創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明党をブッた斬る-1

2017-12-31 10:01:32 | Weblog

創価学会・公明党をブッた斬る   藤原弘達
  --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
          …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1,000

まえがき
 今や、神も仏も、人間サマによって至極勝手に動員される大衆用の“精神安定剤”ないしは“精神シゲキ剤”にすぎない者になっており、もはや、独自の万能的支配の世界を主張できる領域など、殆ど完全になくなったということでは、いずれのケースもまあ同じなのである。
 神は人間の心でも死に、そして人間は本来の場を失って単なる生物に化するという「自然の必然的法則」「摂理」の方が神のそれよりも動かしがたい科学的真理として、現在の日本ではまかり通っているということでもあろう。
 ヴィーコ(G・Vico=一六六八~一七四四年)が怖れたような厳しい異端審問などは、今の日本にはない。信仰の自由は、腐敗堕落の自由と同じく、「地球よりも重い」人権として保障されているといってもよい。どんな悪いことをしても、神仏の罰が当たるなどと本気で思う人間はどんどん少なくなっている。それどころか、善悪の行動に関係なく「即身成仏」に近い現世の平和と繁栄を謳歌し、極楽浄土なみに奇蹟のような快楽すら亨受して長寿の果てに「往生」することすら可能なのである。今さら、神や仏の出番はなくなっているということでもあろう。それらを可能にしたものが、人を神の座に据えたデカルト精神の系譜にある学問や技術にあるとすれば、ヴィーコのやったような「無理で、無茶で、無謀な試み」の意味もまた、なんとなく空しい仕事ではなかったかという気もしてこよう。
 たしかに、単なる生物に変質した人間には、神に対する畏れなどはない。神になったと錯覚することによって、人間は神から人間を通り越して単なる生物に堕落したということかも知れない。神のものは神へ、カイザーのものはカイザーへと、「政教分離」を近代社会の大原則として創価学会批判の原点に据えた私の仕事にしても、神もなければカイザーの権威ももたない生物的人間の心に対しては、所詮、空しい雑音にすぎないのかという気さえしてくる。もっと無理で、もっと無茶で、もっと無謀な試みは、一体、今の日本では何を怖れてやったらよいのであろう。
 以上の文章は、昭和五十四年七月二十九日「週刊読売」に書いたエッセィの一部引用である。ヴィーコは、イタリアの生んだ有名な思想家。彼はデカルト的精神の世界を真正面から批判した、当時異端と考えられた新しい学問の発掘者として『世界の名著』(中央公論社刊)の中にも紹介されている。そのエッセィの表題は「神なきところに人間なく、人間なきところに神なし」というものであった。
 政治と宗教の分離という極めて自明な近代国家の大原則を掘り返しながら『創価学会を斬る』という本を敢えて出した私のやり方は、なんとなく、ヴィーコの「無理な、無茶な、無謀な試み」と清水幾太郎が評しているやり方と似ていると思ったからである。私は無理を承知、無茶を承知、無謀を承知で敢えて言論の自由の実験としてこれを試みたといつて過言ではない。
  この文章はその後、『藤原弘達の生きざまと思索』全十巻(学研刊)のうち、第八卷『闘う』の最後の中にそつくり引用してある。
 昭和五十四年といえば、あたかも『創価学会を斬る』を書いて満十年を迎えようとするタイミングであった。十年のタイミングで私は既に、『創価学会を斬る』という本が巻き起こした問題が、当時の日本においてどうもマトモに浸透していない。若干の意義は果たしたかも知れないが、なんとなくその意義は空中に拡散し、人の心に届かず、実際の政治的効果は現われず、批判された当事者たる創価学会・公明党も政治と宗教の分離を表面では誓いながら、全くといっていいほどこれを実行せず、強引な折伏を選挙運動に混合する、まさに政教一体、王仏冥合路線は形を変え、より巧妙で陰険な形で展開されていた。ただ一つ、私の『創価学会を斬る』は、創価学会の批判がタブー視されていた昭和四十四年段階において、このタブーをブチ破り、自由な言論の批判を呼び起こす上で一石を投じたことは間違いないところであろう。
 言論は自由であり、信仰も自由である。この自由という原則の下で空前の平和と繁栄、福祉を謳歌し続けた戦後日本の爛熟期の段階において、まさにヴィーコの提示したような私の試みが、我が国において、この戦後日本において、私は一体、何をやったことになるのであろうか? そういう疑問と、己れの空しさと無力さと、為さんとする意図が誤解されながら社会に伝わっていくということに対する、たまらない苛らだたしさの中に、その十年を送ってきたといえなくもない。
  さらに、それから六年の歳月は経っている。私は『創価学会を斬る』という本が投じたタブー打破の一石によって自由な批判の嵐が起こり、しっかりした世論が形成され、創価学会は池田大作以下総反省し、公明党は創価学会との関係を清算して他の諸政党との間に合意の原点を求めながら、自民党一党独裁に代わる健全な野党連合をリードできる方向へと発展することを、心秘かに望んでいたといってもいい。

