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人を恋ふる唄

2019-05-18 02:50:24 | 懐かしのメロディー
人を恋ふる唄





1 妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱

2 恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男(おのこ)ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む

3 汲めや美酒(うまざけ) うたひめに
  乙女の知らぬ 意気地(いきじ)あり
  簿記の筆とる 若者に
  まことの男 君を見る

4 ああ われダンテの 奇才なく
  バイロン ハイネの熱なきも
  石を抱(いだ)きて 野にうたう
  芭蕉のさびを よろこばず

5 人やわらわん 業平(なりひら)が
  小野の山ざと 雪をわけ
  夢かと泣きて 歯がみせし
  むかしを慕う むら心

6 見よ西北に バルカンの
  それにも似たる 国のさま
  あやうからずや 雲裂けて
  天火(てんか )一度(ひとたび) 降らんとき

7 妻子を忘れ 家を捨て
  義のため恥を 忍ぶとや
  遠くのがれて 腕を摩(ま)す
  ガリバルディや 今いかに

8 玉をかざれる 大官(たいかん)は
  みな北道(ほくどう)の 訛音(なまり)あり
  慷慨(こうがい)よく飲む 三南(さんなん)の
  健児は散じて 影もなし

9 四度(しど)玄海の 波を越え
  韓(から)の都に 来てみれば
  秋の日かなし 王城や
  昔に変る 雲の色

10 ああわれ如何(いか)に ふところの
  剣(つるぎ)は鳴りを ひそむとも
  咽(むせ)ぶ涙を 手に受けて
  かなしき歌の 無からめや

11 わが歌声の 高ければ
  酒に狂うと 人のいう
  われに過ぎたる のぞみをば
  君ならではた 誰か知る

12 あやまらずやは 真ごころを
  君が詩いたく あらわなる
  無念なるかな 燃ゆる血の
  価(あたい)少なき 末の世や

13 おのずからなる 天地(あめつち)を
  恋うる情けは 洩らすとも
  人をののしり 世をいかる
  はげしき歌を ひめよかし

14 口をひらけば 嫉(ねた)みあり
  筆を握れば 譏(そし)りあり
  友を諌(いさ)めて 泣かせても
  猶(なお)ゆくべきや 絞首台

15 おなじ憂いの 世に住めば
  千里のそらも 一つ家(いえ)
  己(おの)が袂(たもと)と いうなかれ
  やがて二人の 涙ぞや

16 はるばる寄せし ますらおの
  うれしき文(ふみ)を 袖にして
  きょう北漢(ほくかん)の 山のうえ
  駒立て見る日の 出(い)づる方(かた)





作詞:与謝野鉄幹、作曲:不詳

与謝野鉄幹は、明治6年(1873)、京都の寺の4男として生まれました。

落合直文に師事し、歌人・詩人として活躍。
 
「君死にたまふことなかれ」の詩で有名な与謝野晶子は、3度目の妻。

鉄幹は、明治28年(1895)招かれて漢城(現在ソウル)で日本語による教育を行っていた乙未義塾(いつびぎじゅく)に教師として赴任していますが、この歌は在韓中の明治31年(1898)に作られたといわれます。




































































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流れの旅路 三橋美智也

2019-05-14 05:43:25 | 懐かしのメロディー
流れの旅路/橋幸夫




紅いマフラーを いつまで振って
名残り惜しむか あの娘の馬車は
遥かあの丘 あの山越えて
行くかはるばる 流れの旅路

旅の一座の 名もない花形(スター)
ビラの写真の さみしい顔よ
遥かあの町 あの村過ぎて
行くかはるばる 流れの旅路

紅いマフラーは 見るのも辛い
別れ惜しんだ あの娘がいとし
遥かあの空 あの星見ては
行くかはるばる 流れの旅路



NY株、一時650ドル超安 米中摩擦で景気後退懸念

【ニューヨーク共同】週明け13日のニューヨーク株式市場のダウ工業株30種平均は急落し、前週末からの下げ幅は一時、650ドルを超えた。米中貿易摩擦で両国が「制裁合戦」に再び突入したことで米景気の後退懸念が強まり、売りが進んだ。(共同通信)

