創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

自民党・創価学会亡国論-30

2015-12-31 10:49:58 | Weblog

◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
    創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
      ----------改頁-----154-----本文

4章 亡国の片棒を担ぐ“愚かな官僚”
巧みに曰本を操る「官僚パワー」はどこから生まれるのか?
◆110年前から一つも変わっていない「官僚内閣制」
 日本では、議会制度が確立された 一一〇年前から、官僚が政治・経済を牛耳ってきた。
「民が官に従うこと」がすべて丸く収まる正しいことであるかのような錯覚を、日本人全体が抱き続けてきた。「官尊民卑」という概念も、先進国では日本だけにしか存在しないものかもしれない。
 その結果、本来公僕であり、民生を向上させるべき官が、民の税金を恣意的に使い、民の生活が豊かになることを阻んでいる。「お上」を信じて任せきってきた日本の民は、この現実に目を覚まし、一一〇年溜まってきた宿痾を拭い去って、真の幸福を手に入れるべきだろう。
 日本では、一八八一年(明治一四)に自由党(総理・板垣退助)、その翌年に立憲改進党(総理・大隈重信)などが結成される。また、一八八五年、内閣制度(初代内閣総理大臣・伊藤博文)が発足し、大日本帝国憲法が一八八九年に発布された。その翌年七月一日の第一回衆議院選挙で三〇〇人の代議士が選ばれ、帝国議会も開かれて、立憲政治がスタートを切った。
 そして、驚くべきことに、そのとき以来、今日にいたるまで、「超然内閣」と官僚内閣制が連綿として続いているのである。
第二代内閣総理大臣,黒田清隆は、鹿鳴館での演説で、「政府は常に一定の方向をとり、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可からず」と発言し、この発言から超然内閣と呼ばれるようになった。
 つまり、黒田首相は「政党がいろいろなことをいうだろうが、聞きおく程度にとどめて、われわれはそうしたものに影響を受けずに自らの信念に基づいて超然として政治を進める」という姿勢を明確に打ち出したのだ。
 当時の政府と議会の関係を象徴するエピソードがある。
 第二回総選挙で、長州出身の品川弥二郎内務大臣が選挙大干渉を行なったが、それでも民党二党が過半数を制した。しかし品川内相が辞任しただけで首相は変わらず、松方正義内閣は存続した。
 これが第三議会で問題となり、政府不信任案が提出され、大多数で可决された。しかし松方首相は七日間の停会を命じただけで、七日後に平然と登院して大臣席に着席した。
 これに激高した民党が「なぜ辞職しないのか」と詰め寄ったところ、松方首相は「国務大臣は天皇の親任によつてその地位にある。議会ごときものの決議によつて進退するものではない」とうそぶいたという。今では考えられない官僚内閣制の“強さ”である。

