我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

世耕 弘成

2010年04月28日 | 政治家

 政治家

世耕 弘成【わが郷・政治家】1962~ 世耕 弘成 政治家

 

 

世耕 弘成 (せこう ひろしげ) 

世耕 弘成(せこう ひろしげ、1962119日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(4期)、経済産業大臣(第22代)兼内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)、ロシア経済分野協力担当大臣。

学校法人近畿大学第4代理事長、自民党政策調査会長代理、自民党参議院政策審議会長、内閣官房副長官(第2次安倍内閣・第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣・第3次安倍第1次改造内閣、政務担当・参議院)等を歴任。
(wikipedia)

 

 

 

 

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仙谷由人

2010年04月28日 | 政治家

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仙谷由人【わが郷・政治家】1946~ 仙谷由人 政治家

 

 


 

命をかける覚悟がないなら、政治家なんかになるなよ

フランシーヌ (※1) と同い年の、娘がこういった。

 

 仙谷由人は全共闘の社会主義同盟,いわゆるフロントの出身で,安田講堂では弁当運びばかりしていてゲバルトには参加しなかった日和見主義者です(笑) その証拠にひそかに(笑)司法試験の受験勉強を続け,合格と同時に中退し学生運動からも撤退した
岩下俊三のブログ

 

 素朴に毛沢東主義なんぞを信じている、政治や歴史のオンチが、日本の指導者では、まことに危うい。民主党から出た、西岡武夫参院議長に、『辞めろ』と言われてしまった仙谷由人や菅直人に覚悟なんか、あるわけがない。棚ぼたの、あんころ餅をつかんで離さない、無恥蒙昧の徒とはまさに両名のことを謂う。

 支那は悪しき隣人で、法治観念のない軍隊ヤクザの国、ましてや「戦略的互恵関係」なんぞは、マヌケな貢ぎ物だ。このまま、日本の資本と先進技術を支那に、渡し続けていたならば、彼らは本当にステルス戦闘機 『殲 20』 を完成させる、可能性もある。自動車だけではなく、航空機産業も、支那と「戦略的互恵関係」などと云いだしたならば、ジェット・エンジンの技術も流出しかねない。支那に対して、『中国様』なんぞと、妙ちきりんな敬語を連発するアホウが、これ以上権力の中枢に居すわれば、なにをしでかすか判らない。


 殲 20

 尖閣諸島防衛の国事よりも、自分たちの利益を、優先させる財界は、日本を危うくさせてきた。『殲 20』は、自衛隊の軍事演習で尖閣防衛の意思を鮮明にした日本などに対する、ブラフ=根拠のない脅しではあろう。軍事技術を輸出できた方が、低コストになるナンテェ与太を言っていると、低コストで易々と支那にステルス戦闘機を作らせることにもなりかねない。水面下では、日本はすでにこの技術を完成させている。

 

自民党をはじめとする野党は、仙谷のくびは何としてでも取らねばならない。
菅直人は無能故、オペレーターがいなければ動かない木偶人形。 外交でも作文の棒読みだ~
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 やはり、これからどんだけ莫迦をやるかわからない。やはりこの人も、辞めてもらわねば ポチっとお願いします。

 

 

 岩下俊三のブログ   

 岩下俊三氏は、東大闘争当時の仙谷由人をよく知る人物で、上出のブログをなさっておられる。わが郷の「仙谷由人は弁当運びの日和見主義者」などの出典は、此処である。関連記事は、http://blog.livedoor.jp/shunzo480707/archives/3041279.html#comments に投稿されている。コメント欄もあわせて読めば、仙谷の人となりが判って、興味深い。

 ネット右翼的な感覚からすれば、仙谷由人=全共闘となるのだろうが、これは正鵠を得ていない。 わが郷でも、天国と地獄  仙谷の地獄が、口をあける ですこし書いたが、全共闘運動は左翼共産主義運動ではなかった。「極左暴力集団」とは、マスコミが勝手に張った、レッテルであり真実を表していない。反サヨクそして、米国のベトナム侵略反対が、大括りできる共通の目的で、最大の成果は沖縄の施政権返還である。最近ではキルギスの政変は、暴力的なデモから始まっている。とうじの政権を転覆させている。戦後レジームのマスコミは絶対に書かないことではあるが、当時アメリカは、日本の自民党政権が転覆されるのを、現実的リアリティをもって危惧していた。それで、米軍基地は残すが施政権は日本に返還することで、反戦・反米・沖縄返還闘争のガス抜きを計った。それほど当時の反安保・ベトナム戦争反対・沖縄本土復帰闘争は、激烈であった。

