Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

06年1月21日杭州

2009-01-27 10:37:41 | 歴代中国旅行

小泉純一郎の靖国神社参拝でもめた中、日中の死生観の違いを表した岳飛墓廟を見たいと、杭州を日帰り観光した。上海の中山北路のバスターミナルから朝6時50分の高速バスで杭州へ。64元。10時ごろに到着。


まず霊隠寺に行く。門をくぐると、元代の石仏が岩にたくさん彫られている。もともと2000年の歴史があるが、現在の建物は主に清朝以降に作られたものだという。それでもかなりの規模だ。日本との友好の証で、日本側が贈った空海の銅像がある。空海もこの寺に寄ったらしい。

寺を出るとすぐ前にある天外天菜館という老舗の食堂で昼食。名物は叫化童鶏(乞食鶏)、龍井蝦仁(海老の龍井茶炒め)、西湖醋魚(淡水魚の黒酢煮)。特に龍井蝦仁はこの店が発祥らしい。叫化鶏が抜群にうまい。鶏1羽に香辛料を加え、蓮の葉でくるみ、それを泥で固め蒸し焼きにする。肉がやわらかく、骨からぽろっと取れる。魚は黒酢の風味が結構強い。甘めの味。

いよいよ岳飛墓廟へ。南宋の軍人、英雄にして文人・岳飛の墓だ。北方の女真族の金と徹底抗戦を主張し、和睦派の秦檜によって謀反の濡れ衣を着せられ獄死したとされる。諸外国に虐げられた歴史を持つ中国にとって、抗戦を主張した岳飛は、その実現性の有無はともかく、英雄の誉れ高い。

一方現実派で金と和睦を結んだ秦檜は漢奸(裏切り者)として、死後も中国人から罵倒され続ける。岳飛の墓の手前には、秦檜と妻らが半裸で後手に縛られ、ひざまづいた像が置かれている。中国人はこれに唾を吐き、今でも罵倒するという。像の上に「文明的に観光を。唾をはくのはやめましょう」と看板がある。秦檜の頭の部分は修理の跡がある。石でもぶつけられたのだろう。
日本人は悪いやつでも死んだら仏になるが、中国人は死んでもその罪は昇華しない、と死生観を紹介するときに取り上げられた。東条英機らA級戦犯合祀を、死んだら仏だ、と言い訳することを中国側が理解できないのはこの死生観のためだ、ということだ。

岳飛墓廟には、岳飛の筆による出師表(すいしのひょう)の拓石がある。優れた書道家でもあった岳飛が、三国志の名宰相・諸葛亮孔明の名文中の名文といわれる出師表を、見事な筆致であらわした名作。岳飛が成都の武侯祠(劉備の墓)を訪れたとき、写し取ったものとされる。
出師表は前後あり、前出師表は、劉備死後、帝位についた息子の劉禅に対し、魏との戦いに赴く孔明が国の治め方を説くもの。「臣亮言先帝創業未半而中道…」と続く。=あなたの臣下・亮が申し上げます。先帝(劉備のこと)は志半ばで亡くなり、いまや天下三分(魏・呉・蜀)されたものの益州(四川盆地=蜀のこと)は疲弊しきっております=のような意味。このあと、劉備の恩によって重用されたことを感謝し、人材を大事にするように説く。
後水師の表は偽物とされている。蜀はとどまらず魏を打つべきだ、との内容。

六和塔は北宋時代に立てられ何度も改修されたもの。見下ろす川は銭塘江。1年に一度、潮の加減で川の水が勢いよく逆流することで有名だ。この塔は川の流れを治めるために建てられ、明かりを灯し灯台のような役割もあったという。
帰りのバスは63元。なぜか行きより1元安い。

05年5月2-6日紹興

2009-01-26 03:30:36 | 歴代中国旅行

05年のGW休みを利用して、紹興酒の名前の由来となった浙江省紹興へ行った。
紹興酒はともかく、紀元前の春秋戦国時代の越国の都・会稽だ。臥薪嘗胆の由来となった越王勾践が治めていた。水路の町、歴史の街、酒の町だ。いい雰囲気の古い路地もあって、昔の中国をほうふつとさせる。
中山北路の長距離バスターミナルから高速バスに乗った。約3時間で到着。
文豪・魯迅や中国で最も敬愛されている周恩来総理の故郷でもある。

