谷山浩子 ごめんね
雨が降ってる きょうは一日
ぼくの心にも銀のしずくが
何も知らずにきみは眠るよ
あどけない横顔が ぼくをはなさない
ごめんね ごめんね 嘘を言ったね
ごめんね ごめんね 何もあげずに
ぼくを待ってる人のところへ
帰る ぼくは 帰る
夜があければきみはひとりだ
さよならは言わないよそのままお休み・・・
乗り換えとも不倫とも思える歌詞が物悲しい、そんな楽曲です。
別れる女性に対して「ごめんね」と心の中であやまっている、
そして何も言わずに去ろうとしている男性の心情を描いた楽曲です。
浩子さんの「情景が見える失恋ソング」の王道と言った所でしょうか・・・。
さて、人生の途上においては、悲しみをこらえて、ほほえまなければならないときが、あります。
それを踏まえてですが、やはり、悲しいときには、思いきり泣くというのが、人には必要なことです。
そして、それが愛する人の胸の中でなくても、放課後の音楽室のピアノの前であれ、夕暮れの公園のベンチであれ、灯りの消えた給湯室であれ、薄い掛け布団の中であれ、人目をはばからずに、思いきり泣ける場所を持つことが、人には必要なのです。
泣くからよけいに悲しくなる。
たしかに、それはあります。
しかし、泣くという行為を通して、自分の感情を抑圧せずに素直に出す、大袈裟にいえば、それが魂の解放とも呼ぶべき行為であり、病んだ精神を健全な精神へと再生する試みとなるのです。
涙はいつかはかれるというけれど、かれない涙もあるんじゃないか、と思うほど、とめどなく涙があふれてくるときもあります。
でも、明けない夜と、やまない雨はないのです。
それと同じで、かれない涙もありません。
涙もひとしきり出し尽くせば、やがて止まるもの。
だから、たまには泣くに任せていいのです。
泣ける場所を、あなたは持っていますか。
生きて行く中で、人はかならず、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、悲しみに出会わなければなりません。
もしも、まったくそんな悲しみに出会ったことがないという人がいれば、その人は、ほんとは不幸な人かもしれません。
なぜならば、悲しみというものは、愛するものを失ったり、健康を損なったり、あるいは若さを失くし、プライドを捨てさせられたり、その他のかけがえのないものを、失うときに感じるものだからです。
もとより、それら失うものが、なにもなければ、悲しみに出会うはずもないからです。
そして、つまりは幸せとは、悲しみに出会わないことではなく、悲しみに出会って、それを乗り越えたときに感じる喜びともいえるのではないでしょうか。
寒さに震えた夜を過ごしたからこそ、朝を迎えたとき、太陽の暖かさを知ることができるのです。
悲しみが多いほど、人に優しくできる。
けだし名言です。
しかし、少し言葉足らずのような気がしますので、ここは、金八先生に代わって、ふうちゃん先生が少々補足説明しておきましょう。(笑)
悲しみは、やはり悲しみです。
そして、人はその悲しみを、これ以上増やさないようにと、その悲しみを、優しさに、置き換えながら生きていこうとします。
だからこそ、人にも優しくできるのです。
しかし、悲しみを悲しみのままに、おきざりにした悲しみは、いつまでたっても、悲しみのままに、心の奥底に残ったままになってしまいます。
あなたの悲しみが、もし悲しみのままであるとしたら、それは、その悲しみを、あなたが、おきざりにしたままだからなのかもしれません。
喜びも悲しみも、すべて抱きしめてください。
悲しみは、もっと強く、抱きしめてあげてください。
その悲しみは、あなたなのです。
あなたの悲しみですから、いつかかならず、あなたの優しさに、きっと生まれ変わっていきますから・・・。
この曲、「ごめんね」ですが、谷山浩子さん10枚目のシングルで、B面は「あの子の愛した三毛猫 」。
ところで、谷山浩子さんですが、、「なごり雪」のイルカさんと同じように、なぜか容姿と声とが、非常にミスマッチで、アンバランスな感じがするのは、はたして、ふうちゃんだけかしら。(笑)
しかし、非常にさわやかで、清涼感、透明感のある声です。
かって、胃薬のCMに採用(「風になれ~みどりのために~」)されたのも、頷けることです。(笑)
15歳でデビューして、17歳で「お早うございますの帽子屋さん」で、ポプコンに入賞しました。
そして、この「ごめんね」は25歳のときの歌です。
谷山さんの歌は、童話をイメージするような、幻想的な歌が多いのですが、ひとことで言えば、やはり少女趣味っぽいですね。
しかし、それは彼女がぶりっ子(懐かしい言い回し(笑))ということではなく、彼女自身が永遠の少女だからという感じがします。
少女、それも、純朴な「カントリーガール」のような気がします。
だから、シティボーイのふうちゃん(誰も言ってくれないけどね(^^ゞ )が、なぜか、憧れるのかもしれません。(笑)
雨が降ってる きょうは一日
ぼくの心にも銀のしずくが
何も知らずにきみは眠るよ
あどけない横顔が ぼくをはなさない
ごめんね ごめんね 嘘を言ったね
ごめんね ごめんね 何もあげずに
ぼくを待ってる人のところへ
帰る ぼくは 帰る
夜があければきみはひとりだ
さよならは言わないよそのままお休み・・・
乗り換えとも不倫とも思える歌詞が物悲しい、そんな楽曲です。
別れる女性に対して「ごめんね」と心の中であやまっている、
そして何も言わずに去ろうとしている男性の心情を描いた楽曲です。
浩子さんの「情景が見える失恋ソング」の王道と言った所でしょうか・・・。
さて、人生の途上においては、悲しみをこらえて、ほほえまなければならないときが、あります。
それを踏まえてですが、やはり、悲しいときには、思いきり泣くというのが、人には必要なことです。
そして、それが愛する人の胸の中でなくても、放課後の音楽室のピアノの前であれ、夕暮れの公園のベンチであれ、灯りの消えた給湯室であれ、薄い掛け布団の中であれ、人目をはばからずに、思いきり泣ける場所を持つことが、人には必要なのです。
泣くからよけいに悲しくなる。
たしかに、それはあります。
しかし、泣くという行為を通して、自分の感情を抑圧せずに素直に出す、大袈裟にいえば、それが魂の解放とも呼ぶべき行為であり、病んだ精神を健全な精神へと再生する試みとなるのです。
涙はいつかはかれるというけれど、かれない涙もあるんじゃないか、と思うほど、とめどなく涙があふれてくるときもあります。
でも、明けない夜と、やまない雨はないのです。
それと同じで、かれない涙もありません。
涙もひとしきり出し尽くせば、やがて止まるもの。
だから、たまには泣くに任せていいのです。
泣ける場所を、あなたは持っていますか。
生きて行く中で、人はかならず、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、悲しみに出会わなければなりません。
もしも、まったくそんな悲しみに出会ったことがないという人がいれば、その人は、ほんとは不幸な人かもしれません。
なぜならば、悲しみというものは、愛するものを失ったり、健康を損なったり、あるいは若さを失くし、プライドを捨てさせられたり、その他のかけがえのないものを、失うときに感じるものだからです。
もとより、それら失うものが、なにもなければ、悲しみに出会うはずもないからです。
そして、つまりは幸せとは、悲しみに出会わないことではなく、悲しみに出会って、それを乗り越えたときに感じる喜びともいえるのではないでしょうか。
寒さに震えた夜を過ごしたからこそ、朝を迎えたとき、太陽の暖かさを知ることができるのです。
悲しみが多いほど、人に優しくできる。
けだし名言です。
しかし、少し言葉足らずのような気がしますので、ここは、金八先生に代わって、ふうちゃん先生が少々補足説明しておきましょう。(笑)
悲しみは、やはり悲しみです。
そして、人はその悲しみを、これ以上増やさないようにと、その悲しみを、優しさに、置き換えながら生きていこうとします。
だからこそ、人にも優しくできるのです。
しかし、悲しみを悲しみのままに、おきざりにした悲しみは、いつまでたっても、悲しみのままに、心の奥底に残ったままになってしまいます。
あなたの悲しみが、もし悲しみのままであるとしたら、それは、その悲しみを、あなたが、おきざりにしたままだからなのかもしれません。
喜びも悲しみも、すべて抱きしめてください。
悲しみは、もっと強く、抱きしめてあげてください。
その悲しみは、あなたなのです。
あなたの悲しみですから、いつかかならず、あなたの優しさに、きっと生まれ変わっていきますから・・・。
この曲、「ごめんね」ですが、谷山浩子さん10枚目のシングルで、B面は「あの子の愛した三毛猫 」。
ところで、谷山浩子さんですが、、「なごり雪」のイルカさんと同じように、なぜか容姿と声とが、非常にミスマッチで、アンバランスな感じがするのは、はたして、ふうちゃんだけかしら。(笑)
しかし、非常にさわやかで、清涼感、透明感のある声です。
かって、胃薬のCMに採用(「風になれ~みどりのために~」)されたのも、頷けることです。(笑)
15歳でデビューして、17歳で「お早うございますの帽子屋さん」で、ポプコンに入賞しました。
そして、この「ごめんね」は25歳のときの歌です。
谷山さんの歌は、童話をイメージするような、幻想的な歌が多いのですが、ひとことで言えば、やはり少女趣味っぽいですね。
しかし、それは彼女がぶりっ子(懐かしい言い回し(笑))ということではなく、彼女自身が永遠の少女だからという感じがします。
少女、それも、純朴な「カントリーガール」のような気がします。
だから、シティボーイのふうちゃん(誰も言ってくれないけどね(^^ゞ )が、なぜか、憧れるのかもしれません。(笑)