 そして今の日本の課題は、その延長線上にあることを知るべきである。反安保は本当は、右翼が行うべき、最大の課題である。しかし、東京裁判において、その中心になるべき軍人や政治家はほとんどが、絞首刑になるか、その他の粛正をうけてしまった。アメリカ軍の戦後統治に於いて、右翼とくに軍人は徹底的に、弾圧された。しかし、左翼は一定程度自由が与えられていた。それで本来は、民族自立・日本再軍備とすべき、その情熱は、左翼の運動の中に紛れ込んでいった。60年安保当時の社会党や共産党は、反安保はポーズにすぎなかった。実際、日本の再軍備を真っ先に否定したのでは、日本のリアリティのある自立など、うたかたの夢であった。そのような擬制の左翼に飽き足らない、若者たちが、日本共産党や社会党を決別して、新しい戦いを生み出していった。「反帝國主義」と「反スターリズム」が思想的な潮流であった。「反スターリズム」とは、今で言えば、反サヨクである。

 「反帝國主義」と言うのがくせ者で、ここに新左翼運動の、コミンテルン的な限界があった。戦前の日本の左翼運動は、コミンテルンの強い影響下にあった。モスクワ中央からの日本への指令は、「天皇制打倒」であった。この時代後れの、フランス革命をアナロジーした命題は、アメリカをも色眼鏡で見ることとなった。「アメリカ帝國主義」っていったいナニよ、とは思う。アメリカには、帝王も国王もいない。アメリカをして日本に戦いを挑ませたものは、欧州の金融資本主義である。その背後にはユダヤの野望が隠されていた。日本の戦前・戦後の左翼運動は、このユダヤのワナにはめられて、本当の敵が見えなくなっていた。本当の敵はユダヤの金融主義であり、その手先のアメリカ政治であった。が、ユダヤは国論を分断するために、ボンボン・嬢ちゃんの自称・知識人に「共産主義」の幻想を吹き込んだ。

 であったが故に、左翼の運動はアメリカの実態がよく見えていない。アメリカは欧州・ユダヤの金融資本の出店であった。冷戦構造のなかで、アメリカの金融資本は、軍産の利益を積み重ねて、欧州を凌ぐようになった。

 

 全共闘運動は、東大の医局の待遇がどうのとかから端緒は開けたが、そのようなちいさな問題よりも、ベトナム戦争反対と、アメリカから自立できない自民党政治に対する、戦いに昇華していった。ざっと当時の様子をなぞってみれば、仙谷由人は全共闘運動にあこがれていたていどの日和見主義者であったことが判る。これは有り体に言えば、結局かれは、サヨクであったにすぎない。真に日本の自立、当時で言えば非道なベトナム戦争に対する反対、このために身を挺して戦わないものは、ポーズだけのサヨクにすぎない。当時の言葉で言えば、スターリン主義者であった。だからこそ彼、仙谷由人は「毛沢東バンザイ」などととぼけたことが言えるのだ。かれは共産主義者などとは言えない。そもそも自称で共産主義を名乗っているもののほとんどは、本当は官僚主義者である。仙谷由人も薄汚い、民主党の党官僚である。

 政治は民衆の支持を集めてナンボ。であるから詳細な理屈なんぞは、屁の役にもたたない。『自衛隊を暴力装置と言った』こういった、一般ウケすることで押しまくって、野党が参議院で、仙谷由人の問責決議を押し通したのは、正解である。

 

 いやしくも、議会民主主義を標榜する、民主党であるならば、参議院の議決は尊重せねばならない。

 自党から出た、参議院議長の西岡氏に、ああ  『 菅首相と仙谷氏を酷評「国を担う資格なし」 』  まで言われてしまった。

 

如何に厚顔無恥な菅直人でも、ここまできたら 仙谷の首をすげ替えるしかない。
ここまで追い込まれてきた。  無能で恥知らず、ザマアではある。   そう思う方
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 Francine Lecomte ♪  (※1)
フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日「フランシーヌの場合」が出来た。
 

 

 

2010 11 16 深々と頭を垂れる、勇者 保安官は清々しい 【わが郷】 
          ところで、仙谷感冒は何度も書くが、ヘタレな 『弁当運び』 である。

