創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

さらば池田大作-18

2017-08-31 08:15:18 | Weblog

さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡  野田峯雄 (2016/11・第三書館)
 ------(108P)---(以下、本文)-------

「かね」との結婚
 「お世辞じょうずで、えらくはしっこいあんちやん」の跳躍台がもうひとつある。1952年5月の、住友銀行支店に勤務していた白木かねとの結婚だ。かねは1932年2月生まれ。当時20歳。青年・女子部の班長をつとめていた。大作・かねの結婚の媒酌人は学会理事で蒲田支部長の小泉隆がつとめた。
 ところで、かねは後に「香峯子」と名乗る。なぜ改名したのか。大作が結婚の翌年(53年11月)に父・子之吉(ねのきち)と母・一(いち)から与えられた名前「太作」(たいさく)を「大作」(だいさく)へ変えた。そんなみかけをひどく気にする太作(たいさく)のアドバイスなのか強請なのか、しだいに「香峯子」というすこぶるかっこうのいい偽名を使い出したのだった。けれど公文書には「かね」と記されている。
 太作がかねに接近した理由に関心を引かれる。かねは美人ではない。スタイルもよくない。きれるタイプでもなさそう…。しかし、太作にとって、かねとの結婚はすばらしいものになった。
 ちゃきちゃきの創価家族「白木」(当時の聖教新聞が「学会屈指の強信の一族」と表現)をバックにすることができたからだ。
 かねの父の薰次(しげじ)は東京日本橋小網町の砂糖取引会社井筒商会の常務取締役。学会内事業家のなかの有力者(高額寄付者のひとり)で、とりわけ組織トップの戸田城聖と商品投機などを通じ“かなり親密”だったと推定される(太作・かねの結婚当時の学会内役職=東京蒲田支部矢口地区部長。54年に理事就任)。
  母の静(しず)も戦前からの熱心な学会員。太作・かねの結婚当時の学会内役職は蒲田支部の婦人部長だった。でも、本部婦人部常任委員などの肩書きを持つようになり、2000年8月、95歳で亡くなったときには創価学会が「名誉全国婦人部長」の称号を贈っている。
 また、かねの従兄弟(薰次の甥)の白木義一郎は名前の知られたプロ野球投手、しかも熱狂的な学会員。戸田時代の56年6月参院選に当選し、以降、同院議員を5期つとめることになる。
 つまり、「お世辞じょうずで、はしっこい、とはいえしっかりとした支えのないあんちやん」が、この結婚を契機に“いっぱしの創価学会内権威”を気取ることができるようになったのだ。

ごっそり奪る
 時がめぐり“奇怪なエレべーター”から半世紀後。戸田城聖から「万事を託された」と言う池田大作が今度は「万事を託す」側にまわってしまった。
 死の案内人の足音が聞こえ始めたとき池田大作の脳裏にあの光景がよぎったかどうか。
 58月4月2日、戸田城聖が日大病院で亡くなった。
  葬儀が終わった。すると、あまり間をおかず東京都港区芝白金台町の故人の家にトラックが2台やってきた。彼らは、戸田城聖の妻の幾(いく)や息子の喬久がア然とたたずむのを尻目に戸田家のすべての部屋をかきまわし、有価証券、貴金属類、絵画、重要書類、書籍、日常的に使用していた扇子のたぐいまで(数億円相当)を持ち去った。「家は力ラッポ状態になりました」(戸田家関係者)。あまつさえ、彼らは戸田城聖葬儀の香典4000万円余りもフトコ口に入れてしまったと指摘される。これらはすべて池田大作たちのしわざだった。
 池田大作は「学会のものを学会へ持ち帰って何が悪いんですか」とうそぶいた。
 彼らの持ち去つたもののなかに一振りの日本刀があった。池田大作はそれを、後日、創価学会の特大の金製印などといっしょに「後継者」へ渡す“神器”にした。

なぜこんな暑い日に死ぬんだ!
 さらに、池田大作は死の案内人の足音を聞きながらこんな光景を思い出したかどうか。
 81年の夏は例年になく暑かった。7月18日に北条浩第四代会長が心筋梗塞で亡くなった。まだ58歳。その日は最高気温が摂氏34度近くにのぼった。
「なぜこんな暑い日に死ぬんだ!」
  葬儀に顔を出した池田大作はアセをぬぐいながら不満をぶちまけた。むっくりと太った彼には北条浩の突然死も強い日差しも、そしてアセも“同じようにやっかいなこと”だったのだ。
 北条浩は54年に池田参謀室長の部下(主任参謀)になる。それ以来、池田によくつくしてきた。
 79年。池田大作は対宗門問題で責任をとり第三代会長を辞めざるをえなくなり北条を第四代会長に据えた。北条四代目会長のおもな役割は池田名誉会長の言動の尻拭いだった。彼はこれを黙々とこなした。その北条浩に池田大作はどんな返礼をしたのか。

 藤原行正著『池田大作の素顔』が次のように語る。
①通夜と葬儀のときに集まったI億5000万円の香典、
②東京の戸田記念講堂で行なった創価学会本部葬、並行して全国各地の会館で行なつた葬儀のときに集まつた計約20億円の香典のほとんど、
 ようするに①と②の総額約20億円を、池田大作たちは遺族に渡さず学会本部の金庫へ入れてしまった。
 しかも、池田大作(創価学会)は北条遺族に対して東京都新宿区信濃町の聖教新聞本社前の和風2階建ての家から「すぐに出ていきなさい」と命じた。
 遺族はくやし涙をこらえて郊外の狭い部屋へ移った。

