気功を、もっと正しく知ってほしいなと思い、
レッスンや講座ではそういう話をしますし、
ここでも、そういうことを書いています。
何度かご紹介させていただいていますが、
気功界の大先輩である津村喬さん。
何冊も本を出されている方で、
とてもわかりやすい文章なので
今回も許可を得てご紹介させていただきます。
自然と気功の話です。
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わたしはポプラ、わたしはグミの木
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ある程度の豊かな自然が残っているところであれば、「樹林気功」をしてもらうのに、たくさんの説明はいらない。
「木にタッチして、掌や額をつけたり、よりかかったり抱きついたりする方法と、向かい合って立つ方法があります。木の気の流れは根っこも含めて球形なのに注意して下さい。一日の時間によってそれが縦長になったり、横長になったりします。站椿といって自分も木になってしまう体験をすると、木と話ができそうな気がします。でもあんまり思い込みが強くない方がいいです。ただ立つのに疲れたらスワイショウをしてもいいし、簡単な繰り返しの動きをしてもいいです。木から気をもらうことだけ考えていると自分と木が分裂したままなので、あげたりもらったりしながらだんだんに融け合って行く感じをつかんでください」
この程度のことを言って森に散開してもらう。それだけで30分とか45分とか放置しておいて、「おーい」と声をかけたりピーと笛を鳴らして呼び集め、どんな体験をしましたかと、時には地面にまるく輪になって話してもらいもする。初めて気功をしたというような人が、結構深い体験をしているのにびっくりする。人間が教えることより、木に教えてもらうことのほうが多いのだ。
站椿やスワイショウをもっと深めていくということはむろんできる。樹木の気というものについて、漠然とした印象批評からもっと精密なそれぞれの木の性質を識別したり、はては樹木の個体識別に近いこまかい情報にからだが開かれて行くプロセスもある。しかしそれは習うということより慣れることから出てくる。いったん方法がわかれば,自分で探求して行くことができる。仏教の言葉で言えば「平等一相」である。初めての人と「達人」との間に本質的な差別はない。人間と、とりあえず「老師」である樹木との間にも本質的な違いはない。「山川草木悉皆成仏」である。樹林気功は道教や神道の自然崇拝や、仏教のエコロジカルな一面をバックグラウンドとして継承している。
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93年に黒龍江省の鉄力に行った。東方気功養生学研究会という名でチベット密教気功の大きな組織が東北一円にひろがっていて、そのセンターが、指導者である劉尚林先生の故郷である鉄力にある。ハルピンから車で五時間ほど東北に行ったかなりの田舎の町だが、そこに六階建ての大きな気功ビルが落成し、その祝に招かれたのだった。
この鉄力が小興安嶺の原始林から近く、満州時代の林業の一大拠点だった。千人以上の人を集めたオープニング・セレモニーの翌日、バスの都合で二百人ほどの人で桃山という原始林に行くことになった。バスの中で劉尚林先生が「あんたの言う樹林気功をみんなでやってみよう。もう一度かいつまんで、みんなにどう言えばいいのか説明してくれ」と隣に坐った。樹木とともに気功をするという方法はみんなある程度やっているという。彼は黒竜江省の林業局の人であるので、林業関係者も多く、植物の知識は豊富である。「樹林気功」という言葉に出会ってその体験の累積がひとつに結晶し始めたと劉先生は言った。山小屋のバルコニーから200人に向かって「もう君らがやってきたことだが、新しい気功の流れがここから始ると思ってやってくれ」と彼は説明した。「もうひとつ、日本から来た通天大法があるので紹介しよう」といってビニール袋を掲げた。「山にゴミが落ちていたら、これに入れて持ち帰る。これも21世紀の気功だ。ここにいる津村さんが発明したものだ」200人から拍手がわいた。この辺りの森は泰山のようにゴミやビール瓶のかけらはなかったのだが。それ以前に各地の聖山でゴミ気功をしていたのを誰かから聞いたらしかった。冗談にしながら、心に響く物があった。歩きながらゴミを集め、樹木によりかかって瞑想し、小高い山頂で天と通じ合う緑土母の呪文の瞑想を長時間した。
その前夜にも、「人民に服務するという毛主席の言葉は普度衆生を言い換えたものだ。しかし今や”地球に服務する”でないとならない」というような話をしあって、鉄力のこのビルの中に環境教育中心を設置することに決めた。チベット密教気功と林業文化が結びついて行くと、中国気功の新潮流を形成して行くかもしれない。
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「樹林気功」と私たちが言い出したのは1988年のことである。それ以前から、樹木と一緒に気功をすることがなかったわけではない。樹々の中で、また特定の木とともに練功するということは伝統分野の中にひとつの分野を占めていた。しかし,樹林気功という言葉ができることで、それまでばらばらに存在してきた問題意識と関心が、ひとつのはっきりした潮流になり始めた。この年に出た関西気功協会のパンフレット『樹林気功の手引き』はB6版の、文字通り掌に乗る小さなものだったが、いくつかの本にも転載され、英語、フィンランド語、中国語にもなった。国木田独歩の「山林に自由存す」から始っているそれは、いくつかのdzの違うバックグラウンドを持っていた。
ひとつはなんといっても、気功が健康商品あるいはオカルト商品として極めて低次元で輸入され始めたことに対して、別の明確な文脈を作る必要があったということである。木に習いに行きなさい、では余計なお金の取りようもない。