 しかし、そうした私の意図、希望、政治と宗教の分離、戦後日本において政権交替可能なる政党政治、議会政治の軌道を設定させたいという政治学者なりの願望は、ほぼ完全にウラ切られたという実感をかみしめている。
 たしかに信仰は自由であり、政党支持も自由である。言論もまた、自由でなければならない。私は、言論自由のために実験を行なった。したがって創価学会・公明党がそれなりに、どのように自由を行使しようが、それは彼らの責任において自由であるという、極めて寛容な態度をもってこの十数年を見守ってきたものである。つまるところ、言論はそういう相手の立場に対する寛容性とルールについての歩み寄りによつてのみ機能するものである。一方的にルールを無視し、相手の自由を認めぬというのであれば、それは専制以外の何物でもないだろう。専制者との「闘い」は、言論だけでは决するものではない。どうしても、力によって倒すか倒されるかになつていくものである。
 私は、自分の投じた一石によってますます批判精神、言論の自由の精神がまきおこり、言論と選挙を通じて、問題が克服されることを期待した。マスコミや議会もこれに正当に呼応するものと期待した。全体主義的共産主義やファシズムの国でないなら、必ずそういう機能が活性化しなければならないはずだと信じている。自由世界の一員としての戦後日本が、自由を愛するが故にこの問題を寛容な国民の批判、寛容にして自由な投票や選挙を通じて必ずや克服していけるであろう、と信じる。たとえ試行錯誤はあろうとも、よりよき方向へと歩んでいくであろうことを、私は私なりにじっとガマン強く期待し、そうした角度からの言論も不断に展開してきたつもりである。

 ところで、この十数年の間に、いま一つの政治的大問題が私の眼前にあった。創価学会問題において、いわばワキ役を演じたとはいえ、『創価学会を斬る』の出版坊害に一役買った田中角栄が幹事長からやがて総裁・総理となり、そしていわゆる田中角栄問題が、その間において創価学会問題以上に緊急にして重大な政治的課題になつたこともまぎれもない事実である。
 このナマナマしい政治権力中枢の動きの中で、田中角栄を主役とすれば、所詮、創価学会や公明党などというものはワキ役であったに過ぎない。三枚目、いや、ホンの端役だったともいえよう。私は政治学者、言論人として、目の前に迫った田中角栄問題を少なくとも主たる政治的関心ないしは学問的興味をもって追求し続けていかざるをえなかった。
 そういう私の問題意識が、田中角栄第一審判决を前にして、『文藝春秋』に「角栄、もういい加減にせんかい」という諭文を発表させた。やがて、これを単行本として、同じ標題で講談社から世に出したものである。そのために私はそれなりに勉強をし、多くの古今東西の典籍にも蝕れ、問題の核心に迫らんとした。「角栄、もう……」はかなり大きな反響を呼び、ベストセラー群の一角に食い込んだこと(『創価学会を斬る』に比べれば四分の一ぐらいではあったが)も、問題の緊急性とのタイアップにおいては、それなりの効果を発揮したと考えている。
 『創価学会を斬る』に対しては、創価学会・公明党はまこといやらしいまでの中傷や個人攻撃を含む反撃を私に加えてきたが、田中角栄は「角栄、もう……」という私の批判に対しては、殆ど反撃らしい反撃もしょうとはしなかった。病いに倒れる直前、たまたま小金井カントリークラブで顏を合わした時も、私に対して、むしろにこやかな笑顔で挨拶を送ってきたほどである。私の「角栄、もう……」を、彼が必ずしも怨念をもって受けとっておらず、かなり自分の心にこたえた反省の課題として受け止めているのではないかという、たしかなる反応を私はその時も確認したものである。
 それから僅か十日余りにして角栄は倒れた。その倒れ方の中に、彼なりに男らしく闘ってやはり己れの限界にまで燃焼しきった男の一つの姿を認めた、といってもいい。これに比べれば、池田大作、創価学会・公明党のやり方は、まこと卑怯であり、なっていないという他はないのだ。かって、彼らを言論・出版妨害事件の嵐の中から助け、自己の政治的野望のためにこれを利用しょうとした田中角栄が、まことぶざまにしてお気の毒な形で政治生命を終えようとしているのに対して、池田大作にはどれだけの反省があり、竹入や矢野ら公明党にどれだけの自覚症状があるといえるか。少なくとも、彼らには人間対人間として率直に対応してくるようなことは全くなかった、ということである。この十数年の歳月の中で、私の胸裡に、フツフツと煮えたぎつてくるような人間としての怒りは、田中角栄を越えて池田大作と公明党に向けられる。こんなヤツラは、どうにも許すことはできない--そういう生々しい人間として、男としての実感なのである。

