暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

忘れないうちに読んだものをメモしておく

2005年09月30日 21時46分45秒 | 読む
今年の夏休みはあまり本を読まなくて、そのあと今までだらだらとなんやかや読み散らして、それも忘れがちなのでメモしておく。 その順番は頭に残っているままで、忘れているものも多い。 そうすると忘れたものは読んでも残っていない、ということで役に立たなかった、ということか。 読書には役に立つ、立たないではかれないこともあるので愉しみがあればいいじゃないか、ということもあるのだろうけど、その記憶もない、というところがなんともいえない。 感受性がないのかそれとももともと悪かった記憶力がうすれてきているということか、はたまた、作品が、、、だったということか。 

群像 8月号 大江健三郎 「わようなら、私の本よ!」全部 読了
   本当にひさしぶりに大江健三郎の本を読んだ。 15年ぶりかそれぐらいではないだろうか。 そのときの理由は緊張感がなくなった、おもしろくなくなった、ということなのだろう。 それで、今回はというと、おなじみの登場人物群があり、外国から戻り主人公につく建築家、教授とその関連の、世界を変える組織、人物たちの登場と行動の顛末が読むものを引っ張る力にはなっているのだろうけれど、読後、感想を書かずに放っておいて、今、薄い記憶だけに頼って書こうとすると、その印象は、私が読むのをひとまずお休みにした80年代の「河馬に噛まれる」の頃と大きな変化は無いようなのだ。 私小説にのっとって創作小説へと作る方向ははっきりしていてその努力が話の構築に現れている以上、読書界には彼の近年では大作なのだと思うがどうなのだろうか。

すばる 7月号 金原ひとみ 「AMEBIC」
    読んだことだけ覚えていて内容は忘れてしまっていたので群像の創作合評をみて思い出していた。 この人のは一作目、二作目と読んでいて二作目のものがいいと思ったのだけど、今回も話がすぐに思い出せなかったぐらいだから、印象は依然として二作目にあるのだろう。 作家とおぼしい主人公がコンピューター上の原稿、作品をめぐって、それに編集者との葛藤をからめて心理を描くというものだったのだろうけれど、これも私小説とまではいかなくても楽屋落ち、身内のはなし、的なものに加えて心理の描写が走るようで錯乱描写が面白いはずなのにどこかにいつも作家が作文しているような目を感じて入りきれなかった。 合評を読んで専門家、作家たちの評が、どんな作品だったか思い出す上で役に立つけれど喫茶店で専門化がお茶を飲みながらだべる程度だったことに、まあ批評家たちの合評というのもそんなものかと思った次第。


群像 8月号 高橋たか子 連作「墓の話」
   わたしはこの人の作品が特に近年、この10年ほど好きで読む。 ずっと以前にはオーネット・コールマン関連でこの人の「ロンリー・ウーマン」を読んだ記憶がある。けれど、近年私が惹かれるのは、私の理解不能な、けれど魅力のある神の存在、信仰をめぐっての話だからだ。 作者の創作、私小説を無視したような書き方、一途な求める心の軌跡、描写にも惹かれるのだ。 そして、大概最後のところでつきはなされるような、いづこでも同じように信仰の核の部分でおいてけぼりを喰う、というような、説明されないで堂々巡りにもどる経験をするのだ。 今回はその周辺の話とでもいうもので、比較的ゆったりと読めるものなのだろう。 といっても第一話は立ち読みのようにして飛ばし読みをしても、ああ、これはちょっとなあ、とおもったのだが、この第二話では創作、お話がうまく出来ていて落ち着いて楽しんで読むことが出来た、信仰の核心はでてこないけれど。三島や中世の生まれ変わり話、や、だれだれの魂が誰かに現れる、感じられるだの、それは決して猟奇譚というものではないが、そういう古今東西にあるものをここでは親和力とあらわしているのだろうけれど、その話とそれに加えて私がこのヨーロッパに住んであちこちで見聞きしたり経験したことに照らし合わせて納得のいくことがたくさんあったからだ。 バカンスの折には田舎でもどこでも墓場にでかけてそういうものを眺めて歩くのも楽しみであり特にそういう所では第一次大戦の存在感はどこでも強いのだからそれをこの話の中心にもってくるところで作者のキリストをもとめるヨーロッパ観察の確かさが証明されてもいるのだろう。

去年 バカンスでスウェーデンの本屋で買った英語の
The Mammoth book of Best New Erotica
ポルノである。 その中の4つ5つ。 10ページほどのものが40ほど集めてあるものでなぜ買ったのかわからないが、その中に日本を舞台にしたものが2つ3つあったからだろうと想像する。 ひとつはこちらでは珍しくて日本を神秘化する道具に加わった、危険な魚を料理の芸術として喰うという河豚を食う話を日本の心中にからめて作ったちゃちなはなし。 もうひとつは金髪の西洋人がやくざに惚れてやくざがどうこの女を扱うか、という話で、やくざは結局抗争のなかで切られて死ぬが、女のやくざに対する回想として話ができている。 調子のいい、やくざを賛美する調子である。 半玉から芸者になる頃にからむハナミ(花見)というのもあり各章がIchi,Ni,Sanと切られているがこれもテレビのドラマにポルノがはいったものでいづれも日本へのイメージが従来のものから出る気配は一切無く、ポルノにそんなものを求めるほうがおかどちがいなのだが、世界の保守てきなところでは偏見の再生産がたえまなく続いていることを確認させられるだけでも役に立つ。 そういう意味では署名なしで量産したというブコウスキーのポルノがあればいいのだけど、無名なのだから無理な話。 わたしはWomenというのでブコウスキーを読み始めたのだから。

Penguin Books Iris Murdoch The Philosopher's Pupil (1983)
この人のものはほとんど読んだのではないか、ほとんどどんなものだったのか忘れたけれど。 何年か前このひとの最期のころを伝記映画にしたものも観た。 この作はここ何年もバカンスのときだけ持っていって少しづつ読んでいたのだ。 だから、始めるときは前年のバカンスのことを思い出し、20ページほど後戻りして始めるのだが、今回最期の100ページぐらいを読んだのだが、その後うちに戻って、机の上に乗っているのを見て未読だと勘違いして読み進むうちにどこかで読んだことがあるような気がしたのだがしかし、その続きが思い出せなくて最期まで行った、という話だ。 一貫してこの人のものを読もうと思ったのは中年以降の登場人物たちの内面のおぼつかなさ、不安定さ、世界に対する思い込みや問題解決のまぬけさに惹かれるからであり、ときには哄笑するような場面が突然現れるからだ。 94年2月のレシートがはさんだままの次の本が手付かずのままである。 Metaphysics as a Guide to Morals (1992)


この項続く

無力感とぼやき、それに続くドンヨリとした怒り

2005年09月30日 19時47分14秒 | 日常
以下はぼやきだから、読者諸君、いい気分にならないのでそのつもりを。
読む意味はありません。読後の教訓もなく、私の単なるうっぷんのはけ口なので他に用事があればそれを先ず済ませることをお勧めします。

ああ、考えるのもいやだし、おぞましいのだが、機械に依存する、管理が自分で出来ない、ということの無力さを感じて胸の中が苦々しいもので一杯になっているのが今の状況だ。

昨日の夜、調子よく他のブログやメールを楽しんでいたのだが、夜中にちょっとお茶でもと下の台所に降りてテレビを見て、1時間ほどしてから上に戻ってみるとインターネットがつながらない。 夜中だ。 息子を起こすわけには行かないし、子供たちが無茶なことをして掻き回した形跡もない。 だから、プロバイダーか私のせいだ、これは。 それとも機械がわけのわからない気まぐれをおこしたのか。 1週間ほど前にうちのLANのシステムを新しくしたばかりなのだ。新しいというのは便利ということには必ずしもつながらない。 そのことに腹をたてているのだ。

技術の進歩は着実なもので3,4年前にひとつサーバーを置いてLANのシステムを作ればよいと知人の勧めで、同時に自分、家内、子供たちが勝手にそれぞれ自室で使えるようなものを作り、半年に一度程度、知人に来てもらうような故障や不都合はあったものの、そんなものかと受け入れていた。

使いすぎなのだという、知人は。 子供もあんたも、と。 だから、子供は遊びほうけて何やら子供目当てのスパムをどんどん入れてMP3とかいうのもたくさんダウンロードして、ハードディスクがヴィールスに感染されてますな、言っておいた通りには定期的にフィルターを更新していないようだし、みなさん整理できない人たちばかりのようですな、と。 おまけに電源系統の機械もがたがただから、この際、新しいのにしたら、とも。 それで、全部ハードディスクを更にしてやりかえ、コンピューター本体1台分のサーバーも最近はいらなくなったから、ルーターという小さいチョコレートボンボンの箱のようなものになり、いらなくなったサーバーのHDは今、掃除、整理中である。 さて、ここまでの私の反応は、うん、へえ、それで、わかった、じゃあ、そうしてくれる、だった。  さっぱり分からない。

5年ぐらい前までは何とか、マニュアルを開いて、言われるままに、みようみまねで、ははあ、この問題はこれが原因なのだろうな、だから、こうすればいいのだろう、と、細かいことは分からないままにも知人のそばで修理の状況を追うことが出来たけれど、今はもうそれもおぼつかないことを骨身に沁みて確認させられた。

