創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田の真実-82

2015-06-30 09:46:59 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩・日新報道<¥1429-購入>
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
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◆あとがき 4-1
 池田大作および創価学会=公明党の体質は、ますます危険な方向をたどつています。今から二十数年前の昭和五十四年のことが、今さらのように蘇ってきます。
 創価学会は、七年ごとに大きな歴史を刻んできたといわれます。それを、池田大作は「七つの鐘」と称し、自らの辞任を「七つの鐘の総仕上げ」となぞらえたのです。これについて、私は大きな疑問を持ちます。
 創価学会の発足は昭和五年とされていますが、それは牧ロ初代会長が発刊した「創価教育学体系』第一巻の奥付に昭和五年十一月十八日とあることに基づいています。つまり、その時はまだ、信徒団体としての創価教育学会は発足していなかったのです。実際、信徒団体として発足したのは、昭和十二年の麻布の菊水亭で行なわれた発会式からであるといわれています。
 それはともかくとして、仮に創価学会の発足を昭和五年とすると、昭和五十四年は「七つの鐘」の終了の年にあたります。そしてその年までには、創価学会員にとって、素晴しい理想社会が実現するはずでした。しかし、現実がそうであるか否かは説明するまでもありません。創価学会自体の内部矛盾、社会問題、宗門との問題、どれ一つとってみても、理想社会、目的達成とはほど遠いことは、学会員一人ひとりが一番よくわかっているはずです。
 それでも、池田が会長を辞任するにあたっては、現実離れした「七つの鐘」の総仕上げを謳い、それが鳴り終わるという文言でごまかさなけれぱなりませんでした。七つの鐘の話は、会長を辞任する池田への花道作りだったのです。宗門とのトラブルの責任をとって辞めた、というより「辞めなければ収拾がつかない事態になって辞めた」などという真相は、一切隠さなければならなかったのです。
 昭和五十四年五月三日に第四十回本部総会が行なわれ、「池田会長勇退」が演出されました。その前日、池田会長勇退の花道づくりの準備を進めてきた私たちには大きな心配事がありました。それは、日達上人の御臨席が得られるかどうかでした。直前まで、日達上人が総会に出席されないとの話を聞いていたからです。しかし、日達上人は「学会が本気になって謗法を正すなら、池田会長も功労があった人でもあるし……」と仰せられ、花道を飾ってあげようとの大慈悲で御臨席されたのです。総会の当日、私は池田と会話をしました。その時、ある新聞の世論調査で「私の尊敬する人物」について、生きている人では天皇に次いで二番目に池田が入っているのを第一庶務の者が見つけ、池田に報告していたことが話題になりました。池田のいう趣旨はこうでした。「占領軍だって、天皇だけは戦犯扱いにはしなかった。ちゃんととっておいた。宗門も私をとっておいた方がよいのだ」。
 また、聖教新聞の紙面づくりについても、主幹であった私に「これからは、聖教新聞の発想を変えた方がいいよ。北條会長や執行部を大きく出すのではなく、より大勢の人を一面に出してあげることだ」と指示しました。そのとき私は、創価学会に新しい時代が来るものとの気持ちで気づきませんでしたが、今にして思えば、北條会長を池田と同等に扱ってはならないという意味でした。私は、その指示通りに、北條会長を小さな扱いにしました。また、北條会長自身も遠慮して、それまでの池田のような目立つ扱いを拒否されました。
 日達上人の御臨席を賜わることができ、池田の会長勇退は狙い通り、花道という形をとることができました。ところが、池田会長勇退とはいっても、その絶対性、無謬性は少しも正されたわけでもなく、一種、駆引きの辞任でした。そのため、本音はすぐに出てしまいました。
 私は後で、池田から直接、この日の総会は失敗だったと言っていたことを聞きました。その点について翌昭和五十五年二月二十六日に池田に直接聞き出したところ、池田は、「北條会長の話の中に「第三代会長の跡を継承して』という一項がなかったからだ」と答えました。この時、私は、池田は一つも変わっていないと強く感じました。自分が犯してきた過ちから会長を辞任したはずなのに、依然、自分は少しも変わっていませんでした。
 これは、日達上人に対する裏切りというべきです。池田は「もう、これからは組織上のことはタッチしません。世に言う院政ということもしません」(趣旨)と日達上人に確約したのです。それは、池田が様々な問題を起こした元凶だったからです。日達上人は、そのことを知り、そのうえで、池田の総講頭辞任、会長辞任をもって、一応の決着をつけられたのです。それを北條新会長が「第三代会長の跡を継承して」と言わなかったから失敗だった、などと発言すること自体、自らの謗法をいささかも反省していない証拠です。
----------------改頁------348--つづく──

