創価学会・公明党をブッた斬る 藤原弘達
--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
…S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000
◆まえがき
今や、神も仏も、人間サマによって至極勝手に動員される大衆用の“精神安定剤”ないしは“精神シゲキ剤”にすぎない者になっており、もはや、独自の万能的支配の世界を主張できる領域など、殆ど完全になくなったということでは、いずれのケースもまあ同じなのである。
神は人間の心でも死に、そして人間は本来の場を失って単なる生物に化するという「自然の必然的法則」「摂理」の方が神のそれよりも動かしがたい科学的真理として、現在の日本ではまかり通っているということでもあろう。
ヴィーコ(G・Vico=一六六八~一七四四年)が怖れたような厳しい異端審問などは、今の日本にはない。信仰の自由は、腐敗堕落の自由と同じく、「地球よりも重い」人権として保障されているといってもよい。どんな悪いことをしても、神仏の罰が当たるなどと本気で思う人間はどんどん少なくなっている。それどころか、善悪の行動に関係なく「即身成仏」に近い現世の平和と繁栄を謳歌し、極楽浄土なみに奇蹟のような快楽すら亨受して長寿の果てに「往生」することすら可能なのである。今さら、神や仏の出番はなくなっているということでもあろう。それらを可能にしたものが、人を神の座に据えたデカルト精神の系譜にある学問や技術にあるとすれば、ヴィーコのやったような「無理で、無茶で、無謀な試み」の意味もまた、なんとなく空しい仕事ではなかったかという気もしてこよう。
たしかに、単なる生物に変質した人間には、神に対する畏れなどはない。神になったと錯覚することによって、人間は神から人間を通り越して単なる生物に堕落したということかも知れない。神のものは神へ、カイザーのものはカイザーへと、「政教分離」を近代社会の大原則として創価学会批判の原点に据えた私の仕事にしても、神もなければカイザーの権威ももたない生物的人間の心に対しては、所詮、空しい雑音にすぎないのかという気さえしてくる。もっと無理で、もっと無茶で、もっと無謀な試みは、一体、今の日本では何を怖れてやったらよいのであろう。
以上の文章は、昭和五十四年七月二十九日「週刊読売」に書いたエッセィの一部引用である。ヴィーコは、イタリアの生んだ有名な思想家。彼はデカルト的精神の世界を真正面から批判した、当時異端と考えられた新しい学問の発掘者として『世界の名著』(中央公論社刊)の中にも紹介されている。そのエッセィの表題は「神なきところに人間なく、人間なきところに神なし」というものであった。
政治と宗教の分離という極めて自明な近代国家の大原則を掘り返しながら『創価学会を斬る』という本を敢えて出した私のやり方は、なんとなく、ヴィーコの「無理な、無茶な、無謀な試み」と清水幾太郎が評しているやり方と似ていると思ったからである。私は無理を承知、無茶を承知、無謀を承知で敢えて言論の自由の実験としてこれを試みたといつて過言ではない。
この文章はその後、『藤原弘達の生きざまと思索』全十巻(学研刊)のうち、第八卷『闘う』の最後の中にそつくり引用してある。
昭和五十四年といえば、あたかも『創価学会を斬る』を書いて満十年を迎えようとするタイミングであった。十年のタイミングで私は既に、『創価学会を斬る』という本が巻き起こした問題が、当時の日本においてどうもマトモに浸透していない。若干の意義は果たしたかも知れないが、なんとなくその意義は空中に拡散し、人の心に届かず、実際の政治的効果は現われず、批判された当事者たる創価学会・公明党も政治と宗教の分離を表面では誓いながら、全くといっていいほどこれを実行せず、強引な折伏を選挙運動に混合する、まさに政教一体、王仏冥合路線は形を変え、より巧妙で陰険な形で展開されていた。ただ一つ、私の『創価学会を斬る』は、創価学会の批判がタブー視されていた昭和四十四年段階において、このタブーをブチ破り、自由な言論の批判を呼び起こす上で一石を投じたことは間違いないところであろう。
