暇つぶし日記

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ナイロビの蜂  (2005);観た映画、 Apr.  ’11

2011年04月27日 00時25分27秒 | 見る

ナイロビの蜂(2005)

原題; THE CONSTANT GARDENER

128分

製作国 イギリス

監督:  フェルナンド・メイレレス

原作:  ジョン・ル・カレ   『ナイロビの蜂』(集英社文庫刊)
脚本:  ジェフリー・ケイン
撮影:  セザール・シャローン

出演:
レイフ・ファインズ     ジャスティン・クエイル
レイチェル・ワイズ     テッサ・クエイル
ユベール・クンデ     アーノルド・ブルーム
ダニー・ヒューストン    サンディ・ウッドロウ
ビル・ナイ        サー・バーバード・ペレグリン
ピート・ポスルスウェイト   ロービア


冒険小説の巨匠ジョン・ル・カレの同名ベストセラーを、「シティ・オブ・ゴッド」のフェルナンド・メイレレス監督で映画化した感動のミステリー・サスペンス。アフリカの地を舞台に、政治に無関心なガーデニング好きの英国外交官が、慈善活動に熱心だった妻の死をきっかけに、初めて彼女の活動に目を向け、やがては危険を顧みず陰謀渦巻く事件の真相に迫っていくさまをスリリングに描く。主演は「イングリッシュ・ペイシェント」のレイフ・ファインズ。また、共演のレイチェル・ワイズは本作の演技でアカデミー助演女優賞を獲得した。

ケニアのナイロビ。ガーデニングが趣味の英国外務省一等書記官ジャスティン。事なかれ主義の彼は、アフリカで精力的に救援活動を続ける妻テッサの行動には深く立ち入らず、見ない振りを通していた。ところがそんなある日、テッサは救援活動中に何者かに殺されてしまう。警察はよくある殺人事件の一つとして処理しようとしていた。しかし、事件に不審なものを感じたジャスティンは、意を決して自ら調査に乗り出す。やがて、事件には国際的陰謀が絡んでいたことを知るジャスティンだが、そんな彼にも身の危険が迫っていた…。

上記が映画データベースの記述だ。

8時のニュースの後、オランダ民放テレビにかかった映画で原作がジョン・ル・カレのもの、主演がレイフ・ファインズとテレビガイドに出ていたこと、それに庭の草花に水を撒こうかとおもっていたところにタイトルがTHE CONSTANT GARDENERとあったから水を撒くのを後にしてソファーに腰を落ち着けて観ることになったのだった。 結果として今までのレイフ・ファインズのイメージに少しは明るいものが射したということで私には本作は収穫だった。 そのストーリーとともに当時人のいない映画館で観た「イングリッシュ・ペイシェント THE ENGLISH PATIENT(1996)」、とそれに続く「スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする SPIDER(2002)」の印象が彼につよくあり、本作では上記の作に近い性格ではあり、それがまた本人の売りなのだろうがそこに笑顔が見えて陰と陽のコントラストを観たことで性格に幅がでたというのが印象だ。 それに自分でも知る何人かの外交官のイメージにも合っていたからでもある。

二人の出会いのレクチャーのシーンは多少の誇張はあるものの外交関係のレクチャーは大体そのようなものだろうと思う。 レクチャーのあと人が去ったなかでファインズがワイズに自ら言うようにそれは大抵退屈なレクチャーなのだがその退屈なレクチャーに意義も質問も唱えないのが大半であることが世界の問題なのだ。 そしてそれを根掘り葉掘りするとどうなるか、というのがこの話で、ファインズに好印象を持ったのは前半の微笑みも湛える心優しい外交官だった。

国際的謀略と書いてあるのは少々過大な表現だがコングロマリットの企業活動に国益を守るための公務員として外交官達が寄与するのは当然のこと、今更それをいうことでもない。 武器輸出はその一例だろう。 西側が売った武器で現在多くのいわゆる「自由の戦士」たちが殺戮されているのがリビアであったり、武器を作って輸出してはいけない国であっても民需の名の下に部品が輸出されその付加価値が国益に寄与するという例がいくらでもあるのは周知のことである。 60年代末にはそれで潤ったのが日本であったりしたのは今となっては古い話だ。 けれどそれは国益となるのだろうがその国益の名の下に大企業のノウハウを試すためにアフリカの国で理不尽に人命が「消費」されるのに外交官の私欲が絡めばことは問題となる。 彼らにしてみれば国もそういう二枚舌を使うのだから自分がそれをやって何がわるい、という傲慢が首をもたげても不思議ではない。 それがジョン・ル・カレが本作でフィクションとするところだろう。

