うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む225

2010-09-20 05:06:05 | 日記

続きです<o:p></o:p>

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十一月四日() 快晴<o:p></o:p>

 朝、日昇らんとする黎明のころから、薄暮、日の没せんとするころまで、米機の爆音雪崩れのごとし。今日も、昨日も、いつの日も。<o:p></o:p>

 午前大掃除、午後、物置の屋根を壊して薪作り。<o:p></o:p>

 夜橋本氏来。進駐軍より買ったという煙草をくれる。二十本入り四十円とか。<o:p></o:p>

 商談しきり。青森より林檎、山形より鮭、名古屋よりカマボコ、ツクダニなど仕入れる話、話依然楽天的なり。(当時、物資の仲介役、元手なしに口先だけで物資を転がして、口銭を頂くといった商売が流行っていたものです。彼らはブローカーと言われていました。一億総ブローカーといった観がありました。)<o:p></o:p>

 つづいて勝螺子のおやじと工員来る。故郷沖縄なき十人の工員を養うに力尽きんとするがごとく意気消沈、慰めようもなきほどなり。<o:p></o:p>

 「もう、暴動起こす元気もねえや。この一週間お米の顔など見たこともねえんです。悪くすると一千万の中に入っちまいますぜ。……」云々。一千万とは来年餓死者の予定数なり。<o:p></o:p>

 突然みんな火がついたように、復讐の話となる。近来の新聞ラジオの喧々諤々たる論をみなばかばかしいと吐き出すようにいう。剣を投げたる日本を、世界じゅう寄ってたかって、それのみか日本人までが踏んだり蹴ったりしている論議のことなり。<o:p></o:p>

 いまいちど、遠き未来とてもいつの日にか逆転せん。「それまで何とかして生きていたいものだな」とみな長嘆。<o:p></o:p>

 チェオフの短編を読む。<o:p></o:p>

十一月五日() 快晴<o:p></o:p>

 病院にゆきてまた荷物探し。古清水夜来泊。<o:p></o:p>

 古清水氏の予測によれば、将来見込みあるは銀座、新宿よりも浅草なりと。田舎と関係深きところあればなり。<o:p></o:p>

 商売をやるに最もうるさきは警察にして、これさえ手に入れればあとは大したことはない。儲かるのは少なくとも来年中にして、今のような何もかもメチャクチャの混沌時代は今年じゅうならん。闇商売も次第になくなりゆくべしとの話。<o:p></o:p>

 市井を愛するような口ぶりをする人に荷風がある。しかし市井というものは、あまり愉快なものではない。余の上京以来の牛込袋町、五反田、東大久保、下目黒、ことごとくそうであった。今度の三軒茶屋はどうであろう。<o:p></o:p>

 となりの馬上吾郎という大工さんは好人物らしい。日向で鉋など鳴らしながら、「ねえ、ねえ、愛して頂戴ね」などヘンな声出して唄っている。おかみさんは無愛想で口が重くておっとりして、それだけに親切な善人である。子供がいないので、貧しく静かな生活の中に、仄かな寂しさが風のように吹いている。<o:p></o:p>

 東京新聞に「戦争責任論」と題し、帝大教授横田喜三郎が、日本は口に自衛を説きながら侵略戦を行った。この「不当なる戦争」という痛感から日本は再出発しなければならぬといっている。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む224

2010-09-19 05:28:52 | 日記

風太郎氏、苦汁の東京生活<o:p></o:p>

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学生中より各クラス五人ずつの委員を出し、これを以って議会的に運用せんとの校長の立案あり。<o:p></o:p>

 校長の思考は幸福なり。されどアメリカのつむじ一たび曲がるときは日本の干上がるは免れがたし。ふたたび、力、これを得ねば永遠に日本はだめなり。余は校長よりも遥かに時代遅れなりと思う。<o:p></o:p>

 夜沖電気の橋本氏来り、高須さんと、米、魚、豆、塩、果物など地方より買う話、売る話。余は商売の話など無縁の性なれども、あれほど気楽に無鉄砲に考えてよきものなりやと、傍できいていていささか心配となりたり。<o:p></o:p>

