創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田の真実-26

2015-04-30 07:12:40 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7--<日新報道・¥1429-購入>
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
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第三章 日本乗っ取り─創価学会、公明党の陰謀
I 常軌を逸した出版妨害事件
◆出版妨害事件の口火
 今から三十数年前の昭和四十五年、創価学会は、言論出版問題で、大きくゆれて
いました。正確には「言論出版妨害事件」と呼ぶのがふさわしいと思います。とにかく、
池田大作の国会喚問が取り沙汰されていたのです。私は池田の側にずっとついていま
ましたので、そのときの池田のうろたえぶりは、つぶさに見ています。そもそもの発端
は、明治大学の教授で政治評論家でもあった藤原弘達氏が『創価学会を斬る』という
創価学会批判本を昭和四十四年十一月に日新報道から出版するという話を創価学会
が事前に知り、その出版差し止めのため圧力をかけたことに始まります。まず東京都議
であった藤原行正氏が、藤原弘達氏の自宅を訪れ、「出版を中止にしてくれ。それが
無理なら池田会長の批判だけはやめてほしい」と申し人れたのです。当時、創価学会
に対する批判は大目にみても、池田会長に対する批判は絶対に許さないという風潮が
学会内にありましたので、藤原行正氏も「池田会長の批判だけはやめてほしい」と要
求したのです。池田の無謬性、絶対性は、創価学会の生命線だからです。この池田批
判を許さないという体質は、今も続いています。藤原弘達氏は、この申し入れを突つ
ぱねました。そのため、当時、公明党の委員長であった竹入義勝氏が、池田の意向の
もとに、当時自民党幹事長であった田中角栄氏に依頼したのです。
 同年十月十五日、赤坂の料亭「千代新」で、田中角栄氏と藤原弘達氏の会談がセッ
トされました。
 藤原弘達氏は、この田中幹事長の申し出を拒否し、本が出版された後の十二月、こ
の事実を、共産党機関紙「赤旗」に発表しました。またテレビ討論でも、共産党の国
会議員が、公明党議員に、その事実を追及すると、公明党側は「事実無根」で押し通
そうとしました。翌年の一月冒頭、学会の総務会でも、竹入委員長に対し、事実無根
で行くようにという結論になり、竹人氏は新年初の記者会見で、一連の妨害工作を事
実無根と発表しました。田中角栄氏がそれを受けて「つぶやきが聞こえたので、おせ
っかいをやいただけ」と語ったことが引き金になって、マスコミは、一斉にこの問題
を報じるようになりました。
 学会の藤原弘達氏へ圧力はこればかりではありません。「言論部員」によるいやが
らせの投書は、段ボ─ル数箱分に及んだといわれます。また、出版社にも毎日のよう
にハガキ、手紙、電話による脅迫が続いたそうです。こうした投書や電話攻勢は「言
論部員」が、会館に集められて、上からの指示で書かされたり電話をかけたものです。
 こうした圧力は、藤原弘達氏に対してだけではありません。あらゆる学会批判出版
物に対してなされたのです。
 昭和四十五年に入ると、この言論出版事件は、共産党のみならず、社会党や民社
党も、国会の場で厳しく追及するようになりました。
 池田は、病気を理由に箱根研修所に身を隠すようになります。副会長制もしかれ、
あたかも集団指導体制を図るかのようなポーズをとります。池田は、ヒステリックに
「私を守れ」「法難だ」を口にするようになります。私たちには「熱があって、万年
もにぎれない」といって頭に氷のうをのせ、弱りきつた姿をさらしていたのです。熱
筆があるというわりには、温泉に一日に二度も三度も入るというのも、おかしな話で
す。
 池田は、明らかに国会証人喚問を恐れていました。この喚問を回避するためには、
彼は何でもしたのです。田中角栄氏にも借りをつくってしまいました。また当時の佐
藤栄作首相にもみずから電話し、国会喚問回避の根回しをしました。また民社党の
西村委員長にも、「公明党を民社党に合体させる」と口約束をし、その場をしのごうと
しました。
 ────────────────改頁────── 111--つづく──