 こんど『創価学会・公明党をブッた斬る』という、『創価学会を斬る』というタイトルをさらに激しい表現にして世に送ろうとしている。その中には、あの本(『創価学会を斬る』)以来まさに十数年、これをルサンチマンと読み取る向きもあろうが、単なる私怨ではないのだ。怒りではあっても、怨念ではない。これからの日本を考える場合、このような薄汚い存在は、すベからく大掃除しなければならない。ゴキブリは退治しなければならないし、カビは取り除かねばならない。そういう怒りの気持を、いよいよ新たにしているものである。
 「ブッた斬る」とか、「斬る」とか……、思えば「斬る」という表現が物騒だからというので、十数年前には多くの通信社、広告社は、あの本の広告扱いを拒否したものである。大新聞すら、この広告掲載に躊躇したあの当時の思い出を、私は未だに忘れることはできない。「ブッた斬る」はもっと激しい怒りがこもっていることを、敢えて、この前書きに記しておこう。
             *
 この稿を書いている段階で、かって『創価学会を斬る』の出版坊害のために池田大作の命令を受けて執拗な接触を続けた藤原行正が突如として東京都議会公明党幹事長のクビを切られ、「造反」したという二ュースが飛び込んできた。藤原と同行した秋谷栄之助が現在の学会会長であることと思い合わせ、まさに感慨無量という他ない。ひとり藤原行正の今度の「造反」のみでなく、ここ十数年の間に創価学会は公明党ともどもに満身傷だらけになっただけでなく、どうやら中枢神経の空洞化はほぼ組織の限界にきているというのが、私の総合診断である。ここで必要なことは、「斬る」を「ブッた斬る」として、その脳天に一撃を加えることである。
 今度の著述の問題意識も、まさにそこにある。
  昭和六十年九月
             藤原弘達
       ---------(11P)-------つづく--
<参考>
藤原弘達と創価学会
 1.創価学会を斬る<この日本をどうする2>=1970年・昭和45年<言論出版妨害事件>
  2.続・創価学会を斬る=1971年・昭和46年
 3.新・創価学会を斬る=1972年・昭和47年
 4.創価学会に未来はあるか=1979年・昭和54年  共著・内藤国夫
     「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相
 5.創価学会・公明党をブッた斬る=1985年・昭和60年
       -いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか-
 6.創価学会池田大作をブッタ斬る=1988年・昭和63年
   藤原弘達・1999年=平成11年没 
  7.藤原弘達『創価学会を斬る』41年目の検証=2012年・平成24年

 

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創価学会に未来はあるか-33

2017-12-30 07:13:48 | Weblog

創価学会に未来はあるか--藤原弘達/内藤国夫 日新報道出版
  「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相  1979年(=昭和54年) ¥900
               ----(P209)---(以下、本文)--
あとがき
 私の書いた『創価学会を斬る』が、あれだけの政治的・社会的波紋をひろげ、それなりに“勝利”の形になってなんとかおさまったのには、やはりさまざまな“援軍”があったからである。なんといっても、国民大衆の自由を愛する世論のバックアップが最大の味方だったが、同時に、言論出版の自由を妨害された直接被害者の人々がつぎつぎと名のりをあげてくれたことが、問題を政治的水平面にのせて、波紋をひろげる上に大きかったといわねばならない。
『公明党の素顔』を、私の『斬る』に先だって半年前に出版していた内藤国夫氏がどんな言論妨害をうけたかということは、当然のことながらくわしく調査し、彼のように、してやられないためにはどうするかという作戦をたてるうえに大変に参考になったということである。
 私の方は、『斬る』以後、引きつづいて『続』や『新』を書いたが、ここ数年は創価学会を直接のテーマとする著述活動はやっていない。内藤氏は、あの事件以後も自らを「安全弁」に擬して、学会内部の中枢情報を集め、しごく精力的な執筆活動を続けてきた。その努力と執拗なまでの取材活動は、ジャーナリストとしては当代第一級の仕事だったといえよう。むろん、私は内藤氏の仕事にはたえず注意をし、その情報をかなり高く信用し、私なりに利用させてもらったものである。
 こんど、彼との対談の企画が、かって『創価学会を斬る』を出した「日新報道」からもちこまれ、一冊の本として世に送ることとなった。数えてみれば、あれから十年の歳月は経過している。対談のなかに、私がドン・キホーテのように風車に向かって突進したというと、彼は「そうすると、自分はサンチョ・パンサですかな」というところがある。この十年間は、こと創価学会をめぐっては、ちょっとそれに似た関係だったといえるのかも知れない。少なくとも、数多くの創価学会・公明党を論じた人々のなかで、あえて『斬る』をあのような形で出版した私のドン・キホーテ的心情を、サンチョ・パンサのような理解をもって呼応してくれたのは、結局のところ内藤氏をもって、失礼かも知れないが、“第一人者”としなくてはならないと思っている。
 ともあれ、外見は華々しくても実際には大変に孤独な闘いを強いられ、見方によると不特定多数の味方をえた反面に、特定の友を失うことにもなったあの事件の思い出は、その意味ではけっこうイヤなオリのように、いまだに私の心のなかでは沈澱している。内藤氏は年齢的にはかなりの後輩であるし、同じような仕事を通じて知り合いになったものの、同世代の友人から受けた甚しい誤解や中傷からは無縁な立場にあった。そして私のおかげで、「自分の本も売れた」と卒直に感謝もしてくれた。
 今や彼は、継続的な取材と手きびしい内部暴露を通じて、創価学会からはむしろ逆に感謝される立場にある、なかなかにユニークなジャーナリストである。私の方は、必ずしも感謝される立場かどうか、ちょっとくらい感謝されたくらいでは、とてもヨイ気にはなれない。まだまだ創価学会・公明党のあり方に楽天的な見方はとてもできないからだ。ファシズムの一翼を担う可能性にしても、この十年で少しも減少したとは思っていない。そういう私と内藤氏との微妙な感度のちがいは、けっこうこの対談でもよくでているといえよう。
 それにしても世界も日本も、ずいぶんとこの十年の間に変わったように思う。一番変わっていないのが、会長をやめたが、名誉会長におさまった池田大作ではないかという気もしている。
 このごろ、なんで自分はあんな危険で、「敵」を多くつくり、しかも不愉快な後遺症の残るような仕事を、ドン・キホーテのように意気がってやったのだろうかと、自分でも不思議に思うことさえある。
 そういう心境の私に、「ああこれだ、この心境だ」と思わず手を打った文章があった。『パンセ』断章三三一にみえる、あのパスカルの一文だ。

