うたのすけの日常

日々の単なる日記等

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む215

2010-09-10 05:16:05 | 日記

近距離列車の混雑模様<o:p></o:p>

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この札をもらって、改めてまた切符の行列に並ぶのである。<o:p></o:p>

朝四時五時からならんでいる人もあるそうで、僕がいったときはもう百五、六十人もならんでいた、碧く美しく晴れた空なのがまだしものことだ。しかしその空にはアメリカの飛行機が銀色の翼と胴をかがやかせて、悠々と監視飛行をやっている。<o:p></o:p>

……昨夜二時まで起きて本を読んでいたので眠くってしかたがない。<o:p></o:p>

「やいやい、金魚のうんこみたいにぞろぞろならびやがって、朝っぱらこんなところに暇そうに立ってる野郎の面あ見ろい。どいつもこいつもロクな面あしていねえ」<o:p></o:p>

と、突然発音不明瞭な声でこう怒鳴った者があって、振り返ってみたら、黒い角袖を着た老人が、煙草を横くわえしたまま、よろよろと歩いていた。酔っ払っているらしい。色んな悪口雑言を大声でしゃべっては皆を笑わしている。<o:p></o:p>

「天皇…天皇が何だい、あんなもの何でもありゃしねえ。あんなものあ床の間のお飾りみたいなもんだよ」<o:p></o:p>

といった。みんな黙っている。三ヶ月前ならこの老人は張り倒されたろう。<o:p></o:p>

わあーっという声がして、駅前の広場をアメリカ兵を乗せたジープが横切っていった。声はあとを追っかけて走る子供たちである。石岡にも進駐して来るはずで宿所まで決めてあったのだが、何かの都合で取止めになったそうだから、これは土浦かどこかに来ている進駐兵であろう。<o:p></o:p>

行列があんまり長くなり過ぎたので、心配した人が順々に数えはじめた。最初数えたとき百五十六番であったが、二度目のときは百八十八番になっていた。<o:p></o:p>

「途中から割り込む人があるんだよ。図々しいったらありあしない。いくら知ってる人だからって、割り込む奴も奴なら、入れる奴も奴だよ」<o:p></o:p>

「そりゃね、一寸便所にゆくくらいはいいさ。けど御飯食べに帰るとか、そんなのはまあいいけど、仕事しに家に帰るなんて、そんなこといやあ、だれだって忙しいわ。それをこうやって我慢してならんでるんだもの、公衆道徳ってものをもう少し守らなくちゃねえ」<o:p></o:p>

と、うしろの長屋風の女が、もっとも今の女は大抵長屋風になってしまったが、憎らしそうに話している。御当人たちだって時と場合によれば平気で割り込みかねない御面相である。<o:p></o:p>

二百と数えられた人の後の行列も、未練を残して決して去らない。二百枚内外に希望をつないでいるのである。<o:p></o:p>

やっと行列が動き出し、ほっとした。あと十人位でおしまいになる危ないところで買えた。その札を貰ってからまた切符の長い行列にならばねばならないのだが、一応松葉病院に帰る。町の家々は配給のサツマ芋を大事そうに蓆にならべて日向に乾かしていた。<o:p></o:p>

二時十四分の汽車で上京。大混雑。<o:p></o:p>

依然窓ガラスは破れ、座席の布裂けて藁のはみ出した汚らしい汽車、この汽車も「ポツダム宣言」をのせて走っているのだ。各駅ごとに、新しく乗り込もうとする人々と、デッキに溢れて身動き出来ない乗客との間には汚い喧嘩の応酬が起こる。