世界1位と2位の経済大国の対立ですから日本も含め世界経済全体への影響は甚大でしょうね。

楽観ムードで10連休を過ごされた方もおられたでしょうが・・・

政府の景気判断も6年ぶりに「悪化」とか。

年金基金の半分を株投資しているわけですが、どうなるのでしょう。

財政支出という名目で、借金を増やすのでしょうか。

それでも安倍政権の支持率は上昇基調とか、不思議な国、ニッポン。(笑)

この曲、「流れの旅路」は 昭和23年(1948)リリースで、津村謙の最初のヒット曲となりました。

ドサ廻りの歌謡ショー一座か旅役者を歌った歌です。
 
昭和30年代初めぐらいまで、旅芸人の巡業は、田舎の人びとにとって貴重な娯楽の1つでした。



























































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この世の花 島倉千代子

2019-04-26 04:37:30 | 懐かしのメロディー
この世の花_島倉千代子




1 あかく咲く花 青い花
  この世に咲く花 数々あれど
  涙にぬれて つぼみのままに
  散るは乙女の 初恋の花

2 想う人には 嫁がれず
  想わぬ人の 言うまま気まま
  悲しさこらえ 笑顔を見せて
  散るもいじらし 初恋の花

3 君のみ胸に 黒髪を
  うずめた楽し 想い出月夜
  よろこび去りて 涙は残る
  夢は返らぬ 初恋の花



「平成」の時代もあと僅か、「令和」の時代の幕開けがもうすぐです。

新たな元号が決定してから出典となった「万葉集」が、がぜん注目されていますよね。

青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし

由来となった梅花の宴での一首です。

柳と梅をかざして酒を飲み、その後は散ってもかまわない・・・

という意味でしょうか。

友だちや仲間には「いい顔」をして国費を散財、退陣後、国や民どうなってもかまわない・・・

総理が「令和」を選んだ真の理由は当時の貴族感からかもしれません。(笑)


さて、この曲、昭和30年(1955)3月に公開された松竹映画『この世の花』(穂積利昌監督)の主題歌で、島倉千代子さんのデビュー曲です。

原作は、集英社の芸能月刊誌『明星』に連載された北條誠の長編小説。最初にラジオ東京で連続ドラマ化され、大人気を博したので、松竹大船撮影所が映画化しました。

愛する人の子を宿しながら、偽りの結婚に身を委ねなければならなかった富豪の令嬢・久美子の悲恋物語です。

菊田一夫原作『君の名は』と並ぶ戦後メロドラマの傑作と言っていいでしょう。

第1部=慕情の巻、第2部=悲恋の巻、第3部=開花の巻、第4部=おもいでの花、第5部=浪花の雨、第6部=月の白樺、第7部=別れの夜道、第8部=さすらいの浜辺、第9部=愛の裁き、第10部=熱砂の抱擁――と計10編制作されました。

好きな女性がほかの男性と結婚した場合、彼女は何らかの事情で「想う人」の私をあきらめ、やむをえず「想わぬ人」と結婚したのだと思いたいものですが、実際には結婚した相手が「想う人」だったというのが、この世のおおかたの真実です。

あなたの奥様もそうでしょう、たぶん。

いや、きっと。(笑)











































































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琵琶湖哀歌

2019-04-08 01:19:49 | 懐かしのメロディー
琵琶湖哀歌




遠くかすむは 彦根城
波に暮れゆく 竹生島(ちくぶじま)
三井(みい)の晩鐘(ばんしょう) 音絶えて
なにすすり泣く 浜千鳥

瀬田の唐橋(からはし) 漕(こ)ぎぬけて
夕陽の湖(うみ)に 出で行きし
雄々しき姿よ 今いずこ
ああ青春の 唄のこえ

比良の白雪 溶けるとも
風まだ寒き 志賀の浦
オールそろえて さらばぞと
しぶきに消えし 若人よ

君は湖の子 かねてより
覚悟は胸の 波まくら
小松ケ原の 紅椿(べにつばき)
御霊(みたま)を守れ 湖の上



この曲は、1941年(昭和16年)4月6日に琵琶湖でボート練習中に突風のため転覆し水死(琵琶湖遭難事故)した第四高等学校(現・金沢大学)漕艇部の部員11人を悼んで作られ曲だそうです。

