暇つぶし日記

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終着駅 トルストイ最後の旅  (2009);観た映画、Apr '11

2011年04月07日 18時14分02秒 | 見る
終着駅 トルストイ最後の旅   (2009)

原題; THE LAST STATION

112分

製作国 ドイツ/ロシア

惹句; 大作家と“世界三大悪妻”と名高い妻ソフィヤとの知られざる愛の物語。

監督: マイケル・ホフマン
製作: クリス・カーリング  イェンス・モイラー  ボニー・アーノルド
製作総指揮: アンドレイ・コンチャロフスキー
       フィル・ロバートソン
       ジュディ・トッセル
       ロビー・リトル
原作  ジェイ・パリーニ著 『終着駅-トルストイ最後の旅-』(新潮文庫刊/旧題『終着駅 トルストイの死の謎』)
脚本: マイケル・ホフマン

出演:
ヘレン・ミレン      ソフィヤ・トルストイ
クリストファー・プラマー  レフ・トルストイ
ジェームズ・マカヴォイ  ワレンチン
ポール・ジアマッティ   チェルトコフ
アンヌ=マリー・ダフ   サーシャ・トルストイ
ケリー・コンドン     マーシャ
ジョン・セッションズ   ダシャン
パトリック・ケネディ    セルゲンコ

『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などのロシアの文豪レフ・トルストイの晩年を映画化した伝記ドラマ。自らの財産をめぐってトルストイ主義者と呼ばれる信奉者たちと激しく対立していく妻ソフィヤに辟易しながらも、長年連れ添った夫婦ならではの決して一筋縄ではいかない愛の形を、秘書として新たに派遣されてきた理想主義の青年の視点からユーモアを織り交ぜ感動的に綴る。出演はトルストイ役に「インサイダー」のクリストファー・プラマー、その妻ソフィヤに「クィーン」のヘレン・ミレン、そして若い秘書ワレンチンに「つぐない」のジェームズ・マカヴォイ。監督は「ソープディッシュ」「卒業の朝」のマイケル・ホフマン。

ロシアの文豪レフ・トルストイの許には、彼の自然主義的思想を信奉するトルストイ主義者が集い、共同生活を送っていた。トルストイも彼らの活動を積極的に支援し、ついには“遺産は全てロシア国民のために使う”という新たな遺言への署名にも同意する。ところが、50年近くも連れ添い、夫を献身的に支えてきたソフィヤにとっては寝耳に水の話。家族のための遺産を手放してなるものかと、必死の行動に出る。それは、夫婦の間に深い溝を作ってしまう。そんな中、新たな個人秘書として憧れの文豪のもとにやって来た青年ワレンチン。少々世間知らずながら、その誠実さでトルストイ、ソフィヤ両方から信頼され、2人のありのままの姿に接していくことに。そうして、愛の理想を謳い上げるトルストイが抱えるままならない愛の現実に困惑してしまう。さらに、トルストイ主義者の奔放な女性マーシャに心奪われ、ますます理想と現実の狭間で混乱を深めていくワレンチンだったが…。

上記が映画データベースの記述だ。

それに加えてネットで丁寧な感想を下のようにみた。

http://www.cinemaonline.jp/review/go/12832.html


昼間にベルギーで95年続いているベルギー・フランダース地方を200kmほど走る自転車レースをみて何ともそのレース中の情報の伝達の仕方にこの30年ほどのライブ・スポーツ番組の進歩、選手個人、そのチームの動向を隅々まで探り伝えようとするのを、その美しい山や畑、町並の中を走る選手達と沿道を映す何台ものオートバイ、地上の固定カメラ、空中のヘリコプターの映像を交えて後半100kmほどを観た中で感心したのだった。 それがその何時間も後の夕食後、本作が放映されるテレビ番組に先立つ100年前にも当時としては情報伝達のハイテク情報の様子が本作に関係するフィルムとして固定されているドキュメントを見て人の興味の動向は変わらないと感心した。

