ヒストリー・オブ・バイオレンス(2005)
原題; A HISTORY OF VIOLENCE
96分
監督: デヴィッド・クローネンバーグ
製作: クリス・ベンダー デヴィッド・クローネンバーグ J・C・スピンク
原作: ジョン・ワグナー ヴィンス・ロック
出演:
ヴィゴ・モーテンセン トム・ストール
マリア・ベロ エディ・ストール
エド・ハリス カール・フォガティ
ウィリアム・ハート リッチー・キューザック
アシュトン・ホームズ ジャック・ストール
ハイディ・ヘイズ サラ・ストール
ピーター・マクニール サム・カーニー保安官
スティーヴン・マクハティ レランド
グレッグ・ブリック ビリー
ある事件をきっかけに夫の過去を巡る黒い疑惑が浮上、平穏だった一家が暴力と罪の渦に呑み込まれていくさまを、リアルでショッキングな暴力描写とともに綴る衝撃のサスペンス・ドラマ。同名グラフィック・ノベルを鬼才デヴィッド・クローネンバーグ監督が映画化。主演のヴィゴ・モーテンセンをはじめ、マリア・ベロ、エド・ハリス、ウィリアム・ハートら実力派俳優陣による迫真の演技合戦もみどころ。
インディアナ州の田舎町で小さなダイナーを経営するトム・ストールは、弁護士の妻と2人の子どもとともに穏やかな日々を送っていた。そんなある夜、彼の店が拳銃を持った2人組の強盗に襲われる。しかしトムは驚くべき身のこなしで2人を一瞬にして倒してしまう。店の客や従業員の危機を救ったトムは一夜にしてヒーローとなる。それから数日後、片目をえぐられた曰くありげな男がダイナーに現われ、トムに親しげに話しかける。人違いだと否定するトムだったが、トムの過去を知るというその男は、以来執拗に家族につきまとい始める。
以上が映画データベースの記述だ。
テレビガイドにクローネンバーグの名前があったのでその時間を楽しみに待った。 それまでに彼の作で眼にしていたのは「デッドゾーン THE DEAD ZONE(1983)」、「ザ・フライ THE FLY(1986)」、「戦慄の絆 DEAD RINGERS(1988)」、「エム・バタフライ M. BUTTERFLY(1993)」、「スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする SPIDER(2002)」ぐらいで他のめぼしいものには眼を通していないものの彼の映画の手触りというものを好ましいものとしていたのだが、本作は暴力をめぐっての話で自分のそれまでの印象を少しは変えるものだった。 題名を暴力の歴史、とするならば少し焦点がぼやけるようで、それなら暴力の履歴、というように言い変えると「自分が歩んできた暴力の軌跡」というようにも解釈され、それを現在に繋げてどう扱うかという風になるだろうか。 作中の3つの暴力場面がその暴力の模様、描写がもうすこし別のように展開していたならば上記の俳優達の力の入った演技がもっと全面に出てもっと興味深くなっていたように思う。 もっとも、主役が暴力のプロであった、ということがここでの主役が主役たるところではあるが、しかし、本作を概観してみると暴力の形態がランボーやヴァンダム、スティーヴン・セガールのものとどう違うのか思わずにはいられない。 これら暴力、その技術のプロたちの作品にくらべて本作はもっと陰影に富むようだがそれでも大筋は手が動いてしまうことで終末に導かれるものだからそこに違いがあるのかどうか。 功利的にいえば、なにをどのように言っても所詮、暴力に対処するのに暴力しかない、ということか。
途中で題から連想されて大昔に映画館で観た暴力の専門家サム・ペキンパーの撮った「わらの犬 (1971)」のことを思い出したのだが本作の主人公とは背景がまるで違う。 わらの犬では暴力を否定する若き学者のダスティン・ホフマンが状況の変化の中でどのように変貌するか、ということで徐々に暴力がむき出しになっていくのだがどちらにせよ最終解決に銃がもちいられる点では共通するものの、我々の日常には本作での暴力はある種の活劇的、芸は身を助く的なものとなりはてかねないものであり、クローネンバーグが撮る映画の匂いというものがここに強くでているのかどうか自分の鼻には嗅ぎ難かった。 幾分か思い違いをしていたのかもしれない。
日常銃を扱うものとして今更ながら恐ろしい背筋が凍るような思いをした場面がある。 それは銃撃戦ではなくひょっとしてアメリカの日常にありえる情景であるかもしれないが妻がこまごまとしたものを置いてある棚の奥からショットガンをとりだし実包の箱から散弾を装てんして侵入者に備える。 夫が内に入ってきたと安心してそれを低い台、もしくはコーヒーテーブルに銃をそのまま横にして置き、そこを離れる。 なにも知らない子供達のすぐ手の届くところである。 それだけの状況だが、実際アメリカで年間どれたけの子供が、また大人がこのような銃の扱いから起こる不必要な事故によって命をおとしているか、そのことを思わないではいられないからだ。 派手な銃撃シーンは日常から離れた非現実的なものであるから我々には派手な活劇のシーンでしかないけれど、このような何事も起こらないシーンで背筋を冷たいものが走るように感じるのは一種の倒錯だろうか。 それは、暴力装置の扱い方を問題視しているからで、本作の暴力の発動形態には関係がないからだ。 もし発動形態、その発現に視点が留まっているなら本作は「An Appearance of Violence (暴力の発現)」とでもすればよく、銃器が無ければ素手で戦うカンフー映画と変わらない。
気に入りのウィリアム・ハートがどのような登場の仕方をするのかに興味があったのだがその演技に満足するとともにその風貌ににやりとさせられたが出番が少なかったことに少々残念な思いがした。
