創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-34

2017-06-30 09:53:58 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(194P)---(以下本文)-------
4-4
昭和54年池田会長辞任
 昭和53年7月、私は急きょ学会本部広報室勤務となった。福島派解体のためである。
 54年3月6日福島副会長の「大牟田発言」が聖教に載った。宗創戦争は一気に敗色濃厚となった。
 その朝、朝日新聞の央忠邦氏から電話があった。
「こんな記事を聖教新聞に載せれば福島さんの首を切らざるをえなくなるぞ!」芳賀広報室長は「央さん怒っているよ」と深刻な顔をしていた。スケープゴートはもう福島副会長に決められていたようだ。学会執行部の情報開示は大本営発表並である。真相をかくして発表する。個別に質問しても情報開示には応じない。
「秋谷さんもずいぶん陰険なことをする」と恨みに思った。あとになってすべて池田先生の指示だと判った。あの輝く笑顔でどうしてこんなことができるのだろう。
 54年4月24日、聖教新聞社のロビーで会長辞任の記者会見が開かれた。広報室としてその場に臨んだ。淋しかったが動揺はなかった。
 ある日先生と二人っきりで懇談した。そこにいたのは普通のおじさんだった。オーラの消え去った先生を見て「会長を辞めるということはこういうことなんだ」と思った。
 昭和55年衆参ダブル選挙。私は東京九区を担当した。
 選挙になると板橋文化会館で指揮を執る。そんなある日私に「先生は試論に過ぎない王仏冥合論にこだわりすぎた。こんなこと(選挙)を100年やっても広宣流布はできない」という考え方がふいに降りてきた。憑き物が落ちたように冷静になった。

まぼろしの池田、レーガン会談
 昭和55年、山崎正友顧問弁護士が恐喝罪で逮捕された。原島嵩教学部長の告発文も週刊誌に連載された。「池田大作の婚姻外性交をしたかしないか、俗の俗たる論議が裁判所で進行」(『昭和梟雄録』溝ロ敦)したため、池田先生は週刊誌のかっこうなエジキになった。
 方面の副会長は地団太を踏んで悔しがった。「学会本部は死ぬ気で先生を守る気があるのか」背後で自民党がゆさぶっているのではないか。
「自民党からみれば創価学会は『アメとムチ、懐柔と強圧の手段を駆使せざるを得ない相手』である。田中角栄氏が『アメ』、もう一人の福田赳夫氏が『ムチ』の役割を担い、その派閥の系譜が現在でも創価学会と自民党との関係を考える上で基本的な流れになっている」(「創価学会解剖」アエラ編集部)
 北風清松副会長、中上政信副男子部長(のち副会長)と私はアメリカと手を結び自民党をコントロールしょうと考えた。そのためには池田レーガン会談を実現することだ。私のつてから大きなラインがつながった。首をかけてやるしかない
 昭和57年8月、渡米した。北風副会長は「秋谷会長批判になるが先生をお守りするためだ」とアメリ力議会の要人達と会談を続けた。ついに共和党ディビット・ボーエン議員、民主党の上院議員アラン・クランストンから池田レーガン会談の確約が取れた。ディビットは「今からお会いになりますか? ホワイトハウスに電話を入れましょう」と受話器を取った。「先生の前に私が大統領と会う訳にはいかない」と北風副会長は即座に断った。律儀な人だ。会っておけばよかったのに、と今でも思う。
 帰国して池田先生に報告するため学会本部に行った。秋谷会長が応待に出て「私の方から先生にご報告しておく」といった。それっきり。上から目線で、しかも無視か。君側の干に壟断されているようでは学会の未来はない。
「サヨナラ池田先生」と心でつぶやいて私は学会本部を辞去した。以後北風、中上氏とは連絡も取れなくなった。
 覚悟していたこととはいえ、生活は困窮した。アメリカの後始末がさらに拍車をかけた。孤立無援の日々。その中で仏法とは何だろうと問い続けて7年がたった。

「11・16池田スピーチ」で第二次宗門制圧は自壊
 平成元年8月福島源次郎元副会長が我が家に来た。「先生はなぜ変わってしまったのか。それは先生の本尊観、妙法観が外道義に汚染されていたからです」と言った。なるほど仏法を外道義から解釈して己義を構えたのか。聖書も勝手解釈をすれば、統一教会の文鮮明のように、スットンキヨーなものになる。私は納得した。
 直ちに蘇生の集い事務局を立ち上げた。
 戸田城聖が法華経講義をした豊島公会堂の隣に豊鳥区民センターがある。象徴的な場所だ。そこで福島さんの勉強会を始めた。勉強会を終えて参加者が会場をでると、待ち伏せた怪しげな人たちから一斉に写真を撮られた。しばらくすると学会幹部の家庭訪問があった。「福島の勉強会に参加するな!」
 私の車も三日と明けずパンクさせられた。池袋駅では殴られた。血染めのワイシャツのまま池袋署に加害者を突き出した。妨害に怯むことなく全国での勉強会を強行した。
 平成2年11月16日の「池田スピーチ」の録音に成功した。
 翌日福島さんとテープ反訳をしながらあまりの猊下誹謗に驚いた。福島さんは直ちに総本山第六十七世日顕上人猊下に提出。池田大作は弁明の機会を与えられたが逆切れして反発。総反撃に出て自壊する。
 12月27日池田大作は法華講総講頭の資格喪失。法道院早瀬日如御主管(現第六八世日如上人猊下)のお取次で日顕上人猊下の御目通りをいただいた。そのとき不思議な感銘を覚えた。池田大作があたえた喜びと全くちがった種類の大歓喜である。
 平成3年11月28日創価学会破門。破門になるや日顕上人大誹謗の大合唱になった。福島さんの勉強会に対して学会は「池田先生が間違つているなら日顕猊下が総講頭に任命されているわけがない」と大見栄をきった。同じその口で「日顕宗」と罵しり偽本尊を大量に配布した。自分が何をいったのか覚えていないのか。