十一月二日() 晴のち曇<o:p></o:p>

 朝十時より浅田法医。午後、病院にゆきて飯田よりの荷物の山を探す。依然余の蒲団包みなし。<o:p></o:p>

 日本はマッカーサーと凄惨な運命にのたうちまわり、津々浦々まで蒼ざめてこの名と今の運命のことのみ脳天に充満させているが、世界はもう日本のことなど考えてはいまい。マッカーサーという日本にとって永劫に運命的な名も、世界の中では知らない者の方が多かろう。あたかも独逸占領のソビエト司令官の名などわれわれが知らないごとくに。<o:p></o:p>

 世界がかんがえているのは、打ち倒れた日本や独逸のことではなく原子爆弾のことである。<o:p></o:p>

 いよいよ科学が人間の手を離れてあばれ出した。人類が自ら発明した科学を制御出来るのはいつまでであろう。<o:p></o:p>

 地球も、人類の脳味噌も、滑稽で、恐ろしいものである。<o:p></o:p>

十一月三日() 快晴<o:p></o:p>

 とにかく二人とも蒲団がないのだから大変である。どうして夜寝ているかというと、二人の所持している現在ありったけの衣類を総動員するのだが、それはそれは珍妙なものである。<o:p></o:p>

 まず机かけを敷いて、足もとには蚊帳をひろげる。肩の下に座布団を一枚ずつおいて、その上に身体を横たえるわけである。二人ともオーバーがないので、レインコートをかぶって、その上にたった一枚の軍隊のカーキ色の毛布をひろげる。足の部分に衣紋かけのついたままの洋服をのせて重みをつける。枕は書物である。<o:p></o:p>

 一夜、案外暖かかったので「これ、止められないね」といったら、冗談じゃない、いつまでたっても高須さんの蒲団も田舎からこないし、こっちのやつも見つからない。けさも四時半ごろ寒さにふるえあがって眼がさめた。<o:p></o:p>

 夜いきなり屋根を引っぺがしたら、神様も抱腹せずにはいられない漫画だろう。<o:p></o:p>

 ひるから高須さんと病院へゆき、半狂乱になってまた荷物を探せども、山のごとき疎開帰りの荷の中をどうひっくり返して見ても、僕のやつはない。途中で失われたおそれ大なり。<o:p></o:p>

 午後風呂にゆき、ついでに三軒茶屋丸通へいってみたら、嬉しや! 高須さんの蒲団が来ていた。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む223

2010-09-18 05:07:48 | 日記

いよいよ授業再開か<o:p></o:p>

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十一月一日() 快晴<o:p></o:p>

 午前十時より第一教室にて緒方校長の話しあり。学校民主化を叫ぶ論旨、あまりにもげんきんにしてひっかかるところあれど、またあまりに熱烈痛快なるがゆえに、みな笑う。<o:p></o:p>

 曰く「教授内容はドイツ医学より米国医学に切り替えるべし。従って外国語はドイツ語より英語を重んず。出来るなら教授数名をただちにアメリカに派遣致したし。この際進んでアメリカの懐に入るにしかず」<o:p></o:p>

 また校地の買収拡張計画、図書館、標本室拡大計画、血清学教室、病因学教室、公衆衛生学教室の拡張計画等につづき、曰く「戦争中は実に不本意なること多かりき。配属将校なるものが諸君の及落にまでくちばしを入れたるは余の心外千万なるところなりしも、当時は万やむを得ざりしなり。彼らに対し、その酷使するところとなりし諸君の恨み深かるべきも、彼らはもと教養なき野蛮人なり、諸君とは育ちがちがうなりと思いて、たとえ彼らが本校の事務員となれる姿を見るもこれを問題とすることなかれ。戦争中の責任はことごとくわが負うところなり。<o:p></o:p>

 これより軍国主義は一切払拭す。軍隊のごとく徒に大声を発し、機械人形のごとくピンシャンするのはエヌルギーの大損にして、ふつうの態度をとりて充分つとまる話なり。<o:p></o:p>

 見よ、アメリカはそれでいって、しかも戦に勝ちしにあらずや。上官にも或る場合を除けば敬礼せず、上下悉く愉快に笑えり。それがほんとうにして、日本のごとく敬礼一つ忘れたるがため重営倉に叩き込むがごときは愚劣野蛮の骨頂なり。話せばわかるなり。話せばわかるといいし犬養首相を問答無用と射殺し、議会で黙れとどなりつける軍人は、無知蒙昧の標本なり。人間の思想と感情は自由なものにして、これを腕力で押さえつけんとするは僭越の極みなり。爾今、挙手の敬礼など一切止むべし」<o:p></o:p>

