このあいだ、再校作業にいったとき、Kさんに「ふじたさん、むかしこういうこと言ってたよねぇ」といわれて、「え、そんなこと言いました?」ってなりました。
いま自分の頭に残っている記憶はういろうみたいにおぼろげで、人にいわれて蘇ることもあるし、言われてもまったく覚えていないこともあります。
さっきも塔の友達に、「むかし、息子さんにつくってもらったかばん、まだ使ってますよ」って言われて、ああ、そういえば、リサとガスパールのアップリケのかばんをふたりで作ったなぁともう10年以上も前のことを思い出したのでした。だけど、どんなデザインだったか、うる覚えです。
亡くなった親友がなにげなくくれたハゴロモジャスミンの鉢が、もう20年も毎年花をつけているように、ずっとまえにあったことや言ったこと、記憶にももうないようなことが、誰かの近くにまだころがっていたり、飾られていたりするのですね。なにげなく言った言葉やもらった言葉が、ポットのなかの紅茶の葉っぱみたいに浮かんだり沈んだりしてだんだんいい色になっていく。
ずっとまえ、彫刻をしている友達が言っていたのですが、
頭のなかに残っていないと思っていることでも、人との関わりのなかで、言葉やしぐさや風景や時間が自分のなかに取り込まれて行って、もう会えないひとになったとしても、いつか作品のなかに紛れ込んでいると思う。 って。
短歌や童話もそうだなぁって最近よく思います。一番新しい自分が作品を作っていますが、それは現在の私だけでなく、いままでのすべての時間や感情や風景がマーブル状になってでてくるんだろうな。そして私の知らないところで、私も誰かのマーブルのなかにいるのかもしれないな。
そう思うと、年月を重ねていくことも、結構いいことかもしれないと、思えてくるのです。
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