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うれしいひなまつり

2023-03-03 01:02:42 | 童謡・唱歌
うれしいひなまつり






あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひなまつり

お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に
よく似た官女の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣

着物をきかえて 帯しめて
今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日
なによりうれしい ひなまつり



ひな祭りとは、女の子の健やかな成長と健康を願う、3月3日の「桃の節句」の行事を指します。

「桃の節句」は、七草・端午・七夕などと並ぶ五節句のひとつで、本来は「上巳(じょうし、じょうみ)の節句」といい、3月の最初の巳(み)の日を指していました。

江戸時代に「上巳の節句」が五節句のひとつに定められ、5月5日が男の子の節句であるのに対し、3月3日は女の子の節句となったのだそうです。

「桃の節句」と呼ばれるようになったのは、旧暦の3月3日の頃に桃の花が咲くことや、桃は魔除けの効果を持つと信じられていたことに由来しています。

また雛人形は、昔の人形(ひとがた)や流し雛の風習の通り、お雛様に女の子の穢れを移して厄災を身代わりに引き受けてもらうためだとも言われています。

そんな子どもに災いが降りかからないようにという家族の願いや、人生の幸福が得られるようにという気持ちを込めて、「桃の節句」には雛人形を飾るようになりました。

こうした風習が全国に広まり「桃の節句」「ひな祭り」と呼ばれて定着してきたと言うことです。

まぁ、マスターには娘が居ませんので、飾ったことはありませんが。(笑)







































































































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月の沙漠

2023-01-02 14:48:03 | 童謡・唱歌
月の沙漠 芹洋子




1 月の沙漠をはるばると
  旅の駱駝(らくだ)がゆきました
  金と銀との鞍(くら)置いて
  二つならんでゆきました

2 金の鞍には銀の甕(かめ)
  銀の鞍には金の甕
  二つの甕はそれぞれに
  紐(ひも)で結んでありました

3 さきの鞍には王子様
  あとの鞍にはお姫様
  乗った二人はおそろいの
  白い上衣(うわぎ)を着てました

4 広い沙漠をひとすじに
  二人はどこへゆくのでしょう
  朧(おぼろ)にけぶる月の夜を
  対(つい)の駱駝はとぼとぼと

  砂丘を越えてゆきました
  黙って越えてゆきました



作詞家・加藤まさをが「月の沙漠」を発表したのは、大正12年3月の「少女倶楽部」誌上。

同年9月、関東大震災が勃発しますが、その前後に若手の作曲家・佐々木すぐるが曲を付けました。

その後、昭和2年にラジオで放送されたことで評判となり、童謡として今日まで長く歌い続けられています。

作曲した佐々木はその時のことを、

「あのころ、もの哀しい短調の流行歌が大変歌われていてね、私も、一度そういう曲を書いてみたいと思っていた。

そこへ『月の沙漠』の詩が届いたので、考えてそういうふしをつけてみた、しかし流行歌には、なりきらなくて。」

と語っています。

この詞は、千葉県の御宿(おんじゅく)海岸で想を得たものといわれ、それを記念して、昭和44年、御宿の砂浜に「月の沙漠記念像」が建てられました。

沙漠の「沙」の字は常用漢字にないために、砂漠と書かれるようになりましたが、地理学的にいえば、沙漠イコール砂漠とはかぎりません。

沙漠は、「沙=水が少ない、漠=広々としたようす」という意味で、土だらけの土漠とか、岩だらけの岩漠というのもあるからです。

ところで、佐々木すぐるのメロディ、とくにイントロは、子どもの歌にしては官能的ですね。

そのあたりが大人にも好まれる理由かもしれません。 (笑)




























































































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野菊

2020-11-14 04:43:41 | 童謡・唱歌
文部省唱歌 野菊




しずかに咲いた 野辺の花 やさしい野菊 うすむらさきよ・・・

『野菊(のぎく)』は、1942年(昭和17年)に発表された文部省唱歌です。

作詞は石森延男、作曲は下総皖一。

























































































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椰子の実

2020-03-21 02:40:08 | 童謡・唱歌
「椰子の実」


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/20150424171634f7d.mp3


この詩は、島崎藤村が友人の柳田國男(やなぎた・くにお)から聞いた話をもとに作ったものとされています。

柳田國男は、明治31年(1898)8月から9月にかけての約1ヶ月間、愛知県南東部、渥美(あつみ)半島先端の伊良湖(いらご)に滞在しました。

このとき、浜辺に漂着していた椰子の実を見つけて感動した話を、東京に帰ったのち、藤村にします。

すると、藤村は「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」と柳田に頼んだといいます。

このとき聞いた話が、この名詩となって結実したわけです。(このエピソードは、柳田の著書『海上の道』などに記されています)

