Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

中国列車衝突事故

2009-06-30 03:50:49 | Weblog

中国湖南省の郴州駅で29日未明、列車同士が衝突、3人が死亡、63人が負傷した。香港の中国人権民主化運動ニュースセンターは、江沢民・前国家主席夫妻が乗っていた可能性があると伝えた。
新華社によると、同日午前2時40分ごろ、本来駅構内で停車するはずのK9017次長沙発深圳行きが停まらず、発車しようとしていたK9063次銅仁発深圳行き列車の側面に衝突した。K9017次は1-5両目が脱線、K9063次は1両目が脱線した。
中国人権民主化運動ニュースセンターが複数の消息筋からの情報として紹介したところによると、江夫妻が乗っていたとされるのはK9017次。28日に長沙を視察し、夜に深圳に移動する予定だった。この日の夜に長沙から深圳に行く列車はK9017次だけで、湖南省当局は警戒態勢に入っていた。江夫妻はともに心臓病を患っており、特に妻の王冶坪はより重く、2人は最近は航空機を使わずもっぱら陸路で移動していたという。

五台山が世界遺産

2009-06-27 21:14:46 | 歴代中国旅行

昨夏に訪れた山西省の仏教名山・五台山が中国で38番目の世界遺産に登録された。新華社によると、スペインのセビリアで26日に開かれたユネスコの第33回世界遺産委員会会議で世界文化遺産として批准を受けたという。これで中国では、文化遺産が27、自然遺産が7、文化と自然混合遺産が4となったという。

五台山は山西省忻州市にあり、4世紀から19世紀まで北魏、唐、宋、元、明、清朝の仏教建築と、仏教聖山としての独特の景観が見られる。チベット仏教寺院も結構多く、菩薩頂と呼ばれる一番高い位置にある寺は、今もチベット僧が修行している。マニ車も作られている。きらきら光った堂があるのは、顕通寺の銅殿。中国人は金色にキラキラ光るものが好きだから。赤い蓮の花を模した中に仏像が安置されているのは羅睺寺。白い大きな塔が目立つのは塔院寺。

世界遺産になる前に行っておいてよかったなあ。昨年訪れたときは、大型観光バスで訪れた信心深い中国人団体観光客が結構いたが、あまりまともなホテルもレストランもなかったような。チャーターしたタクシーの運転手が連れていってくれた安旅館はあまりきれいでなく、当初予定の2泊を1泊にして逃げ出した。参観時間もそれほどかからず、半日で移動してしまった。五台山は麓に、仏光寺と南禅寺という寺があり、小さいが中にはすばらしい仏像があった。この辺は世界遺産には含まれないのかなあ。参観客も僕等以外におらず、このような寺のほうが保存が必要だと思うけど。

山西省の近所の、といってもかなり離れているが、大同の雲崗石窟と平遥故城は世界遺産に登録済み。日本の遺跡の世界遺産登録はハードルが高そうだけど、中国の遺跡には大甘のような気がする。

中朝国境の旅7止

2009-06-23 23:32:31 | 中国旅行

夕食は、延吉で朝鮮焼肉ダアっ!と、ホテルのフロントで「近くに美味しい烤肉店ない?」と聞くと、歩いて10分で「東方串肉城」があるという。着いたら朝鮮焼肉でなくモンゴル風串焼きだった。でもうまかった。羊の足と牛肉の串焼きを食べた。やば、高いかもと思ったら126元だった。びっくり。

翌朝、最終日。延吉空港まではタクシーで10分もかからなかった。12元ほど。案の定地方空港は2時間前でなく、1時間半前から。まず検疫から。ものものしい身なりの人が二人きたので、時間かかるか、と思ったら簡単に済んだ。

仁川空港についても、行きの大連のときのように係員が航空機の中に入ってくることもなく、トランジットも順調。2時間あったので、ちょっと高かったがマッサージを受けた。上手だった。