復活?
 いったいだれの思いつきなのか。池田大作が倒れた直後の10年6月3日の本部幹部会の壇上に池田博正副理事長が立ち、父・大作の書(しょ)なるものを2点、高々とかざした。「大山」「大桜」と記されている。博正はこう話した。
「昭和54年(79年)5月3日、名誉会長は“第三代会長辞任”の本部総会に出席した。場所は、創価大学の中央体育館である。終了後、渡り廊下を歩く名誉会長のもとへ、幼子を抱えた婦人部が『先生!』『先生!』と大きな声をあげながら、駆け寄つてきた。『ありがとう! お元気で!』
 大きく手を振って応える名誉会長。その胸には“こういう尊い方々を、いったい、だれが守っていくのか”との叫びが、こだましていた。その直後に、創大でしたためたのが、この2つの書である」
 博正はこう続けた。
「このあと、名誉会長は、学会本部には戻らず、そのまま、神奈川文化会館に向かった」
「同志愛がほとばしる揮毫から、ただ一人、反転攻勢の戦いを開始して30星霜」
「大山=『嵐に不動の信心たれ』。大桜=『功徳満開の人生たれ』。この精神を生命に刻み、我らは師弟完勝の最高峰へ挑みゆく!」
 池田大作が東京都八王子市の創価大学で涙あふれるお別れをして向かった創価学会神奈川文化会館(戸田平和記念館)は横浜市中区山下町にある。池田はなぜ学会本部にも自宅にも戻らなかったのか。
 同会館の周囲には高級ホテルや神奈川県民ホールなどが並び、ちょっと南へ歩くと横浜中華街。
 正面のきれいな並木道の向こう(北西)には「赤い靴はいてた女の子の像」のたたずむ山下公園が左右に広がり、同公園のすぐ先は海(横浜港)だ。 埠頭に日本郵船氷川丸が停泊している。ときどき汽笛が響き、力モメが飛び、潮騒が聞こえる。とてもすばらしい。
 池田大作は側近に囲まれて過ごす。妻のかねも来た。

  読売新聞(79年6月4日付)を開く。同紙調査記事「(日本人が)尊敬する人物20人」に目が。
 上から吉田茂、野ロ英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇、池田大作。6位。生存者だと昭和天皇に次ぐ2位だ。…「(私は)宗教界の王者」、「私の胸中は、一段と深い決意を刻み、高鳴っていた」
(『随筆新・人間革命』)。かくして私は“悲痛きわまりない闘い”を超えた。
 復活したのだ。
 10年6月3日の本部幹部会の壇上に立ち「父」を高々とかかげた博正はこの安っぽい復活の再演をねらったのか。いや、彼には、そのようなハツタリを展開できそうにない。としたら、原田稔や正木正明たちに背中を押されて行なった哀しいパフォーマンスだったのか。
 いや、ひょっとしたら、博正がひとりで考え出した弔辞のようなものだったのだろうか。
 いずれにしろ、池田大作復活の再演はもはや不可能となり、ポスト池田大作をめぐるいがみ合いと荒廃が進行していく。
       ---------(114P)-------つづく--

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さらば池田大作-17

2017-08-30 08:03:27 | Weblog

さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡  野田峯雄 (2016/11・第三書館)
 ------(101P)---(以下、本文)-------

天国へ行くのに電車賃はかかんねえっつんだ
 池田大作が会場に現れるときには必ず全員が起立して迎えなければならない。
 96年9月の創価学会本部幹部会もいつものように「全員起立」から始まった。池田先生が入場する。以下は当日会場のテープ録音をきわめて丁寧に起こした原稿からの抜粋である(略=本書筆者)。

「まあ、すわんなさい。(略)創価学会、大勝利、バンザーイ、パンザーイ、バンザーイ」(激しい拍手)
「みんな王様なんだと、偉くなろうと、いろいろ言ってるけど、みんな虚像なんです。そんなもん追っかけてなんにが幸せなんか。これほど苦しんで死んでいくのに、私の栄光なんか、位なんか名声なんか、なんーの価値があろう、これが真実なんだ、正義なんです。因果の理法なんです。もー、(ドンッと演題を叩く音)おいらはドラマー、創価のドラマー、おいらが叩けば嵐を呼ぶぜぇ、わっはっはっは。ねっ(会場から控えめの笑い)、そのくらいのね(ドンッ)、ドラムでいかなくつちゃ、まあ、そいで、そ、王様、(ドンッ)、キング、栄光はありゃいったいなんなん、なんの価値だ。ありゃしませんよ。ね。それよかも、健康で、人のために法のために生きた、おれはこいでいいんだ」
「おれは宗教者だ、殉教はあたりまえだ。それで。その。殉教者は、わたくしは殉教者として、喜び勇んで死んでいきます。死刑、判決ありがと~。サンキュ。そいで。は、あの、しあ、しい、ねえ。わたしの魂は煙とともに、天に昇っていく、電車賃かかんねえっつんだ」(会場から控えめの笑い)

