党本部の中央委員なのだから県レベルの会合に出る必要はない」という理屈を持ち出し、意図的に私を地元の組織から遠ざけ、真面目な主張や訴えに耳を傾けませんでした。当然、私の性格ですから力チンと来ていて、学会の金銭を巡るあり方から党の抱える問題点まで、全てを約三時間かけて総括したのです。
 それこそ歯に衣を着せずに、副会長らに向って「昔の鹿児島は、和気あいあいとした組織で仲良く活動をしていた。それを壊したのはあなた達だから、ここから出ていけ」と言い切り、意気揚々と帰って来たものです。その頃の私は、御宗門と池田創価学会の水面下での激しいバトルについてはほとんど知らず、池田大作氏を「先生」と呼び信じてもいました。恥ずかしい話ですが、五十二年路線すら詳細には知らなかったのです。当時は学会の座談会には一切出るなと言われ、大きな会合の時には九州担当の副会長らから「バッチを外して後ろに座っていろ」と指示される始末でした。

◆「ともかく降りてくれ」--封筒を私の懐へ入れようと
 その翌年は地方統一選挙の年でした。しかし二期目を目指していた私に、再出馬の話は待てど暮らせど来ませんでした。その近因は、学会会館での私の言動が引き金になったのですが、実は一期目の県議出馬の時から常にはっきり物をいう私を、地元の市議らは敬遠していたのです。その時は、竹入義勝委員長から直接「大久保直彦副委員長を派遣するから安心しろ君の出馬は大丈夫だ」とのお墨付きをもらい、県大会を開いて勇退県議の後継として正式決定した経緯があったのです。ですから、学会副会長らに遠慮なく物申した私の処遇については、これ幸いと私を批判するネガティブキヤンぺーンを張ったことでしよう。もう一つの理由は、学会草創期時代に活躍した古参議員を二階に上げて梯子を外す戦咯の時期とも重なっていたのです。
 その年の十一月十九日、党本部の大物国会議員が私を訪ねて来ました。私は後日の為また聞いた聞かないを避ける為に、信頼できる党幹部の人を立ち会わせ、約六時間に渡る話し合いを持ちました。そこでの発言は驚くべきもので「理由は分からないが、ともかく降りてくれ」の一点張りでした。
 しかし、私の側に降りる理由が見つからない以上、「断ります」としか返事のしょうがありません。最後には現金の人った封筒を私の懐に入れようとしたので、「そんなあいまいで汚い金は受け取れない」と拒否したのを明確に覚えています。

◆呼び出しで会館に出かけると突然「県議“勇退”披露宴」
 その日の夕方、今度は学会副会長から電話が入り、夫婦で会館まで来てほしいというでした。急ぎ駆けつけて見たら、そこでも愚にもつかない押し問答の始まりです。結局、私が副会長らを問い詰める形となり二時間ほどが経過しました。その時、驚くべき事態が起こったのです。何と全県下の支部長クラスの幹部をその会館に集めていたのです。そして突如、「山口県議が勇退し、学会組織に戻って来ることになりました。今日はそのお披露目です」と宣言し、アッいう間に花束贈呈が行われたのです。私はやっと事の真相を理解し、腹の中では公明党県議の座に別れを告げる決断を下しました。しかし、騙し討ちのようなやり方に怒りを感じつつ、挨拶の中では議員を辞めるとも、学会に戻るとも一切明言しませんでした。
 その足で、知り合いの弁護士を訪ねて「来年の選挙で後援会会長を頼みたい」とお願いし、翌年の選挙に無所属で出ることを表明したのでした。いわば、理不尽にも切り捨てられた公明党に対する敵討を決意したわけです。そして御用納めの十二月二十八日に記者会見し、翌日の各紙に大きく報道されました。しかも何の因縁か、その日の新聞に御宗門による池田大作総講頭罷免の記事が載っていたのです。学会組織は三十日、山口問題に対する緊急支部会を開いたものの、大作罷免に対する対策会合となってしまったのでした。