創価学会破門と池田大作の「出世の本懐」
 教義の解釈権に手を染めた以上池田大作が次になすべきことは、自筆の本尊をつくり、これこそ「池田大作の出世の本懐だ」と宣言することである。
 弛緩した池田の宗教的権威は高まる。ニセ本尊販売の経済的効果は計り知れない。これほどの好機を前に池田大作は後すざりをして見せた。
 矢野絢也元公明党委員長は池田大作のこの不思議な反応を。
「破門されるや、学会の会則に『三代会長』は永遠の指導者である』と書き加え、唯我独尊の道を歩み今日に至る。あたかも『生き仏』の如く君臨したが、それすら中途半端の感はぬぐえない。あくまで「『如く』なのだ」(「新潮45」平成25年8月号)と述べた。
 池田大作の論理はいたるところで破綻し、創価学会の公用言語はあたかも多重人格者の言葉のようである。
 あのすばらしい池田大作はどこに行ったのか。「サヨナラ」を告げた私はある日「政教分離を考える会」を立ち上げ街頭行動に出た。新宿区の靖国通りを学会本部そばまで何度もデモ行進。学会本部前ではしっこいほどニコニコ動画で同時中継。池田邪師の邪義を破折した。ビラの作成、配布。
 妨害も激しかった。ビラ配布中の学生さんが学会男子部幹部らに襲われた。西新井では配布中の伊藤さんが目を傘で刺された。裁判闘争が五つ。断固受けて立った。池田大作と戦う時、目を伏せてはいけないのだ。

おわりに
 平成26年11月の規則会則改正でとうとう「戒壇の大御本尊」否定を条文化した。
 平成27年9月5日、「日本宗教学会第74回学術大会」で創価学会教学部顧問宮田幸一は「過去に於いて創価学会は、学会の信心にだけ功徳がある、他の日蓮宗にはないよ、と言ってきましたが、--(日蓮宗の本尊を)拝んで、それは功徳がないよ、罰が当たるよ、ということは、もう言ったりできない、ということです」と述べた。いずれ池田創価学会は戸田城聖が斥けた釈尊像を本尊とするのだろう。
 たしかに戸田城聖の組織論には欠陥があった。池田を悪乗りさせた隙も一つや二つではない。しかし戸田城聖は最後まで日蓮本仏論を正説した。池田大作はさんざん迷った挙句そのくせ簡単に戒壇の大御本尊を否定した。どうして自己の存立基盤を破壊するようなことをしたのだろう?
 最澄は19歳で比叡山に登り十数年の写経三昧によって32歳の時「未だ無漏の法性身を得ざると雖も然かも先に六根清浄を得る」(「経師観行」)と述べた。最澄はつつしみ深く天台の悟りを超えたと言っている。19歳で入信し32歳で第三代会長に就任した池田大作はいかなる種類の悟りにも到達したとの発表がない。その池田大作が36歳で突然「戸田城聖を超えた」と喧伝した。
 「折伏大行進」の2年、池田大作は24歳で大蔵商事の取締役に就任した。業務内容はサラ金と同じ、後に、「いちばんいやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(「社長会記録」)と述べた。
 苦労はお察しするが、私は先生がいかなる修業をし、何を得たかを知りたかったのだ。池田大作は教団のコア(核)に純正の宗教体験を欠いたまま大進撃が続けられると信じていたのだ。邪宗池田教の誕生は昭和39年「本門の年」から決定づけられていたのかもしれない。
   ---------(120P-この項オワリ-)-----つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-33

2017-06-29 08:03:41 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(190P)---(以下本文)-------
4-3
言論出版弾圧事件で折伏停止宣言
 昭和44年12月、衆院選挙で九州は2名増の6名が当選。全体で47議席獲得した。自民党は創価学会を「無視しておけばよい対象から、アメとムチ、懐柔と強圧の手段を駆使せざるを得ない相手」と態度を変える。
 年末、赤旗が藤原弘達著の『創価学会を斬る』を田中角栄自民党幹事長らが出版中止を要請していたと暴露した。
 明けて昭和45年。共産党だけでなく社会、民主両党も追及に乗り出した。新聞は連日連夜創価学会批判の嵐。
 池田先生は第33回本部総会で陳謝し、創価学会と公明党の役職の兼務をなくす政教分離宣言をした。「国立戒壇建立」をひっこめ総体革命路線を打ち出した。
 そのうえ、「折伏停止宣言」までした。「これでいいのですか」と福島副会長が聞いた。先生は「これ以上折伏はできない。手持ちの750万世帯で天下を盗る」当時の統監上の実数は230万~250万世帯。これを原資に集票作戦に専念させれば天下が盗れると吐をくくったらしい。一切衆生の救済はどこに行ったのか。もはや宗教者の発想ではない。