 確かに。天国へ行くにも、地獄へ行くにも、電車賃はかからない。

「結局、人間というものは、生きてきたようにしか、死ねないものですね。ゆえに幸福に死す、ということはたい~へん難しい」
「おわかりのシト。(会場から「ハイッ」の合唱)ほんまかいな。人生あっちゆう間に終わつちゃう。たいしたね、長い時間じやないんだから。(略)遅いの。元気の間。みんな病気になって死んじやうんだから」
「ありがとう。(拍手、また拍手)おやすいござい」

(司会「以上で本部幹部会を終了します」)

 ここには、「死ぬ」と連呼して周囲の気を引く、 20歳前後に発症した悪いクセがにじんでいるけれど、しいて言えば「死に立ち向かう人間のあきらめ」っぽいようなものがそこはかとなく流れていると思えなくもない。
 彼は当時68歳。まだ声に張りがあった。

だれもがグッとくる最高潮シーン
 高利貸しや投機などできたえあげられた「お世辞じょうずで、えらくはしっこいあんちゃん」(当時の池田大作を知る大田区在住女性学会員)のいわば跳躍台は何か。
 ほかならぬ池田大作が得意げに「エレべーター」を指さす。
  時に戸田城聖第二代会長が亡くなる約1カ月前の1958年3月1日。場所は静岡県富士宮市にある日蓮正宗総本山大石寺の大講堂の、密室と言うべきエレべーターの中。
「『さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一(大作)、あとはお前だ。頼むぞ』伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。
 二人の眼と眼が光った。『はい!』自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交わすかのように、沈黙したまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。二人は、戸田と伸一の厳粛な瞬間の姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じとったにちがいない。それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレべーターは六階に着いた」
 池田大作著『人間革命』第12巻の、だれもがグッとくる最高潮シーンである。(注、原文の行詰め=本書筆者)。池田大作はついに創価学会第三代会長の椅子へ向かつて飛躍することに。

危険なエレべーター
 だが。
 池田大作は学会機関誌『大白蓮華』の61年5月号でその最高潮シーンをこう描いていたのだ。
「恩師逝いて三年。私にとっては、この三年間が、実に、三十年にも、五十年にも思えてならなかった。戸田先生なきあとは、いずれにせよ、私が全学会の要となり、指揮をとらねばならぬ宿命を、百も承知であったからである。昭和三十三年三月一日、大講堂落成式の日、五階から、一階に降りるエレべーターの中で、先生は申された。『わしの、いつさいの仕事は、これで終わつたよ。あとは、おれとお前だ。お前が、あとはしっかりするんだぞ』と」

 池田大作のエレべーターはじつに危険だ、勝手に上下動する(大白蓮華は「下降」、人間革命は「上昇」)。また乗降階は六階なのか五階なのか…。
 さらに。
『大白蓮華』のほうの描写だとエレべーターのなかに戸田城聖と池田大作以外だれもいなかったらしい。それゆえ、「あの“厳命”の会話は池田のでっちあげ、ホラだ」などの批判が。すると池田大作は、聖教新聞連載『人間革命』(この連載をまとめて前述の単行本『人間革命』にしている)で、話が同エレべーター・シーンのところにくると、「清原」と「森川」が同乗していたことにする。清原は柏原ヤスの、森川は森田一哉の仮名である。

二人の重要証言人
 「踊れ」
 酒ビンを抱えた戸田城聖が柏原ヤスにそう言う。彼女はにっこりとほほえんで踊り始める。
 ヤスは23歳のころ(1940年)創価教育学会に入る。そして、終戦直前の45年7月に東京豊多摩刑務所から釈放された戸田城聖(治安維持法+不敬罪で下獄)による学会再興のメンバーとなり、かつ戸田の愛人のひとりにもなる。戸田には妻・幾子と子どもがいた。しかし、とても女好きだった。たとえば1950年から街金「大蔵商事」を森重紀美子に仕切らせたが(前述)、紀美子は戦前からの愛人である。ヤスは、戸田城聖が死んで池田大作が活躍した59年6月の参議院議員選挙で初当選し、以降4期、83年まで参院議員を続け、池田に忠節をつくし、たとえば政界引退後ほどなく青森県で開催した婦人部指導会で、「おカネなんかいらないんだ、だれが、力ネなんか、もらうか! ばかばかしい。そうじゃないの! (池田大作の)世界広布にはおカネがかかる。要るんです!  (カネを)出せ! つ~のッ! 出せ! 出せ! 出せ!」(注=本書筆者)と絶叫してもいる。

  また、森田一哉も同様。
 彼の父・悌ニは戦前からの学会員で戸田第二代会長時代へ入ると最高幹部層に名前を連ねる(55年、横浜市議会議員に当選)。一哉が入会したのは戦前の42年である。つまり学会歴も、教学関係においても池田大作の上だった(池田入会=戦後の47年)。だが、いつしか逆転。池田大作参謀室室長(54年3月就任)のもとで動くようになり(参謀)、さらに池田が戸田死去後の隠微な争いをほぼ制し59年6月人事で、実質的に組織全体を握れる新設ポスト「総務」(理事長のもと理事室を代表し、事務局および各部を統括)に就くのを手助けし、以降、池田を支える役割に徹し続けたのだった(79年4月~03年7月=宗教法人創価学会理事長)。
 さて、このような2人の“エレべー夕ー会話に関する証言”は有効だろうか?