 

 

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小沢幹事長の迷走で、支那野戦軍は消耗戦

2010年04月28日 | 政治

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指令の命令に従わない、海軍などは「オモチャの軍隊」

☆潜水艦が浮上して、艦隊陣形☆ なんてのは、どんな海軍の教科書になら書いてあるのか。実に馬鹿げている。自衛艦に90メートルにまで接近した、危険なチュウゴク海軍のヘリコプターに関して、日本の外交筋が、支那当局に注意喚起をしたのは当然のこと。操縦の下手なパイロットが日本艦艇のマストにでも触れて、墜落でもしたら「可愛そう」の親切心から出た外交行為。それに対して 程駐日大使:「中国海軍ヘリ接近」問題視に不快感 【毎日】 とは常識が無い。4,000㍍はなれて監視していた自衛艦が近すぎて、90㍍にまで接近した支那軍のヘリは近くないというのは、子供の言い訳以下。もっとマシな言い訳ができそうなもの。、「それ以上、日本の軍艦に近づくな」と、何度も無線で指示が出ていたと海自には正確に支那軍の放埒ぶりは事実把握されていた。ヘリ異常接近は独断?…中国艦指令の命令を無視 【読売】と現場の状況はつぶさに日本国内にも、報道されている。潜水したままでは、何処へゆくか判らない潜水艦や、指令の命令に背いて道草を喰うヘリなど、まるで統制が取れていないのが、支那の海軍なのだろう。それに加えて、外交官まで国際常識の軌道を外れて、チンピラよろしく突っかかる様では、チュウゴク国民にも馬鹿にされるのがオチ。

浮上するのは、降参の意思表示 日本に手を出した国は亡びる、と云われています の記事の中に書いてあります。

 現金の魚雷攻撃で敵の政治家を沈めるのが、潜水艦「金型一番艦」の任務のハズ。それが操艦の間違いで、浮上したまま選挙戦の海域にマグレ込んでしまっています。汚沢艦長の操艦はまさしく日本人ばなれした、厚顔流なのです。検察審査会の議決では起訴が相当とされました。

目標艦はここだよの、発信器まで撃ち込まれてしまった。これでも戦線離脱しないのならば、民主党艦隊の被害は甚大です。これが韓流マスコミの推奨する「選挙の神様」なのでしょうか。これから3ヶ月が大事な実質選挙戦です。この間中、賛否両論あるいは、検察審査会の陰謀論でも云うのでしょうか。朝鮮マスコミのガンガラ、ゴロゴロのゴミの空き缶鳴らしながら、どう戦う というのでしょうか。
88式地対艦誘導弾(SSM-1)試験映像 FULL
 上図のビデオは、此処をクリックすれば見られます

 

 

検察審査会の議決 政界の反応 【NHK】

さてこれからの小沢幹事長の去就と、与党や野党の動きが見ものです。彼に批判が集中すれば、反対に自分の株価が上がるというもの。政治の世界はそうしたもので、実にえげつない本心が原動力なのでしょう。

 

フルシチョフのスターリン批判

 軍事的な覇権と、政治的な指導性から離脱し、民族独立の民主制を築こうとした戦いがありました。1956年のことですから今から半世紀以上前のことです。昭和31年の日本ではソ連との間で9月に共同宣言がおこなわれ「ソ連は平和条約締結後歯舞諸島と色丹島を引き渡す」ことが約束されました。

                                                   

脱水装置付洗濯機や自動ホップアップ型トースターが売り出され、「もはや戦後ではない」
という言葉が聞かれるようにもなりました。終戦から11年が経過して、食糧や衣料品は行き渡り、電化製品も次々と新しいものが市場に出てきています。

 

スターリンの死後3年経ったのが1956年2月のこと、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、歴史的なスターリン批判の演説をおこないました。

個人崇拝を推奨し独裁政治を行い、大粛正をおこなった悪逆のありさまを批判したのです。
特に大粛正で殺された人たちの数は、あまりにも多くその実態を知ればすべての人が戦慄します。詳しくは スターリンの大粛正 の抄出の記事紹介をご覧下さい。

 

ハンガリー動乱

フルシチョフのスターリン批判は1956年の2月です。当時も今もハンガリーは人口が1,000万人であり、日本に比べれば小国ですが、民族の歴史と誇りは負けてはいません。