 曰く「よく遊びよく学ぶ。まず遊んでしかるのち勉学と考えてよろし。これより出席のごときは一切諸君の自由とす。授業時間以外は学校に笛太鼓がプカプカドンドン鳴りているとも一向に構わず」<o:p></o:p>

 曰く「ただ目下諸君の住と食は問題なるも、宇都宮より通学する学生もありときく。しかし学校としては、諸君の私生活まで援助する資力もなければ、義務も感ぜず。何とかして東京に居を探し、もぐり込み、歯をくいしばっても辛抱せられたし。それの不可能なる人は当分休学するか地方の医専にでも転学せられよ。お気の毒ながら学校としてはかくいうよりほかはなし」<o:p></o:p>

 (実にあっけらかんとした演説です。悲しい現実でしょうけど思わず笑ってしまいます。)<o:p></o:p>

 校長の演説をきいていると、何だか敗戦をうれしがっているようなり。ただし、校長も情けない情けないを連発す。

 日本人は頭が悪いから仕方がない。余はこの頭の貧弱なる国民に生まれたることは恥辱と思う。余も卑屈と怒るか知らねども、当分日本はどうしたって米国に頼らねば生きてゆけざるなり。こう考えるは賢明にして、決して卑屈にあらずと思う。さて、一般に教養ある日本人が、終戦以来の連合軍司令部に心中喝采を叫ぶがごとく見ゆるは考うべき問題なり。余のごときは、その命令が適切なればなるほど、それだけ癪に障ることおびただし。されど…だんだんとかかる新教育に馴致されゆくこととなるべし。実に残念無念なり。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む222

2010-09-17 04:53:16 | 日記

買出しにゆく<o:p></o:p>

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午後淀橋病院にゆけども荷物いまだ到着せず。強引に東京に帰還せしめたる学校にして、爾来半月を経ていまだ荷物を疎開先より搬出し得ざるは何ごとぞやと談判すれど、日本にひとしく責任者あいまいにして、無益の談判に終る。<o:p></o:p>

駅の売店デパート、煙草配給所及びいたるところに宣伝のたすきをかけ、旗を持ちたる宝くじの販売員を見る。ほんの先日まで勝札といいて売りたるものなり。一枚十円一等十万円、四等まで純綿の金巾、くじ外れ四枚にて金鵄一箱なり。<o:p></o:p>

チェホフの短編を読む。<o:p></o:p>

十月三十日() 朝晴午後曇夜雨<o:p></o:p>

 四時半起床。九時高須さんと一緒にリュックを背負って買い出しに、御茶ノ水から千葉県の津田沼へ。<o:p></o:p>

 十時三十分着。少し歩いて京成バスを待つ。大行列。時々百姓が車をひいて通ると、みんな「何だ?」といって首をさしのばす。飢えた眼である。<o:p></o:p>

 青い野菜畑りつづく地平線にレンズのような雲が浮かんでいる。一時間ばかり待って、汚いバスにすし詰めになって、習志野を通って終点につく。ここから林の中の白い路を歩いて大和田にゆく。風が渡ると黄塵万丈三々五々リュックを背負った買出部隊がつづく。<o:p></o:p>

 富士アイス牧場傍の小さな家に古清水さんを訪ねるつもりでいったのだが(古清水さんの奥さんの里)古清水さんは留守で、勝螺子のおやじが女工を一人つれて来ていた。野菜をもらいに来たのだが、古清水さんがいないので奥さんに薩摩芋をもらって帰る。勝は二人で五貫目ずつ背負っていた。こちらは芋はきらいだが、ほかに買うものがないので、二人合わせて五貫目もらう。<o:p></o:p>

 勝は沖縄の人である。雇っている十人ばかりの職工女工もみな沖縄の人間で、終戦以来工場は休んでいるが、これらの雇人をくびにするわけにもゆかず、食糧の補給に大変らしい。芋でも一貫十円するけれど、米一升七十円よりもまだマシだという。(終戦の翌年バラックを建てるのに、大工さん食べさせる米がやはりその金額だったのを微かに記憶にあります。大工さんに米飯を出し、家族は芋メシやスイトンでした。大工さんは寝床と三食支給が条件でした。辛うじて焼け残った姉達の着物がお米に代わりました。)<o:p></o:p>

 終点に戻ってバスを待ってみたが、行列は長いしバスは来ないし、たとえ来ても乗れるかどうか疑問なので、いっそ歩いちゃえということになり、四人で習志野を横切る。……<o:p></o:p>

