うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む221

2010-09-16 05:53:12 | 日記

上野から新宿へ<o:p></o:p>

 <o:p></o:p>

子供の「お芝居」ではない。それに虚ろな、張合のなさそうな泣声で、すぐにキョトンとして芋をかじり出す。彼はこの何千何万とも知れぬ群衆の中にあって、まさしく孤独を感じているのだ。その泣声は子供としての恐怖や心細さや悲しさだけでなく、実に人間としての哀泣なのであった。それだけにその声は心ある者の腸をえぐるようだった。しかし、だれがこの子をどうしてやることが出来るだろう?<o:p></o:p>

 彼はちょいと立ち上がったかと思うと、柱の横に向って紙を敷き、その上にしゃがんでウンコを垂れ出した。みな呆れて、嫌悪と微笑を顔に浮かべた。一人老婦人が涙をふきながら、群衆の足もとに残されている芋を紙につつんで、そっと柱の根もとに寄せてやった。<o:p></o:p>

 切符を買って改札口を歩いてゆく途中にも、柱の蔭の、息もつまりそうな埃の中に、ボロを着た女の子がしょんぼり座ってすすり泣いていた。<o:p></o:p>

 上野から新宿ゆきの電車を待ったがなかなか来ない。プラットホームは群衆でぎっしり詰まっている。そこで東京駅へゆき、中央線で新宿へゆく。落日は赤あかと廃墟を照らし、焼け崩れたあちこちのコンクリート建築のガラス窓が血のようにかがやいていた。電車の窓から西の空に紫色の富士が見えた。<o:p></o:p>

 新宿につき、病院にいったがまだ蒲団は着いていない。病院前の往来を、日本娘をのせたアメリカ兵のジープが矢のように走っていった。<o:p></o:p>

 駅前の新宿マーケットを見物する。関東尾津組が支配しているもので、電燈をつらねて景気のいいことおびただしい。商人の口上も浅草よりうまいようだ。<o:p></o:p>

 (尾津組の「光りは新宿から」のキャッツフレーズが一世を風靡していました。また、尾津組は輪タクを営業し、「尾津な輪タク」のネイミングが愉快でした。暴力団にも知恵者がいたようです。)<o:p></o:p>

 沖電気の藤川さんに逢う。終戦後莫大な人数の社員工員が解雇され、来年の二月ごろさらに大整理がある予定だという。手当も何もつかないし、とても今の東京では食べてゆくことさえ出来ないから、田舎に引っ込んで当分形勢を見ようかと考えているという。海軍の電波兵器を作っていた沖電気はいま細ぼそと電気コンロなど作っているという。そんなことを話しているうしろを、二人の日本娘を従えたアメリカ兵が散歩している。みな憮然としてそのあとを見送り、「これからは女の方がいいかも知れないなあ」<o:p></o:p>

 夜晩くへとへとにくたびれて帰る。今の東京で二、三日あちこち動いたら、乗り物だけで参ってしまう。すし詰めどころか電車は人間でふくらみ、鈴なりにぶら下がって走る超満員で、その中でもみつもまれつ、よろめいたり転がったりして騒いでいる人間を見ると、そしてその乗物を発明したのも同じ人間であることを考えると、涙の出るような滑稽を感じざるを得ない。<o:p></o:p>

 夜また栗をゆでて飢えをしのぐ。十二時就寝。<o:p></o:p>

十月二十九日() 快晴<o:p></o:p>

 明け方の寒さにまた四時ごろ目醒む。ひるになれば日向、日の光に酔うようなり。日向ぼっこが今の最大の愉しみなり。午前<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="28:中町;" Address="中町">中町</st1:MSNCTYST>会事務所にゆきて転入手続きをとる。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (志村 建世)
2010-09-16 23:48:31
沖電気が電気コンロを作っていたという話が、何とも言えません。航空機エンジンの工場に残っていたベアリングで、やがてパチンコ台が作られ始めるのでしょう。戦争が終って、産業の戦国時代ですね。
返信する
Unknown (うたのすけ)
2010-09-17 04:59:16
お早うございます。
戦後すぐに、闇市で鍋などの勝手用品が、それもピカピカのが並んでいたのには驚きです。
一山いくらでなんでもありましたね。
返信する

コメントを投稿