終着駅 トルストイ最後の旅 (2009)
原題; THE LAST STATION
112分
製作国 ドイツ/ロシア
惹句; 大作家と“世界三大悪妻”と名高い妻ソフィヤとの知られざる愛の物語。
監督: マイケル・ホフマン
製作: クリス・カーリング イェンス・モイラー ボニー・アーノルド
製作総指揮: アンドレイ・コンチャロフスキー
フィル・ロバートソン
ジュディ・トッセル
ロビー・リトル
原作 ジェイ・パリーニ著 『終着駅-トルストイ最後の旅-』(新潮文庫刊/旧題『終着駅 トルストイの死の謎』)
脚本: マイケル・ホフマン
出演:
ヘレン・ミレン ソフィヤ・トルストイ
クリストファー・プラマー レフ・トルストイ
ジェームズ・マカヴォイ ワレンチン
ポール・ジアマッティ チェルトコフ
アンヌ=マリー・ダフ サーシャ・トルストイ
ケリー・コンドン マーシャ
ジョン・セッションズ ダシャン
パトリック・ケネディ セルゲンコ
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などのロシアの文豪レフ・トルストイの晩年を映画化した伝記ドラマ。自らの財産をめぐってトルストイ主義者と呼ばれる信奉者たちと激しく対立していく妻ソフィヤに辟易しながらも、長年連れ添った夫婦ならではの決して一筋縄ではいかない愛の形を、秘書として新たに派遣されてきた理想主義の青年の視点からユーモアを織り交ぜ感動的に綴る。出演はトルストイ役に「インサイダー」のクリストファー・プラマー、その妻ソフィヤに「クィーン」のヘレン・ミレン、そして若い秘書ワレンチンに「つぐない」のジェームズ・マカヴォイ。監督は「ソープディッシュ」「卒業の朝」のマイケル・ホフマン。
ロシアの文豪レフ・トルストイの許には、彼の自然主義的思想を信奉するトルストイ主義者が集い、共同生活を送っていた。トルストイも彼らの活動を積極的に支援し、ついには“遺産は全てロシア国民のために使う”という新たな遺言への署名にも同意する。ところが、50年近くも連れ添い、夫を献身的に支えてきたソフィヤにとっては寝耳に水の話。家族のための遺産を手放してなるものかと、必死の行動に出る。それは、夫婦の間に深い溝を作ってしまう。そんな中、新たな個人秘書として憧れの文豪のもとにやって来た青年ワレンチン。少々世間知らずながら、その誠実さでトルストイ、ソフィヤ両方から信頼され、2人のありのままの姿に接していくことに。そうして、愛の理想を謳い上げるトルストイが抱えるままならない愛の現実に困惑してしまう。さらに、トルストイ主義者の奔放な女性マーシャに心奪われ、ますます理想と現実の狭間で混乱を深めていくワレンチンだったが…。
上記が映画データベースの記述だ。
それに加えてネットで丁寧な感想を下のようにみた。
http://www.cinemaonline.jp/review/go/12832.html
昼間にベルギーで95年続いているベルギー・フランダース地方を200kmほど走る自転車レースをみて何ともそのレース中の情報の伝達の仕方にこの30年ほどのライブ・スポーツ番組の進歩、選手個人、そのチームの動向を隅々まで探り伝えようとするのを、その美しい山や畑、町並の中を走る選手達と沿道を映す何台ものオートバイ、地上の固定カメラ、空中のヘリコプターの映像を交えて後半100kmほどを観た中で感心したのだった。 それがその何時間も後の夕食後、本作が放映されるテレビ番組に先立つ100年前にも当時としては情報伝達のハイテク情報の様子が本作に関係するフィルムとして固定されているドキュメントを見て人の興味の動向は変わらないと感心した。
終着駅、クリストファー・プラマー、ヘレン・ミレン で2009年製のものだというからテレビガイドで詳しい内容も見ないで始まる10分ほど前にBBCテレビの第1局をつけたらそこではトルストイの伝記を当時のフィルムをたくさん交えて語る番組が終わるところだった。 日本文学の黎明も多くロシア文学に拠っているのは承知しており、この文豪が現在日本文学の上では多分文学史の中だけのほとんど大衆には読まれない名前だけの過去の人であることも承知していて、それならこういう作品は現在文学で奮闘しているロシア語に堪能な島田雅彦などが日本版でコメントを入れればおもしろいだろうとも思った。
