中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

木曽福島の関所(旧中山道を歩く 175)

2009年07月09日 10時00分20秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(国道の左を上の登ると関所)


(「夢のあと」の関所跡)


(関所の図)


(関所資料館、幔幕の紋所は丸に一)


(木曽福島宿 1)
道路をまたぐ関所門をくぐったら、左の狭い道を登ると、
木曽福島の関所に入って行く。

広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次乃内 福し満(ふくしま)宿」は、
(東海道の箱根、荒井、中山道の碓氷と共に四大関所の一つに数えられた福島の関所があった。
両側から山が迫る木曽川の断崖の上、
江戸方向から歩いて急坂を上り詰めたところに、この関所はある。
検問を終えて出てきた武家と飛脚がこれから向かう旅人とすれ違う場面が描かれている。
画面奥には、土下座をして今まさに検問を受けている旅人がいる。
関所内の幕には本来は関所代官 山村氏の紋所「山に数字の一」のところ、
浮世絵版元 錦樹堂の商標「山に林」が藍で染め抜かれている。――後略)とある。
(広重美術館蔵「木曽海道六拾九次乃内」より)
 

(広重の浮世絵木曽海道69次之内「福し満宿」)

木曽路の南の入り口江戸側には贄川関所があるが、
その本店に当たるのが木曽福島の関所である。
その昔、旧中山道は左右の山に挟まれた木曽川の流れの上にあり、
他に抜ける道が無く、関所を避けて通るには木曽川の急流の中を行くか、
かなり無理をして山の上を行くより方法が無かった。

関所としては最良の地形であったに違いない。
今では、旧中山道より下の山を削って国道が走っており、
関所跡から見下ろすと国道に平行に流れる木曽川、そこにかかる橋、
そして川に沿って広がる木曽福島の町を一望することが出来る。


(木曽川に沿った福島の街)


(関所跡2)


(関所跡の草)


(関所跡3)

福島の関所跡に入ると、
建物があっとされる場所に「東門跡」「上番所跡(うわばんしょ)」「西門跡」の石碑が置かれており、
一面の草の原であった。
・夏草や つわものどもが 夢のあと
の芭蕉の句を思い出させる場面であった。

関所跡の向こうに見えるのが、復元された関所で関所資料館になっている。
関所そのものは、贄川の関所のほうが立派であったように思われる。
福島の関所も「入り鉄砲に出女」を重視されたのは贄川の関所と同じである。
(URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/11/post_cf50.html参照)
関所は贄川関所と逆のつくりになっており、勝手(台所)が京都側にあり、
次いで上番所、座敷、下番所と並んでいる。
管理は山村氏に委ねられていた。


(上番所)


(成瀬大和守の花押)

関所資料館の見学にガイドが着いて回るわけでなく、
自由に見学でき(入場料は300円であるが)
ガイドはテープレコーダーが繰り返し何度もお話しをしてくれる。
展示資料の中で目を引いたのが、発行される道中手形の発行者印があったことだ。

上番所では通行手形の発行者印の照合をし、合致すれば通行を許可した。
その基になる印(花押)が何点か展示してあったのは収穫であった。
もう一つ、女が一人で通行するのは大変稀で、
必ず男性が付き添っていたものだそうであるが、
一人で通行した通行手形が展示されていたことだ。
しかも、皇女和宮のお付の父親が病で倒れ、
娘が看病のため通行するという内容のものである。

以前にも書いたが皇女和宮の行列は史上空前の大掛かりなものであった。
京より江戸まで通しで行くお付の人が4千名、京よりお見送りの人が一万人、
江戸よりお出迎えの人が一万五千人、都合三万人弱の大行列であった。
食事や排泄、寝泊りの状況については旧中山道番外記に書いたが、
お付の人たちの中で、道中病に倒れるものがいるところにまでは思いが及ばなかった。
まして、病に倒れた人を心配して看病のため、
道中一人旅を急ぐ娘がいることなど考えもしなかった。


(皇女和宮通行に際し人足の父が藪原宿で病気のため看病に行く娘の手形)


(高瀬家資料館、副業の「奇應丸」の石の看板)

木曽福島関所資料館の隣にある高瀬家資料館に寄る。
高瀬家は木曽福島関所代官の山村氏に仕えたのが始まりで、
以来お側役、砲術指南役、勘定役等として幕末まで仕えた。
第14代当主高瀬薫に島崎藤村の姉、園が嫁いだ。

その高瀬家は島崎藤村の小説「家」の題材になった家である。
その中で藤村の姉、園はお種として登場し、
また小説「夜明け前」では、お粂であり、
「ある女の生涯」のモデルにもなっている。

園の生涯は、決して幸せであったとは言えないようである。
「ある女の生涯」によれば、園の臨終には親戚の誰も間に合わないままに、
見も心もぼろぼろになって、精神病院で死んでいったとある。
小説「夜明け前」は文明が押し寄せる新しい時代の波に、
古いしきたりを守っていこうとする旧家が、
崩壊していく様を見事に描いている。

資料館には、藤村の手紙、軸、遺品類および
当家に伝わった兵法の書類などが展示されている。
資料館横には、藤村の姉・園も散策したと思われる、
美しく整備された庭があるが、そこを歩きながら、
男尊女卑の時代の一人の女性の生き様に思いを馳せると、
何ともやり切れないものを感ずる。
太平洋戦争後の男女同権の世の中が、
いかに自由でのびのびしているかを想像できるはずも無く、
今の時代(平成21年)に生きていることが、如何に幸せであるか感じざるを得ない。


(高瀬家の庭)


(左に見える関所橋に向かう国道)


(関所橋)

高瀬家資料館を出て眼下に開けた町並みを見ると、
国道と木曽川が平行しているのが見え、
川にはいくつかの橋が架かっているのが見える。
中山道は国道に下って進むのであるが、木曽川の向こう側に史跡があるので、
少し寄り道をすることにした。
関所の門から下に降りた辺りにある関所橋へ向かう。

関所橋を渡って道路を突き当たり、
左には長福寺があるが、先に右にある興禅寺に行く。

此処には見事な庭園と木曽義仲の廟所があると案内書に見える。


(万松山興禅寺入り口)