中朝国境の旅6

2009-06-23 22:24:55 | 中国旅行

翌日は朝食8時とゆっくりして、ホテル近くの小天池を見て山を降りる計画。同じホテルに泊まってた韓国のツアーの人たちが写真を撮っている。ま、池そのものはたいしたことないけど、小さな花がいろいろ咲いていた。

ほかのツアー客たちは地下森林というところにも行くみたいだが、延吉行きバスの最終が午後2時と、下山までのバスなどの接続しだいではどうなるか分からないので、雨が降り出したこともあり割愛。
ホテルは温泉代は別だが夜朝2食の食事付きで日本円換算で1万円ちょい。北朝鮮のお姉さんの歌も楽しめたし、いいホテルだった。世界遺産申請をするとの口実で、中国当局が06年に立ち退き命令を出したらしい。世界遺産になってから中国地元資本のホテルを建てて儲けようというのか。朴さんによると、最近は立ち退きをあまり言わなくなってペンディング状態という。
小平はこの前身のホテルに泊まって天池を見ることが出来たが、江沢民は中国系の山麓のホテルに泊まり、結局天池は見られなかったらしい。中国人は長白山に来て天池を見ると出世する、との言い伝えがあるとのこと。胡錦濤も国家副主席時代に3回来ているという。

ホテルを出ると、ちょうどバスが泊まっていた。走って乗り込み、他の客は中継地点の運動員村駐車場と地下森林で降りていったが、バスはそのまま山門まで行ってくれて、山門を出るとすぐにタクシーの客引き。預けていた荷物をピックアップして、順調すぎるほど順調に、午後1時発延吉行きのバスのチケットを買うことができた。
バスターミナルの隣のちょっと大きめのホテルで、バスが出るまでゆっくりと昼食。茄子の味噌炒め「荷花茄子」は香菜やニンジン、ネギを豆腐皮で巻いた上に載せて食べる。うまい。「農家の料理」と服務員が薦めてくれた豚肉やジャガイモ、カボチャ、トウモロコシを炒めた料理は抜群にうまかった。肉は蒸したあと味付けしているのか、骨からポロっと取れる。トウモロコシは日本で食べるものと違ってモチモチしている。味も濃すぎずちょうどいい。

ご参考に、二道白河のバスターミナルに張ってあった時刻表。延吉へは1日6便。長春や通化行きもあるようだ。
延吉には午後4時半に到着。バスターミナルの隣の東北亜大酒店にチェックインできた。バスタブもある。お湯もすぐ出る。180元。


中朝国境の旅5の2

2009-06-23 22:05:02 | 中国旅行

長白瀑布への道は、バスを降りてからそんなに険しくない道を約1キロ歩く。脇を激流の川が流れる。風が結構強い。温泉が湧き出ているところがある。温泉卵を振舞っている。4個10元。卵はサルモネラが危ないかもしれないので、念のためやめとく。
滝は3本。朴さんによると、左の2本は天池から、右の1本は近くの滝から伝わってきているが、地下から水を押し上げる力があり、滝の源になっているという。
午後3時過ぎと、少し早めだが、疲労困憊しないように早めにホテルに帰る。というのは長白山国際旅遊賓館には露天温泉があるからだ。備え付けの浴衣に着替えて温泉へ。内風呂と露天がある。ちょうどいい温度で、いいあんばいに雨も降ってきた。外をぐるぐる回ってなくてよかった。気持ちいい。
夕食は、キノコの炒め物、ウサギの肉?の炒め物とキムチ、カクテキなど。味噌汁?と思ったけどテンジャンチゲと全体的に朝鮮風。

北朝鮮の女の子たちが楽器演奏と歌を披露してくれた。アリランは分かった。津軽海峡冬景色を歌ってくれた。中国語が分かるようなので聞いたら、北朝鮮の学校で音楽を学び、3年契約でここで働いているという。チマチョゴリの上にエプロンをつけて、食事の後片付けも彼女たちがしていた。
この日は天池も滝もバッチリの満額回答だった。温泉のおかげで体が芯からポカポカしている。ぐっすり眠れた。