『椰子の実』は、『落梅集』に収められています。

昭和11年(1936)、大中寅二(おおなかとらじ)によって曲がつけられ、国民歌謡として全国に放送されました。

日本民俗学の大成者として知られる柳田國男は、明治8年(1875)、兵庫県神東郡田原村辻川(現在は神崎郡福崎町辻川)生まれ。

東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省等の中央官庁や朝日新聞社に勤めながら、民俗学の研究を進めてきました。

のちに請われて國學院大学教授就任。民俗学の金字塔『遠野物語』は、明治43年(1910年)の成果です。

晩年には、日本民族は、南方から黒潮に乗って日本列島に達したという主張を『海上の道』にまとめました。

これも、若いときに伊良湖で見た椰子の実から発想したものといえるでしょう。

2番の浮寝は「寝場所が一定しないこと」です。

このほかに、1水鳥が水に浮いたままで寝ること、または水上に舟をとどめて夜を明かすこと、2心が落ち着かず、安眠できないで横になっていること、3夫婦でない男女が一時的に契りを結ぶこと――という意味もあります。

3番の流離は「さすらうこと」。

「激る」は通常は「滾る」「沸る」と書き、川の水などが激しく流れること、または湯などが煮えたつことという意味で、転じて怒り・悲しみ・焦りなどの感情が激しく湧き上がることも表します。



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平城山(ならやま)

2019-01-16 17:06:43 | 童謡・唱歌
山崎ハコさん「平城山(ならやま)」


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201505110610473d3.mp3

1 人恋ふは悲しきものと
  平城山(ならやま)に
  もとほり来つつ
  たえ難(がた)かりき

2 古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ
  越へしとふ
  平城山の路に
  涙おとしぬ



昭和初期、女学校などで愛唱された「平城山(ならやま)」・・・・・その平城山は、奈良県と京都府の境、昔の大和の国と山城国との境に、盛り上がるように広がる丘陵の一帯を言います。

そして、その平城山を超えて大和ー京都を往来する道を「奈良坂」と言います。

ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に
                こさめ ながるる はる は き に けり   (会津八一)


歌意
 奈良坂の道のほとりにある石の仏さんのあごから、小雨が流れている。ああ、春になったのだな~。

奈良坂」は京都、山城と大和、そして、吉野を結ぶ最短コースとして古くから交通の要衝でした。

その奈良坂で、かっては、地方の国府などに赴任する万葉人たちが、家族や恋人と別れを惜しんだようです。


稀勢の里が引退会見「土俵人生において、一片の悔いも残っていません」

大相撲の横綱稀勢の里(32)=田子ノ浦=が16日、都内で引退会見を開いた。師匠の田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)とともに入場し、「私、稀勢の里は今場所をもちまして引退をし、年寄・荒磯として後進の指導にあたりたいと思います。現役中は大変お世話になりました。ありがとうございました」と挨拶した。(デイリースポーツ)

とうとうこの日が・・・・・

お疲れ様でした。


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荒城の月

2018-03-21 04:49:03 | 童謡・唱歌
荒城の月


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201505070558596a0.mp3

1 春高楼の花の宴
  めぐる盃影さして
  千代の松が枝(え)わけいでし
  むかしの光今何処(いずこ)

2 秋陣営の霜の色
  鳴きゆく雁(かり)の数みせて
  植うるつるぎに照りそいし
  昔のひかりいまいずこ

3 いま荒城の夜半の月
  変わらぬ光たがためぞ
  垣に残るは唯(ただ)かづら
  松に歌うはただ嵐

4 天上影はかわらねど
  栄枯は移る世の姿
  うつさんとてか今もなお
  ああ荒城の夜半の月



作詞:土井晩翠、作曲:瀧廉太郎

『荒城の月』が発表されたのは明治34年(1901)で、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)が同年に発行した音楽教科書『中学唱歌』に掲載されました。
当時、小中学生用の唱歌といえば、外国曲に日本語の詩をつけたものが主流でした。東京音楽学校では、この風潮に一石を投じて日本独特の唱歌を作ろうと企画し、いくつかの詩を提示して、それに合う曲を求めました。
同校に在学中だった瀧廉太郎は、土井晩翠の『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の3つに曲をつけて応募したところ、3曲とも入選となりました。その英才振りがうかがい知れるエピソードです。