第二は広がり始めた森林浴の動きに対して、もう一歩深めないとつまらないよと言いたいことがあった。森林浴は自分が変わることなく、木からもっとサービスを受けたいという思想に基づいていたから,自然が好きとはいいながらどんどん自然を破壊して行くリゾート思想とはっきり自分を区別する必要があった。この意味では、森林浴は人間の都合ばかり考えた「浅いエコロジー」だったが、それを「木になる」体験をテコに「深いエコロジー」の領域に引っ張って行きたかった。
第三に、それと重なってくることだが、世界的規模での森林の消滅の進行に対してどうしていくかを考えずに健康法をしていても滑稽だということがあった。樹林気功は日本での環境気功の最初の具体的なかたちだった。
中国気功界でも、樹木との練功は様々な形ですでに取り上げられていた。劉漢文先生の禅密功の中には植物からの採気法がある。立ち木や鉢植えを站椿の両手の間に入れて左手から気を入れて右手から出すようにする。仏像に向かって気を出し、受けて一体になって行く時と基本的に同じである。湖南省の水力発電に関わるグループがこの方面で経験を積んできて、上海中医学出版社から『樹功』という本にまとめられている。ここに掲載されている約160種の植物の薬効については、群馬中医研の井上さんに頼んで『気の森』に訳してもらったことがある。 漢方薬はもともと飲むものであるよりも服につけたり(服薬)握ったり(握薬)したのだということはまだそれほど常識とは言えないかもしれない。飲むというのも、ある成分がからだに入って作用することもあるけれども、特定の気を放射する物質を一定期間体内に留めておくというためのものだ。自分に合った薬を握ると肋骨の下がふっとゆるみ、合わないと緊張するということを利用して、握訳を診断に使う医師もいる。森の木でも自分を歓迎してくれる気がする時はその木の出す気がいまの自分に合っているので、あまり思い入れを強くしないで虚心に耳を傾ける必要がある。
ぼっとしたまま森を通りかかってもある程度の効果は自然にあるけれども、からだをオープンな状態にして気と一体になることができれば、森は本当に薬箱になる。或る程度の気功状態の脳が必要なのだ。世界を薬箱としてみて行く博物学的世界も、それにふさわしいオープンなからだを前提としたものなので、ただ知的なものではない。
ディープ・エコロジー・ワークで知られるマーガレット・パヴェルがこの三月に神戸のわが家に来た時に、さまざまな手作りのおみやげを持ってきてくれた中に、鹿の皮で作ったメディシンバッグがあった。南北アメリカのネイティヴやラップランドのサーメがよく用いる、首から下げる小さな革袋で、そこには自分を癒してくれる何かを入れておく。小石でも木の葉でもどんぐりでも鳥の羽根でもなんでもいい。ただ、歩いていて自分に呼びかけているような、連れて行って欲しそうにしているものに出会ったらそこに入れる。漢方薬の膨大なシステムも、こうしたことが幾億回となく繰り返されるうちに形成されてきたに違いない。
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樹林気功のもうひとつの重大な関心は、この方向で中国気功を見て行くと、それと世界各地のさまざまな先住民文化との共通領域が浮かび上がってくるということにある。漢方薬とメディシンバッグというのはそのひとつの例である。あちこちで書いて来たので繰り返さないが、わたしが最も強い影響をうけたのはフィンランドのカレワラ文化であり、それをいまでも継承しているライフスタイルである。森に相談すべき木をもっていたり、暖炉やサウナに薪をもやしながらもその木からの語りかけに耳を傾ける文化である。現代フィンランドを代表する思想家であるタピオ・カイタハルユは、森の妖精と出会ったファンタジックな体験を詳細なレポートにして、そういう信仰をひそかに持ち続けていた大部分のフィンランド人を励ました人だが、これまでに五回ほどインタビューさせてもらった中で、カレワラ以来の「木と話をする」伝統についても詳しく語ってくれた。モミはなかなか口を開かないが、いったん親しくなると深いつきあいになる、赤松は気楽で誰にもわかりやすい気を出している、白樺は女性的で優しい、などなど。その後にヘルシンキのCDショップでシベリウスの全集を見ていて、彼がたくさんの種類の樹木についてそれぞれの曲を作っているのを知って、フィンランドの神秘の回廊にもう一歩はいることができた。
C・W・ニコルさんと樹林気功をめぐる対談をしたことがあって、彼もそういう体験をしていた。少年時代に今からは考えられない程虚弱だったとき、おばあさんに「森に行って木に抱きついてきてごらん。好きな木を決めてずっとそうしていると、じょうぶになるよ」といわれたのだという。ケルトの伝統文化にそういう感性があるということなのだろう。
宮沢賢治の詩の世界に、それに通ずる感受性が豊富にあふれていることをわたしは最近になって知った。
何と云はれても
わたくしは光る水玉
つめたい雫
すきとほつた雨つぶを
枝いっぱいにみてた
若い山ぐみの木なのである
という短い詩は、木と一体になり、木の眼で世界を見ることができた賢治の樹林気功的感性を余すところなく伝えている。彼の詩の世界全体が雲語や白樺語や風語やカエル語で語られた世界の人間語への翻訳である。『れいろう』96年1月号に掲載した「賢治の宇宙後学校」という文章でわたしはそのあたりをまとめてみた。
最近できた映画『種山ヶ原』のなかでは、賢治の教え子たちが楽しそうに賢治の学校劇『種山ヶ原の夜』のことを回想している。からだを横にゆすっておけといわれて芝居の間じゅうゆすっていて、「先生あれは何だったの」と聞くと「ススキをやってもらってた」という。タテゆれはと聞くとポプラだという。木のまねをしてからだを揺するというようなことを、賢治自身がいつもやりつづけていに違いないのだ。ちなみに坐って左右前後にからだをゆするのは臨在の七支坐から気功に持ち込まれた伝統である。
たくさんのヒントが出そろっている。みんなで樹木と一体になる経験を積み重ねながら、どうすれば森の文化をこの国に、これからの地球によみがえらせていけるかを考える時だと思う。
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