ヒトラーの枢軸国がわで戦ったハンガリーはソ連軍に全土を占領され、政府はスターリンの傀儡政権に取り替えられていました。民主的な政権を作ろうと、ハンガリーの学生、労働者そして知識人がデモをおこないました。その中でソ連軍の戦車と衝突が発生してしまいました。火焔瓶やライフルでの攻撃を受けて、いったんソ連軍は撤退しました。

なにかこの構図はタイの政情不安とも、似ている部分があります。米国のアイゼンハワー大統領の周辺では、「鉄のカーテン」からハンガリーを救い出す等と言ったにもかかわらず、政変が実際に暴力的な対立の中で進み出すと、アメリカは口先だけでした。只、傍観するばかりです。そんな中で、体制を立て直したソ連側は戦車隊を押し立てて、革命騒ぎを押し潰しはじめました。

結果、10月の25日には革命騒ぎの鎮圧の大部隊が投入された。都合一千両を遥かに越える戦車と2万名以上の戦闘部隊が投入されることとなった。まさに「戦争」の配備であった。これに対して、火付け役のアメリカ、資本主義陣営では、口先だけでソ連とことを構える気配はない。これで現場では1,000名以上の革命家が命を落とし、ソ連等の制圧がわも数百名が落命しました。

支那チュウゴクの野戦軍司令官

小沢民主党幹事長は、支那の野戦軍司令官なのだそうな。中国の富裕市民や豪農の金蔵や穀物倉庫をおそって、金品を略奪するのはお手の物。しかし此処は日本国です。法と秩序の蔑(ないがし)ろにされる荒野の支那ではありません。政党助成金を盗み、ダム建設の見返りに賄賂を強要する無法は通りません。

コミンテルンのスパイや、飴ポチの多数生息する司法界は、油断がなりません。そこで新しく検察審査会の制度が作られました。そこで小沢の不起訴はまちがいで、本当は起訴が妥当との決定が下されたのです。

手放し運転の鳩山由紀夫首相はあいかわらず、政府最高責任者の指導責任を放擲したままです。巨額脱税を謀り、検察の追求を潜り抜けたずるさでは天下一品のズル夫です。すべてなりゆきまかせなのでしょう。小沢が「犯罪者」の指標をつけたまま泳ぎ回れば、参院選挙では民主党は多くの浮動票を失うでしょう。結構なことです。司法試験も通れない夜盗のアホウが執行部の長では、大きく議席を減らすのでしょう。これで売国の野望は打ち砕かれることでしょう。

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アクセスの記録  2010.04.27(火)    1368  PV     369  IP     2048 位  /  1401731ブログ

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鈴木善幸

2010年04月28日 | 政治家

政治家

鈴木善幸【政治家】1911 ~ 2004 鈴木善幸 【】

 

鈴木 善幸 (すずき ぜんこう)

1911年(明治44年) 111日 -
2004
年(平成16年)719 93

日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。

郵政大臣(第15代)、内閣官房長官(第26代)、厚生大臣(第43代)、
自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣(第48代)、
自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)などを歴任した。
(wikipedia)

 

親族 鈴木俊一 (長男)
     麻生太郎 (娘婿)


 

岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所(後の東京水産大学・現東京海洋大学)に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想と見なされた)。

大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務したのち、1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人の宏池会に所属。池田に可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる[1]。1960年第1次池田内閣の郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。

一方では地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にグリーンピアを建設したり、当初の計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、構想を発表する直前の段階で地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされるなど利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。


大平の急死[編集]

1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派、福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散(ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連の土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。

大平が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった(ただし鈴木は大平首相が緊急入院した際、暗に大平の自発的な退陣を求める発言をし、病床の大平を「浅薄な腹黒者。不謹慎極まりない」と激怒させている)。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに、大平を追い込んだ形となった河本敏夫、福田赳夫ら反主流派が名乗りを上げるのは困難だった。田中派は依然として総裁を出しにくく、暫定案として考えられていた西村副総裁も落選していた。また中曾根康弘は不信任案に反対したものの、キングメーカーであった田中角栄の信頼をまだ勝ち取っていなかった。こうして、引き続き大平派から総裁を出すのが自然な流れとなったが、首相臨時代理であった官房長官の伊東は「親友が亡くなったばかりなのに、とても首相になる気はしないよ」と固辞。派の次世代リーダー宮澤喜一は本命であったが田中から嫌われており、また大平との関係もやや疎遠だったことがマイナスに作用した。結果として大平・田中連携の要の位置にあった鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。

