Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

台湾旅客機事故、大陸乗客多い

2015-02-07 03:22:58 | 時事
台湾・台北にある松山空港から金門島に向かう台湾「国内線」トランスアジア(復興)航空機が2月4日、高速道路を横切って基隆河に突っ込んだ。衝撃的な映像が日本でも報じられた。乗客乗員58人のうち35人が死亡、8人が依然行方不明だというが、58人中31人が中国大陸からの乗客だったことはあまり触れられていないようだ。金門島の対岸にある福建省厦門(アモイ)の旅行団だったそうだ。



松山空港は、台北市内にある主に「国内線」の発着に使われる、東京の羽田空港のような性格の空港だ。最近は羽田の国際線が増えたことで、羽田-松山の航空便も増えている。成田にあたる台北近郊の桃園県にある桃園国際空港(むかしは中正国際空港、中正は蒋介石のことなので、陳水扁政権時代に地域名をとった桃園に改名した)からは台北市内にバスなどで1時間、新幹線を使っても桃園空港から新幹線の桃園駅までのアクセスを考えるとかなりの時間が費やされる。台北市のど真ん中にある松山空港のアクセスはきわめて便利だ。

金門島は新聞などに掲載されている地図を見てもらえばわかるように、ほぼ中国大陸に接しているが、台湾が実効支配している地域。「中華民国」を標榜する台湾当局は現状の実行支配地域を「台湾省」と「福建省」の2省としており、台湾としてよく知られている台湾島(台湾省)以外に、この金門島ともう少し北部にある馬祖島は「「中華民国福建省」に属する、としている。特に金門島は、中国共産党が支配する中華人民共和国のアモイの対岸2キロという近さにあり、天気がよい日は肉眼でも海岸線を確認することが可能で、双眼鏡などを使えばお互いの街を見ることもできる。

1949年の蒋介石率いる国民党軍が台湾に移ってから最前線となり、1958年には大規模な砲撃戦が繰り広げられた。台湾の国民党軍側はこの戦闘にかろうじて勝利し、以後、大陸の共産党軍側が手を出そうにも出せない地域となって現在に至っている。

筆者は1996年の第一回台湾民選総統選の直前に、選挙活動の様子を取材するため金門島を訪れたことがあるが、このときも住民たちは自らを台湾人でなく「福建人」と呼び、当時の台湾独立色の強い李登輝総統を激しく非難し、国民党と袂をわかった外省人を中心に中国との統一を主張する「新党」を支持者する者が多かった。おりしも中国軍がミサイル演習を重ね、台湾に危機感を与え総統選挙の行方をコントロールしようとしていたが、金門島の人々は「ミサイルは我々を飛び越え台北に行くだろう。同郷の福建人が俺たちを狙うはずがない」と台湾島の台湾人たちとは違う感覚を持っていた。

筆者が訪れた時、雨あられと降ってきた大陸の砲弾の不発弾を拾い集め、一番鋼の硬い部分という中心部を使って作った包丁を売る店があった。共産党の砲撃なんて粗悪品の不発弾ばかりで怖くないぞ、という政治プロパガンダだったようだ。台湾軍の広報官は外国のプレスがくると大体この店を案内するようだった。しかし数年後、対岸のアモイの胡里山砲台を観光で訪れると、その包丁を売る売店があるのにビックリした。服務員は地元の女の子だったが、この包丁の本来の由来を知っているか、とたずねたが「不知道」だった。

当時の金門県長(首長)にインタビューしたが、この当時から対岸のアモイとは密航も含めた貿易や人的交流が進んでいて、その後、中台関係が好転すると、アモイ-金門に公式な船の航路ができてビザの免除などの特権もあり、貿易特区としての交流が進んでいた。

かつて金門島といえば、徴兵制により若者が新兵として赴任する最も危険な地域として怖がられており、松山-金門の航空機には軍人やその家族、徴兵制で金門島に行かされた若者の彼女や家族も少なくなかった。街中にも兵隊の慰みになる飲み屋や風俗店が少なくなかったようだった。

