創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-68

2015-11-29 10:04:50 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------314--本文

●池田が愛した「愛染かつら」の歌
 私が法廷の傍聴席に座ったのは、嵩の2回目の出廷の時でした。当日、前もって学会側の誰かが取得してあつた傍聴券が法廷の入口で私に手渡され、私が座つた傍聴席は弟にごく近い正面の席でした。学会側の狙いは、弟に心理的圧力をかけることでした。
 その時の弟の証言の中から、かって実際に私もその場にいて、今も鮮やかに記憶している情景を述ベ、長く続いた私の告発の筆を擱きたいと思います。
 昭和三十二年一月二日の夜、その日は池田参謀室長の二十九歳の誕生日で、大田区小林町の池田家には松島通子さん(後に結婚して渡部姓となる)ら数人の客が、池田を囲んで食事や談話を楽しんでいました。私も弟(嵩)もその場にいました。
 食事が終わったころ、一人の青年が私たちの団らんに加わりました。青年の名前は貞永昌靖といい、池田が部隊長だった時の部下で、池田を師と仰ぎ慕っていました。近い将来、渡米して仏法を弘めるのだという大志を抱いていました。後にそれを実行して、全米中を駆け回り、ジョージ.ウイリアムスと改名して米国に帰化、アメリカ各地に創価学会の組織を作り上げ、アメリカSGI(創価学会インターナショナル)の初代理事長になりました。
 さて、話を池田の誕生日の夜に戻します。
 夜が更けて、一人二人と客が去り、貞永氏も去って、客で残ったのは松島さんと私たち兄弟の三人でした(池田夫人の香峰子さんは、宵の口には在宅していたと思うのですが、その時はいなかったのです)。
 そろそろお開きの時間になりました。部屋の片隅に置かれたレコードから、霧島昇の美声が流れてきました。それは映画『愛染かつら』の主題歌で、私の幼児の時代に作られたその映画は、空前の大ヒットを記録したのだそうです。

 花も嵐も踏み越えて
 行くが男の生きる道
 泣いてくれるなほろほろ鳥よ
 月の比叡を独り行く

 曲に耳を傾けながら、池田はにっこり笑って、「これが私の精神だよ」と言いました。
 松島さんは、隣の部屋で布団に横たわつた池田の肩や腰を揉み始めました。
 そこで、私と弟はいとまごいを告げ、池田と松島さんだけを残して立ち去つたのですが、それにしても、あの歌詞についての池田の言葉が、後々まで私の心に引っ掛かつていて、いろいろ考えさせられました。『愛染かつら』の愛染とは、真言密教の本尊の一つで愛染明王のこと。愛欲に苦悩する人々を救うとされる神で、上野の寛永寺坂の愛染堂にあるかつらの木の下で愛を誓い合った男女は、将来必ず結ばれるという伝説がありました。
 池田にとって、「花」とは松島さんを指すのか、それとも、池田が踏み越えていった、多くの哀れな女性たちを指すのでしようか。
 では「嵐」とは何か。おそらく池田の行く手を遮る障害の数々を意味するのでしょう。
 自分を絶対,無謬の存在と規定する池田にとつて、自分を諫めたり批判したりする者は、すべて自分の絶対性を脅かす邪魔者なのです。
 しかし、自分の周囲をロボットの集団に守らせていても、ロボットは暖かい血の通う生きた人間ではないし、面従腹背の者たちも、主人に従っているかぎりは、命令どおりに動く機械に過ぎない(そしていつ主人に背くか分らない)ので、絶対者は独り孤立した存在なのです。
 こうして、今や巨大ロボット(あるいは奴隸、あるいは頭脳マヒ)集団化した創価学会は、ますます孤立化し、衰退の一途をたどることでしょう。
 私は今、正しい信仰の道に入って、あらためて内外に様々な害毒をまき散らす創価学会の恐ろしさを知り、一人でも多くの学会員ならびに誤った宗教の信者を覚醒させることに余生をささげたいと考えております。 (了)

       --------------------

ありがとうございました。次回から-- 
◎自民党・創価学会亡国論 屋山太郎 2001/8
    創価学会本当の恐ろしさ・ほか…<三笠書房 1500¥>…より
 です。ご期待ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田大作と原島家-66