 

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池田の真実-25

2015-04-29 08:28:44 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429円
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳
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◆名誉、権力への妄執
 同時期、池田大作と呢懇なジャーナリスト高瀕広居は、次のように、その目撃談を
綴っています。
「池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェアーにアグラをかき直すと、煙草を
一服し、静かに、そして激しい語気でいった。
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指
導者・最高権力者である』
 同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ。…中略…三十七歳の創価学会会長は、
自らを全世界の指導者、日本の国主たる気概と現実的意志のもとに、数百万世帯の人
々を背景に、舎衛の三億(注=日本国の三分の一が創価学会員、三分の一が信心はし
ていないが公明党の支持者、残り三分の一が、創価学会の反讨者であっても広宣流革
布であるという創価学会独特の広宣流布観)の目標に向かつているのである」(「人
間命をめざす池田大作その思想と生き方」)
 池田は自分自身を「日本の国主」「大統領」「精神界の王者」「思想文化の一切の
指導者」「最高権力者」と称していますが、全く気違いじみています。それをかしこま
って聞いている幹部の姿を思い浮かべると、滑稽でさえあります。
 昭和四十年頃、池田大作は、明らかに、日本国の国主、最高権力者をめざしていま
した。その野望は、今もって変わりがありません。同じ頃の北條诰氏や秋谷栄之助氏
は「池田先生に日本の指導者としてたつていただく」(北條浩氏「聖教新聞」S40.
7.23)
とか、「戒壇建立の暁には、わが男子青年部の手によって内閣を結成して」(秋谷城
永=栄之助氏、大白蓮華S39.2月号)などと講演しています。
 現在、自公の連立政権が進んでいますが、これも実質的には自創であって、創価学
会が「天下を取る」との構想がその根底にあり、そのルーツは、昭和三十九年、四十
年、四十一年頃の池田の発想に由来しています。
 池田は、なにゆえかくも増長してしまったのでしょうか。それは、池田が、名聞名
利のとりこになってしまったからだとしかいいようがありません。また、池田が若い
ときになめた辛酸のコンプレックスから来ているのかもしれません。
 昭和四十二年、池田は大世学院の後身である富士短期大学を三十九歳で卒業しまし
た。この池田の卒業は、「日本の潮流』(央忠邦)では次のように記しています。
「『ついせんだって、卒業論文を書かされたんですよ』と、最近ある時、池田氏はテ
レながら私に話した秘密がある。
富士短大の先生から請われて書いたのだそうだが、その論文は三月末、教授会をパ
スしている。どんなテーマだか、興味深いので、私は無理に問題を見せて欲しいと頼
んだ。……
 日本における産業資本の確立と、その特質について論ぜよ。
 第二次世界大戦の終了後から、朝鮮動乱の終了の間におけるわが国の産業動向
について述べよ。
 自由民権思想の諸内容について(以下略)
『この年をして百十枚も書いたんです』」
 この卒業論文については、桐村泰次氏(現副会長)が書いたものです。池田はその
内容さえ吟味していません。何が「この年をして百十枚も書いた」でしようか。功成
り名を遂げた池田には、「富士短大卒」などという肩書きは不要なものでしょう。し
かし、池田は、彼の学歴コンプレックスから、それを必要としたのです。しかも、他
人に代筆までさせておいて、さも自分が書いたように言うのは、みっともない限りで
す。
 彼は、いま、いろいろな勲章や名誉称号をもらうことに躍起になっていますが、そ
れも真実の仏法者ならば、そのようなものは何もいらないではありませんか。なによ
りも「無冠の帝王」の大切さを説いてきたのは彼自身ではなかったでしようか。「権
力と戦う」「学会は庶民の側に立つ」「反自民、反権力でゆく」「自分は名誉や勲章
はいらない」といった池田の言葉が、なんと空しい響きをもっていることでしょうか。
 ともかく、昭和四十年前後に、池田の傲慢は一つの頂点に達しました。池田の、日
本国の国主たらんとの野望は、昭和四十五年の言論出版問題で一時頓挫したかに
みえましたが、それは一時の迂回作戦であり、ますます、その野望をつのらせていっ
たのです。この言論出版問題については後述いたします。この問題は、今もって続い
る池田批判拒否体質をまざまざと社会に示したといえます。池田が言論出版問題で見
てみせた誠意とは何だったのでしようか。いったい、この問題で創価学会の何が変わ
のでしようか。むしろ天下取りがより陰湿な形で進められていったことを、その後の
った歴史が証明しています。
 ────────────────改頁────── 106――つづく──