多分買出しであろう。重そうなリュックを背負った老人が強引にもぐり込んで来た。<o:p></o:p>


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む214

2010-09-09 06:05:52 | 日記

上野界隈を歩く<o:p></o:p>

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十月二十三日() 雨<o:p></o:p>

 十時ごろ起床。高須さんと二人で貧しき朝兼昼食。<o:p></o:p>

 正午ごろ新宿にゆきて、学校にいってみる。飯田より帰還の荷物第一陣が午前中新宿駅に到着するゆえ生徒は協力せられたしとの掲示があった。<o:p></o:p>

 伊勢丹でも三越でも一枚十円で漫画家が似顔を書いていた。見本として貼ってある顔もアメリカ兵の顔である。<o:p></o:p>

 二時ごろ上野にゆく。構内埃立ち迷い、幾百千の人々の泥靴とどろく。冷たいコンクリートの床に横たわっている三人の少年があった。顔は新聞で隠しているが、痩せ細った手足の青さ、また円柱の下で、半裸の女が新聞を舐めていた。おそらく握飯でも包んであった新聞紙であろう。(小生、九月十七日に疎開先から帰京しています。やはり上野探索をしていまして、このような光景に遭遇しております。)
 この駅では今、住むところのない老人や少年たちが、多いときは五、六人、少ない日でも二、三人は毎日餓死してゆくそうである。浮浪少年たちはグループを作り、それぞれチンピラの親分があって、スリ、カッパライ、また米兵にねだって獲得した煙草ゃチョコレートを売って暮らしているそうである。復員した工員や戦災孤児が多いという。老人も爆弾で家を焼かれ身寄りを失った人ばかりという。駅前の宿屋には復員して来たが東京の家も肉親も消え失せていたという兵士が茫然と暮らしているが、その生活費として一ヶ月千円以上かかるという。闇で食糧を買わなくてはどうしようもないからである。<o:p></o:p>

 五時半石岡町着。松葉熱さり、痛みも収まりたるごとし。左頬大いに腫る。<o:p></o:p>

 ブルノー・タウト「日本美の再発見」読む。<o:p></o:p>

十月二十六日() 曇<o:p></o:p>

 薄冷え。天野貞祐「学生に与うる書」を読む。<o:p></o:p>

 終戦時日本機の撒布せるビラ。藁半紙ハガキ大に謄写版刷りせるもの。<o:p></o:p>

 「断乎徹底戦斗アルノミ。内ニハ大逆臣ノ重臣閣僚及ビ其ノ参謀格タル財閥組織ヲ覆滅シ、外ニハ米英ヲ撃滅ソ支ヲ破砕シテ、天皇絶対ヲ護持スベシ。国民ヨ、謀略ニカカリタル大逆臣ノ謀略ニカカル勿レ。唯歯ヲ食ヒシバッテ闘ヘバ必ズ光明アリ神州不滅。ポツダム条件ハ一顧ダニナシ。之ヲ鵜呑ミセンカ神州ノ再起ハ絶対ニナシ。吾等ハ神州ノ名ニ闘ヒ抜イテ神州護持ノ実ヲ享ク。実ヲトツテ国ヲ亡ボスカ。百円出シテ一銭ノ釣銭ヲ得ントスルユダヤ的計算ノ頭ノ日本人ハ赤子ニアラズ。天皇絶対ノ大ナル名ヲ護持スルニ飽マデ積極的ニ土ヲ喰ンデ前進戦闘セン。<o:p></o:p>

 天皇陛下万歳。日本陸海軍万歳。日本国民万歳。大東亜万歳。  東天会」<o:p></o:p>

 東天会とは陸軍乃至海軍内の一結社ならんか。書いた本人にはよくわかっているのだろうが、読む方は一寸首をかしげざるを得ない文章ではあるが、いかにも単純な青年将校の昂奮した息づかいが見えるようなり。<o:p></o:p>

十月二十七日() 快晴<o:p></o:p>

 朝七時半、駅に東京行切符を買いにゆく。<o:p></o:p>

 これまでは前日申告制であったのが、この二十五日から当日先着順となりこの石岡駅では午前十時から札を売り出す。局内二百枚内外だそうである。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む213

2010-09-08 05:28:52 | 日記

持論?は続く<o:p></o:p>

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戦争のない世界、軍隊のない国家、それは理想的なものだ。そういう論にわれわれが憧憬するのは、本当は尊いことなのであろう。しかしわれわれは、そういう理想を抱くにはあまりにも苛烈な世界の中に生きて来た。軍備なくして隆盛を極めた国家が史上のどこにあったか。われわれは現実論者だ。<o:p></o:p>