2015-11-27 09:23:55 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------308--本文

●『月刊ペン』裁判の卑劣な裏工作
 戸田会長時代に始まった創価学会の批判拒否体質は、組織の拡大と共に、そして公明党を介して国家権力と癒着したことによって、いちだんと大掛かりになり、激しさも増していきました。ことに、池田会長に対する批判拒否の激しさは、一般人の常識では全く理解不能でしょう。
 その典型的事例の一つが『月刊ペン』事件です。
 雑誌『月刊べン』の編集長,隈部大蔵氏が、昭和五十一年三月号・四月号で「有力筋からの情報」として、池田の女性関係のことを「きわめて華やかで、雑多で病的である」などと書き立てました。
 創価学会は名誉毀損罪で隈部氏を告訴、隈部氏は警視庁に逮捕され、裁判で有罪となりました。しかし、この裁判には、初めからいくつかの不審な点がありました。
 一つ目の不審は、憲法で保証されている表現の自由との兼ね合いから、雑誌編集長などマスメディアの関係者を逮捕するには十分時間をかけて慎重に調べなければいけないのに、隈部氏は告訴されると、ほとんど間を置かずに逮捕されたことです。
 二つ目は、名誉毀損された当の本人である池田会長が、証人として一度も出廷しなかったこと。
 三つ目は、池田の女性関係についての記述が、はたして真実であるか否か──事実の真実性について、被告側(隈部氏)の立証を許さないまま、有罪の判決が下されたことです。
 隈部氏は、判決を不服として最高裁に上告しました。
このような時に、山崎正友弁護士と私の弟・嵩が池田に造反して内部告発を開始、山崎氏は最高裁判所に上申書を提出して、学会側の裏工作を暴露しました(昭和五十六年一月)。
 その裏工作とは、--
「公明党議員を使って、検察庁や警視庁に圧力をかけ、根回しをした」「第一審の裁判所にまで根回しをした」「池田会長を証人として出廷させないために、隈部氏には内緒で、月刊ペン社社長と隈部氏の弁護人に、合わせて二千万円を支払って買収した」「右翼の大物を使って、隈部氏が強硬な手段に出て裁判を混乱させないように、斡旋してもらった」などです。
 昭和五十六年五月、最高裁判所は、この事件を東京地方裁判所に差し戻すとの判決を下しました。