路の遠いのに閉口した。足にマメが出来たような痛みが生じた。ヘトヘトになって津田沼駅に着く。<o:p></o:p>

 壁に、椀に梅の実みたいなものが二つ入ったへたくそな絵が貼ってあって、その上に、<o:p></o:p>

 「長い道を歩いてみると乗物の有難味がわかる。つねにその感謝の気持ちで。里見弴、社団法人、日本文学報国会」と書いてあった。弴先生もポスター書きはあまり上手ではない。<o:p></o:p>

 東京に帰る電車にも芋買いの大群が充満している。いまにも死にそうな老婆が八貫目くらいの大袋を背負っているから驚かざるを得ない。御茶ノ水から渋谷までの電車も、息もつけぬ混みよう。男も女も全身を密着させてハーハーいっているが、性欲など感じるにはあまりに物凄くて、激烈で、第一お互いがむさ苦しい。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む221

2010-09-16 05:53:12 | 日記

上野から新宿へ<o:p></o:p>

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子供の「お芝居」ではない。それに虚ろな、張合のなさそうな泣声で、すぐにキョトンとして芋をかじり出す。彼はこの何千何万とも知れぬ群衆の中にあって、まさしく孤独を感じているのだ。その泣声は子供としての恐怖や心細さや悲しさだけでなく、実に人間としての哀泣なのであった。それだけにその声は心ある者の腸をえぐるようだった。しかし、だれがこの子をどうしてやることが出来るだろう?<o:p></o:p>

 彼はちょいと立ち上がったかと思うと、柱の横に向って紙を敷き、その上にしゃがんでウンコを垂れ出した。みな呆れて、嫌悪と微笑を顔に浮かべた。一人老婦人が涙をふきながら、群衆の足もとに残されている芋を紙につつんで、そっと柱の根もとに寄せてやった。<o:p></o:p>

 切符を買って改札口を歩いてゆく途中にも、柱の蔭の、息もつまりそうな埃の中に、ボロを着た女の子がしょんぼり座ってすすり泣いていた。<o:p></o:p>

 上野から新宿ゆきの電車を待ったがなかなか来ない。プラットホームは群衆でぎっしり詰まっている。そこで東京駅へゆき、中央線で新宿へゆく。落日は赤あかと廃墟を照らし、焼け崩れたあちこちのコンクリート建築のガラス窓が血のようにかがやいていた。電車の窓から西の空に紫色の富士が見えた。<o:p></o:p>

 新宿につき、病院にいったがまだ蒲団は着いていない。病院前の往来を、日本娘をのせたアメリカ兵のジープが矢のように走っていった。<o:p></o:p>

 駅前の新宿マーケットを見物する。関東尾津組が支配しているもので、電燈をつらねて景気のいいことおびただしい。商人の口上も浅草よりうまいようだ。<o:p></o:p>

 (尾津組の「光りは新宿から」のキャッツフレーズが一世を風靡していました。また、尾津組は輪タクを営業し、「尾津な輪タク」のネイミングが愉快でした。暴力団にも知恵者がいたようです。)<o:p></o:p>

 沖電気の藤川さんに逢う。終戦後莫大な人数の社員工員が解雇され、来年の二月ごろさらに大整理がある予定だという。手当も何もつかないし、とても今の東京では食べてゆくことさえ出来ないから、田舎に引っ込んで当分形勢を見ようかと考えているという。海軍の電波兵器を作っていた沖電気はいま細ぼそと電気コンロなど作っているという。そんなことを話しているうしろを、二人の日本娘を従えたアメリカ兵が散歩している。みな憮然としてそのあとを見送り、「これからは女の方がいいかも知れないなあ」<o:p></o:p>

 夜晩くへとへとにくたびれて帰る。今の東京で二、三日あちこち動いたら、乗り物だけで参ってしまう。すし詰めどころか電車は人間でふくらみ、鈴なりにぶら下がって走る超満員で、その中でもみつもまれつ、よろめいたり転がったりして騒いでいる人間を見ると、そしてその乗物を発明したのも同じ人間であることを考えると、涙の出るような滑稽を感じざるを得ない。<o:p></o:p>

 夜また栗をゆでて飢えをしのぐ。十二時就寝。<o:p></o:p>

十月二十九日() 快晴<o:p></o:p>

 明け方の寒さにまた四時ごろ目醒む。ひるになれば日向、日の光に酔うようなり。日向ぼっこが今の最大の愉しみなり。午前<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="28:中町;" Address="中町">中町</st1:MSNCTYST>会事務所にゆきて転入手続きをとる。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む220

