29日の新華社のサイトに「毛沢東がトウ小平を再起用した内幕」とする文章が掲載された。いくつかの部分で、毛沢東が犯した誤りを過小な表現にして、一方でトウ小平の評価を大々的に記し、あたかも毛沢東からトウ小平にストレートに権力が継承されたかのように読者を導こうとする思惑が見える書き方だ。
乱暴に要約すると、文化大革命末期の1974年7月から75年4月、毛沢東が北京を離れ、武漢、長沙、南昌、杭州で過ごしていたとき、失脚中だったトウ小平を中共中央副主席、国務院第一副首相、中央軍事委副主席兼人民解放軍総参謀長として復帰させることを決めた。そもそも劉少奇、トウ小平を後継に考えていたが文革に際して失脚、その後文革を利用してのし上がった「四人組」の一人、王洪文を党副主席に登用し後継に考えたが能力が及ばないと判断、失脚していたトウ小平を呼び戻すことになった、というものだ。
「内幕」によると、毛沢東は1957年11月にソ連を訪問したときには、国家主席の職を辞す準備をうすうす考えていて、フルシュチョフとの会談で「後継者は?」と問われ「第1に劉少奇、第2にトウ小平」と答え、後継者として劉少奇、トウ小平を念頭においていた考えを示していたと書いている。
ただ、当初から劉、トウを念頭においていたなら、なぜ毛沢東は1966年8月、党の第8期十一中全会で「司令部を砲撃せよ。私の大字報(壁新聞)」を配布、劉、トウらを実権派としてあからさまに攻撃したのか。
また、76年1月8日、周恩来首相が死去し、その葬儀でトウ小平は弔辞を読んだあと表舞台から姿を消す(3度目の失脚)。晩年の毛沢東がもしまだこん睡状態でなく判断能力があったなら(同年9月9日に死去)、なぜ江青ら四人組にやりたいようにやらせたのか、なぜトウを守れなかったのか。
時代背景を説明すると、1950年代、毛沢東は社会主義システムの完成を急ぐあまり(過度期の総路線)、集団化による急速な工業力発展と食料増産をたきつけた大躍進政策を実施、実際は、うそで固められた統計数字で結果を伴っておらず、基本的な食糧生産をないがしろにして農村を粗鉄作りに動員した結果、大凶作を招くこととなり、数千万人の餓死者を出す事態を招いた。毛沢東はこの責任をとり1959年に国家主席を劉少奇に譲り、政治の表舞台から身を引く。劉少奇とその片腕となったトウ小平は疲弊した経済立て直しに奔走、人民公社政策で「働いても働かなくても収入は同じ」と悪しき平等主義に染まり生産力が低下していた農業面で、「三自一包」政策と呼ばれる生産責任制を導入、農業生産を回復させた。
「三自一包」とは「自留地、自由市場、損益の自己責任」と「包産到戸」の略で、人民公社による集団農場でなく、自らの責任で耕した土地で作った作物を(公社に上納するのでなく)自由市場で売り、その損益は自ら負うというもの。「包産到戸」=農家請負制=は、各農家ごとに一定量を上納した余剰部分は自ら売って現金収入を得ることができる生産請負責任制。当初は毛沢東によって「資本主義の復活だ」と批判されたが、この時期に劉少奇たちが農業建て直しのために「三自一包」政策をとったことで人民を飢えから救った一方、後の文化大革命で「走資派」(資本主義の道へ走る輩)と批判される原因となる。
「内幕」では、劉、トウは、当時の“左”に偏った誤った指導方針を正したことで、半隠居状態の毛沢東と袂を分かってしまった。この機に乗じて林彪、江青が党の実権を握ろうと劉、トウを迫害し、劉は獄中で死亡、トウは江西省で労働改造させられる。この間、党規約に毛沢東の後継者と記された林彪・党副主席は71年に毛沢東暗殺を計画、失敗しモスクワに逃げる途中、飛行機が墜落して死亡(林彪事件=913事件=)する。毛沢東は精神的に大きなダメージを受けて病に伏せ、弱った体で後継者を探そうと切迫していたという。73年の第十期党大会で38歳の王洪文を副主席に抜擢する。ただ、林彪のときに痛い目にあったため、後継者として明文化することは避けた。王洪文は上海で造反派のリーダーとして騒ぎを起こすことに長けていただけで実務能力にはきわめて乏しく、中央政府の日常業務は周恩来首相に任されるようになった。ただ、周首相の負担が増えて持病(膀胱がん)が悪化し、毛沢東はトウ小平の復活を決断した、としている。
74年7月17日、毛沢東が中央政治局会議を主催し、トウ小平復活に強く反対する江青の野心を批判したという。そのやり取りの中で、「最後に毛沢東は江青を指してこう言った。『彼女は上海閥をもくろんでいる。諸君注意せよ!』」と語ったと紹介されている。