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池田の真実-24

2015-04-29 08:02:53 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳Ⅳ 破綻した池田構想
 ────────────────改頁────── 99
◆昭和四十一年の創価学会規則
 ちなみに、昭和三十七年六月、創価学会規則が改定されました。そのときは、会長
に関する規定は、池田の立場をかなり制限していました。
  ①会長は、創価学会の責任役員でもある。
  ②会長は、責任役員の一人であり、理事会によって選出される責任役員により選出
   される。
  ③会長は理事会によつて罷免されることがある。
  ④会長の任期は四年である。
  ⑤会長は理事会を召集し、その会議を主宰する。
 池田は理事会で罷免され得るし、また任期を四年と限られていました。この時点で
は、池田の権限には歯止めがかけられていました。
 しかし昭和四十一年五月に改定の規則になると、すでに池田の独裁体制は固まつた
ことを示しています。
  ①会長は、創価学会の責任役員でもある。
  ②会長は、総務を統括する。
  ③会長は、幹部会(内二十一名が責任役員)を召集する権限をもつ。
  ④会長は、責任役員を任命し罷免する。
  ⑤会長は、副理事長、理事、その他の必要な役員を任命し罷免する。
  ⑥会長の任期は終身とする。
  ⑦会長は、後任を選ぶことができる。
 任期が終身で、後継者まで指名できるというのは、完璧な独裁体制です”このこと
は、昭和三十八年から四十一年までに大きな変化があったことを物語っています。
 この大きな変化は、公明党結党と衆院進出を決めたこと、また、昭和四十年十月に
四日間で、正本堂ご供養金三百五十五-噫円が集まったことが、その背景となっていま

◆池田の広布観
 昭和四十年七月、正本堂のご供養を三ヶ月後にひかえた本部幹部会の席上、池田は
次のように語りました。
「広宣流布の時には、不開の門が開きます。─中略─それが創価学会の究極の目的の
一つです。その時には不開の門が開く。一説には、天皇という意味もありますが、再
往は時の最高権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しょう
が、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講総講頭であり、創価学会の会長(注
=池田自身のこと)がその先頭になることだけは仏法の方程式として言つておきます。
後々のためにいっておかないと、狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。
礼儀正しい人間です。同志を、先輩をたてきっていける人間です。そのため、かえつ
てわからなくなってしまうことを心配するのです。中略─私が御法主上人猊下様、
大聖人様に広宣流布いたしましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊
様にご報告することが、究極の、広宣流布の暁の、その意義なのであります。それま
でがんばりましょう」(聖教S40.7.26)
いまから三十五年前の池田発言には、彼の本心と野望が余すところなく語られてい
ます。要するに、池田が自分自身を日本国の最高権力者と位置づけ、また自分が日蓮
大聖人のご遺命である広宣流布を達成したと戒壇の御本尊に報告する、というもので
す。それにしても、いったいどこが「私は謙虚な人間です」なのでしょうか。
 “ブラックュ─モア”としか、いいようがありません。
 いまは、池田は宗門から除名となり、このことは実現しょうもないのですが、自分
が日本国の最高権力者であるとの本心は捨てていません。
 ────────────────改頁────── 102--つづく──

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池田の真実-23

2015-04-29 07:45:21 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳Ⅳ 破綻した池田構想
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◆池田のマキャベリズム
 昭和三十二年の大阪事件では、逮捕拘禁されて、痛いほど権力の力を肌で感じ、以
後、創価学会会長の座とともに、みずから権力を奪取する野望を燃えたぎらせていっ
たのでした。本来の広宣流布と、創価学会が「天下を取る」ことは関係がありません。
むしろ、日蓮正宗の広宣流布を誤解される原因であります。日蓮大聖人は、広宣流布
ということは仰せになつていますが、当時の檀越に「天下を取れ」などとお命じにな
ってはおられません。
 池田は創価学会会長に就任する以前、弱冠二十九歳の青年時に、次のように語って
「広宣流布の時には参院議員、衆議院議員もいてさ、皆財布の中には少なくとも十万
や二十万入れて、洋服も月賦じやないの着てさ、一つ国会議事堂やプリンスホテルや
帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で固めなかったら広宣流
布出来やしませんよ。一つ天下取るまで諸君は大事な体だから、うんと修行して行き
なさいよ」(聖教・32.9.6〉
 これが池田の本音です。池田の性格が、この頃すでに歪んでいたことを示していま
す。広宣流布イコール天下取りという図式が、すでに会長就任以前にあったことは明
白です。
 それでも戸田会長が生きているあいだは、まだ池田の暴走に歯止めがかかっていま
した。戸田会長は、本来の日蓮正宗の広宣流布に向かって、まさしく不自惜身命のご
一生でした。
 たしかに、池田には、一種独特の人心操縦術というものがそなわっていました。こ
れがいい面に出ればよいのですが、その後の池田の姿は、権力者そのものと化し、傲
慢とマキャベリズム的(目的のためにはいかなる手段も容認する思想)な権謀術数に
走っていったのでした。いま冷静に振りかえってみるとき、池田の変質は会長就任以
前から始まっていたのですが、とりわけ昭和三十九年、四十年ごろから顕著になって
きました。昭和三十九年四月一日に大客殿落慶法要が営まれ、池田が法華講総講頭に
就任するや、戸田会長の継承路線から池田時代の到来を告げたのでした。この年の十
一月十七日公明党が結成され、創価学会の公称世帯数は五○○万を数えるにいたりま
した。昭和四十年になると、池田は聖教新聞に『人間革命』の連載を始めました。聖
教新聞の日刊化も、この年の七月十五日でした。ほぼ、この頃、池田独裁体制は盤石
になったのです。
 ────────────────改頁────── 99--つづく──

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池田の真実-22

2015-04-27 22:01:39 | Weblog

○池田大作・創価学会の真実……原島嵩…2002/7─日新報道・1429\…購入
    誰も書かなかった池田大作……創価学会の真実
    曰本に君臨する男・池田大作の正体
    宗教界を冒浣する教団・組織の実態
    会則変更で学会員を「池田教」へ洗脳Ⅳ 破綻した池田構想
────────────────改頁────── 93