2010-09-15 04:54:49 | 日記

上野駅へ<o:p></o:p>

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仲店界隈の商人も土地の顔役から縄張りをもらっているらしいが、その許しを得ない連中が、路傍でコソコソ売っているのである。自転車をとめて箱からヒラメを出して売っている二人の男があった。女たちが十五円出して、ヒラメを一枚ずつ買ってゆく。むさ苦しい老婆が風呂敷包みからふかし芋を出して、四つ十円で売っている。饅頭みたいなものを一個五円で売っているやつもある。それでも黒山のように人がすぐにたかるのである。工場から追い出されたらしい少年工が、その芋をガツガツむさぼりながら歩いている。戦争中の苦役に対して余りにも少なかった報酬を、この空腹の少年はほんの数日でこうして使いつくしてしまうのであろう。<o:p></o:p>

 草っ原の中の焼け崩れた石塀のかげで、一人の青年がリュックをひらいてあたりを見回し、林檎をとり出した。ちょうどそこを通りかかったので、喉も乾いていたし、二個五円で買った。振り向いたらもう凄い人だかりで、「チクショー、えらくまた集まって気やがった」とさけびながら、その林檎売りが逃げ出して来た。この青年べつのところでコソコソとまた売っているのを、それから二回ばかり見た。彼は逃げ回りながら売っているのである。<o:p></o:p>

 上野駅に至るまで一面の廃墟だ。ただ駅附近の町だけふしぎに残っている。理髪店はBarberとガラス戸に書き出している。<o:p></o:p>

 まだ四時ごろなのに、五時からひらかれるのを待って、駅近くの食堂には外食者たちが行列を作っていた。赤鬼みたいに髪をふりみだした食堂のおかみが、行列の前で、舗道に台を持ち出して遊びのようにさつま芋を切っていた。この間まで用水槽に使われていたらしい伏せた空樽に、洟汁をたらした十ぐらいの小僧が座って、アメリカ兵を見てハローハローと笑いかけたが、アメリカ兵はニコリともせずに通りすぎていった。<o:p></o:p>

 上野駅前にも切符を買う者、切符は買ったが今夜の汽車に乗るものが数千人座りこんで長蛇を作っていた。中には立ったまま白米の握飯を食っている者がある。この間まではこんな大道や広場で、公然と白米を見せつけて食うような人間はいなかったであろう。<o:p></o:p>

 駅の中の切符売り場の前にも、数条の行列がぎっしりつまっていた。その中の柱のまわりに人々が円陣を作っているのでのぞいて見たら、七つか八つくらいの男の子が柱の下に座って泣いていた。はじめ猿の子かと思った。長くのびた髪の毛に埃を真っ白にかぶって、地も模様もわからないぼろぼろの着物をまとい、手足は枯木みたいに垢で真っ黒だ。そのあぐらの前には三つ四つのさつま芋がころがっている。<o:p></o:p>

 迷子でないことは、もうだいぶまえからここに座っているらしい風態からわかる。芋はおそらく通りがかりの人が与えたものであろう。<o:p></o:p>

 彼は大勢の人々にとりかこまれている照れくささから、芋をしきりに食った。が、もう芋に飽いているのは、一口か二口食ったら下に置くことでわかる。芋をかじっては、呆れたような、恐ろしそうな、怒ったような、脅えたような眼でキョトンと人々を見あげる。いま照れくさげなといったけれど、彼はまだそういう感情は持ってはいまい。何が何だかさっぱりわからないといった顔つきである。ときどき芋をくわえたまま、アアーン、アアーン、と悲しげに泣く。涙が埃と垢だらけの頬をつたう。その泣声は、だれかその泣声を聞かせるべき人を意識した烈しいものではない。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む219

2010-09-14 05:38:19 | 日記

続きます<o:p></o:p>

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観音様の堂が作られつつあった。瓦も葺かれているし、朱も塗られている。高いところで大工が蜂みたいに槌をふるっている。一面広茫の焼野原にまっさきに浅草寺再建をやっているのはさすがである。堂の前に遠く綱を張って、その中におサイセン箱が置いてある。銭を投げておじきしている男女たちを、アメリカ兵が軽蔑的な薄笑いを浮かべて横目で見ていた。<o:p></o:p>