●弟の家内の決心と“影の会長”の述懐
 差し戻し裁判が始まったのは昭和五十六年九月ですが、その九月下旬に、裁判所から弟に対して、九月三十日に証人として裁判所に出頭するよう求める召喚状が届きました。
 弟はこの数年の度重なる心労で体調を崩し、また親族の将来を案じて、裁判所に申し立てて出廷の日を延期してもらいました。そうしておいて弟は、私に苦しい胸のうちを明かしました。
「もし僕がこの裁判に出頭することになれば、兄さんたちにも猛烈な圧力がかかってくるでしょう。それで悩んでいるのですが、兄さんはどう思いますか」--と。
 私は、あらためて前年二月以降のことを振り返りました。私の母と家内は、どこまでも嵩を信じて付いていく、と言っているから心配はありませんが、問題は、嵩の妻・冨久子と、私の妹夫婦、そして弟の弘のことでした。
 五月の末か六月の初めのある日、冨久子がひどく怒りながら、自分の家に帰って来ました。家の中には、嵩と母と私がいました。その日、冨久子は初めて、婦人部長の八矢弓子さんから、夫が池田先生を「裏切った」ことを知らされたのです。
 冨久子は、昭和三十二年に両親と双子の姉・幸江(後に冨久子より一年早く日蓮正宗に帰伏)と共に入信し、以来、池田を仏様として尊敬し、学会を信じきつて生きてきました。
 幸江の夫は三宅健夫といい、原島家とも池田会長とも因縁の深い家柄なのでした。
 ちなみに、三宅家を折伏したのは辻武寿氏ですが、健夫の父だけは信仰に反対していたのを、私の母がねばり強く説得して入信させた、という話を聞いたことがあります。また、入信前の池田が、初めて出席した座談会場が、この三宅家です。
 冨久子は、八矢さんから嵩の「裏切り」を聞かされる少し前から、周囲の異変に気付くようになりました。今まで親しかった婦人部の同志が、急に口をきかなくなつたり、よそよそしい素振りを見せ始めたからです。
 たとえば、その頃、本部の近くの婦人会館という所で、婦人部の会合がありました。冨久子は、玄関の式台の辺りで、池田香峯子・会長夫人の来館を待っていました。冨久子は池田夫人が玄開に入って来た時に、真新しいスリッパを池田夫人の足もとに差し出す役目でした。冨久子の前後・左右には、いつものことながら八矢さんを初めとして婦人部の大幹部が大勢立ち並び、まるで皇室の貴婦人を出迎える時のようなものものしさだったそうです。
 池田夫人は、式台の前に立つと、冨久子の差し出すスリッパをつまんで、傍らの使用済みのスリッパを入れる網かごにボイと投げ入れ、手を伸ばして別の新しいスリッパを手に取り、それを履いて奥の方へ歩いて行ってしまいました。
 冨久子はわけが分からないまま、侮辱されたと感じ、またその場の女たちが「当然よ」と言わんばかりに目くばせをしあつているのを見て、顔が火のように火照ったそうです。
 さて、八矢さんから話を開いたとのことで、目の前で激しく弟をなじっている冨久子に対して、弟はただ黙っているだけなので、私が何か言って彼女をなだめなければいけない、と思いました。
 その時、私が何を言ったか、長い間、忘れていましたが、最近になって冨久子から、「あの時、兄さんは私にこう言いました。『ここは一つ、嵩の思うとおりにさせてみょうじやないか』と。昭兄さんがそう言うのなら、もう嵩さんを信用して付いていくしかない、と覚悟を決めました」と言われて、思い出した次第です。
 後に嵩からも、「あのとき沈黙していた理由は、冨久子には何を言って無駄だ、別れるしかない、と思い込んでいたからだ」と聞かされました。実際、冨久子は八矢さんから、「あなたが学会に残りたいのなら、今すぐ離婚することね」と離婚を迫られたそうです。
 冨久子が嵩にどこまでも付いていくと決心したのには、もう一つの因縁があったと思い彼女が平成十年に日蓮正宗に帰伏してから私に話してくれたことですが、昭和五十二、三年頃のことです。本部の仏間で、冨久子はたまたま中西治雄氏と出会いました。
 中西氏が、「冨久子さんはいつごろ本部職員になりましたか」と尋ねるので、「昭和三十四年です」と答えました。すると中西氏は、「あの頃の学会は本当に良かったですね。
 今は、本部でほっとする所はこの御本尊の御前で唱題している時だけですよ」としみじみと昔を懐かしむように語るのでした。
 冨久子は驚きました。学会は昔から今までずーっと良い所だと思つてきたからです。
「会長の側近中の側近と言われる中西さんが、このように感じられていたとすれば、途中で学会のどこかが変わったのかも知れない」という思いが、以後、時々冨久子の心に浮かぶようになつたそうです。
 この冨久子の思いも、正法への道を選ぶように彼女自身の背中の後押しをしたのではないか、と私は考えています。
       --------改頁--------313--つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田大作と原島家-65

2015-11-26 07:40:24 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------304--本文