◆大臣を無能にし、官僚を尊大にした「政府委員制度」
 議会の力は、大正時代に入って、初の政党内閣である原敬内閣の頃にようやく強まってくるが、基本的には官僚内閣制が続いた。それを担保していたのは、大日本帝国憲法第五四条の、「国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ発言スルコトヲ得」とある条項で、大臣と政府委員(官僚)が同格に位置づけられていた。
 これは、戦後も基本的には変わっていない。
 一九四七年(昭和二二)、日本国憲法への衣替えが行なわれ、第四一条で「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と規定された。しかし、同時に、国会法第六九条、第七一条(注六)によって、政府委員を随時、委員会に出席させられるようにした。
 議員だけでは国会運営に支障が生じるという懸念からこの条文が入れられたようだが、その結果、旧憲法下と何ら変わりない状況が今日まで続く結果となった。
 かって松方首相が「お前らの指図は受けない」といったような議会無視の状況は解消され、表向きは閣僚の下知に従って官僚が動くような形にはなっている。しかし、法律の企画、立案はすべて官僚がお膳立てをして、閣僚はその筋書き通り動くという実態は変わっていない。尊大な官僚が野に下っているという状況が今日も続いている。
 大臣の中には、「これは重要な問題ですから、政府委員に答えさせます」と答弁する輩がつい先頃までいたものである。
 明治時代の首相には信念があり、官僚の親玉でもあったので、結果的に指導者主導の政治が行なわれていた。その一方で、官僚には志の高さがあった。官僚たちは、不正など思いもよらず、職務上大きな失敗をすれば、いつでも職を辞して隠遁する覚悟があった。
 また、「天皇の名を辱めてはならない」という忠誠心が、彼らの志の背後にあった。
 戦後、この忠誠心が失われるとともに、政治家も官僚も卑しくなった。首相も閣僚も、表向きは国民の代表という位置にあるだけで、国家経営の理念も経綸も信念もなく、あるのは竹下登氏や森喜朗氏に象徴される人事調整力だけである。
 官僚も志を失って、その後に残ったのは「われわれが政治家をコントロールし、国家を動かしている」という尊大さと、権謀術数を駆使する技だけであった。
 国益などという概念はなくなり、省益・局益を追求して、天下り先を確保するために公団・公庫をつくり、規制を増やして民間会社に天下った。
 日本が近代国家としての基礎を築き、富国強兵・殖産與業を旗頭に中央集権制を確立していた時代や、総力戦の戦争に敗れて廃墟と化した経済・民生を立て直す戦後復興の時代には、官僚主導の内閣が必要であった。
 しかし、この体制は遅くとも一九八〇年(昭和五五)には清算し、政治家が主導権を握る政治体制に切り替えるべきであつた。
 たしかに形の上では、小沢一郎氏の提唱によって政府委員制度は廃止された。しかし、これは形だけの改革で、その意図するところが達せられたわけではない。小沢氏の政府委員制度廃止の目的は、「政治は官僚が考えるのではない。政治家が考え、企画・立案するのだ。立法府がつくった法律に従って、官僚たちが行政にあたるという本来の姿に戻すベきだ」というところにあった。しかし、実態は昔と何ら変わっていない。
 議院内閣制を志向しながらも、官僚内閣制を引きずったまま、成熟した民主主義国家になりきれていないというのが、日本の偽らざる姿である。政治家が国家耗営のビジョンを持つようにならない限り、官僚内閣制による官僚の専横が続いていかざるを得ない。

(注六)国会法
〔第六九条〕(政府委員)内閣は、国会において国務大臣を補佐するため、両議院の議
      長の承認を得て政府委員を任命することができる。
〔第七一条〕(国務大臣,政府委員の出席要求)委員会は、議長を経由して国務大臣及
      び政府委員
       --------改頁--------159--つづく--

 

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自民党・創価学会亡国論-29

2015-12-30 08:52:07 | Weblog

◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
    創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
      ----------改頁-----132-----本文

◆欧米の1〇倍「政・官・業」に甘い曰本の「独占禁止政策」
 この章では政治家と官僚・ゼネコンの政治献金・利権が絡んだ鉄のトライアングル構造について触れてきた。日本の公共事業の実態は一〇〇パ-セント談合で行なわれているといっても間違いではないことがおわかりいただけただろう。
 なぜ、談合がなくならないのか。この日本特有の悪弊である談合がなくならない原因として指摘されるのが、談合が発覚した場合の刑罰の甘さだ。
 では、アメリカの場合はどうなのか。アメリカで談合が露見すると、一件につき一〇億円の罰金が科せられるので、なまじ安いもので談合をすれば大損をする。ヨーロッパでも五億円の罰金だ。
 さらに、アメリカでもヨーロッパでも談合の当事者には刑事罰が科せられ、談合の前科がつくと、社会復帰は非常に困難になる。
 たとえば、社長が専務に「この話をうまくつけてきてくれ」と依頼すると、専務は断るのだ。「申し訳ありませんが『あいつは社会正義に反することをするヤツだ』と指弾されて、どこにも再就職できなくなりますので」と。
 そして、もしこれを断ってクビになったとすれば「俺は不正な談合を断った」ということが売り込み材料になって、再就職できるという。
 ひるがえって日本ではどうか。そもそも刑法(第一九七条)には斡旋収賄罪が盛り込まれていて、公務員に不正行為をなさしめたものは五年以下の懲役と定められている。
 族議員が地元への利益誘導をして対価を得たり、後援会の建設業者に仕事を与えるには、公務員の“働きかけ”が不可欠である。しかし、これまでこの条文が適用されたケースはない。これは働きかけの事実がないということではなく、証拠がとれないだけの話だ。
 働きかけが露見しないように、よほど巧妙に行なわれているのか、あるいは摘発し始めたら収拾がつかなくなるので検察が諦めているのか。どちらにしても、この条文が死文化していることには変わりない。
 あっせん利得処罰法も、前に触れたように連座制の適用もなく、私設秘書は除外されていて、しかも「請託」が証明されなければならないなどというザル法で、何の意味もない。
 これまで唯一の改善点といえば、独占禁止法に違反して談合が発覚した場合の罰金額を大幅に引き上げたことだろう。
 これまで日本では、罰金額はわずか三〇〇万円だった。それに対して、公正取引委員会は三億円に引き上げることを求めた。しかし、自民党は五〇〇万円でお茶を濁そうとしたのだ。それに待ったをかけたのが、建設族のボスに収まっていた中村喜四郎氏だった。
 この結果、決まった一億円の罰金は、今までの三〇〇万円に比べれば驚くほど厳しい金額であるにもかかわらず、検察は「三億円を一億円に値切った。その差額で賄賂をもらったのではないか」と嫌疑をかけているようである。
 日本特有の政治風土の中で続く談合が、国家と国民に多大の不利益をもたらす背任行為であることは間違いない事実である。しかし、政権与党である自民党は、談合の存在によってかろうじて政治資金を調達できているのが実態だ。
 談合こそ、自民党の生命維持装置にほかならないのである。

◆首相は「調整役」、政治家は「立法職人」という国家経営はもはや有効ではない!
 二〇〇一年(平成一三)正月、仲間内で当時の森喜朗首相を呼んで、三時間ほどじっくり話をする機会を得た。
 話題の中心は、同年一月六日の中央省庁再編に向けて発足した第二次森改造内閣の閣僚人事の裏話だった。森氏は、総理就任以後、誤解を招きやすい発言や行動で日本中から袋叩きにあつたが、この時、私は森氏にはおいそれと真似のできない秀でた“特技”があることに気がついた。
 森氏は、総理就任以前に三期も連続して党三役のすべてを務めたが、その大役が務まった理由もわかった。彼の特技とは、人間関係の相関図が、微に入り細を穿って頭の中に入っていることだった。それが、党内情勢にだけ左右され、多数派工作に終始する政権与党である自民党では大きな力を発揮したということだ。
「Aを抜擢するならば、Bも抜擢しなければバランスがとれない」「Cはあのとき、こんなひどいことをしたので懲らしめてやりたいが、かといつて直接的に何かするわけにもいかないので、Cの政敵のDを登用することで報復する」といった話を聞きながら、私は内心、舌を巻いた。
 それは竹下登元首相を髣髴させるものだった。信賞必罰の巧妙さと、人間関係のバランスをとるうまさは抜群だった。
 しかし、これは宰相の条件にはならない。どうして日本の首相としてこのような人が通用するのかと考えさせられた。
 戦後、天下は自民党のものと決まっていた。したがって、自民党には「天下盗りのための計略」も必要なければ、「国家経営の経綸」も不要だった。その揺るぎない自民党天下のもとでは、官僚がつくってきた法律を、どう転がして成立させていくかさえ考えていれば十分だった。
 その姿を見ながら、「これでは、沖仲仕(港湾労働者)と同じではないか」と、私は学生時代に宮城県の塩竃港でやった沖仲仕のアルバイトを思い出した。
 今では珍しくなった沖仲仕だが、これは目の前の荷物が何であろうと関係ない。とにかく目の前に放り投げられた荷物を、ひょいと動かして横に投げ飛ばせば「一丁上がり」という仕事である。
 官僚が出してきた法案を、中身は何かよくわからないけれども、とにかく動かして成立させる。それで済んできた。いってみれば、日本の政治は“沖仲仕政治”なのである。
 政治家たちは「調整役」の首相を戴いて、法律成立請負人に徹してきた。国家経営の方針までをも官僚に任せてきたばかりに、国際情勢の変化に乗り遅れ、日本は滅亡の危機に瀕しているのだ。
 鈴木善幸元首相は「和の政治」を説いたが、仲良くすれば政治ができるのかと外国人が驚くような日本独特の土壌ができたのも、明治以来続く官僚内閣制のゆえである。
 どんなに野党が騒ごうと、政権与党は引っくり返らないのだから安泰だ。立法職人となった政治家がすべきことは、法律成立の障害になる人や決まりをどう排除するかであり、それが最大の関心事になっていった。そのときに、竹下型の政治が大きな力を発揮したわけである。
 こうした政治家の怠惰によって、政治家と官僚の距離は限りなく近くなったが、国民と選良といわれる政治家の心は乖離し、その溝は修復しがたいほど広がっている。
       --------改頁--------151--つづく--

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自民党・創価学会亡国論-28

2015-12-29 05:50:11 | Weblog

◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
    創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
      ----------改頁-----132-----本文

◆政界の「人材の集まり方」に新しい流れが起きている!
 公共事業の予算配分について、一九九八年(平成一〇〕の参院選で、亀井静香氏が「予算をどこにつけるかは政治力だ」と発言したことは前に触れたが、まさに政権与党にいれば、三四兆円に上る公共投資の配分権を握ることができる。
「どこに、どのくらい」というサジ加減や手心は思いのままだ。「選挙に協力しなければ予算をつけないぞ」という脅しは何より効き目がある。まさに政権こそ、自民党の生命維持装置なのである。
 政権に触れているからこそ、「寄付してくれた人には手心を加えます」という“手心政治”も可能だった。しかし、政権から離れれば、手心も何もない。最初から野党であればまだしも、与党から野党に移つた政治家にとつて、この生命維持装置の有無は大変な落差となる。
 自民党から民主党に移ったある中堅の代議士がいる。彼は、政権与党から離れて生命維持装置に触れられなくなったとき、「これで息ができるのだろうか」という恐怖感に襲われたという。
 野党の民主党では、政治活動費の大半は歳費や交通費、政党助成金で賄わなければならない。
 選挙に際して、候補者を擁立する場合も話はまったく違ってくる。自民党時代なら、審議官クラスの官僚を候補昔にと口説く場合も、「万が一、落選した場合には、このポストをお世話します」と公団理事クラスのポストを用意するなどの好条件を提示できた。
 ところが、民主党から新人候補として立候補する場合、生活費・運動費込みで党が払えるのは、都市部の場合は月五〇万円、地方の場合は月三〇万円がぎりぎりだ。この金額は、政権与党では考えられないものだった。「桁が違うのではないか」といわれるのを覚悟で立候補のお願いに行く度胸もできた。
 生命維持装置がなくなって、「果たして息ができるだろうか」と脅えていたが、恐るおそる息をしてみたところ、息ができることがわかったと、氏は苦笑する。
 そして、最近の政界における人材の集まり方に、新しい流れが見てとれる。
 ひと頃、政治家を志すのは土建屋か成金ばかりといわれたが、選挙制度改革と金権政治がなくなったおかげで、若い優秀な人材が政界を目指すようになった。圧倒的なコネや力ネ、地位がなければ受けつけない自民党よりも、人物本位・能力本位の野党への人材の集中だ。ある時、若手国会議員の略歴を見る機会があった。
「東京大学卒で第一種国家公務員試験に合格。通産省に入省後、アメリカ・ハーバード大学大学院に留学。同大学院修士課程修了後帰国。民主党から立候補」
 ひと昔前ならば、間違いなく自民党にしかこなかった人材であろう。静かに、しかし確実に、永田町人材分布図は塗り替えられようとしている。
「生命維持装置がなくても生きられる!」 ということを政治家自身が知ることが、政界の利権構造を崩す一番の特効薬かもしれない。

◆政治家に滞ることのない“カネの流れ”をつくる官僚の罪
 旧中曽根派の領袖で、労働族議員の親玉と自他ともに認め、志帥会(村上・亀井派。現江藤・亀井派)会長、参院議員会長を務めていた村上正邦氏が逮捕・起訴された。
 村上氏への容疑は、KSD (中小企業経営者福祉事業団)をめぐり、参院本会議の代表質問でKSDに有利な質問をしたことなどへの謝礼として、政治団体事務所の賃貸料二二八八万円と現金五〇〇〇万円を受けとつたというものだ。
 これは図式としては、極めて単純な受託収賄である。
 KSDは、労働者保険があるのだから雇用主保険があってもいいのではないかと銀行に圧力をかけ、銀行を集金マシーンにして中小企業の雇い主を無理やり加入させ、毎月二〇〇〇円を徴収していった。
 KSD古関忠男前理事長は、カネのカをバックに自民党に接近し、日本初の職人育成大学として設立されたものつくり大学への補助金増額を要請。
 一九九九年(平成元)一一月、KGS (国際技能振興財団・当時の会長は古関氏)主催の朝食会に村上氏とともに出
席した、当時、政調会長だった亀井静香氏は、労働事務次官に「(ものつくり大学の)体育館と寮は予算上、措置すべきだ。これは党として、政調会長としての要請だ」と発言をして、事実上、圧力を加えている。
 労働省(現厚生労働省)はその直後、二〇億円の予算要求を行ない、当初、予定にはなかった学生寮の建設も追加されて、当初六〇億円だったものつくり大学への国の負担は、最終的に八五億円にまで膨らんだ。
 労働省のほうは「政治主導だから俺たちに責任はない。大学ができれば、天下り先として事務局長のポストができる」くらいに高をくくっていたに違いない。また、政治家も「中小企業労働者を育成するものつくり大学が軌道に乗れば、支持団体であるKSDの拡大につながる」と踏んでいたはずだ。
  思いのままに国民の税金を使って恥じない政治家と官僚の腐敗は目に余るものがある。
 政治家は、常に生命維持装置に触っていなければ生きられない、カネのいる体質になっている。さまざまな業界の規制緩和をし、利権構造を崩せば、必ず入るはずのカネが滞ってしまう。政治家としては、その制度の要不要に関係なく、何としても生命維持装置を死守したい欲求が働く。
 元はといえば、その生命維持装置のシステムをつくったのは官僚たちだ。カネが議員に入るような仕組みをつくり、それをエサに族議員にしてしまえば、あとは思うままに操れる--と、官僚たちは自分たちのいうことを聞いてくれる議員を生み出してきた。
  外交機密費流用事件で詐欺罪で起訴された外務省・松尾克俊元外国訪問支援室長のケースは、高級官僚の手法とは似て非なるものだ。松尾氏はキャリア官僚ではなく ノンキヤリアのたたき上げである。高級官僚から見れば、「私腹を肥やした彼は例外中の例外。しかも、そのカネで、馬主になったり、高級マンションやゴルフ会員権を買い漁るなどは言語道断」というわけだ。
 官僚内閣制という合法的システムを維持し続けるために、あくまでも議員を表に立てて十分な利益を与え、自分たちは裏方に回つて思う方向にコントロールするというのが高級官僚のやり方である。そして、政権与党もそれがいいことだと信じて疑わないのである。
 明治時代の「官僚内閣制」は、官僚が正面切って諸制度を創設し、仕切ってきた。戦後は「議院内閣制」ということで、議員を表に立てて、官僚は裏方に回ったが、実は官僚がすべてを仕切つている姿は変わらないのである。
       --------改頁--------146--つづく--

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自民党・創価学会亡国論-27

2015-12-28 08:13:35 | Weblog

◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
    創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
      ----------改頁-----132-----本文

◆「車検制度」のウラの目的は"票"と“カネ”
 中選挙区で当選するためには、五人区ならば一五パーセント、三人区ならば二〇~二五パーセントの有権者を確保できればいい。その票固めに必要不可欠なのが、「組合」とか「連合会」という業界の組織だ。
 この“効率”のよいシステムを構築することによって、国会議員や役人は業界だけを見るようになり、一部の人間だけが特別な恩恵と保護を受け、一般民は蚊帳の外に置かれるというおかしな形になっていった。その具体的なからくりを見てみる。
 私は一九八一年(昭和五六)にスタートした土光臨調のメンバーになった。私は会長の土光敏夫氏に、「行政改革といっても、国民一般にはわからない。だから、『行革をやれば国民が得をする」と目に見えてはっきりわかるようなことをしましょう」と提案し、賛同を得た。
 そこで白羽の矢を立てたのが、車検制度の簡素化だった。
 日本では車を持っている人には車両整備の車検制度が義務づけられている。日本で革検がスタートしたのは、一九五一年のことだ。
 戦後の復興期であった当時は、いわゆるポンコツ車が大半だった。走っているうちに車が火や堙を噴いたりしたために、道路車両法が制定され、車の定期点検を行なうようになった。これは当時としては車両事故を未然に防ぐために必要な措置だつたといえる。
 しかし、車の性能は急速に向上し、日本国内を走る車両は世界最高水準を誇るようになった。一方で、車検制度は新車購入ととも二年に一度の間隔で、一台二〇万円もの費用をかけて行なわれ続けた。
 私がヨーロッパから帰国して違和感を感じたものの一つが車検制度だった。七年いたヨーロッパでも、「車検で大枚をはたいた」という記憶がなかった。帰国してみると二〇万円もかかる。「これはおかしい」と思って、スイスの車検と比べてみた。
 私がスイスで乗っていたBMWは、走行距離七〇〇〇キロでチェックがある。オイルやタイヤなどのポイントを点検し、必要な場合は部品を一部取り替えて、支払うのは一万円から、多くても二万円以下だ。
 なぜ、日本でこれほど車検に費用がかかるのか。車検費用二〇万円のうち、七万~八万円は税金、一二万~一三万円は整備費や部品の交換費用だった。日本では部品交換指定があって、メー力ーが「二年おきに部品を交換せよ」と指定していた。
 一方で、日本車はヨーロッパ市場に向けて三年保証で出している。しかも、部品交換指定はない。「部品を三年で交換しなくてはならない車なんていらない」といわれるからだ。
 車検などの整備で欠陥が見つかればまだしも、不具合もないのに三年で多くの部品を新品に交換する人はまずいない。
「同じ車について、ヨーロッパでは故障するまで交換しなくていいのに、日本では二年おきに主だった部品を取り替えろというのはおかしいではないか」私の疑問は大きく膨らんだ。
 その疑問が解けるにつれて浮かび上がってきたのは、巨大な利権構造だった。車検制度を支えていたのは、車の安全点検という当初の目的ではなく、中選挙区制の票とカネを生む車検整備組合と自民党とのもたれ合いだった。
 自民党には車検族がいる。全国八万軒に及ぶ車の整備工場が自民党の票田だった。車の整備工場は地域密着型で、その親父さんは一人あたり約二千票を持っているといわれた。
 しかも選挙になれば、各工場主から二〇万~三〇万円の上納金が集まる。
 前述した内航海運も全国一律のカルテルを守り、理髮業も定休日は月曜日、散髮代は三二〇〇円と決まっている。業界という業界が、同じシステムと論理で組織されているのだ。
 一部の人が手厚い保護を受けるために、一般国民が取り替える必要もない部品を交換させられて、高額の車検費用を支払わなければならない不合理は正さなければならないと、私たちは考えた。幸いなことに、総務庁(現総務省)から出向して行政改革審議会の事務局に詰めていた官僚も、車検業界の代表ではなかった。こんな理不尽な車検制度を守らなければならない義理は誰にもなかった。
 これをきっかけに車検は簡素化され、新車の車検は三年に延長され、今では一万円車検まで登場している。当然のことがようやく行なわれるようになった。ここにくるまでに実は一五年を要したのである。日本の政治システムがいかに不合理を生み出しているかの証左である。
       --------改頁--------241--つづく--

 

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自民党・創価学会亡国論-26

2015-12-27 09:14:57 | Weblog

◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
    創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
      ----------改頁-----132-----本文

利権をむさぼる「政・官・業」の癒着トライアングル
◆自民党を斡旋利得党にした“中選挙区制”の問題点
 自民党は、一九五五年(昭和三〇)の保守合同以来、一時的な例外はあるにしても、常に政権与党として日本の政界に君臨してきた。
 自民党は、発足当初は「憲法改正・自主憲法制定」という結党理念の旗を掲げ、何とか憲法改正に必要な国会議員の三分の二を占めようとしていた。一方、社会党は党の理念実現よりも、「社会党などの野党が少なくとも三分の一を占めることで、自民党の改憲を阻止する」という“消極的反対政党”に堕していった。
 しかし、いつしか自民党は、当初の結党理念の旗を誰にも気づかれないようにスルスルと下ろし、理想を捨て、政権にしがみつくことに全精力を注ぐようになった。河野洋平総総裁の時代に至っては、党綱領から自民党のご本尊ともいうべき「自主憲法制定」の項目を抹殺しょうとしたぐらいだ。
 細川護熙、羽田孜政権で、自民党は一〇力月にわたって政権から離れた。この間、政権への復帰工作のみに終始し、党再建や新保守主義の論理を掲げ、党再生を構想する者がいなかった。その姿にこそ、自民党の本性が表れているといわざるを得ない。
 このように自民党を堕落させ、自民党の体質をカネまみれにさせた元凶は、中選挙区制にある。
 中選挙区制がもたらした弊害は三つある。
 その第一は、たとえば五人区では一三パーセント程度の票を固めれば当選できることから、候補者は、業界や地元民に利益誘導を図って票固めをするようになった。自民党一党支配が継続すればするほど、自民党的選挙のノウハウが政・官・業の隅々にまで浸透し、利権構造ができ、さながら自民党は斡旋利得党に堕した。
 二〇〇〇年(平成一二)の国会であっせん利得処罰法が成立し、あっせん利得罪が創設された。しかし、その中身は、「請託」が証明されなければならない、私設秘書は除外する、連座制も適用されないなど、ザル法そのものだ。そこには政治の浄化への意志などみじんも感じられない。
  第二の弊害は、中選挙区が一三〇区しかなかったことから起こる。一三〇しかない区割りで二五〇~二六〇の議席を占めるには、同一選挙区で候補者が同じ政党から二~三人当選しなければ過半数をとれない。伝統的に自民党が強い佐賀県などは、五人区で五人とも自民党という時代もあった。
 同じ選挙区から同じ政党の候補が立候補すればどうなるか。同じ自民党の政策を訴えても両者に差は出ない。他候補との差をつけるには、「ここに公民館を建てます」「道路を整備します」などという地元への利益誘導合戦をするしかない。同じ党の、いわば同僚議員が最大の敵となり、同士討ちにまで発展する。
 こうした激しい戦いを制して選出されるためには、国会議員は地元の主だった業界・団体の利益を死守し、その代弁者とならざるを得ない。これが中選挙区制の宿命であり、その結果、庶民のことを考える人はいなくなるのである。
 第三の弊害は、派閥が発生し、「党中党」のごとき存在になり、派閥の親分は、政策を主張することではなく、子分を増やすことで総理総裁の座を狙うようになったことだ。
 中選挙区制を通して、自民党流集票・集金システムが構築され、権力を握り続けることが可能になったが、党の体質は、「理念より利権」の権力執着型に変質していったのである。

◆企業をアジアへ流出させる「内外価格差」のミステリー
 利権構造は、どのようにしてでき上がっているのだろうか。また、その利権構造は、国民に利益をもたらすものなのだろうか。
 わかりやすい例として、船舶の分野を取り上げてみる。
 船舶による輸送は、国内の各地を結ぶ内航海運と、内地と海外を結ぶ外航海運に分けられる。内航海運業には七〇〇〇~八〇〇〇隻が所属しているが、その八~九割が一隻しか船を所有していない一杯船主である。このため価格競争の嵐に襲われたらひとたまりもないということで、船主たちは自民党にかけ合って、一九六六年(昭和四一)に価格カルテルを認めてもらった。当時の日本の経済力からすれば、これも仕方のないところであった。
 しかし一方で、その頃から外航海運の世界では激しい価格競争が始まる。その結果、外航海運の分野で生き残つた日本企業は、わずか三社であった。
 価格力ルテルという風の中で温存されてきた内航海運と、価格競争という激しい荒波に晒されて勝ち抜いてきた外航海運の差はどうなつただろうか。
 二〇フィートのコンテナをサンフランシスコから苫小牧まで運ぶとする。まず、サンフランシスコで積み込まれたコンテナは神戸港まで運ばれる。ここまでの外航運賃は一七万円である。さらに、神戸港から苫小牧港まで内航船に積み替えて運ぶわけだが、この運賃がなんと二四万円もかかる。
 このような、アメリカから日本まで運ぶよりも、日本国内の運賃のほうが高いという逆転現象が生じても、自民党は「彼らは自分たちの支持者だ」といって認めてきた。しかし、この内外価格差は、流通業者にとつて看過できることではなかった。
 阪神,淡路大震災による神戸港の崩壊をきっかけに、倉庫業者はクモの子を散らすように、韓国の釜山や台湾の高雄、あるいはシンガポールへと中継基地を移転し、震災後に復與した神戸には全部が戻ってきていない。アジアの中継基地・神戸港は、海運の内外価格差によつて壊滅的被害に遭った形だ。
 今やサンフランシスコから苫小牧までの二〇フィートコンテナの運賃は、サンフランシスコから最寄りのアジアの中継地点までなら一七万円で変わらないものの、そのアジアの中継地点から苫小牧まで外航船で運ぶと五万円ですみ、一九万円も差額が出ている。
 こうした内外価格差でお客を他のアジア諸国に奪われた内航海運業者は、ようやくカルテルをやめることになったが、そのときには内地の港に閑古鳥が鳴いているのである。
 もう一つ、船舶に関しては、船腹調整制度がある。これは、運賃競争が起こらないように、船の総トン数を一定に保っておくための制度である。このため、五〇〇トンの船を新造して新規参入しょうとすると、新造船の権利金として二億八〇〇〇万円を払わなければならない。船の建造費は三億円だから、三億円の事業を始めるのに五億八〇〇〇万円かかることになる。これは、安易に新規参入できないようにするための措置だ。
 五〇〇トンの船主が廃船をして、次に六〇〇トンを持とうとすると、一〇〇トン分の権利を買ってこなければ大型化できない仕組みだった。その 一〇〇トンについては、権利を買ったとすると、組合にトン数に見合う“上衲金”を納めることになっていた。
 この世界は半分、ウラ世界に牛耳られているために、内航海運の船主たちは不満を持ちながらも口に出せないという。船腹を増やした分の権利金は、ざっと計算しただけでも七〇〇億円を超えるといわれたが、一度も会計報告が行なわれたことはない。その権利を握つて、その巨費を自由自在に運用してきたのが、故砂田重民氏だった。その後を受けたのが亀井静香氏といわれる。日本の政治は、こうしたカルテルをつくり、組織を温存することで、票やカネをとりまとめて当選するシステムをつくつてきたのである。
 ついでにいえば、こういうカルテルができると、官僚はしめたとばかりに民業の分野に乗り出してくる。
 運輸省(現国土交通省)は、一九五九年(昭和三四)に内航船の建造を独占的に受注する「船舶整備公団」を設立した。家運業者は日立造船などの民間造船業のほうがよほど質のよいものが安くできると文句をいつていたが、それを公然といえる者がいなかった。官僚による仕返しが怖かったのである。
       --------改頁--------138--つづく--

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