創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

闇の帝王・山崎正友-19

2016-02-08 09:12:05 | Weblog

私は山崎正友を詐欺罪から救った! -- 2002/05
   --アウトローが明かす巨額“手形詐欺”事件の真実--
    -------(前回、158P)--以下、本文--

4  「現職市議を殺害せよ」
 発展期の創価学会の事業の一つに、日蓮正宗の総本山大石寺(静岡県富士宮市)に隣接する「富士桜自然公苑墓地」(創価学会専用の公園墓地)開発があった。
 この墓地の開発計画を推進するには、行政機関からの許認可、地元の県・市との調整さらには開発地域の住民対策など多様な業務をこなさなければならない。山崎は顧問弁護士として活躍し、この開発事業を完成させた。
 本来ならばその功績は、創価学会から大きく評価されるべきものであった。しかし、山崎はこの関発事業に携わったことで、逆に創価学会に弓を引くようになるのである。
 この開発事業の事業地は富士宮市の大沢地区で、富士山の大沢崩れで有名な大沢川の流域であり、建設省指定の砂防地域の中にあった。そのため、この大事業の開発許認可取得は困難を極めることになった。企画立案の当初から建設省を始め県や町が難色を示し、さらには地元住民による強烈な反対運動もあった。
 実は、この墓地造成を山崎と組んで仕掛けたのが、静岡県議会の自民党議員であった日原博氏だった。この日原氏は、隣県の山梨県を地盤にしていた建設省族の大物・金丸信衆議院議員(故人)の知遇を得る地元の開発業社(株式会社日原造園)の代表者でもあった。
 ここでの話は、すべて山崎本人と日原氏本人から直接聞いた話である。
 日原氏と山崎との接点は、昭和四十九(一九七四)年ごろ、大石寺の正本堂建設に絡んで地元で反対運動が起き、告発騒ぎとなったことから生まれた反対派の旗頭が日原氏だった。創価学会としてみれば、まず日原氏との折衝が必要となった。 学会は顧問弁護士である山崎を立て、日原氏を核とする反対勢力との交渉に当たらせた。
 この過程で再三再四の会合を重ねるにつれて、山崎と日原氏は気心が通じ合う仲になり、反対運動は沈静化した。だが、これがのちのち大きな禍根を残すことになるとは、当時、誰も気付いていなかった。
 山崎は、墓苑建設で、日原氏と組んで儲けることを考えた。開発事業の許認可の取得から設計、全体の造成工事や墓石に至るすべてを、株式会社日原造園に任せるというのである。これに日原氏は喜んで乗った。山崎は創価学会首脳に日原氏を売り込み、翌昭和五十(一九七五)年、彼は自らが計画した墓苑建設に乗り出すことになる。
 墓苑を閲発するには、まず金丸氏を口説き、建設省に圧力をかけさせて砂防地域の指定を外し、開発許可を取ることが先決になる。日原氏が金丸氏を口説くことができれば、間違いなく開発許可は取れると踏んだ。
 そして、山崎は創価学会を騙して、できるだけ多くの事業予算を出させ、お互いに金儲けをしょうという両者の謀議が動き出したのであった。
 墓苑建設に対する地元の反対運動も、実は日原氏の策略であった。初めからこの開発事業の工事を高く請け負うことが目的で、反対運動を仕掛けたのだ。
 日原氏は、親分の金丸氏を口説いて建設省砂防部に渡りをつけた。その結果、砂防工事の資金を開発者が負担する条件で許可するとの確証を得た。
 そして、なるべく多くの儲けを手に入れようと、山崎に接待攻勢をかける。あらゆる手段で山崎をもてなした。賄賂の金は惜しみなく与え、女色をはじめ高級外車までもあてがって籠絡し続けたと言われている。
 工事が始まるまでの間に、二人は自他ともに「刎頸の友」と呼べるほどの関係になっていった。
 創価学会も山崎の働きで事業が進展して、まずは一安心と考えた。だが、その裏側では開発業者のいうままに、工事価格が水増しされて膨らんでいく。
 工事価格の変更を正当化し、山崎が自らの利益を得るために、創価学会に対し再三にわたりマッチポンプを行った。