正直は美徳にちがいないが、正直に徹すれば社会から葬り去られる。それを現にわれわれは戦争中の国民生活でイヤというほど見て来たではないか。<o:p></o:p>

悲しいことだが、それは厳然たる事実である。それを「軍備なき文化国家を史上空前の事実として創み出すのだ」などいう美辞を案出し、また日本人特有の言葉に於ける溺死とも言うべき思考法で満足している連中の甘さには驚くほかはない。実際世間とは馬鹿なものである。相当なインテリまでが、アメリカによる強制的運命に置かれている現実をけろりと忘れた顔で、大まじめに論じている。<o:p></o:p>

「そのアメリカは軍備をいよいよ拡大しつつあるではないか」<o:p></o:p>

こう問いかけるわれわれに根拠のある返答の出来る人はどれだけあるだろう。神兵だの神話創造など、戦争中無意味な造語や屁理屈的論理を蝶々した連中に限って、今度は澄まして、しかも頗る悲劇的な顔つきをしてみせて、幼児のごとき平和論をわれわれに強制している。このごろラジオで中性的な金切声を張り上げている女どもは、あれは半陰陽ではあるまいか。<o:p></o:p>

十月二十日() 雨また曇<o:p></o:p>

松葉三十八度五分の高熱を発す。何病か分からず。<o:p></o:p>

 何度も思うことなれども、一つの時代を結果的に後世より評論断定するのは実に危険である。今、戦争中の事象にについて、アメリカの尻馬にのって論じている連中は言語道断であるが、しかし戦争中またはそれ以前、歴史をわれわれがいかに見ていたかを反省するとき、全日本史に対して深い懐疑を覚えずにはいられない。<o:p></o:p>

十月二十二日() 雨<o:p></o:p>

 午前十時四十分の上りで上京。霧雨。<o:p></o:p>

 淀橋病院にゆき、学校へゆく。事務所の扉をあけて入って見たら、奥野教官が背広を着て事務を執っていたので肝をつぶした。<o:p></o:p>

 復員後の職を学校の事務に求めていたのであろう。何も奥野教官のせいで敗けたのでも、教官が終戦時に見苦しい醜態を見せた軍人の一人というわけでもない。彼は戦争中駑馬叱咤で全校を摺伏させた鬼教官であり、勇気凛々と召集され、終戦に当っては悲憤した模範的将校である。それが今は悲しきサラリーマンとなって、おそらく当分の間は、軽薄な学生のザマ見やがれ的な嘲笑の的とならねばならぬ。八月十五日を境としてこんな、もっとひどい運命の逆転を見た人々が多かろう。悲痛というより人生的滑稽の感がこみあげてきて、外へ出てからも自棄的な?クツクツ笑いがとまらなかった。<o:p></o:p>

 伊勢丹のところの十字路で、アメリカ兵が通行中の日本娘二人をジープの中に抱き入れて、膝に抱っこして飛んでいってしまった。悲鳴をあげるどころか、娘たちは顔を真っ赤にして、しかし眼はかがやいていて笑っていた。渋谷から玉電、三軒茶屋に下りて、高須さんの家を探す。…夕方やっと探し当て、再会の悦びをのべる。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む212

2010-09-07 05:22:13 | 日記

風太郎氏の敗戦スケッチ色々<o:p></o:p>

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 ……しかし茫々と目路のかぎりのびひろがる大焦土。そこには荒れた草がぼうぼうと生茂って、この六月下旬去ったときのような「赤い」印象は大分薄れているが、曇天の下に風にゆれている草原はいっそう鬼気を含んでいる。<o:p></o:p>

 爆音物凄く二、三機敵機が飛んでいる。「東京村」の住民は相変わらず掘っ立て小屋に住んでいる。おもちゃのように小さいながら柱を組んでいる家もあるが、全然赤茶けたトタンだけから出来ているひどいのもある。パプア人の小屋の出来そこないみたいな小屋から、髪のぼうぼうとした女が、赤い乳房をさらけ出したまま、地面の上の七輪を破れ団扇でバタバタ煽いでいる風景も見える。<o:p></o:p>

 (終戦直後、わが家族総勢九人が、焼け残った長屋の二階の六畳間に寝起きした時期がありました。炊事は二階の出窓の出っ張りに七輪を置いてしたものです。燃料は拾い集めた木片です。それで間に合ったのです。何しろ容器一つでの料理?雑炊、すいとんの類いだけですから。)<o:p></o:p>

 或るケンブリッジ大学を卒業した紳士が米兵に道を教えたところ、米兵が煙草を与えようとした。紳士は毅然として「貴兄は敗戦国民はみな乞食だと思っているのか」といった。米兵は愕然としてまた微笑して、「私は貴方のような日本人を待っていた」云々といった話を物語り、それに対して東条大将の醜態を痛罵し、また米兵の残飯を拾い歩く民衆を熱嘲していた投書があった。東条大将は、彼自身の理屈はさておき、軍人としてはまさに一言もない不始末である。しかし民衆はせめられまい。だれもがケンブリッジを出たわけではない。だれも満腹で米兵の残飯など拾いたいものではない。実際、配給ばかりで暮らしていたら、闇をしなかったら、国法を破らなかったら栄養失調に陥らない日本人は一人もあるまい。<o:p></o:p>

 十六時十分の平行常磐線に乗り、六時半茨城県石岡町に着く。松葉の家に泊まる。<o:p></o:p>

十月十九日() 雨後曇<o:p></o:p>

 夕、松葉と石岡近郊を散歩。常陸総社宮などに参詣。玉垣にも拝殿にも英語が書いて貼ってある。野道に夕暮蒼し。ひろびろとした稲田に虫の音微かに、いい匂いが満ちている。雑木林の東の空に黄色の月昇り、北に筑波山微かに影を浮かむ。<o:p></o:p>

 狷介といわれ剽悍と罵られた日本軍(それは軍人としての一種の美点ではあるまいか)が、終戦時大した反抗も示さずに消え去ったのは、後にふたたび日本軍が建設されるときに(それは自明のことである。その根拠も理由も今は絶対に挙げることは出来ないが、時というものがそうさせる。不思議だがそうさせるのだ)軍人精神のゆえに大命に従ったのだというようになるかも知れない。<o:p></o:p>

 しかし日本軍の消滅は天皇の御命令だけではない。それは軍全体に印せられた敗北観念からである。<o:p></o:p>

 強がりはやめよう。日本はたしかに負けたのである。しかし。…<o:p></o:p>

 われわれは未来永劫にわたって、現在のごとく米国の占領下に日本があるとは信じない。日本は盛り返す。そしてきっと軍隊を再建する。<o:p></o:p>

 軍備なき文化国、などいう見出しのもとにスエーデンが世界史上どれほど存在意義を持っているのか。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む211

2010-09-06 09:02:08 | 日記

複雑な心境で東京へ<o:p></o:p>

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十月十八日() 曇<o:p></o:p>

 午前三時起床。小池のおばさんに送られて寮を出る。星はふるようにきらめいているが、案外暖かい。<o:p></o:p>

 四時半、飯田発下り電車で東京へ。眠くて松葉も自分もぐたぐた居眠りするばかりだ。七時辰野着。相変わらず信濃の朝は白い霧が深い。すぐに上りの汽車に乗り込む。依然、凄い混雑で座ることが出来ない。<o:p></o:p>

 車中復員したらしい一将校とその老母が、何か読んだり書いたりしている。将校の読んでいるのは竹田敏彦の大衆小説で、老母が塵紙に写しているのは日用英語のパンフレットであった。どういうつもりでこの年で英語などやり出すのかわかりかねるが、敗戦国とはいいながら御苦労千万である。混み様がひどいせいかむし暑く気持が悪い。車中緒方富雄「病気をめぐって」を読む。<o:p></o:p>

 浅川でプラットホームをのそのそ歩いているアメリカ憲兵を見る。青い鉄兜に白く大きくM・Pと書いている。すれちがう日本人の群、子供を負ぶった女、ボロボロの作業衣を着た少年、袋を背負った老人達は、もう馴れていると見え、振り返りもしない。その背景に、すでに見えはじめた廃墟がひろがり、敗戦日本の情けなさが今さらのように胸を衝く。すべてがみすぼらしく、汚らしく、ゴミゴミしている。赤い大柄なスタイルのよい米兵は、巻きタバコをくわえて悠々と倉庫など覗き込んでいた。<o:p></o:p>

 立川からまた二人米兵が乗り込んで来た。絶えず口を動かしているところを見るとチューインガムでも噛んでいるのであろう。中年の男が小声でひそひそ話している。<o:p></o:p>