逆風の衆議院選挙で長崎一区を担当
 昭和47年正本堂建立。
 九州学生部長だった私は10月結婚した。新婚旅行から帰ると、仲人でもあった館野幸延九州青年部長から「急に衆議院解散選挙になった。君には長畸一区を担当してもらうことが九州執行会議で決まった」と言われた。「いつからですか」「明日から。長崎会館で寝泊まりして指揮を執ってくれ」
 新妻は「選挙未亡人」と茶化されていたらしい。
 言論出版弾圧事件の逆風が強い。厳しい戦いになると思った。運よく長崎一区は当選した。公明党は29議席へ激減。大敗北だった。
 昭和48年正月2日。大石寺に初登山した。
 戒壇の大御本尊様の御開扉が終わって休憩していると、館野九州青年部長から「男子部でアメリカのマリブに研修生を出すことになった。10名なんだけど、小川さん、そのうちの一人は君だと池田先生からお名指しだったよ」九州幹部はみな驚いた。私も驚いた。パスポートがない!--。
 出発は3月9日、と決まった。

ご褒美でアメリカマリブ研修所視察
 霧島研修所本館の大浴場には7つの浴槽がある。池田先生は側近幹部と風呂に入った。浴槽に腰を掛け、みんなは湯船につかって話を伺う。私はお湯を浸したタオルで肩などを温めた。
 脱衣所では先生の汗をバスタオルでふきとる。先生はかるく足を挙げた。「あ、パンツをはかせろということなのかな」そのようにすると、素直にパンツをはいた。少しドキドキした。
 やがて山崎正友顧問弁護士が来て案件の報告をして去った。
 二人っきりになったので「先生マリブ研修メンバーに選んでいただきありがとうございます。あさって羽田から出発します。」「そうか。いってらっしゃい。アメリカ創価学会の良いところも悪いところも全部見てらっしゃい」「すると11日の学生部総会には君はいないんだ。さびしいね」と言われた。
「先生はお部屋に帰られました」と伝えると浴槽の側近たちは急にリラックスした。
 NSA (日蓮正宗オブアメリカ)の10日間の海外視察を終え3月18日帰国した。
 さすがに3000名の青い目の仏教徒を正本堂に率いてきたウイリアムス理事長である。統率力は見事だった。
 3月21日、九州青年部総会。出席するため九州文化会館に到着した池田先生から五階の和室に呼ばれた。私はアメリカ視察の報告をした。
「マリブ研修所の完成に向かって青い目の人たちが突貫工事をしています。先生を求める求道心には驚きました」
「そうか、でもアメリカにばかり行っているわけにはいかないからな。ところで、お金は足りたか?」
「足りました。でも貯金もなくなりました」 おや、という茶目っ気のある顔をして1万円のお小遣いをくれた。
 この時池田先生は「手裏剣のように小回りの利く新聞がほしい」と福島副会長に提案した。「九州から池田本仏論の総仕上げをしろ」という意味である。そこで誕生したのが「火の国」である。
 この「火の国」の論文が日達上人猊下の厳しい破折をうける。
「最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります」(昭和49年4月25日)
 昭和49年7月ごろ池田先生は日達上人猊下に謝罪した。これが強い怨念になって宗門制圧にのり出す。

池田大作第一次宗門制圧に乗り出す
 昭和51年12月の衆院選挙では再び長崎1区を担当。今回も当選させる事が出来た。全国で56議席。大勝利だった。
 年が明けて昭和52年1月15日、教学部大会。池田会長は「仏教史観を語る」を講演した。宗門からの独立宣言である。
 翌日の伸一会総会で野崎勲男子部長は「第2の身延離山も辞せず。諸君は覚悟してことに当たっていただきたい」と宣ベた。
「事に当たる」とは宗門の僧侶からわび状を取ることである。また在家も供養が受けられるとして特別財務を実施することである。野崎男子部長は私に「僧侶を攻撃し、末寺を味方にする。総本山の手足をもいで兵糧攻めにすればお山も頭を下げてくる」と話した。お山が頭を下げなかったらどうなるのだろう。
 私は3月から熊本、大分の特別財務の担当をした。熊本で20億2900万円、大分で13億9000万円集まった。二県だけで7年前の全国財務総額29億8311万円をはるかにしのいだ。
 私は、全県から集められた段ボール入りの現金を熊本会館の会長室に運んだ。その中で一人で寝た。
 7月17日、野崎男子部長より学会本部に出頭せよと電話が来た。組織センターにつくといきなり「小川頼宣! 九州青年部長だ!」といわれた。ハトが豆鉄砲喰ったような顔をしていたと思う。
 この頃すでに日達上人の猛破折と宗門の猛反撃が始まっていた。池田先生の旗色は急に悪くなった。
 8月、飛ぶ鳥を落とす勢いの福島副会長は池田先生から万座の中で「この宗教貴族!」と総括され失速した。福島さんも私も何が起こったのか分からなかった。
 池田先生は宗門制圧が困難であることに気がついたのだ。低姿勢で切り抜ければよいが、そうでなければスケープゴートが必要になる。
 加えて、民社党の質問主意書も勢いをそぐ原因の一つだったと聞いた。
       ---------(196P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-32