島の中には要塞として大きなトンネルが掘られていて、軍人たちに訓示するための大ホールも備えられていた。海岸には中国共産党軍の上陸を阻止するための地雷原があり、台湾軍の広報官から「絶対に踏み入れるな」と警告された。北側のアモイ寄りの海に面した海岸線沿いにはトーチカが築かれ、我々はそこから対岸のアモイを望遠レンズで眺めたものだ。手前右側の軍の施設は写真撮影するな、と広報官から厳しい口調で釘を刺されたことを覚えている。手前の海域には漁船の格好をした大陸の共産党側のスパイ船と見られる小船がいくつもあり、広報官は「あの船はあの場所から動かない。魚をとっている様子もない」と半ば笑って話していた。

時はうつり、親中の馬英九政権となり中台蜜月時代の今、金門島経由で台湾観光をする中国大陸人も少なくなかったのだろう。ということで58人中31人が大陸人だったということだ。

すでに大陸から調査官が台湾入りしており、今の時代なら台湾当局と協力して行方不明者の捜索や遺体確認、中国への運搬などを粛々と行うのだろう。


台湾映画「KANO」見ました

2015-02-05 09:14:21 | 映画鑑賞
またまた、台湾で大ヒットを記録した映画「KANO」が台湾から遅れること1年、やっと日本で封切られたので見に行った。
本当に台湾人は日本が好きなんだな、と手放しで喜んでいいのだろうか、というほど、日本を近しく表現している。というか、映画のほとんどが日本語で、残りは台湾語、原住民の言葉、客家語も入っていたそうだ。国民党と蒋介石が大陸から台湾に持ち込み強制した共通中国語、いわゆる国語は出てこない。日本映画か、と思うほどだ。台湾でも字幕だったとは思うが。台湾の台湾化、が現実的だと一目でわかる映画だ。一緒に見に行った大陸中国人は、とりたてて統一派というわけではないが、台湾人の日本へのシンパシーを実感したようで、香港と英国の関係も例に挙げ、やはり大陸中国人とはアイデンティティーが違う、と認識したようだった。



と、理屈っぽいことはさておき、上映時間185分、まさか途中で休憩がはいるだろうと思ったが、それもなく、とはいえ、3時間、中座も退屈もすることなく、一気に見終えることができた。
嘉義農林学校野球部監督の近藤兵太郎に永瀬正敏、妻に坂井真紀、台湾の教科書にも載っている嘉南大圳(だいしゅう=ダム)を設計した八田與一技師に大沢たかおを配するなど、魏徳聖監督(今回はプロデュース)が日本植民地時代を描いた過去2作「海角七号」「セデック・バレ」の成功を経て、日本人俳優も一流どころを存分に使っている。監督はセデック・バレでは俳優として中心的な人物を演じたセデック族の馬志翔。KANOが初監督作品だそうで、事前には大丈夫か、と思っていたが、テレビドラマの監督は数本経験しており、魏徳聖らが手伝うのだろうから、ということだろう。
宣伝などでも触れられているが、嘉義農林が日本、中国人、原住民の混成チームであることを、町の有力者(呉明捷の息子が演じているらしい)や、甲子園に出場してからは意地の悪い記者から指摘され、近藤監督が「日本人は守備がよい、中国人は打撃がよい、蛮人(原住民)は足が速い。理想的なチーム構成だ」と気色ばむシーンが見られるが、これは日本を含めているのかいないのか、現代の台湾でも本省人や原住民がある意味不平等に扱われていることに対する抵抗なのかもしれない。また、日本人はかつて平等に扱ってくれた人もいたぞ、という連帯意識なのかもしれない。それで台湾で大ヒットしたのではないか。八田與一も台湾人とも分け隔てなく付き合い、洪水や旱魃のない農地がいまも維持できているダムを作り、変わらず機能していることに対する近代日本の文明力、科学力への感謝と尊敬の気持ちも加わり、今につながる台湾の状況を垣間見られる部分だと思う。中国大陸では植民地根性と批判の対象にこそなれ、台湾人のこのような心情を理解することはないだろう。