二、池田大作との訣別
●諫言容れられず、飼い殺しに
 弟のやけ酒の原因は、池田が本部職員らに「嵩は裏切り者だ。まともにつきあってはならない」と告げたことが、弟の耳にも伝わってきたからです。その後、池田は直接私にも、「嵩は私を裏切った」と怒りを露わにしました。私はその3年ほど前に「御書辞典」の編集を終え、続いて「法華経」の研究を命じられていたので、当時、天台の三大部などを読みあさっていました。そして、諫言して二力月弱が過ぎた四月一日から、本部近くの新宿文化会館の一室で、弟は私と一緒に法華経の研究をするようになりました。
 弟は、本部・聖教の建物内に入ることは一切許されず、弟と池田会長の仲介役として中西治雄氏が選ばれました。二人だけの仕事場としては広すぎる室内、主たる仕事は読書、中西氏が一日に一回ほど顔を見せ、すぐに退室する以外に誰も訪れる者はいない、という私たちの勤務の情景が一力月半くらい繰り返されました。そして弟は全く出勤しなくなりました。
 このような状況になって、私は初めて家内と母に、嵩が池田から遠ざけられるに至ったいきさつを話しました。そして、これからいかなる大変な運命が待ちかまえているか分からないから、心の準備をしておくように、と言いました。家内はすぐに了解してくれました。そして次のような北海道の学会女子部時代の思い出を語りました。
 家内の入信は昭和三十五年で、網走(家内の生まれ故郷)支部所属の女子部員になりました。昭和四十年には、勤務先が北見小学校に変わり、北見会館を根拠として学会活動に励みました。その北見の地で、非常に美しい女子部員と知り合いました。彼女は短期間のうちに学会内で目覚しい出世を遂げ、やがて北海道の中心である札幌の女子部最高幹部の一人に登用され、しばしば東京の重要な会合にも出席を許されるようになりました。そこで池田会長に行き会い、池田は、西洋中世の騎士がするようにうやうやしく彼女の手を取り、その手の甲にキスをしたとのことでした。その話を彼女が地元の女子部の会合でしたものですから、皆、悲鳴のような喚声をあげて、うらやみました。
 ある時、彼女は池田から外国製のピンクと紫の色鮮やかな、まるであじさいの花のように豪華な反物を手渡され、「この次の本部幹部会までに、この反物を仕立てて着ていらっしゃい」と言われたとのことで、彼女はそれを舞踏会のドレス風に仕立てさせました。
 家内は、東京へ行く直前のそのドレスで着飾った彼女を見たのですが、その美しさに目を見張りました。しかし、家内の心には、美醜で会員を差別する池田に、仏法の指導者たる資格があるのか、という疑惑が浮かんだそうです。

●自作の詩歌集にも批判拒否
 前述したように、弟の原島嵩が池田から遠ざけられるに至ったいきさつについて、私の家内はすんなりと理解ができましたが、母の場合は、初めは容易には私の話を信じられない様子でした。しかし、池田が猊下に内緒で、少なくとも八体の御本尊を模刻したことを言いますと、さすがに、救い難い人間だと見抜いたらしく、池田をかばうことはやめて黙つてしまいました。
 そして、母も私も、しばらく中立の立場で成り行きを見守ることにしたのですが、その頃、母は次のような、何年か前のエピソードを話してくれました。ある時、池田会長が自作の歌集を世に出しました。
 母は和歌が趣味で、その池田の歌集を、日ごろ母が教えを受けているある歌人に贈呈しようと思って手渡しました。すると、その歌人はパラパラとその歌集をめくり読みしてから一言、「鉄面皮集!」とつぶやいて、母に返してよこした、ということです。
 また、このようなこともありました。
 私がまだ『御書辞典』の編集をしていた時で、編集室は広い室内をいくつかに区切った中の一画にあり、他に『大白蓮華』の編集室などもありました。そこに池田会長が入って来ました。皆が緊張して池田を見守っていますと、『大白蓮華』の編集員の一人が、「先生、ぜひ、これを読んでください」と言って、自費出版の「俳句集」を手渡しました。
 彼は俳句が趣味で、私も本人の口から「長い間、俳句の勉強をしてきた」と聞かされておりました。
 私の仲間の一人が、池田に俳句集を手渡す姿を見て、「どうせ、何もわかってもらえないのだから、無駄なことはしなければよいのに」と哀れむようにつぶやきますと、周囲の何人かが、同調して声を殺して笑いました。それが池田に対する本音だったのです。
「社長会記録」などの池田の語録には、歌舞伎の女形を本当に女優が演じていると思い込んで恥をかいた話、西行法師を俳人だと認識していた話など、巧まざるユーモア(?)が発揮されたエピソードには事欠きません。
 同じ「社長会記録」の中には、池田の詩集をほめる批評家は一流、けなす者は三流という意味の発言(第五十七回社長会記録、昭和四十七年二月)もありますが、文芸の分野でも、池田の批判拒否体質は明らかです。
       --------改頁--------308--つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田大作と原島家-64