ここで問題はいくつかある。 私、個人に帰するものか、それとも技術の進歩がもたらす便利さをささえる複雑さの深化、ということ。  何か話が大きくなっている。 それを論じる知識も経験もないのだが、経験で言うと、本当はこれもきっちり分けて考えなければならないのだろうが、進歩しつつある技術には基づいていない世界では、例えば職人やスポーツといったような世界では、経験が深まるにつれて問題解決の方法なりその時間が短くなったり易しくなったりするはずでその経験が尊重されるから皆それに向かって努力するわけだけれど、この世界ではいっこうそうではないような気がする。 現におおかた20年近くコンピューターを使って仕事をしたり、一番怠惰な使用者ではあるのだが、それなりに経験があるのに一向に自分で問題の解決へのアプローチが見えてこないか、逆に複雑怪奇になってきているような気分になるのだ。

そこで、若い諸君が、そら、おじんが何かほざいている、という声がきこえるのだが、諸君、君らの遠い未来にこうならないことをも願ってのぼやきなのでもあるのだということも胸に銘記しておいて欲しい。 若い諸君もそれぞれにある時点で原理なり仕組み、問題解決の方法をマニュアルとして機械を自在に操る自信を育てて来たに違いない。 機械が好きなら言うことはないのだ。 誰もがそうだとは限らない。 わたしは出来るだけこういうものから離れたいと思っている、といっても、使わない、ということではないのだ。 毎日使ってその恩恵を最大限享受したいのだけれど、補修保全には最小のエネルギーで済ませたい、と望むものだ。 大抵がそう望んでいるに違いない。 そして、技術というのはその方向に沿っているのだという信仰、ともいうべき俗信がある。 けれど、というべきかそして、というべきか、肝心な部分は多分、よっぽどのマニアをのぞいてはヘルプデスクや店と連絡して修理、買い換える、特に、この買い換える、という方向なのではないかと想像する。

買い換える、多分、最終的にはそうなのだろうが、そこまでにはある程度の自己救済なり、その方法をさぐることができなければ、と頭の中でもごもごとつぶやくものがいる。 自己救済というのが多分世界中の教育の過程でそれぞれの頭の中に植えつけられる中心的課題なのだろうが、それに沿って救済したいと念じても世界はどんどん遠ざかるような感じをもつ、ここでは。 第三世界で救いを求めて無力感におそわれている人間たちのことに比べるのにはあまりにもおこがましいかもしれないけれど、世界とつながらない、その方法、知識、技術に欠けることに対しての絶望は私のうちにもある。

この2ヶ月ほどほとんど家のシステムがダウンしてバカンスの時期でもあり、新しいものを1週間ほど前に設置したのだが、機械自体新しい環境に慣れていないからまだ穴がたくさんある、そういうものはあんたたちでは無理だね、との返事にがっくりした。 それじゃあ、まあ、ルーターの小箱の電源を一度切って元に戻してみたらと言われたのでそれをやってみたらそれだけのことであっけなく戻って、今、ことことこれを打っている。しかし、それは簡単なことではないのだと説明される。 なぜ、接続が落ちたか、ということには想像もつかないたくさんの様々な要因があって、それには素人の知識だけでは不十分なのだという、マニュアルないの、という質問にはあるけどあんた読む時間も辛抱もないでしょ、と言われた。

辛抱も時間もそれはそうする価値があるかどうかにかかっていて目の前の必要、それも本来はしなくてもいい必要なり、自分の本来の持ち場ではないことをむりやりやらされることにうんざりするのだ。 

教訓めいた、大山鳴動して鼠一匹、という形ではあるけれど鼠など出ていないし、鼠に見えるものは我々が飼いならされ弄ばれている解決策というものの幻影なのだ。

腹が立つからプールにでもでかけて泳いでこようと時計を見るとすでに年寄り向けの時間は過ぎていた。 今、行けば子供たちで一杯で泳げるスペースはない。

そういうことなのだ。 いらぬことで腹を立て、時間が流れていく。

Thu. 29-09-05  鶏肉の大蒜生姜醤油焼き

2005年09月30日 03時52分44秒 | 喰う
鶏肉の大蒜生姜醤油焼き


朝、昼  鱈の小片から揚げ
     炭酸水 350cc


夕    鶏肉の大蒜生姜醤油焼き
     野菜のソテー(にんじん、いんげん、たまねぎ、キャベツ、パプリカ)
     サラダ菜の若芽のミックスサラダ
     白米
     炭酸水

     ヨーグルトの西洋梨の煮物入り

     コーヒー 250cc
     クッキー

晩    フルーツジュース  400cc