Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

神戸の近代中国跡(3止)

2016-04-15 14:03:07 | 中国旅行
南京町を離れ、元町駅からJRで舞子へ。明石海峡大橋の真下、留学時の同学の同窓会で、前一度来たことがあったなあ。その時は多分修理中でなかったのだろうが、「移情閣」(孫文記念館)。

日本で唯一の孫文記念館で、孫文を支援した神戸華僑・呉錦堂(1855年~1926年)の舞子海岸にあった別荘「松海別荘」内に1915年に建てられた八角形の中国式楼閣だとのこと。呉の死後、孫文記念館として再整備しようと華僑と自治体が動き、今の形になったという。

内部は印刷物や写真の展示品が多いが、巷に多く出回っている孫文の直筆などもある。神戸華僑がいかにして孫文を支援していたか、などが詳しく説明されている。


3階にはこの建築物の貴重性についても触れられている。ビデオ放映もしている。

庭には銅像と、「天下為公」の碑もある。

関西にも殺到する爆買い中国人観光客の参観ルートになっているのか、観光バス2台が横付けされていた。台湾人と香港人のようだった。台湾では「国父」だから、ま、来るだろう。

そういえば、このブログでも紹介したが、香港の孫文記念館は香港島のミッドレベル(半山)にあった教会を元に作られた。僕が住んでいたマンションの真ん前だった。

ところで、ここで長年使っていたデジカメが絶命した。電池を入れ替えても「ジジ」と一瞬声を出すものの、起動しなかった。ショック。

神戸の近代中国跡(2)

2016-04-15 11:39:39 | 中国旅行
諏訪山公園から坂を下って15分ほど歩くと、中華同文学校。阪神大震災の後の応援取材で一度訪れたこともあったが、かなりきれいになっていた。孫文は辛亥革命成功後の1913年、神戸を訪れており、この学校の敷地にあった中華会館や学校を視察したらしい。プレートが塀に掲げられている。



そのあと近くの関帝廟を見て、ちょっと歩いて大倉山の神戸文化ホールの敷地にあるという孫文の胸像を探した。

多くの違法駐輪を避けるように縄張りがされていて、胸像はその中だった。神戸華僑総会が1965年、孫文生誕100年を記念して作ったそうだ。

足が疲れたこともあり、地下鉄で一駅乗って県庁へ。県庁の地には、旧制神戸高等女学校のプレートの隣に孫文の大アジア主義講演の地を示すプレートもあった。1924年11月に孫文がこの地で行った「日本は西洋の覇道となるのか、東洋の王道となるのか」と迫った大アジア主義の講演は、東洋の王道を称えてその最先端を進む日本について、行き過ぎに警鐘を鳴らしたものだそうだ。



最近の研究では、むしろ日本へ皮肉を言いながら批判したもの、とする見解もあるらしい。


県庁から南京町へ。南京町南端の華僑博物館(拝観料300円」)で勉強。横浜中華街を取材した時に知り合った烏勒吉さんが横浜山手中華学校の校長として神戸の同文学校を訪れた写真もあった。烏勒吉さんは横浜の関帝廟の隣にある中華学校が、国民党政権系の教育カリキュラムを進めようとするのに抵抗、1952年に学校に立てこもり、加賀町警察署が介入する事態となった(学校事件)。彼ら大陸の政権のシンパの教員と子弟の保護者は別の中華学校を作るべく活動を続け、横浜には2つの華僑学校ができ、現在に至っている。

そのあと南京町で食事。行列ができていた老祥記で一応「豚饅」も食べた。

神戸の近代中国跡(1)

2016-04-15 11:15:31 | 中国旅行
大阪応援出張の勤務の合間の休日に、神戸の近代中国ゆかりの地を訪れた。神戸出身の友人がFBにアップいていたのを見て、興味を持っていた。回り方を教えてもらい、グーグルマップも利用して迷うこともなかった。便利な世の中になったもんだ。



汪兆銘(汪精衛)の南京政府の神戸の領事館。北野の異人館街の中にあり、「坂の上の異人館」の名で呼ばれていた。拝観料400円。



中国趣味の調度品や清朝皇帝や役人のような絵、書画、骨董などが所狭しと並べられている。当時のものでなく、あとから追加して置かれたもの、贈られたものもあるらしい。
写真右端の大きな花瓶の横に小平と金日成が同じ形の花瓶を眺めている写真が置かれていたが、まさか二人が神戸に来たわけでもあるまいし、同じ形のものを北京で見た写真なのだろう。館の人に聞いたが知らないようだった。



坂をやや下ってバス通りを15分ほど歩くと、諏訪山公園。ここは昔は温泉街で、遊園地のような施設もあり、にぎやかな行楽地だったらしい。神戸を何度も訪れている孫文はたびたびここに逗留したらしい。



諏訪山公園から見た現在の神戸の海側。孫文もこんなふうに港を眺めていたのだろう。