原題; A HISTORY OF VIOLENCE
96分
監督: デヴィッド・クローネンバーグ
製作: クリス・ベンダー デヴィッド・クローネンバーグ J・C・スピンク
原作: ジョン・ワグナー ヴィンス・ロック
出演:
ヴィゴ・モーテンセン トム・ストール
マリア・ベロ エディ・ストール
エド・ハリス カール・フォガティ
ウィリアム・ハート リッチー・キューザック
アシュトン・ホームズ ジャック・ストール
ハイディ・ヘイズ サラ・ストール
ピーター・マクニール サム・カーニー保安官
スティーヴン・マクハティ レランド
グレッグ・ブリック ビリー
ある事件をきっかけに夫の過去を巡る黒い疑惑が浮上、平穏だった一家が暴力と罪の渦に呑み込まれていくさまを、リアルでショッキングな暴力描写とともに綴る衝撃のサスペンス・ドラマ。同名グラフィック・ノベルを鬼才デヴィッド・クローネンバーグ監督が映画化。主演のヴィゴ・モーテンセンをはじめ、マリア・ベロ、エド・ハリス、ウィリアム・ハートら実力派俳優陣による迫真の演技合戦もみどころ。
インディアナ州の田舎町で小さなダイナーを経営するトム・ストールは、弁護士の妻と2人の子どもとともに穏やかな日々を送っていた。そんなある夜、彼の店が拳銃を持った2人組の強盗に襲われる。しかしトムは驚くべき身のこなしで2人を一瞬にして倒してしまう。店の客や従業員の危機を救ったトムは一夜にしてヒーローとなる。それから数日後、片目をえぐられた曰くありげな男がダイナーに現われ、トムに親しげに話しかける。人違いだと否定するトムだったが、トムの過去を知るというその男は、以来執拗に家族につきまとい始める。
以上が映画データベースの記述だ。
テレビガイドにクローネンバーグの名前があったのでその時間を楽しみに待った。 それまでに彼の作で眼にしていたのは「デッドゾーン THE DEAD ZONE(1983)」、「ザ・フライ THE FLY(1986)」、「戦慄の絆 DEAD RINGERS(1988)」、「エム・バタフライ M. BUTTERFLY(1993)」、「スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする SPIDER(2002)」ぐらいで他のめぼしいものには眼を通していないものの彼の映画の手触りというものを好ましいものとしていたのだが、本作は暴力をめぐっての話で自分のそれまでの印象を少しは変えるものだった。 題名を暴力の歴史、とするならば少し焦点がぼやけるようで、それなら暴力の履歴、というように言い変えると「自分が歩んできた暴力の軌跡」というようにも解釈され、それを現在に繋げてどう扱うかという風になるだろうか。 作中の3つの暴力場面がその暴力の模様、描写がもうすこし別のように展開していたならば上記の俳優達の力の入った演技がもっと全面に出てもっと興味深くなっていたように思う。 もっとも、主役が暴力のプロであった、ということがここでの主役が主役たるところではあるが、しかし、本作を概観してみると暴力の形態がランボーやヴァンダム、スティーヴン・セガールのものとどう違うのか思わずにはいられない。 これら暴力、その技術のプロたちの作品にくらべて本作はもっと陰影に富むようだがそれでも大筋は手が動いてしまうことで終末に導かれるものだからそこに違いがあるのかどうか。 功利的にいえば、なにをどのように言っても所詮、暴力に対処するのに暴力しかない、ということか。
途中で題から連想されて大昔に映画館で観た暴力の専門家サム・ペキンパーの撮った「わらの犬 (1971)」のことを思い出したのだが本作の主人公とは背景がまるで違う。 わらの犬では暴力を否定する若き学者のダスティン・ホフマンが状況の変化の中でどのように変貌するか、ということで徐々に暴力がむき出しになっていくのだがどちらにせよ最終解決に銃がもちいられる点では共通するものの、我々の日常には本作での暴力はある種の活劇的、芸は身を助く的なものとなりはてかねないものであり、クローネンバーグが撮る映画の匂いというものがここに強くでているのかどうか自分の鼻には嗅ぎ難かった。 幾分か思い違いをしていたのかもしれない。
日常銃を扱うものとして今更ながら恐ろしい背筋が凍るような思いをした場面がある。 それは銃撃戦ではなくひょっとしてアメリカの日常にありえる情景であるかもしれないが妻がこまごまとしたものを置いてある棚の奥からショットガンをとりだし実包の箱から散弾を装てんして侵入者に備える。 夫が内に入ってきたと安心してそれを低い台、もしくはコーヒーテーブルに銃をそのまま横にして置き、そこを離れる。 なにも知らない子供達のすぐ手の届くところである。 それだけの状況だが、実際アメリカで年間どれたけの子供が、また大人がこのような銃の扱いから起こる不必要な事故によって命をおとしているか、そのことを思わないではいられないからだ。 派手な銃撃シーンは日常から離れた非現実的なものであるから我々には派手な活劇のシーンでしかないけれど、このような何事も起こらないシーンで背筋を冷たいものが走るように感じるのは一種の倒錯だろうか。 それは、暴力装置の扱い方を問題視しているからで、本作の暴力の発動形態には関係がないからだ。 もし発動形態、その発現に視点が留まっているなら本作は「An Appearance of Violence (暴力の発現)」とでもすればよく、銃器が無ければ素手で戦うカンフー映画と変わらない。
気に入りのウィリアム・ハートがどのような登場の仕方をするのかに興味があったのだがその演技に満足するとともにその風貌ににやりとさせられたが出番が少なかったことに少々残念な思いがした。