鈴木善幸 【】
鈴木 善幸 (すずき ぜんこう)
1911年(明治44年) 1月11日 -
2004年(平成16年)7月19日 93歳
日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。
郵政大臣(第15代)、内閣官房長官(第26代)、厚生大臣(第43代)、
自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣(第48代)、
自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)などを歴任した。
(wikipedia)
岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所(後の東京水産大学・現東京海洋大学)に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想と見なされた)。
大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務したのち、1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人の宏池会に所属。池田に可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる[1]。1960年第1次池田内閣の郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。
一方では地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にグリーンピアを建設したり、当初の計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、構想を発表する直前の段階で地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされるなど利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。
大平の急死[編集]
1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派、福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散(ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連の土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。
大平が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった(ただし鈴木は大平首相が緊急入院した際、暗に大平の自発的な退陣を求める発言をし、病床の大平を「浅薄な腹黒者。不謹慎極まりない」と激怒させている)。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに、大平を追い込んだ形となった河本敏夫、福田赳夫ら反主流派が名乗りを上げるのは困難だった。田中派は依然として総裁を出しにくく、暫定案として考えられていた西村副総裁も落選していた。また中曾根康弘は不信任案に反対したものの、キングメーカーであった田中角栄の信頼をまだ勝ち取っていなかった。こうして、引き続き大平派から総裁を出すのが自然な流れとなったが、首相臨時代理であった官房長官の伊東は「親友が亡くなったばかりなのに、とても首相になる気はしないよ」と固辞。派の次世代リーダー宮澤喜一は本命であったが田中から嫌われており、また大平との関係もやや疎遠だったことがマイナスに作用した。結果として大平・田中連携の要の位置にあった鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。
鈴木は、大平の初盆の日に、自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[2]。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある初めての自民党総裁である。
首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた[4]。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣である。
(「鈴木善幸内閣」「鈴木善幸改造内閣」も参照)
自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げた。財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「増税なき財政再建」を掲げた。第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな行政管理庁長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていた中曽根康弘を充てる、反主流派からも河本敏夫・中川一郎を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通の宮澤喜一を起用し伊東正義・田中六助・斎藤邦吉など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。行政改革方針は後の中曽根行革への道筋をつけることになった。
金権選挙の問題があった参議院の全国区選挙については拘束名簿式比例代表制に改めた。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。
一方で、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強い一方で、苦手だった安全保障外交を中心に度々発言を修正することがあるなど発言に隙が出た。1981年(昭和56年)5月7・8日のレーガン大統領との会談後、記者会見で「日米安保条約は軍事同盟ではない」と発言。これに宮澤喜一内閣官房長官も同調したが、伊東正義外務大臣および高島益郎外務事務次官は「軍事同盟の意味合いが含まれているのは当然だ」と反発して16日に両名とも辞表を提出し、事務次官は慰留を受けたものの外相は辞任する。18日には米軍による非核三原則に反した日本への核兵器持ち込みを認めるライシャワー元駐日米国大使の発言が報道されたが、報道を受けての取材に対し、日米安保条約の事前協議の性格について矛盾するコメントを発してしまう。また中国と韓国から戦争に関する記述に反発する歴史教科書問題に直面した際には、外交懸念を抑えるために中韓の意向を受けることになったが、後世で保守派から「鈴木首相、宮澤官房長官は事実確認を怠ったまま謝罪に走った」と激しく批判されている。
首相就任以来、一部マスコミからは直角内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。また、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ、税収減の恐れと支出削減の限界が出てきたため、増税無しでは1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。退陣1月前の1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、歳出削減と負担増の必要性を訴えている。
伊東の後任外相である園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べた。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問。
後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代の角福戦争のような怨念も絡んだ抗争が繰り広げられることはなくなった。一方、八幡和郎など、「鈴木が首相になったことは誰でも首相になれるという前例になり政治を劣化させた」と評する向きもある[5]。
2009 11 21 ロックオン 【わが郷】