佐藤治彦さんの新しい本。
「しあわせとお金の距離について」
ご本人から購入させていただきました!
佐藤さんらしい漢詩も添えられていました。
ありがとうございます!
そして・・
この本もこの漢詩のような感じがします。
この漢詩についてメモ。
「対酒」白居易
蝸牛角上争何事
石火光中寄此身
随富随貧且歓楽
不開口笑是痴人
カタツムリの角のような狭い世界でなぜ争うか。
あっという間の人生だというのに。
富むものも貧しきものも楽しんで行こうじゃないか
笑って生きない人はおろかですよ。
日本大百科全書(ニッポニカ)さまより
白居易
はくきょい
(772―846)
中国、中唐の詩人。字(あざな)は楽天。本籍は太原(たいげん)(山西省)、生地は新鄭(しんてい)(河南省)。李白(りはく)の死後10年、杜甫(とほ)の没後2年、地方官吏の次男として生まれた。口もきけぬ幼時、すでに「之」と「無」との字を弁別し、5歳のころから作詩を学び、16歳で早くも人を驚かす詩才をひらめかした。当時、内乱が続き、転々として移り、遠く江南を放浪したこともあった。しかしつねに進士への勉学に努め、800年(貞元16)29歳で及第した。ついで皇帝のつかさどる親試に合格し、時代の選ばれた人となった。そのころ『長恨歌(ちょうごんか)』や「林間に酒を暖めて 紅葉を焼く」の詩歌がものされた。やがて37歳、翰林(かんりん)学士、左拾遺(さしゅうい)となり、文学で政治に参加することとなった。ときに儒教的理想主義から若い情熱を傾けて社会の矛盾を鋭く批判する『新楽府(しんがふ)』など、「諷諭詩(ふうゆし)」と名づける一群の制作を続けた。811年(元和6)母の死にあい、退いて下(かけい)で喪に服したが、重ねて幼い娘を失った。ここに、儒教では解決しがたい、人間における死を問題とし、道・仏の教理へ関心を強めた。かくて「感傷詩」や「閑適詩」とよぶ詩歌群がつづられた。3年ののち、太子補導役として長安に復帰したが、815年、宰相暗殺事件に関する上奏を越権行為として責められ、それを契機に、かつて「諷諭詩」で刺激した権貴の反感がよみがえり、ついに人倫にかかわるあらぬ罪名のもとに、地の果てのような江州の司馬に追放された。
かくて人生の信念が揺らぎ、権威への懐疑に取りつかれ、文学への反省が始まり、ふたたび道教や仏教を回顧することとなり、廬山(ろざん)における東林寺や草堂の生活が続けられた。やがて新しい展望が開け、『琵琶行(びわこう)』をはじめとして、「遺愛寺の鐘は 枕(まくら)を欹(そばだ)てて聴き、香炉峰の雪は 簾(みす)を撥(かか)げて看(み)る」などの詩歌が詠ぜられた。818年忠州刺史を授けられたが、太子の即位(821。穆宗)とともに、長安に召還された。しかし首都では高級官僚が分裂し、激しい権力闘争が始まっていた。822年これを避けて自ら求めて杭州(こうしゅう)刺史に出た。銭塘湖(せんとうこ)堤の修築など行政効果をあげつつも、明媚(めいび)な風光に触発されて制作は続けられた。「風 古木を吹いて 晴天の雨、月 平沙(へいさ)を照して 夏夜の霜」の詩もなった。ときに、早くから文学的知己と許していた元(げんしん)が、近くの越州刺史として赴任したので、唱和が重ねられ、『白氏長慶集』50巻も編集された(824)。翌年、蘇州(そしゅう)刺史に転じたが、まもなく中央に召された。しかし高級官僚の権力闘争がいよいよ厳しさを増すのをみて、829年(太和3)58歳、洛陽(らくよう)への永住を決意した。権力闘争批判の行動である。詩歌でも「蝸牛(かぎゅう)角上 何事をか争う、石火光中 此(こ)の身を寄するに」という。河南府の長官となった一時期もあったが、おおむね名目的な閑職で、「詩と酒と琴」を「三友」とし、「酔吟先生」と号し、悠々自適の日々を送った。この生活のなかで劉禹錫(りゅううしゃく)との文交が深まり、唱和集も巻を重ねた。やがて元などの知友が鬼籍に入るのをみて、にわかに人生の寂寞(せきばく)を感じ、仏教へ傾倒していった。竜門の香山寺を修復しては「香山居士」と称し、詩文を結集しては廬山の東林寺などゆかりの仏寺へ奉納した。制作を「狂言綺語(きご)」と観ずる懺悔(ざんげ)の行為である。842年(会昌2)71歳、刑部尚書の待遇で退官した。やがて竜門の八節石灘(せきだん)の難所を開き、「七老会」を経て、人生の決算として『白氏文集』75巻の全集を手定し、幼時に示した才能を尽くして、846年、75歳の生涯を閉じ、香山寺畔に葬られた。
この長い一生に、文学はしばしば変容した。若い日の浪漫(ろうまん)主義的傾向は、知的な光を帯びて理想主義的な立場に転じ、社会や政治を批判した。やがて社会のなかの個人をみいだし、個人に即して人間の生き方を探求する文学を形成した。その間、定型の限界的条件の下で、言語機能を駆使する唱和に専念し、「元和体」という時代様式をも創造した。さらに晩年は老荘や釈仏の高い立場から、人間の権力への欲望を風刺した。ただ一貫したのは、文学は人間の生き方を対象とし、生活意識に裏づけられねばならぬという自覚である。ために題材は経験的となり、言語は日常性を帯び、発想は心理の自然に沿い、構成は論理の必然に従い、主題は普遍的となって、「流麗坦易(たんい)」と標徴される文学を創造した。李白の「飄逸(ひょういつ)」、杜甫の「雄渾(ゆうこん)」に対し、唐一代に通じる著しい個性となった。ために在世中から民衆のなかまで流れ、牛追いや馬子にまで口ずさまれた。没後、当代の皇帝宣宗も弔詩を捧(ささ)げ、「玉を綴(つづ)り珠を聯(つら)ぬ 六十年」と詠じ起こし、「浮雲繋(か)けず 名は居易、造化無為 字(あざな)は楽天」とたたえ、文化に貢献したという「文公」を諡(おくりな)した。やがて朝鮮から日本、また越南(えつなん)(ベトナム)など、当時の漢語文化圏で歌い読まれ、流伝の広さは古今未曽有(みぞう)と称せられた。現代においても、その作品は中国はもとより東アジアを通じ、さらには欧米諸国でも高く評価され、読み続けられている。[花房英樹]
『片山哲著『白楽天――大衆詩人』(岩波新書) ▽堤留吉著『白楽天――生活と文学』(1957・敬文社) ▽アーサー・ウェーリー著、花房英樹訳『白楽天』(1959・みすず書房) ▽堤留吉著『白楽天研究』(1962・春秋社) ▽花房英樹著『白居易研究』(1971・世界思想社) ▽平岡武夫著『中国詩文選17 白居易』(1977・筑摩書房)』