 エレべーター・シーンの真相などを聞こうと、東京西郊の住宅街に住む、晩年の柏原ヤスを何度も訪ねた。質素な木造平屋だった。広くない庭に雑草が茂っていた。鉢植えの花が枯れたりしていた。06年11月、彼女はかたくなに何も語ろうとせずこの世を去った。89歳だった。森田一哉は07年5月、ヤスと同じように何も語らず逝った。80歳だった。彼らが「池田大作」に囚われた自身の一生をどう総括したのか、わからない。
       ---------(108P)-------つづく--

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さらば池田大作-16

2017-08-29 07:38:24 | Weblog

さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡  野田峯雄 (2016/11・第三書館)
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博正よ!
  池田大作は博正に何を期待したのか、どうなってほしいと思ったのか。大作はずっと池田家万代路線を夢みてきた。それを実現するにはどうしたらいいのか。
 いまは何はさておき博正に創価学会インターナショナル(SGI)会長の椅子を、はっきりと、確実につかませることだ。それを実現できれば、博正はSGI会長として、少なくとも「たとえば象徴天皇のような存在」に成長できるのでは。
  とともに、これこそ重要だが「私」の海外資産を、安全に継承保存していける。
 池田大作はとりわけ90年代の“宗門との最終的ぶつかりあい”のころからしきりに「SGI」を高く掲げるようになった。「名誉会長」だと軽く見られがちだ、それに比べ「SGI会長すなわち世界会長」のほうがサマになると考えたのかもしれない…。とにかく彼は日本創価学会に右足を乗せ、SGIに左足を乗せて立ち、うまくバランスをとってきたのだった。
 しかし。博正が「私」のような絶対支配者になるには、SGI会長の位置からさらに一歩前へ出て、日本創価学会会長の椅子をつかむこと。周囲の思惑はともかく、本人の気質や心情などから判断すると、心もとない。博正には“国内外の全創価学会を一挙に束ねる力”がない。
 としたら。どうしたらいいのか。いずれにしろさしあたってやるべきことをやっておこう。
 池田大作は02年会則でSGIを表に出して国際部門を充実させたが、これは、「大作の創価統治機構」を「博正の創価統治機構」へ変換させるためのタネを蒔く作業だったとみられなくもない。はたせるかな博正はこれまでに創価世界の海外関係業務をほぼ掌握しきり、それと並行するように、いわゆる池田大作の海外資金の管理人になりつつあると推定される。
 しかし、池田大作の思い(池田家万代)は、原田稔や正木正明や谷川佳樹たちを主役とする「池田大作欠落の2014年動乱」により妙な方向へそれていく。これについては後章で述べよう。

「あえて申し上げておきたい」「(私を)忘れるな」
 2006年11月10日に聖教新聞はこう報じた。
「創価学会の会則に基づき、学会の会長選出委員会(議長=西口良三総務会議長)が9日午前10時半から東京・信濃町の学会本部で行われ、全員の賛同で新会長に原田稔氏を選出した。この決定は引き続き行われた最高指導会議(和田栄一議長)で承認された。任期は5年。新理事長には正木正明氏が任命になった。秋谷氏は最高指導会議議長に、青木氏は同副議長に就任した。(略)
 学会創立80周年(2010年)へ、池田名誉会長のもと『師弟』の精神を根本に広宣流布の未曾有の上げ潮が築かれるなか、学会の新時代建設に向け、新しい指導者群が誕生。全国が『異体同心』の団結で広宣流布運動の一層の大発展を期していくことになった。今回の会長交代は、会長在任期間が長期に及んでいること、また後継の人材も多数育ってきていることなどを踏まえ、秋谷氏が、創立80周年へ本格的な出発をする『11・18』創立記念日を前に会長を次の世代に引き継ぎ、学会の新たな発展を期すべきであると、辞意を申し出たことによるものである。
 原田新会長は、経験、識見ともに豊富で、青年時代から池田名誉会長に薰陶を受けてきた直系の池田門下生である」(注と略、行詰め=本書筆者)
 同日の本部幹部会(新時代第一回本部幹部会)で池田大作は新しい最高幹部たちをムチ打った。
 原田稔新会長には、「誠実の二字で会員につくせ」。
 正木正明新理事長には、「正木理事長。創価学園・創価大学出身の第一号の最高幹部になった君には、『創価の伝統』の光彩を放った歴史をつくり始めよ」(大拍手=聖教新聞記事の注)。
 81年7月から06年11月までの約25年4力月にわたって会長をつとめた秋谷栄之助には、「いままでのご恩返しのために、これからも広宣流布のために、不惜身命で戦え!」。
  そして幹部たち全員に、「仮にも、威張るなど、もってのほかである。幹部は、会員に奉仕する立場である」。
  さらに。
  池田大作はいわば体をくるりと回転させる。
「広宣流布のために、本当に苦労されたのは、初代牧ロ先生と二代戸田先生である。お二人の遺志を継いで、三代の私が、創価学会の大発展を決したのである(大拍手)。私自身のことではあるが、未来のために、あえて申し上げておきたい。
 創価の三代には、厳然たる師弟のつながりがある。永久に、これを忘れてはならない」

