我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

政治家は暗殺をおそれている

2010年04月11日 | 軍事

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         2010 04 11 政治家は暗殺をおそれている【わが郷】

 

カチンの森と、原爆マリア像

大統領機墜落 悲しみに包まれるポーランド 【産経】
ポーランドの大統領と中銀総裁搭乗の飛行機がロシアで墜落 【bloomberg】

先の大戦の 欧州戦線の 戦端を切ったのは、1939年9月1日。

学校の歴史の教科書によく出てくる話です。ヒトラーがポーランドに侵攻した。それが、同月17日にソ連がポーランドの東部に、侵略を開始したことは記憶に薄い。

ソ連は「労働者の祖国」と世界の、左翼思想者は信じ込まされていた。まさかその救世主が「大虐殺」を行うなどとは、あってはならぬこと。行方不明になったポーランド軍の将兵は20万人以上居たと、Wikipediaには記されている 。それが今回の追悼式関連の記事では犠牲者の数は、22,000人と書いてある。実際に発掘された 死体の数のことなのだろうか。後の九割の将兵はどこへ行ったのか。やはり土の中か。あるいは、散り散りになったのか。政府が 敵国に破壊されれば、実態は うやむやにされる。

日本の場合は 戸籍制度が整っているので、ヒロシマ・ナガサキの死者の数は、ほぼ正確に分かる。直接の死亡者は、両都市あわせて約14万人。被爆障害が原因で その後亡くなった人々も合計すれば、30万人以上である。捕虜を虐殺することは、明らかに国際法に違反したことである。非戦闘員の住み暮らす都市に原爆を投下することも、明らかに国際法の精神を逸脱している。

 

被爆マリア像“初訪米”へ NPT会議に合わせ 【長崎新聞】

ソ連のゴルバチョフは、捕虜殺害の事実を認めて、ポーランドに謝罪した。現在のロシアも同様に謝罪している。ところがアメリカは、オバマが大統領になっても変わらない。いまだに ヒロシマ・ナガサキへの謝罪は無い。

 

 

日本人の心の紐帯は消えてしまったのか

 

日本人の心と こころの つながりは 消えてしまったのか。

否、それはない。まほろばの大和の国、心の地下水は 清冽である。
これが、日本人の力の源泉。

ただ、軍事的には米国軍に占領されたままだ。
大衆報道機関も、種々に制約されている。

このような、被占領下では、

政治は ままならない。

 

ソ連の隆盛だった頃の、ポーランドは衛星国であった。
ならば、わが ふるさと日本は アメリカの何なのか。


一般国民は知ることは少ないが
政治家は暗殺を恐れている。

愛媛丸の沈没は、アメリカ潜水艦の体当たり「攻撃」によりもたらされた。
「意図」の有無は余人には知れない。只、沈没と多数の犠牲者がでたのは、事実である。一般の人は「ただの偶然」と理解させられる。政治家は「脅し」と感じる。金融のグローバリズムの詐欺話しにケチ着けたら、こわいよ。そう思ってノミの心臓 は震え上がる。


小渕総理は「株価の操作」による、恣意的な金融政策を
野菜の「カブ」を振りかざすことで、チャカしてみせた。

そして『脳梗塞』で死亡した。
脳梗塞の発症原因は、『既往症』とされた。

しかし、その死亡には様々な疑問が、提出されている。

また、小泉・竹中の時代には、<小渕 暗殺>では、どんなに検索しても 一件も記事がヒットしなかった。
なんらかの 「情報制限」 が行われていた。
これは 今となっては 史実である。支那の言論の不自由を、それほどには 嗤えない。

 

雨が降れば、河川は濁る

うるの会:解散 「普天間」県内提案に不満 【毎日】

うるの会にかわり
県内移設反対へ新組織 県関係国会議員がニライカナイの会 【沖縄タイムス】


ましてや、アメは家庭崩壊です。父ちゃんは戦争中毒の飲んだくれで、アフガンでは屋台をこわした。イラクでは、街中に火をつけてまわった。兄ちゃんは引きこもりで、仕事もあまりせず、薬漬け。家計は火の車。お母ちゃんは、困ったあげくに、偽札刷って、よそんちの本物と交換した。これが 「金融のグローバリズム」 とセレブな母ちゃんはネーミングで他人をだますのが旨かった。