 「それでもいいところで戦争がすんでくれました。日本中がまああの通りに焼けてしまったあとで降参してごらんなさい、そりゃあ惨めなもんですよ。どっちにしろ叶わないのだから、大都市がやられたくらいのところで手をあげて、結局助かったというもんですよ。……」<o:p></o:p>

 午後二時新宿着<o:p></o:p>

 東京は相変わらず物凄い人間の波だ。駅の中の至るところに英語が白ペンキや墨で書いてある。青梅口の広場には、女や老人が路傍に腰を下ろして見わたす限り露店をひらいている。いわゆる新宿マーケットであろう。<o:p></o:p>

 群衆の間から覗いてみると、化粧品、紐、靴べら、草履、安っぽいが、日常生活に必要なものでないものはない。その前に貼り出された値段表は公然と公定の二十倍三十倍の値段である。<o:p></o:p>

 東京新聞に「餓死線上に彷徨する都民」という見出しで、冠水芋を買出部隊に掘り出させ、しかもそれを一貫十五円二十円に売りつけて、先日の大雨による水害を転じて一億円の闇利益をむさぼった東京近郊の強欲な農民を国民法廷にかけろと絶叫しているが、見たところ「彷徨している」何千人かの都民はべつに餓死線上にいるようには見えない。赤い肥った顔ばかりである。<o:p></o:p>

 (同じころ、わが家でも同じ憂目に会っています。冠水芋なる代物、煮ても焼いても食えず、要するにガリガリで、例え空腹でもとてもじゃありませんが食えません、母は口惜しいと一言、そして泪を流しました。) 


うたのすけの日常 松戸市民劇団公演

2010-09-05 05:20:40 | 芝居話

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松戸市民劇団アトリエ公演のご案内

           

               「 2010   嫉妬    ある愛のかたち

原作 清水邦夫  脚色・演出 石上瑠美子

キャスト 石上瑠美子 高梨美紗子 向後直紀 向後文大
      小石直人(客演 馬橋高校演劇部) 他

問合わせ・申込み  松戸市民劇団

電話・FAX  047ー389-1977
http://www.hellomatsudo.com/0473894646/

     公演日 2010年10月

16日(土)   開場16時30分 開演17時00分

17日(日)   開場12時30分 開演13時00分
        開場16時30分 開演17時00分

23日(土)   開場16時30分 開演17時00分
        開場20時30分 開演21時00分

24日(日)  開場12時30分 開演13時00分

鑑賞券

前売り

大人2000円 高校生以下1000円
 
当日券

大人2500円 高校生以下1500円

   公演会場
   アトリエ「劇舎(しばいや)」
  松戸市日暮一の二の三 島本ビル四階
  電話 047-389-4646

  武蔵野線新八柱・新京成線八柱 下車約二分
      

      

      

 

 



 


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む210

2010-09-04 19:19:20 | 日記

帰京前に天竜峡に遊ぶ<o:p></o:p>

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二時天竜峡駅につく。仙峡閣は県知事が御降臨になっているそうで相変わらず一般民衆の投宿はおさしとめになっているため、また天竜峡ホテルに泊まる。<o:p></o:p>

十月十七日() 快晴<o:p></o:p>

 八時起床、朝、まだ霧が深い。遠い山脈は裾の蒼い地を見せているだけで中腹以上はまったく白い雲に包まれている。寒い。毎日こうなのだが、やがて晴れて来るのだそうな。<o:p></o:p>

 勘定してもらう。八十二円であった。<o:p></o:p>

 出かける。なるほど晴れて来る。……<o:p></o:p>

 煙草をのみのみ、さっき駅前の売店で買って来た読売報知を見る。二面に「陸軍最後の日」と題する読み物が載っている。「終戦交渉も知らず、独善の本土決戦」とか「つんぼ座敷に敬遠された軍」とかいう見出しで書いてあるが、日本陸軍最後の苦悶はわれわれの魂をゆさぶらずにはおかない。<o:p></o:p>

 本土決戦の場合、戦場附近の住民はどうなるのか、この問題に関して「杉山元帥以下の判断は、日本人ならば、大和魂があるならば、決して皇軍の邪魔になるような行動をとることはないであろう。皇土死守の犠牲となって喜んで死ぬだろう。難民となりパニックを起こすようなことはないであろうという軍人的解釈の精神論に終始して、これを頼みに本土決戦の基礎が打ち立てられたのであった」<o:p></o:p>