第3章 へんなお別れ
◆ また、お会いしましょう!
 ちょっと曇りっぽいけれど気温20度あまりの、2010年6月3日午後の東京千駄ケ谷の創価国際友好会館で創価学会本部幹部会が開かれた。
  そのとき異変が伝えられた。
 原田稔創価学会会長が参集している幹部たちにこう告げた。
「昨夜、本日の本部幹部会について、池田先生からご指導がありました。『明日の本部幹部会については、弟子の君たちが、団結して、しっかりやりなさい。皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。ゆえに私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である。私はこれからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい』とのことでした」

 長谷川重夫副理事長が池田大作メッセージを代読する。
「法華経の会座において、幾度も繰り返される弟子の誓願があります。それは、“私たち弟子は、師匠の仰せ通りに広宣流布を成し遂げます。どうか、ご安心ください。心配なさらないでください”という誓願であります。弟子たちが、本気になり、一丸となって、不惜身命の祈りと行動を起こしてこそ、真実の勝利がある。これが、法華経の後継の真髄なのであります。
 ゆえに、私は、きょうは、あえて出席いたしません。
 厳然と一切を見守っておりますから、原田会長を中心に、皆で明るく元気いっばいに行いなさい。戸田先生は、75万世帯の願業が一歩一歩、達成に近づいていくなかで、私たちに、一つ一つ、戦いの指揮を託していかれました。
 先生は『みんなも立派に育ってきたからな。君たちに任せるよ。自分たちで責任をもって考え、進めていきなさい』と言われ、時には本部幹部会等にも出られなかったのであります。
 それは、未来のために考え抜かれた師子王の訓練であることが、私にはよくわかりました。先生は、仏法において、何よりも大切な「時」というものを鋭く見極められて、弟子たちが永続的に前進し、勝利し、発展していける流れを創ってくださったのです。
  特に、私に対しては厳しかった。『大作、私が打てる手は全部、打っておいたぞ。あとは、おまえが思う存分、戦いまくれ! 勝ちまくれ!』と厳命されたのであります。
  今、私も、戸田先生とまったく同じ心です。君たちに万事を託していく総仕上げの「時」を迎えているからであります。(略)戸田先生の愛弟子として、私は、行くところ向かうところ、『立正安国』の勝利の旗を打ち立ててきました。(略)
  ともあれ師弟は不二であります。ゆえに、どんな時でも師弟の心は一体です。師弟不二であれば、何も恐れるものはない。皆、体を大切に! 正義の我らは朗らかに前進しょう! また、お会いしましょう!(大拍手)」(改行変更・略=本書筆者)

◆ 3度めの転倒
 池田大作が創価学会本部幹部会という最高のハレの舞台に顔をみせなかつたのは2000年代へ入つてから三度めである。
 一度めは03年5月3日の本部幹部会。75歳のときだ。5月3日は創価学会の大祝祭日「創価学会の日」であり、彼はこの日を自身の結婚日(52年)および第三代会長就任日(60年)とし、ようするに“組織記念”と“個人記念”をごちやまぜにしていたが、そんな公私二重の意味を持つきわめてたいせつな日に設定した最高舞台をドタキャンしたのだった。脳梗塞もしくは心筋梗塞などと取りざたされた。
 二度めは05年3月3日の本部幹部会。「インフルエンザでお休みします」
と説明した。77歳だった。ちなみに09年にはなんと死亡説が流れている。しかし、これは池田が弟子たちの顔色を知るために流したガセネタと推定された。
 三度めは前述の10年6月3日本部幹部会である。82歳だった。
 池田大作メッセージは戸田城聖の本部幹部会欠席に言及している。死者(故戸田城聖)を自分に都合のいいようにつくりかえるのは池田大作の日常的な悪癖のひとつだが、今回のメッセージには、どことなくせっぱつまった雰囲気がただよっていた。
 戸田城聖は57年4月に初めて本部幹部会を欠席した。さらに同年10月にも。この本部幹部会欠席から約半年後の58年4月に急性心衰弱で亡くなった(享年58歳)。池田大作によると、戸田城聖はその微妙な日々、「一つ一つ、戦いの指揮を託していかれました」という。
「特に、私に対して厳しかった。『あとは、おまえが思う存分、戦いまくれ! 勝ちまくれ!』と厳命されたのであります」
 戸田城聖が託したもの(厳命)とは。どうやら、ハイライトは、あの「エレべーターでの出来事」のようだ。でも、そこへ入る前にちょっと「今日も元気な大作さん」に触れておきたい。
       ---------(101P)-------つづく--

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さらば池田大作-15

2017-08-28 09:14:36 | Weblog

さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡  野田峯雄 (2016/11・第三書館)
 ------(85P)---(以下、本文)-------