「内幕」によると、毛沢東が中央政治局会議の席上、「上海閥」の問題を初めて提起したのがこのシーンだという。同時に、江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人に対して「決して四人の小派閥を作るな」と警告し、その中に王洪文が入っていることで、十全大会で選び出した後継者に大いに失望していることを示した、としている。
王洪文は、毛沢東がトウ小平復活を考えていることを察知し、妨害工作を始めるが、毛沢東は、トウ小平の党副主席、第一副首相、軍事委副主席兼総参謀長の任につくことを正式に提案、それ以外に、王洪文、張春橋、姚文元に対して江青の背後で物を言うな、と警告している。
文革期ゆえそうなのだが、「上海閥」を文革の諸悪の根源のような書き方をして「上海閥」のイメージを貶めている。もちろん「上海閥」といえば江沢民を連想する。別に江沢民批判まで盛り込まれているとは思えないが、なんだか変である。
毛沢東は結局は四人組の考えに乗り、トウ小平の3度目の失脚を招くが、この「内幕」のエピソードは意識的に毛が四人組の行いを批判的に見ていた、と読者を誘導するような表現になっているように思える。
また、この「内幕」には、トウの2度目の復活の後、もう一人の後継者として75年1月に副首相になった華国鋒にはまったく触れられていない。華国鋒は周恩来の死後、トウのいない国務院で総理(首相)となり、76年9月の毛沢東死後、「あなたがやれば私は安心だ」と毛沢東が言ったとされる遺言を唯一のよりどころとして権力を掌握、党主席、首相、中央軍事委主席の3権のトップに就任を掌握する。ただ、1978年に再々復活したトウ小平との権力闘争に敗れ、トップの地位から退く。この降格は文革による激しい奪権闘争に嫌気がさしていた中国で批判を受けぬよう、トウが巧みに華の地位を徐々に下げていったもので、最終的に2002年に81歳で引退するまでヒラの中央委員の地位は維持した。これは中国共産党の「70歳定年制」の規定の唯一の例外となったようだ。
華国鋒は、毛沢東の死後、四人組逮捕を発動して文革を終わらせたこと、トウ小平の権力掌握に自ら身を引いて協力したと見られること、これらの論功で定年を過ぎても中央委員の特権を維持されたと見られる。名前をあえてはずしたことで、華にマイナスイメージが及ばないように、またこの76-79年の華国鋒時代、つまり文革後の文革時代をなかったものにしようとする意図があるのではないか。
「内幕」は「中国共産党新聞網(サイト)」からの転載で、原文は「党史博覧」からのものだという。
乱暴に要約すると、文化大革命末期の1974年7月から75年4月、毛沢東が北京を離れ、武漢、長沙、南昌、杭州で過ごしていたとき、失脚中だったトウ小平を中共中央副主席、国務院第一副首相、中央軍事委副主席兼人民解放軍総参謀長として復帰させることを決めた。そもそも劉少奇、トウ小平を後継に考えていたが文革に際して失脚、その後文革を利用してのし上がった「四人組」の一人、王洪文を党副主席に登用し後継に考えたが能力が及ばないと判断、失脚していたトウ小平を呼び戻すことになった、というものだ。
「内幕」によると、毛沢東は1957年11月にソ連を訪問したときには、国家主席の職を辞す準備をうすうす考えていて、フルシュチョフとの会談で「後継者は?」と問われ「第1に劉少奇、第2にトウ小平」と答え、後継者として劉少奇、トウ小平を念頭においていた考えを示していたと書いている。
ただ、当初から劉、トウを念頭においていたなら、なぜ毛沢東は1966年8月、党の第8期十一中全会で「司令部を砲撃せよ。私の大字報(壁新聞)」を配布、劉、トウらを実権派としてあからさまに攻撃したのか。
また、76年1月8日、周恩来首相が死去し、その葬儀でトウ小平は弔辞を読んだあと表舞台から姿を消す(3度目の失脚)。晩年の毛沢東がもしまだこん睡状態でなく判断能力があったなら(同年9月9日に死去)、なぜ江青ら四人組にやりたいようにやらせたのか、なぜトウを守れなかったのか。
時代背景を説明すると、1950年代、毛沢東は社会主義システムの完成を急ぐあまり(過度期の総路線)、集団化による急速な工業力発展と食料増産をたきつけた大躍進政策を実施、実際は、うそで固められた統計数字で結果を伴っておらず、基本的な食糧生産をないがしろにして農村を粗鉄作りに動員した結果、大凶作を招くこととなり、数千万人の餓死者を出す事態を招いた。毛沢東はこの責任をとり1959年に国家主席を劉少奇に譲り、政治の表舞台から身を引く。劉少奇とその片腕となったトウ小平は疲弊した経済立て直しに奔走、人民公社政策で「働いても働かなくても収入は同じ」と悪しき平等主義に染まり生産力が低下していた農業面で、「三自一包」政策と呼ばれる生産責任制を導入、農業生産を回復させた。