この辺から映画の内容に触れてるので、ネタバレ注意です。映画を楽しみたい方は読まないでください。

前半は、試合で1勝もできないダメダメ野球チームが、日本人の鬼監督のスパルタ指導のもと、ぐんぐん実力をつけ台湾島内予選を勝ち進む、という、ありがちなスポ根ドラマに、可憐な少女がお見合いで医者に嫁ぎ、少年のもとを去っていく、という淡い色恋もちりばめている、魏徳聖、というか台湾で万人受けする、あざといほどにわかりやすい構成は、過去2作品と同じ。後半は、甲子園に出場して破竹の快進撃で決勝に進出、指を怪我しながらエースで4番の呉明捷投手が一人で試合を抱え込もうとすると、チームメートから励まされ、チームが一つにまとまる、というベタな展開。血染めのボール、も日本でも何度も描かれてきたストーリーだ。果たして史実だったのだろうか。見に行った映画館は高齢者も少なくなかったが、わかっていても涙腺が緩む構成のようで、観客席のあちこちで鼻をすする音もした。

映画では、当時から子供たちまでも「八田先生」と敬意と親しみをこめて呼びかけるなど、街では誰もが知っている、そんな存在だったのだろうか。同じ年に嘉義農林の甲子園での活躍と嘉南ダムの完成が重なったとしているが、史実ではダムは前年の1930年だなどと、いくつか史実と異なる部分を指摘する声もあるが、史実を元にしたフィクションだ、と映画の冒頭でも断っているわけで、観客に感動を与えてわかりやすくする演出だと考えるべきだろう。台湾では甲子園決勝最後の打者が映画のように呉明捷ではなかった、と最後の選手の親族が抗議したとの話もあるらしい。爺さんの名誉を守りたい彼らの気持ちは理解できるが。こだわりすぎるとドキュメンタリーで無味乾燥になりがちだ。魏徳聖プロデューサーはその辺をかんがみ、映画だから興行的に成功させるためにはやむをえないのではないか、とストーリーを組み立てたのだろう。

とはいえ、映画では当初批判的だった新聞記者が決勝までの間に「嘉義びいきになってしまった」と語らせているが、本当は作家・菊池寛が観戦記に「僕はすっかり嘉義びいきになった。日本人、本島人、高砂族が同じ目的のため努力しているということが、涙ぐましい感じを起こさせる」と書いたという史実。実際にこの試合を通じて、当時の日本は「嘉農ブーム」が起きていたといい、その辺の騒動も本当のこと。映画の最後に、選手たちのその後を紹介しているが、エースで四番の呉明捷が早稲田に進学して通算7本塁打の当時の最高記録をうちたて、それが長嶋茂雄(立教大、8本)に塗り替えられるまで続いていた、というのもびっくりだ。長嶋茂雄の記録は田淵幸一(法政大、22本)が塗り替え、田淵の22本は高橋由伸(慶応大、23本)が更新したとのこと。

そもそも球場が広いのだろうが、バットやボールの質がよくなかったためなのか、映画でも本塁打は出ておらず、ダイレクトフェンスで係員が出てきて墨で場所に丸をつけ、サインをさせるぐらい。当時の日本の野球をかなり検証しているなあ、という感じがした。

また、もし日本映画なら選手たちはジャニーズの面々らが演じるのだろうが、細い彼らに比べて、今回の台湾の俳優たちの、いかにも野球をやってますという体格の良さと、投球やスイングなど野球のフォームが様になっているのも感心した。ボールの行方などは一部CGも使っているのだろうが。

本来なら日本で作るべき映画なのかもしれないが、このように台湾で作ったために見えてきたものもたくさんあった。魏徳聖監督恐るべし、だ。