暇つぶし日記

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ヒストリー・オブ・バイオレンス  (2005);観た映画、 Apr ’11

2011年04月22日 23時21分08秒 | 見る
ヒストリー・オブ・バイオレンス(2005)

原題; A HISTORY OF VIOLENCE

96分

監督: デヴィッド・クローネンバーグ
製作: クリス・ベンダー   デヴィッド・クローネンバーグ   J・C・スピンク

原作: ジョン・ワグナー  ヴィンス・ロック


出演:
ヴィゴ・モーテンセン    トム・ストール
マリア・ベロ       エディ・ストール
エド・ハリス        カール・フォガティ
ウィリアム・ハート     リッチー・キューザック
アシュトン・ホームズ    ジャック・ストール
ハイディ・ヘイズ      サラ・ストール
ピーター・マクニール    サム・カーニー保安官
スティーヴン・マクハティ   レランド
グレッグ・ブリック      ビリー

ある事件をきっかけに夫の過去を巡る黒い疑惑が浮上、平穏だった一家が暴力と罪の渦に呑み込まれていくさまを、リアルでショッキングな暴力描写とともに綴る衝撃のサスペンス・ドラマ。同名グラフィック・ノベルを鬼才デヴィッド・クローネンバーグ監督が映画化。主演のヴィゴ・モーテンセンをはじめ、マリア・ベロ、エド・ハリス、ウィリアム・ハートら実力派俳優陣による迫真の演技合戦もみどころ。

 インディアナ州の田舎町で小さなダイナーを経営するトム・ストールは、弁護士の妻と2人の子どもとともに穏やかな日々を送っていた。そんなある夜、彼の店が拳銃を持った2人組の強盗に襲われる。しかしトムは驚くべき身のこなしで2人を一瞬にして倒してしまう。店の客や従業員の危機を救ったトムは一夜にしてヒーローとなる。それから数日後、片目をえぐられた曰くありげな男がダイナーに現われ、トムに親しげに話しかける。人違いだと否定するトムだったが、トムの過去を知るというその男は、以来執拗に家族につきまとい始める。

以上が映画データベースの記述だ。

テレビガイドにクローネンバーグの名前があったのでその時間を楽しみに待った。 それまでに彼の作で眼にしていたのは「デッドゾーン THE DEAD ZONE(1983)」、「ザ・フライ THE FLY(1986)」、「戦慄の絆  DEAD RINGERS(1988)」、「エム・バタフライ M. BUTTERFLY(1993)」、「スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする  SPIDER(2002)」ぐらいで他のめぼしいものには眼を通していないものの彼の映画の手触りというものを好ましいものとしていたのだが、本作は暴力をめぐっての話で自分のそれまでの印象を少しは変えるものだった。 題名を暴力の歴史、とするならば少し焦点がぼやけるようで、それなら暴力の履歴、というように言い変えると「自分が歩んできた暴力の軌跡」というようにも解釈され、それを現在に繋げてどう扱うかという風になるだろうか。 作中の3つの暴力場面がその暴力の模様、描写がもうすこし別のように展開していたならば上記の俳優達の力の入った演技がもっと全面に出てもっと興味深くなっていたように思う。 もっとも、主役が暴力のプロであった、ということがここでの主役が主役たるところではあるが、しかし、本作を概観してみると暴力の形態がランボーやヴァンダム、スティーヴン・セガールのものとどう違うのか思わずにはいられない。 これら暴力、その技術のプロたちの作品にくらべて本作はもっと陰影に富むようだがそれでも大筋は手が動いてしまうことで終末に導かれるものだからそこに違いがあるのかどうか。 功利的にいえば、なにをどのように言っても所詮、暴力に対処するのに暴力しかない、ということか。 

途中で題から連想されて大昔に映画館で観た暴力の専門家サム・ペキンパーの撮った「わらの犬 (1971)」のことを思い出したのだが本作の主人公とは背景がまるで違う。 わらの犬では暴力を否定する若き学者のダスティン・ホフマンが状況の変化の中でどのように変貌するか、ということで徐々に暴力がむき出しになっていくのだがどちらにせよ最終解決に銃がもちいられる点では共通するものの、我々の日常には本作での暴力はある種の活劇的、芸は身を助く的なものとなりはてかねないものであり、クローネンバーグが撮る映画の匂いというものがここに強くでているのかどうか自分の鼻には嗅ぎ難かった。 幾分か思い違いをしていたのかもしれない。 

