◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
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4章 亡国の片棒を担ぐ“愚かな官僚”
巧みに曰本を操る「官僚パワー」はどこから生まれるのか?
◆110年前から一つも変わっていない「官僚内閣制」
日本では、議会制度が確立された 一一〇年前から、官僚が政治・経済を牛耳ってきた。
「民が官に従うこと」がすべて丸く収まる正しいことであるかのような錯覚を、日本人全体が抱き続けてきた。「官尊民卑」という概念も、先進国では日本だけにしか存在しないものかもしれない。
その結果、本来公僕であり、民生を向上させるべき官が、民の税金を恣意的に使い、民の生活が豊かになることを阻んでいる。「お上」を信じて任せきってきた日本の民は、この現実に目を覚まし、一一〇年溜まってきた宿痾を拭い去って、真の幸福を手に入れるべきだろう。
日本では、一八八一年(明治一四)に自由党(総理・板垣退助)、その翌年に立憲改進党(総理・大隈重信)などが結成される。また、一八八五年、内閣制度(初代内閣総理大臣・伊藤博文)が発足し、大日本帝国憲法が一八八九年に発布された。その翌年七月一日の第一回衆議院選挙で三〇〇人の代議士が選ばれ、帝国議会も開かれて、立憲政治がスタートを切った。
そして、驚くべきことに、そのとき以来、今日にいたるまで、「超然内閣」と官僚内閣制が連綿として続いているのである。
第二代内閣総理大臣,黒田清隆は、鹿鳴館での演説で、「政府は常に一定の方向をとり、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可からず」と発言し、この発言から超然内閣と呼ばれるようになった。
つまり、黒田首相は「政党がいろいろなことをいうだろうが、聞きおく程度にとどめて、われわれはそうしたものに影響を受けずに自らの信念に基づいて超然として政治を進める」という姿勢を明確に打ち出したのだ。
当時の政府と議会の関係を象徴するエピソードがある。
第二回総選挙で、長州出身の品川弥二郎内務大臣が選挙大干渉を行なったが、それでも民党二党が過半数を制した。しかし品川内相が辞任しただけで首相は変わらず、松方正義内閣は存続した。
これが第三議会で問題となり、政府不信任案が提出され、大多数で可决された。しかし松方首相は七日間の停会を命じただけで、七日後に平然と登院して大臣席に着席した。
これに激高した民党が「なぜ辞職しないのか」と詰め寄ったところ、松方首相は「国務大臣は天皇の親任によつてその地位にある。議会ごときものの決議によつて進退するものではない」とうそぶいたという。今では考えられない官僚内閣制の“強さ”である。
◆大臣を無能にし、官僚を尊大にした「政府委員制度」
議会の力は、大正時代に入って、初の政党内閣である原敬内閣の頃にようやく強まってくるが、基本的には官僚内閣制が続いた。それを担保していたのは、大日本帝国憲法第五四条の、「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ発言スルコトヲ得」とある条項で、大臣と政府委員(官僚)が同格に位置づけられていた。
これは、戦後も基本的には変わっていない。
一九四七年(昭和二二)、日本国憲法への衣替えが行なわれ、第四一条で「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と規定された。しかし、同時に、国会法第六九条、第七一条(注六)によって、政府委員を随時、委員会に出席させられるようにした。
議員だけでは国会運営に支障が生じるという懸念からこの条文が入れられたようだが、その結果、旧憲法下と何ら変わりない状況が今日まで続く結果となった。
かって松方首相が「お前らの指図は受けない」といったような議会無視の状況は解消され、表向きは閣僚の下知に従って官僚が動くような形にはなっている。しかし、法律の企画、立案はすべて官僚がお膳立てをして、閣僚はその筋書き通り動くという実態は変わっていない。尊大な官僚が野に下っているという状況が今日も続いている。
大臣の中には、「これは重要な問題ですから、政府委員に答えさせます」と答弁する輩がつい先頃までいたものである。
明治時代の首相には信念があり、官僚の親玉でもあったので、結果的に指導者主導の政治が行なわれていた。その一方で、官僚には志の高さがあった。官僚たちは、不正など思いもよらず、職務上大きな失敗をすれば、いつでも職を辞して隠遁する覚悟があった。
また、「天皇の名を辱めてはならない」という忠誠心が、彼らの志の背後にあった。
戦後、この忠誠心が失われるとともに、政治家も官僚も卑しくなった。首相も閣僚も、表向きは国民の代表という位置にあるだけで、国家経営の理念も経綸も信念もなく、あるのは竹下登氏や森喜朗氏に象徴される人事調整力だけである。
官僚も志を失って、その後に残ったのは「われわれが政治家をコントロールし、国家を動かしている」という尊大さと、権謀術数を駆使する技だけであった。
国益などという概念はなくなり、省益・局益を追求して、天下り先を確保するために公団・公庫をつくり、規制を増やして民間会社に天下った。
日本が近代国家としての基礎を築き、富国強兵・殖産與業を旗頭に中央集権制を確立していた時代や、総力戦の戦争に敗れて廃墟と化した経済・民生を立て直す戦後復興の時代には、官僚主導の内閣が必要であった。
しかし、この体制は遅くとも一九八〇年(昭和五五)には清算し、政治家が主導権を握る政治体制に切り替えるべきであつた。
たしかに形の上では、小沢一郎氏の提唱によって政府委員制度は廃止された。しかし、これは形だけの改革で、その意図するところが達せられたわけではない。小沢氏の政府委員制度廃止の目的は、「政治は官僚が考えるのではない。政治家が考え、企画・立案するのだ。立法府がつくった法律に従って、官僚たちが行政にあたるという本来の姿に戻すベきだ」というところにあった。しかし、実態は昔と何ら変わっていない。
議院内閣制を志向しながらも、官僚内閣制を引きずったまま、成熟した民主主義国家になりきれていないというのが、日本の偽らざる姿である。政治家が国家耗営のビジョンを持つようにならない限り、官僚内閣制による官僚の専横が続いていかざるを得ない。
(注六)国会法
〔第六九条〕(政府委員)内閣は、国会において国務大臣を補佐するため、両議院の議
長の承認を得て政府委員を任命することができる。
〔第七一条〕(国務大臣,政府委員の出席要求)委員会は、議長を経由して国務大臣及
び政府委員
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