私事、高校の頃ガールフレンドとのデートで観た映画がソ連制作、封切り後の「戦争と平和」であり、やたらと壮大でエキストラがふんだんに使える国の映画というのはこういうものかというほどしかそれには感慨ももてず、チェーホフ、ツルゲーネフ等の短編に高校の頃教科書、副読本で接し、またドフトエスキーなどの巨人の名声もすこしは齧っていて、その後の濫読の中でトルストイは一筋縄ではいかないとそのままにしていた半可通以下の者には興味がある映画だ。
つまるところ、革命以前と革命中、革命後の歴史の辻褄あわせの一こまということなのだろうか。
それも跡付けの知恵、現エリザベス女王を演じて名声を確かにしたミレンと同じく、高校の頃デートで観た「サウンド オブ ミュージック (1964)」のフォン トラップ大佐、その後70年代、80年代で戦争映画、90年代からこちらスパイ映画などで落ち着いた役を果たしていた人が絡む映画だから現代映画ならどんなものだろうと思っていたものが始めの字幕でトルストイの晩年の数年に亘る作だと知り、煎じ詰めると周りを彩るそれぞれの「愛」を巡る話だろうだと気付いたのは初めから半時間ほど経ってからのことだった。
世界三大悪妻のことなどもしらず、それまでにトルストイは妻との確執はあったことは知識としては薄々あったものの、あと二人は誰かと言われるともう一人はソクラテスの妻だとは薄々分かるもののもう一人はだれか、日本を含むとすれば日野富子あたりかと想像するぐらいなもので歴史をからめた男女の仲、世間の評などはどうにでもなることでそれがどうしたとこちらには知ったことではない。 それも今ではロシア革命前後を巡る中でそれぞれの信条と意見、算段が複雑に絡むと本作の切り口には「愛」は受け入れやすいものだ。 作中、ミレンに向かって自己の資産だけに固執し社会主義を否定するような態度ならアメリカへ行け、というような台詞があり、それを結局は擁護する体制の映画としては他の要素を「愛」だけに包み込む構造は現在の幾分か綻びの見えるパックス・アメリカーナ体制下の諸国ではまだ、というか世界がこの30年ほどより保守化しつつある現在、興行上には説得力を持つ作品だろう。
凡百の伝記映画にあるように主要人物の間に入る若者の目を通して描くのは無難なものだ。 その若者が後年著した三冊の著書のうち本作は「トルストイの晩年」というものを上記の文庫作者も引いているのは確かでプラマーが主役であるにもかかわらず映画ではミレンが第一にクレジットされているというような序列にも原作か本作制作の意図が表れているようだ。 ミレンは贔屓の俳優だから彼女のソフィアに相応する年齢の演技には充分親和性を持つものの原作を未読のものには本作物語は多少、藪の中の感をもたないでもない。 それに古い写真やフィルムにみる実のソフィアとミレンの動く姿をみるとミレンのほうに親和力が向くことでも制作意図は成功しているのではないか。
持つものと持たざるものの、それを承知した老作家と愛を周りに奪われたとする妻の確執である。 主治医、第一の弟子チェルトコフの動向が作家の名声に決定的であるのは確かだが、妻からは壁にかける夫婦の写真の場所にチェルトコフの写真がかかっていることでそれをベルギー製ナガン・リボルバーと思しい拳銃でで撃ち壊すことが最期の旅に出る契機になっているのだがチェルトコフが設定した森の中で著作権を革命政府に譲渡するという場面でのシーンも本作を観る人間に人民へ、というその時代の思想性に対する評価をもとめるものでもあるだろう。 先日、観たトルーマン・カポーティを題材にした「Infamouse (2006)」のなかで冒頭歌われる「What Is This Thing Called Love ;邦題 恋とは一体なんでしょう」のラブも愛と訳されることでもありトルストイとソフィアの間にもそのような駆け引きがあったのだろうかと想像もそこに向かうようだ。
ウィキペディア; トルストイの項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4
日本人で生前トルストイに面会した文学者がいて、それが二葉亭四迷だと長らく思っていたものが今回上記のサイトで徳富蘇峰、蘆花の兄弟だったと知った。 二葉亭は森鴎外や国木田独歩の露訳をしたもののトルストイの没年二年前にヨーロッパで客死したということらしい。