 また陸軍将兵に与えられた国土決戦教令の第二章に、「敵は住民、婦女、老幼を先頭に立てて前進し、わが戦意の消磨を計ることあるべし。かかる場合わが同胞は己が生命の長きを希わんよりは、皇国の勝利を祈念しあるを信じ、敵兵撃滅に躊躇すべからず」といっている。<o:p></o:p>

 杉山元帥や阿南陸相がこう考えたのが、なぜ「独善」であるか。敵軍侵攻を抑える国民としてどんな国家も当然のことではないか。<o:p></o:p>

 一度は開闢以来のクーデターを思いつつ、ひとたび下った御聖断に、そこまでいっては末代まで不忠の臣となると思いとどまった阿南陸相。聖断に従わんとする上官を斬ってなお戦わんとした将校、マリアナに最後の殴りこみをかけようと飛び立っていった特攻隊。これらの分子を含みつつ、綸言には絶対服従すべきであるとして崩壊していった大陸軍。われわれは、この苦悶の激動の中に「後世の史家がすべてを証明してくれるであろう」と屠腹の血を以て書き残していった一軍人の叫びに全幅的に共鳴する。<o:p></o:p>

 軍人を憎んではならない。少なくともその大部分は、官吏や産業人のごとく自己の私欲から来た罪を認めがたいからである。<o:p></o:p>

 今はあらゆるものが口を極めて、色々なことを叫びまわっている。尊いものも立派なものも、無茶苦茶に罵っている。しかし、人間の真実はやがてふたたび日本に炬火となって甦るであろう。<o:p></o:p>

 われわれは平和の尊むべきことを知っている。復讐という行為に対する動揺や懐疑に理のあることも知っている。しかし、後に至ってふたたび三度豹変する醜態は、今だけでたくさんだ。<o:p></o:p>

 とはいえ、われわれは魂の分裂のためになおこれからも長く苦しむであろう。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む209

2010-09-03 05:25:27 | 日記

帰京に万感の想いあり<o:p></o:p>

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十月十五日() 快晴<o:p></o:p>

 夜七時の汽車にて学生大半帰京す。ゆえに正午寮の二階にて会費十円にて会食を行い校歌を歌いしが、夕寮の前にてまた歌う。近所の人々驚きて家を飛び出せしが、すぐに口々にさよならさよならを叫ぶ。学生笑いつつ去れど哀愁覆い難し。<o:p></o:p>

 大安に寄る。おばさんの眼に涙あり。児島寮前にも三年一輪となり帽を振り振り校歌を高唱しつつあり。近隣の人々群がる。半月のぼる朧なり。駅前にても広場に大円陣作りてまた校歌応援歌。<o:p></o:p>

 電車の出るまでが大変なり。「しっかりゆけや」「早く来ウイ」「東京で逢おうぜ」等の喚声爆笑絶叫咆哮の間、校歌の怒涛波打つ。柵にまたがり、トラックに立ち、はてはホームに雪崩れ出で帽を振り、上着を翻し、歌、歌、歌。<o:p></o:p>

 見送りの群衆に少女多し。勘太郎になりたる子をふくめる東京の疎開児童のむれ泣声にてサヨナラサヨナラを叫ぶ。駅員圧倒されて茫然たり<o:p></o:p>

 哀愁風のごとく流れてさらに歌声これを覆い、はたと沈黙落ちてはまた万歳の声渦巻く。青春の哀歌ここに極まる。余は決してセンチメンタルになりておらず、実感にして実景なり。<o:p></o:p>

 帰途、広場にて米兵を見る。一昨日一部進駐せるものなるべし。一人猫背にてのそのそ群衆の中を歩み去りしが、その巨大いまさらのごとく感服せり。一目見るより恐れてシクシク泣き出せし小学生の女児あり。いままでいい気になりて熱をあげたるだけに少し滅入る。半月冷やかに夜空に吹かれたり。<o:p></o:p>

 チェホフ「無名氏の詩」を読む。<o:p></o:p>

十月十六日() 快晴<o:p></o:p>

 朝霧深く寒し。晴れ来る。午前中蒲団を梱包す。午後松葉と天竜峡に出かける。飯田銀座通りの辻に、老人や娘や子供達が黒山のように集まっているのでのぞいてみたら、アメリカ兵がトラック止めて、チョコレートや煙草をならべて売っていた。<o:p></o:p>

