創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作「権力者」の構造-7

2014-05-29 10:25:43 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=7>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
──────(79頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
◆創価教育学会弾圧事件の真相 
なお、池田はここで戦時中の弾圧が「気になり」、やめることまで考えたと明言し
ているが、彼はのちにそれを次のようにいいかえる。
「戦後戸田会長に会ったときも、この人は戦争に反対して二年間も、牢に入ってい
た、この人のいうことならば、わたしは信じてついていってもまちがいはない、と思
つたのです」(松本清張との対談、『文藝春秋」昭和四十三年二月号)
 この池田の追憶談が二つの嘘でなりたつていることは、指摘するまでもあるまい。
一つは池田の入信後の思念の偽りである。「やめるなら今のうちがよい」が、「信じ
てついていってもまちがいはない」と、まるで逆方向に変えられている。これによれ
ば、池田は戸田の反戦の経歴を知って、戸田をただちに師と決めるほどに、確固とし
た信念を持つ平和主義者だったわけだが、事実を前にすれば、偽造の歷史によってし
か己を高くしえない池田の姿がみじめに浮かび上がるばかりである。
もう一つは一番目の噓の前提となる、戸田が戦争に反対したという論述である。こ
れが事実と相違することも前に述ベたが、創価学会の戦時中の反戦活動という謬説は
かなり広く流布されており、またこの池田の対談の噓を真にうけて、池田論を書き進
める論者もかなりあった。
 戸田はすでに故人であって、その多少の誤伝は仕方ないとしても、池田がそれによ
って自己の辺幅を飾る権利はなに一つないはずである。
 ここで創価学会弾圧の経緯とその性格を今一度確かめてみよう。その結果、戸田が
戦争に反対していなかったなら、池田の二つの噓は二重の噓となり、妄想と等しいも
のになろう。
 昭和十五(一九四○〉年、政府は前年に成立した宗教団体法と新体制運動により、
宗教の統制と戦争目的への動員を進め、その一環として宗教教団の大同団結を強く促
し、日蓮正宗に対して日蓮宗との合同を求めた。これに関し、日蓮正宗は会議を催し
たが、その席で創価教育学会会長・牧口は、他宗派を邪宗として排撃する教義上の立
場を厳格に守ることを主張し、合同に強く反対した。
また政府は学校や家庭、職場に神棚を設け、皇大神宮の神札(大麻)を祀って拝む
ように強制した。これに対しても、狂信的なまでに日蓮正宗の教義を信じていた牧口
は、末法では護法の善神は天に在り、伊勢神宮には魔物しか住んでいない、神札の受
け入れは謗法の行為になると、拒否した。牧口や戸田を本山に呼びつけ、ともかく神
札を受けるように勧めていた日蓮正宗は、創価教育学会のこうした言動に、弾圧の危
険を感じ、同会会員の大石寺への参詣を禁止した。
 日蓮正宗の危惧は現実となって現れ、警察も創価教育学会をマークし、昭和十七年
五月には機関誌『価値創造』の廃刊を指示した。牧口はその廃刊の辞で、「国策にか
なうことを信ずるのであるが、廃刊になるのは、不認識の評価によるか」と不満をも
らしている。
 牧口は明治人らしく天皇を尊崇する者だったが、信仰上、神札を祀ることだけはで
きなかった。彼は創価教育学会が昭和十七年十二月三十一日に発行した『大善生活実
証録』(第五回総会報告)の中で、こう述べている。
「吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖している。しかし解釈が異るのである。神
社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは『よ
くぞ国家の為に働いて下さった、有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はす
のであって、御利益をお与へ下さいといふ折願ではない。(略)天照大神に対し奉っ
ても同様て、心から感謝し奉るのである。独り天照大神ばかりにあらせられず、神武
以来御代々の天皇様にも、感謝し奉ってゐるのである。万世一系の御皇室は一元的で
あって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の
御稜威は現人神であらせられる、今上陛下に凝集されてゐるのである。(略)吾々国
民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる。天照大神のお札をお祭りす
るとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であ
らせられる天皇に帰一奉ることによつて、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確
信するのである」
 牧口は詭弁によって神札を拒否しょうとしたが、当局は牧口の論理にだまされなか
った。昭和十八年一月ころから、当局の圧力はさらに加わり、同会の座談会に特高の
刑事が現れ、しばしば集会を禁止した。
 同年四月、日蓮正宗は結局、合併せずにすんだが、戦争の進展にともない、ヒステ
リックな様相を強めていた官憲側は、創価教育学会をそのままではすまさなかった。
六月、同会会員の陣野忠夫は近所の人を折伏しようとして、その人の子供が死んだ
のを罰だと決めつけた。怒ったその人が警察に訴えたので、警察は陣野らを捕え、は
げしく取り調べて同会の罪状をつくりあげた。
 戸田は当局の弾圧が身辺に及ぶのを恐れ、六月二十五日、創価教育学会各理事、各
支部長に宛て、理事長・戸田城外(城外は戸田のそのころの名)名で「通諜」を発する。
「時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員に於ては益々尽忠報国の念を強め、会員一
同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんこと
を切望す。依つて各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精
神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神、皇宗神武天皇肇国
以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべ
きことを強調指導すべきこと。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。
一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の
取り扱ひなき様充分注意すること」
 弾圧逃れのためのアリバイづくりが、この「通諜」の目的だったが、いずれにしろ、
創価教育学会が戦争に反対したのでも、軍部に反対したのでもなかつたことは、これ
により明らかである。
 戸田の作戦は成功しなかった。警察は陣野逮捕を突破口に、芋づる式に上層部へと
検挙の手を伸ばした。
 七月六日、牧口、戸田、矢島らが捕らえられ、また、その前後に他の会員も逮捕さ
れた。八月二十五日、牧口は巣鴨拘置所に移され、十一月二十日、治安維持法違反と
神社に対する不敬罪で、その予審請求を東京地裁に出された。
 その折りの検察調書は牧口の罪状に関し、次のように結論している。
「謗法の罪をまぬがれんが為には、皇大神宮の大麻を始め、家庭に奉祀する一切の神
符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに
至らしめ、以て神宮の尊厳を冒瀆し奉る所為をなしたる等、諸般の活動をなし、以て
に従事したるとともに神宮に対して不敬の行為をなしたるものなり」
 これだけが、治安維持法第七条「国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒瀆すべ
き事項を流布することを目的として結社を組織したる者又は結社の役員其の他指導者
たる任務に従事したる者は無期又は四年以上の懲役に処し」、および神社に対する不
敬罪に相当する行為だったのである(池田諭『牧口常三郎』、村上重良『創価学会・
公明党』、および日隈、前掲書による)。
 戸田の罪状が牧口に準ずること、もちろんである。
 以上によって明らかなように牧口、戸田は侵略戦争に反対したのではない。彼らは
戦後にも行われた邪教排撃の教義により、神札を受けず、また燃やしたにすぎず、せ
いぜい戦争に勝つために、神道を奉じている政府の誤りを諫めるという立場を固執し
たにすぎなかった。
 戦争に反対し、日本の前途を憂えた宗教者は別にいた。神戸地裁、控訴院、大審院
と公判闘争を続けた法華宗の刈谷日淳、敗戦直前拷問死したその老信者,原真平、侵
略戦争だとして陸軍刑法違反で起訴された真宗大谷派の一住職など。また教義面から
の弾圧をうけた教団教派はさらに多く、ホーリネス系と無教会系のキリスト教などの
他、日蓮正宗の講においても、藤本秀之助の弾正会が弾圧され、藤本は獄死している。
 牧口の創価教育学会は、戦争に反対しなかったばかりか、その批判も教義面からに
のみとどめられていた。
なお論証をすすめるなら、たとえば、牧口は獄中で、一人だけ残った息子の洋三の
戦死を知らされたが、その嫁に、彼の絶筆となった次の返事をしたためている。
「……ビックリシタヨ。ガッカリモシタヨ。……病死ニアラズ、君国ノタメ ノ戦死ダ
ケ(だから)名誉トアキラメルコト。唯ダ冥福ヲ祈ル、信仰ガ一バン大切デスヨ。百
年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上
ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居
ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文ノ通リデス」(佐木秋夫、小口偉一
「創価学会」)
 君国のための戦死、名誉といった語に反戦の思想はなんらうかがえまい。もっとも
獄中の身で当然検閲が考慮されていただろうが、まるっきりの擬装とみるには、後半の
文章が生々しすぎていないだろうか。
 また創価教育学会設立の当時を知るあるジャーナリストは、入獄前の牧口の講話を
こう報告している。
「当時は太平洋戦争の初期で日本軍は南に北に連戦連勝(?)であった。
牧口会長の講話は、いつもこの点に触れ蒙古襲来のときの日蓮をひきあいに出して、
日本の戦勝は、みな御本尊の正統を受けつぐ日蓮正宗の信仰の力によるものであり、
日本は、やがて全世界を統一し、『王仏冥合』によって、日蓮正宗こそが世界のすべて
の中心となり、世界人類の救済者となる──というのが、要するに、その結論で
あった」(『赤旗』昭和四十五年二月十九日)
 さらに戸田自身、当時を回顧して次のように語っている。
「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、
当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会
長は勝つといっていた」(小口偉一『宗教と信仰の心理学』)
 勝ちたいとの願望は、決して戦争反対や絶対平和主義と相いれるものではあるまい。
 また池田自身でさえ、昭和三十二年時においては、「胸を打った」とかなり美化し
ているものの、それでも、戸田が軍部を攻撃した— 明らかに言いすぎだが—とい
うのみで、戦争に反対したとはいわなかった。
「私の胸を打ったのは、創価(教育)学会が、あの戦時中にまっ向から軍部と対抗し
て、天照大神では日本の国は救えないと、日蓮大聖人の仏法立正安国論、顕仏未来記
の予言、諫暁八幡抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生、
現会長先生始め二十何名の人々が牢獄へ行つたんです」(池田「私の初信当時」、『聖教
新聞」昭和三十二年十月十八日)
 池田による「戦争反対」の噓は、入信神話と同様、彼の利益のための噓であったが、
また一面ではそれとは異なり、会内部向けではなく、対外的な社会的正当性を得たい
と願うあまりの噓でもあった。

◆強信の契機─日本正学館入社
《二年目に『立正安国論』の講義を聞いてから、よし、よい勉強しようと考えるよう
になりました》
 日蓮が正嘉一年の大地震を契機に著し、立正安国の理想を述べ、世人が邪法を捨て
て信仰を改めれば、三界は仏国となり、十方は宝土となろうという『立正安国論』は、
会の教義に対して池田を積極的に構えさせたようである。
 もっとも池田『人間革命』三には、昭和二十三年九月、第七回法華経講義後の質問
会での戸田の回答─昭電疑獄にふれて、悪徳政治家は不良息子と同じだ、不良息子
を強折して更生させるように、一国のためにも広宣流布しかない、というが、強信へ
のきっかけとなったとしている。
 いずれにしろ、ある程度開けた社会的視野が彼を会活動に近づけたのであろうか。
その年八月、彼は大石寺での夏季講習会に初めて参加している。
 だが、池田はまだ、「この教団が発展すれば世の中が変り、やがて世直しが実現し、
日本の国もよくなる、と確信してますます布教に熱を入れることになる」(高木宏夫
『日本の新興宗教.一)という信者の段階には、達していなかった。彼は自分を養うに精
一杯であった。
 その年四月に、池田は蒲田工業会への勤務のかたわら、各種学校の一つである大世
学院(のちの富士短期大学、現.東京富士大学)政経科夜間部に入学している。同校教
務課によれば、その入学資格は旧制中学卒業となっていたが、敗戦後の混乱の尾を引
く当時のこととて厳密なものではなく、池田の入学も難なく許可したのだという。
 池田は、「よし、よい勉強しょう」とあるように、学校に対しても、創価学会に対
しても学ぶ態度にあり、その意味では自己に完結する教養主義にとどまっていた。社
会性ではなく、その秋内定した戸田経営の日本正学館への入社が、池田に戸田を、ひ
いては創価学会を身近に感じさせ、教義を勉強する気にしむけたのだと思われる。
 昭和二十三年は東宝争議など敗戦直後における労働争議件数のピークの年であり、
国民経済はまだ混迷のうちにあったばかりか、翌二十四年にはドッジ・ラインを強行
されて中小企業の破産や失業者の増大など、深刻な恐慌状態に陥る。
 そのような混乱と経済的動揺の中での日本正学館への入社は、池田にとつては身に
あまる抜擢と考えられたことであろう。実際、印刷工場勤務、大世学院在学中といっ
た池田の経歴では、どのような小出版社でも入社は困難だったにちがいないし、まし
て出版社は池田の志望する文筆業に近接する企業でもある。
 彼は二十二年から勤めていた蒲田工業会を二十三年暮れに退社しているが、同工業
会の上司であった小田原政男は、「手放したくなかったんだが、将来、文学で志を立て
るといっていたので『雑誌記者になるので……』といわれたときには、引きとめられ
なかった」といっている(央、前掲書)。
 池田が深く戸田の恩に謝し、彼への忠誠を心のうちに期したことは想像に難くない。
「三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。信用組合にも入っていたん
ですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくてしかたなかったんです」
 この一条は「出版」の前に「信用組合」に入っていたようにもとれ、接続等が不分
明である。「戸田さんの出版」とは日本正学館であり、一般にはそこへの入社は二十
四年一月三日とされている。「信用組合」は戸田が専務理事を務める小口金融専門の
東京建設信用組合をさし、その正確な設立年月は詳らかにしないが、原島嵩『創価学
会』、池田『人間革命』四にはいずれも二十四年秋とあり、正学館以前の、東京建設
信用組合への入社は不可能である。
 あるいは、東京建設の正式認可が二十四年秋ということで、戸田はその前から、戦
前の日本商事等経営の経験を生かして手形割引や金貸し業を無認可で営み、池田も正
学館入社以前に、その手伝いをしていたのかもしれない。