終着駅、クリストファー・プラマー、ヘレン・ミレン で2009年製のものだというからテレビガイドで詳しい内容も見ないで始まる10分ほど前にBBCテレビの第1局をつけたらそこではトルストイの伝記を当時のフィルムをたくさん交えて語る番組が終わるところだった。 日本文学の黎明も多くロシア文学に拠っているのは承知しており、この文豪が現在日本文学の上では多分文学史の中だけのほとんど大衆には読まれない名前だけの過去の人であることも承知していて、それならこういう作品は現在文学で奮闘しているロシア語に堪能な島田雅彦などが日本版でコメントを入れればおもしろいだろうとも思った。 

私事、高校の頃ガールフレンドとのデートで観た映画がソ連制作、封切り後の「戦争と平和」であり、やたらと壮大でエキストラがふんだんに使える国の映画というのはこういうものかというほどしかそれには感慨ももてず、チェーホフ、ツルゲーネフ等の短編に高校の頃教科書、副読本で接し、またドフトエスキーなどの巨人の名声もすこしは齧っていて、その後の濫読の中でトルストイは一筋縄ではいかないとそのままにしていた半可通以下の者には興味がある映画だ。

つまるところ、革命以前と革命中、革命後の歴史の辻褄あわせの一こまということなのだろうか。

それも跡付けの知恵、現エリザベス女王を演じて名声を確かにしたミレンと同じく、高校の頃デートで観た「サウンド オブ ミュージック (1964)」のフォン トラップ大佐、その後70年代、80年代で戦争映画、90年代からこちらスパイ映画などで落ち着いた役を果たしていた人が絡む映画だから現代映画ならどんなものだろうと思っていたものが始めの字幕でトルストイの晩年の数年に亘る作だと知り、煎じ詰めると周りを彩るそれぞれの「愛」を巡る話だろうだと気付いたのは初めから半時間ほど経ってからのことだった。 

世界三大悪妻のことなどもしらず、それまでにトルストイは妻との確執はあったことは知識としては薄々あったものの、あと二人は誰かと言われるともう一人はソクラテスの妻だとは薄々分かるもののもう一人はだれか、日本を含むとすれば日野富子あたりかと想像するぐらいなもので歴史をからめた男女の仲、世間の評などはどうにでもなることでそれがどうしたとこちらには知ったことではない。 それも今ではロシア革命前後を巡る中でそれぞれの信条と意見、算段が複雑に絡むと本作の切り口には「愛」は受け入れやすいものだ。 作中、ミレンに向かって自己の資産だけに固執し社会主義を否定するような態度ならアメリカへ行け、というような台詞があり、それを結局は擁護する体制の映画としては他の要素を「愛」だけに包み込む構造は現在の幾分か綻びの見えるパックス・アメリカーナ体制下の諸国ではまだ、というか世界がこの30年ほどより保守化しつつある現在、興行上には説得力を持つ作品だろう。

凡百の伝記映画にあるように主要人物の間に入る若者の目を通して描くのは無難なものだ。 その若者が後年著した三冊の著書のうち本作は「トルストイの晩年」というものを上記の文庫作者も引いているのは確かでプラマーが主役であるにもかかわらず映画ではミレンが第一にクレジットされているというような序列にも原作か本作制作の意図が表れているようだ。 ミレンは贔屓の俳優だから彼女のソフィアに相応する年齢の演技には充分親和性を持つものの原作を未読のものには本作物語は多少、藪の中の感をもたないでもない。 それに古い写真やフィルムにみる実のソフィアとミレンの動く姿をみるとミレンのほうに親和力が向くことでも制作意図は成功しているのではないか。

持つものと持たざるものの、それを承知した老作家と愛を周りに奪われたとする妻の確執である。 主治医、第一の弟子チェルトコフの動向が作家の名声に決定的であるのは確かだが、妻からは壁にかける夫婦の写真の場所にチェルトコフの写真がかかっていることでそれをベルギー製ナガン・リボルバーと思しい拳銃でで撃ち壊すことが最期の旅に出る契機になっているのだがチェルトコフが設定した森の中で著作権を革命政府に譲渡するという場面でのシーンも本作を観る人間に人民へ、というその時代の思想性に対する評価をもとめるものでもあるだろう。 先日、観たトルーマン・カポーティを題材にした「Infamouse (2006)」のなかで冒頭歌われる「What Is This Thing Called Love ;邦題 恋とは一体なんでしょう」のラブも愛と訳されることでもありトルストイとソフィアの間にもそのような駆け引きがあったのだろうかと想像もそこに向かうようだ。