2017-06-28 07:50:12 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(186P)---(以下本文)-------
4-2
「永遠の生命はまだ思索中」の先生
 5月、福岡の立正寺で学生部大会が開かれた。九州第七部の新部長は山口総司(後の広報室長)。
 佐賀、長崎県はその下に配属された。会合が終わった後、九州第四部長の広田誠一(のち聖教新聞総支局長)が語った。
「本部総会で僕は会合の内容をそっちのけで池田会長が本当に日達猊下のことを信じているのか、この目で確かめようと思った。しかし池田先生にはみじんも演技のそぶりは見えなかった。ひたすら日達猊下に信順されていた。僕は池田先生は心の底から本物だと思つた」
 私は池田先生のことが気になり始めた。
 九州本部で学生部のグループ長会があった。私は「池田先生はいつ永遠の生命を覚知されたのですか?」と質問した。 学会本部から派遣された藤原道宏常任幹事らが「永遠の生命に関しては池田先生はいま思索中なのです。」と答えた。 私は驚いた。
 池田先生は「悟り」など得ていないといったのに等しかったからだ。
 五月の本部総会で池田先生は衆院選進出を決めた。
「創価学会は政党ではない。したがって衆議院にコマを進めるものではない」と永村先生がうけあってからまだ一年も経っていない。なんだか釈然としない。しかし身体はグイグイ衆院選へからめとられていった。
 6月30日第7回学生部総会、初めて上京した。席上池田先生は本門戒壇を論じた。私は台東体育館の3階の片隅で遠く壇上を望んだ。はりのある力強い声だという以外、取り立てて言うほどの感想はなかった。私は「池田先生はすごい」という感激の輪から遠いところにたたずんでいた。
 総会終了後、信濃町の学会本部でグループ長の面接を受けた。
 7月5日聖教新聞一面でグループ長に任ずると発表された。
 10月11日、佐賀会館の入仏式。以後会館警備で月に4~5回泊まることになる。
 学会は500万世帯を突破。一年半の間に200万世帯の折伏か。爆発的な増加だ。だけど佐賀はほとんど増えていない。よほど他が頑張っているのだろう。
 11月23日、公明党北九州大会。私は土橋班長、平島班長と若戸大橋を渡って原島宏治委員長の講演を聞いた。
 12月9日、その原島理事長が亡くなった。ショックだった。

昭和39年「本門の年」から異軌道に入る
 日刊化された聖教新聞は衆院選に向けて大きな紙面を割き始めた。タダでさえ忙しい学会闘争に、衆院選挙というこれ以上ないくびきがかかった。
 しかし学会員は選挙をするために入信したのではない。それぞれの悩みを解決するために入信した。いわゆる「貧・病・争」をどう解決するか。
 池田大作の思想は、下部構造ともいうべき個人の貧・病・争の前には有効性を発揮できないでいた。
 広宣流布の現場は厳然と戸田思想が支えていた。
 池田先生はかずかずの講義録で世界を縦横に説明した。
 だが教学は世界を解釈するためにあるのではない。御本尊に対する信を開くためにあるのではないか。教学で学会再建を果たした。戸田城聖は「教学をやっても成仏とは関係ない。成仏は大御本尊様を信じて勤行、折伏に励むところにある」と言いきった。
 教学は言ってみれば薬の効能書きである。薬の本体は本門戒壇の大御本尊様である。戸田城聖は効能書きを懇切に説いた。薬をどう飲ませるかにはさらに腐心した。そしてなによりも御本尊に対する人々の信を揺り動かした。それだけの何かを戸田城聖は持っていた。「折伏大行進」が時代を揺り動かしたのは戒壇の大御本尊に対する信を胸に庶民が歩き始めたからである。
 仏教史からいえばこれは新大乗仏教運動と呼ばれてしかるべき性格を内包していた。
 この運動の推力は常に原点回帰するダイナミズムにある。
 池田先生は「大聖人の昔に還れ」と掛け声をかけたが内実を政治運動に転換させた。新大乗興起運動は世界史の軌道に乗る前に推力を失つた。
 政治の場は人の理性では制御できないほどの欲望が渦巻いている。だからこそ戸田城聖は創価学会の衆院進出を封じたのだ。
 この質的変換のツケが出てこないわけがない。
  5年後に言論出版妨害事件、それから7年後に第1次宗門乗っ取り事件を起こし会長を辞任、さらに13年後、第2次宗門戦争をしかけて第六十七世日顕上人猊下より破門される。
 創価学会は日蓮正宗の軌道から外れはじめ、昭和60年にはフランス国民議会から「創価学会は力ルト宗教」と呼ばれるまでになった。恥ずかしい。

