梅雨入りしたにしては、あれっ、と思うような真夏日が続き、家の中に居ては勿体ない気分が後押しし、先日見損なった、生誕110周年記念「山本丘人展」を見に行って来ました。会場はガランと空いていて、私もほぼ初めてじっくりと見る画家だったので、《そういうことなのか》と頷けました。でも、思っていたより彼の人となりが興味深く、才能如何によっては画家ではなく、詩人の道を選んだんだ、と思うと、絵を上手い下手かで見るより、そこで何を感じ、何を表わしたかったか、と考えながら見れて、結構面白かったです。
「婦人坐像」(青梅)1922年 「満月夜」1963年
私のお気に入りは「婦人坐像」の下絵の方でした。なぜかというと、私の祖母によく似ていたんですもの!父が7才位の時に亡くなったので、写真でしか知りませんし、あの頃の女性はこのような髪型が多かったのだと思います。
山本丘人(1900-1986)
幻想的な幽玄の世界、美しく華やかな叙情の世界、荒く厳しい峻厳の世界、
いろいろな世界を日本画の世界に乗せて描いてくれた山本丘人(きゅうじん,
本名正義)は明治33年(1900)1月8日、東京市麻生で生まれました。(戸籍で
は4.15下谷) 父は東京音楽学校の事務官です。
広瀬東畝・篠田柏邦に日本画の手ほどきを受け、東京美術学校(現東京芸術
大学)で学び、美術学校では松岡映丘の指導を受けました。28歳で帝展に
初入選、30歳の時に丘人の号を定めます。むろん「丘」の字は師の名前か
ら一字拝借したもの。
戦時中の1943年東山魁夷らと国土会結成、翌年東京美術学校助教授、1946
年日展審査員(-1947)、1947年女子美術専門学校(現女子美術大学)教授。
しかし、1951年には両校の教職を辞し、創作活動に専念しています。
日展に関しては審査員にはなったものの、その審査基準に疑念を抱きこれ
が1948年に上村松篁らと創造美術を結成するきっかけとなります。この団
体は1951年に新制作派協会に吸収されますが、1974年になってから再び
創画会として独立しています。
丘人は初期の頃は少女絵を好み、柔らかい優しいタッチでロマンティック
な作品を描いています。しかし終戦の少し前頃から奥多摩の自然を盛んに
描くようになり、1950年代に入ってからは一転して厳しい山岳の絵ばかり
描くようになりました。
特に1957年頃北軽井沢に山荘を構えると、そこから見える浅間山をはじめ
多くの信州の山々など峻厳な山岳絵を描き続けました。そして、そういう
絵を描く画家と、みんなが思い始めた1965年頃、突然有情回帰が起きます。
山や林の絵の中に人物が描かれるようになり、やがてそれは夢幻の境地と
なって幻想的なまでの美しさに昇華されていきます。
1984年12月に病に倒れるまで意欲的な創作活動を続けましたが、療養中の
1986年2月10日、急性心不全で死去。享年86歳。(webより)
この日は他に数ヶ所、寄りたいところがあったのに、暑さでダウン。
その一ヶ所が偶然、丘人の(戸籍上)出生地、上野桜木だったのです。月末に友人と上野で会う約束があるんですが、人と一緒だとあちこち個人的な寄り道が出来ないんですよね・・・。一つ位ならお願い出来るでしょうけど。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/15/539751e40d5a83653575f0f8764c70cb.jpg)
ちょうど正面に人が居なかったので写真を撮っちゃいましたが、左右後ろには人々が、いい気分でビールを飲んでいました。ここは気軽さの点では穴場だと思いました。