土井晩翠は自分の故郷・仙台の青葉城や、旧制二高時代に訪れた会津若松の鶴ヶ城から詩のイメージを得、滝廉太郎は自分の出身地・大分県竹田の岡城から曲を着想したことはよく知られています。



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うれしいひなまつり

2018-02-07 11:30:54 | 童謡・唱歌
童謡 うれしいひなまつり . みみちゃんレコード童謡集


http://blog-imgs-88.fc2.com/t/o/s/toshiichi/20160218185645f72.mp3

1 あかりをつけましょ ぼんぼりに
  お花をあげましょ 桃の花
  五人ばやしの 笛太鼓
  今日はたのしい ひなまつり

2 お内裏様(だいりさま)と おひな様
  二人ならんで すまし顔
  お嫁にいらした 姉様に
  よく似た官女の 白い顔

3 金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
  かすかにゆする 春の風
  すこし白酒 めされたか
  あかいお顔の 右大臣

4 着物をきかえて 帯しめて
  今日はわたしも はれ姿
  春のやよいの このよき日
  なによりうれしい ひなまつり



日本のひな祭りのルーツは、3世紀前後の古代中国で行っていた風習に基づくといわれています。
中国では、“季節の変わり目は災いをもたらす邪気が入りやすい”と考えられ、3月最初の巳の日に水辺で禊(みそぎ)を行ったり、盃を水に流して自分のところに流れ着くまでに詩歌を読む「曲水の宴]を行う風習がありました。
これがやがて遣唐使によって日本に伝えられ、禊の神事と結びつきます。
当初は、天子をお祓いするための儀式であったものが、平安時代には宮中行事へと変化したといわれています。
川のほとりに男女が集まり、災厄を祓う「上巳の祓い」として、「曲水の宴」を催したり、草木や紙などでかたどった人形で自分の体をなでて穢れを移し、川や海へ流す儀式が行われるようになりました。
現在でも日本の各地で行われている「流し雛」は、この名残といわれています。

はじめは宮中の行事であった「上巳の祓い」が、時とともに武家社会へと浸透していきます。
やがて室町時代の頃になると日付が変動しないよう、3月3日と固定されました。しかし、この頃から安土・桃山時代にかけては、まだひな人形を飾って遊ぶ今のひな祭りとはかけはなれた、祓いの行事でした。
この日が華やかな女性のお祭りとなるのは、戦国の世が終り、世の中が平和になった江戸時代からのこと。
徳川幕府によって「上巳の節句(3月3日)」が「五節句」のひとつに定められ、「人日の節句(1月7日)」「端午の節句(5月5日)」「七夕の節句(7月7日)」「重陽の節句(9月9日)」と並ぶ、重要な年中行事となりました。
もともと「上巳の節句」は男女の区別なく行われていた行事でしたが、「端午の節句」が男の子の節句として祝われるようになったことに対して、3月3日が女の子の節句として定着するようになったのです。


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茶摘み(文部省唱歌)

2018-02-04 01:22:45 | 童謡・唱歌
茶摘み 童謡 唱歌


http://blog-imgs-75.fc2.com/t/o/s/toshiichi/20150616034313e16.mp3

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みじゃないか
あかねだすきに菅の笠」

日和つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本の茶にならぬ



夏も近づく八十八夜・・・

八十八夜とは、立春からかぞえて八十八日目にあたる日で、今年(2018年)は5月2日。

この八十八夜とお茶が結びついたのは、この曲「夏も近づく八十八夜・・・♪」と茶摘みを歌った唱歌の影響も大きいようですが、実際には茶産地の温暖差によって茶摘みの時期は異なります。

新茶時期の出始めは、新芽を手で摘んだ上質なお茶が手摘み茶として、その後摘み取りのピーク時にはハサミ摘みや機械摘みとなります。

八十八夜に摘み取られるお茶は、古来より不老長寿の縁起物の新茶として珍重されています。

茶摘み最盛期である八十八夜、縁起を担ぐという意味合いと気候条件も含めてこの時期のお茶は極上です。

お茶の新芽には前年の秋からひと冬越えて蓄えられた成分があふれていますので、特有の若々しい香りが失われないうちに製茶された一番茶を、ゆったりと寛いで飲みたいものです。

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青い眼のお人形

2017-12-25 17:41:59 | 童謡・唱歌
山崎ハコさん「青い眼のお人形」


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/20150505043932dec.mp3

青い眼をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド

日本の港へついたとき
いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない
迷子になったらなんとしょう