「三自一包」とは「自留地、自由市場、損益の自己責任」と「包産到戸」の略で、人民公社による集団農場でなく、自らの責任で耕した土地で作った作物を(公社に上納するのでなく)自由市場で売り、その損益は自ら負うというもの。「包産到戸」=農家請負制=は、各農家ごとに一定量を上納した余剰部分は自ら売って現金収入を得ることができる生産請負責任制。当初は毛沢東によって「資本主義の復活だ」と批判されたが、この時期に劉少奇たちが農業建て直しのために「三自一包」政策をとったことで人民を飢えから救った一方、後の文化大革命で「走資派」(資本主義の道へ走る輩)と批判される原因となる。
「内幕」では、劉、トウは、当時の“左”に偏った誤った指導方針を正したことで、半隠居状態の毛沢東と袂を分かってしまった。この機に乗じて林彪、江青が党の実権を握ろうと劉、トウを迫害し、劉は獄中で死亡、トウは江西省で労働改造させられる。この間、党規約に毛沢東の後継者と記された林彪・党副主席は71年に毛沢東暗殺を計画、失敗しモスクワに逃げる途中、飛行機が墜落して死亡(林彪事件=913事件=)する。毛沢東は精神的に大きなダメージを受けて病に伏せ、弱った体で後継者を探そうと切迫していたという。73年の第十期党大会で38歳の王洪文を副主席に抜擢する。ただ、林彪のときに痛い目にあったため、後継者として明文化することは避けた。王洪文は上海で造反派のリーダーとして騒ぎを起こすことに長けていただけで実務能力にはきわめて乏しく、中央政府の日常業務は周恩来首相に任されるようになった。ただ、周首相の負担が増えて持病(膀胱がん)が悪化し、毛沢東はトウ小平の復活を決断した、としている。
74年7月17日、毛沢東が中央政治局会議を主催し、トウ小平復活に強く反対する江青の野心を批判したという。そのやり取りの中で、「最後に毛沢東は江青を指してこう言った。『彼女は上海閥をもくろんでいる。諸君注意せよ!』」と語ったと紹介されている。
「内幕」によると、毛沢東が中央政治局会議の席上、「上海閥」の問題を初めて提起したのがこのシーンだという。同時に、江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人に対して「決して四人の小派閥を作るな」と警告し、その中に王洪文が入っていることで、十全大会で選び出した後継者に大いに失望していることを示した、としている。
王洪文は、毛沢東がトウ小平復活を考えていることを察知し、妨害工作を始めるが、毛沢東は、トウ小平の党副主席、第一副首相、軍事委副主席兼総参謀長の任につくことを正式に提案、それ以外に、王洪文、張春橋、姚文元に対して江青の背後で物を言うな、と警告している。
文革期ゆえそうなのだが、「上海閥」を文革の諸悪の根源のような書き方をして「上海閥」のイメージを貶めている。もちろん「上海閥」といえば江沢民を連想する。別に江沢民批判まで盛り込まれているとは思えないが、なんだか変である。
毛沢東は結局は四人組の考えに乗り、トウ小平の3度目の失脚を招くが、この「内幕」のエピソードは意識的に毛が四人組の行いを批判的に見ていた、と読者を誘導するような表現になっているように思える。
また、この「内幕」には、トウの2度目の復活の後、もう一人の後継者として75年1月に副首相になった華国鋒にはまったく触れられていない。華国鋒は周恩来の死後、トウのいない国務院で総理(首相)となり、76年9月の毛沢東死後、「あなたがやれば私は安心だ」と毛沢東が言ったとされる遺言を唯一のよりどころとして権力を掌握、党主席、首相、中央軍事委主席の3権のトップに就任を掌握する。ただ、1978年に再々復活したトウ小平との権力闘争に敗れ、トップの地位から退く。この降格は文革による激しい奪権闘争に嫌気がさしていた中国で批判を受けぬよう、トウが巧みに華の地位を徐々に下げていったもので、最終的に2002年に81歳で引退するまでヒラの中央委員の地位は維持した。これは中国共産党の「70歳定年制」の規定の唯一の例外となったようだ。
華国鋒は、毛沢東の死後、四人組逮捕を発動して文革を終わらせたこと、トウ小平の権力掌握に自ら身を引いて協力したと見られること、これらの論功で定年を過ぎても中央委員の特権を維持されたと見られる。名前をあえてはずしたことで、華にマイナスイメージが及ばないように、またこの76-79年の華国鋒時代、つまり文革後の文革時代をなかったものにしようとする意図があるのではないか。
「内幕」は「中国共産党新聞網(サイト)」からの転載で、原文は「党史博覧」からのものだという。