 マッチポンプとは、もともと火の気がないところに自分がマッチで放火し、今度は自分が放水ポンプで消火しに行くことの譬えである。この事業で山崎が使ったマツチポンプの手法の一つが、地元の反対運動である。
「地元注民が、まだ猛反対をしていて困っている」--と学会側に山崎が泣きつき、「このままでは事業はできなくなってしまいます。
 反対運動の後ろには地元のヤクザがついている。組長は過激なことで有名だから、何をされるかわからない。この組長を籠絡するのに金がいる」
 と、もっともらしい話をでっち上げるのだ。
 もちろん、こうしたマッチポンプ行為は犯罪であり、刑事告発されると背任、横領罪となるが、なにせ山崎は顧問弁護士なのだ。誰も山崎が、マッチポンプをしているなどと疑いはしなかった。
 これはほんの一例だが、逆の立場でもマッチポンプを使うことができる。開発事業で工事を請負った側から、小遣いをせびる方法だ。
 山崎の場合、小遣いといえども何百万の単位である。この小遣いが欲しくなった場合工事の完成が間近になってきている場所について、「会長が現場を見に来て、この工事では駄目だ。気に入らない。ここの工事は初めからやり直せと言っている」と、施主からクレームがついたように偽るのだ。
 施主である会長が初めからやり直せという以上、初めからやり直しをしなければならない。そのため工事が遅れ、莫大な損害を被ることにもなる。山崎が学会の代理として言えば、業者は困って泣きついてくる。そこでマッチポンプとなる。
「わかった。俺に任せろ。うまく俺が会長に話をつけてやる。その代わりというのではないが、少々金が欲しい、都合してくれ。この件に関しては俺が任されており、俺が会長と直に会って話をつけてくるから安心していろ」
 という手を使うのだ。
 日原造園は山崎との癒着によって、開発設計から造成工事、造園工事そして墓石に至るまで数百億円にも及ぶすべての工事を清負い、数十億円の巨額な利益を得ることができた。
 山崎の籠絡に要した数億円の金も、元々は創価学会を山崎が騙して水増しした不当利益の一部であり、なんら痛痒を感じるものではなかった。
 事業の責任者として君臨した山崎は、自分がちょつとした才覚を働かせれば大金が得られることを覚えた。日原造園より受けた収賄の利益は、過去には見たこともないほど多額なものであった。
 さらに山崎は、日原氏の接待攻勢で銀座の高級クラブや高級レストランでの飲食、神楽坂など高級料亭での遊びなど分不相応の遊びに身を浸し、時には不正に手に入れた金を湯水のように使ってちゃほやされた。
 そして、金さえあれば自分も大物として扱ってもらえると錯覚するようになる。
 刎頸の友としての山崎と日原氏との付き合いはその後も続き、昭和五十五(一九八〇)年四月のシーホースの倒産時には、山崎が銀行やノンバンクからの借り入れる際の連帯保証や、日原氏自らの貸金など、都合十数億円もの大きな負債を負わされる羽目になった。
 山崎が恐喝事件で実刑が確定し、平成三(一九九一)年二月に下獄する少し前のことである。
 私は山崎からの呼び出しで、銀座第一ホテルで彼と会った。この当時の私たちは毎日のように電話でのやり取りはしていたが、顔を突き合わせての話し合いは久しぶりであった。
 あまり会わないでいたのは、この時期にはもう山崎に対して嫌気がさしていたからで、それまでに何度かの面談の誘いもあったが、いつも断っていたのである。
 私たちはお茶を飲みながら、恐喝事件の公判の話と雑談で時間を潰した。そのうち私は話にも飽きてしまい、帰るために席を立とうすると、山崎が何か言いにくそうな素振りで私の顔を見つめている。
 私は、何かまだ話があるのかと思って座り直した。そして、山崎に目を向けた。その私の様子を見て、山崎が話を切り出した。
「実は塚ちゃんに頼みたいことがある。塚ちゃんも知っている通り、今の俺は日原からの援助で生きている。その日原が非常に困っていることがあるのだ。
 富士宮で、ある開発事業を計画しているのだが、これに反対している市議会議員がいる。
