きのうは神楽岡歌会、きょうは午前中は塔の企画会議、午後は旧月歌会でした。
最近、なんのために短歌を作るのかなということをよく考えます。
社会の役に立つため、ではないし。 なにかと闘うためでもない。
人工知能がすぐれた歌を作れるようになったとして、その歌に負けたくない、ということもない。
そもそも勝敗をつけるものでもないし、誰かの歌と比較するものでもない、と思います。
歌会に行って、この歌いいなぁと思う歌に出会ったときや、思っても見ないような言葉を用いて批評されたとき、続けてきよかったと思うし、あと少しだけ続けてみようかなって思います。
きのうの神楽岡歌会に出した歌
・繰り返し繰り返しされる報道の隙間に雀の雛が落ちていた
きょうの旧月歌会に出した歌
・巻貝の渦を辿っているうちにやわらかく細くなってしまった
雀の歌に頂いた評のなかで、私がこの歌を作った原点のようなものを提示されて、ああ、そういうことを私は思っていたんだなと、気づかされました。 巻貝の歌は、おととい会社の帰りに電車を待っていたときにじわ~と涙が湧いてきて、そのとき思ったことをそのまま歌にしたもので、不完全だし、説明がつかないし、いろいろ歌会では批評されるだろうなと思ったけれど、ほんとうのそのときの気持ちだったので、そのまま出しました。
意味がとれないという意見、自分の体験にあてはめて読もうとする意見がでたあと、「この歌は解釈せずにそのまま読めばいいんですよ」という批評があって、そのままって読めるのかなと思ったけれど、そのあと、「このままでしょう」という意見があったので、33人中の少なくとも数人には「そのまま読めた」ということがわかったのでした。
人工知能が人間よりも「いい歌」が作れる日がきても、だから歌は作らないということにはならない。
自分の人生の先に死があるから生きない、ということはなく、死ぬ日まで生きるんだから。 やわらかくなっても細くなっても。