メロディーはゆったりとしたワルツ調ですし、それに乗せた歌詞は七五調ですから、全く古い歌謡曲。

しかも、固有名詞がやたら多いので、耳から入っただけではピンと来ないかも知れませんね。

しかし、謂れ因縁を聞いて聴くと、ありありと情景が脳裏に浮かび、それなりに感情移入してしまいそうな歌詞でもあります。

ところで、この事故の概要ですが・・・

春休みを利用して滋賀県大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現・金沢大学)の漕艇部員8名は、京都大学の学生ら3名を加えた合計11名で、高島郡今津町(現・高島市)の琵琶湖畔からボートに乗って午前7時頃出発した。
しかし、午後6時になっても戻らなかったため、翌4月7日朝より大がかりな捜索が行われる。
結果、午前10時頃に定置網にかかったオールが、更に午後2時頃には漕艇部員の持ち物と思われる下駄が発見されるなど、11名の生存は絶望視された。(11名全員の遺体が発見されたのは2ヶ月後)
事故の原因は、春に起こる琵琶湖地方特有の突風比良八荒であると言われている。

という遭難事件です。

1941年(昭和16年)と言えば、あの太平洋戦争が勃発した年。

戦争に行かずに死んだ若者たち、戦争に行って死んだ若者たち、なにすすり泣く浜千鳥・・・といったところでしょうか。

あれから70余年、戦争に行って死ぬということはありませんが、代わりに、社会によって抹殺されたり、されかかっている若者、そして老人が増え続けています。

浜千鳥に泣き止むときが来るかしら・・・・・。






































































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青春サイクリング

2019-01-31 02:37:07 | 懐かしのメロディー
青春サイクリング


http://blog-imgs-80.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201507300338408dd.mp3

(1) 緑の風も さわやかに
  握るハンドル 心も軽く
  サイクリング サイクリング
       ヤッホー ヤホー
  青い峠も 花咲く丘も
  ちょいとペダルで 一越えすれば
  旅のツバメも 付いて来る 付いて来る
    ヤッホー ヤッホ ヤッホ ヤホー

(2) 行こうよ君と どこまでも
  弾む銀輪 リズムに乗って
  サイクリング サイクリング
       ヤッホー ヤホー
  波もささやく 浜辺の道を
  若い歌声 合わせて走りゃ
  潮の香りが 夢を呼ぶ 夢を呼ぶ
    ヤッホー ヤッホ ヤッホ ヤホー

(3) 夕焼け空の あかね雲
  風にマフラーを なびかせながら
  サイクリング サイクリング
       ヤッホー ヤホー
  走り疲れて 野バラの花を
  摘んで見返りゃ 地平の果てに
  明日も日和(ヒヨリ)の 虹が立つ 虹が立つ
    ヤッホー ヤッホ ヤッホ ヤホー



昭和32年5月発売の、青春歌謡における古典的名曲です。

聴きながら自然と体が自転車をこぐリズムで揺れてくるようです。

「サイクリング サイクリング ヤッホー ヤッホー」も良いですし、この繰り返しが楽しかった。

なにか楽しいことが待ってる気がして、サイクリングに出かけたくなりませんか。

曲もすばらしいが、歌詞もすばらしい、・・・昭和三十年代前半のちょっとレトロな懐かしさ。



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あの娘が泣いてる波止場

2019-01-23 17:07:38 | 懐かしのメロディー
三橋美智也 あの娘が泣いてる波止場


一、思い出したんだとさ
逢いたく なったんだとさ
いくらすれても 女はおんな
男心にゃ 分かるもんかと
沖の煙を 見ながら
ああ あの娘が泣いてる 波止場

二、呼んでみたんだとさ
淋しく なったんだとさ
どうせカーゴの マドロスさんは
一夜どまりの 旅の鴎と
遠い汽笛を しょんぼり
ああ あの娘は聞いてる 波止場

三、なみだ捨てたんだとさ
待つ気に なったんだとさ
海の鳥でも 月夜にゃきっと
飛んでくるだろ 夢ではろばろ
それを頼りに いつまで
ああ あの娘がたたずむ 波止場