日常銃を扱うものとして今更ながら恐ろしい背筋が凍るような思いをした場面がある。 それは銃撃戦ではなくひょっとしてアメリカの日常にありえる情景であるかもしれないが妻がこまごまとしたものを置いてある棚の奥からショットガンをとりだし実包の箱から散弾を装てんして侵入者に備える。 夫が内に入ってきたと安心してそれを低い台、もしくはコーヒーテーブルに銃をそのまま横にして置き、そこを離れる。 なにも知らない子供達のすぐ手の届くところである。 それだけの状況だが、実際アメリカで年間どれたけの子供が、また大人がこのような銃の扱いから起こる不必要な事故によって命をおとしているか、そのことを思わないではいられないからだ。 派手な銃撃シーンは日常から離れた非現実的なものであるから我々には派手な活劇のシーンでしかないけれど、このような何事も起こらないシーンで背筋を冷たいものが走るように感じるのは一種の倒錯だろうか。 それは、暴力装置の扱い方を問題視しているからで、本作の暴力の発動形態には関係がないからだ。 もし発動形態、その発現に視点が留まっているなら本作は「An Appearance of Violence (暴力の発現)」とでもすればよく、銃器が無ければ素手で戦うカンフー映画と変わらない。 

気に入りのウィリアム・ハートがどのような登場の仕方をするのかに興味があったのだがその演技に満足するとともにその風貌ににやりとさせられたが出番が少なかったことに少々残念な思いがした。

大阪だから喰い物がらみなんだけどね、、、

2011年04月22日 02時10分19秒 | 思い出すことども


正月に帰省したときに撮った写真を見ていて思いだしたことがあるので記す。

浪人中だろうか、高校時代の友人とここ千日前「王民 王民(みんみん)」に来たのが最初、1969年ごろか。 えらく薄汚い店で中国語が飛び交い、焼き飯、餃子、友人はそれにビールをつけて、自分は飲まなかったと思う。 飲めなかったのだ。 その友人のうちで当時朝日新聞の活字職人だった彼の父親と食事をしたときかに、その父親から、こいつと一緒に酒を飲める日が来るのを楽しみにしていたと聞かされたときに酒飲みの家庭というのはそういうものかと思ったのを覚えている。 

それに比べて自分は、農家で育ち、大人の男二人と高校生の自分がビールの小瓶をめぐってもういい、お前のめ、と残りを押し付けあうほどの下戸の家族だった。 もっと子供のころ、小学校の低学年のころか、その家でもう一人の叔父の結婚の折に従妹と一緒に三々九度で親戚一同と固めの杯を取り交わすその運び役になってそれぞれの杯を言われるままに新郎新婦をつなぎ渡り、きまりの乾物の添え物といっしょに羽織袴姿で運んだ。 その内内の式典が済んでから金屏風の裏に廻れば叔父は殆ど昏倒状態で新婦に介抱されていた。 それが母方の家族なのだがそれは父方とは対照的だ。

父親は飲んだようだ。 それで失敗をしたことも何回かありそうで、それを辿れば父方の家系はかなり飲めるほうだったようなのだがそれ以上ははっきりとした跡は不明で、その不明ということにも何か怪しい影が漂うような気もしないではない。

小学校の卒業旅行は当時は我々の地方では伊勢参りだった。 2泊だったろうか。 出発前日は自宅の法事で親戚が4,50人集まって何時ものとおり、田舎の決まりの汁物、にしめに寿司、魚で食事が供され当然酒が振舞われ、親戚の叔父のひとりからビールをコップに一杯飲まされた。 するとその後すぐ全身一杯気持ち悪いほど粟立つ蕁麻疹がでて、それに親は慌て、翌日事情を話した親のこともあってか楽しみにしていたクラスメートたちと後ではなしの種になるはずの伊勢の旅館の大浴場であそぶことも叶わなかった。 毎年、一年分の味噌を作るときの麹で小さな甕にどぶろくを造り祖父はちびちびとそれを吸い、赤い顔をさせそれが酢になる前に残りは棄てていたのを見ている。 母親は一滴も飲めず鯖と同様少量でも体中に蕁麻疹がでる体質だった。 けれど夏に目薬ほどのものを冷水で薄め旨いといっていた自家製梅酒を毎年つくるのだがそんなものは台所の隅に幾つも溜まり、7,8年ものはざらだった。 後に友人が自分のうちでは1年ももたないからと母親の古いものから順番に持って帰っていたようだ。

そんな環境に育ち、飲めなければ将来の仕事や何かにつけて差し障ると母親が判断して時々「訓練」の小瓶が食卓に登ったのだったが、状況は上記の通りであり、そういうこともあって自分は40を越す頃までアルコールを自分から進んで飲もうという気持ちにはなっていなかったものの、それでも強くはないけれど大学時代にはコンパや何かの行事の折には小瓶1本ぐらいはこなすようになっていたし、冬の夜中に暗室から下宿に帰る途中では屋台でおでんと冷酒一合を腹に収めて暖かくなるようなことはしていた。 写真部の中でも自分と同じように小瓶一本で陽気になる友人もいて他のものからお前らは経済的にできていていいなあと羨ましがられもしていたし、卒業後の小輸出商社で営業をしているときも接待や何かでもアルコールは口にして親の「訓練」も一応の結果をみていたのだろうが、酒を飲むことより他に何かする、ということのほうに忙しかったのかもしれないし、畢竟それは酒の味をまだ知らなかったということだろう。