戸田城聖式個人営業から池田大作式組織営業への転換
 戸田城聖の遺産には「日本海運やカルピスなど、みんな女房(戸田幾子)名義の株があった」(池田の述懐)。この株式はどうなったか。戸田の遺族が、「池田たちがトラック2台を乗りつけ、ほかの遺産もろともごっそり持っていってしまった」と語る。いっぽう池田も「(戸田所有株式を)私が処分した。売った」と得意げに話している(社長会メモより)。
 1960年5月。戸田から高利貸しの手口や株式取引などの妙味を教えられた池田大作が第3代会長に就任した。そして、「学会員から集めた浄財」の投資・投機市場への投入を、戸田城聖式の“個人営業”から池田大作式の“組織営業”へ切り替え、日常化させ、この方式をしだいに池田自身の海外資産やSGI活動の資金づくりへ“成長”させていく。もちろんと言うべきか、
池田式の創価学会マネーゲームについて知っていたのは池田大作と少数の最高幹部だけで、おまけに最高幹部であっても彼ら個々人の知っている範囲はかなり狭いか部分的だった。
 ただし例外が。中西治雄だ。彼はかって大蔵商事における池田大作の部下。後に「池田の動く金庫番」「カゲの会長」「大蔵大臣」などと言われるようになり、たとえば1989年6月に発生した奇怪きわまりない“横浜市の産業廃棄物処理場への現ナマ1億7500万円入り金庫ポイ捨て事件”にも登場し、「あれは私の不始末」などと証言している。
 いずれにしろ中西治雄は最高幹部のだれよりも池田マネーゲームの全体像をつかんでいたのだ。そんな彼が思いがけない動きに出た。池田大作が病に倒れてから一年余りあとの11年7月、「脱創価学会」の動きを示し、ついに池田大作の怨敵日蓮正宗へ回帰する。
 だが、「池田マネー」の実態についてはかたくなに口を閉ざす。もし事実をしやべったら即座に自分も逮捕されるかもしれない。いや、もっともっと恐がっているのはヤミ組織に抹殺されることかもしれない。

長男・池田博正の登場と役割
 池田大作が姿を消して海外秘匿金の管理はどうなつたのか。
  池田大作は02年3月の創価学会会則(規則)の改変時、同・第52条に次の文言を盛り込んだ。
「各組織として、壮年部、婦人部および青年部(男子部、女子部、学生本部および未来部よりなる。)、ならびに教学部、文化本部、社会本部、地域本部、教育本部および国際本部を置く」
  池田大作たちは以前から、組織の大きさを誇示しようと創価世帯の、たとえば、まだ意思表示のできない乳幼児(赤ちゃん)を含む子どもたちのすべてを「創価学会員」にしたてあげてきたが(力ード登録。少年・少女部~高等部)、02年会則で青年部(中央組織)のなかに未来部(18歳未満)を正式に位置づけ、また第77条に創価学会インターナショナル(SGI)を明記して、それなりに格好をつけ(前述)、さらに教育本部と国際本部を「新設」したのだった。
  この一連の措置はひとえに長男博正のための環境づくりと推測された。
  それかあらぬか、池田大作は博正を新設未来部の総合本部長に据え、06年には未来部を未来本部へ格上げして博正を総合未来本部長に就任させる。
  これと並行して、徐々に、博正を海外(SGI)における利権体系の統括者へ変身させていく。

女子高社会科教諭の転身
 池田大作・かね夫妻には3人の子どもがいる。博正(長男=1953年4月生まれ)、城久(次男=1955年1月生まれ)、尊弘〔3男=1958年4月生まれ)だ。
 博正は総じて「学究肌」「線が細い」などと、創価学会の内部でも、外部からも指摘される。
 それかあらぬか、慶應義塾大学の大学院へ進み、大作が1973年4月、大阪府交野市に開校した創価女子高等学校(82年4月から男女共学の関西創価高等学校)の社会科(日本史)教諭になる。彼はずっと「女子高の先生でやっていこう」と思い(教え子の安田加代と結婚)、大作も「あいつなりの人生を歩んでいけばいい」とみていたという。
 しかし84年10月に異変が。
  大作が“私の跡継ぎに”と考えていたらしい次男の城久(創価大学法学研究科修士課程を修了して同大学職員)が胃穿孔のため、妻の美沙子(旧姓=熊沢)と2人の幼児を残し亡くなつたのである(享年29歳)。ちなみに胃穿孔は胃壁に穴があき、胃液や飲食物が腹腔に出てしまう病気で胃潰瘍の合併症として発するケースが多く、おもな原因は過度のストレスだといわれる。
  この城久の死からほどなく。

 大作は長男博正を創価学会本部へ呼び寄せる。そして、たとえば90年代へ人ると、いくら息子とはいえまだ創価学会インターナショナル(SGI)会長(池田大作)の「秘書」の肩書きしかない博正をしばしば、外国からの勲章とか名誉称号の受け取り、外国におけるセレモニーへの出席、各国要人の懇談などのとき自身の「名代」として派遣し、おまけに本体の創価学会内でもとんとん拍子に昇進させる。
  たとえば91年3月には、副青年部長だった博正を、青年部長を飛び越えて副総合青年部長へ昇格させ(博正の当時のほかの肩書きは学校法人創価学園理事、創価大学ロサンゼルス分校主事)、また94年7月には創価学会副会長の椅子を、97年11月には創価学会インターナショナル副会会長の椅子をプレゼントしてグンッとハクをつけてあげ、さらに06年3月には宗教法人創価学会の副理事長という、“池田大作を除く全創価学会員の最高位である会長”へ手の届く位置に乗せる。