◆全国的に「山口を落とせ!」--各地から延べ七、八万人の学会員投入
 党の統制委員長だった中野鐵造さんからその日の夜、私の事務所に電話がかかつてきて、「山口さんに除名願いが出ているから、肩すかしの意味で離党届をしたらどうか」という話でした。私は「何も悪いことしてないから嫌ですよ。創価学会や公明党は私達が作ったのでしょう。離党する理由はないです」とキッパリと断りました。中野さんとの会話は、今にして思えば笑い話の一つです。県議選は予想を上回る二千数百票を取ったものの落選しました。さらに翌年、鹿児島市議会選挙があり、それにも意地で立候補しました。
 その時は凄い圧力がありました。全国的に「山口を落とせ」と大号令がかかり、九州各地から延べ七、八万人の学会員が投入されたのです。投票の前日にはかなりの数の福岡ナンバーや大阪ナンパーの車が市内を走り回っていました。奄美大島の親戚も二つの陣営に分かれて、鹿児島入りをしたのを覚えています。結果は落選しましたが、多くの一般市民の支持をいただき、私の政治家としての意地は貫けたと自負しています。
 御宗門との本格的な関わりは平成三年四月、市議選が終った直後、当時の西大宣寺住職から私の自宅に電話が入りました。十三日の御講に地元の学会青年部が大挙して押し寄せて来るので、どうにかならないかという話でした。さらに御講の数日前、学会男子部三人が現れたというので、急遽駆けつけると御宗門や住職に対して難癖をつけている最中でしたので、私は「あなた方には用事はない」と追い出しました。

◆「ここは日蓮正宗のお寺。出て行け」--宗門末寺と学会との衝突!
 そして御講の当日、法華講青年部にビデオ撮影する態勢を取って待ち受けていると、県幹部の総代らを先頭に四者の学会員が動員されていました。勤行・唱題の後、案の定準備されていた宗門批判が始まったので、住職には退席願った上で最前席前に立ち「ここは日蓮正宗のお寺だ。これは池田先生の指示か。そうでないなら、お前達はニセ創価学会員となる。今日は出ていけ」と、この時も追い出しました。この頃は福岡の開信寺襲撃事件など全国的に宗門末寺と学会の小競り合いが発生していたのです。
 当時、講頭と副講頭は毎夜の勤行に必ず参加して、寺院と住職の安全を図っていましたので、私は毎朝の勤行に参加して住職の身を護らせていただくことを決め、同年から数年間は可能な限り実践しました。また、私が孤立無援の中で学会と対峙して寺院を護る姿を見て、政治活動の中で永年に渡ってお付き合いしてきた一〇〇人以上の学会幹部らが、雪崩を打って脱会してくれたのには感激したものです。当時九〇世帯ほどだった檀徒が、一気に二〇〇世帯を超えたのを覚えています。
 そして同四年に副講頭、翌年には総代となりました。その頃は自民党と公明党が激しい政争を繰り返していた時代で、私にも反公明の旗手としての役割が期待され、自民党本部や妙観講本部、檀徒の拠点などに何度も呼ばれました。その後、亀井静香代議士らが先頭を切る格好で、デモ活動などが展開されたわけです。それら一連の流れは、やがて学会攻撃の最先鋒となつて政界に大きな波紋を投げた四月会結成へと結実して行きました。同六年、元創価学会弁護士の山崎正友さん達と共に「創価学会被害者の会」の設立準備に加わやり、同年十一月には幹事に就任し、のちに常任幹事となりました。

◆覚えのない監禁、恐喝容疑で逮浦--冤罪
 その後、創価学会・公明党は本格的な批判者潰しに乗り出し、私にも身に覚えのない監禁・恐喝容疑で鹿児島県警,所轄署によって逮捕されるという冤罪事件が起こったのです。後に判明しますが、いなかった場所にいたことにされての逮捕劇でした。これを学会側は怪文書や機関紙で派手に取り上げ、目の上のタンコブだった山口潰しに利用し、被害者の会や妙観講に対するネガティブキャンぺーンに利用したのです。私は当然、理不尽な逮捕には怒り心頭で、身柄を開放後に記者会見を行い、不当逮捕の調査を公安委員会に申し入れたのです。正しく、「三障四魔紛然として競い起る」の御金言を実感した次第です。

 さて、私は人信して半世紀を超しました。信仰する大きな目的は「一生成仏」です。同時に大事なのは、相手の機根にあわせた折伏戦を展開していくことでしょう。今の創価学会員を折伏しても、すっかり洗脳されて水掛け論になることが多いのが現実です。そこで五〇頁に及ぶ創価学会破折用の資料集を作製し、それを大量にコピーして配布しています。さらに外部用として釈迦時代から大聖人の仏法までを解説した「仏教史略」を作製して日蓮正宗の正義を顕揚しています。波乱万丈の人生は今もまだ続いています。私は命ある限り、広宣流布へ向けての活動を地道に実践して行きたいと、決意を新たにしているところです。
          (元鹿児島県会議員/西大宣寺所属/五島市在住)

       ---------(199P)-------つづく--

 

