サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
<2016/5・人間の科学新社、1,512->
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◆ 昭和54年池田会長辞任
昭和53年7月、私は急きょ学会本部広報室勤務となった。福島派解体のためである。
54年3月6日福島副会長の「大牟田発言」が聖教に載った。宗創戦争は一気に敗色濃厚となった。
その朝、朝日新聞の央忠邦氏から電話があった。
「こんな記事を聖教新聞に載せれば福島さんの首を切らざるをえなくなるぞ!」芳賀広報室長は「央さん怒っているよ」と深刻な顔をしていた。スケープゴートはもう福島副会長に決められていたようだ。学会執行部の情報開示は大本営発表並である。真相をかくして発表する。個別に質問しても情報開示には応じない。
「秋谷さんもずいぶん陰険なことをする」と恨みに思った。あとになってすべて池田先生の指示だと判った。あの輝く笑顔でどうしてこんなことができるのだろう。
54年4月24日、聖教新聞社のロビーで会長辞任の記者会見が開かれた。広報室としてその場に臨んだ。淋しかったが動揺はなかった。
ある日先生と二人っきりで懇談した。そこにいたのは普通のおじさんだった。オーラの消え去った先生を見て「会長を辞めるということはこういうことなんだ」と思った。
昭和55年衆参ダブル選挙。私は東京九区を担当した。
選挙になると板橋文化会館で指揮を執る。そんなある日私に「先生は試論に過ぎない王仏冥合論にこだわりすぎた。こんなこと(選挙)を100年やっても広宣流布はできない」という考え方がふいに降りてきた。憑き物が落ちたように冷静になった。
◆ まぼろしの池田、レーガン会談
昭和55年、山崎正友顧問弁護士が恐喝罪で逮捕された。原島嵩教学部長の告発文も週刊誌に連載された。「池田大作の婚姻外性交をしたかしないか、俗の俗たる論議が裁判所で進行」(『昭和梟雄録』溝ロ敦)したため、池田先生は週刊誌のかっこうなエジキになった。
方面の副会長は地団太を踏んで悔しがった。「学会本部は死ぬ気で先生を守る気があるのか」背後で自民党がゆさぶっているのではないか。
「自民党からみれば創価学会は『アメとムチ、懐柔と強圧の手段を駆使せざるを得ない相手』である。田中角栄氏が『アメ』、もう一人の福田赳夫氏が『ムチ』の役割を担い、その派閥の系譜が現在でも創価学会と自民党との関係を考える上で基本的な流れになっている」(「創価学会解剖」アエラ編集部)
北風清松副会長、中上政信副男子部長(のち副会長)と私はアメリカと手を結び自民党をコントロールしょうと考えた。そのためには池田レーガン会談を実現することだ。私のつてから大きなラインがつながった。首をかけてやるしかない
昭和57年8月、渡米した。北風副会長は「秋谷会長批判になるが先生をお守りするためだ」とアメリ力議会の要人達と会談を続けた。ついに共和党ディビット・ボーエン議員、民主党の上院議員アラン・クランストンから池田レーガン会談の確約が取れた。ディビットは「今からお会いになりますか? ホワイトハウスに電話を入れましょう」と受話器を取った。「先生の前に私が大統領と会う訳にはいかない」と北風副会長は即座に断った。律儀な人だ。会っておけばよかったのに、と今でも思う。
帰国して池田先生に報告するため学会本部に行った。秋谷会長が応待に出て「私の方から先生にご報告しておく」といった。それっきり。上から目線で、しかも無視か。君側の干に壟断されているようでは学会の未来はない。
「サヨナラ池田先生」と心でつぶやいて私は学会本部を辞去した。以後北風、中上氏とは連絡も取れなくなった。
覚悟していたこととはいえ、生活は困窮した。アメリカの後始末がさらに拍車をかけた。孤立無援の日々。その中で仏法とは何だろうと問い続けて7年がたった。
◆ 「11・16池田スピーチ」で第二次宗門制圧は自壊
平成元年8月福島源次郎元副会長が我が家に来た。「先生はなぜ変わってしまったのか。それは先生の本尊観、妙法観が外道義に汚染されていたからです」と言った。なるほど仏法を外道義から解釈して己義を構えたのか。聖書も勝手解釈をすれば、統一教会の文鮮明のように、スットンキヨーなものになる。私は納得した。
直ちに蘇生の集い事務局を立ち上げた。
戸田城聖が法華経講義をした豊島公会堂の隣に豊鳥区民センターがある。象徴的な場所だ。そこで福島さんの勉強会を始めた。勉強会を終えて参加者が会場をでると、待ち伏せた怪しげな人たちから一斉に写真を撮られた。しばらくすると学会幹部の家庭訪問があった。「福島の勉強会に参加するな!」
