風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ふらんすへ行きたしと思へども

2017年05月01日 | 「新エッセイ集2017」

新しい5月のカレンダー、爽やかな季節だ。とくに5月の朝は特別な朝、明るい光の中で目覚めもいい。
5月の朝の東雲(しののめ)、と口ずさみながらベランダに立って、明るくなってゆく東の空をしばし眺めていた。

    ふらんすへ行きたしと思へども
    ふらんすはあまりに遠し
    せめては新しき背広をきて
    きままなる旅にいでてみん。
    汽車が山道をゆくとき
    みづいろの窓によりかかりて
    われひとりうれしきことをおもはむ
    五月の朝のしののめ
    うら若草のもえいづる心まかせに。   (萩原朔太郎『旅上』)

27歳の朔太郎のふらんすは、どんなフランスだったのだろうか。

20代の頃、フランス語を少しだけかじったことがある。
『太陽がいっぱい』、『ぼくの伯父さん』、『シェルブールの雨傘』など、ぼくのフランスは、映画館の暗闇をひたすらに彷徨っていた。『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブのような、怪しく美しいアテネ・フランセのフランス人女教師。やわらかい口元から転がるように漏れてくる魅惑的な言葉。
“Qu'est-ce que c'est?”(ケスクセ?)。美しいひとの言葉は、響きも美しかった。
あの頃は、5月の緑色の風も吹いていなかったけれど、「われひとりうれしきことをおもはむ」と、貧しく熱く、昼も夜もやたらと街を歩き回ったものだった。

ふらんすはあまりに遠し……、あれからずっと、ぼくのフランスは遠いままだ。
この5月の休日、ルイ・ヴィトンのバッグを提げた日本人が、ルーブルやベルサイユ宮殿を気軽に逍遥しているのだろうか、などと夢想しながら、ぼくは近くの公園の草むらに寝転んで、若葉のみずみずしい茂みを見上げている。
重なり合い、空を覆うほどに、樹にはどうして、あんなに沢山の葉っぱがあるのだろう。樹にとって、それは必要なものなのなのだろうかと、ぼんやり考える。樹が答えてくれるわけでもなく、植物学の知識がないぼくに、正しい答えなどないが、ただ漠然とそんな考えに引き込まれていく。
眺めている間にも、生長を続けているだろう緑の群生の遥けさは、徐々に5月の空へと萌えあがってゆく。ぼくの未熟な夢想の中で、緑色したフランスは涼やかにそよぎはじめる。

その空の、緑色の波にのって、無数の緑色の果実が漂っている。
ぼくが寝転がっていたのは、梅の木の下なのだった。
青梅に塩をつけてかじり、あとで腹痛をおこした少年時代。梅の実を見つけると採ってかじらずにおれず、そのあと決まって腹を押えてうずくまっていた。ただ食べることに貪欲だった無知なる時代があった。
うら若草も知らず、緑色の風も知らず、フランスも知らず、ただ梅の実の苦くて酸っぱい記憶ばかりを、ポケットにいっぱい詰め込んでいた。そんな青い時代。

そして緑色の波を越えて、はるか向こうにパリの空。淡いピンクとグレーの流れはセーヌ川だろうか。
アポリネールはうたう、
    ミラボー橋の下をセーヌは流れる
    ときは流れる 私はたたずむ
マリー・ローランサンもうたう、
    死んだ女より もっと哀れなのは
    忘れられた女です

ローランサン22歳、アポリネール27歳の若い旅の時代。セーヌ川のそばでふたりの恋は始まり、セーヌ川を流れ流れて、やがてふたりの川は忘れられた。
5月のいまは緑色のとき。フランスはなおも遠く、セーヌ川はさらに遠い。
ぼくはうら若草の流れの中にいる。固くてあおい梅の実が揺れて漂っている。少年の臓腑が痛む。いつしか緑色の川を流されている。
Bon voyage! (よい旅を!)