で、ミンミンに戻ると、商社員時代にはこの提灯の下をよく潜ったと思う。 餃子とビールだった。 その頃この近辺に「王将」チェーンが進出しはじめたのだが、そこの餃子も悪くはないけれどミンミンで刷り込まれた味が基準になっているのか「王将」のものはなんだか怪しい酸味があって自然に足が向くというほどではなかった。 今ではどちらでも何でもいい、餃子ならば、という具合だが機会があると鮭が生まれた川に戻るようにここに来る。

3,4年に一度日本に帰省すると家族連れでいろいろ喰う。 当然餃子はかなり上のランクに位置する。 もともと自家製の餃子を作っていたのだからオランダに渡ってからも時々餃子はつくるし、こちらの友人、親戚からも評判がいい。 ただ珍しいだけのものだけではないようだ。 日本料理はうまいなあ、といわれてそのたびに、いや中国料理だ、というのだけど、オランダじゃどこにいっても中国料理屋ではこういうのは喰ったことがないという。 オランダの中国料理はインドネシア、中国南方の人間ばかりが作るものだから北方の餃子はないはずだ、というのだが、なんでこういう旨いものがないのかね、ビールとよく合うな、これはワインじゃない、ビールのものだと同じようなことを皆言う。 それともう一つ、トリックがある。 うちで餃子を喰うものは自分で包まねばならぬ、という規定を勝手に設けた。 だから自分の手になるものを自分で否定できるかという取り込みトリックも包み込まれている。 

何かの折に何が喰いたいかと家族に訊ねると大抵「餃子」という答えが返ってくるから帰省の折には彼方此方で一緒に餃子を喰う。 家人はどうも衛生状態、内装などからかミンミンというと顔をしかめる。 こういう手合いにはアジアのうまいところの条件のひとつである、うすぎたないところ、を説明してもどうも分かり難い、というより分かりたくないような態度をとる。 味の前に環境が立ちはだかるのだろう。 そういう手合いは大阪人にはなれない。 自分以外は日本語がわからないから餃子が喰いたいというとどこでも手近なところで喰わせ、皆はそのとき大抵は何も文句を言わず旨いといって喰っている。 

こどもたちも20を越したあるとき、パパの餃子を除いてどこの餃子が一番うまいか訊いた。 家人はミンミンの何倍もする高級中華料理店のものがよかったという。 それは自分の母親と同意見だ。 こどもたちは口をそろえて「Ming Ming]という。 その辺りを歩いているときにはいろいろ説明をして昔はこうだった、あそこには大型の本屋があってデートの待ち合わせにしたのだけど、そんなものは今は消えてしまってつまらないゲームセンターとなり、最高級の装置でジャズをかけていたコクのあるヨーロッパコーヒーを飲ませた店もとっくに失せている、といっても彼らはぎんぎらネオンの「グリコ」バンザイを眺めて上の空だ。

こんど何年かぶりにここを歩いて昼からここでビールと餃子を腹に入れた後そとに出てもう一つ恋しいものが消えたことを寂しく思ったものだ。

それはこの路地をでてすぐのところにあった「叩き売り」の店だ。 東区で仕事をしてキタにでることは少なく難波から電車に乗るのならこのあたりが一番手軽でよくぶらぶらしたのだがミンミンで食事の後よく立ち見をして「叩き売り」とか「啖呵売」とかいうそのはなし口を面白いと思った。 それは大阪の口で売る伝統だったのだろうが一人で30分ぐらい担当して面白いはなしを聞かせ調子よく時計や小間物をおまけにして両手でもてるぐらいのものを売りさばくのだ。 倒産ものとか質流れの新品などがまわっているのだろうが冗談の遊び商品も混ざりなかなかおもしろいものだ。 当然話し上手な者の手になるとよく売れるし、新人のものは話し方が固かったりぎこちなかったりすると赤い顔をして楊枝を口にくわえたものも混じる10人以上の客をそのうち一人二人と去らせて次の口上手な売り手にバトンタッチする、というようなものだった。 近くに寄席があるのにもかかわらずそちらにはいかなかったのは吉本のものは金をはらってもみるようなものではない、と踏んでいたからかもしれないけれど、小遣いの殆どはジャズのコンサートのチケットやLPに消えていたからここでも2時間ほど立ちっぱなしで彼らの話芸だけを楽しんでいた。 当然欲しいものがあれば買っていたはずだが役に立つようなものは登場せず結局何も買った記憶はない。 しかし、この場所、この大きな提灯をみるとその調子のいい売り手とそれを取り囲む人々の情景が懐かしくなる。

新世界のジャンジャン横丁あたりにもこういう店があった、と聞いているが今でもまだあるのだろうか。 もしあるのなら今度でかけてみたい。 それに新世界のその近くにはミンミンはあるのだろうか。