うたのすけの日常

日々の単なる日記等

昔のお話です 二十六

2015-09-14 05:37:59 | 昔のお話です

            食堂は賎業だったのか 2006-12-13記                                                                                                               
 
 あたしの両親はあたしの生まれた昭和七年、東京は下町に食堂を開いた。世界恐慌の波が日本にも押し寄せ、不景気のどん底の時代で、とくに農村の不況はひどく、東北では娘の身売りが相次いでいた。

 父は東京市に禄を食んでいたが、子供五人を抱えて生活は困難を極めていたらしい。資金を出してくれる人がいて、その地に店を借り受け食堂を始めたというわけだ。もともと母にいわせると父は商売が好きだっらしい。あたしのあと母は子供を二人生んでいる、九人家族である。そしてその七年を境に景気も上向き、敗戦までなんとか家族は、人並みの暮らしをつづけられたのではないだろうか。人も雇い、子守もいた。とにかく表通りに店を構え、ボロもさげずに商売を続けたということだ。

 そして上の姉三人も次々に女学校に入る年頃迎えるようになる。三人とも成績はよく、母は近所に鼻高々ったらしい。なにしろ父兄会に行って、子供が世話になっていますと頭を下げると、それぞれの先生に逆にナニ子さんには世話になっていると、礼をいわれたというのだ。後年母はしばしばそれを口にして嬉しそうな顔をしていた。

母は煙草を吸った、母に言わせると、客に酒を勧められることが多々あったらしいのだが断り、代わりに勧められる煙草だけは断りきれずに吸い始めたという。店では酒もだしていたのである。客は専ら近所の俗にいう町工場の職工であろう。そんなことを背景に、姉たちの受験の時期が訪れたわけである。
 そして願書に書き込む家の職種に問題が起きた。もちろん看板どおり食堂と書けばいいわけである。が、学校からそれはいけませんと注意がきた。食堂でもダメ、飲食店などもってのほかだという、そしてとどのつまり食料品店と書き込むように指導されたのである。
 そして口答試問でも家の商売を質問されたら、絶対に食堂と答えてはいけません。食料品店でこれこれの品物を売っていると、聞かれたら答えなさい。そして練習もさせられたらしい。
 二番目の姉の友だちでよく出来る子がいて、それに反発してあたし堂々とうちの商売いってやると言っていたが、見事落ちたそうだ。カフェーの娘であった。

 職業による選択がまかり通っていたわけである。食堂も人から見下される賎業だったということらしい。あたしも小学校に入り、担任ではないほかの先生に、しばしば一口に弁当屋の何々とよばれたのを覚えている。悪意も他意もないのだろうが、なにも名前の上に弁当やをつける必要なんかないわけである。あたしは弁当屋といわれるのがたまらなく嫌だった。

 受験の職業問題はあたしのときも起きている。昭和二十年三月、疎開先の中学受験のさい、姉たちと全く同じ注意をうけている。奇しくも職業欄に書き込んだのは食料品店であった。接客業の子弟は、教育現場では敬遠されるということかも、差別とかの大袈裟なことでなく。



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2 コメント

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Unknown (志村 建世)
2006-12-13 11:45:48
なぜ食料品店がよくて、食堂経営がいけないのか、今ではわかりにくい感覚ですね。接客商売というものに対する偏見があったのでしょうか。私の同級生にも食堂の娘がいましたが、差別的な感じはありませんでした。しかし女学校の受験となったら、同じことを言われたのかもしれません。
 差別は、される立場になったときに大きく姿を現すのでしょう。根が深いようですが、今でもそんな感覚は残っているのか、気になります。
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Unknown (うたのすけ)
2006-12-13 13:17:39
おっしゃるとおり、近所の人や友だちに差別的な態度をとられたことなど、全くありません。
ある日、姉たちの受験に直面したとき、突然にわが家を襲った驚きです。娘の受験のさい、そんな心配など露ほどもしておりません。
なおあたしのときにもあったということは、学校にそんなノウハウでもあったのでしょうか。
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