中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

牛方の頌徳碑(旧中山道を歩く 205)

2010年08月08日 09時01分18秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(英泉画浮世絵 木曽海道69次之内「馬籠駅」峠ヨリ遠望の図)


(馬籠峠)

(馬籠宿)
今は馬篭峠は岐阜県であるが、
ボクは旧中山道を歩いているから、
木曽十一宿の最後の宿場、
馬籠宿へこれから入って行く。
つまり、信濃を歩いて行く、
馬籠宿を過ぎた先の新茶屋の一里塚までが信濃である。

峠のすぐ先の坂を下りたところに、
右に入る道路があるので、右折する。
右折する右かどのガードレールに案内がるので心配ない。
杉林の中を歩くと、すぐ左手に神社がある。
熊野神社である。


(峠を下ってすぐ右に入る道)


(入口右側にある案内)


(峠を下る杉林)


(林の中の熊野神社)


(熊野神社)

この先は馬籠峠らしい古い集落が続き、道は下る。
(この集落は江戸時代中期以降の姿を今にとどめている)
と説明があるほど、往時を偲べる家が繋がっている。
集落が終りを告げる頃、
道路はやや右に曲がるが、その曲がりかかる左に、
盛り上がった塚がある。

生垣が周囲を囲んでいるが、階段を上がり中へ入ると、
「峠乃御頭頌徳碑(とうげのおかしらしょうとくひ」」なる石碑が建っている。
安政三年(1856)峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が
中津川の問屋(荷物の取次ぎをする所)との間で運賃の配分で争いがあり、
牛方が勝った。その時の牛方の代表今井を讃えた碑で、
藤村の「夜明け前」にも登場する話である。


(静かなたたずまいの集落)


(集落のはずれ、左手に大きな木の生えている塚が見える)

かいつまんで話すと、問屋が牛方に仕事を出すに当って、
料金についての不正があった。
この頃の問屋と牛方の関係は、地主と小作人の関係に似ており、
牛方が問屋の旦那に反抗することなど、
この当時では考えることが出来ない関係であった。

話が変わるが、
太平洋戦争終結まで、こうした身分の差は歴然としており、
例えば百姓と小作人の関係は、極端な例であるが、
疎開先のボクが小学3年で同級生が小作人の子であるとする、
一緒に遊びたいから、その子の家に行って誘うと、
親が出てきて遊べないと断る。
家に帰って、この話をすると、
その子の家に行ってはならないし、
遊んでもいけません、と固く叱られる。
そんな体験がある。

つい最近まで(65年前まで)こんな封建的な関係が続いていたのに、
さらにさかのぼった明治に入る12年前の
安政三年(1856)の話であるから、
牛方の反抗は相当な覚悟、一つ間違えば死に相当する覚悟が、
必要な時代であった。

話を戻す、
問屋の不正に対し、
牛方が荷物の輸送を拒否する事件がおきた。
こんなことは前代未聞の出来事であるが、
もめにもめたこの事件は牛方が勝利した。
このことに対する頌徳碑(徳を讃える碑)である。

(塚の中にある峠乃御頭頌徳碑)