創大卒+東大卒の旗本たち
 その一連の作業をするさい大作はつねに、賢く、慎重だった。はやばやと博正防護のチームを用意し、この選抜メンバーを博正とほぼ同じスピードで昇進させ、いつも博正を取り囲むように配置し続けたのだった。
 博正を副青年部長から副総合青年部長へ昇格させた91年3月人事を例にとると、博正昇格に合わせて、博正防護メンバーを次のように動かしている。博正が副青年部長だったときの忍田和彦青年部長を総合青年部長へ引き上げ、忍田青年部長の後任に正木正明男子部長を(男子部=青年部のなかの、女子部と並ぶ、主要部門)、正木男子部長の後任に谷川佳樹書記長を登用する。ちょっとおおげさな表現になってしまうけれど、あたかも航空母艦が周りに巡洋艦や駆逐艦や補給艦などを引き連れて航行しているような印象を与えなくもない。

博正防護チームの原形は故城久の“創価大学同窓グループ”である
 城久は創価大学大学院を卒業し同大学職員になった。でも、大作はそれを飛び石のひとつと考えていたのだ、80年代前半に城久を大学の学生課から庶務課へ移すと創価学会中央本部にしょっちゅう出入りさせ、しかも城久がまだ若年大学職員のひとりにもかかわらずしきりに、「偉大な広宣流布の旅(外国旅行)」(大作)の同伴者にする。つまり帝王学を学習させる。
  このような過程で、創価大学第1期卒業生の忍田和彦、第3期卒業生の正木正明(城久と同期)などが池田大作の意中を忖度し、「創大27人会」「27人グループ」「旗本」などと呼ばれるようになるいわばお世継ぎ(城久)追従集団をつくっていたが、大作はその城久防護グループを博正防護グループへ横滑りさせたのだった。
  しかし、これだけでは不充分。うまく手を打たないと同グループが、しだいに浮いてしまうか、ずるずると消えていくかもしれない。
 そこで大作は、この創価グループに東大卒の原田稔や谷川佳樹たちを混交融合させ、念には念を入れるということだろう、一例をあげると97年11月のSGI人事で博正と原田稔を「同時」に副会長へ抜てきする。つまり父としてのこまやかな芸をみせてもいる。
 ※原田稔は、池田大作75年に全国の男子部と学生部のめぼしい者を集めてつくつた池田側近製造グループ「伸一会」のリーダー、谷川佳樹も「伸一会」の有カメンバー(別表・省略)。
    ---------(91P)-------つづく--

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さらば池田大作-14

2017-08-27 07:44:02 | Weblog

さらば池田大作-消えた「上御一人」の跡  野田峯雄 (2016/11・第三書館)
 ------(79P)---(以下、本文)-------

 露見したマネーゲーム① 創価マネーが暗闇から
 これまで「創価マネー」と呼ばれる得体の知れない資金がしばしば投機市場に流れた。また、学会員がマネーゲームに溺れて事件を起こした。そのたびに池田創価学会は「利殖活動はいっさいしておりません」と全否定した。だが、たとえば91年7月に発覚した証券会社の損失補てん事件で「創価マネー」がふっと浮かびあがり、池田大作たちのでたらめ虚言をさらけ出した。
 この一件は同時に池田大作の海外秘匿資金のふるまいを示唆している。
 当時、創価学会事務総長だった原田稔(現会長)が文書を配布しこう主張した。
「証券会社から損失補てんを受けた覚えはまったくない、それは正当な損害賠償です」(骨子)
 90年代なかばから日本経済が急激にバブル化し、狂い、89年12月29日に株価が史上最高値を記録する。そして90年1月にとうとう下落を始める。バブルの破綻だ。
  ほどなく証券会社の醜状が税務調査で表面化した。彼らはこぞって一部の顧客(大口投資家)の投機損失を自社収益から「補てん」していた。 一部の顧客だけを格段に優遇する損失補てんは、公平性を著しく損ない、かつ市場秩序を壊す反社会的行為である。
 野村・日興・大和・山一の大手4社、新日本や国際などの準大手9社、さらに中堅4社、中小4社(当時の21証券会社)が公表した補てん件数(88年9月期と91年3月期)は計787件。補てん金額は約2164億3800万円にのぼる。損失補てん先リストには大企業、公務員関係共済組合、都銀、地銀、生命保険会社、とともに実態不明の貸金業者や芸能プロダクションなどがずらりと並ぴ、ちょうど巨額絵画取引疑惑の渦中にあつた商社イトマンなどもいる。
 国際証券の公表リストには78法人(件)が載っていた。このなかに思いがけない団体が混じっていた。創価学会だ。
  あらためて全証券会社の公表リストをチェックする。創価学会以外の宗教法人は存在しない。