領土問題、早期妥結一致せず=プーチン氏「辛抱強さ要する」―日ロ首脳

安倍晋三首相は22日午後(日本時間同日夜)、モスクワのクレムリン(ロシア大統領府)でプーチン大統領と約3時間会談した。
焦点の北方領土問題をめぐっては、外相、外務次官級の交渉をそれぞれ2月に行うことを確認するにとどまり、早期妥結では一致できなかった。プーチン氏は会談後の共同記者発表で「今後、辛抱強さを要する作業が待っている」と語った。【モスクワ時事】

安倍総理としては、「2島+アルファー」で臨み、参院選前に大筋合意、衆参ダブル選挙に勝ち4選を、しかも歴史に名を残す、ここまで酔って土俵に上がられたようですが・・・

しかし、結果は無残、あっけなくプーチン氏に寄り切られてしまいました。(笑)

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高峰三枝子 おかあさん

2018-09-03 05:12:52 | 懐かしのメロディー
高峰三枝子 おかあさん


ふるさとの風が 心に吹くひるさがり
そっと呼んでみたくなる おかあさん
あの雲のむこうに 青空があるように
悲しみのむこうに
いつもやさしいほほえみが
おかあさんの おかあさんの顔がある

遠い日の花が
まぶたに咲くひるさがり
そっと呼んでみたくなる おかあさん
ああ何度呼んだか 甘えてた幼い日
泣きじゃくる背中に
いつもかわらぬやすらぎが
おかあさんの おかあさんの声がする

(セリフ)「おかあさん 元気ですか
小さくなったあなたの肩
いつもやさしさだけが
ひっそりとすわっているのね
かあさん長生きして下さい」

あの雲のむこうに 青空があるように
悲しみのむこうに
いつもやさしいほほえみが
おかあさんの おかあさんの顔がある




月曜日から金曜日の15時台に初めて投入された本格的なワイドショー番組フジテレビの「3時のあなた」・・・

その初代総合司会が高峰三枝子と木元教子。

高峰の司会起用にあたり、当時番組立ち上げから携わっていた、日枝久(現:フジテレビ会長)が同僚と共に、土下座をして出演交渉を行った末の起用だったそうです。

当初は「半年だけなら…」と高峰から。

しかし、高峰の落ち着いた司会ぶりと気さくな人柄が好評で、当初の予定を大幅に延長し、1973年(昭和48年)5月まで5年1ヶ月司会を務めます。

その番組で歌われたのがこの曲。


塚原光男副会長と塚原千恵子・強化本部長が「宮川紗江選手に対する」謝罪コメントを発表

体操女子でパワハラを指摘された日本協会の塚原光男副会長と塚原千恵子・強化本部長は2日、報道各社へFAXを送付し「宮川紗江選手に対する謝罪」のコメントを発表した。(スポーツ報知)

コメント全文読みました・・・

「お詫び申し上げます」、

「申し訳なく思っております」、

この言葉、再三再四使われ、しかも「取り返しのつかないことかもしれません」とまでも。

それでも、誠意が伝わらないのは何故でしょう。

それは、子供、孫とも言うべきコーチ・選手への「愛」が感じられないからだと思います。

おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃんとしての。

「私たちの宮川紗江選手に対するハラスメント問題につきましては、日本体操協会が立ち上げる第三者委員会の調査活動に全面的に協力し、その判断を待ちたいと思っております。」

この言葉に「愛」はありません。

第三者委員会の調査活動、その判断の前に現役職を辞任するくらいの潔さと言葉があればと思います。

過去の実績・功績を疑う者はいない夫妻、それだけに・・・

体操への愛よりも、コーチ・選手への愛(いつもやさしいほほえみ、いつもかわらぬやすらぎ、いつもひっそりとすわっているやさしさ)の「顔」が欲しかった。

あの雲のむこうに 青空があるように

悲しみのむこうに

いつもやさしいほほえみが

おかあさんの おかあさんの顔がある


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異国の丘

2018-06-14 04:37:31 | 懐かしのメロディー
美空ひばり ♪異国の丘




1 今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よ辛かろ 切なかろ
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る 春が来る

2 今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る

3 今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで



第二次大戦の最末期、日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に日本軍は降伏しました。武装解除された日本軍将兵は、在満の民間人や当時日本国籍だった朝鮮人とともに、ソ連領内の収容所に送り込まれました。一般にこれを「シベリア抑留」と呼んでいます。

シベリア抑留というものの、収容先はシベリアだけでなく、モンゴルや北朝鮮、中央アジア、ヨーロッパロシアの各地に及んでいました。
収容者数は、約65万人というのがいちおうの定説になっていますが、実際には約107万人だったと見られています。

収容された日本人たちは、劣悪な居住環境と粗悪な食事のもと、過酷な強制労働に従事させられました。
作業は建築や土木建設、木材伐採などでしたが、ノルマが課せられ、ノルマが達成できないと、減食されたり、欠食とされたりしました。
また、定期的に共産主義教育が行われ、反・非共産主義的と見なされると、共産主義に感化された同胞からつるし上げや人民裁判、ときにはリンチを受けました。

連日の過酷な作業のため、収容期間中の死者は、収容人数の1割近い約6万人に達したとされています。
ただし、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモの調査では、実際の死者は約34万人とされており、また約37万5000人とする調査結果もあります。収容者数を約107万人とすると、犠牲者はその3分の1以上にも達したことになります。

収容者の帰還は昭和22年(1947)から、ソ連との国交が回復する昭和31年(1956)にかけて逐次行われました。共産主義教育に反抗的だった者ほど、帰還を遅らされたと伝えられます。

抑留からの帰還者によって日本にもたらされたものがいくつもあります。前述したノルマという言葉や歌声運動などがその例ですが、『異国の丘』もその1つです。

昭和23年(1948)8月1日(8日説あり)、NHKの人気番組「のど自慢素人演芸会」に1人の復員兵が出演、みごとに鐘を打ち鳴らしました。シベリアから復員した中村耕造という人物で、歌ったのは作詞・作曲者不明の『昨日も今日も』という歌でした。

望郷の思いを切々と歌い上げるその歌にビクターが着目、佐伯孝夫の補作詞と清水保男の編曲を施したうえで、中村耕造と当時の人気歌手・竹山逸郎に歌わせてレコード化しました。
同年9月、『異国の丘』と改題されたそのレコードが発売されるや、たちまち全国に大流行、大人から子どもまで口ずさみ、NHKや各地ののど自慢大会でこれを歌う者が続出しました。

はじめはだれが作った歌か不明でしたが、やがて吉田正が名乗り出て、作詞は増田幸治、作曲は吉田正と判明しました。
吉田は昭和23年8月にはシベリアから帰還していましたが、大流行している歌が自分の歌だという実感が湧かなかったので、名乗り出るのが遅れたそうです。
昭和25年(1950)4月には増田幸治も帰還して、歌のできた経緯がさらに明らかになりました。

吉田正と増田幸治は、シベリア・ウラジオストク郊外アルチョム収容所にいっしょに収容されていました。中村耕造も同じ収容所にいたはずですが、2人の名前は記憶していなかったのでしょう。
あるとき、吉田が戦時中に作った『大興安嶺突破演習の歌』という軍歌を紹介したところ、増田がそれに『俘虜(ふりょ)の歌える』という歌詞をつけ、副題を『異国の丘』としました。
 後年、増田はそれを発表したときのようすを、次のように語っています。

「初めて異国の丘を発表したのは収容所の演芸会だった。合唱していると胸が詰まり、歌いながらみんな泣いた。これ以降、作業の行き帰りや夕方の人員点呼時に、皆が口ずさんだ。お互いをいたわり、励まし合うようになり、自分さえよければといった殺伐とした雰囲気は次第に薄れていった。シベリア最初の冬がようやく終わる昭和21年(1946)の3月ごろだった」

歌が単なる娯楽以上の力をもちうるという顕著な証拠がここにあります。

吉田はビクターから専属作曲家として迎えられ、以後数々のヒット曲を連発したことはよく知られているとおりです。




























































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夢淡き東京

2018-01-24 09:53:24 | 懐かしのメロディー
夢淡き東京 藤山一郎




1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  誰を待つ心 可愛いガラス窓
  かすむは春の青空か あの屋根は
  かがやく聖路加(せいろか)か
  はるかに朝の虹も出た
  誰を待つ心 淡き夢の町 東京

2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
  川の流れにも 嘆きをすてたまえ
  なつかし岸に聞こえ来る あの音は
  むかしの三味(しゃみ)の音か
  遠くに踊る影ひとつ
  川の流れさえ 淡き夢の町 東京

3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
  風に通わすか 願うは同じ夢
  ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
  夕日に染めた顔
  茜の雲を見つめてた
  風に通わすか 淡き夢の街 東京

4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
  せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
  小雨が道にそぼ降れば あの灯り
  うるみてなやましく
  あわれはいつか雨にとけ
  せまい露路裏も 淡き夢の町 東京





昭和22年(1947)リリース。長谷川幸延作の連続ラジオドラマを映画化した『音楽五人男』(東宝)の主題歌。B面に収録された『白鳥の歌』とともに大ヒットしました。

歌詞に出てくる地名を見ると、このころまで、東京の重心は今よりずっと東にあったことがわかります。

高度経済成長期以降、新宿の新都心化、渋谷・池袋の副都心化が進み、重心は西に移動しました。

しかし近年、ウォーターフロントの再開発が進むにつれて、重心はまた東に戻る傾向が出ています。

銀座といえば、長い間、柳の並木がシンボルでした。「銀座の柳」は、さまざまな歌や小説、エッセイなどに描かれています。

しかし、それを知る人も、次第に少なくなってきました。

銀座に並木が植えられ始めたのは、明治10年(1877)ごろのことです。

当初は、柳のほかに松や桜なども植えられていましたが、生命力が強いということで、柳に統一されるようになりました。

柳は大事に管理され、銀座の四季を彩る風物詩となりましたが、大正10年(1921)、京橋・新橋間の車道拡幅のために撤去されてしまいました。

写真は撤去される前の柳並木。

大正12年(1923)9月1日には、関東大震災により、銀座そのものが焼失してしまいます。

昭和に入って震災からの復興が進むと、「銀座の柳」復活の気運が高まってきます。

「昔恋しい銀座の柳……」と歌った『東京行進曲 』(西條八十作詞、中山晋平作曲)の大流行も、その復活を助けました。

そのようにして復活した柳並木も、昭和20年(1945)3月と5月の東京大空襲で街ぐるみ焼失。

その後、柳並木は再生しましたが、昭和43年(1968)、またも道路整備のために撤去されてしまいました。

地元住民など銀座を愛する人たちは、「銀座の柳」の復活を希望しましたが、道路事情から実現は困難でした。

並木としては復活しなかったものの、昭和62年(1987)に中央区の木として柳が制定されたのを機に、日野市の建設省(現国土交通省)街路樹苗園に移植保存されていた「銀座の柳」が、同区内の何カ所かに数本ずつ分植されるようになりました。

1番の聖路加は中央区明石町にある聖路加国際病院のこと。

キリスト教の聖人・聖ルカにちなんだ名前なので、セイルカと呼ぶのが正しいようですが、一般にはセイロカ病院と呼び慣らわされています。

藤山一郎もそう歌っていました。

ところで、マスターが生まれたのはこの年、昭和22年の暮れでした。

マスターが歌謡曲を筆頭に音楽に興味を持ったのは「おばぁちゃんこ」だったせいだと思います。

父は教師、母は田んぼ・畑仕事、マスターはおばぁちゃんに育てられました。

そのおばぁちゃんが歌謡曲が好きだったのです。

















































































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旅の夜風

2017-11-25 05:46:52 | 懐かしのメロディー
旅の夜風



旅の夜風 霧島昇さん ミス・コロムビアさん




1 花も嵐も踏み越えて
  行くが男の生きる途(みち)
  泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
  月の比叡(ひえい)を独(ひと)り行く

2 優しかの君ただ独り
  発(た)たせまつりし旅の空
  可愛い子供は女の生命(いのち)
  なぜに淋しい子守唄

3 加茂の河原に秋長(た)けて
  肌に夜風が沁みわたる
  男柳がなに泣くものか
  風に揺れるは影ばかり

4 愛の山河(やまかわ)雲幾重(くもいくえ)
  心ごころを隔てても
  待てば来る来る愛染かつら
  やがて芽をふく春が来る



『旅の夜風』、昭和13年(1938)に公開された松竹映画『愛染かつら』の主題歌です。

この映画は爆発的な人気を集め、主題歌のこの曲も、120万枚という驚異的なレコード売り上げを記録しました。

当時、日本にあったプレーヤー(蓄音機といいましたが)の台数を考えると、今日の2000万枚ほどのメガヒットにも相当するかもしれません。

『愛染かつら』は、川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載した小説を映画化したもので、美貌の看護婦・高石かつ枝と若い医師・津村浩三の恋を描いたメロドラマの傑作です。

映画と主題歌の大ヒットを解くカギの1ですが、もしかすると、「愛染かつら」という名前かも知れません。

長野県別所温泉の奥に北向観音という古刹があり、その境内に、愛染明王堂と並んでカツラの巨木が立っています。

川口松太郎は、別所温泉に逗留していたとき、この木を見て「愛染かつら」という言葉を思いつき、恋物語の想を得たとされています。

















































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並木の雨

2017-11-17 06:51:30 | 懐かしのメロディー
ALFRED HAUSE - Namiki no Ame 並木の雨





昭和9年(1934)7月に、コロムビアからレコード発売されました。

歌ったミス・コロムビアの本名は松原操。

戦前、クラシックを教える音楽学校はどこも、歌謡曲という「低俗な音楽」をレコーディングしたり、舞台で歌ったりする学生は、退学処分などのペナルティを科せられるのが普通でした。

たとえば、東洋音楽学校(現・東京音大)出身の淡谷のり子は、歌謡曲を歌ったのが卒業後だったにもかかわらず、母校の名誉を汚したとして卒業生名簿から削られてしまいました(のちに復籍)。

こうしたことを考慮して、コロムビアレコードは、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)を卒業したばかりの松原操を、ミス・コロムビアという覆面歌手としてデビューさせました。

覆面歌手というのは、正体をいっさい公表しないだけでなく、レコードジャケットや宣伝写真に載せる顔写真も目隠しして売り出すといった作戦です。

これは、やはり東京音楽学校の卒業生だった小林千代子(『涙の渡り鳥』などのヒット曲がある)を、日本ビクターが金色仮面という覆面歌手として売り出し、ミステリアスな魅力で人気を得ていたのに倣ったもの。

作戦は図にあたり、ミス・コロムビアは以後、『十九の春』『並木の雨』『旅の夜風』『一杯のコーヒーから』『目ン無い千鳥』などのヒット曲を連発します。

昭和15年(1940)、カタカナの芸名を禁止する内務省の指令により、本名の松原操で歌うようになります。太平洋戦争中は多くの軍国歌謡を歌いました。

戦後も人気は衰えませんでしたが、夫の霧島昇を支え、家事に専念するため、昭和23年(1948)の『三百六十五夜』を最後に芸能界を引退しました。

作曲の池田不二男は、原野為二、金子史郎ほか、複数のペンネームを使っています。

『並木の雨』のほか、『花言葉の歌』『片瀬波』などの佳作を発表し、将来を期待されましたが、38歳で亡くなりました。

「並木の路」というと、かつてみごとな柳並木のあった銀座通りが浮かんできます。

ティールームかどこかから、別れた恋人に似た人を通行人のなかに見かける、といったイメージです。

失った人の面影を人混みのなかに見つけるというのは、よくある話です。

しかし、ただの知り合いもしくは友人の1人にすぎないのに、その人によく似た人を街中で頻繁に見かける、ということはありませんか。

もしあったら、自分の心の中を一度よく探ってみたらどうでしょう。もしかしたら、それまで気がつかなかったその人への特別な感情を発見するかもしれません。









































































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