世の中には、うまい話があったもので、『類は友を呼ぶ』

「うるの会」のメンバーの国民新党の下地幹郎衆院議員は、欲に目がくらんで、キャンプ・シュワブ陸上や、嘉手納統合の 県内移設案を提案してしまいました。

カネになるなら、沖縄をアメリカに売るのも、濁った政治家には、自然ななりゆきなのでしょう。これを本当の『売国』といいます。売国奴といっしょでは、「やってられない」のは当然のことです。

鳩山日本は友愛・遊覧空母で対抗か
自称 「ホンモノ ? の保守」 の人たちも、売国にかわりはありません。空港建設のキックバックで、雨の親爺とわるい酒でも飲みたいのでしょう。メチルを呑んだら目がつぶれるよ。どうりで、道理がみえません。雨の軍隊がいなくなったならば、基地外のシナチクが攻めてくるなんてヨタとばして、まるで見えていない。中古の錆びたガラクタ空母なんて実戦では使用不能。支那共産の軍備拡張は注意すべきだが、まだその実力は、日本の戦力にはるかに及ばない。核を使用するほど愚かではあるまい。しかし、共産党がそのような気配をみせれば、日本も実質公然配備となる。

テメエの女房、子供を、飲んだくれで、薬物中毒の雨の暴力団に守ってもらおうなんて、アホの極みだ。だから大事な虎の子を、換金できない雨のカブやら、なんやらと交換してしまった。まっとうな日本人なら、要所にビワの木刀ぐらいは隠してある。ましてや武士のたしなみ、槍ぐらいは備えてある。

  

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プーチン首相「北極海ガス田、来年にも開発開始する」

2010年04月11日 | 記事紹介
 

http://japanese.ruvr.ru/2010/04/18/6602201.html 

2010年4月18日配信

  記事の紹介です。

 

プーチン首相「北極海ガス田、来年にも開発開始する」


Фото: РИА Новости

☆ ロシアのプーチン首相は17日、北部のムルマンスクで地元知事と会談したなかで、北極海に位置するシュトックマンガス田の開発が来年春にもスタートすると述べた。ノーヴォスチ通信が報じた。
 シュトックマン田はムルマンスク北東沖600キロの大陸棚に位置する世界最大級の天然ガス鉱床で、埋蔵量は3億8000億㎥。国営のガスプロムがライセンスを持ち、フランスのトタルとノルウェーのスタットオイルが第1工区の開発に参画する。
 事業は13年の供給開始を見込んでいたが、金融危機に影響に加え、主力市場として期待していた米国で技術革新により国内生産量が大幅に増加し、輸入依存度が大幅に縮小。ガスプロムによる先月末の公式発表では、11年3月に投資決定する方針を確認する一方、供給開始をこれまでより3年遅い16年としていた。
 プーチン首相はこの日の会談で、「誰も実現を中止していない。来年春には投資決定し、開発はすぐ始まる」と発言。一方で「もちろんインフラを作る必要があるので、稼動までは数年かかる」と述べ、明確な運転開始時期には言及しなかった。このほか、ムルマンスク州のガス供給網整備がシュトックマン稼動後となると伝え、事業が地域経済に及ぼす影響も強調した

  記事の紹介(抄出)終わりです。

 

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  「我が郷は足日木の垂水のほとり」 はじめました。

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カチンの森事件

2010年04月11日 | 記事紹介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

 

カティンの森事件

  記事の紹介(抄出)です。

 

ポーランド人捕虜問題 [編集]

19399月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北した。ソ連の占領下に置かれたポーランド東部では、武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した[1]

ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして何度もソ連側に問い合わせを行っていたが、満足な回答は得られなかった。1941年独ソ戦勃発後にはポーランド・ソ連間で条約(en)が結ばれポーランド人捕虜は釈放され、部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1に満たなかった。ポーランド亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日にはポーランド亡命政府首相・シコルスキスターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。

捕虜の取扱い [編集]

ポーランド人捕虜はコルジェスク、スタロビエルス、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、軍隊用語で「西へ向かう」という言葉が不吉な意味を示す[要出典]ことを知っていた少数の捕虜は素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、約束通り「西へ向かい」そのまま消息不明となる。

事件の発覚 [編集]

発掘される森
遺棄された犠牲者の死体

スモレンスクの近辺グニェズドヴォでは1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置きこの情報を耳にした。1943年2月27日、ドイツ軍の中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀・ゲルスドルフ少将は「世界的な大事件になる」と思い、「国際的に通用しやすい名前」である「カティン」の名を取って「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。

  記事の紹介(抄出)終わりです。

 

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