 バケツを叩いて売っていた男が、アメリカ兵に、ハローと怒鳴ってヒヒと笑ったが、アメリカ兵は苦笑して通り過ぎていった。おべっかをつかったのではない。この大道商人はからかってみたのである。群衆も笑った。<o:p></o:p>

 「幾らですか、というのはどういうのだい」と高須さんがきくのでHow much?だといったら、早速一人のアメリカ兵をつかまえて、一つチェスターフィールドを買った。アメリカ兵はHow muchには頓着しないで、サンジュウーエンとへんな声で答えた。日本人が妙な英語で話しかけ、アメリカ兵が妙な日本語で答える。滑稽な光景だが、みな馴れたものである。木蔭でその煙草を吸い出したら、まわりからたくさん煙草や煙管がニョキニョキ出されて来た。みなマッチがないのである。瓜生岩子?の銅像が悲しそうにこの光景を見下ろしていた。<o:p></o:p>

 夕日が赤あかと、渦巻く砂塵を照らしはじめた。引き返す。仲店の入口で若い男がトランクからパンみたいなものをつかみ出して、まわりの人々は餓狼のようにもみあってこれを買っていた。二個で五円であった。<o:p></o:p>

 高須さんがゴム引きの前掛けを一枚十円で買っている間に、僕は枯れた草むらの中から噴出している水道の鉛管を見つけて、乾いたのどをうるおした。<o:p></o:p>

 地下鉄に下りてみると大満員で、改札を出さない。米国兵が二人改札の両側に肘をつき体をうしろに斜めにのばして、入って来る日本人をジロジロ見ている。二人の姿が唐獅子めいていて、電車から下りて来る日本人は、とくに女はさっと顔を緊張させて足早に通りぬける。きれいな女だと、碧い眼がチラとあとを追う。みなの顔が緊張するのは敵愾心ではなく、恐怖のためである。<o:p></o:p>

 薄暗い地下に埃が朦々と乳色の霧のように渦巻いて、とても改札を待ってはいられない。いっそ上野まで歩こうと相談して、また街上に出る。<o:p></o:p>

 空をアメリカ機が嵐のような音をたてて飛んでいる。青黒い装甲トラックが七、八台連なって、アメリカ兵を満載して通り過ぎる。こうなると、敵の自動車までが日本の戦車より精巧で堅牢で瀟洒に見える。日本のすべてが不細工で脆そうに思われるのだ。無表情の奥に傲然たる誇りを碧い眼から冷たくのぞかせて、アメリカ兵たちは、薄汚い猿の群のような日本人の波の中を大股に歩き回っている。靴の革みたいな顔をした黒人兵も見える。<o:p></o:p>

 高須さんがこの間煙草を買おうとして値切ったら、首を横にふったので、うしろからBlackboyと怒鳴ってみたら、ギロリと睨みつけられてそれはそれはこわかったそうだ。そのいわゆる黒ん坊にさえ、日本人たちは珍しそうにぞろぞろつきまとっているのである。<o:p></o:p>

 ここに愉快なのは大道商人のモグリである。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む218

2010-09-13 05:33:46 | 日記

風太郎氏浅草へ足を伸ばします<o:p></o:p>

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……彼は子供の持っていた日常英会話の紙(藁紙に謄写版で刷って一枚五円で今売っているもの)をとりあげて見ていた。<o:p></o:p>

 午後高須さんと浅草にゆく。<o:p></o:p>

 地下鉄のフォームにも群衆充満し、この焼野原のどこにこれだけの人間が住んでいるのだろうと奇怪なほどである。静かな飯田から帰ったせいか、神経繊維をタワシでこすられているような気がする。<o:p></o:p>

 浅草。地下から上がって行って歩道に出ると、青い大空、白く満ち渡った日光。そして焼け広がる浅草の風景の中に、芋を洗うように雑踏している何万の大群衆。<o:p></o:p>

 仲店もむろん焼けているが、建物がコンクリートだったせいか、輪郭だけは残り、落ちた瓦や朱の剥げた壁の下に、人相の悪い男や女が品物をならべてさけんでいる。<o:p></o:p>