「プラトンやアリストテレスと言えば、長い学者服を着た人としか想像しない。彼らだって人並みの人間で、ほかの人たちと同様に、友達と談笑していたいのだ。そして彼らが『法律』や『政治学』の著作に興じたときには、遊び半分でやったのだ。それは、彼らの生活の最も哲学者らしくなく、最も真剣でない部分であった。最も哲学者らしい部分は、単純に静かに生きることであった。彼らが政治論を書いたのは、気違い病院を規整するためのようなものであった。
 そして彼らがいかにも重大なことのようにそれについて語ったのは、彼らの話し相手の気違いどもが、自分たちは王や皇帝であると思い込んでいることを知っていたからである。彼らは、気違い連中の狂愚をできるだけ害の少ないものにおさえようとして、連中の諸原則のなかにはいりこんだのである」(「世界の名著」前田陽一訳より)
 哲学者のプラトンやアリストテレスが「法律」や「政治学」をやったことの意味に、政治学者であった私が、わざわざ「創価学会」や「公明党」を問題視して『斬る』をだした意義を同列視するつもりなどは毛頭ない。政治の世界でも「気違い」はしばしば手に負えない相手になるというのに、それに狂熱的な宗教がドッキングし、しかも不特定多数の大衆がお相手ということになると、この「気違い病院の規整」は、どんな自信家の“名医”でもへキエキして当然なことなのだ。プラトンやアリストテレスにしても、おそらくはそこまではやらなかったのかも知れない。
 そういう、とんでもない仕事だったとやはり思うし、ではあのときゃらなかったらどうだろうと問い直してみると、やはりやってよかったというように自分の心に納得させてもいる。やはり、自分という人間にとって宿命的な仕事だったのかな……と。ヨーロッパ精神史のなかで、ドン・キホーテをどのように評価するかということになると、これは思想的にもかなりの大問題ということらしい。少なくとも、日本ではドン・キホーテ像が正しい評価をうけていないという点だけは間違いあるまい。

 その意味では、この十年間というもの、私は『斬る』出版以前より以上に不平不満の徒であり、その点は今日も同じである。少しくらいは気違い病院の規整はできたことになるのかとも思うが、その成果については全く自信はないからである。もういちど勇気をふるいおこして、風車に向かって突撃しょうにも、その風車自体のイメージがはっきりしないのである。それに何度も落馬したせいか、このドン・キホーテは満身創痍でもある。馬もくたびれ、槍も折れてしまっているのかも知れない。気力だけは旺盛でも、身体がいうことをきかなくなっているという表現が適切かも知れない。
 このドン・キホーテをふるい立たせて、さらに挑戦する勇気をかきたててくれるもの、それはただ一人の従者=サンチョ・パンサである。
 内藤氏をサンチョ・パンサにたとえることは、必ずしも適切ではないかも知れないが、こういう仕事の「宿命」のなかでは、やはりなんとなくやっぱり似ているわいと改めて思う。この対談は、その意味では、あれから十年を記念する一里塚のようなものでもあろう。
 今後、どれだけお互いの人生があるかはそれこそ神のみぞ知るところであるが、おかしな死に方はできないぞという点では、この二人の呼吸はピッタリと符合したものである。たまたまやりだした“仕事”が、ちょっとやそっとではキレイに片付くような生易しいものではないという点のカクゴだけは、お互いにやっていて、だんだんとできているということでもあろう。
 あと十年もたったときどういうことになっているかという思いも、それなりに対談していて脳裡に去来したものである。うんと若い内藤氏には、もっともっと頑張ってもらわないといけないとも思う。小生も、老馬に鞭打つ思いで、初心をかえりみ、さらに闘う勇気をふるいおこすことの必要を痛感する。
  昭和五十四年八月二十一日
                              藤原弘達
      ----------おわり

池田創価(=公明党)といえば、やはり、評論家・藤原弘達氏です。

次回から--
5.「創価学会・公明党をブッた斬る」   藤原弘達
  -いま,なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか
    …S60/10=1985年…〈日新報道〉 ¥1000               
--です。  お楽しみ下さい。

参考…藤原弘達と創価学会
 1.創価学会を斬る<この日本をどうする2>=1970年・昭和45年<言論出版妨害事件>
  2.続・創価学会を斬る=1971年・昭和46年
 3.新・創価学会を斬る=1972年・昭和47年
 4.創価学会に未来はあるか=1979年・昭和54年  共著・内藤国夫
     「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相
 5.創価学会・公明党をブッタ斬る=1985年・昭和60年
       -いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか-
 6.創価学会池田大作をブッた斬る=1988年・昭和63年
   藤原弘達・1999年=平成11年没 
  7.藤原弘達『創価学会を斬る』41年目の検証=2012年・平成24年