2015-11-25 07:44:48 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------300--本文

その9 会長独裁の悲劇的結末──孤立を招く批判拒否体質
一 、学会の変質を加速させた池田会長
●会長の営利事業の矛盾対処法
 石田次男氏が自らをかえりみて、会長職を継ぐだけの人格・能力・教学力などの不足を悩んでいたのに対して、池田参謀室長はそのような方面のことには全く無関心で、そのかわりに、創価学会の組織を市場(マーケット)と見て、その様々な活用を夢見て計画して
いたようです。
 戸田会長の死亡直後には、学会の外郭会社は大蔵商事と東洋精光(大蔵商事の質流れ品を学会員に売りつけた会社)のわずか2社でしたが、池田が会長になってから20年ほどの間に、民音・東洋哲学研究所・学校・書店・出版社・警備会社・レストラン・葬儀会社・
墓園経営など、池田が事実上の経営権を握る会社・法人などは30余りにのぼりました。
 しかし、戸田会長の時もそうでしたが、会員から、また外部の人から、「会長だけがどうして会員に投資をつのり、それを自分の事業に注ぎ込んで利益を上ける自由と権利かあるのか」という疑問が生じます。生前の戸田氏にとって、時々、会員同士の「共同事業」
が発覚するのも頭の痛い問題でもありました。
 戸田氏が自分のことを、御仏に選ばれた特別の存在である、としばしば強調したのは、右のような難問に対処する意味もあったからではないか、と思われます。「自分は獄中で悟りを開き、唯一人、広宣流布を達成せよとの仏命を受けた」「私は地涌の菩薩の棟梁で
ある」「末法における折伏の師匠である(私に付いて)功徳を受けよ」などの戸田会長の言葉が残っています。
 さらに、自分には病気を治すなどの特別な能力が備わっていることを、会員に示そうとしたフシもあります。
 次のような話は、「利根と通力に頼ってはいけない」との宗祖の御制戒に背くことにもなりかねませんので、本当は誰かが諫めなければならなかったのです。
 戸田会長の一周忌法要の追憶談で、本部婦人部長の石田つかさん(石田次男氏の母)はこう述べました。
「(戸田先生は)『あなたも弱くては大変ですね』と言われ、お数珠を持って、私の首から背中をさすってくださった。私は(中略)ただ恐縮しておりました」--と。
 また、『大白蓮華』の戸田会長の遺徳をしのぶ特集の中で、村田和加という蒲田支部の班長は、妹がそううつ病を患っていたので、戸田会長に相談しました。戸田氏の指導はこうでした。「この間、青山病院の患者を連れて来て、なんでもかんでもなおしてくれ、と
いうのでお数珠を両方のこめかみにあてて、お題目上げてなおしてやったこともある」(昭和三十三年六月号)--と。
 戸田会長が自らのカリスマ的能力を顕示した例証は他にもいろいろありますが、今回は右の二例にとどめておきましよう。