Ⅳ 破綻した池田構想
◆池田の生い立ち
 池田大作は、昭和三年一月一日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗の海苔製造業者・
池田子之吉、妻・一の五男として生まれました。
 彼は生まれたとき太作と名づけられました。両親は、池田が丈夫に育てばという思
いから太作と名づけたと思われます。しかし池田は、昭和二十八年十一月、みずから
現在の大作に改名しました。
 彼は、生まれおちて以来、貧乏な苦しい生活を余儀なくされました。この貧苦が、
池田の人間洞察や人心操縦の能力等を養ったものと思われます。昭和十五年、池田は
尋常小学校を卒業しましたが、学資も乏しくて中学には進まず、羽田高等小学校に入
りました。このころから新聞配達を行なっています。海苔の収穫の時期には、午前二、
三時に起床し四時まで海苔張り、それから朝刊配達、登校。学校から戻ると乾いた海
苔をはがし、夕刊配達。夜は海苔についているゴミを取る、というような生活でした。
そのときは、池田家は糀谷二丁目に移転していました。昭和十七年、池田は高等小学
校を卒業し、新潟鉄工所に就職しています。昭和十九年には池田家は強制疎開で大
森・馬込に移転しています。ところが昭和二十年五月二十四日、池田の家は空襲で焼
かれ、蒲田区森ケ崎に移転します。池田は、新潟鉄工所をやめ、新橋の昭文堂印刷に
勤務するようになり、旧制東洋商業夜間部二年に編入学しました。.昭和二十二年には、
東洋商業を卒業し、昭文堂印刷会社を退社し、蒲田工業会に勤務しています。この年
の八月二十四日、彼が日蓮正宗に入信したことは前にふれたとおりです。翌二十三年
四月には大世学院(現在の富士短期大学)政経科夜間部に人学し、また蒲田工業会を
退社し、翌二十四年一月三日には、創価学会戸田理事長の経営する日本正学館に入社
しました。このころ家を出て大森・新井宿のアバー卜に移っています。
 ざつと戸田理事長にめぐりあうまでの経歴を紹介しましたが、やはり池田の青少年
期は、貧乏と苦学の連続だったようです。こうしたことが、一面、池田の庶民肌を形
成していつたことは疑う余地がありません。

◆天下を取ろう
 こうした池田の性格を変え、権力と野望の権化と化したのはいつごろでしょうか。
故石田次男氏は、それを昭和三十二年の大阪事件の時と見ています(石田氏は「池田
の退転」という言葉を用いている)。後に故篠原善太郎氏(元東西哲学書院社長、『人間革
ム叩』のゴーストライター〕と語り合つたときも「池田先生が、国家権力に対して復謦の
戦いを始められたのは、大阪事件からである」ということでした。しかし、池田が
「天下を取る」というのは、青年部時代の口ぐせであったことも事実なのです。昭和
二十七年、池田は戦前からの会員である白木次氏の二女,かねさんと結婚しますが、
それに先立つて二人の婚約を紹介する聖教新聞の記事〖S27.3.10付)には、
「池田大作君と白木かねさんの婚約が発表された。媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の
総帥、小泉隆理事、五月三日の意義深い日に婚礼の式を挙げる。
 池田君と白木さんは蒲田支部内で前々から相思の仲であり、戸田先生は深い思いや
りから二月に直々両家と話合われ、きわめて順当に話は決定を見た。
……ホープとして池田君の姿が大きくクローズアップされる、数年間戸田先生に忠
実に御仕えし、朝から夜迄縦に全東京を駆けている姿は実にたくましい。苦難の
(昭和)二十五年も先生の陰の一人として戦い抜いて来た。この多忙の中に朝十分程
の五大部の受講もすでに中ばを過ぎんとしている。青年部では作戦参謀として四部隊
総合の重要な舵取りである。
 早くから家庭的に独立して戦って来た同君はここに内助の良夫人を得て、更に力を
増すであろう。同君は常に言う。「天下を取ろう」と。大志努力の人池田大作君御目出
度う」
とあります。もうすでに結婚前から「天下を取ろう」と常に言っていたことが、この
一文でわかります。恐らく、昭和二十四年に、日本正学館に入社したころからの口ぐ
せだったように思われます。池田は、そこで「冒険少年」の編集にたずさわりました
が、その日本正学館も同年十月に倒産し、東京建設信用組合の社員に移動します。同
時に大世学院も中退しました。ところがその東京建設信用組合も、翌二十五年八月に
営業停止命令を受け、彼は大蔵商事の社員に移動しました。十一月二十七日には同商
事の営業部長になっています。池田は、それから二年後の昭和二十七年秋に大蔵商事
の取締役兼営業部長になりました。大蔵商事は、いわば創価学会の金融部門であり、
その取締役兼営業部長になった池田は、いや応なしに、金の力の威力を思い知つたに
ちがいありません。「天下を取る」ということと金の力の威力は、池田にとつて不可分
となつていたことでしょう。

────────────────改頁────── 97--つづく

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