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創価学会に未来はあるか-32

2017-12-29 09:11:06 | Weblog

創価学会に未来はあるか--藤原弘達/内藤国夫 日新報道出版
  「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相  1979年(=昭和54年) ¥900
               ----(P202)---(以下、本文)---
中堅クラスが続々脱会している
内藤 そのとおりですね。さて、あなたは創価学会を脱会して、これからどうなさるおつもりですか。
小沢 昭和五十三年の七月の時点では、創価学会を脱会してお寺に直結する檀徒になった人は五万世帯十万人くらいだったんです。それが昭和五十四年七月現在で二十一万人を突破しました。茨城県を例にとると、昭和五十三年の四月に三百七十世帯だったのが、昭和五十四年七月で千百五十四世帯に增えています。例えば日立市だけでも、もう五百世帯は突破したでしょう。しかも、支部長から大ブロック長まで軒並みですよ。このように脱会した人たちのほとんどが、元教学部教授、元大ブロック長といった中堅のリーダーなんです。末端に行きますと、まだまだ「聖教新聞」も読まない、ただ池田大作盲信といった人がかなりいますが、中間にあって真剣に信仰している人たちは、どんどん疑問を感じ、辞めていっているんです。
内藤 公明党議員で、学会を辞めた人はほかにもいますか。
小沢 北海道では札幌市の市会議員をやっていた人が辞め、三重県亀山市市会議員の横山正吉さん、兵庫県伊丹市の市会議員、それに千葉県習志野市の市会議員の館岡章弘さんと、優秀な人たちが続々と辞めています。
 私個人としても、自分なりに目標を立てて、まず年内にどんなことをしてでも私がかって折伏した百世帯の方々を目覚めさせる。幸いなことに、一つの目標を立てたらなにがなんでも実行しろ、といった訓練を創価学会時代に受けてきたのが役立ちそうです。
 本当は、私が折伏した世帯を一軒一軒回って説明したいのですけど、仕事もありますのでなかなかできそうにない。そこで取りあえず、私の脱会理由を書いたものを一万枚印刷しまして、檀徒会を通じて全国のお寺に九千枚置いてもらっています。千枚は私がもっていて、それはこの町で使います。
 すでに全国から、手紙や電話でどんどん反響がきていますよ。先日も大阪の女性から、お寺に行ったら見せてもらったんだけど、私はまだ半信半疑なのでくわしく聞かせて下さい、という連絡がありました。こんな人たちに、どんどん働きかけていくつもりです。
内藤 まだ、学会に入っている人たちに、だまされていることをなんとか気づかせたい、正信覚醒運動ということですね。
小沢 そうです。そうした純粋な会員たちに、本当に申し訳なかったと、心の底から慚愧の思いでいっぱいだと申し上げたい。そして、ぼくも改めるから、一緒にガンバッていこうじゃないかと、その日の来る日まで闘い続けるつもりです。

結婚をも阻む学会の壁
内藤 さて、同席している恋人同士の若いお二人さん。創価学会の大先輩の話を聞いて納得しましたか。実は、この二人は私の本の読者で、直接、私の話を聞きたいと東北から上京してきたのです。たまたま小沢さんが来られるというので、私の話よりも参考になるだろうと、同席願ったのです。庄子さんは学会員ではないのですが、恋人のF子さんが学会を辞めてくれないと結婚できない、学会を辞めてほしい、ということでしたね、私に出された手紙での訴えによると。
庄子 ええ、学会を辞めてほしいです。信仰で病気を治すとかいった常識外れなことを無条件に信じないで、自分なりの考えをもってもらいたいんです。ぼく自身、去年(昭和五十三年)の十月頃から、いろいろな学会批判の本を買って勉強して、それをコピーして彼女に渡していますが、初めのころの全くの拒否反応に比べて、最近は彼女、だいぶ変わってきています。
内藤 一緒につきあうようになって、彼女が学会員だと知った時は、ショックでしたか。
庄子 そんなにたいしてショックではありませんでした。ただ、ぼくの両親もぼくも、学会について好意的ではなかったのです。
内藤 F子さんの場合、ご家族は。
F子 両親と兄弟姉妹の四人、父が学会の県のブロック本部長をしているのを初め、家族全部が会員です。私は二歳の時から学会員です。
内藤 二歳?
小沢 親が信心していると、生まれた子供も自動的に学会員になる仕組なんです。
内藤 今までぼくと小沢さんが話してきたことを問いて、どんな感じをもちましたか。
F子 今まで私がやってきた学会とは、イメージが全然違うんで、とても信じられない気持ちなんです。ただ、庄子さんにあなたの本などを貸してもらって読んでみて、私の考えていたイメージからひっくり返されたというか、すごいショックで、どうしていいのかわからなくなって……。信じられないといっても、本当のところ、まだ半信半疑なんです。
内藤 お父さんやお母さんとは、あなたが疑問をもったことについて話をしないのですか。
F子 こちらかち批判をしたりしたら、とても黙って聞いてはもらえないと思うんです。もしも池田先生が真実をいえば別なんでしようけれど、かえって家庭の中がまずくなりそうで。
内藤 疑問に思っていることを家族にさえ話せないとは、ずいぶん狭い信仰ということになりますね。あなた自身は疑問をもち始めているでしょう?
F子 疑問というか、今はもう真実が知りたいだけで、それしかないんです。私だけじゃなく、こんな疑問をもっている人はいっぱいいると思うんです。そこに、庄子さんから学会をとるか、結婚をとるかといわれると、どうしても迷うというか困ってしまうんです。もしも辞めたりしたら、両親やなんかととてもまずくなってしまうし。両方取れればいいんですけど、考えているとだんだんわからなくなるばかりで‥‥。
庄子 こういう話をすると、彼女、泣いてばっかししているんです。それで、二人で気分転換をかねて九州へ旅行してみょうということになって、途中で東京に寄つて内藤さんにお話を聞きにきたわけなんです。そして、自分たちの目で創価学会の本部や学会関係のものをみたり、国会図書館にいって学会の真の姿を調べ、たしかめてみたいと思つているんです。
内藤 私のところには、あなたがた以外にも、大勢の学会員や学会を辞めた人々が、いろいろ悩みを訴えてきています。真相が知らされなさすぎるからですね。どうか二人して協力しながら、創価学会の真の姿を知って、結論を出してください。
       ---------(207P)-------つづく--