我々が学生の頃、ベトナム戦争が終結後、焼き尽くせ、殺しつくせと飛行機からナパーム弾やジャングルに撒き散らされた強力「殺虫剤」エージェント・オレンジというのが取りざたされて戦争の場が化学者たちの実験場になっていることが指摘され、その後遺症は現在も敵だけではなく味方のなかでも続いているのも知られている。 化学兵器を禁じたハーグ条約に違反しているかどうか、それを決めるのは国であり化学者には関係のないことでもある。 かくして歴史の中で戦争は科学技術の進歩に寄与してきたという論がある。 本作でそのことを思い出した。

HIVに関してはひところ報道された程メディアに現れなくなったのは西欧諸国ではある程度の制御が効いているからだろうがその薬剤にたいする研究には莫大な研究費と時間が費やされ薬学、薬品業界の一部では潤ったに違いなく、それはそれら企業の株価にも反映されているだろう。 だが西欧諸国のジレンマはある程度の動物実験はできてもつまるところ人体実験が許されないという「モラル」に縛られていることだろう。 ではどうするか。 そのモラルが反映されていないところ、西欧のモラルに影響されない地域で人知れず行う、ということだろう。  それが本作の舞台でありそれに各自の思惑が絡んだ話に仕立てられている、ということだ。 原作は2001年らしいがそのころの反HIVキャンペーンはどうだったのだろうか。 南アフリカが製薬会社と交渉して特別価格を得るべく努力しているとメディアにでたのもそのころだったかもしれないがここでのポイントは結核を絡めてあることだろう。 

結核とはなんとノスタルジックな響きだろうか。 19世紀後半から20世紀前半、佳人薄命のイメージをもたらしたのは結核だった。 結核は現在理由のない放射線被爆に対する偏見差別を生んでいるように人を恐れさせた。 1990年代にはエイズが同様の反応を人に引き起こしており、それが一応治まったと思われる現在、ガンが平和な国では邪悪な病気となっているがさすがにこれで感染するというような偏見はすくなくなっているような中、結核である。 西欧諸国においてはエイズキャンペーン最盛期には結核はすでに地上から失せているとも報じられ偶に発病してもそれを認知できる開業医がいなかったり誤診するようなものがでたり、というほどの稀病となっているのだがそれは西欧諸国の中だけでの話、世界には発病する環境を持つ国々が多くある現実の中での「フィクション」であるらしい。 世界は何時も戦争だ、ということを言う者があるとすればそこにはこういう話のありえるというシニカルな思いに駆られるのだが、MI6で働き外交官であった原作者の想像力であれば現実とつかず離れずのフィクションにしたてるのは難しくないかもしれない。 

本作中外交官の使う言葉に苛立ちを覚える者はすでに冒頭レクチャーで苛立ちを覚えるレイチェル・ワイズと心情を共有するものとして自分の行動、周りを注意する必要がある、という気にさせるのは原作者のシニシズムなのかとも勘ぐりをいれたくなる。「チェーン・リアクション(1996)」、「ハムナプトラ/失われた砂漠の都 (1999)」、「ニューオーリンズ・トライアル(2003)」などで眼に留まり、「スターリングラード(2000)」では魅力的な射手ターニャを演じたレイチェル・ワイズはカメラが迫ったときには斜視にもみえるのはそれほどの眼球の大きさ故なのかその話し方とともに我々の記憶に残るものだ。

庭に水を撒き、そろそろ害虫、草花の病気対策として散布する薬をガーデンセンターで買おうとおもって参考にネットで調べたら有用なのは世界的に有名なドイツの製薬会社のロゴが入ったものがさまざまなサイトで推奨されていて、本作を観た後では妙な気を起こさせもするのだが、世界は何事も無く過ぎ、美しい草花を咲かせるためには過去にどのようなことがあったとしても今ではそこで得た知識を有効に用いた、ヒトには「無害」な農薬を撒くことになるのだろうと去年梨の木にみられた赤星病を防ぐ算段をする。