言論は自由であり、信仰も自由である。この自由という原則の下で空前の平和と繁栄、福祉を謳歌し続けた戦後日本の爛熟期の段階において、まさにヴィーコの提示したような私の試みが、我が国において、この戦後日本において、私は一体、何をやったことになるのであろうか? そういう疑問と、己れの空しさと無力さと、為さんとする意図が誤解されながら社会に伝わっていくということに対する、たまらない苛らだたしさの中に、その十年を送ってきたといえなくもない。
さらに、それから六年の歳月は経っている。私は『創価学会を斬る』という本が投じたタブー打破の一石によって自由な批判の嵐が起こり、しっかりした世論が形成され、創価学会は池田大作以下総反省し、公明党は創価学会との関係を清算して他の諸政党との間に合意の原点を求めながら、自民党一党独裁に代わる健全な野党連合をリードできる方向へと発展することを、心秘かに望んでいたといってもいい。
しかし、そうした私の意図、希望、政治と宗教の分離、戦後日本において政権交替可能なる政党政治、議会政治の軌道を設定させたいという政治学者なりの願望は、ほぼ完全にウラ切られたという実感をかみしめている。
たしかに信仰は自由であり、政党支持も自由である。言論もまた、自由でなければならない。私は、言論自由のために実験を行なった。したがって創価学会・公明党がそれなりに、どのように自由を行使しようが、それは彼らの責任において自由であるという、極めて寛容な態度をもってこの十数年を見守ってきたものである。つまるところ、言論はそういう相手の立場に対する寛容性とルールについての歩み寄りによつてのみ機能するものである。一方的にルールを無視し、相手の自由を認めぬというのであれば、それは専制以外の何物でもないだろう。専制者との「闘い」は、言論だけでは决するものではない。どうしても、力によって倒すか倒されるかになつていくものである。
私は、自分の投じた一石によってますます批判精神、言論の自由の精神がまきおこり、言論と選挙を通じて、問題が克服されることを期待した。マスコミや議会もこれに正当に呼応するものと期待した。全体主義的共産主義やファシズムの国でないなら、必ずそういう機能が活性化しなければならないはずだと信じている。自由世界の一員としての戦後日本が、自由を愛するが故にこの問題を寛容な国民の批判、寛容にして自由な投票や選挙を通じて必ずや克服していけるであろう、と信じる。たとえ試行錯誤はあろうとも、よりよき方向へと歩んでいくであろうことを、私は私なりにじっとガマン強く期待し、そうした角度からの言論も不断に展開してきたつもりである。
ところで、この十数年の間に、いま一つの政治的大問題が私の眼前にあった。創価学会問題において、いわばワキ役を演じたとはいえ、『創価学会を斬る』の出版坊害に一役買った田中角栄が幹事長からやがて総裁・総理となり、そしていわゆる田中角栄問題が、その間において創価学会問題以上に緊急にして重大な政治的課題になつたこともまぎれもない事実である。
このナマナマしい政治権力中枢の動きの中で、田中角栄を主役とすれば、所詮、創価学会や公明党などというものはワキ役であったに過ぎない。三枚目、いや、ホンの端役だったともいえよう。私は政治学者、言論人として、目の前に迫った田中角栄問題を少なくとも主たる政治的関心ないしは学問的興味をもって追求し続けていかざるをえなかった。
そういう私の問題意識が、田中角栄第一審判决を前にして、『文藝春秋』に「角栄、もういい加減にせんかい」という諭文を発表させた。やがて、これを単行本として、同じ標題で講談社から世に出したものである。そのために私はそれなりに勉強をし、多くの古今東西の典籍にも蝕れ、問題の核心に迫らんとした。「角栄、もう……」はかなり大きな反響を呼び、ベストセラー群の一角に食い込んだこと(『創価学会を斬る』に比べれば四分の一ぐらいではあったが)も、問題の緊急性とのタイアップにおいては、それなりの効果を発揮したと考えている。