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創価学会に未来はあるか-31

2017-12-28 08:39:24 | Weblog

創価学会に未来はあるか--藤原弘達/内藤国夫 日新報道出版
  「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相  1979年(=昭和54年) ¥900
               ----(P196)---(以下、本文)---
増上慢、無慈悲、ご本尊の模刻
内藤 熱心な学会員だった小沢さんが、こうして創価学会に疑問をおもちになったいきさつを、詳しくお話しになってください。
小沢 一番ショックだったのは、昭和四十年の東京品川の妙光寺事件ですね。当時は、日蓮正宗の総監だった柿沼広澄師が住職をかねていたお寺で、正本堂の青写真を協議された時の事件です。私は直接現場に居たわけではなく、事件の後で人から聞いただけですが、それでもショックだったんです。あの時は日蓮正宗側から先日お亡くなりになった日達猊下、妙光寺の住職であり宗務総監である柿沼広澄先生、それと今度猊下になられた阿部先生なんかが出席されて、創価学会は当時の池田会長、それに側近の秋谷さん、北条さん、和泉さんといった人たちが出席されました。
 そこで正本堂建設の青写真を協議する、いやしくも我々在家の立場で、日蓮正宗第六十六世であった日達猊下とですね、同格の席に並ばせなかった、と怒って怒鳴るなんて、それこそ考えられないことですよ。
内藤 ぼくが本(「創価学会の野望」四十六ぺージ)に書いた事件ですね。そこに出席した学会の幹部たちが、これはおかしいなァと反発を感じたからこそ、出席者以外にも漏れていったのでしようね。
小沢 そうです。池田大作会長が日達猊下のお宅へお伺いすると、猊下は私を下にも置かないように、さあどうぞ、どうぞと上座に据える。私は謙虚だからお気持ちだけいただいて座らないんだ、なんてあてつけを自分の口からいったんでは、おしまいですよ。普通の純粋に信心しようとしている会員だったら、こんな話を聞いたら憤りを感じますよ。とても、信仰者の姿じゃないんです。私は、宗教とか信仰とかいうものは、あくまでも悪いものをよくしていこう、汚ないものをきれいにしょう、間違っているものを正していこう、というのが木当の姿だと思うんです。
 たとえ創価学会の会長であろうとなんであろうと、猊下と同格じやなきゃイヤだなんて、絶対にいうべきことじやないんです
 しかもその後で、柿沼総監の奥様が、せっかくの集まりだからというので、出前を頼むよりはと真心を込めて一生懸命に作って下さった手料理を「こんなマズイもの、食えるか!」でしょう。これはとても宗教者、信仰の道を歩む者の言動じやない。創価学会という、日本の、いや世界をも含めたリーダーである人とは、とても信じられないんです。
 私も小さいながら料理学校を経営していますから、料理というものは、本当のおもてなしというものは、愛情を込めた真心のこもったお料理を出すことが最高のものである、といった精神は知っています。それなのにあんな態度をとって、しかも一週間後には、あんな立派な柿沼総監をクビにしてしまう。これは怖いな、怖ろしい宗教だな、と直感してしまったんです。
内藤 すると十四年前のことだから、言論出版妨害事件の起こる前だ。ずいぶん古くから疑問をおもちでしたね。
小沢 そうです。あの言論出版妨害事件の時もいろいろありましたが、日蓮の生き方を見ると、一生涯辻に立ったかどうかは知りませんが、とにかく悪いものは悪い、よいものはよい、と命をかけて折伏してきてる。それに比べると池田大作は、国会に喚問されようとするとおびえて幹部に裏工作をさせる。内藤さんや藤原さんといった人たちとも会わずに、逃げ回っている。自分に都合のいいことをいう人しか会わない。これでは、仏法民主主義とはどういう意味か、といった疑問が当然出てくるんです。
内藤 学会・公明党の内部で、そんな疑問をあなたが口にされたことはありますか。
小沢 それがないんです。それをいうと、異端者扱い、気狂い扱いになってしまう。その次には、増上慢だということになる。創価学会・公明党というのは、閉ざされた社会なんです。そこでは、池田会長の言葉が憲法であり、法律であり、正義なんです。だから会員は、どんなことでも我慢して、耐えていかなくちやならんのです。