やさしい日本の嬢(じょう)ちゃんよ
なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ



「赤い靴」同様、作詞は野口雨情、作曲は本居長世。
「青い眼の人形」は大正10年12月号の児童雑誌『金の船』に発表され、これに本居長世が長調に短調のアンコをはさむおしゃれなメロディをつけました。
雨情の三女、2歳の香穂子さんが、セルロイド製のキューピーと遊んでいる情景を見て心をうたれてこの詞を書いたそうで、 いかにも子煩悩の雨情らしい作品です。



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赤い靴

2017-12-25 03:17:25 | 童謡・唱歌
山崎ハコさん「赤い靴」


http://blog-imgs-76.fc2.com/t/o/s/toshiichi/201505050434528a3.mp3

1 赤い靴はいてた 女の子
  異人さんにつれられて
  いっちゃった

2 横浜のはとばから 船に乗って
  異人さんにつれられて
  いっちゃった

3 今では青い目に なっちゃって
  異人さんのお国に
  いるんだろ

4 赤い靴見るたび かんがえる
  異人さんにあうたび
  かんがえる



詞は大正10年(1921)、『小学女生』という雑誌に掲載され、翌年、本居長世が曲をつけ、その娘・貴美子の歌で発表されました。

野口雨情の詞には、モデルがいます。静岡県生まれの「岩崎きみ」という女の子で、母親が北海道の開拓地に入植するため、アメリカ人の宣教師ヒュエット夫妻に養女として預けられたのです。

やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるのですが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられてしまうのです。

そして、きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなるのですが、母親(かよ)は、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごしてしまいます。

現在、きみの墓は東京の青山墓地にあるそうですが、あまりに幸薄く、はかない一生ですよね。




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冬の星座

2017-11-22 01:24:27 | 童謡・唱歌
冬の星座




1 木枯らしとだえて さゆる空より
  地上に降りしく 奇(くす)しき光よ
  ものみないこえる しじまの中に
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

2 ほのぼの明かりて 流るる銀河
  オリオン舞い立ち スバルはさざめく
  無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる



1. Won't you tell me Mollie darling,
That you love none else but me?
For I love you Mollie darling,
You are all the world to me.
O! tell me, darling, that you love me,
Put your little hand in mine,
Take my heart, sweet Mollie darling,
Say that you will give me thine.
   (Chorus:)
   Mollie, fairest, sweetest, dearest,
   Look up, darling, tell me this;
   Do you love me, Mollie darling?
   Let you answer be a kiss.

2. Stars are smilling, Mollie darling,
Thro' the mystic vail of night;
They seem laughing, Mollie darling,
While fair Luna hides her light;
O! no one listens but the flowers,
While they hang their heads in shame.
They are modest, Mollie darling,
When they hear me call your name.
   (Chorus:)

3. I must leave you, Mollie darling,
Tho' the parting gives me pain;
When the stars shine, Mollie darling,
I will meet you here again.
O! goodnight, Mollie, goodbye, loved one,
Happy may you ever be,
When you're dreaming, Mollie darling,
Don't forget to dream of me.
   (Chorus:)



原曲はアメリカの作曲家ヘイズが1872年に作詞・作曲した『愛しのモーリー(Mollie Darling)』。これに堀内敬三が日本語詞をつけ、昭和22年(1947)に中学の音楽教科書に掲載されました。
原曲は明るく楽しい感じのラブソングですが、堀内敬三の詞では清澄な叙景歌に変わっています。
 
ヘイズは1837年にケンタッキー州のルーイヴィルで生まれ、1907年に70歳で亡くなりました。フルネームはWilliam Shakespeare Haysです。親はシェークスピアのような劇作家になることを期待したんでしょうね。

劇作家にはなりませんでしたが、作曲家として成功しました。生涯に約350曲を作り、そのうちのかなりの数がヒットしました。最大のヒットはこの『愛しのモーリー』で、300万部の楽譜が売れたといいます。現代なら、その何倍かのCDが売れたはずで、文字通りメガヒットです。













