 「さあ遠慮なく手にとってごらん。誰にもいい土産になる。田舎に持っていったら悦ばれること受け合いだよ!<o:p></o:p>

 「日用品、ホントの、ホンモノの日用品!<o:p></o:p>

 「本革で四十円、東京のどこにも、これだけのものを四十円で売っているところはないよ!<o:p></o:p>

 それにどよめく大群衆の騒音。にぎやかさ、などという形容では追いつかない。肩々相摩すといいたいが、前にも後ろにも自由に歩けず、この人間の洪水に入ったら、ただその一滴となってのろのろと動いてゆくよりほかない。日にかがやいててらてらひかる何万人かの顔はことごとく歯をむき出しているが、希望の色は見えぬ。ところどころ電信柱のようにアメリカ兵の首がつき出している。<o:p></o:p>

 食物以外は、何でもないものはないと思われるほどだ。むしろに並べられた品物は少ないが、見たところ最近作られたものではなく、よく戦争中こんなものを作り、貯えてあったものだと思う。値段は公然たる「国民公定価格」である。鍋四十円、バケツ三十円、革帯四十円、歯ブラシ二円、といった調子である。その他フライパン、鞄、庖丁、鋸、お茶入れのブリキの筒、これも一個七円。<o:p></o:p>

 群衆の洪水の中をアメリカ兵が二人歩いていた。傍を歩いていた若者がそのお尻をつつく。アメリカ兵がふり返ると、青年は十円札三枚をつき出している。碧い眼は一応群衆の頭越しに見回して、それからポケットからキャメルを出して金を受け取った。進駐軍との煙草の売買は禁じられているので、M・Pや警官のいないことをたしかめて、兵士と民衆はこうしてウマくやっているのである。<o:p></o:p>

 現在煙草の配給は一日三本である。どう工夫しても、十日や十五日は強制的禁煙となってしまう。<o:p></o:p>

 仲店の裏で、茶色の髪をした少年みたいなアメリカ兵が立って、その周りに群衆が集まっていた。傍で黄銅製の煙管を売っていた男が、<o:p></o:p>

 「買うねえ買うねえ、買うからいけねえんだ。こん畜生ののっぽ野郎、ひとの商売を邪魔しやがる。こっちは上がったりだ」と、怒鳴った。<o:p></o:p>

 アメリカ兵はあんまり人が集まって来たので不安になったと見えて、スタスタ歩いていってしまった。「……一枚でも三十円でしょ? いっぺんに食べちまうもの、詰まんないわ」と娘があと見送って話しているところを見ると、チョコレートでも売っていたらしい。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む217

2010-09-12 05:43:45 | 日記

東京の色々<o:p></o:p>

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老人はその肩を叩いて、<o:p></o:p>

 「君は立派な中学生だ。そう来なくちゃいけない。君はきっといいお嫁さんをもらうよ」<o:p></o:p>

 といった。<o:p></o:p>

 身動きも出来ないはずの通路をこの老人はやすやすと通り過ぎてゆくからふしぎである。肩をいからし肘を張って自分の権利を主張して、おたがいを窮屈にさせている意地悪さが、老人の号令に圧倒されたのである。<o:p></o:p>

 おそらくどこかの町会長か隣組長でもやっている人ではあるまいか。そのわざとらしい調子に、人々はしかし感心するより気恥ずかしさを感じているようだった。しかしひっこみ思案の日本人の中では、こういう度胸を持った人はたしかに存在価値がある。<o:p></o:p>

 日暮里でもがきながら下りた。山の手線は恐るべき満員で全然手出しが出来ず、二台を見送り、三台目にやっと乗る。<o:p></o:p>

 日はとっぷりと暮れていた。渋谷から、これまた人間にふくれあがった玉川電車で三軒茶屋へ。<o:p></o:p>

 空にはふるような星屑が凍っている。暗くてこの前来た路地がわからず、夜おそく高須さんの家につく。<o:p></o:p>

十月二十八日() 快晴<o:p></o:p>

 秋はすでに深い。夜明けせまるにつれ、沈沈と寒さは凍ってゆく。畳の上に二人レインコートを着て横たわり、上に毛布を一枚かぶっただけだから、腸の底まで冷えわたって三時には眼が醒め、またウトウトしたかと思うと四時にはもう寝ていられなくなって起きる。<o:p></o:p>

 朝食後、淀橋病院に蒲団とりに出かける。快晴である。眠りは足りないが、美しい秋晴れは爽やかで、心まで弾むようだ。三軒茶屋停留所ちかくの焼野原に、マーケットが出来るらしく、柱を組み立てつつあった。<o:p></o:p>