内藤 小沢さんがはっきりと、もうこんな学会を辞めようと決定された一番の原因は何ですか。
小沢 公明党の議員の細君でつくっている全国的な組織に“芙蓉会”というのがあるんです。昭和四十四、五年頃、その関東地区の会合が学会本部であったんです。その当時、今中学二年になる娘がまだ二、三歳ぐらいのころで、私の家内が近所の誰かに預つて貰って行けばよかったんでしょうけれど、おぶって連れて出たんですよ。いくら広い本部とはいっても、何百人もの人が集まって二時間も三時間も話を聞いているわけでしょう。大人なら、少しくらい苦しくても“信心”の二字で辛抱できますけど、赤ん坊にはガマンができなくて泣き出してしまったんです。そうしたら池田会長が、その大勢の目の前で「だいたい、こういう会合に子供を連れてくるとは何事だ! あんたに信心なんかないッ! 出て行きなさいッ!」と怒鳴ったんですよ。
 家内はその一声で、今まで自分たちが創価学会の会長、師匠と仰いで、この人のためならばとガンパッてきた人の本当の姿はこれだったのかとわかって、泣き崩れたそうです。
 池田大作がよく使う言葉に“慈悲”というのがあるんです。慈悲というのは、その赤ん坊が、辛い、苦しい、外へ出ていい空気を吸いたい、その苦しみを取って楽にしてあげよう、という精神でしょう。
内藤 普通の常識があれば、「ご苦労さん。泣かれると会議のじゃまになるから、赤ちゃん、ちょっと外へ出して、泣きやんだらまた連れてきなさい」といって済ませるべきところでしょうね。
小沢 そうなんです。それでこそ、慈悲の精神を強調し、口ぐせのように“慈悲”“慈悲”といっている創価学会の会長なんです。ところが、事実は正反対なんです。生まれながらにもっている池田大作の性格なんでしようけれど、それが創価学会という権威者の立場から我々を見下すことに慣れてしまったから、そういうふうになっちやったんですね。
内藤 その頃から辞めたいと考え出したわけですか。辞めたい気持をずいぶんながい間もちつづけられたものですね。
小沢 それが全部じやないんですが、いろいろと積もり積もっているんです。たとえば“ご本尊の模刻”なんかもね。これなんかも、南無妙法蓮華経という日蓮大聖人の即仏の魂というか生命のようなものでしょう。それを自分の私利私欲のために、財産を肥やすために模刻する。
 これはどんな理由があっても、絶対に許せないことですよ
内藤 小沢さんが正式に脱会届を出されてから、学会側の反応はどうでしたか。
小沢 あれはたしか五月の二十日だったと思います。公明党の多田省吾副委員長と公明党の茨城県本部長の宮寺新三さん、それに県会議員(公明党茨城県本部書記長)の足立寛作さんの三人に会いました。
内藤 当然、辞めないでくれという泣きおとしでしょうけれど、その時、創価学会の現状がこんなことでいいのか、といったようなことは話されたんですか。
小沢 ええ、いろいろ話しました。さきほど話した仏法民主主義なんかについても。民主主義というのは、オープンで平等で、宗教というものがそもそも仏の前ではみな平等なんですから、自由に発言して、間違いは改め、正しいものは取り入れる、これが日蓮大聖人様の仏法の根底なんです。それを都合のいいことだけ取り入れて、都合の悪いことは取り入れない。こんな創価学会の体質や“見まい、聞くまい、語るまい”といった創価学会という狭い枠の中だけに信者を押し込めたアパルトヘイトみたいなもの。地域社会に根を張れ、地域の人材たれなんて、口ではうまいことをいっていながら、現実はまったく正反対なことばかりの実情なんかを。
 そうしたら最後に、多田省吾さんが、小沢さん、あなたの性格として、とにかく純粋だからそういう気持ちになるのも無理ないだろうなあ、ということで納得してもらったわけです。それ以上のトラブルはありませんでした。
内藤 そうしてあなたは五月二十日に学会は脱会した。しかし、公明党議員としてはどうなったんですか。共産党の議員が、党を除名されたり脱党したら、同時に議員も辞職せよ、と迫られるようですが、公明党の場合はどうですか。
小沢 やっばり、公明党を五月二十八日にやめさせられた。私としては、創価学会はやめても公明党にはうらみつらみがあんまりないから、多少不透明のところはあつても政治の世界は妥協の世界で別だと考えていた。ところが、党と学会は一体だからやめろという。かって池田会長が天下に向かって政教分離を宣言したが、実際はとんでもない、この通り一体なんですよ。
       ---------(202P)-------つづく--