 「何でえ、進駐に来たのか商売に来たのか分からねえじゃあねえか」<o:p></o:p>

 と言ったものがあって、みな笑った。<o:p></o:p>

 赤い米兵の顔はすこぶるまじめくさったものである。暖かい美しい晩秋の日の光が蜜柑のように群衆の顔を照らして、そこには好奇心と微笑こそあれ、憎悪や敵愾の色はごうも見えぬ。自分の胸に淡い憂鬱の霧がたちこめる。<o:p></o:p>

 東京から帰った斉藤のおやじは「エレエもんだよ、向こうのやつらは。やっぱり大国民だね。コセコセずるい日本人たあだいぶちがうね、鷹揚でのんきで、戦勝国なんて気配は一つも見せねえ。話しているのを見ると、どっちが勝ったのか負けたのか分りゃしねえ」とほめちぎっている。<o:p></o:p>

 マッカーサーが誇るだけのことはある。これは残念乍ら認めなければならぬ。<o:p></o:p>

 それに対して僕達は、大正年間に人と成った半老人達が、今の青年は骨の髄まで軍国主義がしみこんでいるときめつけている人間である。われわれは勝利者米国による日本の真の平和を八割まで信用していない。


うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む208

2010-09-02 05:17:45 | 日記

メインの芝居は「国定忠治」<o:p></o:p>

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最後に「国定忠治」。第一場忠治の大難立ち回りあり。第二場赤城山。第三場御室の勘助の家、浅(後藤さん)見事なり。第四場ふたたび赤城山忠治山を下る景。<o:p></o:p>

 六時近し。入口を見るに驚きたり、大松座の前雲霞のごとき人の波。雪崩れ入らんとする人々をふせぎつつ、昼間見物の入場者を出す。<o:p></o:p>

 余ら夕飯食いに寮に帰らんとせしが、入口に殺到する人凄まじくして出るどころの騒ぎでなし。場内、紙片や吸殻や果物の皮などに汚れ女たち掃除に狂奔する間もなく、何処からともなく防禦を突破せし群集入り来る。これを追い出さんとすれども及ばず。ついに扉を閉ず。<o:p></o:p>

 扉押されてはじけんとす。招待者の列のみ入れんとせしがみな乱入せんとし、学生たちボタン飛び流汗淋漓として大手を拡げて、絶叫咆哮これを防ぐ。叫ぶ子、泣く子、哮える男、笑う少年、まさに大松座前阿鼻叫喚の大混雑、怒涛のごとくどよめき、学生たち昂奮して飛び回れど、自分らの芝居がかくまで人気呼ばんとは予期もせざりしゆえに、うれしさの情満面に溢る。余ら隣家より逃れ出ず。<o:p></o:p>

 「二階が落ちるう」と、劇場の人々の恐怖の叫び、死物狂いに閉ざしたるままの大扉、なお前の道路にもみ合う、六、七百人の群集、怒号する警官などの姿をあとに寮に帰る。<o:p></o:p>

 夕食食べてまた大松座にゆく。なお扉前に群集待てど、もはや超満員にて建物危険状態なれば如何ともする能わず。<o:p></o:p>

 夜ふけてふと外をのぞくに、数十人の幼児外に待ちて「見せてえ、見せてえ」泣かんばかりに騒ぐ。扉あけても芝居を見るどころか踏み殺さるる恐れあれば、涙のみて開けず。<o:p></o:p>

 飯田病院高安病院の踊り数々あり。病院の先生達の飛び入りあり。時間延長されて十一時回れど見物去らず。最後に学生校歌を咆哮し、十二時ふらふらになって帰る。大成功なり。<o:p></o:p>

 いずれにせよ、市民いかにかかるものに飢渇せるか見るべし。寮に帰り、夜食食いて泥のごとく眠る。<o:p></o:p>

十月十一日() 朝雨のち晴る<o:p></o:p>

 夜大安二階で松葉、安西ほか九人の常連一同、大安の招待?で最後の晩餐。味付飯に松茸汁、牛肉、南瓜のカレー煮など。<o:p></o:p>

 松葉七時の下りで東上す。下りで東上とは可笑しいが、飯田線では辰野行が下り、豊橋行が上りなのだから仕方がない。送りて駅にゆく。黒雲大空にむらがりたちて、その縁銀光を発し、凄き月陰暗と透く。雲間に星光る。<o:p></o:p>