中朝国境の旅5の1

2009-06-23 21:00:17 | 中国旅行

いよいよ5日目の朝、長白山へ。5時半に山麓の駅、白河着。客引きが押し寄せる。バスは10元、6時半に出発するという。タクシーは40元。山門は7時に開くというので、早いかな、と思ったが、タクシーで山門に一番乗り。土産物売り場のおっさんに「こんな早く何しに来た」と言われた。とりあえず朝食の麺を食べて、そこに荷物を預けたり着替えたり。超軽量ダウンジャケットはもちろん、ユニクロのヒートテックのズボン下は大活躍。

入場券売り場で7時前から並んだら、「5月1日から開門は7時半から」との張り紙が。とりあえず一番に入山券100元と環境バス券68元、保険5元を購入し、バスに乗り込む。他の人は天池を目指して中継地点で下車。僕らはバスを乗り換え小天池で降り、予約していた長白山国際旅遊賓館に。社長の朴さんらが迎えてくれたが予約は入っていないという!? どうなってんだ、延辺日中文化交流センター。無責任だな。
もしこのホテルに泊まりたいなら、直接電話で予約、確認したほうがいいですよ。
とりあえず部屋はあったのでチェックイン。窓から長白瀑布が見える部屋にしてくれた。瀑布の上の空が晴れると天池が見えるらしい。空の具合を見ながら昼前に出発。バスで中継地点の運動員村駐車場まで降りてランクル(80元)に乗り換えるが、長蛇の列。天気も変わってきた。ちょっと不安。

結局ランクルではなくミニバスでカーブだらけの道を20分。案の定、山頂は霧で包まれて前も見えない。とりあえず登ることにした。「天池」は小平の字。「長白山に登ったら天池を見なければ」と言ったらしい。

結局山頂で待つこと数十分、突風が吹くと雲が上ってくるとともに天池が姿を現した。だんだん天気が良くなり、朴さん曰く「6月に入って一番良く見えた」と、天池を堪能し、用意してきたアルファ化米とインスタント味噌汁で山頂で昼食。山頂では丸太小屋のようなものが完成間近で、環境破壊が進むかも。
写真の左端には、中国と北朝鮮の国境線が見える。ビデオで撮影したものをよく見ると、国境線の下の方の建物に数人の人影が写っていた。北朝鮮の国境管理員か警備員か。
帰りもランクルでなくミニバスだった。運動員村駐車場からホテル側の方にバスを乗り換えて登り、終点が長白瀑布の入口だ。

中朝国境の旅4の2

2009-06-23 16:02:21 | 中国旅行
将軍墳から移動するとすぐに次の禹山貴族墓地に到着してしまった。韓国・慶州の天馬塚のように、土まんじゅうのような小ぶりな円墳がいくつもある。土台の部分は四角いようだ。
唯一中に入れる5号墓に入ると真っ暗だ。入口に戻ったら照明のスイッチがあった。玄室に入ると、湿気で壁は濡れていて、あまりいい状態ではないが、壁画が暗い照明に浮かび上がって怖いぐらいだ。鳥肌がたった。写真は展示室にあった4号墓のレプリカ写真だが、5号墓は基本的に東西南北をあらわす青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が大きく描かれている。玄武はやや分かりにくい。

高松塚古墳やキトラ古墳が、ここの古墳の影響を受けているのは間違いない。キトラ古墳で見られる顔が獣で体が人間の絵もある。四神以外に、植物の葉のような雲のような模様がたくさん描かれている。天井には、キトラや高松塚のような星座はなかった。
まさかこのような古墳の中に入って、壁画を直に見られるなんて、感動ものだ。ただ世界遺産なんだから、もうちょっと保存状態は良くならないものか、と逆に心配してしまった。