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仲よし小道

2017-06-15 18:31:36 | 童謡・唱歌
童謡 仲よし小道




仲よし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って 元気よく
お歌をうたって 通う道

仲よし小道は うれしいな
いつもとなりの みよちゃんが
にこにこあそびに かけてくる
なんなんなの花 匂う道

仲よし小道の 小川には
とんとん板橋 かけてある
仲よくならんで 腰かけて
お話するのよ たのしいな

仲よし小道の 日ぐれには
母さまお家で お呼びです
さよならさよなら また明日
お手手をふりふり さようなら



「共謀罪」法が成立 与党が参院本会議で採決強行

犯罪を計画段階から処罰できるようにする「共謀罪」の趣旨を含む改正組織的犯罪処罰法が15日朝、参院本会議で成立した。自民、公明両党が参院法務委員会での審議を打ち切り、15日未明に始まった参院本会議で直接採決する「中間報告」を強行。与党や日本維新の会の賛成多数で可決した。
投票総数235票のうち、賛成が165票、反対が70票だった。(朝日新聞デジタル)

いやぁ、奇策というか、高慢というか、・・・

しかし、今回の強行、森友・加計疑惑と併せ都議選への影響は必死でしょうね。

自民は勿論、公明も、・・・高笑いは小池さん?。(笑)

仲よし小道もいいけれど、公明さんも都議選に火がつくかも。































































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みかんの花咲く丘

2017-03-17 05:07:48 | 童謡・唱歌
日本の童謡 みかんの花咲く丘




1 みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく かすんでる

2 黒い煙を はきながら
  お船はどこへ 行くのでしょう
  波に揺られて 島のかげ
  汽笛がボウと 鳴りました

3 いつか来た丘 母さんと
  いっしょに眺めた あの島よ
  今日もひとりで 見ていると
  やさしい母さん 思われる



作詞:加藤省吾、作曲:海沼実、唄:川田正子・・・

作曲した海沼実さんですが長野県の松代出身で、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の創設者として知られています。

『あのこはだあれ』『お猿のかごや』『蛙の笛』『カラスの赤ちゃん』『里の秋』『ばあやたずねて』『見てござる』『やさしいおかあさま』『夢のお馬車』など数多くの童謡を作曲していますが、代表作をあえて1つ挙げるとすると、この曲『みかんの花咲く丘』になるかもしれません。

音羽ゆりかご会を創設したのは昭和8年(1933)ですが、昭和20年(1945)4月に海沼さんの家が空襲で焼けてからは、童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の家に寄宿しており、事実上そこが彼の音楽活動の拠点となっていました。

昭和17年(1942)ごろから姉妹の母親と事実婚状態になり、三女美智子をもうけました。2人は戦後正式に結婚しています。
 

この歌については、非常にあわただしい状況のなかで作られたという話が伝えられています。
昭和21年(1946)8月、NHKラジオでは、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校(現在の伊東西小学校)とを中継で結ぶ番組が企画されました。

その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいので、何か作ってほしいという注文が海沼さんに来ました。
 
しかし、長野県出身の海沼さんには、なかなかイメージが浮かばず、とうとう放送前日になってしまいました。

その日、たまたま加藤省吾という音楽雑誌の記者が正子・孝子にインタビューするために川田家を訪れました。
加藤は静岡県富士郡大淵村(現・富士宮市)の出身で、作詞家を目指していました。『かわいい魚屋さん』という童謡のヒット曲がありましたが、その後はめぼしい作品がなく、生活のために雑誌記者をしていたのです。

彼が静岡出身と聞いた海沼さんは、これは助かったとさっそく作詞を依頼しました。

加藤は、そんな短い時間では無理と断りましたが、海沼さんは、1回限りの放送用だから気軽に作ればよいと説得、それに応じて加藤は、故郷のみかん畑を思い浮かべながら、3聯の詞を書き上げました。

詞ができあがると、海沼さんはそれをもち、正子を連れてNHKに走りました。

NHK内にあったGHQ(占領軍総司令部)検閲部の検閲を受けるため、・・・当時、出版物や放送内容などは事前に必ずGHQの検閲を受けなければならなかったのです。

童謡ですから、内容には当然問題なく、検閲はパス、海沼さんは正子とともに、その足ですぐ伊東行きの列車に飛び乗りました。

列車のなかで海沼は一気に曲を書き上げます。

その際ヒントになったのがヴェルディのオペラ『椿姫』のなかの一節だったといわれます。
 
というわけで、新しい童謡『みかんの花咲く丘』は、滑り込みセーフで放送に間に合いました。

この歌の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットになりました。
 
昭和58年(1983)、伊東市によって、宇佐美から亀石峠に向かう途中のみかん園を見下ろす場所に、この歌の歌碑が建てられ、作詞・作曲者の自筆の歌詞と楽譜が刻まれています。

 


































































































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