原題; THE LAST STATION
112分
製作国 ドイツ/ロシア
惹句; 大作家と“世界三大悪妻”と名高い妻ソフィヤとの知られざる愛の物語。
監督: マイケル・ホフマン
製作: クリス・カーリング イェンス・モイラー ボニー・アーノルド
製作総指揮: アンドレイ・コンチャロフスキー
フィル・ロバートソン
ジュディ・トッセル
ロビー・リトル
原作 ジェイ・パリーニ著 『終着駅-トルストイ最後の旅-』(新潮文庫刊/旧題『終着駅 トルストイの死の謎』)
脚本: マイケル・ホフマン
出演:
ヘレン・ミレン ソフィヤ・トルストイ
クリストファー・プラマー レフ・トルストイ
ジェームズ・マカヴォイ ワレンチン
ポール・ジアマッティ チェルトコフ
アンヌ=マリー・ダフ サーシャ・トルストイ
ケリー・コンドン マーシャ
ジョン・セッションズ ダシャン
パトリック・ケネディ セルゲンコ
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などのロシアの文豪レフ・トルストイの晩年を映画化した伝記ドラマ。自らの財産をめぐってトルストイ主義者と呼ばれる信奉者たちと激しく対立していく妻ソフィヤに辟易しながらも、長年連れ添った夫婦ならではの決して一筋縄ではいかない愛の形を、秘書として新たに派遣されてきた理想主義の青年の視点からユーモアを織り交ぜ感動的に綴る。出演はトルストイ役に「インサイダー」のクリストファー・プラマー、その妻ソフィヤに「クィーン」のヘレン・ミレン、そして若い秘書ワレンチンに「つぐない」のジェームズ・マカヴォイ。監督は「ソープディッシュ」「卒業の朝」のマイケル・ホフマン。
ロシアの文豪レフ・トルストイの許には、彼の自然主義的思想を信奉するトルストイ主義者が集い、共同生活を送っていた。トルストイも彼らの活動を積極的に支援し、ついには“遺産は全てロシア国民のために使う”という新たな遺言への署名にも同意する。ところが、50年近くも連れ添い、夫を献身的に支えてきたソフィヤにとっては寝耳に水の話。家族のための遺産を手放してなるものかと、必死の行動に出る。それは、夫婦の間に深い溝を作ってしまう。そんな中、新たな個人秘書として憧れの文豪のもとにやって来た青年ワレンチン。少々世間知らずながら、その誠実さでトルストイ、ソフィヤ両方から信頼され、2人のありのままの姿に接していくことに。そうして、愛の理想を謳い上げるトルストイが抱えるままならない愛の現実に困惑してしまう。さらに、トルストイ主義者の奔放な女性マーシャに心奪われ、ますます理想と現実の狭間で混乱を深めていくワレンチンだったが…。
上記が映画データベースの記述だ。
それに加えてネットで丁寧な感想を下のようにみた。
http://www.cinemaonline.jp/review/go/12832.html
昼間にベルギーで95年続いているベルギー・フランダース地方を200kmほど走る自転車レースをみて何ともそのレース中の情報の伝達の仕方にこの30年ほどのライブ・スポーツ番組の進歩、選手個人、そのチームの動向を隅々まで探り伝えようとするのを、その美しい山や畑、町並の中を走る選手達と沿道を映す何台ものオートバイ、地上の固定カメラ、空中のヘリコプターの映像を交えて後半100kmほどを観た中で感心したのだった。 それがその何時間も後の夕食後、本作が放映されるテレビ番組に先立つ100年前にも当時としては情報伝達のハイテク情報の様子が本作に関係するフィルムとして固定されているドキュメントを見て人の興味の動向は変わらないと感心した。
終着駅、クリストファー・プラマー、ヘレン・ミレン で2009年製のものだというからテレビガイドで詳しい内容も見ないで始まる10分ほど前にBBCテレビの第1局をつけたらそこではトルストイの伝記を当時のフィルムをたくさん交えて語る番組が終わるところだった。 日本文学の黎明も多くロシア文学に拠っているのは承知しており、この文豪が現在日本文学の上では多分文学史の中だけのほとんど大衆には読まれない名前だけの過去の人であることも承知していて、それならこういう作品は現在文学で奮闘しているロシア語に堪能な島田雅彦などが日本版でコメントを入れればおもしろいだろうとも思った。