◆日本正学館の商法
 池田はさきにふれた通り、前年二十三年秋に小平芳平の推薦を受けて戸田へ履歴書
を出し、日本正学館への入社を決めたが、同社の業績は、二十一年六月に謄写版刷り
で再刊された『価値創造』が池田の入社内定とほぼ同時期、十月に第十六号で停刊さ
れたことにも見られるように、倒産寸前の状態にあった。
 二十年八月、中学生相手の通信教授で営業開始した同社は、まず、その六ヵ月分前
納という、堅実な営業を保証するはずの予約金制度が未曾有のインフレにかえってわ
ざわいされて失敗した。前金内では日毎に騰貴する用紙代や印刷費をカバーしきれ
ず、かといつて予約金のたてまえ上、追加金もとれなかったのだという。ただこの通
信教授により、いち早く紙と印刷のルートだけはつけられていた。
 そのため二十一年、戸田は単行本なら短期で捌けてインフレに強く、戦前、大道書
房等から刊行した大衆小説の版権もあり、また売れ行きに開しては、刷れば売れると
いう時代で、なに一つ心配ないと考え、事業を単行本の出版に切りかえた。
 ことに戸田は、単行本切りかえの一環として、流行語の観を呈していた民主主義を
早速稼業に結びつけ、『民主主義大講座』の刊行を企てた。責任編集者に室伏高信、
今中次麿、加田哲二、堀真琴をあて、編集人員も強化し、編集長に矢島周平、編集員
に小平芳平ほか数名を置いた。
 責任編集者の一人だった室伏は、のちに同講座とのつながりを回想している。当時
の日本正学館の雰囲気と戸田の人柄をよく伝えていると思われ、長くなるが、次に引
用する。
「多分昭和二十一年であった。神田の西神田に一軒の小さい出版屋があった。日本正
学館といった。その名もとっくに忘れていた。忘れるのがほんとうくらいの小さい、
名もない、吹けばとぶような小出版社があった。戸田城聖がそこの社長であった。
ここで『民主主義大講座』という十巻くらいのものを出版する計画があった。川瀬
という友人の仲立ちで、わたしもその編集委員に名をつらねることになり、その中
にいくつかの論文も書いている。
 そういう関係で、この出版社に、二度くらい行っている。株式会社となってはいた
が、会社というのは名ばかりで、その実体は何かの商店の二階の一と間の借間会社だ
つた。室の中に三つくらいの机があって、五、六人の社員がいた。二階に上ってゆく
と戸田社長は手持ち無沙汰に、ポツネンと椅子にかけていた。
その隅っこのほうに、一人の少年がいた。美少年でその礼儀正しさが、わたしの目
をひきつけた。それが池田少年であったかどうかは、むろんわかっていない。……
 ところで、この小さい出版屋を訪れると、二度とも、戸田はわたしをうながして、
梯子段を下り、裏口から小さい露路に出た。イタチのとおるくらいの小さい、陽の目
を見ない露路だった。その突き当りに小さい一杯飲み屋が立っていた。立っていたと
いうより蹲まるとか、しゃがむといったほうがぴったりする。そこに六十がらみの老
婆がいた。戸田の顔をみただけで徳利をもってきて、先生どうぞといった。古いおな
じみだということが直ぐとわかつた。先生ということばには尊敬も親しみもうかんで
いた。しかし徳利一本きりで、あとをつづけようともしなかったし、お酒の肴は何も
そえてなかった。そのころ終戦後で、酒の事情も苦しかったせいもあろうが、戸田の
懐事情がわかっていたからでもあろう。
 わたしはこの大講座にいくつかの論文を書いている。前に述べたとおりである。だ
から原稿料の問題で、戸田には債権債務の関係がある。わたしはそれがどうなったの
かを、いまはおぼえていない。しかしその問題で、わざわざこの出版屋を二度も訪ね
たとしたら、この間にすらすらいかないもののあつたことはわかる。
 そのくらいの見すぼらしい出版屋であつたと思う」(室伏、前掲書)
 この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を
安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版による
が、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上
げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
 二十三年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できょうとい
う、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする
経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池
田によれば数ヵ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたよう
だという。
 だが、昭和二十四年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本
格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カス
トリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『ォー
ル読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を讓りはじめ、そのよ
うな時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかっ
た。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの
「小僧」だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」
(池田「勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用という
より、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微
熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐ええたのだろう。
 このころ、彼は森ケ崎の実家を出、大森・新井宿の青葉茌(二反長、前掲書)とい
うアバー卜に一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族と
の関係の悪化からであった。

◆日本正学館の破産
《戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。十四、五人の研
研究会の仲間からもやられました》
 家族は池田の創価学会入信に反対しつづけたし、池田も四兄と同居の六畳間で朝
晚、題目や経典をあげることをやめなかったから、両者の関係は当然、険悪であった。
 池田が文筆で立つ志望を持ち、五男であったかぎり、家と出坂社とビちらを選ぶか
は明白であった。また彼が世の荒波に揉まれて家や協友会の友人のもとに舞いもど
り、おとなしく退転するには、それまで病・貧・争の苦しみに慣れすぎて免疫になっ
ていたうえ、戸田の提供する体験の場が貧しいとはいえ、魅力的でありつづけたのだ
ろう。
 しかし、池田の別居には周囲の反対から逃れ、世に乗り出すという以上の積極的な
意味がこめられていた。家族や友人からの離脱は、池田を否応なく戸田のもとに押し
やり、もともと冷静な観察力に乏しく、対人関係に古風な一面をも残す池田をして戸
田に、父なき世代にもかかわらず、父を見出させることになった。
 同年五月から池田は『冒険少年』の編集を手がけはじめ、原稿とりに野村胡堂や西
条八十、挿絵画家などの家を訪ね、また時に山本紳一郎というペンネ—ムで穴埋め記
事を書いたという。
そのころ、他の編集員,小平芳平らは前年までの『価値創造』にかわる創価学会の
機関誌としての『大白蓮華』の編集にあたってい、戸田も自ら同誌の巻頭論文に「生
命論」を寄稿した。
 シラミの話で始まる「生命論」は、生命とは過去、現在、未来の三世にわたって連
続し、永遠に存在するもので宇宙自体が生命であるとの主張に尽き、せいぜい古代イ
ンドのウバニシャッド哲学以来の素朴な観念論のやきなおし(日隈、前掲書)にすぎ
ないというしろものであったが、池田は当時の彼の感動として、「鮮烈な感動が、孤
独に沈んでいた彼を、いきなり襲ってきた。彼はしばらく茫然としてしまった」と記
すばかりか、現在の評価としても、「まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる
宣言書」(池田『人間革命」四)など、思いつくかぎりの最大級の讃辞を連ねている。
 客観的にはどのように他愛のないものに感銘したのであれ、ほぼこのころから池田
は創価学会の教義に骨がらみからめとられたと見られる。人はまだ理解していないこ
とにだけ絶対的な確信を持つことができるという定式からすれば、彼は「生命論」の
つまらなさを理解せずに、信じこんだわけであった。
七月、『大白蓮華』創刊号が発刊された。月刊、B5版、三十二頁、活版印刷で、
謄写版の『価値創造』より立派な体裁ではあったが、創価学会の経済的負担をことご
とく一 人で賄ってきたという肝心な戸田の事業は悪化の度を深め、もはや機関誌どこ
ろではなくなっていた。
 日本正学館の敗北は誰の目にも明らかであった。同社の刊行物のうち、まず単行本
の売れ行きが止まり、ついで『ルビー』『冒険少年』の二雑誌も返品が激増して採算
点を割った。池田の担当する『冒険少年』は八月に『少年日本』と改題されたが、そ
のような細工では頹勢は改まらず、同年秋には返本率は七、八割に達し、月に数百万
円からの赤字が累積して、ついには日本正学館全体で六千万円に達したという。原稿
料や画料の支払いの遅れはもちろん、出入りの紙屋や印刷屋は談じこみ、社員への給
料は遅配した。
 池田が編集業務をおぼえる間もない十月、戸田は全社員を集めて一切の休刊(廃
刊)と残務整理をいい渡し、かねて準備していた東京建設信用組合への社員の移行を
明示した。信用組合の社屋は日本正学館のそれがそのままあてられ、浮き足だつ社員
には分割で給料が支払われた。
 池田『若き日の日記から』(『週刊言論』昭和四十年一月~四十二年三月に断続的に
連載)十月二十九日の条には、「六時、分割払いの給料を貰う。床屋にゆく。給料が安
い、私も皆も大変だろう」とある。彼は念願の職場を否も応もなく奪われ、新しい職
を押しつけられても、そこには低賃金、遅配、分割払いといったそれまでの「乞食同
然」の生活から脱け出せる保証は一つとしてなかった。
 戸田の処置は時代相がどうであれ、経営者の無能力というより、無責任かつ残酷な
ものであり、宗教的紐帯なしには当然労働争議に発展している問題であった。池田も
少なからず戸田に不満や怨みを抱いただろうが、それらの感情は発表時に手入れされ
たはずの『若き日の日記から』はうかがうべくもない。ただ、さすがの池田も休刊決
定の夜には、座談会をさぼり、新橋で映画を見たという。
───────(~100頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)
◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて>
  非活・休活・フラ活・ふり活の学会員からの〝カキコ〟が盛況。
  コメントの一部(抜粋)を紹介
     ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―
◆2014年5月26日 at 21:51  ノブ
  批判もあるとは思いますが…
  シニフィエさんは大変努力されているとは思います。
  だけど当然ですよ。
  親が公明の議員だったんですよね!!
  シニフィエさんは会員の犠牲の上で学生生活を送り
  生きてきた人物です。
  父親の議員を当選させるためにどれだけの会員 一般人が
  犠牲になったのでしょうか。

◆ブログ<対話を求めて>盛況の秘密!!
 〝ノブ〟さんは対話を求めてカキコした人、〝シニフィエ〟さんは管理人。
 〝ノブ〟さんは勇気ありますねぇ…。いきなり詰問調の(対話を求める)カキコですね。
  〝ノブ〟さん自身、公明の議員の又は、本部・地方の職業幹部の息子・娘で…フラ活・
  半覚醒で悩んでいるのかも?
  池田教の造反者=退転者(学会用語)…山崎・原島・龍・藤原・松本(民音)竹入・矢野等
  =一般会員を犠牲に生活した元・議員や職業幹部とその家族

  ……アホクサ!!、今更あんたに言われたくない、私の人生返してくれ‥池田ネタの本書いて
  金もうけ‥…ハリガネで結わいてトンカチで…何度もゴッツンするゾ―!!

◆毒まんじゅう……さわった池田に祟りあり
  毒の強いこれらの人達の覚醒は〝七転八倒〟ですね。典型の見本は原島嵩ですか…
  「絶望の淵より蘇る」……不安神経症・うつ病・糖尿病・脳梗塞・失明等々……
  〝師弟不二〟〝池田本物論〟……教学部長・聖教新聞主幹の職業幹部として……
  (尚、原島嵩=日蓮正宗に行く……を賛成しているのではない)

 本当は全ての人が…池田の毒まんじゅう……の犠牲と思います。

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)
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池田大作「権力者」の構造-6

2014-05-27 09:38:02 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造 <=6>……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
──────(63頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)

◆入信神話批判
 ここで池田の「入信神話」を検討する。彼の入信時の状況、心理は前述の通りだが、
池田はのちにこれを実に見事なまでに改竄する。入信抻話こそ、池田の噓の出発点、
典型といって決して過言ではあるまい。次の引用は、池田が小説ではなく、事実として
記した文章である。
「私が、先生(戸田)に、はじめてお目にかかったのは、昭和二十二年、十九歳の夏
の暑い夜であった。……
 私には、……小学校時代からの友人で、時折り訪ねてくる仲間があった。そして、
ある日、その友人の家で『生命の哲学について』の会があるからと、誘われたのであ
る。この時、戸田城聖という名を、はじめて耳にしたのであった。
 私は、好奇心から誘われるままに、読者仲間(協友会)もつれてでかけたのである。
 やや嗄れた声で、屈託なく語っているのは、四十代の人であった。度の強い厚い眼
鏡が光り、広い額は、すっきり秀でている。話の内容は、最初さっぱりわからなかつ
たが、どうやら仏法の話らしい。そう思って聞いていると、身近な日常の生活や、現
代の政治についての鋭い洞察も語られていく。そしてまた、急に難解な仏法用語が出
てきて、私には実に不思議な未聞の哲学に思えたのである。
 いわゆる宗教の講話でもなく、伝統的な哲学の話でもなかった。話は、きわめて即
物的で、観念を弄ぶようなところはなく、卑近な事実が、そのまま高度の真理を語っ
ているようにさえ思われた。部屋には、中年の男や、家庭の主婦や、若い娘や、元気
な青年たちが溢れている。服はいずれも貧しかったが、戸田先生にじっと注目して真
剣そのものの姿である。善良な街の庶民の人々にまちがいない。そこには不思議な活
気が燃えていた。
 戸田先生は、私がそれまでに会った、どのタイプにも属さない人であった。ぶっき
らぼうのような口調でありながら、限りない温かささえ感じられた。私の先生をみつ
める視線が、しばしば先生の視線にぶつかった。私は戸惑い、眼を伏せて、しばらく
して顔をあげると、先生の視線はなおも私に注がれているようでならない。おかしな
ことだったが、いつか旧知の親しさという感情を覚えたのである。
 話が終わると、友人は私を先生に紹介した。先生は、ほう、といいながら、眼鏡の
奥から眼を光らせて、一瞬、私の顔をまじまじと見てとった。そして、何かを知った
ように、なんとも人懐こい微笑をうかべていったのである。
『君、いくつになったかね』  
 私の旧知の感情は、即座に答えた。
『十九歳です』
『十九歲か』と、先生はなにかに思いあたるようにいった。『十九歳といえば、僕が
東京に出てきた時だ。北海道から、おのぼりさんで、はじめて東京に出てきたのだよ
……』
 先生はその時、仁丹をかみながら、煙草をふかしていたと記憶する。私は、そのこ
ろ抱いていた、人生上の、また社会上のいくつかの疑問を自然に質問せざるを得なく
なっていた。
 ──正しい人生とはどういう人生をいうのですか。真の愛国者とは?天皇制につ
いて? 仏法の神髄とは?
 先生の解答は、はなはだ、直截で、淀むところがなかった。苦もなく答えているよ
うに思われたが、それは正しく頭脳の廻転の速さを示していた。衒いもなく、嘘もな
く、確乎としたものの本体を語っているようであった。私は充分に満足し、真理がこ
れほど身近にあることに、生れてはじめて感動したことをおぼえている。
 この夜から、十日後の八月二十四日、私は日蓮正宗に入信し、創価学会員となっ
た」(池田「“人生に負けてはいけない„」、『私はこう思う』所収、なお池田)
「人間革命』二での記述も、より粉飾されているが、これと同様の骨子である)
池田はここで、会場を本部から(蒲田の)友人宅に、折伏時の雰囲気、心理等を変
更した。が、より重要なことは対者を、小平芳平から戸田にすり替えたことである。
池田は『聖教新聞」(昭和三十二年十月十八日)にも、会場が本部で、折伏者が三十二
年時の教学部長,小平芳平だったことを明言している。
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは、
前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六
畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいた
んです。私はそこで教学部長から折伏されたんですよ」
本部と蒲田との情況は、哲学のいい話があるが来ないかと、学校時代の友人に誘わ
れたこと、池田の別の友人も同行したこと、その友人は入信しなかったこと(この場
面を描いた池田『人間革命』二では、「二人の友は、決心がつかない─と、《入信手続き
を》拒否した」一とある)、人生が話題になったことなど、あまりに類似点が多いが、蒲
田が前、本部がその後のできごとで、小平芳平(のちに、公明党参院議員)が池田の決
をとった(入信を決意させる)としてもよい(なお戸田とともに戦時中、投獄された矢島
周平は、「池田を折伏したのは私だ」と語っている。彼は矢島秀覚と名のり、埼玉県・
大宮の正因寺で住職を子息に讓つて隠居しているが、当時、座談会場に戸田はいなかっ
たとしている。筆者は矢島説を裏づける客観資料を持たないから、ただ紹介だけしておく)。
が、それでも戸田の講話、人格にうたれたにもかかわらず、五時間も締めあげられ、
理論に負けてシャクにさわるという矛盾はまるで解消されない。
 池田が戸田の講話に感動したというのは明らかに捏造である。だが、さらに注目さ
れるべきことは、池田がこれらの噓を年齢の一致という噓の伏線、下ごしらえとした
点にある。すなわち、池田は、出会い時の池田十九歲、戸田四十八歳という年齢を会
長就任という自らの跡目相続の正統性の論拠とした。
 池田は『人間革命』二で、前の場面に続く戸田の帰路のこととして、次のように描く。
 「戸田は、十九歳の春—北海道から上京した頃のことを、しきりと思い出していた。
 牧口常三郎と、初めて会ったのは、その年の八月のことである。その日から、彼の
今日までの運命というものが、大きく、新しく滑り出したことを、珍しく思いめぐら
していた。
 その時、戸田城聖が十九歳で牧口常三郎は四十八歳であった。
 いま、戸田は、その四十八歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田のこと)
は、十九歳だといつた。
 彼は十九歳より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代
は移り変わり、自分にも、真実の黎明の如き青年の弟子が現われることを、心ひそか
に期待して居ったのであろうか─(中略)
 ──十九歳の青年は、いくらでもいる。しかし、二十九年前の牧口と当時の戸田と
を、まざまざと想い甦らせたのは、今日の一人の青年ではなかったか。……
 いま牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、四十八歳の彼の前に、出現したのであ
る」
 池田がここでいいたいことは、牧口と戸田、戸田と池田、それぞれの出会い時の年
齢の一致と、それによる呪術的ともいうべき池田自身への正統性、神性の付託であ
る。この原始的な思惟に基づく発想は、池田の会長就任時に早くも表れている。
「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長
池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに仏
法の不思議!」(『聖教新聞』昭和三十五年五月十三日)
が、驚くべきことに、これらの年齢は池田の十九歳を除いてすベてデタラメなので
ある。
戸田が北海道から上京し、はじめて牧口を訪ねたのは大正九(一九二○)年八月の
ことで、そのとき戸田は明治三十三(一九○○)年二月出生の満二十歳、数え二十一
歳、牧口は明治四(一八七一)年六月出生の満四十九歳、数え五十歳であった。
 また池田が創価学会員となった昭和二十二(一九四七)年八月には、昭和三(一九
二八)年一月出生の池田は満十九歳、数え二十歳、戸田は満四十七歳、数え四十八歳
であった(出生と出会いの年時は創価学会教学部長・原島嵩著「創価学会」による)。
 満、数え年齢ともに、四十八歳──十九歳に一致しない。池田の『人間革命』は虚
偽を援用して、戸田と山本伸一の名で登場する池田自身の徹底的な粉飾をはかったも
のであるが、それでも牧口と戸田だけは実名で登場させている。池田は、「私の人生
に、戸田城聖という恩師がなかったとしたら、今曰の私は、無にひとしい存在であっ
たにちがいない」()といいきるまでに崇める戸田の年齢
ばかりか、牧口のそれをも、自分の都合によって故意に改変する。『人間革命』はフ
ィクションだとするなら、前掲の「“人生に負けてはいけない”」と『聖教新聞』の記
事はどうなるのだろうか。
 創価学会が『人間革命』を「現代の御書」として会員に推奨していたのは広く知ら
れた事実だが、同時に、小説と銘打ちながらノンフィクションとして扱っていた形跡
がある。『聖教新聞』縮刷版の「主要日誌」(昭和四十四年十一月十四日)に「池田会長
による小説『人間革命」第五巻がノンフィクション部門で連続三週間、ベストセラー
第一位を示している」と記されている。
 ここで池田が故意に変えたというのは根拠のないことではない。彼は、四十五年に
遺族の手で刊行された戸田『若き日の手記・獄中記』に序文を寄せているが、それに
は、戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、先生が四十七、
八歳、私が十九歳の時であった」と、戸田の年齢を暖昧にして逃げているからである。
 池田の無残なまでの噓のうわ塗りは、彼が権力者だったために、「おべんちゃら本」
によって、さらに一層卑劣さを増幅する。が、これらには、その厚顔さのゆえに、よ
り露骨に池田の狙いを浮かび上がらせるという長所がある。次に引用するのは、前掲
の蒲田の場面を描いたものであり、ほんの一例にすぎない(『』内は池田の語り)。
「そして、池田がさらに戸田の話を聞いているうちに、奇跡としかいいようのない神
秘的な現象が、突然二人の間におこった。
 『それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない。
私はそのために生れてきたんだ──という強烈な直感でした。それまで、そういう運
命的な直感などむしろ軽蔑していた私が、どうしてああいう気持ちに襲われたのか、
いまもって不思議ですね。
 しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかつたんですが、私がそう直感し
た瞬間、戸田先生のほうでも、“このやせこけた若者がいっかォレのあとを継ぐだろ
う。いまォレはついに後継者とめぐりあった„──と、ひと目で直感されたというん
ですよ。
 はじめて会って三十分もたたないうちですが、戸田先生と目が会ったとき、私はそ
のことを──先生がなにを感じられたかを──ハッキリ知りました。先生のほうも私
の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのと
き、先生も完全に知ってくださったわけです』(五島勉『現代の英雄』)
『宗教と信仰の心理学』と、これとの懸隔はあまりにも大きい。池田の入信神話は.
デマゴギーの発生と肥大に関する調査、研究に、貴重なデ—タを提供できるほどのも
のであろう。

◆信仰の呪術的段階
《家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴っ
て、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、そのと
き思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。それは高校をでて蒲田に勤めて出張
していたときのことです。
それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕
事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信心は大事だなあと思ったの
です》
ここに「高校」とは東洋商業、「蒲田」とは蒲田工業会を指す。同工業会に書記と
して勤めはじめてまもなくの入信であった。
 雷に思わず題目を唱えたというのは、いうまでもなく彼への天啓ではなく、創価学
会と彼自身の低俗性、呪術的な段階を示す。
 藤田省三は、呪術と内面化された宗教との区別は、呪術が病気平癒など、この世の
利益のために手段として「霊」を拝むのに対し、宗教性の高い宗教は無条件に神を信
じて仕える点にあるとし、また本格的な思想の基底には必ずある、超越者の前に一人
立ってひそかに内省するという契機──それこそが生産的な内面的緊張を生む──
が、創価学会にはまったくないとしている(石田郁夫『創価学会」所収)。
 池田の宗教は「安心感があって」と自らいうように、つねに現実生活上の便宜や利
益をこえるものではなかった。
 蒲田工業会に勤めていた、その時分の池田の印象は「お早ようございます」という
朝の挨拶にうかがわれる。
「詰め襟の服で、さっそうと出社、事務所の戸が開くと同時に、あの挨拶が部屋中に
ひびきましてね。雨の降る暗い朝でさえ、パッと、いっぺんに明るい雰囲気になる」
(大田工業連合会専務理事,小田原政男談、『現代』昭和四十五年二月号)
 池田は入信によって、「私も、内向的なので、入信前は気が弱くて意気地なしだと
思っていた(笑い)。最近は、おっちょこちょいみたいに開放的になってしまった」
(池田『指導集』)とあるように、それまでの性格を早くも変え、明朗闊達な挨拶がで
きるようになった。
 声高の挨拶は、池田が意気地なしであることをやめ、生存競争の勝者への道を一歩
踏み出したことの起点であったが、多くの人の好感をよぶその挨拶を発するために、
彼が内面において切り捨てたものもあったはずである。
 創価学会に入っての池田の易変性は、それまでの彼のなめた病気や貧苦があまりに
強く彼を痛めつけていたせいであったろうし、また創価学会の教義に抵抗できるほど
の学歴等とは別の知的な基盤を欠いていたせいでもあったろう。が、易信性のもたら
した結果がまれにみる権勢であろうと、それは人間としての名誉ではなく、むしろ恥
辱であろう。考え悩む努力を放棄し、ステレオタイプの確信に甘んじる者の変わるこ
との意義は、世俗上の利得だけにしかないにちがいない。

◆弾圧の恐怖とバチの恐怖
《それから一年は普通にやっていました。そのころは,バチがこわかったのです。前の
信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。(創価学会は日蓮正宗をの
ぞいて)全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝
ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました》(カツコ内は溝口)
 ここに池田は彼のオポチュニズムを悪びれずというより、そのような衒いにも無知
に告白している。
 戦前の牧口、戸田以下幹部二十一名の下獄は彼にはただ恐ろしいだけで、それが敗
戦を境に名誉の履歴に変わったとみる青年らしい常識にさえ欠けていた。貧しく実直
な堅気の家庭では牢獄はなにより恐れられる。池田は戦前の受難の因は創価学会のひ
とり正しいとする独善性にあると穏やかにも見、それは自分の所属している現在でも
変わっていない、再び弾圧を受ける可能性は消されていないと、「寝ても覚めても」
ただただ恐ろしい。小心に心を悩ました挙げ句、「やめるなら今のうちがよいと考え
た」ことを口にして恥じることを知らない。このインタビュー時、池田は渉外部長と
参謀室長をかねていたが、まだ、のちに身につける体裁を取り繕う習性はない。ざっ
くばらんな気性で、都合のわるい履歴であってもあけすけに話す戸田が、小口偉一の
字問的な立場、問題のとりあげ方を理解して便宜をはかったからである(「聖教新聞』
昭和三十四年四月十日参照)。
 現在なら池田は「それから一年は普通にやってい」た理由として、たとえば次のよ
うにいう。創価学会に公明党批判を経た後では、さすがに入信直後は消極的な会員で
あったことを否定できない。
「最初から創価学会の全てが納得でき、戸田先生の言葉が、理解できて信仰したわけ
ではない。信ずることにせっかちな余りの一般会員の強引さや、情熱にまかせて陥り
がちな壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いたこともある」(池
田「自己変革と宗教者」『中央公論」昭和四十六年七月特別号)
 もちろん、ここにあるような他の会員への違和感や反撥心も一つの理由ではあった
ろう。が、そのこと以上にこの一文は、彼の動揺の理由を、弾圧の予感に怖じ気をふ
るったという、会員としての非模範的な自身の日和見主義から、他会員の未熟さに転
化し、その上、当時から彼一人が良識をそなえて醒めていたことを暗に示そうとして
いる。
 過大なばかりか卑劣な、現在の彼の見栄や外部志向を前にすれば、インタビュー時
の彼の無知は、いっそ初々しいものとさえいえる。尊大な大物風への「人間革命」の
結果は悲惨としかいいようがない。
池田は創価学会をやめたいとは思っても、「バチがこわ」くてやめられなかった。
この「バチ」は、「御本仏日蓮大聖人のご生命の満ちみちた大御本尊を絶対境とす
る生活は、他の小神・邪神・小仏の利益や罰とは、天地の相違があり、利益も大であ
るが、これに背く厳罰も明らかであり、背けば大阿鼻地獄へ堕する者となる。御本尊
の右の御かたに若悩乱者頭破七分」と、のちの『折伏教典』にある、会員にあら
かじめ言い渡される予防拘禁的な威迫を意味する。
 罰論は牧口以来の創価学会の伝統だが、その鬼面人をおどろかす体の「大阿鼻地
獄」や「頭破七分」に確固とした信者になる以前の池田が、なんらの反感もおぼえ
ず、頭から信じこんだばかりか、行動も規制されるというのは、とうてい近代的な思
惟の持ち主のよくできるところではない。
そのことは客観的な批判を無効にする宗教の世界より前の段階にあり、ここにも池
田がどうしょうもない無知蒙昧に類する徒であったことは明らかである。

───────(~79頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて
  非活・休活・フラ活・ふり活の学会員からの〝カキコ〟が盛況。
  コメントの一部(抜粋)を紹介
      ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―

 センセイは、頭から日蓮さんの教えなど信じていません。
 信じてないから、ここまで罰当たりのようなことをしたという意味では、矛盾はないと思いますね。
 私が池田氏がはかりしれないと思うのは、信じてないものを誰よりも信じてるふりをし、本気で信仰している者の教祖となって扇動したことです。
 金儲けのためにここまでできるのは、ふつうの神経ではありません。
 お金をもらう代わりに、それに見合う絶対的な確信やコミュニティを提供したんだから何が悪い、という理屈なんでしょうか。
 私は、創価の教えた教学などインチキも甚だしかった、日蓮さんは異端で特異なお坊さんだっ たと知った時点で、それでビジネスをした池田氏を心底恐ろしいと思いました。
 金の亡者であるビジネスマンはたくさんいますけど、自分の扱ってる商品には絶対の自信がある、自分が本気で惚れ込んでいるという人が殆どなんじゃないでしょうか。
 インチキと知ってインチキ商売をする。
 しかもその商品は品物ではなく宗教。世界中を巻き込んでまで。
 正気じゃないですよね。

◆コミュニティの過去・現在と未来
 覚醒は麻薬と同じ?…陶酔・反省・懺悔滅罪・自己嫌悪・罰論のマインドコントロールの残滓等々。
 100万円の財務で歓喜・体験発表!!・新聞啓蒙で表彰!!・選挙で感動!!‥の日もあったし……。
 人は一人で生きられない?…過去との決別とこれからのコミュニティに勇気と工夫ですね。
 地区婦人部長や多くの役職あるので…バリ活〝演じて〟(のふりして)いる人多いですね。
 切ないですねぇ…それにしても、池田は超ワルですねぇ……悪しき天才ですねぇ……

◆家のゴキブリ
 朝、洗顔していると……ちょろちょろ…と、さいさなゴキブリ……
 突然・止まって死んだふり(ゴミのふり?)する奴、時々いるんですよ…
 いじらしいですねぇ……切ないですねぇ……

 人もゴキブリも……のふりをして生きるんですかねぇ…そうしないと生きられない?…

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)
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池田大作「権力者」の構造-5

2014-05-25 11:41:32 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9) <=5>
──────(47頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
第二章 偽造の履歴
◆創価学会との出会い
昭和二十二(一九四七)年八月十四日は池田にとって、記念すべき転生の契機とな
った日付だった。その日、彼は創価学会に初めてふれ、以後、半信半疑のうちに創価
学会員としての生活を始める。創価学会との出会いは、それ以前の要領を得ない生活
から池田の足を洗わせ、彼を確信ある男に仕上げていった。それは新生に等しい、彼
の生涯の画期となる事件であり、その池田に持った意味は強調して、しすぎることは
ない。
 しかし、その遭遇は、のちに創作された入信神話(これについては後述する)のよう
には神秘的でも劇的でもなかつたし、それからの道程も坦々たる一本道ではなかっ
た。
 池田は昭和三十年ころ、宗教学者のインタビューに答えて、入信前の心理や座談会
の模様、入信までの経緯や信者としての生活等を語っている(小口偉|編「宗教と信
仰の心理学」新心理学講座,第四、前章でも引用した)。
インタビューでの池田の回答は、いくつか細かな事項が、一般に行われている説と
相違するが、宗教学者・日隈威徳はもっとも事実に近く、かなり率直なものと見るこ
とができるとしており、少なくとも池田の当時のいつわらぬ心境を察知するには十分
である(池田に関する資料は発表年時の古いものほど、ことに会長就任前のものほど、信
憑性が高いといえる)。以下、それを敷衍するかたちで彼の入信の状況とその後の生活
を見てみょう(『宗教と信仰の心理学』からの池田発言の引用に限って《》で括る)。
《終戦の反動でなにかやりたいという気持があって、学校時代の友人にさそわれて創
価学会の本部へ行きました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそっ
たのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしようか。五時間く
らいもそこで締めあげられたのです》
 ふつう池田と創価学会(戸田)との出会いの場は、蒲田の焼野原にあった、池田の
小学校時代の友人宅で行われた座談会の席上とされている。
「私が信心したのは満十八歳のときで、小学校の同僚で女の人から折伏されたので
す」(『聖教新聞』昭和三十四年二月六日)
 とあるように、池田は小学校の同級生である三宅ゆたか家の次女に誘われ、創価学
会の集まりに出かけたのが最初である。池田は彼女に好意を持っていたので、それに
魅かれて出席した(『週刊文春」昭和五十五年六月十九日号)。そしてその後、この『宗
教と信仰の心理学』にあるように、西神田にあった日本正学館内の創価学会本部へ出
かけた。「五時間くらいもそこで締めあげられた」は強引な折伏の様子と、それに対
する池田の、いまだ健全な心事を推察させる。
 このころ、新興宗教は、第一次大戦前後の大本教に代表される第一期、日中戦争開
始までの大本教、ひとのみち、生長の家、霊友会などの第二期の後を受けて、「神々
のラッシュ・アワー」といわれる第三の隆盛期を迎えていた。
 敗戦直後の庶民は天皇制宗教の衰微、家族制度の変改、経済的思想的混乱等に見舞
われ、先行き不安感を深めていた。そのような社会心理状態は、国家と神社神道の完
全な分離を命じるの神道指令や宗教団体法の廃止、宗教法人令の公布施行など
の一連の信教自由化策と相まって、個人の現世利益を説き、崩れさった天皇の権威に
かわって心の拠りどころを示す新興宗教の形成と成長に絶好の基盤を提供していた。
 池田もまた「なにかやりたい」と思うものの、生活規範となる信念や、生活の基礎
というべき健康を得られずに、拠りどころを求める一人であり、創価学会も再建とは
いえ、新たな旗揚げにかわらぬ群小教団の中の一つだった。両者の出会いは、多くの
教団の中から池田が創価学会を意図的に選んだのでもなく、病・貧・争に悩む無数の
青年のうちから創価学会が池田に目をつけたのでもなく、まつたくの偶然にすぎなか
った。

◆創価学会の歴史
 ここで簡単に創価学会の歴史と、池田入信時の状態にふれておこう。
 同会の前身・創価教育学会は昭和五年、牧ロ常三郎、戸田甚ー(のちの城聖)によ
り創設されたとされる(一説に、昭和五年は牧口の『創価教育学体系』第一巻が発刊され
た年にすぎず、十二年の発会式をもって創立の年とする見方がある)。彼らはこの二年前、
日蓮正宗に入信している。
 当初創価教育学会は牧口の著述した『創価教育学体系』の刊行を目的とし、宗教臭
はほとんどなかったが、しだいに日蓮正宗への傾斜を深め、十二年政友会・古島一
雄、元外交官・秋月左都夫を顧問、牧口を会長、戸田を理事長にして正式発足し、外
部に研究生を求めた際には、正宗の信者であることが条件となっていた(宗教学者・
竹中信常はその著『創価学会』で、「いくら探求しても、創価学会が日蓮正宗と結びつかね
ばならなかったという、理由をいまだ発見することはできない」としている)。
 同会は小学校教員を中心として、昭和十五年五百人、同十六年三千人と増加し、機
関誌『価値創造」を創刊するまでに順調に発展していったが、十八年、当時全戸に配
布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(後に詳述する)、牧口、戸
田をはじめ幹部二十一名が投獄された。獄中で牧口、戸田、矢島周平を除く幹部たち
は転向し、牧口は十九年老衰と栄養失調で獄死した。
 戸田は二十年七月、保釈出所し、下獄中に解体した彼自身の事業の建てなおしに着
手するかたわら、創価教育学会を創価学会と改めて再建し、二十一年正月から戦前の
会員等に法華経を講じはじめた。
 同年五月には第一回、第二回幹部会を相ついで開き、理事長に戸田、理事に本間直
四郎、岩崎洋三、西川喜万、藤森富作、原島鲤之助、小泉隆、辻武寿をあて、六月に
は『価値創造』再刊第一号を発行、また青年部を結成した。
 当時の創価学会の拠点は蒲田(小泉、辻、小平芳平)、鶴見(森田悌二)、小岩(和泉
覚)、杉並(山浦千鶴子、柏原ヤス)、目白(原島)等にとどまり、そこでは月に 一、二
回の座談会が行われた。また八月には富士大石寺で、二十九名を集めて戦後第一回の
夏季講習会が開かれ、九月には栃木県那須や群馬県桐生で地方折伏を始め、二十一年
中に創価学会の再建をほぼ軌道にのせている。
 戦時中の創価教育学会への弾圧は、天皇制や侵略戦争に反対したからではなく、そ
れらをいっそう強化するために、その誤りを諫める(国家諫暁)という立場を固執し
たために加えられたものであった。
 しかし、同会は他の多くの教団のように権力の指示を忠実に奉じて踊ったのではな
く、逆倒したかたちではあったが、権力に対して批判的で、統制に抵抗したのであ
り、そうした経歴が戦後の強い発言権を保障していた(佐木秋夫「創価学会の歴史につ
いて」、『文化評論』昭和四十五年三月号)。
 創価学会が国体護持、戦争協力にこれつとめてきたひとのみち(PL教団)や生長
の家のように看板や教理を塗りかえることなく、短期間に戦前の水準に回復したのは
自然であり、昭和二十二年時にも毎月十─二十世帯の新入信者を保っていたという。
 池田入信前の主たる会員には前出のほか、奥山和平、柏木敏、寺坂陽三、木下鹿
次、竜年光、酒井うめ、牛田寛、原田立らがいたにすぎず、池田が後日、会長の地位
はともかく、ある程度出世するに不都合なほど多数とはいえなかった。彼はまだ遅れ
てきた青年ではなかったわけである。
《南無妙法蓮華経は嫌いだつたので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰
しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわっ
てしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからな
い。それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような
感じがしたんです》
 池田は、「南無妙法蓮華経は嫌いだったので」といっているが、彼の父親は真言宗
の強信者であったうえ、当時の風潮も、たとえばPL教団ではお守りをアミュレット
と呼びかえるなビ、植民地風が濃厚であり、日蓮正宗ならずとも仏教でありさえすれ
ば、一様に時代遅れに見え、若い池田が信仰するには抵抗の多いものがあった。が、
彼は座談会の前に、「討論して負けたら、いさぎよく従う」と明言していた手前、不
承不承入信しなければならなかった。
 東洋商業をその年の三月に出たばかりの池田は、戸田に仕込まれた小平芳平の理屈
に太刀打ちできなかったばかりか、逆に頭から呑まれてしまった(池田を折伏したの
は戸田ではない。これについては後述する)。
 戸田はヒバリ天とあだ名されたように、人生の浮沈をきわめ、辛酸をなめつくした
経歴の持主であった。
 彼は明治三十三(一九〇〇)年二月、石川県に生まれ、三十七年、一家をあげて北
海道石狩郡に移住した後、厚田尋常高等小学校を卒業、独学して尋常小学校准訓導の
資格を得、大正七年、夕張郡の真谷地尋常小学校に勤め、同年中に正訓導の資格を得
た。
 大正九年、同校を退職、上京し、八月ころ、下谷の西町小学校校長であった牧口常三
郎を訪ね、同校の臨時代用教員として採用され、以後、牧口の忠実な部下となった。
 牧口も苦学力行という経歴では戸田と同様であり、それが牧口の学者肌、戸田の街
の事業家風といつた両者の気風の相違とともに、彼らの親交を終生飽きさせないものに
していた。
 牧口は明治四二(一八七一)年六月、新潟県に生まれ、苦学して二十六年、北海道尋
常師範学校を卒業、付属小学校の訓導になり、地理学を研究し、三十四年、上京し
た。志賀重昂等の協力を得、三十六年、「人生地理学』を著し、好評であつたが、学
界には受け入れられず、また刊行により小川琢治、新渡戸稲造等の知己を得たもの
の、経済的にも恵まれず、三十八年ころから、生活のために雑誌編集、文部省嘱託等
を経験し、四十二年には東京麴町の富士見小学校の首席訓導になり、教師生活に逆戻
りした。
 一時、退職し、大正元年、『教授の統合中心としての郷土科研究』を著し、二年に
は台東区東盛小学校の校長になり、以後昭和七年まで数校の小学校校長を歴任し、そ
のかたわら『創価教育学体系』を著作していた(池田諭「牧口常三郎』)。
 大正十年、戸田は牧口とともに西町小学校から三笠小学校に異動したが、十一年、
同校を退職し、生計のために下駄の露天商、八千代生命の保険外交員を始める一方、
十二年には受験塾「時習学館」を開設した。が、同年長女を、翌年妻を失い、彼自身
も結核に冒され、宗教に救いを見いだそうとキリスト教に入信していた。
 十三年ころから中央大学経済学部の夜間部に通い、昭和五年には時習学館で使った
テキスト等を集めて学習参考書『推理式指導算術』を著し、百万部を売り捌いたとい
う。
 同年、創価教育学会の発足後、戸田は時習学館を弟子に讓つて新たに設立した日本
正学館を根城に、大道書房、奥川書房、秀英舎等の小出版社や平和食品等に投資し、
また手形割引会社の日本商事の設立、千葉県の醤油問屋,平野商店の買収、証拠金を
納めてれ兜町証券界への進出など、最盛期には十七の会社を支配し、資産金は六百万
円、月収は一万円を超え、ことに大道書房からは同郷の子母沢寛の書き下ろしを慰問
袋用に刊行して莫大な利益をあげ、創価教育学会の財政面を支えたという(日隅『戸
田城聖』)。
 だが、前述したように創価教育学会への弾圧と彼自身の下獄のため、二十年出所し
ても彼の事業は解体し、逆に二百数十万円の借財を抱えていた。戸田は終戦を待たず
に早速、事業再建に着手し、同年八月には中学生相手に数学、物象を六ヵ月分前金二
十五円で通信教授する「日本正学館」を設立し、九月末には英語の通信講座にも手を
広げ、池田入信時には出版業に転進していた。
池田がこうした海千山千の戸田に学んだ小平を論破するには、東洋商業卒という学
歴も、協友会での読書も、なに一つ助けにならないほどに貧弱すぎたが、それ以上に
彼は、小平の地についた確信者の気魄に圧倒されたのであろう。
確信の困難な時代に確信する者は、その抱く確信がどのようなものであれ、確信す
るというただ一事で、人に威迫力を発揮できる。
戸田や創価学会幹部たちに仕込まれる前の池田の確信の無さや曖昧さは、ことによ
ると、現実をとりこぼすまいとする誠実さや、判断を手控える謙譲の表れであったか
もしれない。が、それは世俗的な成功とは縁遠く、確信なしには池田の会長という地
位もなかったであろう。懐疑論者はつねに割に合うことがないのだ。
確信の対象は、鰯の頭も信心からといわれるように教義の優劣を問わず、宗教であ
る必要もない。もちろん確信の内容は生活を規定するが、要は生活の全面にわたるほ
どに広く、生活規範として働くほどに深く信ずれば、少なくとも人を圧倒できよう。
 池田を呑んだ小平や戸田の確信は、のちに池田の獲得した確信でもあつた。

◆入信
《そのときの話というのはこうなんです。『これから先のこと、二十年先のことがわ
かるか。これから年とって、その先(?)なんのため生きたかを考えることになる
が、それならば今のうちに考えたらいいではないか。自分の宿命は自分でも知らない
ではないか。誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。宿命は
解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。この
四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。わからなければ真面目に考えろ。信
仰をしろというのです。
 私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。それでお題目を唱えろというこ
とでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていま
した。それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分間ほどいりませんとがん
ばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました》
 池田の授戒(入信の儀式)はこの折伏から十日後の八月二十四日、中野の観喜寮
(のちの、昭倫寺)で行われた。これによれば本部で即刻入信したとも取れるが、文章
の省略であることは次の証言に明らかである。
「堀米曰淳(日蓮正宗第六十五世法主)師からよく聞かされたものだが、池田の御授戒
は日淳師が住職をしていた中野の観喜寮でだったんですね。池田は小平に連れられて
来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊を受けるのはどうしても嫌だという。日淳
師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうで
す」(当時、宗門の機関誌『大日蓮』の編集を手伝ってい、のちに、創価学会我孫子支部参
与の瀬尾正吉談)
「はずかしくて」は、十九歳の新しがり屋の青年の感情として、十分うなずける。
 当時、創価学会の折伏法は、戦前の価値論から、生活体験を重視する方向に移って
いた。
 牧口の「価値論」とは人生の目的を幸福の追求にありとし、幸福の追求とは価値の
創造獲得であるとするものである。その価値は、新カント学派の真・善・美の三価値
から真を除き、利を加えて、美・利・善の序列で三段階に分けられる。美は人間の部
分的な価値の対象、つまり感覚等にかかわるから個人の利より低く、善は公利だか
ら、単なる利より高い。
 また美・利・善に対して醜・害・悪の三反価値があり、それはそれぞれ大・中・小
の三等級に分けられる。頂点は大善であり、そこで日蓮教学と結びつき、罰論が導入
されて、大善を知りながら行わないのは大悪とされる。
 牧口の「価値論」は現在、学界からまったく無視され、ことにその日蓮正宗教学と
の結びつきは恣意的とされている。
 戸田は「価値論」を「生命論」の論拠としてないがしろにせず、『折伏教典』に一
章を設け、二十九年には戸田補訂で再刊もしているが、その会員への普及度は低く、
また折伏や講義の実践にもさして用いられなかった。価値論から入るより、まず開口
一番、「あなたは幸福か?」とぶつけ、「我々には完全無欠な大生命哲学がある。これ
によって宿命を転換し」と水をむけ、「現証」で説得する方式が多く取られた。「価値
論」の非論理性を嫌ったのではなく、なにより創価学会の大衆化には理屈より実体
験、実利という観点からであった。
 それは敗戦後という時代に、積極的に弱肉強食の思想を肯定し、とまどいながら
も、すすまざるを得ない世の趨勢に投じたものであった。
「牧口先生が教えられたことは主として価値論であった。……それに対して、戸田先
生が教えられたことは、『しょせん、世の中で、たよれるものは、自分以外にない』
という、敗戦後の混乱のなかで、だれでもが感じている真理であった。……戸田先生
は、御本尊様は功徳聚である。御本尊を信じ、自行化他の題目に励むことによって、
病人は健康体に、貧乏人は金持ちに、バカは、利口になると教えられたのである。
……頼るものは自分の力以外にないことは、だれしも認めざるを得ない。きびしい現
実であった。自己の生命力を豊かにし、福運を増し、生活を裕福にすると説く仏法が
受け入れられたことは理の当然であり、深い深い仏智によると拝さねばならない」
(桕原ヤス「再建期の教学」、『大白蓮華』昭和三十九年一月号)
 池田に対しても同様な方策が取られたと思われる。依然として貧・病・争に悩む池
田が顔をあげて自身の将来を見れば、絶望以外になく、彼は小平のいう「宿命」に無
関心ではいられなかっただろう。先行き不安というより、お先真っ暗な池田に、そし
て、世に乗り出す者として自分の運命に鋭敏たらざるを得ない池田に、小平の話はい
かに論証不可能なものであれ、問題のあらわな提起として一定の衝迫力を持った。
 しかし、その「宿命論」は、一個の独立人格としての存在理由は何か、といったよ
うな突きつめた問いに接触はしても、その問い自体ではなかった。なぜなら、そのよ
うな問いに本気で立ち向かうならば、それまで安全に見えていた大地に突然割れ目が
でき、そこから深淵をのぞきこむような不安や不気味さに襲われるからだ(神谷美恵
子『生きがいについて』)。
 池田はそうした知の危機を通過しなかった。彼の弱さが、存在理由の追求の最中
に、安易に手を締めさせたのである。存在意義の根拠は、つねに自分の内にはなく、
他者の中にのみ見出し得るものだが、池田はこのインタビューの最終部で述べるよう
に、彼自身の「ずっと順調で申し分のない幸」の享受以上のものを望むことがなかっ
た。彼の病身も彼を手一杯それにかかずらわせて、彼の精神の病いを防いでいた。池
田が精神の危機を通過しなかったことこそ、宗教者に見られる精神の高貴さや気品に
欠けさせるものであつた。
───────(~63頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて
  非活・休活・フラ活の学会員から、〝カキコ〟が急増している。
 コメントの一部(抜粋)を紹介
      ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―

 センセイは、頭から日蓮さんの教えなど信じていません。
 信じてないから、ここまで罰当たりのようなことをしたという意味では、矛盾はないと思いますね。
 私が池田氏がはかりしれないと思うのは、信じてないものを誰よりも信じてるふりをし、本気で信仰している者の教祖となって扇動したことです。
 金儲けのためにここまでできるのは、ふつうの神経ではありません。
 お金をもらう代わりに、それに見合う絶対的な確信やコミュニティを提供したんだから何が悪い、という理屈なんでしょうか。
 私は、創価の教えた教学などインチキも甚だしかった、日蓮さんは異端で特異なお坊さんだっ たと知った時点で、それでビジネスをした池田氏を心底恐ろしいと思いました。
 金の亡者であるビジネスマンはたくさんいますけど、自分の扱ってる商品には絶対の自信がある、自分が本気で惚れ込んでいるという人が殆どなんじゃないでしょうか。
 インチキと知ってインチキ商売をする。
 しかもその商品は品物ではなく宗教。世界中を巻き込んでまで。
 正気じゃないですよね。

◆―コミュニティを提供―そうなんですねぇ…池田教からの覚醒で、大きな悩みですね……
 マルクスでした?…〝宗教はアヘン〟…急激な離脱は〝リバウンド〟きついですね。
 昔ほどでないですヨ?…転勤・転居は大きなチャンスですな…それでも追いかけ?
 パートやアルバイト、スポーツジムに習い事等々……別のコミュニティ…に逃げる。
 
 私のカミさん(74歳)、最近〝グループ長〟になって元気イッパイ…毎日池田マンセーの
〝コチコチ〟…に、私、しんどくなり逃げて今一人暮らし。

 〝やさしくなければ人でない、…が、人は強くなければ生きられない!!〟
 〝……のフリをして〟平和を共有せよ。……欧米の箴言……

 カミさん?…死ぬまで覚醒しないで欲しいですよ…
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池田大作「権力者」の構造-4

2014-05-23 09:28:05 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9) <=4>
──────(31頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
◆病・貧・争の体験
 十五年、池田は尋常小学校を卒えたが、学資も乏しくて中学には進まず、羽田高等
小学校(翌十六年萩中国民学校に改称)に入った。このころから彼の労働に新聞配達が
加わり、海苔の時期には、その労働は止瑕断眠を地でいき、二宮金次郎をもしのぐも
のがあった。すなわち、午前二、三時に起床し、四時まで海苔張り、それから朝刊配
達、登校。学校から戻ると乾いた海苔をはがし、夕刊配達。夜は海苔についているゴ
ミを取った(央、前掲書)。
 この新聞配達は自発的に行われ、配達料月六円は、彼の学費にあてられたほか、父
母への贈り物に費やされたという。
 池田は後年、創価大学に留学した中国人学生との懇談の席で、当時をこう語ってい
る。
「真冬、寒いとき舟に乗って(海苔を)取りにいく。毎朝海に出る。早いときで朝二時、
遅いときで朝四時。(略)
 私は貧農の出、ノリヤは貧農です。寒いときにやる。夜中にやって、安いんです
よ。おフク口がノリしよって問屋にいく。ところがノリ屋の問屋は安くたたくんで
す。それがまた悲しい。高くかってくれていいものを。
 一じょう!—これは十枚——ふつう十円。一番いいのりでですから。ところがある
ときは十円のを五円にされちゃう。だいたい十二月の末から一月の二か月半(?)で
収穫は終り。それで十一人の家族が一年間暮らす。五円にされると大変なんです」
(昭和五十年九月十三日、内部文書)
聞き手が中国人であることを意識した若干の誇張もあろうが、池田家の生業の実相
はおおよそ伝えられているとみられる。彼は家業の手伝いで寝られず、学校にもろく
ろく行けなかったとも語っている。
「学校時代の池田君はそれほど目立たなかったよ、良いほうでも悪いほうでもな。
……はっきりいって、とくに優秀だったとか、悪かったなんてことはなかったな。野
球とか相撲をやった、なんて印象もないんだよ」(国民学校の同級生談、平林猛『巣立
ちの日々』)
 成績は振るわず、運動は駄目、腕白とはなり得ず、なに一つ取るところがなかった
池田は、早くもこのころには劣等感の何たるかを味得していただろうが、そのおもむ
くところは非行ではなく、母親への孝行であった。
 池田は「一枚の鏡」(『私はこう思う』所収)という感傷的な一文─母の鏡の割れ
た一片を、戦死した長兄と彼自身がそれぞれ持ち合う─の中で、
「一日に一度、この鏡を手にする時、私はいやでも母を想ったのである。心の底で自
然と眩いていた。——お母さん、お早よう、と。一曰に一度、きまって母を想う日常
は、いま考えれば、青少年不良化防止の最高手段であったようである。虚脱した社会
のなかで、私は、ついに自暴自棄になる機縁を、ことごとく避けることができた」 と
している。
 これは戦後のことを述べたものだが、非行に走るほどの悠長な時代ではなかった敗
戦前においても、苦労する母への思いが、彼の思念と行動を規制しただろうことは十
分察せられる。
 池田は父親・子之吉に対しては、「ただ寡黙で、何を考えているのかわからぬ父に
対し、断絶した子どもたちは、いたずらに父を批判した。─進学のことも考えてく
れない。進級しても洋服ひとつ考えてくれない。非難はすべて父に集中した」(池田
『わが父を語る』)など、批判的だった。また、「私の小学生のころ、両親がなにかで
喧嘩をした。私はその余波をかぶり、実にたまらない気持であった」(池田『家庭と
社会のつなぎ目』)とも、もらしている。
 彼の家は貧乏と不幸による、いさかいの材料にこと欠かず、池田は、病後で、はか
ばかしく働けず、その分を母親に押しかぶせている父親を批判的どころか、憎んでさ
えいたかもしれない。池田は母親っ子であり、母への愛は彼の心を満たし、彼の資質
とあいまって、その言動を鋭さに欠けるものにし、劣等感はいまだ発動しないバネに
とどまつていた。
 昭和十七(一九四二)年、池田は国民学校を卒業して、先に兄が勤めていた新潟鉄
工所に就職し、ミーリング工を始めたが、その間も家業の手伝いをやめられなかっ
た。兄たちが丁年(二十歳、または一人前の男子)に達する度に軍隊に持っていかれる
という仕組みは、池田の労働をますます貴重なものにしていた。
 彼には、虚弱体質をおしての過労がたたったのか、このころから結核の症状が出は
じめ、鉄工所へ行くだけで疲れ、そのため職場を事務手伝いのほうにまわしてもらっ
たという。
「私も新潟鉄工にいっておったときに、戦争中です。諸君みたいに裕福な勉強もでき
なかった時代です。軍国主義の真最中ですから。私は肺病でした。今の体の半分しか
なかった。血啖をはきながら、行かなきやなんないが、ずいぶん休んだけども、会社
も。国賊みたいにいわれたもんだ、近所から」(昭和五十一年十一月六日、第二回創友
会総会で、内部文書)
 ふつう新興宗教に入信する動機は、一口に病・貧・争といわれるが、池田はそのす
ベてを体験したわけである。
同年六月、連合艦隊の主力を投入したミッドウエー海戦は瞬時に敗れて、日米戦力
のバランスは逆転し、以後、戦局は日ましに敗色を深めていった。東京では、すでに
昭和十六年から米は通帳による配給制となり、野菜は行列買いが始まり、肉、野菜、
魚は次々に配給制となったばかりか、その数量は減少していった。
「我々のころ航空兵に志願しましたね。周りが、そういう時代ですから。
 隣にちよっときれいなおばさんがいましてね。うちは兄弟四人とも戦争にとられま
した。その隣のおばさんは大作さんは日本男児でしょう、というんです。毎日会いま
すからね。私が戦争にいかないから、だらしない、だらしないというんです。たしか
メガネをかけていましたね。終戦まぎわでね、私は胸を悪くしていましたからね。
で、おやじの戦友が横浜市港北区にいましてね。(買い出しの)手伝いにいった。その
おばさんの。
 そのとき荷物をもっていたのです。すると大作さん、戦争負けるかもしれないか
ら、行かなくてよかった、百姓がこんなに威張っているんだから、早く負けた方がい
い、とそのおばさんはいうんです。
 買い出しもたまにいったんですが、何しろ体が悪いので奥の方まで行けない。だか
らいつも駅で買っちゃうのです。駅前だと奥地より三割高いんですね。港北区にいっ
たときも、チバの幕張にも二—三回いきました」(昭和五十年六月七日、吉田渉外部長
=宗門側=招待の夕食会で、内部文書)
 結核にむしばまれた体を養うに足りる食料はなく、医薬品は不足し、池田の手当は
『健康相談』という雑誌を唯一のたよりとするばかりで、とどこおりがちであった。
 二十年には、いよいよ病状は進んだ。「終戦の年には六回目の肋膜をしていました
し、肛門性(コウモンネンバクピランとルビがふってある。肛門粘膜糜爛?)のもので、
耳や鼻などみんな悪く、血啖が出てたんです」(小口編、前掲書)
 結核性痔瘻のほか、中耳結核、鼻結核をも併発していたのだろうか、池田は満身創
痍だった。その年、茨城県鹿島(現・鹿嶋市)の結核療養所への入院を決めたが、そ
こも満員で、順番を待たねばならなかった。
「終戦の年、十七歳の私は、胸を冒され、軍需工場を休んで、家で静養していた。五
月ごろ、転地療養のため、荷支度をととのえていた矢先に、大空襲で家も荷物も焼か
れ、まったく前途は暗澹たるありさまであった」(池田『私はこうして若い日を過ごし
た』)——ここでは肛門が隠され、「胸」が前面におし出されている。『週刊文春』(昭
和四十五年五月十八日号)には、「あのねェ。動かなかったんでおケッがちっちゃくな
っちやいました。ホラ、このモモがね。こんなに小さくなりましたね。大きな声では
いえないが、痔が悪いんで、ケッが小さくなったもんで、よけいイタイ」とある——。
 糀谷の池田家は、十九年、強制疎開でうち壊され、当時は大森・馬込に転居してい
たが、糀谷周辺は四月十五日の空襲で一面の焼野原と化した。
 その日、夜十一時すぎB29二百機は京浜地区に来襲し、横浜、鶴見、川崎地区とと
もに、大森、蒲田の城南地帯に波状攻撃を加えた。この二日前十三日の爆撃をも合わ
せて、都内では約二十二万戸が全焼、三千三百人の死者を出したという(早乙女勝元
『東京大空襲』)。
移転先の馬込の家は四月十五日には難を逃れたが、続く五月二十四日の空襲には、
ひとたまりもなく焼尽した。同日未明、都内の焼け残り地区上空に機体を浮かべたB
29二百五十機は、二時間にわたって無差別攻撃を行い、大森、品川方面をも大火災に
包んでいる。
池田は療養どころの騒ぎではなく、身一つで火焰を逃げるのに精一杯だったが、家
族の生命に別状はなく、一 家は人に貸してあった蒲田区森ヶ崎の家に同居した。

◆池田大作の戦争観
 八月、敗戦を迎え、出征した兄四人が誰一人帰っていないその暮れ、長兄・喜一の
戦死が、その戦友から伝えられた。喜一は近衛師団から他部隊に転属し、曹長にまで
進級したしっかり者だったという。死亡は二十九歳の誕生日を迎えた翌日のことであ
った。同年二月十一日時刻不明ビルマ、ミツカン県ミンギアン郡カインド村で戦
死」と戸籍簿にはある。おそらくインバール作戦の敗退後、雨季をなんとか生き抜け
たものの、敗走のさなかに餓死、あるいは病死したのであろう。
 池田は戦争により焼け出され、困苦をなめ、長兄を失い、戦争には絶対反対だとい
う。
「四人の兄は戦争に連れていかれ、長男は戦死した。その時の悲しい母親の姿はいま
だに忘れない。ゆえに、私は絶対にこの道で平和を獲得したいのです」(ジョン・ガン
サーとの対談、『中央公論』昭和四十一年十二月号)
きわめてもっともだが、被災をもって彼の「絶対的な平和主義」(しまね・きよし
「池田大作のある側面」『春秋』昭和四十六年九月号)を結論するのは、戦死した弟を思
い出して、公衆の面前で酔い泣きぬれた男が防衛庁長官だったという事実もあり、さ
して説得性を持っていない。
 池田はさんざん苦労をなめさせられた戦争からなに一つ確かな戦争観をかたちづく
ってはいなかった。彼の著『人間革命』にも蒙昧な戦争観の一端がうかがえる。
「軍部政府は、蒙古襲来の六百余年前、神風が天照大神によって吹いたという歴史的
迷信にすがりついていた。しかも、あの神風は、御本仏日蓮聖人がひかえて居られた
ればこそ、という事実を知ろうともしなかったのである。ただ、神道の勝手に作った
理念の虜となって全国民に無理矢理天照大神を拝ませ、その奇蹟を期待していた。
……天照大神とは、そもそも、何であるか。……大聖人の御聖訓によれば、天照大神
とは法華経守護の神にすぎない。法華経に祈ってこそ、天照大神の功力が現われる」
「総罰だ。日本一国の総罰だ」(戸田城聖の言葉として)
「ある人が慨嘆して言った。——人生も、一国も、敗北ほど惨めなことはない——
と。そして、負ける戦争など、絶対にすべきではない——と」(いずれも『人間革
命』一〕
宗教者がいかに非科学的なものであれ、その信仰を保つのは当然だが、少なくとも
敗戦を総罰とする非人間性、負ける戦争ではなく、勝てる戦争ならすべきだとなる、
 侵略主義や事大主義への容易な転落を危ぶまれる思想的な弱さ、法華経に祈れば勝て
たとうけあう厚顔な夜郎自大等は、宗教者の姿勢としても、許されるものではあるま
い。まして『人間革命』がフィクションの強みを細心に生かして創価学会の粉飾を徹
底的にはかったものであってみれば、そこになお、このようなボロがのぞかれること
は、その根深さをうかがわせて十分であろう。

◆凡庸十確信——池田のエネルギー
 終戦は池田になに一つ明確な展望を与えなかった。
 彼は新橋の昭文堂印刷で文選工をつとめるかたわら、昭和二十(一九四五)年九
月、当時、あまり評判の芳しくなかった旧制東洋商業学校(のちの、東洋商業高校)
夜間部の二年に編入学した。それは大志あってのことではなく、いずれは家を出る者
として、せめて算盤、簿記でも身につけておこうといった小市民的な処世の知恵にす
ぎなかった。
 彼は新聞記者を志望し、また吉川英治や長谷川伸を夢見たこともあり、それは確か
にビスマルクが軽蔑の念をもって述べたという訓練のいらない職業ではあったが、そ
れにしても、彼は中学を経ていず、その学歴はとり返しようもなく、挫かれていて実
現性に乏しく、そのころはなかばあきらめられていたと思われる。
 室伏はこの東洋商業について次のように記している。
「この学校は平々凡々で、秀才の行かない学校で、それも上の学校への通用門ではな
く、行きどまりのもので、ここが終点だから、大志をもっているものなら、そっぼを
向くし、まちがってはいっても、退屈で、いたたまれまいということである。しかし
またこの学校は、それだけに抜け穴もあった。成績優秀なものだと、出席しなくと
も、授業料なしでも抱え込んだとも聞いている」(『池田大作」)
 だが、池田は成績優秀による特待生ではなかった。彼に栴植は双葉より芳しを期待
するものはつねに裏切られる。彼の創価学会会長という地位は、幼時から「地獄耳」
「八つ耳」といわれるほどにさとく、十四歳で代用教員を務めた出口王仁三郎の天才
肌とは無縁なところでかちとられた。
「顔色の悪い虚弱な子でね。地下の売店でふかしイモを買ってよくかじってました。
金がなかったんだろうな。授業料の督促も何度か受けてるはずですよ」(同校校長・中
西信男談、『現代』前掲号)
 同じころ、池田は森ヶ崎にあった協友会という青年グループに加入し、その読書会
やレコード鑑賞会に参加したという。協友会は彼によれば、次のようなものであっ
た。アカデミズムへの池田の憧憬を痛いほどに感じさせる一文である。
「協友会は、附近に住む東大出の優れた人格者であつた経済学者の肝煎りでもあった
せいか、割合多くの人々とも接し、文化、芸術、政治、経済、哲学など、人文科学に
関する広汎な知識の吸収に忙しかったグループである。職業は様々である。学生、技
術者、工員、官庁の職員等等で、みな二十歳から三十歳ぐらいまでの二十名ほどの集
団であった。女性は一人もいなかった。
 ——ある夜、一人がダンテの『神曲』について、イタリア・ルネサンスの精神を研
究し、解説したかと思うと、次の会合には、別の一人が第一次大戦後のドイツのイン
フレの様相を、二、三の書籍から抜萃して、解説したりした。そして、現今の日本の
インフレーションの怖しさについて警鐘を鳴らした。ある時は、民主政治や共産主義
を論じたり、またある時は、天皇のあり方を——といった具合」(池田『人間革命』
二)
 戸田城聖に出会う前の池田は一種の放浪者に等しかったといわれるが、その放浪と
は、暗中模索しながらも確信を見出せなかったことを意味していよう。机と椅子を買
いこんでその前に坐っても、確固とした方針はたてられず、復員してきた四兄と同室
の六畳間で寝巻をしぼるほどの寝汗と血啖、芋とトウモロコシの食事に衰弱し、ただ
機械的に昼は新橋の昭文堂印刷、夜は東洋商業に通い、夜学から戻ってから、わずか
に一の温めたウドンに慰められるというのが、そのころの彼の生活であった。
 彼は目から鼻に抜けるヨゼフではなく、あわれな東北の神武(貧農の長男以外の男
子。生涯労働力として使われ、婚姻できなかった。深沢七郎の言葉)にすぎなかった。
その効果の上がらぬ気の毒な勤勉は、農漁民の性根と化した血統を出るものではなく、
家から離れて独り立ちするという五男坊の投機性はまだ眠っていた。
 彼は昭和二十二年の春、東洋商業の卒業とほぼ同時に昭文堂印刷をやめ、ぶらぶら
と半年たらず体を養った後、京浜蒲田駅裏の蒲田工業会に書記として勤めはじめた。
同工業会は二十一年秋、蒲田地区の九十社が作った中小企業の助成機関であり、池田
の仕事は加盟業者への社会保険の指導と、業界のブロック間の連絡だった(央、前掲
書)。
 彼は同会の酒の席ではきまって「学徒出陣の歌」を歌ったという。
池田は父祖伝来を単純再生産して庶民のままで終わる人間であった。実際、池田の
出生から青年期までには、彼の保持した権勢をうなずかせる何の萌芽も認められな
い。そこに一貫するものは悲惨とはいえ、決して世に珍しくない貧困と病弱、それに
抵抗する勤勉と上昇志向だけであった。高瀬広居は、池田を独自性において描きにく
い指導者としているが、池田の特性は凡庸にあるのだから、生い立ちに凡庸しか発見
できないのは当然とさえいえるのかもしれない。
「私の人生に、戸田城聖先生という恩師がなかったとしたら、今日の私は、無にひと
しい存在であったにちがいない」(池田『人生に負けてはいけない』)という池田の言
葉は、まったく正しい。
 彼は戸田に確信を注入されてはじめて強者への道を歩みはじめ、その時、彼の過去
の貧困や病弱、劣等感や勤勉等、挫かれた経歴と資質が意味を持ち、彼を立身出世に
駆り立てる原動力に変わった。彼の凡庸さは、確信という核を付与されて、時代と場
にかなった、一種の広さと平衡感覚に変質する。宗教だけが池田のばっとしない特性
を働かせる分野だった。
───────(~46頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて
  非活・休活・フラ活の学会員から、〝カキコ〟が急増している。
 コメントの一部(抜粋)を紹介
      ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―
……創価のインチキを一番知っているのは池田氏でしょう。なにしろ自分でつくったインチキ団体ですから疑う余地などありません。だから本人は勤行も唱題もしない。教学も勉強しない。創価学会員としては一番の劣等生です。それは勤行唱題をしても何の意味もないことを本人がよく知っているからです。ただ会員の手前、会員を騙すためにかたちだけやっている素振りを見せてきました。池田氏の本当の姿を知っているのは側近だけです。だから見るに見かねた側近がどんどん辞めています。ただお金に目の眩んだ側近だけはいまだに池田氏にいい顔をしてしがみついている。池田氏はそのこともよくわかっていた。それもこれもみんな会員にお金を出させるために考えた詐欺のテクニックです。……
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池田大作「権力者」の構造-3

2014-05-20 02:43:33 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9)
──────(20頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
◆池田大作の出生
 池田大作は昭和(一九二八)年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のし
がない海苔製造業者・池田子之吉、妻、一の五男として生まれた。
 その年、子之吉は前厄の数え四十一歳であり、池田が親の厄を一生、業に背負わぬ
よう彼を隣の蒲田町に捨てた。隣人がすぐ拾い届ける手苦だったが、手違いから事情
を知らぬ別人が交番に届け出たため、子之吉は巡査にさんざん油をしぼられねばなら
なかった(池田の三兄・小宮開造談、『現代』昭和四十五年二月号)。
 子之吉は婚姻届け出の十九日後には長男をもうけるという、ごくこだわらぬ人柄で
あり、その庶民性はこうした縁起かつぎの面だけでなく、池田の命名にも十分うかが
われる。彼はただ池田が丈夫に育てばとの思いから、いたって無造作に太作と名づけ
た(タザクでなく、タイサクと読むとの説もある。池田は昭和二十八年十一月、自ら現
在の大作に改名した)。
 池田の家は子之吉の祖父の代から大森で海苔製造に従事し、かなり繁昌した一時期
もあった。また祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えも残
っているらしい(央忠邦『池田大作論』)。
 が、子之吉は池田五右衛門の三男であって家督相続者ではなく、ましてその五男で
ある池田が、このように漠然とした、とるに足りない家系を誇りにし、家名再興を誓
うとは考えようもなかった。彼が少年期に見せる勤勉を支えたものは、無自覚的な親
孝行の域を出るものではない。また民法旧規定上の、子之吉の分家は彼が五十歳のと
き、昭和十三年三月であり、その前に実質的には本家から独立していたとしても、彼
が家業や日常生活で本家を頼る一方、手伝いや下請けという形で本家を助け、労苦を
強いられたことは想像に難くない。
 池田の貧窮は生まれおちて以来の、いわば骨がらみのものであり、それは密かな優
越感を許される成り下がりでさえなかつた。
子之吉は、「近所、親類から強情さまといわれるほど、頑固一徹」(池田『母の慈
愛』)で、かりに事業の才を発揮し得る分野を持っていたとしても(央の前掲書には、
池田家は海苔業の傍ら、「北海道で三百数十町歩といわれる広大な開拓事業をやって
いた」とある)、その才腕は、災難を巧妙にかわすほどには豊かでなかった。大正十二
年の関東大震災が大森沖の地形を変え、彼には多くの海苔を恵まなくなった。そのため
開拓の資金にも不足し、ついには失敗の憂き目を見たという。
 不入斗は大森海岸に面し、その近辺は隣接する糀谷、羽田とならんで海苔養殖の適
地だったが、震災後、徐々に住宅地として開け、当時は、そこに長らく住んだことの
ある評論家の室伏高信によれば、「低地で、雨が降るとぬかるみ、風が吹くと塵が立
ち、夏になると蚊の巣になる」といった、居住に好適な土地柄とはいいかねる街に変
わりつつあった。
子之吉は池田が二歳のころ、不入斗から三キロほど離れた羽田町大字糀谷に移転
し、海苔と畑の兼業を始めた。海苔養殖は九月下旬の筏立てに始まり、十一、十二月
から筏に付着、生長した海苔を摘みとり、二月末ころまでに操業を終わる。その余り
を遊んで暮らせるほどのうまみがあるわけでなく、表作と裏作の関係で、夏期は農業
や漁業に出精することになろう。
 後年、池田も、創価学会=公明党幹部も、ことあるごとに池田が生っ粋の江戸っ子
であることを称し、「ええ、もう。大森海岸のノリ取りのセガレで、完全な江戸っ子
です。バ力で、気前がよくって……」(朝日新聞社『新・人国記』九でのインタビュー)、
「そんな…(文化活動で意見がくいちがうとき)…とき会長は江戸っ子ですからね、
『キミたちで結論だしてやってくれんか』なんていいますよ」(公明党書記長・矢野絢
也談、『週刊現代』昭和四十五年四月二日号)など、皐月の鯉の吹き流し、口先ばかり
ではらわたはなし、といったふうの、腹黒さの否定に江戸っ子を常用していたが、池田
の江戸つ子とは、彼もこの糀谷時代について、「たまに、田畑の向こうに巡査なんかが
家を建てて、住みついたりしましたが、外国人みたいな気持ちで眺めたものでした」と
回想したように、およそ花のお江戸とは縁遠い、東京府下の出生のことであった。
糀谷は昭和七年、蒲田区の一部として東京市に編入されたが、その牧歌的ともいえ
る田園風景が貧しさに味つけされて、「小説家というより、わたしは詩人」(「週刊文
春』昭和四十五年五月十八日号)という池田の生半可な感傷を形づくった一方、まがり
なりにも東京という一事は、地方出身者の多い再発足時の創価学会信者間に、池田を
して幅をきかせ、みじめな誇りとなって、彼を支えたかもしれない。
 粧谷では隣り合って子之吉の弟宅があり、そこは機械化による上昇期だったとい
う。それに較べ、移転後の池田家の生業ははかばかしくなく、両家の対比が幼い池田
にいっそうの困窮感を強いたことだろう。
 彼の兄の一人はすでに養子に行かされ、池田が五歳のころ、養母が訪ねてきたこと
があった。金プチの眼鏡をかけ、家の付近では見られない立派な着物を着て、みやげ
に見たこともないようなコーヒーを持ってきた。「違った階級の人だと思った」と、
のちに池田は語っている(央、前掲書)。

◆昭和初年という時代の影
 池田家の経済的な窮迫には子之吉の不運と個人的な才腕の拙さに加えて、時代が暗
い影を落としていた。うちつづく不況の中で、資本の集中と中小企業の切り捨てとい
う独占段階への原則を貫く当時の経済動向は、本家をも含めて一小企業体にすぎない
池田家にはあまりに苛酷だった。
 池田の出生の前年、昭和二(一九二七)年には、震災手形の処理問題に端を発する
金融恐慌が始まつている。中小企業はモラトリアムで休業や操業短縮を余儀なくされ
た挙げ句、恐慌後には銀行貸出のひきしめで倒産に至るまでの被害をこうむった。そ
れに踵を接して田中義ー内閣の放漫な産業政策や公債増発による物価高、山東出兵に
たちまち日本にも波及した世界恐慌が賃下げ、大量首切り、中小企業の倒産、失業者
の激増等をよんで、不況の総仕上げをした。
 五年、繭価は下落して前年の三分の一になり、六年、米価は暴落して生産費を割つ
た。工業製品と農産物との価格差は広がり、農家一戸あたりの負債額は七、八百円と
推定されるに至った(遠山茂樹他『昭和史』)。
しかし、池田家の困窮は、庶民の一般的な水準にとどまるものではなく、それも年
とともに加圧されていく不運なものであった。
池田は六番目の子で、池田家は彼が末子としても、すでに大世帯だったが、池田出
生後も年ごとに子は加わり、文字通り貧乏人の子沢山という状況を現出していった。
 すなわち五年に六男、六年に七男、九年に八男、十三年に二女が、それぞれ相ついで
出生している。多子が一般だった時代とはいえ、十子(「八人の子どもを育て、他から
二人の子を引きとつて育ててきた」と、池田『母の慈愛』にはあるが、実子を養子に
やった上で、別に養子をとつたことには、単なる善意ではない、何らかの事情が介在
していたと思われる)を養うのは並大抵のことでなかったにちがいない。
加えて池田が羽田第二尋常小学校の二年生のとき、子之吉はリュウマチで倒れ、以
後五年間起き上がれなくなった。そのため翌年、池田家はそれまでの家屋敷を売り、
再度、目と鼻の先の同じ糀谷の小住宅に移転しなければならなかった。小学校三年の
池田も引っ越し車を押したという(二反長半『若き池田大作』)。
 弱り目に祟り目の不幸で、池田家は悲惨といった境涯にまで転落したが、彼の家は
男子が多く、その時、長兄の喜一は十九歳、次兄は十八歳、三兄は十四歳、四兄は十
歳であり、少なくとも長兄と次兄は、「昔でいえば一人前」という年齢に達しており、
母一の肩に降りかかった池田家の労務を十分でないながらも助けることができた。ま
た池田自身も、このころから何くれとなく家業の手助けを始めたという。
 海苔づくりは寒中に水を使うため、しもやけ、あかぎれとは縁がきれないが、力仕
事とはいえず、幼若の者にも手伝える余地はあった。作業は、海中の筏に付着した海
苔を摘みとり、井戸水でよく洗って砂を流し、なおも海苔にまざっているゴミを箸で
除く。これは面倒な根つめ仕事である。洗い上がったものを包丁で細かく刻み、適当
な濃さの真水にとかし、それを葦の茎でできた海苔簾に流し張り、簾ごと日の出とと
もに天日にさらす。晴天なら午後早く干し上がり、これででき上がりだが、干し上が
ったころには風で飛ぶのに気をつけねばならないという。
が、父を除いた働く一家の幸せも一年とは続かなかった。二・二六事件の十一年、
長兄喜一は近衛師団に入り、以後、日中戦争開始、国家総動員法公布施行、第二次世
界大戦の勃発、日独伊三国同盟の締結、太平洋戦争への突入──と、深まりゆく戦争
とともに、池田の四人の兄は櫛の歯を挽くように次々に応召していった。
「子供がみんないくらか成長して、楽になりかかったときに出征ですからね。息子四
人が次々と出征していくときの父母の淋しそうな顔を覚えています。おもてでは『軍
国の母』といわれてましたがね、かげでは非常に淋しそうでした。深刻な生活問題も
あるだろうし、せっかくここまで育ててきた息子を戦争にとられるという父母の悲し
み…そのときの印象は生涯忘れられない」(松本清張との対談、「文藝春秋」昭和四
十三年二月号)
 若い働き手を奪われ、一はいたいけな六人の子供と病夫を身一つで養わねばなら
ず、事実上の総領となる池田の上にも、兄たちの出征の度に貧しさと家業の重みが加
わっていった。
 そうした池田家の状況は、池田に早くから大人になることを要求した。

◆貧窮と小心
戦時下の一般的な困窮に加えて病父を抱える家族の暗い、生存するだけというにふ
さわしい生活──、疎開もならずに糀谷に残されたものたちは、海苔の粥をすすって
貧乏の味をつくづく嚙みしめねばならなかった。
 貧苦がその出身者を成功に導くとは到底いえないが、少なくともそれは人の心の機
微を熟知させる沃土ではある。池田が人間洞察の能力、苦労人といわれる対人の態度
を、経済的逆境のうちに身につけたことは疑いを容れない。
 貧乏と、それにともなう労苦こそ、池田の人間性の基根を培い、上昇志向を育て、
のちに、「経済的には中間層以下の層が多い、と推定できる。つまり、保守、革新各
政党には救い上げられない、いわゆる社会の下積み層」(『朝日新聞』昭和三十七年
七月四日)とされる創価学会員に対し、その共鳴をかち得、人心を掌握すること等に、
力を貸したものであつた。
 池田は昭和九(一九三四)年、羽田第二尋常小学校に入学していたが、学業成績は、
「四、五十人の七、八番ぐらいでした。級長になったことはなかったと思います。
とにかくあまり目立つ人じゃなかった」(小学校の同級生・石井脩達談、『現代』前掲号)
とあるように、国語と作文を除いて振るわず、池田も「勉強が大きらいだった」「な
にしろ体も気も弱くて、いつも泣かされてばかり」(五島勉『現代の英雄』)と、当時
を回想している。
 池田がみじめな少年時代を過ごしたことは、戦時下という一般的な状況ばかりでな
く、彼の個人的な事情──貧乏、成績の不振、「小学校では栄養不良で三、四回も死
にそこない、がんらい身体が非常に弱かったんです」(小口偉一編『宗教と信仰の心理
学」新心理学講座・第四)、「体育が苦手」といった虚弱な体──のほか、その太作と
いう名にも由来したことと思われる。
 前掲の石井は、「名前が珍しかったせいか〝大作、大作〟と、みんなから親しまれ
ていたもんです。……彼が創価学会の会長になったと知って、びっくり。へえ、あの
〝大作〟がそんなに偉くなつたのかと、はじめはどうにも信じられない気持ちでした」
と続けている。
 引用文中、「大作」は当然改名前の太作が正しく、「親しまれていた」も、馬鹿にさ
れていた程度に読みかえても不当ではあるまい(なぜなら同記事の作成は、言論抑圧問
題の直前であり、当時は創価学会の、取材協力と引きかえのゲラ見が慣習化していたか
らである)。池田の小学校時代にも、「太作」はなにか滑稽な、人の揶揄をよばずには
おかないような「珍しい」名であったのだろう。
 また池田は「勉強が大きらいだった」と語っているが、この表現は微妙である。も
ちろん、小、中学校時分、いわゆる欲がないといわれる、勉学に意欲を示さない児
童、生徒は往々見られるし、当時の池田の周囲も、たしかに知的刺激を与えるとはい
いがたいものがあった。
「(池田の母は)子どもの教育には、何の野心があるわけでもない。私の知るかぎりで
は、将来の出世を夢みさせ、学位、学歴を望ましめるようなことは一言もきいたこと
はなかった」(池田『母の慈愛」)
 たぶん池田の平凡な成績は欲のなさと、やむを得ない家業の手伝いに真因があつた
のだろう。だが、少なくとも「勉強が大きらいだった」から、池田の成績が悪かった
のではない。少し時代はずれるが、「授業では前の席に座って熱心だったけど、成績
は中の上というところかな。きわめて目立たない生徒でしたよ」(東洋商業校校長・
中西信男談、『現代』昭和四十五年五月号)という、彼の高校時代の証言があり、それに
てらせば、池田の熱心さに対する凡庸な成績というおよその程度が察せられる。
 池田の熱心さ、勤勉、向上心といった一連の農耕民的特性は、勉学面に限らず、全
生活面にわたって見られる彼の資質の顕著な一部であり、それはきょうに至るまで決
して逸脱されることがなかった。彼の生涯は、はたからどのように貶されようと、小
心翼々とした真摯の集積でありつづけよう。
 少年時から彼は稼ぐに追いつく貧乏なしという哲学の実践者であることを強いら
れ、貧乏への彼の対応は、ひたすら労働と親孝行だけであった。彼は遊びざかりを労
働で過ごした。
───────(~31頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)
◆日蓮宗は〝日蓮の妄想!!・妄説!!・妄言!!〟
  ―宗教を語る―  ―源濁れば流れ清からず―
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