「師匠に帰命する」闘いと第一庶務
 昭和44年7月、おそらくは創価学会最盛期の頃、私は外資系の会社を退職し、九州本部に出勤した。所属は庶務部。
  8月、就任早々の福島源次郎男子部長が職員朝礼で「師匠に帰命しきる信心を確立せよ」と指導した。師匠に生命をすてよ、と言った人に初めて会った。私の心は共振するようにふるえた。
「常に師と倶にあろう」と思った。私は池田先生と歩きはじめた。
 11月6日、九州文化会館が落成した。
「師匠をお迎えする戦い」は壮絶なものだった。私は1か月の間ほとんど家にかえらず準備に当たった。睡眠不足の身体がヒメイをあげていた。
 当時の第一庶務室長は中西治雄氏。第一庶務は1階の事務局に陣取る。女性職員は第一マルジョと呼ばれ、5階の会長専用フロアの一室に控える。そこが先生との中継点になる。「先生はお寝みになりました」と最終電話が入るまで私は報告書を持って5階まで上り下りした。夜間は先生の騒音になるとエレべーターの使用は禁止された。
 報告書には先生の細かい指示が赤鉛筆で記される。聖教新聞のゲラまで先生が目を通す。時には自ら朱を入れる。
 池田先生はすべての情報を掌握し、最高幹部から一会員にいたるまで信賞必罰で臨んでいた。これを統括する第一庶務には副会長でさえ頭が上がらない。
 その日、九州文化会館の屋上にアーチエリーの試射場をこしらえた。
 池田先生は軽々と的に命中させた。私は矢を拾っては届け続けた。
 あとで「あの若者は?」と聞かれたという。私は先生の目にかなったようだ。以後池田先生の九州指導のたび、第一庶務に編人された。先生の側にいると緊張の連続だったがうれしかった。飛び切り上等の笑顔に接するとどんな疲れも吹つ飛んだ。
(※5代にわたり第一庶務室長に仕えた。8年目の夏、九州青年部長に任命された。当時学会本部長だった福島源次郎副会長のところに挨拶に行くと「おめでとう! 先生の直々の人事だよ」といわれた)
 45年11月7日、池田先生は霧島研修所の視察に向った。「霧島を創価王国にしょう」と本館に次いで火の国道場を建設した。ミョウバン温泉の泉質が気に入り全国から幹部をよびよせた。長逗留が続いた。私はひと月以上先生のそばに仕えることが珍しくなくなった。夢のようなまぶしい日々。
 池田先生の朝夕の勤行の際は経机まで焼香台を運んだ。
 池田がおかしくなったのは勤行をしないからだという人がいる。私の見た先生は朗々と勤行をしていた。
 (※「その先生がなぜ狂ったのか?」と問いかけたのは福島源次郎元副会長であった。
 平成元年8月、我が家を訪れた福島氏は「池田先生の妙法観、本尊観が違っていた。信心の血脈が違ったからこれほどの大狂いになったのです。」と語った。師匠に仕える道を教えてくれた人の言葉に私は驚いた)
       ---------(191P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-31

2017-06-27 08:14:02 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(179P)---(以下本文)-------

まぼろしの池田,レーガン会議はいかにしてつぶされたか   小川頼宣
熊本、涌徳寺で御授戒を受ける
  昭和38年、私が高校三年生のころ学会員の友達がいた。私は宗教が政治に口を出すなどとんでもない。「幸福製造機」などとは無知な大衆を食いものにする金儲け宗教である。それに個人崇拝は思考の停止ではないかと攻めた。
 栗山勝也君はいちいち反論し、ある日「お前のへ理屈にはついていけない。永村先生のところにいこう」と言い出した。
 永村保先生は母校の国語の教師である。(のちの創価女子学園副校長)「少し調べ物をしてでよければ先生の所へいこう」
 熊本市立図書館に通った。
 調べたかったのは「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」といわれた当時の高僧達は、どう反論したのかであった。それにふれた文献はなかった。「じゃあ言われっぱなしだった?」
 ひと月ほど経ってまとめたレポートを自転車の後につんで永村先生のお宅を訪ねた。
「清少納言もそう言っているから法華経は第一の教えだと思う。しかしだからと言ってなぜ他宗を邪宗というのか?」
 永村先生は「創価学会が言っているのではない。日蓮大聖人がおっしゃっているのである。泥棒を泥棒と言つて何が悪い。間違った宗教を邪宗と言つて何が悪い」と話が始まった。
 戸田城聖は獄中で法華経を色読、200万遍の題目により、永遠の生命を覚知し、75万世帯を達成。末法は日蓮大聖人が御本仏であると熱っぽく話が続いた。
 以下日興上人、身延離山、戒壇の大御本尊、法水瀉瓶、宗教批判の原理、価値論、御義口伝をひいて法華経とは私たちの生命のことを説かれているのだと説明があった。
 心が大きく動いた。夜中の11時過ぎ、戸田先生の「方便品・寿量品講義」「折伏教典」、小平芳平著「創価学会」高瀬広居著「第三文明の宗教」などを借りて辞した。
「折伏教典」は面白かった。人は死んだらどうなるかという「生命論」の素直な問いかけは共感できた。また「方便品・寿量品講義」には釈迦一代の仏教を俯瞰するような高揚感を感じた。
 僕は戸田城聖という人を知りたいと思った。
 5月、学会は300万世帯を突破したという。
 8月7日、涌徳寺で高野御住職から御受戒を受けた。
 本棚を空にしておしきみを供え、ご本尊を安置し、夜の勤行をした。
 20日後、九州本部で行われた九州学生部大会に参加した。渡部城克学生部長(のち衆院議員)は指導の途中、居住まいを正して誰かにあいさつをした。「おう、きていたのか」と答えたのが石田次男副理事長(当時参院議員)であった。すごい貫禄だ。6年後この石田次男宅に私が住むようになるとは夢にも思わなかった。
 8月末に母・春日が入信し、9月に父・逸雄と兄・頼昭が御受戒を受けた。当時、御受戒は折伏とは認められず、御本尊下付をもって折伏一世帯とされた。
 10月、級友の田尻君を折伏した。すぐ分隊長に任命された。
  家庭訪問をして「一般講義」へ結集を図った。
 当時の一般講義は、壇上に県の大幹部が勢ぞろいして受講した。
 講師には学会本部から小川新一郎参謀(のち衆院議員)や九州本部から川内弘参謀が来た。一般講義の後、沼川洋一部長(のち衆院議員)を中心に男子部の指導会が行われた。壇上の川内参謀から「第六師団の気概はどうした! こんなことで百万達成はできるか!」大喝をくらったこともある。
 その川内参謀が1か月後亡くなった。ショックだった。
 その頃熊本にはまだ会館がなかった。会合は涌徳寺で行われていた。
 涌徳寺での学生部会には毎月学会本部から原田稔常任幹事(のち第六代会長)らが来熊して指導した。
 弁論大会の選考委員には野崎至亮常任幹事(のち講義部長)が出席した。平木功一部長宅に泊まり明け方まで生命哲学を語った。
 私は哲学に興味が出てきた。「九大の哲学科に行きたい」と担任に話した「どこの大学を受けてもよい。うちの高校は赤点が3つあったら卒業できないことは知ってるな。小川は今赤点いくつだ」「6つです」「卒業することが先決だ」先生はニコニコ笑っていた。私は劣等生だったのだ。
 勉強の意欲が湧いてきたが勉強の仕方が判らない。
 級友蒲池君に聞いたら親切にいろいろ教えてくれた。その通りに勉強した。二つの試験で370人ぐらい抜いた。卒業も危なかった私は、現役で国立大学に合格した。職員室では「小川ばかりは創価学会に救われた」と言われたそうだ。

総本山第六十六世日達上人猊下のお目通りを得る
 昭和39年。東京オリンピックの年。
 1月3日、任用試験。全国では50万人が受験し、28万9160人が合格。私も合格した。
 3月4日、水前寺体育館で九州男子部幹部会が行われた。平木さん(のち総合女子部長)が通りかかった。「小川君、明日は熊大の入試じやないか。すぐに帰って勉強しなさい」と言われた。
 永村先生からは出席するようにと言われていた。迷ったが結局、幹部会に参加した。そのせいかどうかわからないが、熊大には落ちた。
 3月8日、総本山第六十六世日達上人猊下が涌徳寺の板御本尊の人仏式にみえられた。「義浄房御書」「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり。一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり」のご説法を聴き、私は仏法に得心がいったような気がした。よく判らないのに得心したとは変だが心の底にストーンと何かが届いたのだ。
 合掌礼をして日達上人の前に座った。日達上人はきちんと眼を見て頷かれた。頂いた杯を干し退座した。私は不思議な感銘を受けた。そのお姿をいつとはなしに思い浮かべながら50余年なんとか信仰生活を全うできた。

あわただしい入学試験と入学式
 3月22日、佐賀大学の入試である。佐賀駅に着くと平木さんの連絡で山田明グループ長(のち佐賀会館事務長)が宿泊所の末永千恵子佐賀支部婦人部長宅まで案内してくれた。
 4月1日、合格電報が来た。電文は「本門ノ第一ノ勝利オメデトウ来佐ヲ心ヨリ待ツ」とあった。4月1日を期して「創価学会は“広布本門の時代”に突入した。」という。
 入学式の前日、リヤカーを調達して平木さんの引っ越しの手伝いをした。夜遅くなった。明け方の汽車にとび乗って佐賀駅に着いた。
 佐賀大学にむかい、入学金をおさめる。そのあと入学式、入寮手続き。荷解きをしょうとしたら山田グループ長から「今夜福岡から幹部が来て指導会があるから出席してください。僕は隊長会があるから出れません。」といわれた。出席したら「疲れた顔をしてる!」と叱られた。

