きのう、水度神社の石段を登りながら、私が「やっぱりちゃんと氏神さまにはお参りしないとね、あんたはここの氏子やからちゃんと守ってもらえるようお願いしとき」と息子に言うと、
息子「氏子って、そこの土地を離れても守ってもらえるもんなん?」
私 「そりゃあそうよ、どんなにここから離れても、ここの氏子であることには変わりないんやから大丈夫、ちゃんと守ってくれはるよ」
城陽市内で2度の引っ越しをしたけれど、お宮参りも水度神社だったし、5歳のとき、近くに越してきてからも秋祭りも初詣もスイミングのバス待ち(鳥居前)もこの神社中心に暮らしてきたんだから。
鴻巣山を登りながら、息子はとても懐かしがっていた。かなり整備はされているけれど、「ああ、この地層の見える岩、あったな」とか「この細い道いったら、さっきの池のとこに出るねん」とか、この山のことも知り尽くしている。
私は冒険心がないというか知らない道は不安になるから、遊歩道どおりにしか歩いたことがない。
途中、大きな樹が倒れていて根こそぎ土ごとめくれあがっている場所があった。土が乾いて、壁のようになっている。そこにまたちいさな虫とか草が生まれるかもしれない。秋には色鮮やかだった落葉も、かなり朽ちていて、歩く道も茶色い枯葉の冬の道になっていた。
山は変わらないといっても、こんなふうに少しずつ変化して、あったものがなくなっていたり、大きなしっかりした樹が倒れていたりする。そうだなぁ、ほんと、そうよねぇと私は考えながら歩く。 時間は流れている。 絶対に必要だと思っていたものが、すでにそうではなくなっている。野葡萄の蔓もそうだ。冬になるとたやすくぽきんぽきんと折れる。 そんなに枝を落としても大丈夫なの、と心配していても春には新しい芽を出す。それが春のための準備なのだとわかってからは驚かなくなった。
大切なものは月日とともに変わっていく。
変化を悲しむ必要はない。 楽しかった時間は記憶のなかに保存してある。 保存してある時間が澱まないよう、きっちり蓋をする。
楽しかった時間はこれからの支えになる。
そして、いま大切に思うものを大切にして生きていたいなと思う。 氏神さま、どうぞ御守りください。
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