まずは周恩来の故居。


何はともあれ紹興酒を、と魯迅の小説「孔乙己」の舞台となった「咸亨酒店」を再現した食堂に行く。プリペイド式のカードを購入、紹興酒と東坡肉、臭豆腐をたのむ。酒はドロっとした感じでかなり甘め。台湾のサラサラ系の黄酒とはずいぶん違う。東坡肉はかなり歯ごたえがある。これも甘めだがうまい。臭豆腐は発酵させた豆腐を油で揚げたもので、香港などでは路上で揚げていれば数十㍍先からでも匂いというか悪臭で分かるほどだが、ここでは匂わなかった。厚揚げのようでお腹もいっぱいになる。

魯迅記念館は魯迅の故居や学んだ私塾、植物園などさまざまな施設が公開されている。中国人の魯迅への敬愛のほどが分かる。記念館を出ると、銅鑼や笛の音とともに、嫁入り行列がやってきた。観光用のお芝居だ。
このほか王羲之の故居とか、中国女性革命家で日本留学経験もある秋瑾の家など、この地が中国の古代から近現代まで、本当に文化の発祥地であることが分かる。

越王台は、越王勾践にちなんで後世の人が南宋時代に作ったとされる。「臥薪嘗胆」がある意味抗日のスローガンともなるため越王殿では、1939年3月に、周恩来が抗日演説をした場所としても知られているという。中には「臥薪嘗胆」中の勾践の絵が描かれている。なんか変。

紹興酒もたくさん売られているが、いま飛行機は100㍉㍑以上の液体の持込が禁止されているで、買うのを我慢する。「リーズナブルでおいしいのは?」と聞くと「女児紅」だという。僕が愛飲している銘柄だ。日本でも買える。なーんだ。

「八字橋」は紹興で最古の石橋で、建造は南宋時代の1256年とのこと。三本の川の合流点に架かり、東西南北の4方向から上がることができる唯一の橋で「四面橋」とも呼ばれてるという。
ということで2泊して上海に戻った。

06年夏九寨溝黄龍四姑娘山(5止)

2009-01-25 04:31:12 | 歴代中国旅行

早朝、四姑娘山を望む双橋溝、長坪溝、海子溝の3ルートのうち、ホテルから一番近く、手軽に行ける海子溝(上の写真の手前の丘。3100~3500㍍)を歩く。入り口ほどのものもなく、看板があるだけで誰もいない。勝手に上がっていくと、入り口前の店のおばちゃんが騒ぐ。ここで入場料を払うようだ。70元。なんども切り替えしながら、坂を上っていく。途中に馬がつながれている。背後の山の陰から四姑娘山が現れ始めた。
坂を上りきると、小高い丘のようなところに。「斉戒坪 海抜3440㍍ 鍋荘坪まで2㌔」と石に書かれている。鍋荘坪の第一仏塔(上の写真では三姑娘山の真下あたりに見える白い塔)を目指し片道約2㌔をフラワートレッキング。


僕らのほかに観光客はいない。その先まで進んでいくと、朝山坪の仏塔があり、四姑娘山(6250㍍)、三姑娘山(5664㍍)、二姑娘山(5454㍍)、大姑娘山(5355㍍)の四つの嶺の一番右、大姑娘山への登山道に続くらしい。それなりの装備をしなければ登れない。

いろいろな高山植物が咲いている。ただ、希少なブルーポピーはもう季節が終わってしまったようだ。残念。次は初夏に来よう。
エーデルワイスがたくさん咲いている(下の写真)。もうちょっと可憐な花を想像していたが、白く綿毛のようなものが生えているのは花びらではなく葉だそうで、花は真ん中の黄色い部分。

トイレは環境に配慮して、水で流すのではなくビニールが次々と繰り出されて排泄物が奥に取り込まれていく構造のもの。中国、すごいじゃん。鍋荘坪の第一仏塔まで何とかたどり着いた。チベット仏教お決まりのタルチョがたなびく。ここまでで来たルートを引き返し、曽さんの車で成都へ。

