暇つぶし日記

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モンスター  (2003);観た映画、 Apr. '11

2011年04月28日 22時45分03秒 | 見る
モンスター(2003)

原題; MONSTER

109分

監督: パティ・ジェンキンス
脚本: パティ・ジェンキンス
撮影: スティーヴン・バーンスタイン
音楽: BT

出演:
シャーリーズ・セロン   アイリーン・ウォーノス
クリスティナ・リッチ    セルビー・ウォール
ブルース・ダーン     トーマス
スコット・ウィルソン
プルイット・テイラー・ヴィンス
リー・ターゲセン
アニー・コーレイ
マルコ・セント・ジョン
ババ・ベイカー

アメリカ犯罪史上初の女性連続殺人犯として人々を震撼させたアイリーン・ウォーノスの真実の姿に迫る衝撃の実録サスペンス・ドラマ。ハリウッドを代表する美人女優シャーリーズ・セロンが13キロもの体重増加を敢行するなど体当たりでアイリーンを熱演、みごとアカデミー主演女優賞に輝いた。共演は「スリーピー・ホロウ」のクリスティナ・リッチ。監督は本作が長編デビューとなる女性監督パティ・ジェンキンス。

1986年、フロリダ。ヒッチハイクをしながら男に身体を売る生活に疲れ果て、自殺する覚悟を固めたアイリーン・ウォーノス。有り金の5ドルを使い果たそうと飛び込んだバーで、彼女は一人の女性セルビーと運命的な出会いを果たす。同性愛の治療を強制されフロリダにやってきたセルビーもまた自分と同じように社会からの疎外感を抱いて生きていた。初めて自分を偏見なく受け入れてくれる人物と出会ったと感じたアイリーンは、“一緒に暮らそう”と提案する。しかしそのためにお金が必要になった彼女は、再び客を取るため道路脇に立つのだったが…。

上記が映画データベースの記述である。

本作を観ようと思ったのは二ヶ月ほど前にシャーリーズ・セロンがトミー・リー・ジョーンズと共演した「告発のとき IN THE VALLEY OF ELAH(2007)」をテレビで観てそれまでに彼女がキアヌ・リーヴスの妻、アル・パチーノ主演の「ディアボロス/悪魔の扉 THE DEVIL'S ADVOCATE(1997)」の中で精神を蝕まれていく様子に惹かれていたという事もあり彼女の経歴を読んだときに本作のことが紹介されていたからすぐアマゾンコムで3ドルほどのDVDを取り寄せたのだったが、届いたものを見たらDVD本体の表にはちゃんとプリントがあるもののあとは何もないごく薄く黒いプラスチックだけに包まれたもので、それは正式にコピーされたものではないことが明らかだった。 考えてみるとそれは本作にふさわしい梱包、セッティングでもあり、そのままにしておいたのはなかなかまともに観る覚悟がなかったこともあるけれど、今観た後では観る方にも演る方にも覚悟のいる作品だとの感想を持った。 それはサイダーハウス・ルール(1999)でも一端は窺われるけれども大元は典型的なアメリカン・ビューティーである主演女優が本作では大きく皮を剥いて実力をつけた役者になるものだった。 男優ではスコセージ監督の「レイジング・ブル」でデ・ニーロが体形を変え、また徐々にミッキー・ロークがイケメンからプロレスラーにもなり最近では映画でそれを演じ実生活でもそれに近いような形になっている類型に分類されるのだろうが、多分、セロンはデ・ニーロのように歳を経つつ様々な役をこれからも演じるようになるのだろうがロークのようにはならないだろう。 ここでは肉体の形状の大幅な変化がどのような性格、演技に結実するかについて比較しているのだがセロンは女性でありまた美人であるから男優に比べてそのリスクは大きいに違いない。 

モンスターというのは当たっているのだろうがそのモンスターの中にあるものを暖かく見せるのは脚本を書き監督した同性のパティ・ジェンキンスの意図だろう。 ストーリーは「テルマ&ルイーズ THELMA & LOUISE(1991)」に似ていなくも無いが本作のほうが厳しく、その中に暖かさが感じられるのは女性の眼ということもあるのだろうか。 それは「ボーイズ・ドント・クライ  BOYS DON'T CRY(1999)」でも監督が示す視線に類似する。 これらの中で示される性に関して本作ではあからさまな性は大きくあるものの、だからこそ性から疎外された者の求めるものが一層明白かつ切実にに浮かび上がり、その切羽詰った結果が数多の取り返しがつかない犯罪に交錯し重い現実となり、そうなると物語の行き着く先は中盤以降誰の眼にも明らかになるだろう。

短い出演ながら「孫ができるんだ」と言いながら去るスコット・ウィルソンにしても「帰郷 COMING HOME(1978)」でジェーン・フォンダ、ジョン・ヴォイトと並んで深く印象付けられたブルース・ダーンの渋い脇役の演技がここでも本作に深みを与えていることは確かだ。

それにしても銃社会ということの問題がここでも見えている。 銃が無ければ主人公がそのように終らなかったかというとその可能性は低かっただろうと思われるものの、そこに至る段階で幼児虐待、家庭内暴力、家庭崩壊、その後一人で生きていく上で体を売り、若くして人生に絶望という構図は世界に存在するし、その結果が引き金を引かせるとも受け取れるのだ。 肉の性ではプロでありそこでは様々な男の獣性から自分を守る上で自分を守る何かしらが必要なのは現実だ。 銃でなくとも他の武器も利用されるし、そのような職業の女性の小さなバッグには片手に入るほどの「護身」用のものを潜ませてあるのはこれもアメリカ社会での現実のようだ。 そこでどのような状況でそれが使用されるのか、ということに対して本作ではそのヴァリエーションが見せられる。 それに、絶望的に世間に対抗する手段として主人公は女性護身用ポケットガンを用いるのではなく女性のものとしてはダーティーハリーのS&W 45口径に匹敵するような錆びたS&W 32口径リボルバーを使うことで荒涼たる彼女のワイルドウエストを辿るえものとしているように見える。 外敵から自分の娘を守るために父親が掴んで外を窺うときに手にあるのも自動拳銃であり銃は日常にあるようだ。 その中で生活するにあたり、銃が危険であるゆえに銃をまわりにおかない、という態度は勇気あるものだと称えられていいだろう。 

自分が守るべき者、自分を頼る者が出来たときに主人公が生き始めそこで見せる筋肉性(マチズモ)と女性の柔らかさ、デリカシーの交錯の具合が本作で主人公に寄り添う監督の、新聞的事実に対照する映画の領域と見ているのだろうと思う。 数多く示される主人公の素肌のアップは男性監督には見えない女性の強さを見せているのかも知れず、それにそれは果敢に取り組む女優の強さとも共振しているようでもある。