上野駅へ<o:p></o:p>
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仲店界隈の商人も土地の顔役から縄張りをもらっているらしいが、その許しを得ない連中が、路傍でコソコソ売っているのである。自転車をとめて箱からヒラメを出して売っている二人の男があった。女たちが十五円出して、ヒラメを一枚ずつ買ってゆく。むさ苦しい老婆が風呂敷包みからふかし芋を出して、四つ十円で売っている。饅頭みたいなものを一個五円で売っているやつもある。それでも黒山のように人がすぐにたかるのである。工場から追い出されたらしい少年工が、その芋をガツガツむさぼりながら歩いている。戦争中の苦役に対して余りにも少なかった報酬を、この空腹の少年はほんの数日でこうして使いつくしてしまうのであろう。<o:p></o:p>
草っ原の中の焼け崩れた石塀のかげで、一人の青年がリュックをひらいてあたりを見回し、林檎をとり出した。ちょうどそこを通りかかったので、喉も乾いていたし、二個五円で買った。振り向いたらもう凄い人だかりで、「チクショー、えらくまた集まって気やがった」とさけびながら、その林檎売りが逃げ出して来た。この青年べつのところでコソコソとまた売っているのを、それから二回ばかり見た。彼は逃げ回りながら売っているのである。<o:p></o:p>
上野駅に至るまで一面の廃墟だ。ただ駅附近の町だけふしぎに残っている。理髪店はBarberとガラス戸に書き出している。<o:p></o:p>
まだ四時ごろなのに、五時からひらかれるのを待って、駅近くの食堂には外食者たちが行列を作っていた。赤鬼みたいに髪をふりみだした食堂のおかみが、行列の前で、舗道に台を持ち出して遊びのようにさつま芋を切っていた。この間まで用水槽に使われていたらしい伏せた空樽に、洟汁をたらした十ぐらいの小僧が座って、アメリカ兵を見てハローハローと笑いかけたが、アメリカ兵はニコリともせずに通りすぎていった。<o:p></o:p>
上野駅前にも切符を買う者、切符は買ったが今夜の汽車に乗るものが数千人座りこんで長蛇を作っていた。中には立ったまま白米の握飯を食っている者がある。この間まではこんな大道や広場で、公然と白米を見せつけて食うような人間はいなかったであろう。<o:p></o:p>
駅の中の切符売り場の前にも、数条の行列がぎっしりつまっていた。その中の柱のまわりに人々が円陣を作っているのでのぞいて見たら、七つか八つくらいの男の子が柱の下に座って泣いていた。はじめ猿の子かと思った。長くのびた髪の毛に埃を真っ白にかぶって、地も模様もわからないぼろぼろの着物をまとい、手足は枯木みたいに垢で真っ黒だ。そのあぐらの前には三つ四つのさつま芋がころがっている。<o:p></o:p>
迷子でないことは、もうだいぶまえからここに座っているらしい風態からわかる。芋はおそらく通りがかりの人が与えたものであろう。<o:p></o:p>
彼は大勢の人々にとりかこまれている照れくささから、芋をしきりに食った。が、もう芋に飽いているのは、一口か二口食ったら下に置くことでわかる。芋をかじっては、呆れたような、恐ろしそうな、怒ったような、脅えたような眼でキョトンと人々を見あげる。いま照れくさげなといったけれど、彼はまだそういう感情は持ってはいまい。何が何だかさっぱりわからないといった顔つきである。ときどき芋をくわえたまま、アアーン、アアーン、と悲しげに泣く。涙が埃と垢だらけの頬をつたう。その泣声は、だれかその泣声を聞かせるべき人を意識した烈しいものではない。
焼け出されなかった私の不幸など、消し飛んでゆく思いが致します。
誰に訴える事も出来ず、垢と汚れで猿のように見える子が泣いているのに、殆どの人が傍観者でしかないのですから、戦後の上野一帯は生きるに精一杯の人達で埋まっていたのですね。
今となれば遠い遠い消えそうな記憶になっています。
小生と同年輩の人たちは、まかり間違えば戦災孤児になつていたわけです。
上野の浮浪者、孤児達の悲惨さはまぎれもない事実だったのです。
もっとも疎開地から引き揚げてきたときの、小生の服装といったら、今の子供達の身なりと較べたら乞食同然だったはずです。
カーキ色の制服は名ばかり、両肘、両膝を共布ならまだしも、色違いの布でのおっ被せ継ぎ。
それに痩せこけた姿、母の驚愕の顔が、瞬時にみるみる涙に濡れていきました。