熊澤良尊の将棋駒三昧

只今、生涯2冊目の本「駒と歩む」。配本中。
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回想記・その1、駒づくりを始めたころ

2020-08-04 06:35:12 | 文章

1、駒づくりを始めたころ

 駒づくりを始めたのは29才の時。もともと将棋が好きで、職場では先輩と将棋同好会を立ち上げ、師範に南口繁一先生を招いて将棋を楽しんでいました。駒はデパートで買った「楷書、歩兵彫りの大阪駒」。ある時、文字が凹んでいない彫埋め駒もあることを知って、文字の彫り跡に漆紛いの黒い塗料を埋め込んで悦に入ったりしておりました。

  そんな折り、年配の将棋友達が見せてくれた宝石のような「静山作錦旗の盛上げ駒」。文字が程よく盛り上がっていて美しい。自分もそのような駒を持ちたいと強く思った。
 当時、駒づくりの名人として、宮松影水さんが東京にいました。先生には、宮松さんが作る盛上げ駒は当時のサラリーの3倍の5万円はすると聞いていました。
 時たま仕事で上京した時は、宮松さんが住まう上野の方を見やりながら、「そのうちに頼みに行かなくては・・」と思ったものでした。しかし、間もなく宮松さんは若くして急逝。
  ならばと間を置かず、今度は彫り駒の名手、大阪の赤松元一(駒権)さんを訪ねて「何万円かの上等な彫り駒」を注文することに。しかし、
3か月が経ち半年が経つ頃、再三、赤松宅へ出向いても、私が注文した駒を彫っているような気配がないそこでやむなく、自分で作ろうと思うようになったのです。
 しかし、ノウハウも持ち合わせず駒の材料の入手方法もわからない。そんなある日、仙台に出張する機会があって、休暇を取って一日早く天童へ迂回することにした。材料である駒型になった木地を入手するためでした。
  日曜日早朝、降り立った天童駅前の店にすぐさま飛び込んで、「かくかくしかじか。一組、駒の材料を売ってほしい」と頼みこんだが、色よい返事はもらえなかった。普通の天童の将棋駒は買う気にはならず、代わりに「チェスの駒」を買ったことで、一組分の駒形木地を分けてもらうことができた。
  別の店では駒を彫る実演をやっていて、2時間ほど「ウムフム」と感心しながら、道具や手並みに注目。その様子を頭に叩き込んだ。帰宅後は早速、よく切れそうな彫刻刀を専門店で探し、彫るときに使う保持具の彫り台は自作し、駒の文字は自分なりのものを用意するなどと、とにかくすべてを手探りで駒づくりを始めた。
  当時、駒づくりのノウハウは秘密でした。でも、文字を彫って漆代わりの黒い塗料を塗り込んで、塗料が乾いてから余分な塗料をサンドペーパーで摺り落とせば、黒い文字が浮かびあがり、それなりの駒が出来上がるはず。そう考えながら、駒一枚の表面を摺った時でした。
  眼に飛び込んだのは、黒いシミでオバケのような無残な文字。黒い塗料が木目に沿って流れた滲みでした。 天童では彫る実演だけを見て、木目の空洞を塞ぐ「目止め工程」の知識も知らずに、駒づくりを始めた結果の失敗でした。
 この失敗は黒い塗料を塗る前に透明な塗料を下塗りしておけばクリヤーできるに違いない。今度は、大阪の盤屋さんに頼みこんで、再度、駒木地を入手し、やっぱり目指すのは盛上げ駒だと決めたのは、30歳直前の再チャレンジでした。
  やがて2か月後、出来上がった駒は、すぐさま南口先生宅に持参して、「これでご指導を・・」とお願いしたところ、「なかなか良くできている。この春に京都で中原名人と加藤(南口先生は、加藤一二三さんの師匠)の記念対局がある。そこで使おう。今日は、別の駒で・・」ということになり、初めて作った駒が思いがけず、数か月後の京都の大ホールで鮮烈にデビューする幸運と栄誉に、私の心は天にも昇る思いでいっぱいになった。 「もっともっと作ろう。早速、材料にするツゲを捜さなくっちゃ」と思った。これは自然のことでした。
 その京都からの帰りです。駅前の土産物店に立ち寄った時、偶然にもツゲを見つけました。それはしっとりと飴色に輝く京都名産品のツゲ櫛でした。
  正月明けの翌日、会社には休暇を出して再び京都へ。京都にはツゲ櫛の専門店が2軒。そのうちの一軒では親戚筋の製造元を聞き出し、その足で訪問したところ、私の希望を聞いてくれて、一抱えもある堅いツゲの根っこの塊を貰い受けたのは更なる幸運でもありました。
 
  以上が、駒づくりを始めるきっかけと経緯です。
  この続きは、ボツボツと書き連ねたいと思います。
コメント (3)
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