 淀橋病院にゆく。飯田から送った荷物は小児科室に積んであるので大童になって探したが、どうしてもない。きくと第二回目の荷物はきょうごろ着く予定だという。まだそんなことかと失望した。<o:p></o:p>

 学校に顔を出すつもりで歩いてゆくと、伊勢丹裏の焼野原を、アメリカ兵が大きな車輌機械で整地していた。ブルドーザーというものだそうだ。巨大な機械が二台、それに一人ずつ乗って、チューインガムをかみかみ、また煙草を横ぐわえして、ハンドルを握っている。車の通ったあとは黒土が平坦にならされてゆく。チンチクリンの日本人たちが雲集して、口をあけて見物していた。<o:p></o:p>

 学校にゆく途中、予科練の少年と逢う。東医に入りたいのだそうだ。軍学校生徒の入学試験は今日病院で行われているそうで、三十人入れるという。早稲田などでは、軍学校生徒に特権を与える必要はない、来春一般とひとしく入学試験を受けて入って来るべしと学生が反対して、学校相手に騒いでいるという。<o:p></o:p>

 駅にゆく途中、伊勢丹の壁の下にアメリカ兵が一人腰を下ろして、その周りに子供達が集まっていた。……


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む216

2010-09-11 05:23:21 | 日記

ホームは怒声罵声そして悲鳴<o:p></o:p>

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老人は網棚を祈るがごとく見上げたが、むろんどこにも荷物をのせる空間はない。老人はともかくといった顔でリュックを肩から外して足元に置こうとした。足もともそれこそ立錐の余地はない。傍の中年女が大げさに顔をしかめて、「イタ、タ、タ、ああイタ!」と悲鳴をあげる。<o:p></o:p>

 窓をあけるとそこからもぐり込んで来るので、人いきれでむし暑いのにガラス窓はしめっきりだ。駅につくと外のホームからどんどん拳で叩いて「入れてやってくださあい、お願いです」と半狂乱にわめきたてるのだが、みな知らん顔をしている。<o:p></o:p>

 土浦で若い駅員が窓硝子を壊れるほど叩いて、<o:p></o:p>

 「こらっ、中の奴ら、開けんか。あけろ、こらっ」<o:p></o:p>

 と、叫んだ。<o:p></o:p>

 すると、その内側の殺気ばしった顔をした男がいきなり硝子窓をあけて、ぐいと駅員の手首をつかんだ。<o:p></o:p>

 「きさま何だ」<o:p></o:p>

 「駅員です」<o:p></o:p>

 と駅員はめんくらって答えた。<o:p></o:p>

 「駅員なら駅員らしくしろ。何だいまの言い草は。戦争中たあちがうぞ。きさま何て名だ」<o:p></o:p>

 「土浦の松尾です」<o:p></o:p>

 「土浦の松尾、よし」<o:p></o:p>

 というと、中の男またがちんと窓を下ろして、知らん顔をしている。鉄道関係の人でも何でもないらしい。唯々諾々として羊のような今の乗客をなめている駅員の心胆を寒からしめただけらしい。<o:p></o:p>

 汽車が出ると、ひとりごとのように、<o:p></o:p>

 「戦争中には駅員なんてやつが大きな面をしやがったから、これからは少しおどしてやるに限る。何でも逆になったんだから」<o:p></o:p>

 と、いった。<o:p></o:p>

 人間世界の醜さ、凄惨さ、あさましさにくらべて、窓外の風景の何という美しさ。碧い空に白雲流れ、見わたすかぎりの田園は黄金の波を打っている。国破れて山河あり。<o:p></o:p>

 東京近くなったとき、デッキの方から、<o:p></o:p>

 諸君よ、諸君、同胞諸君。(彼は同胞をとくにはらからと叫んだ)吾々の兄弟姉妹よ、お互いにいたわり合いましょう、席を譲り合いましょう。是非三人がけ、三人がけになすっていただきます。<o:p></o:p>

 と、野太い大声でいいながらやって来た人があった。黒い戦闘帽をかぶり、骨組み大きい、頬にイボのようなほくろのある老人であった。僕の前に中学生が座っていたが、それを指して、<o:p></o:p>

 「そこの中学生君…」といいかけたら、中学生はピョコンと立ち上がった。<o:p></o:p>

 「ああいや、立たなくてもいいです。三人がけ、君、立たなくても。…」<o:p></o:p>

 と老人はいったが、中学生は顔を真っ赤にしてもう座ろうとはしなかった。