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池田の真実-81

2015-06-29 06:18:59 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩・日新報道<¥1429-購入>
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
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◆内部告発
 その後、中西治雄とたびたび会いましたが、氏は「あの人(池田)に諫言してもムダである」と素直に語ってくれました。私は意を決して、五月中旬から、内部告発にふみきる決断をしました。私に同調してくれたのは中西氏ばかりでありません。かっては、上田雅一も「原島が池田と対決するときは、私も一緒だ」と言っていました。
 桐村泰次も、昭和五十四年八月頃、私が本心を打ち明けたとき、「僕も共に立ち上がる」と語っていました。野崎至亮(当時、講義部長)も、池田に対する見解は私と同じであり、やがて、池田を告発するための手記の草案について、共に作成にあたってくれました。それ以外にも、私に「やれ、やれ」と言ってくれた人々は、少なからずいます。
 心ある人たちの本心は、みな私と同じ気持ちなのです。それが、池田によって踏み絵をさせられ、私に対する悪口を強引に書かせられたり、偽証させられたりしています。私も、本当はこういう形で造反はしたくなかったのです。内部で改革できれば、それが最も正しいことと考えていました。しかし、内部にあっての公然たる池田批判は、池田に弓をひく者として、背信の汚名を着せられます。従って、池田のおぼえめでたくあろうとする人はいても、その専横に対して、チェックし、正す人はいません。もしそうすれば、私と同じ運命となります。内部にいれば最高幹部として通用しても、外へ出ればきびしい社会の風の中で、一人で生きて行かなくてはならないのです。特に純粋培養で学会内の温床に育った人たちにとって、それは何よりも苦痛でした。彼らは、面従腹背を余儀なくされているのです。ことここにいたっても自?能力まったくなしで、創価学会の病巣はさらに拡大しつつあります。しかし、良心の呵責によって勇気を奮い起こし、立ち上がる人が内部から続いていく必要があります。人間は、いつまでも奴隸にはなりきれないはずです。そして何よりも創価学会を正すには、純粋な信仰心から出発しなければならないからです。
 山崎正友氏は、私が目覚める以前から、問題提起をしていました。池田の本仏化や絶対化のために生じた社会との摩擦や運営の不祥事について、山崎氏はきわめて批判的でした。また、日蓮正宗に対するやらずもがなの不祥事(“五十二年路線”)についても批判的であり、実際に北條らを諫めていました。そうしたことから、昭和五十一年頃から池田と微妙な対立を生じていました。賽の河原の石積みのように、いくら処理しても次から次へと出てくるトラブルの垂れ流しに、事件処理屋として嫌気がさしていたということも、昭和五十二年頃、私にこぼしていました。私は、山崎氏が心身共に疲れていることを知っていました。氏の企図したことは、池田の相対化(絶対化の排除)であり、会議と制度による運営でした。また、財政ならびに運営の公開でありました。それが結果的に池田を守ることになると考えていました。池田にしてみれば、そうした山崎氏の態度は自分のプライドを傷つける行為と受けとめたのです。山崎氏を総括して有無をいわさず奴隸にして使うか、さもなくば手を切りたいと思っていたに違いありません。しかし、その後も、事件は次から次へと起こって山崎氏を起用しなければならない時期が続きました。その度に、氏は池田に諫言してきました。
 山崎氏は、弁護士という立場もあって、「自分はいざという時は、外で一人でめしが食えるんだから平気だ」という腹の決め方をしていました。社会に出たらつぶしのきかない私たちとは違います。他の人は仕打ちを恐れて諫言しないなかで、一人、最後まで諫言居士だったのが山崎氏であったのです。ところが、様々な事件は、隈部事件の対処でもわかるように、一層、頽廃性と反社会性を帯びてきました。
 池田は、山崎氏をつなぎとめるために金の力を借りようとしました。そのことは必然的に、「山崎師団」といわれる陰の仕事をしていた人たちに精神の荒廃と生活の乱れを引き起こさせました。私自身も、他人にどうこういえるほど立派な生き様ではありませんが……。要するに山崎氏は、池田の都合で、スポイル(そこなうこと。甘やかしてだめにすること。台無しにすること)されていったのです。さんざん利用するだけ利用し、いったん言うことを聞かなくなると、あらゆる方法を用いて追いつめていくやり方に対し、私は義憤を感じ、山崎氏に同情しました。
 私は池田に対し、教義、法義上の誤りを自己批判を込めて指摘しました。山崎氏は、池田の独裁化に反対しました。しょせん池田の独裁化も池田本仏論からくる誤りであり、また、山崎氏が指摘する池田による運営面の絶対支配も、教義解釈をほしいままにする「池田絶対」思想に起因しています。私が、山崎氏と共に行動したのも、そこに共通項があったからです。絶対的権力が必ず腐敗することは、道理です。そこに、本当のメスを入れなければならない時が、さらにさし迫って到来しつつあると、私は確信しています。
----------------改頁------343--つづく──

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池田の真実-80

2015-06-28 10:03:30 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩・日新報道<¥1429-購入>
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◆本尊模刻
 昭和五十三年、私は、最大のショックに会いました。それは、以前にも触れましたが、本尊模刻という事件です。本尊模刻事件というのは、日蓮正宗から御下附いただいた紙幅の御本尊を、聖教新聞社のカメラマンが写真に撮り、業者に勝手に発注して板本尊とした問題です。私は、それまで池田が、八体の紙幅の御本尊を「板本尊」にしていたことは知っていました。しかし、全部、日達上人の許可を得ていたものとばかり思っていました(許可を得る得ないという考え自体も間違っていることは、後で気付くようになります)。ところが実際、日達上人は、本尊模刻の許可をまったく出しておられなかったのです。私は父から、「御本尊は写真に撮ってはならない」との戸田二代会長の遺言を聞いていました。また、日蓮正宗では、本尊書写は御法主上人お一人に限られています。池田は、池田教の本尊として、本尊偽造をやっていたのです。
 私たち、信仰する者にとって、想像を絶する重大な事件でした。
 昭和五十四年八月、私は、日達上人が、御遷化直前まで仰せられていた「師匠が地獄に行くのならば弟子も地獄に行くというのは間違いである」とのお言葉を深くかみしめていました。昭和三十五年、池田が会長になった翌日、池田から弟子の道として教えられたことや、私自身が池田に絶対服従を誓って以来の信念は、御書に照らし深く思索した結果、瞬く間に崩壊していきました。目から鱗が落ちるようでした。そうして“池田本仏(池田絶対化)”の麻酔から覚めた私には、創価学会が偽善と作り事に満ち、いつの間にか会員が、巨大な女郎蜘蛛によって、ねばねばした糸でがんじがらめにされているように感じられました。池田の絶対化は、明らかに日蓮正宗の教義の歪曲であり、長い間、教学部長として教義の最高責任者であった私は、強い自責の念にかられました。そしてその年の暮、教学研究室長(十一月九日の人事で教学部長は交代しました)の辞表を提出しました。内容は、「私は日蓮正宗の厳正な法義を曲げました。その一切の責任をとつて辞表を提出します」という趣旨のものです。
 昭和五十五年二月二十六日、私は、六時間にわたり、特に本尊模刻問題について池田を諫めました。その時、池田は「私は本心から懺悔している」と言いましたが、その後、母や兄には「嵩は、オレを裏切った」と語り、怨念をむき出しにしました。私は、前年の十一月から体調が悪く、三月まで出社していなかったのですが、四月一日から学会本部の近くにある新宿文化会館で、法華経の仕事をするようになりました。
 その時の池田からの本部職員への伝言は、「今日から原島が出社する。私に背いた人間であるから、皆辛いだろうが、私がすべて知っているから任せなさい。道で会っても普段と変わらず挨拶し、たまには私の家にも遊びに来て下さいと言っておくのだ。まともに取り合ってはならない。今は、原島をつなぎとめておかなければならない」ということでした。私を“飼い殺し”にしようとする意図は明らかでした。
 また、その日の聖教新聞で池田は、「私は信仰の根本的なことは一度たりとも間違ったことはしていない」と開き直っていました。
 ────────────────改頁──────339--つづく──

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池田の真実-79

2015-06-27 07:14:58 | Weblog

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◆池田本仏論の誤り
 十二月四日、公明党が選挙で大勝し、またこの問題の一応の決着がついたので、池田は喜んで「天下を取れることが見えてきた」と語り、日蓮正宗に対しては後門の狼として「今、徹底してたたいておかなければいけない」とばかりに、公然と攻撃を開始しました。これが、宗門(日蓮正宗)と学会との亀裂を決定的にした五十二年路線といわれるものです。それは、創価学会による「宗門支配ないし分離独立路線」ののろしでした。
 その後、創価学会は、思わぬ世論の指弾や、宗門僧侶による叱責、創価学会を脱会して日蓮正宗の檀信徒になる人の続出という新たな事態をむかえ、後退に後退を余儀なくされ、昭和五十四年の池田会長辞任にいたるのです。しかし、日達上人が御遷化(昭和五十四年七月二十一日)されるや、猛烈な巻き返しをはかり、日蓮正宗の二分化を企てて、当時、学会を厳しく糾弾した僧侶を宗外に追い遣るための働きかけを行ないました。
 この過程で、私自身も池田の共犯者ではありましたが、それと同時に私は、池田本仏論(池田が日蓮大聖人の再誕であり、絶対的な存在であるとする考え方)の誤りをいやというほど知らされました。池田に対する私の疑念は、すでに言論出版問題に始まっていたのです。しかし、それは、私の信心のなさと自戒してきました。
 前にも書きましたが、昭和四十七年十月十二日、正本堂落慶大法要の時、池田が口コミで、会員に「本日、七百年前の御遺命が達成されました。有難う」と述べた時も、七百年間、何びともできなかつた偉業を自分が成し遂げたという慢心がみえみえで、その専横ぶりに苦しんだことがあります。 これには多少、説明を要します。日蓮大聖人は、広宣流布の暁(日本国中に正法が広まった時)、全世界の人々が懺悔滅罪すべき戒壇(日蓮正宗の信仰の根本対象である戒壇の大御本尊を安置すべき道場)を建立せよと遺命されました。それを、池田がやったと誇らしげに語ったのです。この時、それに反発した私は、池田から烈火のごとく総括(すべてのことを持ちだして叱責すること)されました。私は総括されたことを怨んだわけではありません。
 広宣流布は、私たち信徒として望むのは当然です。それがすでに達成され、日蓮大聖人の御遺命も達成されたとするのは、日蓮正宗の法義に根本的に反します。この時の苦悩は、筆舌に尽くせぬものがありました。「池田大作は決して仏ではない。ただの人間である」との考えが、この頃からはっきりと私の心の中に胚胎し始めていました。しかしその後も私は、池田の本仏化に手を貸し続け、ゴマスリと本心の苦悩の間で、精神的に荒廃していきました。
 ────────────────改頁──────337--つづく──