 

鈴木は、大平の初盆の日に、自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[2]。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある初めての自民党総裁である。

   

首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた[4]。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣である。


(「鈴木善幸内閣」「鈴木善幸改造内閣」も参照)

自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げた。財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「増税なき財政再建」を掲げた。第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな行政管理庁長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていた中曽根康弘を充てる、反主流派からも河本敏夫・中川一郎を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通の宮澤喜一を起用し伊東正義・田中六助・斎藤邦吉など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。行政改革方針は後の中曽根行革への道筋をつけることになった。

金権選挙の問題があった参議院の全国区選挙については拘束名簿式比例代表制に改めた。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。

 

 

一方で、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強い一方で、苦手だった安全保障外交を中心に度々発言を修正することがあるなど発言に隙が出た。1981年(昭和56年)5月7・8日のレーガン大統領との会談後、記者会見で「日米安保条約は軍事同盟ではない」と発言。これに宮澤喜一内閣官房長官も同調したが、伊東正義外務大臣および高島益郎外務事務次官は「軍事同盟の意味合いが含まれているのは当然だ」と反発して16日に両名とも辞表を提出し、事務次官は慰留を受けたものの外相は辞任する。18日には米軍による非核三原則に反した日本への核兵器持ち込みを認めるライシャワー元駐日米国大使の発言が報道されたが、報道を受けての取材に対し、日米安保条約の事前協議の性格について矛盾するコメントを発してしまう。また中国と韓国から戦争に関する記述に反発する歴史教科書問題に直面した際には、外交懸念を抑えるために中韓の意向を受けることになったが、後世で保守派から「鈴木首相、宮澤官房長官は事実確認を怠ったまま謝罪に走った」と激しく批判されている。

首相就任以来、一部マスコミからは直角内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。また、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ、税収減の恐れと支出削減の限界が出てきたため、増税無しでは1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。退陣1月前の1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、歳出削減と負担増の必要性を訴えている。

伊東の後任外相である園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べた。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問。

後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代の角福戦争のような怨念も絡んだ抗争が繰り広げられることはなくなった。一方、八幡和郎など、「鈴木が首相になったことは誰でも首相になれるという前例になり政治を劣化させた」と評する向きもある[5]。

 

 

 

 

 

 

2009 11 21  ロックオン わが郷

 

 

 

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鈴木宗男

2010年04月28日 | 政治家

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鈴木宗男【わが郷・政治家】1948~ 鈴木宗男 政治家

 

 

鈴木 宗男

鈴木 宗男(すずき むねお、1948年〈昭和23年〉1月31日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(8期、懲役刑確定に伴い2010年〈平成22年〉9月15日に失職)、新党大地代表。衆議院議員の鈴木貴子は長女。

かつては北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官などを歴任。地方や弱者を軽視する新自由主義経済政策を強く批判し、ニューディール政策的な公共事業発注により地方経済を回す政策を重視する。又、北海道の自立、アイヌ民族の権利の確立、雇用の確保、北方領土問題の解決等を訴えている。

鈴木宗男事件において最高裁に上告していたが、2010年9月7日付で上告が棄却され、異議申し立ても9月15日付で退けられたため実刑が確定し、議員資格を失いちょうど1年間収監された(詳細は鈴木宗男事件)。
(wikipedia)

 

 



2016 03 01  見切りを つける。 わが郷

                    2016 03 01 見切りを つける。【わが郷・政治】

2012 08 19  韓国経済を 終わらせる わが郷

野党の「新党大地・真民主」の鈴木宗男代表は、島根県が主管する「竹島の日」の行事を中央政府が主管する内容を決議案に含めるべきだと主張した。

 

2010 01 20 余裕ある日本国の防衛  わが郷

 宗男議員もそれは政治家、したたかでではある。石川議員が、元秘書の池田とかいう若いのが、何をしたかしないかなんぞは、知ったことではない。宗男氏はただ信じると言い放ちさえすれば好いだけのこと。ましてや、石川議員は同じ北海道が選挙区である。彼が失職するのは、視界に入っている。ならばその選挙区貰ったの心があっても可笑しくはない。失うモノを数えるのは素人で、得るべきものが見えるのが玄人。見上げたモノで、屋根屋でなくとも、褌はしっかり締めてある。幸運の女神の前髪、はっしと掴む様は見事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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