露見したマネーゲーム② わたしたちは被害者
 池田大作(創価学会)が国際証券に株の取引をさせていた資金は70億円。同運用で発生した損失の補てん総額は約4億5700万円だという。
  この公表対象期間は89年3月期と90年3月期である。とすれば、折しも八尋頼雄たちがひそかにルノワール絵画事件を進行させていたころだが…、補てん問題のほうを注視しょう。
 騒動発生直後の91年8月1日、秋谷栄之助会長(当時)が聖教新聞で、「(国際証券の)担当者が学会の再三の指摘にもかかわらず、学会の了解をとらずに勝手に(創価保有株式を)売買するなど、ルール違反の運用を行い、そのために損害をこうむった事故が発生しましたので、取引の停止をするとともに、その損害の賠償を求めました。(略) まことに遺憾と言わざるをえません」(注と略=本書筆者)と語った。
  ルノワール絵画事件ではウソをつき、とぼけ、逃げきった。ここでも、とぼけ、あまつさえ「じつはね、私たち被害者なんですよ」と強調する。
 たとえば詐欺の犯罪容疑者はときどきそんな手口を披露する。

露見したマネーゲーム③ 「にぎり」と「胸叩き」
 バブルが昂進していく過程で、証券会社と大口投資家がそっと損失保証を約束し合う「にぎり」や「胸叩き」(証券業界用語)が横行するようになり、すっかり常態化した。
 複数の証券会社関係者が次のように証言する。
「創価学会は60年代から“にぎり”の常習者なんです」
「学会はいつもそれ(損失補てん)を当然のように要求してくる」
 中堅証券会社の幹部のひとりがさらにこう話す。
「証券会社間の顧客獲得競争は激しい。だから市場に流れている創価学会資金は非常に魅力的なんです。みんながいつも、それをどう引っぱつてくるか、あの手この手、いろんなことを考えています。そんな実状なのにもかかわらず、しかも小粒の国際証券の運用担当者が学会の指図を無視した?  できるわけがない。無理ですよ。
 あのとき(91年騒動時)国際証券は、ルール違反の加害者ときめつけられても怖くて、後々のことを考え、泣き寝入りするしかなかったんです」
  損失補てん問題は反社会的行為である。とともに、宗教法人創価学会が法的な優遇措置を受けてかき集めた巨額資金を財テク(マネーゲーム)に投入しているグロテスクな事実の、“たまたま発覚したケース”でもあった。

  ◆ 池田大作の投資投機修行
 損失補てん騒動がまだおさまらない91年8月5日、秋谷栄之助が長野県軽井沢町の、池田大作の愛する避暑地でもある創価学会長野研修道場へ出向きこんなふうに陳謝した(全国各地幹部の夏季研修中。同年8月6日の聖教新聞)。
「このたびの『国際証券』問題は、『損失補てん』とは異なるものの、“株式等は絶対にやらない”という戸田先生、池田先生以来の学会のよき伝統、基本を踏み外した結果であり、全国の会員の皆さまに、大変にご心配、ご迷惑をおかけしたことを、心からお詫び申し上げたい」
  “株式等は絶対にやらない”という戸田先生、池田先生以来の学会のよき伝統、基本?

 だが、ボス池田大作が1971年7月27日の「社長会」でこう話していた。
「私も戸田先生からきびしくやられた。株も勉強させてもらった」
  社長会は、池田大作が1967年から1972年へかけ、自分にひれ伏している創価企業グループの最高幹部を集め、多いときには1力月に数回の頻度で開いていた、政治や経済、社会などさまざまなことに関するうんちくと説教と心情を披露するための豪華飲食会合である。
 池田大作の株式売買師匠の戸田城聖は“投機のカタマリ”だった。
 戦前。戸田は小学校の教員を辞め(1928年にキリスト教から日蓮正宗へ転向)、中学進学塾『時習学館』を経営したり、生命保険外交員や露天の下駄屋をやったり、出版社を起こしたりしたが(ほかに印刷屋、製本屋、本屋など約17種類)、中学受験参考書『推理式指導算術』(戸田城外著)を出したころから羽ぶりがよくなり、小口かつ高利の金融や株式投資へ乗り出し、これらの収入で創価教育学会活動(創価学会の前身。初代会長=牧ロ常三郎)の財政面を支えていた。
 そして戦後。まず戦前の創価教育学会員名簿(多くは教職員や国鉄職員など)を手に細々と通信教育や出版業などをやって糊口をしのぎつつ、昔とったキネヅカ、社会秩序の混乱にまぎれていわゆる街金「東京建設信用組合」(高利貸しや手形割引、定期預金など)をつくり顧客を増やす。
 でも1950年に同信用組合がインフレの波を受けて破綻し、大蔵省から組合解散の内示を受ける。すると、これくらいのことでくじける男ではなかった、すかさずもうひとつの街金「大蔵商事」を立ちあげ、愛人の森重紀美子や池田大作たちを東京建設信用組合から横滑りさせた。
 その間、彼は株式や商品投機などにも手を染め、自前の証券会社をつくろうとさえした。けれど、志(目論見)なかば、1958年4月2日に死ぬ。 たとえばしきりにタバコを吸い夜昼にかかわりなく日本酒の一升瓶やウイスキーのボトル(サントリー・オールド)を抱え続けたはての心衰弱だった。
 死後。彼は池田大作によって文字どおり執拗に「偉大なる宗教家」と喧伝された。
 しかし、戸田城聖は静岡県富士宮市を本拠とする日蓮正宗門の敬虔な信徒であっても宗教家とは言いがたく、むしろ該博で統率力のある実業家(起業家)、より正確には“投機家”という呼称こそふさわしいのではないか。
       ---------(85P)-------つづく--

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