 学生第一陣三十名余り帰京の途につくと見え、青筍寮の面々歩廊に赤き旗振りて校歌を唄い太鼓叩きて鼓舞放唱。珍しきか群集柵に寄りて見る。改札の美少女の片頬に哀愁の翳ふかし。<o:p></o:p>

 チェホフの短編を読む。<o:p></o:p>

十月十四日() 快晴<o:p></o:p>

 明日を限りとして寮生寮に留まるを禁ぜらる。それより各寮を修復して宿屋は宿屋、料理屋は料理屋として原型となし返還する由なり。チェホフ「妻」を読む。

うたのすけの日常 山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読む207

2010-09-01 05:28:30 | 日記

寮生たちの余興盛り上がる<o:p></o:p>

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されど、歴史に目的なし。目的あるか知らねども、そは一時代の一国民たる人類には到底知り得べからずもの。一つのドラマかは知らねども、第一幕第二幕と次第に進みて終幕に至りてクライマックスの脚光浴びるがごとき芝居を見て大芸術なりと陶酔する人間には、絶対にうかがい得ざる厖大神秘なるもの、そは地球上の歴史の実相なり。この簡単なる真理を、時代によりてはついに悟り得ざる国民あるにあらざるか。たとえば明治大正の日本人、或いは現代のアメリカ人などこれにあらざるかと思う。<o:p></o:p>

 されどわれらは、悲壮にして滑稽なる戦いを戦いて、すなわち明確に歴史を知りたり。<o:p></o:p>

十月六日() 晴<o:p></o:p>

 昨夜よりけさ六時まで起きて武者小路「一休、曾呂利、良寛」を読み、ノンキ節など作る。<o:p></o:p>

 還らぬ神鷲羽ばたく鷲を<o:p></o:p>

 神州不滅と見送りながら<o:p></o:p>

 かげでコソコソ降参話<o:p></o:p>

 腰ぬけ大臣面よごし<o:p></o:p>

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 生きて虜となるなかれなど<o:p></o:p>

 戦陣訓でいばったくせに<o:p></o:p>

 腹切りそこねて敵のママ<o:p></o:p>

 食って生きてる馬鹿もある<o:p></o:p>

           etc<o:p></o:p>

 大松座にゆくに「国定忠治」を演じる三年の人々、暗いがらんとした舞台で最後の猛練習。セリフ堂に入ったものなり。芝居の話出たるは今月一日。二日より練習をはじめてわずかに五日、よくぞこれまでになりたりと感心す。<o:p></o:p>

 勘太郎になる男の子、東京の疎開児なりと。愛らしくニコニコして舞台度胸のあるところ芝居関係の子なるべし。五、六十の老人あり、鳥打帽に着流し、みな師匠と呼ぶ。この人指導しつつあり。(小生たちも、学童疎開で、町の小屋を借りて芝居をしたことが懐かしく思い出されました。) <o:p></o:p>

 十二時近くなりしが見物一向に集まらず、心配しているうちに次第に集まり来り、十二時半には相当なる行列劇場前に並び安心す。娘圧倒的に多し。<o:p></o:p>

 しかるに停電してマイク通ぜず。軽音楽や歌謡に差し支えありて幕をあげる能わず。みな顔色変わりてこの以外の事故に狼狽す。電気会社に電話かれたれど通ぜず。人走る。一時過ぎやっと電気来り愁眉をひらく。<o:p></o:p>

 見物来ないどころか凄まじき満員。一階二階立錐の余地もなし。軽音楽ありて、二年の「最後晴」の喜劇あり。踊、漫談、学生仲間に芸人多きに一驚す。これならばヘタな田舎回りの劇団に劣るとも思われず。されど余は、舞台裏や楽屋や奈落を駆けめぐりて、大道具小道具の運搬や連絡に奔命し、面白がるよりひたすら心配す。(舞台監督ですね。通称ぶた監、大変な役目であります。)