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創価公明党との決別-23

2016-06-27 08:47:09 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(183P、以下本文)-------
【22】本隆寺信徒として全力を尽くさん  安部 純一
◆念願の洋菓子店開店時に市議候補の推薦を受ける
 縁あって私が日蓮正宗に入信したのは、昭和三十七年十月七日です。当時の私の職業は、長崎グランドホテルの調理部門で、洋菓子・デザインなどを専門とするベー力ーの責任者でした。入信後は座談会、折伏、教学の勉強会と、文字通り一日も休まず学会活動に励んだものです。翌年、初登山に参加して奉安殿で御開扉を受け、感激のあまり涙が止まりませんでした。 その後、毎年一回の御登山を欠かしたことがありません。
 創価学会が信徒団体として誕生した意義は、「大聖人様の仏法を正しく承継する御宗門を外護し、率先して広宣流布のお手伝いをさせて戴く」と言うことであり、あらゆる難は学会が受け止めて宗門に及ぼさないという崇高な精神と目的があったはずです。当時の私は、そのような使命と責任を感じながら学会活動に取り組み、入信一年八ヶ月後には百数十人を預かる男子部隊長に任命されたのです。その後も男子部、壮年部のブロック幹部として全力投球の日々が続きました。
  同四十九年、私の人生を大きくチェンジする出来事が起こりました。突然、長崎の最高幹部が訪ねてきて「来年の市議会選挙に君を候補として推薦することに決定した。腹を決めてほしい」というのです。私はその申し出に驚くと共に困惑しました。それは正本堂完成の年に、長崎グランドホテルを退職して念願の洋菓子店を開店していたからです。妻からも「お店が大切だから立候補は止めてほしい」と訴えられました。事実、私が製造現場を離れてしまっては店が成り立ちません。まさに、これからという矢先だったのでした。

◆「天安門事件」の中国への会長の対応(不作為)に不満!
 その後、一ヶ月余り学会幹部から「まだ決意はできないのか」と言われ続けました。しかし二者択一の決断は難しいものでした。最後に決断したのは、ホテルマン時代に長く労働組合の委員長を務めた経験もあって、市議会議員としての職責にどこか魅力を感じていたのかも知れません。私は自分自身に「これが私の使命であり、広布のお役に立つならば受けて立とう」と言い聞かせていました。しかし、開店に際して受けていた融資の返済も残ったままの出馬となり、本当に辛い決断だったのです。
 振り返って見ますと、その頃から創価学会の御宗門に対する逸脱行為が始まり、いわゆる「五十二年路線」への流れになっていきました。私は選挙や市議会議員としての活動などで多忙を極め、うかつにもそうした支持母体の逸脱には気が付かないまま歳月を送っていました。そんな中、大きな衝撃を受けたのは公明党議員の汚職収賄事件の続発でした。
 砂利船汚職やリクルート汚職、明電工事件などです。また、中国での「天安門事件」に対する池田大作氏の対応も私には不満でした。常に「人間の生命は地球よりも重い」「日中友好の懸け橋は自分がした」と自慢しながら、この大事な時に中国首脳に対して宗教人としての意思表示をできなかったのです。
 平成二年八月、私にとって青天の霹靂というべき事態が生じました。当時、市議会三期目で、党県中小企業局長、長崎支部長、市議会にあっては会派責任者、党幹事長でした。
 その年の八月下句、党県本部長、県書記長の二人からホテルの一室に呼び出しを受けたのです。そこで、驚く内容が告げられました。それは、「君は日頃から党の方針に従わないし、学会の組織からも批判の声が上がっている」として、次期市議会選挙には推薦できないというのです。

◆立候補の時と同様、公認取り消しも「学会」幹部からの一方的に
 その主な理由は、--
 ①勝手に後援会事務所を設けている
 ②外部業者との癒着
 ③学会幹部のいうことを聞かないなどでした。
 その上で、「自分の意思ということで辞退してほしい。後のことは責任を持って対処する」と虫のよい解決を求めてきたのです。
 初の立候補の時と同様、公認取り消しも学会幹部からの一方的な伝達でした。それは文字通りの政教一致の姿です。私に弁明の機会すら与えないやり方には、あきれると同時に「人権無視の公明党には未練はない。私の将来は自分で決めよう」と腹をくくりました。
 私は経験上、学会幹部にとって重要なのは議会での発言や実績ではなく、学会の会合で最前列に座って大幹部の指導を熱心に聞いていることです。その表面的な姿を見て「この議員は信心がある」と評価し安心するのです。しかし、そのような学会幹部好みの議員に限り、本来は戦場であるべき議会の場での発言や実績に乏しいのが実態でした。
 選挙に出馬しないとなると、私の手作りの後援会に説明しなくてはなりません。その後援会の多くは非学会員で、作業着姿で応援してくれる地元の中小企業社長やそこの社員が中心でした。彼らに事情を話したところ「それは困る」という意見が大を占め、私の知らない間に学会と党県本部に公認の陳情が行われるという騒ぎとなりました。しかし、その願いは受け入れられず、後援会と支持者の強い要請もあって離党届を党本部に提出し、無所属での選挙戦に挑むことになつたのでした。

◆郵便受けに汚物、バイクに葬儀用の花--学会、党の嫌がらせ
 それは投票日一ヶ月前の出来事でした。組織も資金もないまま、真心から応援してくれる後援会や友人らだけが頼りでした。大ヒットしたアメリカ映画のボクサー、 ロッキーの叫び「男には負けると解っていても、闘わなくてはならない時がある」の悲壮な心境でした。選挙戦に突入すると、予想通りとはいえ学会・公明党による事実無根の誹謗、中傷が浴びせられ、電話では常套句の「裏切り者」「恩知らず」の言葉や嫌がらせの無言電話が次々にかかってきました。
 なかでも郵便受けに汚物が入れられ、告示当日には自宅にあったバイクに葬儀用の花が飾られていたのには、「これが宗教者のやることか」と、心よりの怒りがわいたものです。
 さらに選挙期間中、私の選挙力ーには終始、露骨なまでの尾行が行われました。投票の結果は落選でしたが、学会や公明党が予想していた倍以上の票を獲得できました。あらゆる悪条件の中、多くの善意の人達の支援で精いっぱいの善戦ができたと誇りを持っています。
 投票日の翌日、私は本隆寺に参詣し齋藤御尊師に選挙期間中の無事をご祈念してくださつた御礼を申し上げ、併せて学会へ退会届を提出したことを報告致しました。その日は私と家族にとつて永遠に忘れられない最良の日となったのです。

◆「なぜ退会?」「御法主猊下を排謗する池田大作氏には従えない!」
 その翌日、学会の副会長と指導担当幹部が自宅に来て、「退会届は預からせてくれ」と言うのです。私は「預けても結構だが、決意は変わりませんよ」とキッパリ返事をしました。すると、「なぜ退会するのか」と聞くので、「最大の理由は、御法主猊下を誹謗する池田大作氏に従えません。あなたは側近として、どうして間違いを指摘できないのか」と反論したところ、一言の抗弁もないまま帰っていきました。
 その後も、副圏長や壮年・婦人・男子部の本部長らが次々と尋ねてきて、今度は「本部内の会員に退会を勧めないでほしい」と何とも虫のよい話をしていくので、私は「今の創価学会は身延以下の存在だ」と指摘すると、文字通り血相を変えて去っていったのです。
 当時も今も、私は決して学会員や党関係者に対し、恨みや怨嫉を抱いているわけではありません。むしろ、かっての仲間に対し学会から離れることができずに可哀そうと心から思っています。一人でも多く、一日でも早く正信に目覚めてもらいたいと願っています。
 これからも御法主上人猊下に信伏随従し奉り、本隆寺支部の三指針の「血脈根幹、異体同心、法統相続」の信心を生涯貫いてまいります。
          (元長崎市議会議員/本隆寺総代/長崎市上小島在住)
       ---------(189P)-------つづく--

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創価公明党との決別-22

2016-06-26 09:09:51 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(174P、以下本文)-------
【21】妙法の「みちょれ太陽」を目指し  杉 徹也
◆信仰一筋に生きる父の背中--入会決意
 青年時代に抱いた私の夢は、政治家になることでした。当時、長崎新聞社を率い、長崎青年団体連合会会長として活躍していた西岡武夫氏が私の希望の星で、昭和三十八年に弱冠二七歳で衆議院議員に初当選しました。私も、福江市青年団副団長と県同連合会副会長としての立場から、西岡先輩の為に全力を尽くして選挙活動に邁進したものです。また当時、今年創立五二周年、認証四六周年を迎えた社団法人福江青年会議所の設立にも力を注いだものです。
 私の父の入信は、昭和三十八年四月十五日でした。折伏をしてくれたのは父の戦友の一人でした。軍隊では連隊長をしていた方で、大佐として現役引退した島の名士です。その頃、内蔵がどんどん腐って、毎日のように洗面器に吐血する潜水病にかかっていました。医師からは、余命三~四ヶ月といわれた難病です。しかも、母親は喘息を患って寝込んでいました。まさに生地獄のような日々が続いていたのです。
 その父は家業の建設業を私に譲り、しばらくして創価学会に入会したのでした。病の床の中で何を祈っているのか、懸命に唱題する声がいつも家中に響いていました。自宅兼事務所に私の仕事関係の来客が来ると、遠慮して幾分小声になりましたが、未入信の私にとっては至極迷惑な状況でした。
 しかし初信の功徳でしょうか、確実に寿命を延ばしながら、信仰一筋に生きる父の背中を見ているうちに、いつしか正しい宗教のもつ荘厳さと偉大な功徳を感じるようになり、ついに一年後の四月十五日、私も入信を決意したのです。それでも仏壇の前に端坐して、しばらくの間は初めての南無妙法蓮華経を唱えることが出来ませんでした。やっとの思いでお題目を唱えると、その瞬間振り向いた父は私の手を精一杯強く握り、目からは大粒の涙をこぼしながら大きくうなずいてくれたのを覚えています。

◆「五島列島の広宣流布」に専念--創価思想に心酔
 その後、離婚も辞さずと騒いでいた母も、父と私が並んで唱題する姿を見るに至って、ついに入信を決意しました。わが家にもやっと、待ちに待った一家和楽の信心が実現したのです。父はその後、約八年間も生き続け、成仏の相を示して常寂光土へと旅立って行きました。その事実は、医師の功績という切り口ながら、医学学会から「潜水病が治った体験」として発表され、全国版の週刊誌に掲載されるほどの反響を呼んだのでした。
 当時、創価思想に心からの感銘を受けた私は、入会直後から熱心に学会活動に没頭し、同四十年頃には男子部班長に就任し、それこそ五島列島を駆け巡っていました。大久保直彦男子部長の頃、全国一斉に班座がもたれたことがあります。私は二〇人弱の五島列島の男子部員を激励しつつ、班座の当日には九八人の青年を結集出来たのです。それは私が、地域での真面目な青年活動を通し、多くの仲間から信頼されていた証しでもありました。
 その直後、学会活動一筋に命を賭す決意を固めた私は、青年団や青年会議所などの公職を全て辞し、男子部幹部としてひたすら「五島列島の広宣流布」を目指しました。それほど、創価学会、公明党は魅力的な存在だったのです。

◆政治家になって皆のために頑張れ--父の一言で市議に挑戦
 政治家への第一歩は同四十四年、二九歳の時に訪れました。公明党公認候補として福江市から出馬しないかとの内々の打診があったのです。迷っている私が最終的に決断したのは、父の「政治の世界があきらめられないのなら会社のことはどうでもいいぞ。政治家になってみんなの為に頑張れ」とのひと言でした。背中をドーンと叩かれた思いがしました。幸い会社の方は、七年前に引き継いだ時にあった約二〇〇〇万円の借金をほぼ返済し、社員の給料やボーナスを払える状態になっていました。
 忘れもしない翌四十五年七月、参議院議員の原田立氏が私のところに來て、「九州で青年を政治家とするのはお前が初めてだ。もし失敗したら永久に青年から政治家は出さん」という殺し文句を言われたのを覚えています。その原田氏からは、公明党候補としての挨拶や遊説の仕方など選挙のノウハウを懇切丁寧に教わったものです。
 そして、同九月の福江市議選(三〇議席)に臨みました。実は、四年前の選挙で公明党は一議席を確保していたのですが、その議員が女性スキヤンダルを起こして空席となっていたのです。狭い島の中で、公明党の名は地に落ち厳しい批判の渦中にありました。ある新聞記者からは「あんたの人生は公明党から出馬したら終りだよ。もう少し力を蓄えてから自民党から出なさい」とのアドバイスが寄せられる始末です。しまいには「あなたが当選したら町の繁華街を逆立ちして歩いてみせる」とまで言われました。結果は、今も忘れない前回と同数の六〇七票を獲得して、堂々の初当選を果たすことが出来たのです。
 後年、私が福江市議の時代に、公明党が解党して新進党に合流し、党の国会対策委員長、幹事長として采配を振るつていた西岡氏と再会しました。そして共に、街宣車に乗って国政選挙の運動をした時は、政治家の一人として感無量の思いがしたものです。それから市議六期二四年を経て、平成七年に落下傘候補として、長崎市を地盤とした県議選に初挑戦しました。当時の私は、県公明党本部の選対委員長や書記長という要職にあり、常に長崎市と福江市を往復する立場でした。県議は同七年の初当選に続き、同十一年当選の二期を務めています。

◆ジエッ卜・フォイル「ペガサス」の就航--筆舌に尽せぬ難関突破!
 ところで、私の地方政治家としての最大の夢と目標は、一貫して五島列島の発展、成長でした。五島は美しい海と豊かな自然に恵まれ、数多くの歴史遺産があります。しかし、離島の宿命から深刻な人口減に見舞われ、福江市(現・五島市)にも過疎の波が押し寄せていました。ある時、尊敬する竹入義勝委員長から「ふるさとの発展の為、公明党議員は死力を尽くせ」との指導を仰ぎ、当時は夢物語だった本土と福江島を結ぶ高速艇就航を果たすべく活動を開始したのです。
 筆舌に尽せぬ難関が待ち受けていましたが、まずジエッ卜・フォイル先進地の佐渡を何度も現察し、アメリカの高速艇製作会社のボーイング社と直接交渉を行い、遂に同二年五月にジエッ卜・フォイル「ペガサス」の就航に成功したのでした。 それまで、長崎~福江間をフェリーで三時間二五分かかっていたのが、僅か一時間二五分という超スピードでの到着力可能となったのです。今ではニ隻目の高速艇も導入され、島民や観光客から大変感謝されています。この実績は当時、「みちょれ太陽」というドラマでビデオ化され、全国的に大きな反響を呼んだものです。今思えば、私と島民との強い絆と信頼が底流にあって、一市議にしか過ぎない私の手で、大きな仕事をさせてもらえたのだと思っています。
 同十五年三月、人生の大半をかけてきた公明党議員の幕を閉じる時が来ました。去ることになった最大の理由は、私が尊敬する竹入元委員長が朝日新聞に執筆した「55年体制回顧録」を巡る創価学会,公明党の狂気のような対応でした。私にまで竹人批判文を書くように迫ってきたのです。その内存のあまりの酷さに、思わず聖教新聞本社に電話をかけ、「この憎悪と悪意に満ちた竹入元委員長への批判記事は一体何だ。二〇年間の長きに渡り、陣頭指揮を取られて来た人に対し、恥ずかしくないのか」と強く抗議をしたものです。

◆拍子抜けする母の「私もそう思っていたのよ」--脱会
 そんなある時、九州の大先輩・中野鐵造先生から「竹入元委員長は、今は法華講にいますよ」という事実を教えられ、それが脱会・脱党に踏み切る大きな一歩となりました。それ以前にも、早くから脱会して法華講役員として活躍していた安部純一さんから、折りに触れて大白法や宗門の機関誌紙などを贈呈されていたのも、最終判断の際に大いに役立ったと思います。
 同十八年十二月、中野先生から突然「家内の追善法要を総本山で行うので、親戚代表という立場で臨席してほしい」と頼まれました。この私に親戚代表を依頼してきた中野先生の心意気に感激し、同月十六日、お伴をして本山の山門をくぐり塔中へ歩を進めたのです。ところが、法要には参加できても奉安堂での御開扉は叶わないという話になり、急遽、理境坊で勧誠を受けることになりました。そして、法華講員として大御本尊様へのお目通りが叶ったのでした。当然ながら、創価学会が破門されて以来、一度も登山をしていません。久し振りに荘厳な本山に触れた私の心には、妙法を抱いての「みちょれ太陽」精神が強く蘇るのを覚えました。これからは正宗信徒の立場から、生涯をかけて五島列島発展の為に尽くそうと、改めて決意したのです。
 そうして私は入講したものの、創価学会に洗脳されていた家族には、その事実を伝えることが出来ませんでした。そこで、同十九年の一月から十二月までの一年間、毎月登山して大御本尊様に一家和楽の信心が実現するようにとの請願を続け、翌二十年正月、腹を決わて母と妻に勧誠を迫ったのです。すると、母からは拍子抜けするような返事がありました。「私もそう思っていたのよ」というのです。しかも、妻や子供たちも即座に賛同をしてくれました。

◆成仏を願つて唱題と折伏行実践--妻が末期ガンを宣告される
 ところが昨年四月、「三障四魔紛然として競い起る」の御金言の通り、突然妻が癌の宣告を受け、しかも末期癌で余命いくばくもないとの診断が下されたのです。私と家族はこれまでと覚悟を決め、日々の看病は当然として妻の成仏を願つて唱題と折伏行を真剣に実践しました。その結果、佳節の年の十一月十六日まで寿命を長らえ、安らかに霊山へと旅立って行くことが出来たのです。その時、私は妻から「これからは妙法をしっかり護持して、もう一度頑張んなさい」との強いメッセージを受けた気がしました。
 私が政治にうつつを抜かして、苦労の限りをさせた妻の死は、想像以上に辛いものでしたが、もはや立ち止まるわけにはいきません。同二十二年、法通院の御住職から講頭拝命の話がありました。「命をかけて広宣流布のお使いをせよ」との亡妻からの厳命があった以上、お断りするわけにはいきません。八月十三日、正式に講頭の認証を受けさせていただきました。今は息子も、青年部長兼登山部長として活躍しています。
 私が講頭になって第一弾の企画として、昨年秋に長崎市からバス登山する計画を実行しました。五島列島の信徒にとって、登山に要する費用は大変な経済的負担でした。しかし直行便のバス登山を実施することで、大幅な負担の軽滅が実現したのです。参加した法華講の方達から、感謝の言葉が寄せられています。私にとっては、それは何よりも嬉しいことです。
 最後に、五島列島の未来の為に、「みちょれ太陽」の続編を作るべく、今後も地道な活動を進めてまいります。私が会長を務める「長崎県航空路運賃等考える会」を中心に、空と海の交通運賃の軽減や、観光客のニーズに応えるソフト面の充実などを、具体的に推進して行く考えです。世法の議員バッチこそ外しましたが、心の奥に妙法の黄金バッチを秘めています。妙法の政治家・杉徹也としてこれからも生き続ける覚悟です。
          (元長崎県会議員/法通院講頭/五島市下大津町在住)
       ---------(182P)-------つづく--

 

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創価公明党との決別-21

2016-06-25 08:16:15 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(167P、以下本文)-------

【20】歓喜の佳節を迎えて  坂田 脩
◆折伏過剰で村八分から始まり一生を妙法弘通に--創価学会時代
 入会の経緯は昭和三十四年、佐賀県多久市小城炭鉱に勤務していた頃、妻は一年以上寝たきり状態の悪性神経痛、ヘルニア、リューマチを併発していました。
 そんな時、炭鉱仲間の山ロ豊吉君の折伏を受け即日、久留米市の霑妙寺へ直行して御授戒を受けました。
① 入会後、三か月余りで妻は病床を離れ、少しずつ家事をこなせるようになりました。この初信の功徳の恩返しは、折伏をする以外ないと教えられた私は、それこそ町内中を折伏して回りました。その結果は村八分状態となり、とくに辛かったのは子洪が友達と遊び場を失ってしまったことでした。余りの不憫さから魔に負けた私は、退転転状態に入ってしまったのです。
② その後、同三十七年に炭鉱閉山。その年の暮れに食堂経営を始めたものの翌年には極度の経営不振に陥り、行き詰った私はノイローゼ状態になりました。その年の八月、ついに自殺未遂にまで追い込まれてしまったのです。
③ そして再び、創価学会の門を叩きました。その時、当時の長沼部隊長から次の約束をさせられました。一に、朝夕の五座三座を絶対実践する。二に、月一世帯の個人折伏を完遂する。三に、夜七時以降は学会活動に専念することの三点でした。
 その上で部隊長は、当時七〇万円以上はあった借金について、「この三つの誓いを守り、それでも一年後に借金が残っているようなら、俺が責任を持って全額払う」と言つてくれたのです。
④ 約束の一年後、借金を全て清算し、約三〇万円の貯金が出来ていました。私はその貯金で、真っ先に仏壇店に駆けつけ、輪島塗の特注御厨子を発注しました。さらに帰途、生命保険会社に立ち寄って契約し、年払い分の三万円を一括払いしました。それは一生を妙法弘通に捧げるため、いつ私が死んでも家族には迷惑をかけない態勢を整えたかったからです。そして、最後に残ったお金で初登山をさせていただいたのでした。
⑤ 部隊長との約束はその後も実践しました。やがて班長、隊長に任命され、次は部隊旗を握らせていただこうと戦つていた矢先、壮年部支部長が急死したことにより急遽、私が青年部を卒業して支部長を拝命したのです。

◆町政刷新で強烈に党の存在をアビール--公明党議員時代
① 折伏や登山啓蒙、書籍販売、結集人員など、常に県内屈指の優秀支部として活躍していました。そんな四十二年秋、池田会長初来県を記念し、当時空席だったわが大和町に公明党町議を誕生させようと本部決定され、私に白羽の矢が立ちました。 もとより議員職など毛頭眼中になかった私は、あくまで信心一筋で行きたいと固辞したのですが、連日連夜、福岡方面から大幹部が来宅しては、「議員になるのはあなたの使命だ。逃げるな」と強硬に迫ってきました。やがて腹をくくった私は、一期四年で政治の舞台からおり、再び信仰の組織に戻ることを前提条件に了承し、不本意ながら町会議員となったのです。
② 四年間の任期中、当時の議会議長で保育園園長を兼任していた禅宗坊主を、不正補助金搾取の証拠をもとに追及して辞任に追い込むなど、数々の町政刷新を行いました。それらの模様は、地方新聞や地元テレビ局などのメディアで取り上げられ、公明党の存在をアピール出来たと今も自負しているところです。

☆二期目固辞するも竹入委員長に頭を下げられ「もう一期だけ」
 このように大暴れした四年間が過ぎ、二期目出馬はしないとの約束履行を迫ったところ、「後継者が見当たらないので、もう一期頼みたい」と言われました。それでは約束が違うと猛反発しましたが、話し合っても埒が明きません。そこで、たまたま議員研修で長崎に来ていた竹入義勝委員長に直談判しました。それまでの経緯を詳しく説明して議員交代をお願いしましたが、最後は委員長直々に深々と頭を下げられ、やむなく「では、もう一期だけ」との約束を交わして再び選挙戦に臨みました。
③ こうなつた以上は、二期目も後悔のない戦いをしょうと決意し、先ず町長、助役、収入役の三役をはじめ議会事務局長、全議員を大石寺に参詣させようと発願しました。当時、創価学会輸送班時代の使命感を思い出しながら唱題を重ねたものです。そんなある日、町で初めての公害問題が発生し、私が県と直接交渉することになりました。結果は県災害特別委員長の説得に成功し、全額国・県で復旧することになつたのです。

☆町長はじめ全議員大石寺研修旅行が実現
 これを見て大感激した当時の大物町議が、翌月実施が決まっていた研修旅行を私に任せようと提案してくださり、ついに夢に見た総勢二五人の大石寺見学が実現したのてす。当時は正本堂の建築中であり、マイクロバスで現場入りをしました。見学後は、今は亡き日達上人猊下の御慈悲によって、豪華な昼食を大奥で御馳走になり、参加者全員で感激したものです。
④ 安心して二期目を終われると思っていた矢先のことです。突然発生したのがテレビの全国放送などで報道された全日本会による町に対する挑戦でした。町政は、町長や議長が入院して逃げてしまうという未曾有の大混乱となったのです。私は当時、無二の親友だつた社会党議員と手を携え、命を捨てる覚悟で町を守ろうと誓いました。
 そこで私が対策本部長、社会党の彼が組合をはじめ老人会、青年団、区長会など町内組織の動員対策部長となり、約一〇日間に渡って必死に戦いました。これには、心ある議員や職員、町民らも一丸となってくれました。その結果、会は完敗の形で町を去ったのです。このような成果と多くの実績を示したこともあり、いつしか三期目の交替は自然消滅してしまい、再々度の「もう一期頼む」の泣き落としに屈することになったのでした。

◆本尊模刻事件で学会から心が離れる--法華講時代
① 昭和玉十二年、創価学会による本尊模刻事件が起こり、私の心に次第に池田大作氏 から離れて行きました。その後、福島源次郎氏の来訪を受けたのをきっかけに、創価学会への脱会手続きを提出しました。そして約一年間、福島さんと一緒に九州各地をゲリラ的折伏活動で必死に回ったものです。
② 平成三年、蓮栄院に法華講が結成され、地元の地方部長より再三の地元寺院への入講を要請されました。私は福島さんと相談の結果、勧めもあって蘇生講より移講することになりました。そして、蓮栄院法華講員となってからは地区長、班長、壮年部長、総代などを歴任し、同十年には西九州地方部壮年部長に就任しました。そして同十四年に同企画部長を兼務した後、総ての任期を無事終えて現在は総代のみの役職を拝命しております。
③ 今は元公明党参議院議員の中野鐵造氏から常に温かいご指導、激励を受けながら、歓喜の中で立正安国論正義顕掲七五〇年の佳節を戦い抜くことが出来ました。今は蓮栄院信徒と共に、御宗門を外護する為の法的立場から、佐賀市内にある世尊寺総代も 務めています
④ 現在は、一一〇世帯ある大和町上戸田自治区の為に、地元公民館の建て替え事業などに尽力する共に、全世帯を対象とした折伏活動を展開しているところです。具体的には、大日蓮出版から刊行された記念写真集やパンフレット類を全戸に、折伏教本を約二〇人の役員へ配布しました。この地域は先祖代々、禅宗の寺檀家ですから容易に耳を傾けてくれませんが、強折することにより様々な現証も現われています。
 これからも、徹底したローラー作戦でお題目を唱えながら折伏行に邁進していく決意です。
           (元佐賀県大和町議会議員/蓮栄院信徒/佐賀市大和町在住)
       ---------(173P)-------つづく--

 

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