●「奴隸のように学会につかえよ」
 さらに自らの絶対性・無謬性を確立するために、戸田会長は組織の改革を行ない、会長を頂点とする厳格な上意下達の軍隊式組織を作り上げました。そして、「学会の組織は戸田の命よりも尊い」と言って、組織を絶対化しました。それまでの日本の組織は、幕末
の新撰組、明治時代になって編成された軍隊を除いて、一般に上意下達と下意上達が適度に織り込まれた家族型の組織でしたから、しかも宗教団体に軍隊式組織が持ち込まれるとは、大変革命的なことだったのです。
 その結果、学会の中でどういう変化が起きたか、といいますと、--
 ①会長の絶対性.無謬性が、会員たちに強く意識されるようになった。
 ②会員たちは主体性を失い、あたかもロボットか歯車のように、上からの命令に忠実に動けばよいことになつた。
 池田会長は社長会の席上、かような言葉を漏らしました。
『学会つ子は名前もいらない。金もいらない、身体もいらない。奴隸のように学会につかえよ」(第五十回社長会、昭和四十六年七月)と。つまり、学会員全員に、奴隸のように会長に奉仕することを求めているのです。
 ③大部分の会員(大幹部も含む)が向上心・独創性を失ってしまった。
 会長の命令どおりに一丸となって動く組織ですから、会長が間違った命令を出せば組織全体が間違つた方向に走りますし、会長がどうしてよいか解らずに命令を出さないでいると、組織は全く動かなくなります。あの昭和四十五年の言論・出版妨害事件の渦中にあっ
た池田は、思うように動かない組織にいらだって、「巨大な小児麻痺」の集団にたとえています。(第三十三回社長会。昭和四十五年三月)。
 ④(池田)に対して批判の許されない弟子にとって、採るべき道は三つありました。
 一つは、池田を盲信して、ひたすら命令に従う。
 一つは、表面は服従しているように見せかけて、心の中では背く (面従腹背)。
 もう一つは、追放されるのを覚悟で、師に対して諫言する。
 さんざん悩みぬいた末、弟(嵩)は第三の道を選び、昭和五十五年二月、池田に直接会って六時間にわたって諫めました。その内容は、本尊模刻問題をはじめ多岐にわたったそうですが、自宅に帰ってきた弟は上機嫌でした。待ち受けていた私に、「先生は僕の言う
ことをよく理解してくださった。本心から懺悔している、とまで言われた」と嬉しそうに語りました。
 私は、「これは危ないな」と思いました。池田が全く反発の色も見せずにもっぱら聞き役に回ったのは、できるだけ時間をかけて弟の本心を洗いざらい探り出す手段ではないか、と思ったからです(後に福島源太郎氏の諫言に対しても、池田は同じ手を使いました)。
 四、五日後に弟宅へ行くと、弟の様子は一変していました。朝から酒を?み続け、家族に当たり散らしていました。
       --------改頁--------304--つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池田大作と原島家-63

2015-11-24 11:40:38 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------294--本文

池田の幸運と大規模悪質違反
 この参院選で白木氏は、定数3のところを第3位で当選しましたが、いかに池田司令が死力を尽くそうと、候補者が白木氏でなければ、とても当選は無理だっただろうと思いまと申しますのも、白木氏は、昭和二十六、七年ころまで、川上哲治、大下弘と肩を並べるプロ野球の大スターとして活躍、東急フライヤーズの主戦投手として多くの記録を野球史に残し、あの参院選当時はまだ、その鮮烈な記憶を数多くの民衆の間に残していたので私の家から歩いて1時間弱の所にある後楽園球場へ、私は時々、野球観戦に行き、マウンドに立つ白木投手の勇姿を何度か見ることができました。ある時、ノーアウトで敵方の走者が三つの塁を埋める大ピンチの状况で救援投手として登板した彼は、敵の打者を三振二つと凡打に仕止めて1点も失わず、4万人を越える大観衆から地鳴りのような大歓声と拍手を浴びたこともありました。昭和二十五年九月の新聞各紙のスポーツ欄によれば、大下弘の100本塁打達成、白木義ー郎の74イニング無四球の世界記録を達成したことを讚えて、野球連盟と球団から記念トロフィーと記念品が贈られました。当時の新聞をひもとけば、賞品を抱いて仲良く並んで写っている二人の誇らしげな姿が見られることでしょう。
 それゆえ、一般世間では全くの無名の新人というべき柏原・原島を当選させなければならない役目を背負わされた石田氏に比べて、池田ははるかに有利な立場にあり、幸運だったのです。
 それから約1年後の昭和三十二年四月に、大阪地方区は参議院の補選が行なわれることになり、池田は再び選挙司令として、中尾辰義候補を当選させるべき重責を担いました。
 学会の推薦候補者は前回(地方区2人、全国区4人)に比べて、今回は一人だけですから、総力を大阪地方区だけに注げばよいわけですが、当選者はたった一人だけ、しかも中尾氏の知名度は極めて低いため、前回よりもはるかに苦戦が予想され、必勝を期するならば候補を立てるべきではありませんでした。
 池田も苦戦は覚悟していたとみえ、前回にもまして強硬な指示を出したものと思われます。学会員の中からは選挙違反による四十七名の逮捕者を出し、中には(これは池田の直接の指示ではありませんでしたが)、たばこの箱の中に500円札(現在では1万円札に近い貨幣価値がある)を入れて誰かれとなく手渡したり、買収や供応罪に問われる者たちも出ました。
 七月四日(学会側の言い分は三日)に池田は大阪府警に逮捕・勾留され、全面自供して、21日間の勾留期間を待たずに十七日には出所したそうです。その後、裁判において証拠不十分となり、五年後の昭和三十七年に池田は無罪となりましたが、池田の配下で違反を犯して逮捕された学会員のうち、45人の有罪者が出ました。