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創価学会に未来はあるか-30

2017-12-27 08:24:09 | Weblog

創価学会に未来はあるか--藤原弘達/内藤国夫 日新報道出版
  「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相  1979年(=昭和54年) ¥900
               ----(P191)---(以下、本文)---

ネズミ講よりひどい池田大作の金儲け主義
内藤 小沢さんもかっては、やっぱり、池田大作さんを生き仏、日蓮大聖人の生まれ変わりのように思つていたんですか。
小沢 さっきお話した昭和三十八年ごろ、つまり、私が初めて水海道の市議会議員になったころですね。当時は、自分の生命を賭けるといったら大ゲサですが、そんな心境で学会活動をしてましたから、池田大作会長に対してそんな気持ちをもっていました。
内藤 池田大作さんの特徴というか、すぐれた点、長所みたいなものはあるとお考えですか。
小沢 非常に金儲けのうまいことでしよう。内藤さんの書かれた本に、ネズミ講のようだという指摘がありましたが、私は、創価学会に比べると、ネズミ講はまだ赤ん坊のように可愛いと思っています。
内藤 ネズミ講の方が可愛いとは?
小沢 ネズミ講というのは、初めからネズミ算で金を儲けようというのがはっきりしているところだから、無邪気で可愛気がある。
 ところが創価学会には、三千年の釈迦、七百年の日蓮大聖人の純粋な考え方の根本として“利根と通力をもってやっては絶対にいけない”という言葉がある。これは、現代風にいうと金儲けをしてはいけない、ということなんです。池田さんにしろ、その側近にしろ、この言葉は皆知っているんです。知っていながら、しかも宗教者でありながら、純粋な国民や会員を利用して金儲けをしょうとしている。これはもう、ネズミ講なんかとは比べものにならない“悪”です。
内藤 そう考えるようになったのは、いつ頃からで、なにがきっかけですか。
小沢 正本堂のご供養が終わったあとですから、昭和五十年頃かな。
内藤 学会への入会を働きかける言葉の一つに、「学会にはおさい銭箱はありません。お金のかからない宗教団体です」というのがありますね。ところが、実際には「聖教新聞」その他の出版物をムリヤリたくさん買わされたりして、お金がずいぶんかかるようになっているそうですね。
小沢 それは大変なものですよ。私だって池田会長のおかげで議員にならせて貰って、なんていわれますけど、とんでもない、なにも好き好んで入った道じゃなく、勝手に指名して議員にさせたんじゃないかという気持ちがある。しかも、二十四時間学会活動なんですから、その時間と労力を計算したら、議員の給料の手取り十三万円では、とても割が合いませんよ。
 この十三万円のなかから、党費一万円、それから「公明新聞」を十部、創価学会の「聖教新聞」や書籍類で、平均すると月に三万円ぐらいかかりました。
 それから広布部員ということで三口。初めは割り当てで五口といわれたのを断って、三口にした。あれだって割り当て制にしなかったら、おそらく目標の十分の一も集まらないんじゃないですか。新聞だって書籍だって、本当に読んでいる人は何人もいないでしょう。買わなければ信心がないといわれるのがイヤだから、みな仕方なしに買っては“積ん読”だけなんです。

内藤 ところで、六・三〇とか一一・三〇といった軌道修正は、創価学会にとって非常に重要な出来事だったと思うんですが、それについては池田大作さんは内部でどんな指導をしていたんですか。
小沢 指導といっても、ただ六・三〇、一一・三〇にこんなことがあった、という程度です。それは、いろいろと教義上の問題で学会にもいろいろと逸脱したことがあったが、それはあくまでも池田会長ではなく、たまたま側近が、名前を上げれば福島さんあたりが、『人間革命』は現代の御書である、あるいは池田会長本仏論といったことをいっただけだ、と。しかしそれは間違いであり、うまくないことなんでお詫びをしたんだ、もう済んでしまったことなんだ、といった程度のものです。

 そうそう、それから、私の町で三、四年前に“献上米”というのがあったんです。
内藤 献上米?天皇陛下にするように。
小沢 ええ、すぐ止めさせましたけど。献上米とは何ごとかと。それはどうするかといいますと、私の町には農家が多いもんですから、男子部の人間が十名ほど発起人になって、自分で題目唱えながら苗を植えるんです。それで秋になったら、題目を唱えながら刈り、精米して献上するわけです。
 そうすると面白いことには、池田大作さんがその米の中から一握りだけ私たちの本部へくれるわけです。それを一粒ずつ紙に包んで、会員に配る。じつにバカ気たことなんです。池田先生から、タバコの吸いがらでもジュースの飲みかけでも貰うということは、それだけ自分の身に仏の福運を招くと、そんな神話がデッチ上げられている。
内藤 ぼくが本に書いた通りですね。
小沢 ええ。そこまで来てしまった。これが、池田大作がペンを振るい、汗水流して原稿を書き、その印税とか報酬の中から、我々会員に対して真心をもって、このお米はおいしいから食ベなさいよ、コーヒー一杯でも飲みなさいよ、というのなら矛盾を感じませんけど、末端の会員たちの、それこそ純粋に信じている人たちが、自分たちの仕事や生活の中から大切な時間を割いて、そして手作りの真心を込めて池田会長に献上する。それをただ還元する、あたかも自分の福運がこもっているように思わせて。実際には自分たちが作っておきながら、平身低頭して池田会長からの戴きものだと押し戴く。これはもう、宗教ではなくなっていると思うんですよ。

 文化会館にしてもそうです。全国各地にどんどん会館を建てる。建てることは決して悪いとは思わないんですが、その会館でやる行事とお寺さんでやる行事を、平気で公私混同してしまう。たとえば、お寺のそばにどんどん会館を建て、盆、彼岸の塔婆供養をやるとか、先祖の供養をやるとか、本来はお寺さんでやるべきことを全部会館中心にしてやってしまう。
内藤 もうお寺さんに頼るな、オレたちの会館でやることが仏法にかなうんだ、といってね。
小沢 そうです。ところが、本当はお寺さんなしでは、創価学会員は存在していかれないはずなんです。学会員の誰かに不幸があった時、創価学会のネクタイ締めた本部長が来て、引導渡して、戒名を書けますか。あるいは盆や彼岸に、ネクタイ締めた創価学会の幹部がきて、お題目は唱えられるけれど、それでご供養ができますか。そうしたことは、我々在家が勝手にやるんではなくて、あくまでも出家が袈裟、衣に身を清めてやるものでしょう。
       ---------(196P)-------つづく--

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