私の車も三日と明けずパンクさせられた。池袋駅では殴られた。血染めのワイシャツのまま池袋署に加害者を突き出した。妨害に怯むことなく全国での勉強会を強行した。
平成2年11月16日の「池田スピーチ」の録音に成功した。
翌日福島さんとテープ反訳をしながらあまりの猊下誹謗に驚いた。福島さんは直ちに総本山第六十七世日顕上人猊下に提出。池田大作は弁明の機会を与えられたが逆切れして反発。総反撃に出て自壊する。
12月27日池田大作は法華講総講頭の資格喪失。法道院早瀬日如御主管(現第六八世日如上人猊下)のお取次で日顕上人猊下の御目通りをいただいた。そのとき不思議な感銘を覚えた。池田大作があたえた喜びと全くちがった種類の大歓喜である。
平成3年11月28日創価学会破門。破門になるや日顕上人大誹謗の大合唱になった。福島さんの勉強会に対して学会は「池田先生が間違つているなら日顕猊下が総講頭に任命されているわけがない」と大見栄をきった。同じその口で「日顕宗」と罵しり偽本尊を大量に配布した。自分が何をいったのか覚えていないのか。
◆ 創価学会破門と池田大作の「出世の本懐」
教義の解釈権に手を染めた以上池田大作が次になすべきことは、自筆の本尊をつくり、これこそ「池田大作の出世の本懐だ」と宣言することである。
弛緩した池田の宗教的権威は高まる。ニセ本尊販売の経済的効果は計り知れない。これほどの好機を前に池田大作は後すざりをして見せた。
矢野絢也元公明党委員長は池田大作のこの不思議な反応を。
「破門されるや、学会の会則に『三代会長』は永遠の指導者である』と書き加え、唯我独尊の道を歩み今日に至る。あたかも『生き仏』の如く君臨したが、それすら中途半端の感はぬぐえない。あくまで「『如く』なのだ」(「新潮45」平成25年8月号)と述べた。
池田大作の論理はいたるところで破綻し、創価学会の公用言語はあたかも多重人格者の言葉のようである。
あのすばらしい池田大作はどこに行ったのか。「サヨナラ」を告げた私はある日「政教分離を考える会」を立ち上げ街頭行動に出た。新宿区の靖国通りを学会本部そばまで何度もデモ行進。学会本部前ではしっこいほどニコニコ動画で同時中継。池田邪師の邪義を破折した。ビラの作成、配布。
妨害も激しかった。ビラ配布中の学生さんが学会男子部幹部らに襲われた。西新井では配布中の伊藤さんが目を傘で刺された。裁判闘争が五つ。断固受けて立った。池田大作と戦う時、目を伏せてはいけないのだ。
◆ おわりに
平成26年11月の規則会則改正でとうとう「戒壇の大御本尊」否定を条文化した。
平成27年9月5日、「日本宗教学会第74回学術大会」で創価学会教学部顧問宮田幸一は「過去に於いて創価学会は、学会の信心にだけ功徳がある、他の日蓮宗にはないよ、と言ってきましたが、--(日蓮宗の本尊を)拝んで、それは功徳がないよ、罰が当たるよ、ということは、もう言ったりできない、ということです」と述べた。いずれ池田創価学会は戸田城聖が斥けた釈尊像を本尊とするのだろう。
たしかに戸田城聖の組織論には欠陥があった。池田を悪乗りさせた隙も一つや二つではない。しかし戸田城聖は最後まで日蓮本仏論を正説した。池田大作はさんざん迷った挙句そのくせ簡単に戒壇の大御本尊を否定した。どうして自己の存立基盤を破壊するようなことをしたのだろう?
最澄は19歳で比叡山に登り十数年の写経三昧によって32歳の時「未だ無漏の法性身を得ざると雖も然かも先に六根清浄を得る」(「経師観行」)と述べた。最澄はつつしみ深く天台の悟りを超えたと言っている。19歳で入信し32歳で第三代会長に就任した池田大作はいかなる種類の悟りにも到達したとの発表がない。その池田大作が36歳で突然「戸田城聖を超えた」と喧伝した。
「折伏大行進」の2年、池田大作は24歳で大蔵商事の取締役に就任した。業務内容はサラ金と同じ、後に、「いちばんいやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(「社長会記録」)と述べた。
苦労はお察しするが、私は先生がいかなる修業をし、何を得たかを知りたかったのだ。池田大作は教団のコア(核)に純正の宗教体験を欠いたまま大進撃が続けられると信じていたのだ。邪宗池田教の誕生は昭和39年「本門の年」から決定づけられていたのかもしれない。
---------(120P-この項オワリ-)-----つづく--