●学会教学は国法・世間法を軽視
 さて、昭和三十一年の大阪地方区での白木氏当選は、多くの学会幹部に、“大軍を指揮させたら池田参謀室長に優る者はいない”との錯覚を起こさせました。私の父も惑わされた一人だったかもしれません。
 翌年の参院補選では、擁立した中尾候補が惨敗したばかりか、大量の悪質な違反者を出し、池田自身も二週間勾留されましたが、「転んでもただでは起きない」のが池田の本質です。勾留されたことを「法難」と位置付け、あの戦時下で牧口会長・戸田理事長が逮捕・投獄されたことと重ね合わせ、自らを正当化しました(この点、かっての東京都方面の選挙司令が石田氏であったことを、もう誰も覚えていないのと、極めて対象的です)。
 昭和三十五年に池田が会長に就任し、公明党という自前の政党を持つて衆議院に進出するようになって、学会、公明党の選挙違反はさらに大掛かりとなり、その方法の中には、巧妙かつ悪質なものが見られました。たとえば、替え玉投票(他人になりすました別人が、その他人の投票入場券を使って投票する)、架空の住民票移動(住民票を選挙実施区域に移動させ、その区域の住民であることを装って投票する)などです。
 吉良陽一著『創価学会=七つの大罪』には、昭和五十二年の参院選で替え玉投票を実行した、ある男子部大ブロック長の手記を紹介していますが、その中に次のような記述があ「仏法に三法律がある。世間法、国法、仏法の三つです。世法は問題ではない。国法は人間が作った法律であり、最低の道徳だ。仏法は大宇宙の法則であり、これこそ絶対なのです。公明党の選挙は王仏冥合の大法戦であり、仏法律に照らして我々のやったことは絶対に正しいのだ」
 と。
 仏法律を遵守してさえいれば、国法を破ってもよい、という教えは、まったくの己義・独断で、法華経の教えにはありません。
 かって戸田会長は、本部幹部会でこう語っていました。
「仏法は勝負で、国法は正邪、世法は評判である。(中略)闇の米を運ぶ事が良いか悪いかと聞かれる。病にやんでいる夫を持ち子を持っているならばどうするのだ、どしどし闇米を運びなさいと云う。国家で決めた国法では悪いが仏法では悪くない。(中略)つかまらない様にやるのが仏法だ。国法と仏法と喧嘩して仏法は必ず勝つ。」(昭和二十九年一月一日付『聖教新聞』)
 この演説の中で、「国法は正邪」と言うのもおかしい。仏法こそ正邪が大事であり、仏法のいずれが正でいずれが邪か、その勝負は現証で決める、というのが「仏法は勝負」の意味でしょう。
 また日蓮大聖人は「王法と申すは賞罰を本とせり」と教えてくださっています。この王法すなわち国法を犯せば、罰せられるのは仕方がない。ただ、自他の生命の危険が目前に迫っている時、ぎりぎりの選択として国法を破るのはやむをえない、と言うのならまだ理解できます。正当防衛は国法でも許されているではありませんか。その場合、仏法律を持ち出す必要はないし、まして「つかまらない様にやるのが仏法だ」とは酔客のたわごと以下の発言です。
 こうした国法・世法の軽視ないし蔑視は、池田創価学会に、より大規模かつ深刻な形で受け継がれました。絶対無謬を主張する上からの誤まった指導は、誤まった行動を生み、善根の育たない不毛の大地が広がつていったのです。
       --------改頁--------299--つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする