創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

闇の帝王・山崎正友-16

2016-02-05 08:34:07 | Weblog

私は山崎正友を詐欺罪から救った! -- 2002/05
   --アウトローが明かす巨額“手形詐欺”事件の真実--
    -------(前回、139P)--以下、本文--
第4章逮浦
1 山崎正友の逮捕
 私は山崎から逃亡の指示を受けた後、一応の連絡をすませると、タクシーで芝白金にある都ホテル東京に向かった。五日間の予約で部屋をとり、この日から私の逃亡生活が始まった。私は、このホテルの部屋でこれからのことを考えることにした。
 まず、山崎が言うようにシーホースが詐欺事件で捜査されているなら、捜査二課(知能犯担当)が出てくるはずなのに、なぜ捜査四課(暴力団担当)になったのか。四課が出てきた以上は、ヤクザ者の私を専らの捜査対象にしたのではないかとも思える。
 シーホースの件で私と、私が引き入れた仕事師たちを対象に、内偵に入ったのも間違いないように思えた。
 シーホースの倒産時に、関係した債権者のすべてを抑えたつもりだが、万が一でも抑え漏れがあった場合、その穴から綻びが出て事件になりかねない。まずは、この抑え込みを確認することから始めなくてはならない。
 すぐに仕事師らに連絡をとり、再度、債権者の抑えの確認を命じた。確認の結果、債権者には脅しが利いて被害届は出ないから大丈夫だ、との回答が得られた。
 また、債権者には同業の仕事師も含まれていることがわかったが、この連中は、ヤクザ者の私が仕切っていたため、警視庁の捜査には絶対に協力はしないから安心してくれという回答があった。
 こうなれば後は、山崎の動向を見るだけである。私はホテルに滞在しながら、警視庁の動きに気を使い、山崎と電話で連絡を取りつつ自分の身を隠し続けた。
 一方、山崎は創価学会への造反を鮮明にし、昭和五十五(一九八〇)年九月には実名で週刊誌や月刊誌に登場して大攻勢をかけていた。
 山崎は、「創価学会が関係した事件は、すべて池田名誉会長の指示と了解のもとで行っている。本当の悪人は名誉会長の池田大作氏で、池田氏を創価学会から追放しない限り、創価学会のトラブルはなくならない」などと、池田名誉会長を攻撃の的に絞って数々のニセ情報を流し、攻撃を激化させていった。
 芝白金のホテルを根城に約二力月間、私は身を潜めていた。
 その間に警視庁の内偵は進み、シーホースの被害者が、次々と警視庁に呼び出されていた。だが、呼び出された被害者からは、一つも被害届は出されていない。そのことも確認していた。
 また、山崎の情報でも、なんとか詐欺事件の方は収まりそうだとのことだった。
 警視庁は詐欺の立証は難しいと踏んだのか、シーホース倒産事件の内偵中に出された創価学会の告訴を受けて、三億円の恐喝事件に的をしぼる捜査に方針を転換していたのだが、これに私はまったく気付いていなかった。
 昭和五十五年十一月十六日付け毎日新聞「創価学会告訴事件」「恐喝捜査、核心へ」「山崎弁護士から五度聴取」の報道を皮切りに、この年の年末にかけて全国紙などに「山崎の逮捕が近い」との記事が出るようになって、私は山崎もこれで終わりかと考え始めていた。
 昭和五十六(一九八一)年が明けると、「山崎元顧問弁護士の恐喝成立」「創価学会の3億円告訴」「警視庁、最終決断へ」(毎日)、「山崎弁護士再聴取へ」「3億円恐喝、大詰め」(読売)、「創価学会告訴事件」「恐喝成立の見方」「警視庁、地検と最終検討へ」(朝日)など、捜査が大詰めを迎えたという記事が連日、紙面をにぎわせるようになった。
 そうして迎えた一月二十四日、山崎は逮捕される。この時の模様を、少し長くなるが翌日の朝日新聞朝刊(社会面トップ)から抜き出しておく。
 見出しには、「逮捕できっこない」「連行直前まで強気の弁」とある。

--小柄な山崎正友を突然、三人の男が取り囲んだ。『警視庁の者です。緊急にお話をうかがいたいことがあるので、同行願います』。一瞬キヨトンと男たちを見上げたあと、山崎の顔はみる間にあかく染まった。
 二十四日午後二時四十二分。東京,四谷の山崎の自宅前、『新宿通り』の歩道上。この八力月にわたって社会をにぎわせた創価学会攻撃キャンべーンの『主役』がー転して刑事事件の『主役』に転じる。
“その一瞬”は、まことにあっけなかった。『本当に警視庁の人なんでしようね』。手はブルブルふるえ、声もかすれがち。待機していた小型乗用車の後部席に押し込められるように乗ると、そのまま警視庁に連行された。
 この任意同行から一時間余り前の午後一時半、記者は自宅に山崎を訪ね、彼の心境を聞いた。山崎は雄弁に、強気に、間髮を入れずにしゃべくりまくった。
『警視庁は私を逮捕できなくて弱っているようだね。あたりまえじやないか』
『警視庁は逮捕したくても、こんな証拠じや地検が了解しない。証拠不十分で不起訴間違いない』
『警視庁捜査四課は、調べが荒いからねえ。チョウチョやトンボじゃあるまいし、そう簡単につかまつてたまるか」
 そして、昨年七月から、一時は匿名で、後には実名で連載を続けている週刊文春の原稿を持って、記者ともども部屋を出た。八階からエレべーターで一階へ。三人の捜査員が山崎を取り囲んだのは、その直後だった。
 警視庁が山崎弁護士逮捕を決めたのは、二十四日未明のことだった。一週間ほど前から捜査四課は山崎弁護士に事情聴取のため出頭を求めていたが、山崎弁護士はかぜと持病の心臓、じん臓障害を理由に出頭を拒否。二十三日になって、山崎弁護士が二十四日夕病院へ入院する手続きをとった、という情報が捜査四課に入った。
 ここで『山崎入院』となれば捜査がこの先、数力月間、空転することになりかねない。
『山崎逮捕』の決断をかけて二十四日早朝から捜査員が街へ散った。
 山崎は、『入院で二力月はかかる』と報道陣にいい、週刊文春編集部に原稿を届けたあと、その足で病院に入る手はずを整えていた。この日の警視庁の逮捕は、その機先を制したものだった。--

「山崎弁護士を逮捕」「創価学会3億円恐喝、5億円未遂容疑」という大きな見出しで山崎逮捕を知った私は、山崎が私との密約通り、「シーホースの事件は塚本の責任である」
 と警察で証言するはずなので、自分の逮捕も間近に迫つていることを覚悟せざるを得なかった。
 私は、「創価学会乗っ取りを成功させるために、自分を守ってくれ」という山崎の言い分を呑んで、山崎と密約を交わし、逃亡生活に入った。
 しかし、山崎が逮捕された後も、このまま逃亡を続けることがよいのか、それとも先に山崎が逮捕されたので、私も警視庁に出頭して彼をかばう供述をした方がいいのか判断に迷った。
 そこで私はシーホースの社長であった坂本に連絡をとり、山崎から逮捕前に何か聞いていないかと、今後の対策などを相談した。その結果、山崎は自分が逮捕されるのを予想していたらしく、すでに弁護士を決めていることがわかった。
 この弁護士は山崎と司法修習の同期で、共産党系の弁護士K氏であることを聞かされた。
 また、私のことに関しては、この弁護士を通じて山崎と相談するようにと決められていた。
 私はK弁護士の連絡先を聞いて連絡し、今後はどのようにするのかを聞き、弁護士の指示に従うことにした。
 この時のK弁護士の話では、山崎との約束通りに逃亡を続けてくれ、とりあえずの逃亡資金は預かっている。足りなくなったら自分の方で用意する。山崎の方から指示が出るまでは今後も大変なことと思うが、「なんとか逃げていてくれ」と彼から伝言を受けているので、よろしく頼むというものであった。
 また、山崎に用事がある場合はいつでも連絡をくれと言われ、結局、逃亡を続行するよう言い渡されたのであった。
 逃亡資金は弁護士を通じて渡すという条件にしたがい、さらなる逃亡生活を続けることを承諾することにした。逃亡延長の承諾を弁護士に伝え、山崎にも安心して警察と対峙するようにと弁護士に伝えた。
 そのあとで、私はこの日まで逃亡のために宿泊していた都ホテル東京をチェックアウトして引き払い、近くの高輪ホテルに宿替えをした。
 山崎の逮捕で、今後はますます私自身に警視庁が注目すると考えられる。今までのようなホテル住まいだと目につきやすい。それに山崎の逮捕で、これまで通りの逃亡資金が貰えないことも考えられる。
 また、この先どれほどの時間がかかるのかもわからない。それゆえ、ホテル住まいでは余分な金もかかるので、私一人が身を隠せるマンションでも借りた方がいいと思いたった。
 そこで麻布十番にある知人の不動産屋に行き、そこの紹介で西麻布の中国大使館の裏に、いい条件の住居を見つけることができた。
 その資し部屋は一軒家の三階にある2DKだった。貸し部屋は三階に一つだけで、建物は外から見た場合、普通の一軒家にしか見えず、隠れ家とするには最適だった。
 私は、その日のうちに賃貸契約を結んでホテルを引き払い、その部屋に移り住み、逃亡生活を続けていった。
       ---------(148P)-------つづく--

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