ウィキペディア; トルストイの項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4

日本人で生前トルストイに面会した文学者がいて、それが二葉亭四迷だと長らく思っていたものが今回上記のサイトで徳富蘇峰、蘆花の兄弟だったと知った。 二葉亭は森鴎外や国木田独歩の露訳をしたもののトルストイの没年二年前にヨーロッパで客死したということらしい。

放っておいたら庭が野草だらけになってしまった

2011年04月07日 02時44分06秒 | 日常

生来のモノグサと怠惰がお手玉をして遊んでいる間に寒さも過ぎて急に20℃を越す上天気になっていた。 今の時期の平均気温は10℃前後だというのにそんなものだから裏庭を改めて見たらそこにはたくさんの今まで見たことの無いような細い茎に細かく白い花をたくさん付けた雑草の厚さ15cmほどのカーペットがあった。

モノグサなくせに夏の午後芝生の上に寝転んでだれにも邪魔されずに読書するのがこの20年来の夢だった。 夢というのは実現すればいいのだがそれは暫しは夢に長く留まるようで、それが実現しても長く続くということが肝要で、それも子供達が生まれ自分の忙しさにかまけて自分以外の家族メンバーに主に占領されているこの15年ぐらいがやっと子供達が家を出て自分の番が来たと思っても結局はそんなことがあるのが年に3,4回あるかどうかという庭である。 

一番の大敵はタンポポでこれは見るとすぐ細長いショベルで抜く。 年に一、二度は芝生用の肥料を撒いて夏のカラカラに乾く宵には前庭、裏庭と40分ほど耳にはジャズのヘッドホーンをつけホースでゆっくり水を撒くことを何日かおきにする。 去年の夏は寒冷で3週間バカンスで家を離れて戻って来ても暑さで枯れたりはせず深緑で長く牛達が喜びそうな葉が踝以上まで伸びていてその後宵にもホースを手にすることは無く、水道代も僅かでも節約できたとよろこんだのだが、寒い冬が11月から12月にかけてこの100年来かというようにあったからこれで地面の様子が変わってきたのだろうか。 何年も同じようにやってタンポポが駆除されたと思えば他のものが繁殖し始めるようで、地面に這うこまかな葉ものがこの3年ほど覆っている。 これは芝生が伸びるにしたがって共存する様子なのだがこの2週間ほどは何かひょろひょろと伸びるものがあってそれが高空からみるサランゲッティ国立公園のサバンナに生える潅木の体を示し始め、ついに今花を咲かせ始めたということだ。 雑草なのだが可憐で駆除するのは惜しい気もするのだがちゃんと芝生だけの暫しの緑のカーペットを6月から9月まで保ちたいと思うのだから明日あたりは思い腰を上げて庭仕事をしなければならないかもしれない。 かもしれない、なのだ。 ま、それは明日のこと。

前庭にはここに越してきて以来勝手に伸び始め今は12,3mを越すどんぐりの木があってこの2年ほど家人から低いレンガの壁から歩道まで根が張って盛り上がり果ては壁も地面も破損するから幹の直径が30cmになる前に切ってくれと言われているのだがそれにもあまり気が進まない。 これも秋にはどんぐりの実を下にどっさり落とし、芝生の間からたくさんどんぐりの木ジュニアを生やすのだ。 見つけ次第つまみ出すのだがこれもイタチゴッコだから厄介者なのだがそれでもこのどんぐりの木には少々の愛着もなくはない。 

この間消防夫である甥の誕生パーティーに夫婦揃って出かけたらそれまで私のモノグサ、怠惰のタッグマッチに業を煮やした家人が甥の若い力と消防機材で午後だけで木を倒し根まで駆除する段取りをつけていた。 もう50年も咲いている前庭のバラもこの何年も剪定を誤った結果ほぼ枯らしてしまっているからあと2,3年でまた何とかしなければならないだろう。 ものぐさ・怠惰なアームチェアー・ガードナーにはハル・アシュビー監督映画「チャンス 原題;BEING THERE  (1979)」でピーター・クルーゾー警部・セラーズ演じるチャンス・ガーデナーが必要のようだ。