昼食は途中の小さな食堂で。回鍋肉(写真)、ジャガイモの千切り炒め、青椒肉糸と麺を食べる。中国で回鍋肉というと、キャベツではなく、ニンニクの葉などと煮豚とか豚肉の燻製の薄切りを炒めたもの。味噌味でもない。うまい。日本では、陳健一の父、健民が、キャベツを使ってアレンジしたのが普及したのでは。

途中、臥龍大熊猫保護区や世界遺産の都江堰はパス。この辺は地震被害で大変だったところだ。高速道路が整備されていて、夕方に成都に到着し、夜はホテルで聞いた店で火鍋を食べる。田ウナギがうまかった。ホテルの対面には伊藤洋華堂(イトーヨーカ堂)。セブンアンドアイになってしまった今では懐かしい昔のロゴが屋上に輝き、品揃えも豊富。留学当時、この店があったら何も困らなかったのに。お茶を試飲したら安くておいしかったので買った。
今回はほとんど富士山ぐらいの高さ。それでも中国では緑がある。日本より森林限界は高い位置なのかもしれない。

06年夏九寨溝黄龍四姑娘山(4)

2009-01-24 16:14:25 | 歴代中国旅行

朝、九寨溝のホテルにドライバーの曽さんに迎えに来てもらい、黄龍へ。4000㍍級の峠越えがあり、山は霧に包まれる。
到着後、昼食用のアルファ化米にお湯をいれる。食堂施設がない黄龍で、登りきったところで昼食にしようとの作戦。だがチケット売り場のパソコンがハングアップ。1時間近く発券ができず、無為な時間を過ごす。こういうときに中国人のせっかちさがクローズアップされるね。怒鳴っても責任者を連れてきてもパソコンが直らなければどうしようもないのに。

無事発券(200元)されスタート、5㌔で500㍍ぐらい登る過酷なコースで、頂上は富士山と同じくらいの高さ。籠屋もたくさん待機。この夏は雨が少なく、一部の道は閉じられていた。空港から九寨溝でなく、先にこちらに来た日本人ツアーは高山病に苦しんでいる。一応我々は、やや高度の低い九寨溝に先に行って数日過ごしているので、ある程度高地順応できているようだ。
それでも酸素を吸いながら、休憩を入れながらゆっくり登っていく。

黄龍古寺は、マニ車があったから一応チベット仏教寺院なんだな。この辺でそうとうゼーゼーハーハー。もうちょっとで五彩池だ。

香格里拉の白水台を見ているから、と思ったけど水の色はこっちのほうが青くてきれい。この世のものとは思えない絶景だ。ただ頭もそうとうクラクラ。お弁当もおいしく食べた。戻る道は黄龍の名前の由来になった金沙鋪地を脇に見ながら。この黄色く細長く続く岩肌に水が流れ落ちていくさまが龍に見えるということで、黄龍と呼ばれるようになったという。ただ、流れる水が少なく、雰囲気はいまいちかな。母親は白髪が目立つらしく、周りの中国人からしばしば話しかけられ、「何歳だ?」「その歳ですごい」と賞賛されながら黄龍を歩ききった。

黄龍をあとにして、紅軍の長征経由地や松潘を通り、9時過ぎ、やっと中間地点の茂県のホテルへ。直接成都まで車で1日でいけないため、この辺で宿泊するのが普通らしい。松潘は638年、吐番が唐の姫を嫁によこせ、と唐と戦争した場所で、641年、吐番の初代王、ソンツェンガンポに嫁入りする際、唐の文成公主(皇女)がこの地を通り、先の戦争を嘆いたとのこと。チベット民族と漢民族の融和の象徴として使われているみたいだ。

翌日は工事中のガタガタ道から4500㍍の巴郎山の峠を越え、四姑娘山のふもとの日隆鎮まで移動。巴郎山は絶景。向こうに見える尖がった山が四姑娘山だと誤解。本当はもっと右側の山の陰。ハイブリッド車のトヨタ・プリウスやハイブリッド・エスティマ(たぶん)が4台連なり、この辺をグルグル走っているのを目撃。中国進出を前に、高地対応できるかテスト走行してたのでは。