最後に丸都山城跡に行く。手前に山城下貴族墓地が広がる。禹山貴族墓地のような形だが、規模がこちらのほうが大きい。係員は事務所の中で寝袋に入って寝ていた。参観客も僕等以外にもう一組だけ。やる気あるのかね。
石を積んだ城壁が広がり、南門を越えると畑の中を歩きながら、見張り台跡に着く。

その先に宮殿跡との看板があり、畑のあぜ道のような道を登っていくと、現在建設中。というか、近くの農民が「宮殿跡の遺跡は写真を撮るな」という。こっそり撮っちゃったけど。ヨン様のドラマで高句麗遺跡があたったので、デカイ宮殿を造っちゃおうとしてるのではないか。それが完成するまでカッコ悪い土台は見せたくないのか。

麺と水餃子の昼食を食べて、博物館を見ようと思ったら人はいるが「閉まっている」と言われた。集安はやる気あるのかね。ということで通化に戻り、2つ目に断られたホテルに併設された風呂に入りに行くことにする。男28元、女20元。男湯はサウナのあるスーパー銭湯そのもの。そのあとマッサージをしてもらう。
夕食は水餃子と茄子とピーマンの肉詰め、ジャガイモと枝豆など。メニューがなく餃子を頼みすぎてしまい、テイクアウトした。
午後10時発の硬臥(二等寝台)で長白山の麓の街、二道白河に向かう。周りは韓国人ツアー。夜中までほかの寝ている人のことも考えず宴会。うるさくてしょうがない。

中朝国境の旅4の1

2009-06-23 12:25:32 | 中国旅行

大連午後4時20分発の夜行寝台快速K7385次は午前6時半過ぎ、通化に到着。客引きがすごい。とにかくすぐに、当初考えていた駅前のまともそうな万通大飯店に入ってフロントで部屋を聞くと、団体が入っていて満室だという。ガーン。少し歩いて見つけた別のまともそうなホテルも満室。予定狂った。しょうがないから、風呂が無くてもいいから、と人民招待所という駅前のツインの部屋(30元)に入って荷物を置く。
駅前にいたタクシーに集安まで観光で1日包車(チャーター)と聞くと、300元だという。安い。まず15分ほど離れた旅行社に行って、今夜の夜行寝台車のチケットを受け取る。
集安まで車で1時間半ほど。街に入る前にまず好太王碑(広開土王碑)に着いてしまった。入り口に人相の悪そうなおっさんが何人もいたが、母親は入場料免除になると調べてくれた。若い女性が案内してくれるようだ。

ガラス張りの碑は結構でかい。ガラス越しでなく、中に入って直に見ることができる。「倭」の字はどの辺にあるの、と聞くと2カ所教えてくれた。かなり削れていて、前後の字と合わせて碑文を文章として読むのはちょっと無理。「大王」の字がいくつもあるのが目につく。
そこから太王陵、つまりは好太王の墓まで歩いて数分。日本で言ういわゆる円墳というか、円錐型の石積みで、草が生えている。中は石室のようなものはあったが空っぽだった。

車に乗ってほどなく将軍墳。最も完全な形で残っている墓というか古墳だそうだ。登って中腹にある石室の中をのぞくことができるが、ここもほぼ空っぽ。棺が二つ並んで置いてあったと見られる土台だけ残っている。上の好太王碑と陵の遠景写真は、この古墳の上から眺めて撮ったもの。傍らには陪葬された小さな古墳も。石室の上の天井の岩がむき出しになっていた。手前のサイコロ状の大きな石が入り口のフタだろうか。



中朝国境の旅3

2009-06-22 10:42:08 | 中国旅行
3日目は前日月曜休館で入れなかった旅順博物館を見るため旅順再訪。大連駅北側のバスのたまり場で旅順行きバスを見つける。1人7元。約1時間で街の中心部に。タクシーに乗り換え博物館へ。対面の塔の向こうには旧関東軍司令部。

ここには、20世紀のはじめにシルクロードを調査した浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞率いる大谷探検隊が収集した資料、いわゆる大谷コレクションが多くある。高昌国の器や経典、布、仏頭や仏像が展示されている。圧巻は新疆ウイグル自治区トルファンにあるアスターナ古墳群から出土された男女のミイラ。髪の毛やヒゲも生えているのが見える。インド・ガンダーラの仏像や、横山大観など日本の近世、近代の絵もある。
当然中国人の参観客は極めて少なく、ゆっくりと静かに鑑賞できた。
日本人が慰霊のために塔を建てた白玉山は時間がなく割愛。ここも以前は未開放だったという。

再度バスで大連に戻り、前日旅行社に入場券を手配しておいた旧満鉄本社屋へ。陳列館になっている。宿泊していたヤマトホテルから徒歩10分程度だ。資料館には当時の満州各地の駅の写真や、当時の備品など。戦前、戦中から旅順大連には、日露戦争跡地ツアーが結構あったらしい。天井の彫刻やシャンデリアがすばらしい。

満鉄総裁の机と椅子は結構地味だったなあ。壁には初代の後藤新平以下、歴代総裁の写真が並べられている。手前に秘書の部屋がある。ペンキとかは塗りなおしたんだろうけど、きれいに保存されていて、タイムスリップしたみたいだ。

大連賓館には午後3時半までチェックアウトを延長し、午後4時20分発通化行きの始発列車(K7385次)に乗り込む。4人1部屋の軟臥(1等寝台)だ。食堂車はないそうだ。ショック。車内販売が来たので即カップラーメンと缶ビール、ピーナッツ、パンを確保。瀋陽を通り翌朝午前6時33分に吉林省通化に到着予定。

中朝国境の旅2

2009-06-22 08:56:32 | 中国旅行

2日目は旅行社で予約しておいた車で旅順へ。早速博物館へ行ったら月曜休館。で日露戦争の激戦地、二百三高地に。砲弾の形をした爾霊山と書かれた碑は乃木希典が戦闘後、慰霊のために建てた。丘の高さが203メートルだったから「爾霊山」。往復100元のカートに乗って登ってしまった。ただ運転手のおじさんが、カート用通路を工事したとき、日露戦争当時の砲弾300発が出てきたこと、斜面の土の地層が岩のように固まっていない部分は、着弾し爆発したところだ、など興味深い話をいろいろしてくれた。乃木の次男保典の戦死した場所に碑が建てられていた。

途中で「中国のマタハリ」「男装の麗人」川島芳子の実家、粛親王府跡があった。近くの旅社はかつての旅順ヤマトホテルだが、すたれてしまっている。ここで川島芳子はモンゴルの王子と結婚式をあげた。
ロシア旅順要塞攻略後に乃木がステッセル司令官と会見した水師営へ。以前来たときに土産物売り場で日本語で話しかけてきた、かつて旅順第2中学で日本語を教えていたという老人は亡くなったという。もともと野戦病院だったところで、テーブルは手術台だった、と今も残る木のテーブルに書かれている。昼食は水師営会見場跡地わきのレストラン。アサリの炒め物と、トウモロコシで作ったという麺の焼きソバはモチモチシコシコしてうまかった。ほかには苦瓜とキクラゲ、キノコと豚肉の炒め物。


東鶏冠山北堡塁は乃木が手を焼いたロシアの要塞。乃木は横穴を掘り爆発物を仕掛けて要塞の一部を破壊し、そこから突撃したという。士官用宿舎などはまるで石を積み上げて造られたホテルのように大きい。乃木はコンドラチェンコ司令官が東鶏冠山を視察中との情報を得て砲撃を開始、ロシア兵に人望のあったコンドラチェンコが戦死したことでロシア軍は戦意を失い降伏したという。日本人が建てた「露国コンドラチェンコ少将戦死之碑」がある。


最後は、前回は車から降りて前に立って写真を撮ることもままならなかった旅順監獄。反日教育の場だったゆえ、外国人立ち入り禁止だったところだ。ロシアが造り日本が増築させた。真っ暗な独房や体を張り付けて棒でたたく拷問部屋、V字型に並ぶ牢と看守席、獄内工場、絞首刑場などを見ることが出来る。

また、ここにはハルビンで伊藤博文を暗殺した韓国の英雄・安重根が収容されていて、安はここで処刑された。安がいた独房はガラス越しに中を見られる。隣には看守の部屋がある。韓国の団体客が来ると開けるのだろうか。監獄敷地内に安重根のための祭壇を設けた部屋もあった。

大連に戻り、夕食はしゃぶしゃぶ。牛肉も羊肉もうまかった。

中朝国境の旅1

2009-06-21 10:20:04 | 中国旅行

ちょっと早めの夏休みは、梅雨を避けようと中国東北部(旧満州)へ。世界遺産に指定された集安の高句麗遺跡を目指し、そこから遠くない長白山(白頭山)を回った。南方航空の大連への直行便をお願いしたら、乗客が少ないためか便がキャンセル。代替策として大韓航空の仁川経由便を利用することになった。その代わり帰りは延吉から仁川への便を利用できるので、大連まで戻る必要がなくかえって便利。
大連から旅順へ。軍港ゆえ外国人の旅行に制限が多かった旅順は今年5月後半から開放されたばかりとのことで、念願の旅順博物館で大谷探検隊コレクションの新疆文物も期待大だ。

初日は大連に到着し、機内に検疫担当者が3人入ってきた。赤外線の体温計で全員を計測、客席を3往復、30分待たされ、結構時間がかかった。
旧大連ヤマトホテルの大連賓館に泊まる。ロータリー(中山広場)の対面には、旧横浜正金銀行の中国銀行がある。中国携帯は上海と地域が変わると通じないのか充値しなおす。どこでも出来るわけでなくて、中国聨通の支店をやっと探し出して100元分充値してもらった。夜は海鮮。

日程は以下の通り:
14日 大韓航空で福岡-仁川-大連。大連賓館泊。
15日 旅順へ専用車。203高地、水師営、東鶏冠山、旅順監獄。
16日 バスで旅順へ。旅順博物館、大連に戻り満鉄本社総裁室。
   K7385軟臥で16時20分大連発、翌朝6時33分通化着。
17日 通化でタクシーをチャーターし集安の高句麗遺跡。
   k7389硬臥で22時通化発、翌朝5時27分白河着。
18日 白河駅からタクシーで長白山北門山口。
   環境保全バスで長白山国際旅遊賓館。天池と長白瀑布を見る。
19日 小天池観光後、バスとタクシーで白河駅前バスターミナルへ。
   午後1時発バスで延吉に4時半着。東北亜大酒店。
20日 大韓航空で延吉-仁川-福岡。

六四20周年で馬英九

2009-06-04 19:51:32 | Weblog

天安門事件20周年で台湾の馬英九総統が声明を発表した。「我々はこの痛ましい歴史に勇気を持って向き合い、決して避けることはできない」と始まるが、民主化要求を武力で抑圧した非人道的な行為について、まったく抗議も批判もしていない。
そもそも独立色の強い民進党の陳水扁総統から国民党の馬総統にかわり、両岸の民間交流機関の直接対話が復活、国民党トップも大陸訪問するなど、大陸の共産党政権との関係が改善されつつある。実際は超低迷している台湾経済を、「世界の工場」と言われる大陸との経済交流でなんとか息を吹き返させようとの思惑で、大陸に擦り寄っているに過ぎない。そのため強い調子で抗議できない。まったく裏切られた感じだ。
声明はいう。「この20年、海峡両岸では大きな変化が現れた。大陸の経済改革は成功し、人民の生活は大幅に改善された。大陸当局は人権問題により注意を払うようになってきた」って本当かよ。よくここまでヨイショできるなあ。
台湾といえば、米国をはじめとする世界各国に“高度な民主主義”が実現したと見せて同情と支持を得ようと、上からの民主改革だったとはいえ、中華民族の“国家”として初めて国家元首を国民の直接投票で選んだという偉業を達成した。直接投票で選ばれたはずの、民主的な国家元首=総統の民主への概念がこれほどお粗末で、あくまでも形だけの民主だということを図らずも露呈してしまった。
馬総統は何を思ったか、天安門事件を、国民党が1947年に台湾住民を大量虐殺した「2・28事件」や50年代の白色テロと比較している。中国人がやることはそんなに変わらないという例なのか、と皮肉のひとつも言いたくなる。
天安門事件とこれらがまったく違うのは、李登輝総統時代に国民党が謝罪しているという点だ。馬英九はまったくそれが分かっていない。
馬総統が仲良くしようと思っている大陸の政権は、民主化を求める学生たちのデモに発砲し、20年たってもあのときの手法は間違っていなかったと居直る政権だ。もし中台が統一されたら台湾の住民も同じような恐怖を体験する可能性だってある。香港の人々が怒り、警戒してるのはまさにここで、「50年変わらない」と約束されていても、すでに12年たった。あと38年であのような恐怖政治が起きないとも限らない。
台湾が民主主義を実現した政権なら、カウンターパートに「俺たちと仲良くしたいのなら民主化ぐらいちゃんとしろ」ぐらい言わないと。こんな奴が総統やってて大丈夫かね。台湾は。写真はこの声明を報じる中央通信のウェブサイト。

六四20周年

2009-06-04 13:38:05 | Weblog

今も中国の民主化の妨げとなっている中国当局による1989年6月4日未明の民主化運動弾圧事件「天安門事件」(中国語で「六四=リュウ・スー=」)から20年が過ぎた。中国当局は依然として六四に対する言論を弾圧、封じ込めているため、大陸から民衆の声は聞こえてこない。
3日午後、当時の学生リーダーで事件後、米国に亡命し現在は台湾在住の吾爾開希=ウアルカイシ=(40)が、台湾からマカオ入りして中国当局への投降を試みたとのニュースが入ってきた。マカオ当局に入境拒否され台湾への強制送還措置に遭ったが、ウアルカイシは送還を拒否、マカオの空港で一夜を明かした。活動が間違いだったと認めれば里帰りが許されるが、ウアルカイシは自分の思想を曲げず、中国当局に投降、収監され裁判で自らの主張を展開しようとしたようだ。
当時の「おたずね者」ランク2位のウアルカイシが転がり込んできたのに、中国当局は彼が「殉教者」となり中国国内で民主化の火が再燃しないように、また修復が進む台湾との関係がギクシャクしないように、入境を拒むという形で混乱を回避したようだ。

20年が経過し、中国は政治改革を置き去りにしたまま経済改革は予想を超えるレベルで進み、人々は民主化への関心がますます希薄になっている。
日本で1960年代の岸信介内閣時に学生運動が激化し、次の池田勇人内閣の「月給が2倍になります」という所得倍増論で、民衆の関心が経済にすり替えられ、政治運動がみるみる衰退していった様子に似ている。
民衆の民主化要求に対し、当時の最高実力者・トウ小平は民主化の進展か、中国共産党政権の安定かを迫られ、あっさりと後者を選択、戒厳令布告、武力でのデモ鎮圧を行う(実際に公布したのは李鵬首相=当時=)。現在の中国指導部が六四を、かつては動乱と、最近は風波(騒ぎ)と矮小化し、絶対に認めないのは、トウ小平に責任が及ぶのを避けるためだ。「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ」との発言に代表されるトウ小平の実務的な政策は、結局、中国を金の亡者だらけにして政治無関心層を増やしていったと言える。(写真は昨年夏に撮影した北京の天安門と人民英雄記念碑)