東京の色々<o:p></o:p>
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老人はその肩を叩いて、<o:p></o:p>
「君は立派な中学生だ。そう来なくちゃいけない。君はきっといいお嫁さんをもらうよ」<o:p></o:p>
といった。<o:p></o:p>
身動きも出来ないはずの通路をこの老人はやすやすと通り過ぎてゆくからふしぎである。肩をいからし肘を張って自分の権利を主張して、おたがいを窮屈にさせている意地悪さが、老人の号令に圧倒されたのである。<o:p></o:p>
おそらくどこかの町会長か隣組長でもやっている人ではあるまいか。そのわざとらしい調子に、人々はしかし感心するより気恥ずかしさを感じているようだった。しかしひっこみ思案の日本人の中では、こういう度胸を持った人はたしかに存在価値がある。<o:p></o:p>
日暮里でもがきながら下りた。山の手線は恐るべき満員で全然手出しが出来ず、二台を見送り、三台目にやっと乗る。<o:p></o:p>
日はとっぷりと暮れていた。渋谷から、これまた人間にふくれあがった玉川電車で三軒茶屋へ。<o:p></o:p>
空にはふるような星屑が凍っている。暗くてこの前来た路地がわからず、夜おそく高須さんの家につく。<o:p></o:p>
十月二十八日(日) 快晴<o:p></o:p>
秋はすでに深い。夜明けせまるにつれ、沈沈と寒さは凍ってゆく。畳の上に二人レインコートを着て横たわり、上に毛布を一枚かぶっただけだから、腸の底まで冷えわたって三時には眼が醒め、またウトウトしたかと思うと四時にはもう寝ていられなくなって起きる。<o:p></o:p>
朝食後、淀橋病院に蒲団とりに出かける。快晴である。眠りは足りないが、美しい秋晴れは爽やかで、心まで弾むようだ。三軒茶屋停留所ちかくの焼野原に、マーケットが出来るらしく、柱を組み立てつつあった。<o:p></o:p>
淀橋病院にゆく。飯田から送った荷物は小児科室に積んであるので大童になって探したが、どうしてもない。きくと第二回目の荷物はきょうごろ着く予定だという。まだそんなことかと失望した。<o:p></o:p>
学校に顔を出すつもりで歩いてゆくと、伊勢丹裏の焼野原を、アメリカ兵が大きな車輌機械で整地していた。ブルドーザーというものだそうだ。巨大な機械が二台、それに一人ずつ乗って、チューインガムをかみかみ、また煙草を横ぐわえして、ハンドルを握っている。車の通ったあとは黒土が平坦にならされてゆく。チンチクリンの日本人たちが雲集して、口をあけて見物していた。<o:p></o:p>
学校にゆく途中、予科練の少年と逢う。東医に入りたいのだそうだ。軍学校生徒の入学試験は今日病院で行われているそうで、三十人入れるという。早稲田などでは、軍学校生徒に特権を与える必要はない、来春一般とひとしく入学試験を受けて入って来るべしと学生が反対して、学校相手に騒いでいるという。<o:p></o:p>
駅にゆく途中、伊勢丹の壁の下にアメリカ兵が一人腰を下ろして、その周りに子供達が集まっていた。……
日暮里辺りには、うたのすけ様にも何かと思い出がお有りだと思いました。
こうした記述を拝読致しますと、ついつい当時の苦労が偲ばれます。疎開先から戻ってきてからの数年食糧不足は続いておりましたから、混雑する列車に乗り込み、母方の里や伝手のある所へ買い出しに行っていた母と兄を思い出します。
食糧の統制時代はいつ頃まで続いていたのでしょうか。
調べた事はありませんが「車中手入れがあった」というような話題は家の中でよく聞きました。
ある時の母は、のし餅を背中に負い着ぶくれ乍ら隠し通したそうです。
殺人的混雑の中、思えばたいへんな時代でした。
ホント懐かしく思いました。常磐線のホームにはSLが白い、或いは黒い煙を吹き上げていました。
買出し列車でもあったわけでして、殺人的な乗物でした。
小生の家ではこの頃、伝手の関係でもっぱら成増でして、その役目は姉でした。筍生活そのものでした。
今晩は。
空襲もなく、工場からの煤煙もなく、東京の空も田舎の星空と同じだったのですね。