06年夏九寨溝黄龍四姑娘山(3)

2009-01-24 14:49:49 | 歴代中国旅行

九寨溝2日目はあいにくの雨。ホテルで待機するがあがる気配なし。小雨になったところで出発。フードをかぶり、ホテルの備品のシャワーキャップでカメラを雨から守る。なかなか具合がいい。
前日の老虎海や犀牛海を反対側から見る。雨が霧のようになってマイナスイオンいっぱいだ。山や木が湖に映りこんで、幻想的だ。



観光センターでバスに乗り、日則溝側から五花海、珍珠灘、鏡海方面をフラワーハイキングだ。雨もほとんどやんできた。珍珠灘瀑布は滝の脇を降りていく。水が細かく散らばり霧のようになっている。

歩き続けて、へばり気味。何とかがんばって諾日朗瀑布にたどり着く。でかい。この日の昼食は持ってきたビスケットやフルーツをバス待ちの間に食べる。

火花海わきを歩いて降りていく。湖に龍の模様が映りこんだ臥龍海、盆景灘を眺めながら、帰りのバスに乗った。
もはや「秘境」とはいえないな。中国人だらけ。あげくにチベット族の作業員に「いくら給料もらってるの」とか聞いてる奴もいる。外国人だけでなくて、自国民に対しても金のことしか聞けないのかね、こいつらは。すべての価値観は金なんだろうな。卑しいね。
25年前の留学中に、外事弁公室の先生たちから「九寨溝に行かないか」って誘われたっけ。「どこそれ?」「すごいきれいなのよ。ヘリコプターに乗って行く」とか言ってた。この頃行ってたら本当の「秘境」を堪能できたんだろうな。あの時行っとけばよかったかな。ちょっと後悔。

06年夏九寨溝黄龍四姑娘山(2)

2009-01-24 14:08:47 | 歴代中国旅行

九寨溝入り口までタクシーで数分、チケットを買う。入場料2日有効170元に環境バス券90元分。翌日も不正なく使えるようにデジカメ写真をチケットに印刷する。一人ずつ撮影するのかと思ったら、「お前ら一緒か?」「うん」。パチっ。3人集合写真。ある意味記念になった。

バスは緑色の環境保護車。とりあえず乗る。天気には恵まれた。乗り換え地点でバスがなかなか来ないので、歩いていけるところをまず見ることにする。

樹正瀑布。水も音も、中国人の記念撮影の行列もすごい。老虎海から犀牛海。湖は透けて、中に沈む丸太まで見える。チベット仏教のマニ車が水流で回るようになっている。
とりあえず次のバスに乗れた。則査窪溝に行った。終点は長海。標高3103㍍地点にある、長さ4.5㌔、平均幅200㍍の九寨溝最大の湖=(1)の1枚目写真参照。空気の薄さをかなり実感。湖のふちまで歩いて降りることができ、階段の上り下りで息が苦しい。

続いて山道を歩き、水が青緑色に輝く五彩池。人だらけだ。確かにすごいきれい。
バスでターミナルの観光センターまで行き、レストランで昼食。バイキング方式ですごい混んでいる。

続いて日則溝側にのぼり、箭竹海。張芸謀監督作品「英雄」の撮影現場だ。ジェット・リーとトニー・レオンが湖の上を飛びながら戦うシーンだ。映画で見られた小屋は撮影用とのことで、ない。
熊猫海、スワン海などをハイキング。熊猫海では魚がたくさん泳いでいるのが見える=一番上の写真。ウロコが退化してなくなった、九寨溝固有種だという。

06年夏九寨溝黄龍四姑娘山(1)

2009-01-24 13:22:05 | 歴代中国旅行

06年の夏休みは、3人で中国最後の秘境といわれる九寨溝から黄龍、さらに車で四川省を南下しながら四姑娘山(すーくーにゃんしゃん)を見た。北京五輪を前に、観光地整備を進めるべく道路工事があちこちで行われていた。08年5月に発生した四川大地震の被災地と重なる場所も少なくなく、今から思うと、被害に遭う前の街を見ることができたとはいえ、複雑な感じだ。

移動は、マイルの特典を利用して午前福岡発の便で上海浦東へ、前日上海入りの母弟と浦東空港で合流し、成都経由でその日のうちに九寨・黄龍空港に到着。タクシーでホテルへ。と、ここまで自力で。九寨溝観光を終えて、黄龍への移動から、車をチャーターしてホテルに迎えに来てもらい、中間地点・茂県に一泊しつつ、四姑娘山、成都と回る。車とホテルは成都光大国際旅行社(028-68228797)とメールでやり取りして手配してもらう。車代は1300元×3日=3900元。成都空港で待っていた旅行社の人にホテル代も含めて代金を支払う。

九寨溝の空港に着き、タラップを降りると、ありゃ、なんか胸が……。空港内に医務室がある。「ここの高度は?」「3300メートル」。酸素ボンベがある。「それ、売り物ですか」「もちろん」。一本30元。迷わず買う。

ホテルは、
九寨溝賓館(3星)      :九寨溝鎮 0837-7734847 一泊360元
茂県国際大酒店(準4星)  :茂県鳳儀鎮 0837-7427999   280元
四姑娘山国際大酒店(4星):小金県日隆鎮 0837-2791999   320元
天友国際酒店(3星):成都市二環路西一段 028-85066666   320元

日程:
8月 福岡 上海浦東 MU532  1000-1030
25日 上海浦東 成都 MU5405 1225-1520
   成都 九寨黄龍 3U8613 1750-1830
   九寨溝賓館着
26日 九寨溝観光。九寨溝賓館泊
27日 九寨溝観光。九寨溝賓館泊
28日 早朝、専用車で黄龍へ移動、観光。終了後移動、茂県国際大酒店
29日 四姑娘山へ移動。途中、巴郎山を経由し新四姑娘山荘
30日 四姑娘山観光。成都へ車で移動、成都天友国際酒店
31日 成都 上海浦東 MU5402 0900 1135
    上海浦東 福岡 MU531  1800 2040

02年夏、チベット(3止)

2009-01-20 05:28:09 | 歴代中国旅行


いよいよ念願のポタラ宮。朝一番で工事中ということで裏側から入る。赤いところが政務所で白い部分が住居だという。中には歴代ダライ・ラマの棺や玉座、仏像で迷路のようになっている。白い壁はギリシャかどこかの海岸沿いの住宅のような錯覚さえする。正面は広場のようになっているが、かつては門前町のように住宅が密集していて、最もチベットらしい雰囲気のある場所だったらしいが、中国がお構いなしに開発したらしい。

午後からは大昭寺(ジョカン)へ。 ソンツァンガンポが唐の文成王女を嫁に迎えるため建立させたもの。たくさんの信者が五体投地している。

八廓街はゴミゴミっといい雰囲気の下町。仏具やそのほかいろいろな店がある。

細い道を進むと黄色い壁と鉢植えの花が可愛らしい尼僧院のアニ・ツァングン寺。尼さんたちが内職に読経に忙しい。

チベット最終日は、標高4853㍍の地にあるヤムドク湖。エメラルドのようにきれいな湖面と、透き通るような青い空が印象的だ。

夜はチベット料理の店へ。チベットの踊りも演じられている。バター茶は濃いミルクティーのような感じ。やや塩味。料理は「モモ」というヤク肉の蒸し餃子以外はちょっと勘弁。炒った小麦粉を水やバターで練って固めた「ツァンパ」はもうパス。
途中でモスクを見た。チベット仏教ばっかりだと思ったら、イスラム教徒はどこにでもいるんだね。

翌日は成都へ。飛行機が1時間以上遅れた。三星堆遺跡の博物館へ行く。市内から結構遠い。すごい。見に来てよかった。黄金仮面は漢民族の文化とまったく異質だ。そのあと武侯祠に行く。夜は当然、火鍋。本場は辛くておいしいね。

02年夏、チベット(2)

2009-01-20 05:16:11 | 歴代中国旅行

翌日は、沢当から車で移動しながら桑耶(サムイエ)寺へ。チベット初の僧院だという。川を渡るのかと思ったら、ちょっとした流れを渡るだけだった。途中、羊の大群に遭遇。

桑耶寺は仏塔の目のようなものが特徴的だった。車が故障し長居させられる。屋根の上で若い僧がラッパを吹き始めた。今ならビデオがあるから音も入れられたのになあ。

悪路を揺られ続け敏珠林(ミンドリン)寺へ。外側は汚い感じだった。庶民や僧が集っている寺のようだった。ラサ到着。
観光3日目は、ラサの哲蚌(デブン)寺から。ショトゥン祭のときに巨大なタンカがかけられる岩があるところだ。文化大革命中に相当な弾圧を受けたようで、紅衛兵が書いた政治スローガンが消されずに残されている。仏像は美しい。


ノルブリンカは夏の離宮といわれ、1959年3月14日、人民解放軍がチベット侵攻した際、ダライ・ラマ14世が亡命する直前までいたところ。内部の柱時計は午前9時で止まっている。ダライ・ラマ14世が宮殿を出た時刻だという。

午後からは色拉(セラ)寺。修行する若手の僧たちがチベット仏教の教義について問答しあうことで有名だ。ビデオがあったらもっと面白かった。

時間が余ったから行ってみるか、ぐらいで行った蔵医院は面白かった。ガイドは通訳を拒否したが、薬草の産地や効能などを説明する女性が可愛くて活発で、説明を通訳させられる羽目になった。チベット医学は脈を診て病気を診断するので母がやってもらう。中国語と弟の英語が飛び交い、大騒ぎ。薬草茶を購入。写真はチベット医学開祖で「四部医典」をまとめたユトク・グンポの像。

02年夏、チベット(1)

2009-01-20 05:10:09 | 歴代中国旅行

02年の夏休みはチベットへ。当時福岡から成都へは直行便があった。中国国際旅行社(CITS)福岡支社にお任せで、車で回る。運転手もガイドもいまいちだった。

2日朝6時発の一番便で成都から拉薩(ラサ)へ。車でラサよりは高度の低い沢当(ツェタン)で負担軽減を考えた。チベット最古の宮殿・雍布拉康(ヨンブラカン)からスタート。「高山病の影響なさそうだ」と調子こいていたら、母親の指に刺さった棘と抜こうと息をつめてフラフラする。気がついたら唇は真っ青。気も遠くなるような感じ。酸素を吸って事なきを得た。危ない。

昌珠(タントク)寺はチベットを統一した吐番王朝の初代ソンツァンガンポ創建のチベット最古の寺院。真珠で作られた仏陀のタンカ(仏画)がある。

日程:
8月26日CA916福岡1540成都1950
  27日SZ4401成都0600ラサ0750 車で沢当(ツェタン)へ
  28日車で沢当からラサへ
  ~31日ラサ飯店泊
9月1日SZ4402ラサ0930成都1115
  2日CA915成都09001455

05年秋、香格里拉梅里雪山(4止)

2009-01-20 01:41:45 | 歴代中国旅行

雲南観光最終日は、前日時間が遅くて閉まっていた玉峰寺から。お茶の木が有名らしいが、花が咲いていないシーズンオフではちょっと。

宗教壁画が残る納西族の村・白沙村は、なかなかの壁画。懐中電灯で照らして見ていたら怒られた。しかし、もっと見やすく整備すべきだよなあ。
玉泉公園(黒龍潭と言わないと現地では通じない)はきれいな湖水に玉龍雪山が映ることで有名だが、山はまったく見えず。少数民族が踊っている。観光地みえみえで嫌だな。木氏土司族文化展覧館でも民族衣装の爺さん婆さんの写真を取ったらチップを要求された。

で、昼食を食べて上海へ。虹橋空港のタクシーは長距離と短距離があり、長距離は長蛇の列と聞いていたので、短距離で行ける中山西路のいつもの茶城でお茶を買う。茶屋でタクシーを確保してもらってホテルへ。国慶節なので街の中心部にはタクシーが入り込めないということで、北京西路の行ける所まで行ってもらって10分ぐらい歩いて常宿着。


南京東路は立錐の余地もないほどの人。行きつけの老舗レストランまではたどり着けなくて、近場で上海蟹。子豚の皮がカリカリしたのがおいしかった。このレストラン、もうつぶれた。
玉龍雪山リベンジのために再度、麗江に行くのはいいけど、街そのものはあまり好きでないなあ。食べ物もおいしくないし。車のチャーター代は通しで2700元。母親が気に入っていた江さんは麗江直前で代わってしまったけど、代わりの運転手も気を使って、朝ヨーグルトを買ってくれたりしたっけ。

05年秋、香格里拉梅里雪山(3)

2009-01-20 01:20:08 | 歴代中国旅行


徳欽(標高3300㍍)では彩紅大酒店泊175元。街にご飯を食べに行く。厨房に潜入して材料を見る。松茸でかい。傘が開ききっている。かなり空気が薄く息苦しい感じ。

4日目は早朝、飛来寺からスタートするが梅里雪山はもう見えず。本当に一瞬のタイミングだった。前日は運が良かった。

白馬雪山の標高4300㍍の峠を通過。碧塔海(ビタハイ)は馬に乗って景色を見るとのことだが、9月末では花もあまり咲いていないだろうと高山病と体力も考え、見送る。香格里拉の天界神川大酒店泊。

5日目は一気に麗江まで移動。玉龍雪山(標高5596㍍)を望む雲杉坪までリフトで上るが、雲に隠れて山はまったく見えない。山道をぐるっと回るなか、リスがいたり少数民族が観光で踊っていたり。
東巴文化研究所はテーマパークのような感じだが、納西族のおじさんにトンパ文字で名前を書いてもらう。表音文字のようだ。わしらと日本人は赤ちゃんをおんぶするところが同じだと言われる。日本人に親近感を持っているようだ。



納西族のレストランで少数民族の料理を食べるが、どうもパッとせず。砂糖をぶっかけた小麦粉をバターかミルクか何かで練って揚げたものは店の小姐おすすめだったが、二度と注文しないね。

05年秋、香格里拉梅里雪山(2)

2009-01-20 01:13:35 | 歴代中国旅行

3日目は、香格里拉から梅里雪山の街、徳欽を目指す。松賛林寺はミニポタラ宮とも言われるチベット寺院。中の壁画も面白い。仏像もいくつもある。金色の屋根が朝日に輝いてきれいだ。

東竹林寺もチベット寺院。われわれのほかに観光客はいない。山にへばりつくように建てられている。

昼食は街の食堂で。メニューなし。冷蔵庫や材料を見せてもらって、きのこと肉、辣子鶏、豆腐を頼む。江さんも辛いものが好きだという。

金沙江と怒江が交わっているところは、色が変わっている。月亮湾展望台では山を取り囲むように川が湾曲している絶景が手に取るように見える。


いよいよ、梅里雪山だ。飛来寺に着くと雲が徐々に晴れて頂上が現れはじめた。荘厳。チベット族が神の山とあがめる気持ちが分かるような気がする。氷河も見える。20分ほど車を走らせ、もう一つのビューポイント・八塔公園に着くと、全貌があらわに。鳥肌が立つほどの感動。めったに見られない、運がいい、と江さん。

05年秋、香格里拉梅里雪山(1)

2009-01-20 00:29:55 | 歴代中国旅行

05年の夏休みは、僕にとって未踏の地だった雲南省へ。
といっても、昆明とか大理とかではつまらない。伝説の香格里拉(シャングリラ)、梅里雪山を目指した。
福岡から午前便で浦東へ、東方航空の無料送迎バスで虹橋へ、空港前の食堂で麺を食べ、夜、麗江着。ドライバーの江さんと合流。携帯で清福縁客桟に連絡、予約し泊まった。150元。
翌日、車で香格里拉に向かう。長江第一湾は下から見ただけで、川がぐるっと迂回している実感はあまりない。虎跳峡は中国人観光客ですごく混んでいて、石段を降りていくのに一苦労。怒流に一番近いスポットで記念撮影は順番待ち。中国人はポーズをつけて写真をとるので時間がかかる。アホっぽい。

道路から虹を見下ろす。初めての体験だ。昼食は、街の食堂で。メニューなし。キノコと肉の炒め物、白菜の炒め物など。
白水台は、遠くからもその場所だけ白くなっているのが見える。かなりの高度なので、木で作られた小道をゆっくり登っていく。白い棚田状の部分と、白くないところもあるので、自然に作られたことが分かる。驚きだ。

香格里拉に到着。高山病が怖いので5星の天界神川大酒店のチベット様式の部屋にする。580元。ホテル内のレストランで松茸づくしをしてみる。網焼きはできないか、と聞いてみたが無理とのこと。中華風を食べる。確かに香りはある。

日程:
1日目(9月26日)
東方航空MU532福岡1000上海浦東1030
MU5806上海虹橋1450麗江1920
清福縁客桟。
2日目(27日)
麗江から香格里拉へ。長江第一湾、虎跳峡、白水台
夕方、標高3276㍍の香格里拉に到着。天界神川大酒店
3日目(28日)
松賛林寺、東竹林寺、月亮湾展望台、八塔公園から梅里雪山。徳欽(標高3300㍍)泊。彩紅大酒店。
4日目(29日)
碧塔海(ビタハイ)、香格里拉の天界神川大酒店泊。
5日目(30日)
香格里拉から麗江へ。
玉龍雪山(標高5596㍍)を望む雲杉坪までリフトで。東巴文化研究所。麗江・清福縁客桟泊。
6日目(10月1日)
白沙村(世界文化遺産)、玉峰寺、玉泉公園
昼食後、麗江から上海へ。
MU5815麗江1420-上海虹橋1855
上海泊。
7日目(2日)
JL614上海浦東1150-福岡1430

台湾ドラマ「乱世豪門」見た

2009-01-17 14:24:51 | 映画鑑賞

台湾で買った連続テレビドラマ「乱世豪門」のDVD全20話を見終わった。2007年後半の放送という。面白い。大陸では絶対作れない。放送もできない。実は中国大陸では中央電視台(CCTV)が「台湾1895」というドラマを作っていて、今回上海でDVDを買ったので、これも看破しようとは思う。

物語は1894年、日清戦争から台湾が日本の植民地になるまでの歴史に、台北のある茶の豪商の一族と使用人の男女の悲哀を織り交ぜながら進む。
清が日本に負け、下関の春帆楼で終戦交渉が始まる。春帆楼のセットもちゃんと考証してる。95年に下関(馬関)条約が締結され、台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本に割譲し、2億テールの賠償金を支払うことが決められた。

台湾では、日本への割譲をこころよしとしない勢力が反対運動を起こし、清国から独立してしまえば下関条約の台湾部分は無効だろう、と台湾巡撫(台湾の最高地方司令官)だった唐景を担ぎ上げて総統とし95年5月、「台湾民主国」を成立させ、独立宣言する。国旗は青地に黄色いトラだ。

各国に建国を伝える電報を送るが、無視される。国会議長を予定していた林維源がアモイに逃亡するなど、政権は早々に崩壊、日本軍との戦いも連戦連敗で、台北城陥落直前に、唐景も老婆に扮装して公金を持ち出し、ドイツ船でアモイに逃げてしまう。「台湾民主国」は11日で終わった。

その後、抗日勢力は台南に駐屯していた大将軍・劉永福を精神的支柱として抵抗を続けるが、劉も中国に逃げ、台湾は完全に日本に制圧される。50年間の日本植民地時代が始まる。
台北開城の際、城内で交戦し無益な血が流れないように日本軍をうながし台湾入城を先導したのは、2005年に亡くなった辜振甫・海峡交流基金会会長の父親で、日本の貴族院議員にもなった辜顕栄だ。この辺も冷静に描いている。

清朝の腐敗と、清軍の戦術能力の低さ、西太后が北京の頤和園の改築に金を使いすぎ、戦艦を購入できなかったなど、淡々と描いている。逆に日本の戦術の高さ、花街で酒を飲んでも芸妓に手を出すものでないと諭されれば理解するなど「鬼」ではないと、冷静な描き方だ。さすが台湾。中国ではこうはいくまい。公共電視台で作られたこともあり、台湾の台湾化の一例だと思う。
というと、お堅い歴史ドラマと思うが、これに茶の豪商の少爺(若旦那)と幼馴染の使用人の少女との許されない恋と少女の過酷な運命、令嬢と番頭の青年の恋と望まない結婚などを織り込んで、見どころ満載だ。