私事、高校の頃ガールフレンドとのデートで観た映画がソ連制作、封切り後の「戦争と平和」であり、やたらと壮大でエキストラがふんだんに使える国の映画というのはこういうものかというほどしかそれには感慨ももてず、チェーホフ、ツルゲーネフ等の短編に高校の頃教科書、副読本で接し、またドフトエスキーなどの巨人の名声もすこしは齧っていて、その後の濫読の中でトルストイは一筋縄ではいかないとそのままにしていた半可通以下の者には興味がある映画だ。
つまるところ、革命以前と革命中、革命後の歴史の辻褄あわせの一こまということなのだろうか。
それも跡付けの知恵、現エリザベス女王を演じて名声を確かにしたミレンと同じく、高校の頃デートで観た「サウンド オブ ミュージック (1964)」のフォン トラップ大佐、その後70年代、80年代で戦争映画、90年代からこちらスパイ映画などで落ち着いた役を果たしていた人が絡む映画だから現代映画ならどんなものだろうと思っていたものが始めの字幕でトルストイの晩年の数年に亘る作だと知り、煎じ詰めると周りを彩るそれぞれの「愛」を巡る話だろうだと気付いたのは初めから半時間ほど経ってからのことだった。
世界三大悪妻のことなどもしらず、それまでにトルストイは妻との確執はあったことは知識としては薄々あったものの、あと二人は誰かと言われるともう一人はソクラテスの妻だとは薄々分かるもののもう一人はだれか、日本を含むとすれば日野富子あたりかと想像するぐらいなもので歴史をからめた男女の仲、世間の評などはどうにでもなることでそれがどうしたとこちらには知ったことではない。 それも今ではロシア革命前後を巡る中でそれぞれの信条と意見、算段が複雑に絡むと本作の切り口には「愛」は受け入れやすいものだ。 作中、ミレンに向かって自己の資産だけに固執し社会主義を否定するような態度ならアメリカへ行け、というような台詞があり、それを結局は擁護する体制の映画としては他の要素を「愛」だけに包み込む構造は現在の幾分か綻びの見えるパックス・アメリカーナ体制下の諸国ではまだ、というか世界がこの30年ほどより保守化しつつある現在、興行上には説得力を持つ作品だろう。
凡百の伝記映画にあるように主要人物の間に入る若者の目を通して描くのは無難なものだ。 その若者が後年著した三冊の著書のうち本作は「トルストイの晩年」というものを上記の文庫作者も引いているのは確かでプラマーが主役であるにもかかわらず映画ではミレンが第一にクレジットされているというような序列にも原作か本作制作の意図が表れているようだ。 ミレンは贔屓の俳優だから彼女のソフィアに相応する年齢の演技には充分親和性を持つものの原作を未読のものには本作物語は多少、藪の中の感をもたないでもない。 それに古い写真やフィルムにみる実のソフィアとミレンの動く姿をみるとミレンのほうに親和力が向くことでも制作意図は成功しているのではないか。
持つものと持たざるものの、それを承知した老作家と愛を周りに奪われたとする妻の確執である。 主治医、第一の弟子チェルトコフの動向が作家の名声に決定的であるのは確かだが、妻からは壁にかける夫婦の写真の場所にチェルトコフの写真がかかっていることでそれをベルギー製ナガン・リボルバーと思しい拳銃でで撃ち壊すことが最期の旅に出る契機になっているのだがチェルトコフが設定した森の中で著作権を革命政府に譲渡するという場面でのシーンも本作を観る人間に人民へ、というその時代の思想性に対する評価をもとめるものでもあるだろう。 先日、観たトルーマン・カポーティを題材にした「Infamouse (2006)」のなかで冒頭歌われる「What Is This Thing Called Love ;邦題 恋とは一体なんでしょう」のラブも愛と訳されることでもありトルストイとソフィアの間にもそのような駆け引きがあったのだろうかと想像もそこに向かうようだ。
ウィキペディア; トルストイの項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4
日本人で生前トルストイに面会した文学者がいて、それが二葉亭四迷だと長らく思っていたものが今回上記のサイトで徳富蘇峰、蘆花の兄弟だったと知った。 二葉亭は森鴎外や国木田独歩の露訳をしたもののトルストイの没年二年前にヨーロッパで客死したということらしい。