『創価学会を斬る』に対しては、創価学会・公明党はまこといやらしいまでの中傷や個人攻撃を含む反撃を私に加えてきたが、田中角栄は「角栄、もう……」という私の批判に対しては、殆ど反撃らしい反撃もしょうとはしなかった。病いに倒れる直前、たまたま小金井カントリークラブで顏を合わした時も、私に対して、むしろにこやかな笑顔で挨拶を送ってきたほどである。私の「角栄、もう……」を、彼が必ずしも怨念をもって受けとっておらず、かなり自分の心にこたえた反省の課題として受け止めているのではないかという、たしかなる反応を私はその時も確認したものである。
それから僅か十日余りにして角栄は倒れた。その倒れ方の中に、彼なりに男らしく闘ってやはり己れの限界にまで燃焼しきった男の一つの姿を認めた、といってもいい。これに比べれば、池田大作、創価学会・公明党のやり方は、まこと卑怯であり、なっていないという他はないのだ。かって、彼らを言論・出版妨害事件の嵐の中から助け、自己の政治的野望のためにこれを利用しょうとした田中角栄が、まことぶざまにしてお気の毒な形で政治生命を終えようとしているのに対して、池田大作にはどれだけの反省があり、竹入や矢野ら公明党にどれだけの自覚症状があるといえるか。少なくとも、彼らには人間対人間として率直に対応してくるようなことは全くなかった、ということである。この十数年の歳月の中で、私の胸裡に、フツフツと煮えたぎつてくるような人間としての怒りは、田中角栄を越えて池田大作と公明党に向けられる。こんなヤツラは、どうにも許すことはできない--そういう生々しい人間として、男としての実感なのである。
こんど『創価学会・公明党をブッた斬る』という、『創価学会を斬る』というタイトルをさらに激しい表現にして世に送ろうとしている。その中には、あの本(『創価学会を斬る』)以来まさに十数年、これをルサンチマンと読み取る向きもあろうが、単なる私怨ではないのだ。怒りではあっても、怨念ではない。これからの日本を考える場合、このような薄汚い存在は、すベからく大掃除しなければならない。ゴキブリは退治しなければならないし、カビは取り除かねばならない。そういう怒りの気持を、いよいよ新たにしているものである。
「ブッた斬る」とか、「斬る」とか……、思えば「斬る」という表現が物騒だからというので、十数年前には多くの通信社、広告社は、あの本の広告扱いを拒否したものである。大新聞すら、この広告掲載に躊躇したあの当時の思い出を、私は未だに忘れることはできない。「ブッた斬る」はもっと激しい怒りがこもっていることを、敢えて、この前書きに記しておこう。
*
この稿を書いている段階で、かって『創価学会を斬る』の出版坊害のために池田大作の命令を受けて執拗な接触を続けた藤原行正が突如として東京都議会公明党幹事長のクビを切られ、「造反」したという二ュースが飛び込んできた。藤原と同行した秋谷栄之助が現在の学会会長であることと思い合わせ、まさに感慨無量という他ない。ひとり藤原行正の今度の「造反」のみでなく、ここ十数年の間に創価学会は公明党ともどもに満身傷だらけになっただけでなく、どうやら中枢神経の空洞化はほぼ組織の限界にきているというのが、私の総合診断である。ここで必要なことは、「斬る」を「ブッた斬る」として、その脳天に一撃を加えることである。
今度の著述の問題意識も、まさにそこにある。
昭和六十年九月
藤原弘達
---------(11P)-------つづく--
<参考>
藤原弘達と創価学会
1.創価学会を斬る<この日本をどうする2>=1970年・昭和45年<言論出版妨害事件>
2.続・創価学会を斬る=1971年・昭和46年
3.新・創価学会を斬る=1972年・昭和47年
4.創価学会に未来はあるか=1979年・昭和54年 共著・内藤国夫
「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相
5.創価学会・公明党をブッた斬る=1985年・昭和60年
-いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか-
6.創価学会池田大作をブッタ斬る=1988年・昭和63年
藤原弘達・1999年=平成11年没
7.藤原弘達『創価学会を斬る』41年目の検証=2012年・平成24年