 この市議会議員を潰さない限り開発ができない。そこで俺が日原から頼まれたのだが、こんな話は塚ちゃん以外に頼める人がいない。この仕事をやってもらえないか」
 と、いかにも言いづらそうに、そう言ってきた。
「潰すとは殺すことなの」
「ああ、そうだ。消して欲しい」
 私は、以前と同じようには山崎と付き合う気持ちはなくなっていたので、こんなバ力げた話にまじめに乗る気分ではない。
 ただこれまでの付き合いの経緯から、こんな物騒な話を聞いた以上、あまり素っ気なく断っては可哀想だと思い、若干のお世辞のつもりで、こう返事をした。
「殺すだけならできないことではないが、日原が金を出すの」
「ああ、塚ちゃんが引き受けてくれるなら五千万は取ってくる」
「殺すだけで、死体はそのままでいいのか。死体を隠すのが大変なんだよ。殺すだけでいいのなら、俺が引き受けてもいいよ」
 私はヤクザ稼業をしていたことはあったが、もちろん人殺しなどしたことはない。
 ただ、普通に考えて、殺すだけならチャカでズドンとやって逃走すればすむが、死体を隠すとなれば、穴を掘って埋めようと海に沈めようと、その処理を一人でやるのは並大抵のことではなかろう。
 山崎という男は、どこまで能天気な男か、とあきれるばかりであった。
「そうか、塚ちゃんが引き受けてくれるなら、日原も塚ちゃんを知っているから安心して頼めるよ。今日は、この後何か予定があるの」
「いや、今日はもう何もないよ」
「じゃあ、これから富士宮へ行こうよ。車の中で詳しい話をしょう。相手の名前や自宅を、塚ちゃんに教えておくよ」
 山崎は勝手に決めてしまい、私はしかたなく彼を自分の車に乗せて富士宮に向かった。
 車の中で山崎は、市議会議員の名前を教えた。
「この議員は富士宮市の建設委員で、もともと日原とは反対派の議員だ。日原派のやることにはなんでも反対し、始末が悪く困っている。奴のお陰でだいぶ損をしているらしい。
 塚ちゃんがやってくれれば日原も喜ぶよ。日原には、だいぶ世話になっている。これで少しは恩返しができるな」
 話しているうちに富士宮に着いた。山崎は、その市議会議員の仕事場の工場(看板業、確か「ピノキオ」という屋号であったと思う)や自宅を案内して教え、その後、市役所に回り、その議員の選挙用のポスターを私に見せ、ポスターに写っている顔を私に覚えさせようとした。
 この時の山崎は、殺人を本気で考えていたようである。だが私は、この話を聞いた時に、初めからこんな馬鹿話には乗れないと決めていた。 
 だから、これ以上はその市議会議員のことを聞いても何にもならないと思った。
「腹が空いたから、飯でも食わせろ」
 私は、この話を終わらせて富士宮から早く離れることを考えた。
 この日以来、山崎はその後も市議会議員の動静を調べていた。そんなある日、その市議会議員ら富士宮の建設委員会の議員たちが、群馬県の温泉で慰安旅行を兼ねての研修会を催すことがわかつた。
 それで山崎は、研修会には目標の議員も出席するから、旅行先で殺人を実行してくれと具体的な指示をしてきた。
 私は、これまでの行きがかり上、この指示を受けた時もハツキリ断ることはせず、実行するから報酬を先に出せと要求した。
 この殺人依頼は、おそらく日原氏が山崎への貸しを取り立てる目的でやらせていると私は考えていた。そして山崎もそれを承知で私にやらせ、やらさせた後には金を払う意志はなく、私をごまかす予定で、日原氏と仕組んでいたふしがあった。
 一方、私としても、この話には初めから乗るつもりもなく、私の要求に従って前金をくれるなら、その金をネコババするつもりでいた。
 あわよくばこのネコババで、少しは山崎への莫大な貸しの一部だけでも、取り返すことができるのではないかと考えていた。しかし、結局金はできず、山崎の下獄とともに殺人依頼も立ち消えとなった。
 なお念のために言っておくと、この話は山崎からのものであり、日原氏から直接聞いたり頼まれたりしたものではない。
       ---------(169P)-------つづく--

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