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池田の真実-78

2015-06-26 10:16:51 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩・日新報道<¥1429-購入>
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◆池田の出廷
 隈部氏に対しては、山崎氏が中心になって対策を立て、公明党の矢野書記長(当時)らが政治力を行使して、伊達秋雄、小谷野三郎弁護士たちを告訴代理人として創価学会が告訴し、強引に逮捕させました。ところが勾留期間中に、検事が「池田氏個人の告訴状を出して欲しい。それが出なければ、隈部を釈放する」と言ってきました。どうするかを検討する会議の席上、山崎氏は「隈部側が頭を下げ、謝罪広告でも何でもするからと和解を申し込んでいるから、起訴前に和解して終らせるべきだ。既に所期の目的は達したのだから」と主張しました。これに対し、公明党側は、「和解などしたら、これまで無理を聞いてやってくれた警視庁が怒る。以後、選挙違反だろうとなんだろうと、公明党に協力してくれなくなってしまう。池田先生に告訴状を出してもらって、起訴に踏み切るべきだ」と主張しました。
 山崎氏が、「起訴してしまうと和解は難しい。隈部が開き直って、池田先生を法廷に引っ張り出すことを的にしてきたら防げない」と言うと、公明党側は、「伊達、小谷野弁護士らは、選挙後に和解は十分できる。池田先生を法廷に出されるようでは三流弁護士だ。そうさせない自信があると言っている。任せて欲しい」と主張しました。結局、勾留期限ぎりぎりのところで、池田の告訴状を出すことにしました。山崎氏は、一切手を引いてしまいました。
 池田の告訴状が検察庁に出され、隈部氏は四月末に起訴されました。
 昭和五十一年十月頃、第一回公判が開かれましたが、公判立ち会い検事は、当然のことのように「池田氏に、まず法廷に出てもらいたい」と言ってきました。北條はびっくり仰天して、山崎氏に泣きつきました。毎日のようにZ会議(最高機密会議。北條が海軍出身で、Z旗を挙げろということから生まれた会合で、当初は、北條、中西、山崎正友三人から出発した)が開かれ対策を検討しました。この会議には当時、北條、秋谷、中西、竜年光氏、山崎正友氏、和泉覚、それに私、その他が出席していたと記憶しています。北條は悲痛な面持ちで「伊達、小谷野にだまされた。矢野にだまされた。このままいくと、池田先生が法廷に出なければならなくなる。当面、私が出るが、その後どうしたらよいか」という話をしました。
 その頃、山崎氏は、池田に調査報告書を出しているはずです。「背景には、右翼の大物がいる。ウシロから手をまわすしかない」といつた内容の調査報告書を池田に提出していたようです。
 その年の十一月頃、私は池田の専用車に池田と同乗して都内をまわつた時に、「矢野は、京都分室(京都の二条城の前にある池田専用施設、京都文化会館)で二人きりで会った時に、この問題で先生に絶対に迷惑をかけませんと誓ったんだ。とんでもない奴だ。やはり山友の話が正しかった」と池田から言われました。「山友を使うのもご仏意だ」「すべて山友に頼むしかない。今回は、公明党に訓練の意味でやらせたがダメだった。矢野はとんでもない奴だ」と操り返し言っていました。また「山友は有能だが直線的だから、いろんな人と摩擦を起こすのが欠点だ。山友がやりやすいようにバックアップしてやれ」と依頼されました。
 その年の暮、「満月」(学会外郭会社・東西哲学書院直営で東京・青山にある寿司屋)の地下の座敷で、池田と公明党首脳との会食の席上、総括して矢野がやり玉にあげられていた場面を私は見ています。「北條を法廷に出したのは何ごとか。北條は第四代会長だ、それを法廷に出させた罪は大きいよ。北條を絶対に守れ!もしもの場合は公明党を血まつりにする。いいな!」といった強い語調でした。たしか北條が法廷に出る前のZ会議だったと思いますが、北條は「今度の問題で矢野にも責任がある。しかし、自分も見通しを誤った。責任をとって辞めたい」と言い、極度に緊張していました。北條の性格からいって、すべての責任を自分がかぶる気持ちでいたのでしょう。
 その時、山崎氏が「北條さん、毅然としていて下さい。そうでないと、みんなが萎縮します。とにかく、ここは何としても池田先生を守るしかありません。北條さんは代表役員です。軽々しく法廷に出てはいけません。何を聞かれても知らないとはいえない立場なんです」と語ったことが印象的でした。それから一週間、山崎、福島両弁護士が北條に対して、裁判の特訓をやりました。
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