猛烈な折伏闘争
 翌日、寮長に「勤行していいですか?」ときいた。「太鼓か何かたたくんですか?」「いいえ、叩きません。法華経を読み、お題目を唱えるだけです」「ではいいですよ」
 部屋は広く16畳半。教室を半分に仕切ったらしい。入ってすぐ左手に4年生でマルキストの山田さん、右手にクリスチャンの山口君。奥の土橋一正さんと僕が日蓮正宗信徒。丁寧にあいさつをし、勤行を始めた。マルキストとクリスチャンが黙っているわけがない。
 4月私は学生部の班長と男子部の班長に任命された。
 所属の佐賀支部多布施地区には隊長が不在である。だから隊長代理をやれという。
 折伏と座談会の結集、運営。終了後は参加人員の五者別報告。その後地区部長会。民音の会員募集と年会費集金。年末は公明党員の申込み事務までやった。これに300万総登山の輸送任務がつく。王仏冥合の前線基地はただただ忙しい。
 会合がない日は家庭指導に行く。班長班担さんは当然のような顔をして私に「指導してくれ」という。私はおじさん、おばさんの指導などしたことがない。18歳の私は戸田城聖の指導を首っ引きで読んで指導した。戸田城聖の指導は人々を納得させるものがあった。
 5月10日平木さんからハガキが着いた。
 常任幹事に任命されたという。なんだか誇らしかった。すぐ佐賀指導に来てくれた。僕の部屋で勤行、懇談をした。その後深夜映画を見て、そのまま3時過ぎの汽車で長崎指導に向かった。
 この深夜列車は、三派系全学連が佐大の寮で休憩合流した後、佐世保に原潜寄港反対のデモなどに向かったルートである。寮こそは学生運動の温床であった。
 文部省は寮の自治を嫌い、まずは電水料自己負担、ついで舎監をおくといってきた。佐大生たちは猛反発。やがて教授たちの反動的な発言に失望し大学当局と対決。ついには機動隊導入にいたる。
 高橋和巳が「大学闘争がもった意味は、知識人のおちいりがちな欺蹣に対する根源的懐疑を通じての集団的規模における意識変革運動でありそれが思想的なついで社会的な運動に展開したことであった」とのべた通りである。
〈米3人の新入生が始めた折伏戦は徐々に広がり始めた。ベトナム戦争、文化大革命。佐世保の原潜寄港反対、九大ジェット機墜落事件、そして佐大闘争等々大学は燃えていた。機動隊の砂埃りのなか学生運動の闘士も次々と入信し、4年後には100名近くの折伏ができた。学内では最大級のセクトになった。他大学に通う通学生を含めると、200名を越し総本山の夏期講習会に列車を一車両貸し切って参加した。)
       ---------(185P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-30

2017-06-26 09:46:26 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(172P)---(以下本文)-------
2-2
◆ 創価学会の重大欠陥
 母は学会初代の本部婦人部長、文京支部婦人部長、本部副婦人部長を歴任しましたが、昔は役職にこだわる人ではありませんでした。母の視線は、いつもあたたかく、自分よりも下の役職の人、そして未人信の世間の人々に向けられていたと思います。母の入信は昭和14年、私が3歳、嵩が1歳を過ぎた頃のこと、翌年に父も入信し、二人で力を合わせて折伏行に邁進し、蒲田支部の基礎を作りました。数年前、『慧妙』紙にこのように書きましたところ、学会の怪文書『フェイク』から「嘘だ、偽りだ」との反論がありました。
 ところが他ならぬ初期(昭和30年頃)の聖教新聞の記事に、「原島先生は蒲田支部の基礎を築いた人」などと紹介されていますので、『フェイク』でもこの件についてはすぐに沈黙するしかなかったのです。
 父の人信した年か翌年にかけて隣家の白木家が、私の両親のねばり強い折伏で人信(次女のかね子さんが、後の池田大作夫人)、同じ頃、父の教員仲間の小泉隆氏、そして小泉氏の折伏で辻武寿氏が入信、次いで辻氏の折伏で三宅家が入信(これは戦後になってからですが、三宅家の次女淑子さんの紹介で池田大作が入信)という次第で、学会の草創期から我が家と池田家とは強い絆で結ばれていた(はずな)のでした。
 そして戦時下の疎開先の奧多摩でも那須の両郷村でも母は折伏行を続け、何人かの入信者を生んでいます。終戦後居住した文京区の雑司が谷では、我が家は全くの一粒種から文京支部を創りました。
 しかし、戸田会長の眼から見て、私の両親そして小泉・辻両氏も、自分のことを単に兄弟子ぐらいにしか思っていない、と写っていたようです。昭和24年の春頃のこと、私の両親と小泉・辻の両理事が、突然、謹慎を命じられました。小泉婦人に謹慎の理由を聞かれて、戸田会長は次のように答えました。「小泉は、牧ロ先生をお慕いするあまり、つくべきところを間違えているのだよ。小泉は私を、兄弟子ぐらいにしか考えていないね。私は、今はなんといっても牧ロ先生の後をうけて立っているのだからね。私は師だよ。そこに信心の誤りがあるのだ」(『大白蓮華』昭和33年7月号)
 この3年後、母は2度目の謹慎処分を受けました。謹慎の期間は3年にも及びました。その辛く苦しい経験は、母の心を、ひたすら会長に気に入られるように振る舞えば良いのだ、というように変化させたに違いありません。
 戸田会長は自分が特別な人間なのだ、という信念の由来を戦時下の獄中で悟りを開いたことに置きましたが、池田は、自分が何事にも通達してる万能な人間であることを、ことあるごとに強調してきました。私の家内は昭和40年の頃、北海道網走支部女子部の部長をしていましたが、知り合いの女子部幹部から次のような話を聞かされ、本当に驚いたと言います。「池田先生ってすごいのよ、何でもおできになるんですって。詩や和歌を詠んでも、みな一流のものをお作りになると聞いたわ」
 しかし、これら何百万・何千万冊、いやそれ以上にものぼる駄作の群が、池田ならびに創価学会の評価を完全に地に落ちさせていることを、本人が気付くときがくるのでしょうか。

〈補〉
池田大作の人心収攬術
 日蓮大聖人のお言葉に「異体同心」があります。このお言葉の意味は、老若男女、職業、境遇などの相違を問わず、多くの人々が同一信仰のもとに志を同じくして、広宣流布という究極の目的を達成するために力を合わせていくことです。 池田も当然「異体同心」の重要性を知っていたはずですが、ただし、御書の意味する異体同心と池田の意味するものとは、かなりのずれがありました。
 つまり、池田にとっては、池田の心に他人が各々の心を合わせるのが異体同心で、絶対にその逆であってはならないのです。
 もちろん、池田と交際し始めた頃の私にはまだ池田の心が分かりませんでしたので、彼の言動の真意を計りかねていました。池田と初めて直接会ったのは昭和31年の夏の夜、その前々日には参議院議員選挙が行なわれ、創価学会から立候補した白木義一郎氏が見事当選しました。その選挙参謀が池田でしたので、既述のように私は母と共に、お祝いを言うために、大田区小林町の池田宅を訪問したのです。時刻が夜半に近づき、すでに寝所にあった池田に、「先生、これで失礼します」と別れのあいさつをしますと、池田は厳しい口調で「先生ではない! 兄さんと言いなさい」と命じますので、私は少し気恥ずかしい思いはしましたが、「兄さん、失礼します」と言い直して帰途につきました。帰りの道すがら、母は笑いながら「池田さんは、私たちをお父さん、お母さんと呼ぶのよ」と言いました。とても嬉しそうでした。
 その後、私はしばしばその夜のことを思い出しては、あの池田の言葉の真意は何だろうかと考えました。そして、本当の兄弟のような仲むつまじさとまではいかなくとも、多少は弟が兄に甘えるように甘えても良いのだなと考えました。また、大聖人の御書、『異体同心事』にあるように、共に固く団結して広布の道を歩んで行こうという意味も込められているのだとも思いました。
 それから間もなく、私は池田の口利きで聖教新聞社の記者になることができ、その翌年、1月2日の池田の誕生日に、私と弟の嵩が池田家に招待され、その場で松島通子さんに会ったことは以前に記した通りです。そして、その翌年の1月2日にも、私と弟は池田家に招かれました。その時、池田は私達に向かって、「こうしてわたしの誕生日に招待するのは、わたしが特別に親しく思っている人達だけなんだよ」と言いました。その場には通子さんはいませんでしたが、湊時子さんがいました。当時、学会の女子部長で、後に山崎正友氏が、二人は愛人関係にあったと暴露したその人です。
 池田は、母と私にこうも言いました。「いつでもわたしの家に来なさい。いろんなことを語り合おうじゃないか」と。 私の池田を信頼する気持ちは、ますます高まりました。私の父母も同じ気持ちだったに違いありません。父は、この人になら、子供たちの将来を預けても心配ないと思ったことでしょう。
「いつでも会いに来なさい」と言われた私は、その池田の言葉を真に受け、母と二人して、日曜日の午前十時頃、池田宅をおとずれました。その時、池田がどんな話をしてくれたか、後で思い出そうとするのですが、少しも記憶にありません。特にどうということもない平凡な話で終始してしまったのだと思います。その翌週の日曜日の午前、母の強い希望もあり、私も、このままで話が終わるわけがないと思っていましたので、また母と二人で池田宅をおとずれました。しかし、玄関に対応に現れた奥さんのかね子さんは、とても気の毒そうな顔をしながら、「主人はまだ臥せっておりますので、また別の日に御出下さるよう申しております」と言いました。その帰り道、足取りも重く歩きながら考えました。そして池田に甘えようとした自分の馬鹿さ加減が嫌になりました。
 このことがあつてから、私は冷静に池田の真実の姿を見詰めようとするようになりましたが、母は、そして父も、相変わらず絶大な信頼を池田に置いていました。そして、昭和33年4月に戸田二代会長が急死、特に後継者を决めていなかったにもかかわらず、それほど間を置かずに父は池田を三代会長に推薦すべく立ち上がります。そして、小泉理事長や竜利光氏等の時機尚早の慎重意見を押し退けて、2年後の35年5月に池田を会長にすることに成功します。しかし、死の直前の父は、池田の信仰心に、何か異質のものを感じ始めていました。その後の池田を見ることができたとしたら、あれだけ池田を信用したことを、激しく後悔したに違いありません。
  池田は言葉だけで人の心を掴む天才でした。しかし、言葉を飾るだけで実行が伴わず、また自らの言葉に反することを続ければ、必ず人心を失います。それは池田に近い地位にある人ほど心が、そして人によっては心も体も、池田から離れていきます。このことは、池田創価学会の現在までの姿を見れば、誰の眼にも明らかでしょう。
   ---------(177P-この項オワリ-)-----つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする